エジプトにおけるイスラエル
NO. 136
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---- 1857年6月14日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。『あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ』」。――黙15:3
まず初めに指摘させてほしいのは、私たちのほむべき主の誉れを、いかに注意深く聖霊が守っているか、ということである。この節は、しばしばこう云っているかのように引用される。――「彼らは、モーセと小羊の歌を歌った」。この間違いによって、多くの未熟な人々はこの表現に驚かされてきた。これが、この天国の歌の誉れを、モーセと《贖い主》との間で二分しているかのように想像したからである。だがこの句――「神のしもべ」――が聖霊によって挿入されたのは、疑いもなく、この点におけるいかなる誤りも防ぐためにほかならない。それゆえ、この句は、この節を引用する際には、注意深く含められるべきである。モーセの歌がここで《小羊》の歌に結び合わされているのは、一方がもう一方の型であり象徴だったからだと思う。かの栄光に富む、葦の海におけるパロの覆滅は、主の大いなる戦いの日における、サタンおよびその全軍の完全な滅亡の前兆であった。そして、そのモーセの歌の中で表わされていた勝利感は、やがて贖われた者たちが、その《指揮官》とともに勝利を得るとき胸中にしみわたるであろう感慨と同じであった。
聖霊なる神の助けにより私は、紅海を横断したときのイスラエルの状態と、現在のキリスト教会の立場との間にある平行関係を示してみたいと思う。次に私たちは、葦の海における主の勝利と、主の大いなる恐るべき日[ヨエ2:31]における《小羊》の勝利とを比較するであろう。そして最後に私は、モーセの歌の目立った特徴の中でも、疑いもなく《小羊》の歌の中で目立ったものとなるに違いない点をいくつか指摘したい。
I. 第一に、《イスラエル人の立場は、私たち自身の立場の象徴である》とみなすべきである。そして、ここで私たちが注目するところ、神の教会と同じく、このイスラエルの膨大な大群衆も、奴隷状態から解放されたばかりであった。私の兄弟たち。神のイスラエルの一部をなす私たちは、かつては罪とサタンとの奴隷であった。私たちは、生まれながらの状態にある間は、厳しく過酷な奴隷の身にあった。いかなる農奴といえども、私たちほどひどい状態にはなかった。私たちは実際、わらなしに煉瓦を作り、ただ火で焼かれるために労し[ハバ2:13]ていた。だが神の力強い御手によって私たちは解放された。私たちは奴隷の家から出てきた。喜びをもって自分が解放されたこと――主の自由人となったこと――を見た。鉄のくびきは私たちの首から取り去られ、私たちはもはや自分の情欲に仕えたり、暴君の罪に服従したりすることはない。堂々たる御手と、伸べられた腕とをもって私たちの神は、私たちを、とりことなっていた場所から連れ出してくださり、私たちは喜ばしく荒野を突き進みつつあるのである。
しかし、イスラエル人にとって、嬉しいことばかりは続かなかった。彼らは自由になりはしたが、彼らの主人が追跡してきた。パロは、これほど貴重な奴隷の民をみすみす失いたいとは思わなかった。それゆえ彼は、そのえり抜きの補佐官たち、騎兵たち、戦車とともに、激怒にかられて追いかけた。一驚したイスラエルは、激昂した抑圧者がみるみる追い迫ってくるのを見て、その結果を思い、震え上がった。――民の心はくじけ、自分たちの希望がしなび、自分たちの喜びが、その抑圧者の接近によって断たれるのを見た。あなたがたの中のある人々もそれと同じである。あなたは、自分が物云わぬ家畜のようにエジプトへと追い戻され、再びかつてと同じようなものになるのだと思っている。あなたは云うであろう。「確かに私が進み続けることはできないに違いない。これほどの軍勢が私を追い戻そうとしているのだから。私は再び自分の不義の奴隷とならなくてはならないのだ」。そして、このようにして背教を恐れながら、また、自分がかつてのような者になるくらいなら死んだ方がましだと感じながら、あなたは今朝すくみあがっている。あなたは云う。「あゝ! 私は! エジプトで死んでいた方が、この荒野まで出て来ていながら、また捕まるよりはましだった」。あなたは、しばしの間、聖さの喜びと、自由の甘やかさを味わった。今や霊的エジプトの奴隷状態を忍ぶように戻って行くことは、以前にまして悪いことであろう。これが、神の選民という神聖な群れに属する大方の人々の立場である。彼らはエジプトから出て来ているし、カナンへの道を辿りつつある。しかし、世は彼らに立ち向かっている。地の王たちは立ち上がり、治める者たちは相ともに集まり、主と、主の民とに逆らっている[詩2:2]。「彼らを散らし、全くかき乱そう」。スミスフィールドの火刑柱に火が燃えさかっていた時代以来、今に至るまで、この世の暗黒の心は教会を憎んでおり、世の冷酷な手と嘲笑する唇とは、永遠に私たちに立ち向かっている。勇士の全軍が私たちを追跡しており、私たちの血に飢え、ぜがひでも私たちを地から断ち切ろうとしている。それこそ今の時間に至るまでの私たちの立場である。それこそ、私たちがヨルダンの向こう岸に上陸し、私たちの《造り主》が地を統治するためにやって来られる時までの、私たちの立場であるに違いない。
しかし、さらにイスラエル人は、これよりも格段に驚くべき立場にあった。彼らは葦の海の岸辺に達した。背後の敵を恐れていた。両側面には山と峨々たる岩山があったため、どちらの側にも逃げられなかった。ただ一方向だけが彼らには開けていた。それは、海を通る方向であった。神が彼らに前進するようお命じになる。モーセの杖が差し伸ばされ、恐れおののいた水が2つに分かれる。大水が直立し、大海の真中で水が硬直し、そこに1つの道筋が残される。祭司たちが神の箱をかつぎながら前へ行進していく。イスラエルの群れ全体がつき従う。そして今、この驚くべき巡礼の旅を見るがいい。両側に雪花石膏の壁があり、砂利だらけの深みを無数の人々が行くのである。硝子の壁のように、海は彼らの両側に立ち、突き出した泡立った絶壁のように険しくそびえている。だが、それでも彼らは行進している。そして神のイスラエルの最後のひとりが安全な場所に行き着くまで、水はなおも堅く立ち、微動だにしないよう、神の唇によって凍りついている。話をお聞きの方々。それこそ、神の教会が今ある立場である。あなたや私は、1つの海を通って行進している。その大水は神の主権的な力によってのみ直立している。この世は、突如として滅ぼされることになる世界である。そして、その中にある私たちの立場は、まさにイスラエル人の立場であり、彼らのために大水は、彼らが無事に上陸するまでは、1つに合わされることを拒否していた。おゝ、神の教会よ! あなたは地の塩である。あなたが取り除かれるとき、この地上は腐敗し、腐らざるをえなくなる。おゝ、生ける神の生きた軍勢よ! あなたがたは、イスラエルのように、摂理の大水をなおも堅く立たせ続けている。だが、あなたがたの中の最後のひとりが、このようにしつつある状態から脱したとき、神の燃える御怒りと途方もない怒りは、あなたがいま立っている地面の上に叩きつけられ、あなたの敵たちは、あなたがいま安全に歩いている場所で転覆させられるであろう。私の考えを、できる限り平易に云い表わさせてほしい。自然の普通の秩序に従えば、葦の海は一定の、一様なしかたで満ち干を繰り返し、その波は不断に続き、その表面に途切れはないはずであった。だが神の大能によって、葦の海は2つの部分に分かれ、大水は立ち上がった。さて、注意するがいい。自然な正義の普通のあり方に従えば、今に至るまで呻き、かつ産みの苦しみをしているこの世界[ロマ8:22]は、悪人のことだけを考えた場合、完全に破壊されているはずである。葦の海が人々のために安全な通路を提供した理由は、ただ1つ、――イスラエルがそれを通って行進していたからである。そして、この世が保たれ続けている理由、また、それが、最後の大いなる日においてそうなるように、火によって滅ぼされないでいる理由はただ1つ、神のイスラエルがその中にいるからである。だが、いったん彼らが通り抜けてしまうと、分かれていた大水はその両手を組み合わせ、嬉々として敵の軍勢を包んでは、自らの手の内側に握り込むであろう。やがて来たるべき日に、この世は酔いどれのようによろめき、千鳥足で歩くことになるであろう。いかなるキリスト者も、神に対するしかるべき畏敬の念とともに、こう云ってよい。「やがて世界は崩壊する。今は私がその柱を支えているのだ」。この世にいるキリスト者の全員が死ぬとしたら、地上の柱は倒れ、廃墟か幻のように、この私たちの宇宙のすべては過ぎ去り、二度と再び見られなくなるであろう。私は云う。私たちはきょう、この大水の中を通り過ぎつつある。背後には敵があり、エジプトを脱出してカナンへ向かいつつある私たちを追いかけているのだ、と。
II. さて今、《モーセの勝利》は、《小羊》の究極的な勝利の象徴であった。モーセはエジプトの海のほとりで、主に向かって歌を歌った[出15:1]。もしあなたが聖書に目を向けるとしたら、本日の聖句を歌っていたのは、聖なる霊たちであることに気づくであろう。彼らは罪から、また、かの獣の汚れから守られてきた。そして、彼らはこの歌を、「火の混じった、ガラスの海のようなもの」[黙15:2]のほとりで歌ったと云われている。さて、モーセの歌は、この硝子のような、静謐な海のそばで歌われたのである。しばらくの間、その大水はかき乱され、分割され、分かたれ、凝結させられたが、ほんの数瞬の後、イスラエルが無事に大水を渡り切るや、それ以前と同じく硝子のようになった。というのも、敵は石のように深みに下り、夜明け前に、海はもとの状態に戻ったからである[出14:27; 15:5]。ならば、この大いなる《摂理》の海――今は神の選民を通らせるために分かれて立っている海――が水平面になるときが一度でもあるだろうか? 今は分け放たれている神のご経綸が――、罪を審こうとするその正当な傾向が中断させられている時が――、2つに分かれたこの正義の海が――、混じり合うことがあるだろうか? 神の摂理の1つの海が、「火の混じった、ガラスの海」となることがあるだろうか? しかり。その日は近づきつつある。その日には、神の敵たちの存在に対して、神の摂理が乱れて見えるようなことは決してなくなるであろう。今は、御民を救おうとする摂理が働いているが、そのときには、神の偉大な意図が成し遂げられ、それゆえ、その水の壁は渦を巻いて合わさり、その最内奥の深みでは、永遠に燃える火が悪人をいつまでも焼き尽くし続けるのである。おゝ! その海は表面では静穏であろう。神の民がその上を歩くその海は澄みきった海に見え、海藻も、不純物もないであろう。その一方で、その中空の真中の深部、あらゆる定命の者の目の届かないところには、悪人が永遠に火焔の中に住んでいる、身の毛もよだつ深淵があるのである。その火焔は、その硝子と混じり合っているのである。
よろしい。私が今あなたに示したいのは、なぜモーセが勝利をおさめたのか、また、なぜ私たちがじきに勝利をおさめるのか、ということである。モーセが彼の歌を歌った1つの理由は、全イスラエルが無事だったからである。彼らはみな安全に海を渡った。神のイスラエルがその足を無事にこの大水の向こう岸に据えるまで、あの堅い壁からは、しぶき1つすら降りかからなかった。それがなされるや、たちまちこの大水は自らのしかるべき状態に再び溶融したが、それまでは決してそうならなかった。その歌の一部にこうある。「あなたは、あなたの民を、家畜の群れのように荒野の中を連れて行かれた」。さて、キリストが地上にやって来られる最後の時、その大いなる歌はこうなるであろう。――「主よ。あなたは、あなたの民を救われました。彼らをみな安全に、摂理の通り道を行かせ、そのひとりたりとも敵の手に落ちませんでした」。おゝ! 私はこう強く信じている。天国には、1つたりとも空席の王座はない、と。下界で主を愛しているすべての者が《最後》には天国に至ることを私は喜んでいる。私は、ある者らとは違い、人が天国への路を歩き出し、救われていながら、敵の手によって倒れることがありえるとは信じていない。決してそのようなことはない! 愛する方々!
「選びの種族(たみ)みな
御座かこみ、会わん、
主の御恵みの わざたたえ、
み栄えたかく 告げ知らせん」天国における勝利の一部分は、占められずに残る王座が1つとしてない、ということにあるであろう。神がお選びになったのと全く同人数の者たち、キリストが贖ってくださったのと全く同人数の者たち、御霊が召されたのと全く同人数の者たち、信じたのと同人数の者たちが、無事にこの流れを越えて達することになるのである。私たちはみな、これから無事に上陸するのである。
「民の半ばは 大水(みず)渡りたり、
半ば今しも 渡りつつあり」。軍の先鋒はすでに岸に達している。私は彼方の彼らが見える。
「われは迎えん 血注がる民を
とわ永久(とこしえ)の 岸辺にて」そしてあなたは、また私は、私の兄弟たち。深みを行進しつつある。私たちは、この日、キリストに従う厳しい道を歩み、荒野を通っている。だが勇気を出そう。後衛の者も、じきに先鋒の者がすでにいる場所へと至ることになる。選ばれた者らの最後の者がじきに上陸する。神の選民の最後の者が海を越えることになる。そして、そのとき、全員が安全になったそのときに、この勝利の歌が聞こえるであろう。しかし、おゝ! もしひとりでも欠けていたとしたら、――おゝ! もし神の選ばれた家族のひとりでも打ち捨てられていたとしたら、――それは、贖われた者たちの歌において、永遠の不協和音となり、パラダイスの立琴の弦を断ち切ってしまい、そこから二度と音楽が放たれないようにしてしまうであろう。
しかし、ことによると、モーセの喜びの大きな部分は、神のすべての敵の破滅に存していたかもしれない。彼は前日におけるその民を眺めた。
「主のその民見る目
涙うかべぬ。
主のその敵軍(あだ)見る目
厳格(つよ)く傲然(たか)けり」そして今、この日、彼はその民を眺めて云うのである。「幸いなことよ。おゝ、イスラエルよ。あなたは無事に岸辺に上陸した」。そして、彼は敵兵たちを眺めるのではなく、敵兵たちの墓を眺める。彼は、生ける者が神の盾により、彼らのすべての敵から守られた場所を眺める。そして彼は見てとる。――何を? 広大な水の墓所である。君主たち、王侯たち、権力者たちを飲み込んだ巨大な墓である。「主は……馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた」[出15:1]。パロの戦車隊もそこで溺れた。そしてすぐに、話をお聞きの方々。あなたや私も同じようにするであろう。私は云う。今は私たちは、至る所で敵の大群を眺めなくてはならない。ローマの野獣やら、マホメットの反キリストやら、幾千もの偶像礼拝と偽りの神々やら、その無数の形によるあらゆる不信心により、多くの者が神の敵となっており、地獄の軍勢は膨大である。見よ。あなたは彼らがこの日、寄り集まっているのが見える。騎兵につぐ騎兵、戦車につぐ戦車が、《いと高き方》に逆らって集合している。私には震えている教会が見える。転覆させられるのではないかと恐れている。私にはその指導者たちが膝をかがめて厳粛な祈りをささげているのが見える。彼らは叫んでいる。「主よ。どうか、御民を救ってください。あなたのものである民を祝福してください」*[詩28:9]。しかし、私の目は、望遠鏡で見るように未来を見通し、後の日の幸いな時期を見てとる。そのときキリストは勝利のうちに統治なさる。私は彼らに尋ねる。バベルはどこにあるのか? ローマはどこにあるのか? マホメットはどこにいるのか、と。そして、その答えが返ってくる。――どこに? 何と、それらは深みに沈んでしまったのだ。それらは石のように深みに下ったのだ。そこの下で、ぞっとするような火焔が彼らを食い荒らしているのだ。というのも、この硝子の海には火が混ざっているからである。きょう私は戦場を見ている。全地は騎馬の蹄足で引き裂かれており、大砲の轟音と、軍鼓の連打がある。両軍とも、「戦闘準備! 戦闘準備!」、と叫んでいる。しかし、しばし待つがいい。すると、あなたはこの戦いの平原を歩き渡って云うであろう。「あの巨大な過誤の体系が見えるだろうか? あそこにも別のものが横たわっている。みな、身の毛もよだつようなしかたで凍りつき、ぴくりともしないまま麻痺している。そこには不信心が横たわっている。そこに眠っているのは、世俗主義と世俗主義者である。そこに横たわっているのは、神に公然と反抗してきた人々である。私はこうした反逆者たちの大軍がすべて散り散りにされて地面に横たわっているのが見える」。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められた[出15:21]。エホバは勝ちを得られ、その敵の最後のひとりまでも滅ぼされた」。そこに到来するのが、「モーセと《小羊》の歌」が歌われる時である。
III. さて、モーセの歌に目を向けて私は、この話のしめくくりに、その歌の中の、いくつかの興味深い詳細に注意したいと思う。それは、疑いもなく、贖われた者たちが永遠の楽団となり、《いと高き方》を賛美する際にも、存在しているはずの事がらである。おゝ! 私の兄弟たち。私は葦の海のほとりに立ち、かの大歓呼を耳にし、あの途方もない歓声の叫びを耳にすることができたらと願わずにはいられない。その大群衆の中に立って、これほど大いなる賛美を歌うことができるとしたら、たといエジプトで労役に服するとしても苦にはなるまいという気さえする。音楽には魅惑がある。だが、それがいついかなる時にもまさる魅惑を有していたのは、この日、麗しきミリヤムが女たちを率い、モーセが男たちを、どこかの強大な指導者のように率いて、手で拍子を取っていた時にほかならない。「主に向かって歌え。主は輝かしいことをなされた」。私にはその光景が目に浮かぶ。そして私は、それよりもさらに偉大な日を期待している。この歌が再び、「モーセと《小羊》の歌として」歌われることになるその時を。
さて、この歌に注意を向けてほしい。出エジプト記15章にあなたはそれを見いだし、様々な詩篇の中でそれが敷衍されていることに気づくであろう。その中で最初に注意してほしいのは、それが最初から最後まで、神への賛美であって、他の何者でもない神への賛美であるということである。モーセよ。あなたは自分自身について何も語っていない。おゝ、偉大な律法賦与者よ。勇者中の勇者よ。あなたの手のつかんでいた杖が、海を分けたのではなかったか。――それが、かの海の麗しい胸をあぶり、その胸部にしばし傷跡を残したのではなかったか? あなたがイスラエルの全軍を導いたのではなかったか? あなたが彼らの幾千もの者らを戦いへと先導し、勇敢な指揮官のように彼らを深みに導き、くぐり抜けさせたのではないか? あなたのためには一言もないのだろうか? 一言もない。この歌の全調子は、最初から最後まで、「主に向かって私は歌おう」[出15:1]、である。それはみな、エホバへの賛美である。モーセにいては一言もなく、イスラエル人をたたえる言葉は何1つない。愛する方々。この世における最後の歌、勝利の歌は、神に満ち、神だけに満ちたものであろう。下界では、人は様々な器をたたえている。きょう、あなたはこの人あの人に目を注ぎ、「この教役者のために、またこの人のために、神に感謝します」、と云う。きょう、あなたはこう云っている。「ルターのために神はほむべきかな。彼はヴァチカンを揺り動かした。ホイットフィールドのために神に感謝すべきかな。彼は眠りこけていた教会をかき起こした」。だが、その日、あなたはルターについても、ホイットフィールドについても、神の軍勢の他のいかなる勇者についても歌わない。彼らの名前はしばしの間忘れ去られる。それは、太陽が現われるとき、星々が輝きをやめるのと等しい。その歌はエホバに対するもの、エホバだけに対するものとなろう。私たちは、一言も説教者たちや、主教たちについては語るまい。善良で真実な人々のために一音節すら口にすまい。その歌全体は、最初から最後まで、こうなるであろう。「私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ってくださった方に栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン」*[黙1:5-6]。
そして次に注意していただきたいのは、この歌が敵の猛烈さについて、それなりに記念しているということである。この歌い手がパロの攻撃について叙述しているとき、こう語っていることに気づいているだろうか? 「敵は言った。『私は追って、追いついて、略奪した物を分けよう。おのれの望みを彼らによってかなえよう。剣を抜いて、この手で彼らを滅ぼそう』」[出15:9]。パロの憤りをもとにして、1つの歌が作られているのである。そして、最後の時もそうなるであろう。人の憤りが神をたたえることになる。私の信ずるところ、贖われた者たちの最後の歌、彼らが究極的に勝利するとき歌う歌は、天的な連々において、人の憤りが神によって制圧されたことを記念するものとなるであろう。時として、大会戦の後では、その戦いの記念碑が建てられることがある。その碑は何によって組み立てられるだろうか? それは、敵から分捕った武器や兵器によって組み立てられる。さて、これは正当に用いられて良いと思う例証だが、やがて来たるべき日には、憤激も、憤りも、憎悪も、争いも、すべてが1つの歌に織り込まれ、私たちの敵どもから分捕られた彼らの武器は、神をたたえる記念碑として役立てられるのである。毒づき続けるがいい。毒づき続けるがいい。冒涜者よ! 襲いかかり続けるがいい。襲いかかり続けるがいい。暴君よ! お前の重い手をあげるがいい。おゝ、専制君主よ。真理を打ち砕くがいい。それをお前が打ち砕くことはできない。主の頭から冠を叩き落とすがいい。――その冠はお前の手の届かないところにある。――お前はあわれで、ちっぽけで、無能な、定命の者なのだ! 私たちに関する限り、私たちはお前に命ずる。お前の憤りと悪意のすべてをもって、進み続けるがいい。それはお前にとっては、より悪いものとなるが、私たちの《主人》にとっては、より栄光に富むものとなるのだ。お前の軍備が大きなものであればあるほど、わが《主人》の凱旋の戦車はいやまさって素晴らしいものとなる。それに乗って、わが主は、壮麗な軍列を押し立てては天国の街路を練り歩くであろう。お前の軍装が強大なものであればあるほど、主が強者たちを分捕り物としてわかちとる[イザ53:12]ものは豊かになる。おゝ! キリスト者よ。敵を恐れてはならない! 思い出すがいい。その急襲が激しければ激しいほど、あなたの歌は甘やかなものとなる。その憤りが大きければ大きいほど、あなたの勝利は素晴らしいものとなる。敵が憤激すればするほど、キリストはその現われの日に誉れを得られる。彼らはモーセと《小羊》の歌を歌った。
そしてそれから次のこととして注目してほしいのは、いかに彼らが敵の完全な壊滅を歌ったか、である。この歌の中の1つの表現は、音楽にされたときには、何度となく繰り返されるべきものであり、実際に繰り返されるだろうと思う。この歌のその部分こそ、詩篇に記録されている際に、パロの全軍が完全に破滅させられたこと、ただのひとりも残されなかったことを宣言しているのである。この偉大な歌が葦の海のほとりで歌われたとき、疑いもなく、この云い回し、「そのひとりさえも」、には特別な強調が置かれていたに違いない。私はイスラエルの大群衆の声が聞こえるように思える。その言葉が彼らによって知られたとき、彼らは歌い始め、このように歌い続けた。――「そのひとりさえも残らなかった」[詩106:11]。そして、様々な場所で、この言葉が繰り返された。「そのひとりさえも」。それから、女たちがその甘やかな声で歌った。「そのひとりさえも」。私の信ずるところ、最後には、私たちの勝利の一部は、彼らのひとりさえも残されなかったという事実であろう。私たちは地上を眺め渡し、それがことごとく真平らな水面となっているのを見てとる。そして、ただひとりの敵兵も私たちを追ってはいない。――「そのひとりさえも、そのひとりさえも!」 これ以上ないほど身を起こすがいい。おゝ、欺瞞者よ。お前は生きることはできない。ひとりさえも逃れられないからだ。これ以上ないほど高慢にお前の頭を振り上げるがいい。おゝ、専制君主よ。お前は生きることはできない。ひとりさえも逃れられないからだ。おゝ、天の世継ぎよ。ただ1つの罪も、あなたを追ってヨルダンを越えることはない。ただ1つすら、葦の海を越えてあなたに襲いかかることはない。むしろ、これがあなたの勝利の要約となるであろう。――「そのひとりさえも、そのひとりさえも! そのひとりさえも残らなかった」。
もう1つのことに注意したいが、あなたを飽き飽きさせてはいけないので、長々と引き留めはすまい。このモーセの歌の一部分は、神がその敵を滅ぼされた手段をたたえることから成り立っている。「あなたが風を吹かせられると、海は彼らを包んでしまった。彼らは大いなる水の中に鉛のように沈んだ」[出15:10]。私たちがパロの軍勢を壊滅させる働きに出ていったとしたら、いかに大量の殺傷兵器を必要としたことか。もしその働きが私たちにまかされ、私たちがその軍隊を撲滅させるべきだったとしたら、何と物々しい軍備と、何という雷電と、何という騒音と、何と大きな活動がそこにはあったであろう。しかし、この云い回しの崇高さに注目してみるがいい。神はそうするために、その御座から身を起こすことさえなさらなかった。神はパロが来るのをご覧になった。あたかも、穏やかな微笑みをもって彼を眺めるかのように思われた。神は、その唇で風を吹かせられると、海が彼らを包んでしまった。あなたや私は、最後には、いかに容易に主の敵たちが覆滅させられるかに驚嘆するであろう。私たちは一生の間、種々の過った体系を転覆させる手段となるべく、さんざんに奮闘し、あくせく働いてきた。だが、教会を驚愕させることに、その《主人》がやって来られるとき、いかに容易に一切の過誤と罪とが、火の前で溶け去る氷のように、《いと高き方》の到来の中で完全に滅ぼされることであろう。私たちには種々の協会や組織が必要であるし、私たちの説教者や集会が必要である。それは何も間違っていない。だが神は、最後にはそうしたものを必要となさらない。その敵どもの破滅は、神にとっては世界を造るのと同じくらいたやすい。騒がず静かに、動くことなく神は座っておられた。そして神は、その静けさをただ、こう仰せになることで破られた。「神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた」[創1:3]。最後のときの神も、これと同じであろう。その敵どもが憤激に荒れ狂っているとき、その風を吹きつけるだけで、彼らは散り散りにされてしまう。彼らは、まるで蝋ででもあるかのように溶け、糸くずのように焼けた。彼らは、雄羊の脂肪のようにされる。煙と化して焼き尽くされる。しかり。彼らは煙となって焼き尽くされてしまう。
さらに、このモーセの歌の中にあなたが見いだすのは、1つの格別な美しさである。モーセは、単になされたことについて喜んだだけでなく、その結果である未来についても喜んだ。彼は云っている。――「私たちが攻撃しようとしているカナンの民は、今や、にわかな恐怖につかまれ、あなたの偉大な御腕により、石のように黙ります」*[出15:15-16]。おゝ! 私はやはり彼らがこのように甘やかに、また優しく歌っているのが聞こえるように思う。――「石のように黙ります」。この言葉は、遠くで鳴っているのが聞こえる雷鳴のように、いかに完全にやって来るであろう。――「石のように黙ります」! そして、私たちがこの大水の向こう岸に行き着き、私たちの敵に対する勝利を見るとき、また、私たちの《主人》の統治を眺めるとき、これは私たちの歌の一部となるであろう。――彼らがそれ以後は、「石のように黙る」ということが。そこには地獄があるであろうが、それは、今のように、咆哮する悪鬼どもの地獄ではない。彼らは、「石のように黙る」であろう。そこには、おびただしい数の堕落した御使いたちがいるであろうが、彼らはもはや私たちを攻撃したり、神に逆らい立つ勇気を有してはいないであろう。彼らは、「石のように黙ります」。おゝ! その響きは何と壮大なものとなるであろうか。鎖をかけられ、縛られ、沈黙させられ、恐怖で口もきけなくなった悪霊どもを、神に贖われた民の大群衆が見下ろし、それらについて勝ち誇って歌うそのときは! それらは石のように黙りこくるしかない。また、そこに彼らは横たわり、自らの鉄のたがを噛んでいるしかない。キリストを猛烈に蔑んでいる者は、もはや御顔につばを吐きかけることはできない。高慢な暴君は、もはやその手をあげて聖徒たちを抑圧することはできない。サタンでさえ、もはや滅ぼそうと試みることはできない。彼らは「石のように黙ります」。
そして、すべての最後に、この歌はしめくくりに、神の統治の永遠性に注目している。そして、これは常に、かの勝利の歌の一部をなすことであろう。彼らは歌った。――「主はとこしえまでも統べ治められる」[出15:18]。そして私には見えるような気がする。全集団が、その最大の声音で一斉に歌い出す姿が。「主はとこしえまでも統べ治められる」。天国の旋律の一部は、「主はとこしえまでも統べ治められる」、であろう。その歌は地上で私たちを励ましてきた。――「主は王である。ほむべきかな。わが岩!」*[詩18:46] そして、その歌は、私たちの来世における歓喜となるであろう。「主はとこしえまでも統べ治められる」。私たちが、摂理の静穏な海を見るとき、また、世界のすべてが麗しく愛らしいのを眺めるとき、また、私たちの敵たちが滅ぼされており、《全能の神》が勝利を収めておられることに注目するとき、私たちはこの歌を叫ぶことであろう。――
「ハレルヤ! 万物(よろず)を統(し)らす
神は王なり。
ハレルヤ! この言葉をば
響かせよ、地と海原(うなばら)に」。おゝ! 願わくは私たちがそこに至り、そのように歌えるように!
私は、もう一言だけ語ってしめくくりとしよう。知っての通り、愛する方々。モーセの歌には、《小羊》の歌の型となるものがあったが、それと同じく、葦の海の水辺で歌われたもう1つの歌には、地獄の歌の型となるものがあった。「先生。その恐ろしい考えはどういう意味なのです?」 おゝ! 私は、音楽という言葉を用いて良いだろうか? この天的な言葉を、このように云うことで冒涜して良いだろうか? それは、パロとその軍勢の唇から出てきた、陰鬱な音楽であった、と。大胆にして尊大に、軍鼓の連打と喨々たる喇叭によって、彼らは海の中に入っていった。だが突如として彼らの軍楽はぴたりとやんだ。そして、あゝ! あなたがた、天よ。あなたがた、大水よ。それは何だろうか? 海が彼らの上におしかぶさり、彼らを全く呑み込んでいる。おゝ! 願わくは私たちが決してその悲鳴を聞くことがないように。ぞっとするような、天をもつんざく苦悶の叫喚があがり、その後再び静寂に返る。パロとその勇士たちは、水に呑み込まれ、生きながら地獄に下ったのである! あゝ! 星々よ。もしあなたがたがそれを聞いたとしたら、もし黒い水の棺がその響きをあなたから閉ざさなかったとしたら、あなたがたは今この時に至るまで身震いを続けていたであろう。ことによると、あなたがたは今しも身震いしているかもしれない。ことによると、あなたが夜またたくのは、あなたがたが聞いた、あのすさまじい金切り声のためかもしれない。確かにそれは、あなたを永遠に身震いさせるに足るものだったからである。全軍が一度に地獄に沈み込んだ時の、また、大水が彼らを呑み込んだ時の、ものすごい悲鳴、胸も悪くなるような呻き、身の毛もよだつわめき声よ!
用心するがいい。愛する方々。用心するがいい。あなたが、あのすさまじい miserere[哀願曲]に参加することがないように。用心するがいい。贖われた者たちの歌の代わりに、あの身の毛もよだつわめき声があなたのものとならないように。そして思い出すがいい。あなたがたは、新しく生まれない限り、そうならざるをえないのである。あなたがたがキリストを信じ、罪を悔い改め、それを全く放棄しない限り、そして、震える心をもって、あなたの信頼をかの悲しみの人[イザ53:3]に置かない限り、そうならざるをえないのである。このお方は、じきに《王の王》、《主の主》として戴冠なさる。願わくは神があなたがたを祝福し、あなたがた全員が、このお方の救いを味わえるようにしてくださるように。あなたが、あの硝子の海のほとりに立つことができるように。そして、その下で混じり合った火という恐怖を感じざるをえなくなるようなことがないように! 《全能の神》がこの大集会を祝福してくださるように。イエスのゆえに!
エジプトにおけるイスラエル[了]
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