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優柔不断な者に対するエリヤの訴え

NO. 134

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1857年5月31日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え」。――I列18:21


 それは記憶に残る日であった。イスラエルの大群衆がカルメル山の麓に集結したところへ、主のただひとりの預言者が進み出ては、にせの神に仕える四百五十人の祭司たちに挑戦したのである。私たちはその光景を歴史的好奇心の目で眺めることもできるし、それが興趣尽きないものであることに気づくであろう。しかしながら、そうする代わりに私たちは、それを注意深く考察する目で眺め、その教えを自分たちのために活用できないかどうかを見きわめたいと思う。そのカルメル山上と平原沿いには三種類の人々がいた。まず最初に、一心にエホバに仕えるしもべ、ただひとりの預言者がいる。もう一方には、悪の神に迷いなく仕えているしもべたち、四百五十人のバアルの預言者たちがいる。だが、その日、おびただしい数の人々は三番目の種別に属していた。――彼らは、自分たちの父祖の神、エホバを完全に礼拝することにするか、それともイゼベルの神バアルを礼拝するか、決めかねている人々であった。一方で彼らは、古来からの伝統によりエホバへの恐れを覚えさせられていたが、もう一方では、宮廷での覚えめでたさを考えてバアルに額づかされもしていた。それゆえ、彼らの多くは、心ひそかな、また中途半端なエホバのしもべである一方で、公然たるバアルの礼拝者であった。この時点における彼らは、全員が、どっちつかずによろめいていた。エリヤは自分の説教をバアルの祭司たちに語りかけはしなかった。彼らに対してもやがて云うことはあったし、流血の行為を通して彼らにはすさまじい説教を伝えることにはなっていた。またエリヤは、エホバに誠心誠意仕えるしもべである人々に対しては何も云うことがなかった。彼らはそこにはいなかったからである。むしろこの講話は、どっちつかずによろめいている人々だけを全く対象にしていた。

 さて今朝のこの場にも、こうした三種類の人々がいる。ここには、エホバの側につく人々、神を恐れ、神に仕えている人々が非常に多数いるものと私は思いたい。また、悪い者の側についている人々、キリスト教信仰を全く告白しておらず、信仰の外的なしるしさえ守っていない人々もいる。そうした人々は、内的にも外的にも悪い者のしもべだからである。しかし、いま私の話を聞いている方々の大多数は、第三の種別に属している。――迷っている人々である。風に吹きまくられる水のない雲のように[ユダ12]、絵に描かれた麗人のように、こうした人々はいのちの清新さを欠いている。生きているとされているが実は死んでいる[黙3:1]。ぐずぐずと先延ばしにしている人々、二心の人々、優柔不断な人々。あなたに向かって、私は今朝語りかけたい。――「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか」。この問いが、あなたの心の中におられる神の御霊によって答えていただけるように。また、あなたがこう云うように導かれるように。「これを限りに、主よ。私はよろめきません。むしろ、きょう私はあなたに仕える決心をし、永遠にあなたのしもべとなります!」、と。

 単刀直入にこの聖句に進むこととしよう。冒頭でその区分を告げる代わりに、私は進むに連れて1つ1つ言及したいと思う。

 I. 第一に、あなたも注意する通り、この預言者は、バアル礼拝とエホバ礼拝との間に存在していた区別を強調した。彼が前にしていた人々のほとんどは、エホバが神であると考え、バアルも神であると思っていた。それは、両者の礼拝に全く矛盾がなかったからであった。彼らの大部分は、自分の父祖たちの神を全く排除してはおらず、バアルの前に膝をかがめることをも全く排除してはいなかった。むしろ、多くの神々を信ずる多神論者のように、彼らはどちらの神を礼拝しても良いし、それぞれが彼らの心の中ではある程度の部分を占めていた。「否」、とこの預言者は切り出した。「それは役には立たない。どっちつかずであってはならない。あれかこれかであって、2つは1つにはできない。この二者は、結びつけることのできない、相矛盾するものなのだ。私はあなたに告げる。あなたは、この二者を結び合わせているのではない。それは不可能である。あなたは、どっちつかずによろめいているのだ。これは大違いである」。「私は家を建てよう」、と彼らのひとりは云った。「ここにはエホバの祭壇を置き、あそこにはバアルの祭壇を置こう。私の意見は決まっている。私はどちらとも神であると信ずる」。「否、否」、とエリヤは云った。「そんなことはありえない。それらは2つであり、2つでなくてはならない。そのようにするあなたは、1つのことに固着しているのではなく、どっちつかずなのだ」。この場にはこう云っている人々が大勢いるではないだろうか? 「私は世俗的だが、宗教的でもあるのだ! 私は日曜日には神を礼拝しに《音楽堂》へ行ける。! 別の日にはダービーに行っている。一方では自分の情欲に仕えることのできる場所に行く。私は、ありとあらゆる種類の、どんな舞踏室にでも行ける。だがしかし、それと同時に私はこの上もなく敬虔な祈りを唱えることもできる。私たちは善良な国教徒、あるいは善良な非国教徒であると同時に、この世の人でもありえるではないだろうか? 結局、私は二兎を追って二兎を得ることができるではないだろうか? 神を愛し、かつ悪魔に仕えることができるではないだろうか?――その両者の楽しみを得て、自分の心はどちらにも渡さないということが」。私たちは答える。――そうではない。それらは、あれかこれかである。あなたの云うことは不可能である。それらは明確に区別された、異なるものである。マルクス・アントニウスは二頭の獅子をくびきにかけて、自分の戦車につないだが、誰も1つのくびきにつないいだことのない二頭の獅子がいる。――ユダ族から出た獅子[黙5:5]と、かの穴の獅子[Iペテ5:8]である。これらは決して並び立つことがありえない。ことによると、あなたも政治においてはどっちつかずの態度をしていられるかもしれない。だが、その場合あなたは、万人から軽蔑されるであろう。あなたが旗幟を鮮明にし、自主独立の人として行動するのでない限りそうである。しかし、魂を救う信仰の問題においてどっちつかずであることはできない。もし神が神であれば、それに従い、徹底的にそうするがいい。だがもしこの世が神であれば、この世の事がらを第一に考え、それらに仕え、自分をそれらにささげ、良心によって引き留められてはならない。自分の良心がいくら怒りを発そうと罪に没入するがいい。しかし、覚えておくがいい。もし主があなたの神であれば、あなたがバアルをも有することはできない。あなたは、あれかこれかでなくてはならない。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません」[マタ6:24]。もし神に仕えるというなら、神が主人となる。また、もし悪魔に仕えるというなら、悪魔はすぐに主人となるであろう。そして、「あなたがたは、ふたりの主人に仕えることはできません」。おゝ! 賢くなるがいい。そして、2つを1つに混ぜ合わせられるなどと考えないようにするがいい。いかに多くのお上品な執事がこう考えていることであろう。自分は貪欲で、我利我利亡者で、貧者からむしり取る者ではあっても、聖徒でありえるのだ、と! おゝ! 神をも人をも欺く者よ! その人は聖徒なでどはない。罪人のかしらにほかならない! 上流社会の貴婦人らのうち、いかに多くが、神の民の間で教会の交わりに受け入れられ、自分でも自分を選民のひとりと考えていながら、憤りと苦々しさで一杯になっているのが見受けられることか。――彼女たちのいかに多くが、害毒と罪の奴隷となり、噂話や中傷やお節介をして、他の人々の家々に入り込み、自分と接するあらゆる人々の精神から慰めに似たものをことごとく追い払ってしまうことか。――だがしかし、彼女は神のしもべであると同時に悪魔のしもべでもあるというのである! 否。ご婦人よ。そのようなことは通用しない。この二者に徹底的に仕えることはできない。どちらであろうと自分の主人に仕えるがいい。もしあなたがキリスト教信仰を告白するというなら、徹底的にそうするがいい。もしあなたがキリスト者であると少しでも告白するというなら、キリスト者になるがいい。だが、もしキリスト者でないなら、そのふりをしてはならない。世を愛しているなら、世を愛するがいい。だが仮面は捨てるがいい。偽善者となってはならない。二心の人は、ありとあらゆる人々の中で、最も蔑むべき人間であり、双面神ヤヌスの信奉者である。2つの顔を持っていて、一方の目では(いわゆる)キリスト教界を大いに喜んで見ることができ、《小冊子協会》や《聖書協会》や《宣教師協会》への寄付をするが、そこにはもう1つ別の目がついていて、それでカジノや、コールホールや、他の娯楽を見ている。そうした娯楽を逐一ここで列挙しようとは思わないが、それらについて、あなたがたの中のある人々は、私が知りたいと思うよりずっと多くを知っているであろう。私は云う。まともな判断力を有する人であれば誰しも、そうした人を、いかに堕落し果てた人間よりも悪辣であるとみなすに違いない。表にあらわれた人格という点ではそうでなくとも、実態において悪辣である。なぜなら、自分の告白していることを貫き通すだけの誠実さを有していないからである。『トム小父』に出てくるトム・ローカーが、キリスト教信仰を告白している奴隷商人ヘイリイを、このような常識的な言葉を口にしてやりこめたとき、彼は実に正鵠を射ていた。――「おれはおまえのまっこうくさい話だけはがまんできねえんだ。そんな御託はおれの首をしめるようなもんだ。おれとおまえのあいだにどんなちがいがあるっていうんだい? おまえがほんのちょっとでもおれより気をつかうとか、思いやりがあるなんてはずがねえ。悪魔をだまして、じぶんを救おうなんてまるきり犬のするこった。それぐらいおれにも見抜けらあ。おまえのいわゆる信仰にはいるなんちゅうことは、どんなやつにとってもくだらねえこったい。一生悪魔と取引きしたくせに、年貢の納めどきが来たら、こそこそ逃げ出すってわけか?」*1 そして、いかに多くの人々が同じことを行なっていることであろう。ロンドンで、英国で、他のあらゆる場所で! 彼らは両方の主人に仕えようとしている。だが、そのようなことはありえない。この2つの折り合いをつけることはできない。神と富、キリストとベリアル、これらは決して交わることができない。両者の間には決して合意が成り立たない。両者が一致させられることは決してありえない。では、なぜあなたがそうしようと努めなくてはならないのか? 「どっちつかず」、と預言者は云った。彼は自分の話を聞く者が、その両者を礼拝しているのだと告白することを許そうとしなかった。「否」、と彼は云った。「これは、あれかこれかなのだ。あなたは、どっちつかずによろめいているのだ」。

 II. 第二のこととして、この預言者は、こうした迷っている人々に向かって、その選択をするためかけてきた時間の釈明を求めている。彼らの中のある人々はこう答えたかもしれない。「私たちはまだ、神とバアルのどちらが良いかを決める機会がなかったのです。心を決する時間がなかったのです」、と。だが預言者はそうした反論を片づけて、こう云う。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか? いつまでなのか? 三年半もの間、エホバの命令によって雨粒は一滴も降らなかったではないか。それが十分な証拠ではないのか? あなたには、時間が丸々三年半もあったのだ。私がエホバのしもべとしてやって来て、あなたに雨を与えるのを、あなたはずっと期待していた。だがしかし、あなた自身が飢え渇き、あなたの家畜が死に、あなたの田畑が干上がり、あなたの牧草地が砂漠のようにちりで覆われているというのに、それでも、この《審き》と試練と患難の時期のすべては、あなたが心を決するため十分ではなかったのか? ならば、あなたがたは、いつまで」、と彼は云う。「どっちつかずによろめいているのか?」

 私は今朝、徹底的に世俗的な人々に向かって語りかけてはいない。そうした人々を、今の私は全く取り合っていない。別の時にはそうした人々に語りかけもするであろう。しかし私がいま語りかけているのは、あなたがた、神に仕えつつサタンにも仕えようとしている人たち、あなたがた、キリスト教的な世俗の人になろうとしている人たち、いわゆる「キリスト教界」という異様な団体――これは、「キリスト教の世」という、一度も存在したことのない、名ばかりのしろものである。――の一員になろうとしている人たちである。あなたがたは、そのどちらかに、できるものなら自分の心を決めようと努力している。あなたは自分が両方に仕えられないことを知っている。そして今、こう云う時期にさしかかりつつある。「どちらにすれば良いだろうか? 私は徹底的に罪にはまりこみ、地上の快楽を大いに楽しむべきだろうか? それとも、神のしもべとなるべきだろうか?」 さて、私は今朝、この預言者がしたように、あなたに向かって云う。「あなたがたは、いつまでよろめいているのか?」 あなたがたの中のある人々は、髪の毛が半白になるまでそうしてきた。中には六十路を迎えつつある人もいる。六十年もあれば選択を下すのに十分ではないだろうか? 「あなたがたは、いつまでよろめいているのか?」 ことによると、あなたがたの中のある人は杖をつきつつ、この場所によぼよぼと入ってきたかもしれない。だのにあなたは、今に至るまで立場を決めかねている。あなたは八十歳を越えている。外的にあなたはキリスト者的な人品骨柄をしているが、実は世俗の人である。あなたはまだ、きょうに至るまでよろめきながら、「私は、どちらの側にすべきか分からない」、と云っている。いつまでなのか。方々。理性の名によって、死すべき定めの名によって、死の名によって、永遠の名によって聞く。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか?」 あなたがた、中年の人たち。あなたがたは若いときには云っていた。「われわれは、徒弟の身分でなくなったら、キリスト教的になることにしよう。若い時にはいろいろと道楽に励むことにして、それから主の勤勉なしもべとなることにしよう」。見よ! あなたがたは中年に達しており、閑静な邸宅が建てられ、仕事から楽隠居する日を待っている。そして、その後で神に仕えようと考えている。方々。あなたがたは同じことを成年に達したときも云っていたし、仕事が軌道に乗り始めたときも云っていた。それゆえ、私は厳粛にあなたに尋ねる。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか?」 どれだけ時間がほしいのか? おゝ! 青年よ。あなたは子どものころ、母の祈りがあなたを追いかけていたときにはこう云っていた。「私は、大人になったら神を求めます」。そして、その日が過ぎた。あなたは立派に一人前の大人になっている。だがしかし、あなたはまだよろめいている。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか?」 あなたがたの中のいかに多くの人々が教会に、あるいは会堂に何年も通ってきたことか! あなたがたは、心に感銘を受けたことも何度となくある。だが自分の目から涙を拭い去っては、こう云ってきた。「私はそのうちに心底から神を求め、神に立ち返ることにしよう」。そして今のあなたは、先から全く変わらない立場にあるのである。これ以上いくつ説教を聞きたいそのだろうか? 日曜日をもう何回無駄に費やさなくてはならないのだろうか? 何度警告を聞き、何度病気にかかり、何度弔鐘の音を聞けば、あなたも自分が死ななくてはならないことを警告されるのだろうか? あなたの家族のために何度墓穴を掘れば心にしみじみと悟らされるのだろうか? この町で何度疫病や悪疫が荒れ狂えば、真実に神に立ち返るのだろうか? 「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか?」 あなたがこの問いに答えることができたならどんなに良いことか。そして、いのちの砂が、砂時計から落ちて、落ちて、落ちて、落ちて行く間、「次の機会には私も悔い改めよう」、と云い云いしているのでなければ、どんなに良いことか。だがしかし、その次の時にも、あなたは悔悟しないままなのである。あなたは云う。「あの砂時計が、あのくらい少なくなったら、私も神に立ち返ろう」。否。方々。否。そのように語っているだけでは何にもならない。というのもあなたは、自分の砂時計が少なくなったと気づく間もなく空っぽになっていることに気づくかもしれない。悔い改めて神に立ち返ることを考えもしないうちに、自分が永遠に至っていることに気づくかもしれない。あなたがた、白髪の人々はいつまで、あなたがた、壮年の人々はいつまで、あなたがた、若い男や若い娘たちはいつまで、このような優柔不断な、不幸な状態にあるのだろうか? 「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか?」

 このようにして私たちは、ここまであなたを連れてきた。私たちは、世には2つの事がらがあることを指摘し、こう質問してきた。あなたがたは、どちらかに決めるまでに、どれだけの時間をかけたいのか、と。時間がすべてであるとしたら、人は、この質問にはごく僅かな時間しか要さないと考えるであろう。もしも、悪を好意的に受け取り善に反発するという偏見を意志がいだいていなかったとしたら、いま必要とされる時間は、いのちから絞首索か、富か貧困かを選ぶのと変わらないであろう。そして、もし私たちが賢ければ、それには何の時間もかからないであろう。もし私たちが神の事がらを理解しているとしたら、ためらうことなく即座に云うはずである。「今や神が私の神です。それも、永遠に」、と。

 III. しかし、預言者はこの人々を、その立場の馬鹿馬鹿しさによって非難している。彼らの中のある人々は云った。「何と! 預言者よ。なぜ、どっちつかずによろめいているままであってはならないのか? 私たちは、絶望的に無宗教というわけではない。ならば、俗悪な者たちよりはましである。確かに私たちは徹底して敬神の念に富んでいるわけではないが、とりあえず、多少の敬神の念でもないよりはましだ。そして、信仰を告白しているだけでも私たちは上品にしていられるのだ。ならば、どちらとも味を見させるがいい!」 「さて」、と預言者は云う。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか?」 すなわち、もしこう読むことが許されるとしたら、「あなたがたは、いつまでどっちつかずに、びっこをひいているのか?」(この言葉を用いてよければ、いつまでどっちつかずにのたくっているのか? が、ぴったり当てはまるであろう)。彼が描き出すところの彼らは、その両足が完全に股関節からはずれている人に似ている。彼は最初に片方に向かい、それからもう片方に向かい、どちらの側にも大して進むことができない。それを描写しようとするなら、途方もなく滑稽な格好をせざるをえない。「あなたがたは、いつまでどっちつかずに、びっこをひいているのか?」 預言者は、いわば彼らをあざ笑っているのである。そして確かに、あちらでもこちらでもないという人は、この上もなく馬鹿げた立場にあると云えるではなないだろうか? そうした人々を世俗の人々の間に行かせるがいい。彼らはかげで笑いながら云う。「あれは、エクセター公会堂に行ってる聖人君子だぜ」、とか、「あれは、神の選民のひとりだぜ」、と。そうした人々を、聖徒であるキリスト者たちの中に行かせてみるがいい。彼らは云う。「人というのは、どこまで裏おもてのある行動が取れるのだろう。ある日、私たちの間にいたかと思うと、次の日にはこれこれの所にいるというのだから、呆れたものだ」。悪魔そのひとでさえ、こうした人を蔑んであざ笑うだろうと思う。「そら」、と彼は云う。「俺様は悪の権化だ。時には俺様も光の御使いに変装し、その衣をまとったりするが、その俺様もお前には全く頭が上がらねえや。というのも、俺様がそうするのは、何かを手に入れようとしてだが、お前はそうすることで何も手に入らねえんだからな。お前はこの世の楽しみも味わえねえし、信仰の楽しみも手に入らねえ。お前は信仰の恐れだけは持つが、その希望は全くねえ。悪いことをするの怖いくせに天国の希望は全くねえ。お前は信仰の義務だけ受け取って喜びは受け取らねえ。信仰的な連中が行なうのとまるで同じように行なわなきゃいけねえのに、その中身にはまるで心が伴っていねえ。お前は食卓について、目の前に料理が並べられるのを見てるくせに、福音のうまいご馳走を一口も食べる力がねえのよ」。この世についても、全くそれと同じである。あなたは、悪人の心に喜びをもたらすあれこれの悪徳にふけるようなことはあえてしない。世間の声を気にするからである。私たちは、あなたをどう考えていいか分からない。米国人のように語って良ければ、私はあなたのことをずばり描写できるかもしれないが、そうはすまい。あなたがたは、半分はあるもので、もう半分は別物である。あなたは聖徒たちの集まりの中にやって来ては、聖徒たちが話すように話そうとしている。だがあなたは、英国のどこかの通学学校でフランス語を教えられた人のようである。その人は、奇妙奇天烈なフランス語風の英語と、英語風のフランス語を喋り、誰もがその人をあざ笑うのである。もしあなたが身についた言語を喋るなら、もしあなたが罪人としてだけ語るなら、もしあなたがあるがままの自分であると告白するなら、少なくとも一方の尊敬は得るであろう。だが今のあなたは、一方の人々からは排斥され、同じくらい別の人々からも排斥されている。あなたは私たちの真中にやって来た。私たちはあなたを受け入れない。あなたは世俗の人々の間に行く。彼らもあなたを排斥する。あなたは彼らにとっては善良すぎ、私たちにとっては悪辣すぎるのである。あなたをどう云い表わせばいいだろうか? もし煉獄というものがあるとしたら、それこそあなたにうってつけの場所であろう。そこであなたは一方にある氷から、もう一方にある燃える炎へと投げ渡され、それが永遠に続くのである。しかし、煉獄などという場所がない以上、また、あなたが実はサタンのしもべであり、神の子どもではない以上、用心するがいい。用心するがいい。あなたがたは、いつまでこれほど馬鹿らしくも愚かしい立場にとどまり続けるのか。いま迷っている人々は、最後の審判の日には地獄の蔑みと物笑いの種となるであろう。御使いたちは、自分の主人を徹底的に認めるのを恥じていた人を、蔑みとともに見下ろし、その一方で地獄そのものが笑いどよめくであろう。その大偽善者がそこに行くとき――その優柔不断な人が行くとき――、彼らは云うであろう。「あはは。俺たちは澱を飲まなきゃならねえが、上の方には甘味もあったぜ。だが、お前が飲むのは澱だけなのさ。お前は、俺たちの若い頃の思いきりのいい騒々しい陽気さの中に、はまり込めなかったが、今は俺たちと一緒にここに来て、同じ澱を飲んでいるのよ。お前は楽しみなしに罰だけ受けてるってわけだ」。おゝ! 地獄に堕ちた者たちでさえ、いかにあなたを馬鹿呼ばわりすることであろう。あなたがどっちつかずによろめいていたからにはそうである! 「あなたがたは、いつまでどっちつかずに、びっこをひいているのか? のたくっているのか? 馬鹿馬鹿しいしかたで歩いているのか?」 いずれかの立場を取れば、少なくとも首尾一貫した者にはなるであろう。だが、両方ともつかんでいようとし、両方の側の者でもあろうとし、どちらにするか決めかねていることによって、あなたはどっちつかずに、びっこをひいているのである。私は、忠実な訳は欽定訳とは非常に異なっていると思う。――「あなたがたは、いつまで2つの小枝の上でぴょんぴょん跳ねているのか?」 ヘブル語はそうなっている。枝から枝へと飛び回り、決してじっとしていない小鳥のようにである。小鳥がそのようにし続けているとしたら、それは決して巣を持てない。あなたもそれと同じである。あなたは二本の枝の間を跳ね続け、どっちつかずにしている。そのように二者の間であなたは足の裏を落ちつけるものがなく、何の平安も、何の喜びも、何の慰めもなく、一生の間ただあわれで、みじめな者となるであろう。

 IV. これまでのところ私たちはあなたに、このよろめきの馬鹿馬鹿しさを示してきた。さて、ごく手短に語るが、本日の聖句の次の点はこうである。エホバとバアルを礼拝してきた、そして今は優柔不断である大群衆は、こう答えたかもしれない。「しかし、なぜあなたは、私たちがエホバを神と信じていないことが分かるのですか? なぜ私たちがどっちつかずに優柔不断にしていると分かるのですか?」 預言者はこの反論に、こう云うことで答えている。「私が、あなたはどっちつかずによろめいていることと分かるのは、あなたが実践において、はっきりしていないからだ。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。あなたは実践においてはっきりしていないのだ」。人々の意見とは、私たちが想像するようなものではない。昨今、一般に云われているところによると、すべての意見は正しく、もしある人が誠実に自分の確信をいだいているとしたら、その人は疑いもなく正しいのだという。だがそうではない。真理は私たちの意見によって変わるものではない。あることは、それ自体で真か偽であって、私たちがそれをどうみなすかによって真になったり義になったりするわけではない。それゆえ、私たちは慎重に判断を下すべきであり、どんな意見でも良いのだと思うべきではない。それに加えて、種々の意見はふるまいに影響を与える。もしある人が間違った意見をいだいていれば、その人は、まず間違いなく、何かしら間違ったふるまいをするようになるであろう。両者は通常相伴うからである。「さて」、とエリヤは云う。「あなたが神のしもべでないことは、きわめて明白である。というのも、あなたは神に従っていないからである。あなたがバアルの徹底的なしもべでないことも、きわめて明白である。あなたは彼にも従っていないからである」。さて、私はもう一度あなたに語りかけよう。あなたがたの中の多くの人々は神のしもべではない。あなたは神に従っていない。形の上では、ある程度距離を置きながら従ってはいるが、精神では従っていない。日曜日は従っているが、月曜日あなたは何をしているだろうか? 信仰的な人々の間や、福音主義的な客間や、そうした所では従っているが、他の人々の間では何をしているだろうか? あなたは神に従っていない。そして、その逆に、あなたはバアルにも従っていない。あなたはこの世に多少は同調するが、あなたがあえて行こうとしない場所がある。あなたはお上品すぎて、他の人々が罪を犯すように罪を犯したり、この世の生き方に埋没したりできない。あなたがたは、悪のきわみまで突き進むことができない。「さて」、と預言者はこのことで彼らをなじっている。――「もし、主が神であれば、それに従え。あなたのふるまいを、あなたの意見と首尾一貫したものとせよ。もしあなたが主は神であると信じているとしたら、それをあなたの日常生活で実践するがいい。聖くなり、祈り深くなり、キリストに信頼し、信仰に満ち、廉直になり、愛に満たされ、自分の心のすべてを神にささげて、神に従え。もし、バアルが神であれば、それに従え。だが、別のものに従っているふりをしてはならない」。あなたのふるまいによって、あなたの意見を裏づけるがいい。もしあなたが、この世の愚行を本当に最高だと考え、洗練された流行の生活や、花から花へと飛び回り、どこからも蜜を得ることのない軽薄で陽気な生活が最も望ましいと信じているとしたら、それを貫徹するがいい。もしあなたが放蕩者の生活を非常に望ましいと思っているとしたら、もしあなたがそうした人間の末路を大いに願わしいものだと思っているとしたら、もしあなたがそうした人の快楽を正しいと思っているとしたら、それを追求するがいい。とことんやり抜くがいい。もし商売でごまかしをするのが正しいと信じているとしたら、店先にこう貼り出しておくがいい。――「当店ではまがい物を販売しています」。あるいは、公にそう云うのでないとしても、自分の良心にはそう告げるがいい。だが、公衆を欺いてはならない。『英国の銀行』を開いているときに、人々を祈りに誘ってはならない。もし信仰深くなるつもりがあるなら、自分の決意を最後まで貫くがいい。だがもし世俗的になるつもりなら、この世ととことんやり抜くがいい。あなたのふるまいが、あなたの意見を貫徹したものとなるようにするがいい。あなたの生活があなたの告白と符合したものとなるようにするがいい。いかなるものであれ、あなたの意見を貫徹するがいい。しかし、あなたはあえてそうしようとはしない。あなたは他の人々のように罪を犯すには臆病者すぎ、神の日の下で正直すぎる。あなたの良心があなたにそうさせようとしない。だがしかし、あなたはサタンをあまりにも好んでおり、彼を完全に手放して、徹底して神のしもべとなろうともしない。おゝ! あなたの人格をあなたの告白に似たものとするがいい。自分の信仰を守り抜くか、放棄するかするがいい。あれか、これかになるがいい。

 V. そして今、預言者はこう叫んでいる。「もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え」。そしてそうすることにおいて、彼はその実際的な要求の根拠を述べている。あなたのふるまいを、あなたの告白と首尾一貫したものとするがいい。すると、別の反論が群衆からあげられるであろう。「預言者よ」、とある人は云うであろう。「あなたは、ここにやって来ては、私たちの情愛を実際的に証明せよと要求している。あなたは、『神に従え』、と云う。さて、たとい私が神は神だと信じているとしても――そして、それが私の意見だが――、それでも、なぜ私は神が私にどっちつかずであってはならないと要求する権利があるのか分からない」。さて、この預言者がいかにこのことを云い表わしているかに注目するがいい。彼は云う。「もし、神が神であれば、それに従え」。あなたが、神に関する意見を貫き通すよう要求される理由は、《神が神だから》である。神にはあなたに、被造物としてのあなたに、真心からの従順を要求する権利がある。ある人は答えるであろう。「徹底的に神に仕えたからといって、私に何の得があるのか? 私はそれだけ幸福になるだろうか? この世でそれだけ出世するだろうか? それだけ精神の平安が得られるだろうか?」 否、否。そうしたことを考えるのは二の次である。あなたにとって唯一の問いはこうである。「もし、神が神であれば、それに従え」。もしそれがあなたにとって、それだけ都合が良ければ、ではない。むしろ、「もし、神が神であれば、それに従え」、である。世俗主義者は、キリスト教信仰が現世にとっても来世にとっても最善のものだから、という根拠に立ってキリスト教信仰の弁護をするであろう。この預言者にとって、そうではなかった。彼は云う。「私はそうした根拠に立って語りはしない。私は主張する。もしあなたが神を信じているとしたら、単に神が神であるという理由によって、神に仕え、神に従うことがあなたの第一の義務である、と。私は、それがあなたにとって得であるとは云いはしない。――そうなることは、ありえるし、それを私は信じているが――その問題は脇へ置こう。私は、もしあなたが神をだと信じているとしたら、神に従うことをあなたに要求する。もしあなたが神は神だと考えていないとしたら、もしあなたが悪魔が神であると本当に考えているとしたら、ならば悪魔に従うがいい。悪魔の見かけ上の神格を云い訳として、あなたは首尾一貫するであろう。だが、もし神が神であれば、もし神があなたをお造りになったとしたら、私はあなたが神に仕えることを要求する。もし神があなたの鼻に息を入れてくださったお方だとしたら、私はあなたが神に従うことを要求する。もし神が本当に礼拝に価するお方であり、あなたが本当にそう考えているとしたら、私はあなたが神に従うか、神が神であることを完全に否定するように要求する」。さて、信仰告白者よ。もしあなたが、キリストの福音は福音であると云うとしたら、もしあなたが福音が天来のものであると信じ、あなたの信頼をキリストに置いているとしたら、私はあなたが福音に従い通すことを要求する。単にそれがあなたの得になるからではなく、福音が天来のものだからである。もしあなたが神の子どもであると告白するとしたら、もしあなたが信仰者であって、キリスト教信仰は最高であり、神への奉仕は何にもまして願わしいものだと考え、信じているとしたら、私は、聖くなることによってあなたのものとなる何らかの利得のゆえにあなたを説得しようとはすまい。私がそう云う根拠は、主が神であるからである。そして、もし主が神であるとしたら、主に仕えることはあなたの務めである。もし主の福音が真実であり、あなたがそれを真実であると信じているとしたら、それを実行に移すことはあなたの義務である。もしあなたがキリストは神の御子ではないと云うなら、あなたのユダヤ的な、あるいは不信心者的な確信を実行に移し、それがめでたい末路を迎えるかどうか見てみるがいい。もしあなたがキリストを神の御子であると信じないとしたら、もしあなたがイスラム教徒であるとしたら、首尾一貫するがいい。あなたのイスラム教徒的な確信を実行に移し、それがめでたい末路を迎えるかどうか見てみるがいい。しかし、用心するがいい。用心するがいい! もしあなたが神は神であり、キリストは《救い主》であり、福音は真実であると云うのなら、私はあなたに要求する。ただこの理由のゆえに、それを実行に移すよう要求する。もし預言者がこう云っていたとしたら、人は、この預言者の訴えがどれだけ強力なものだと思っただろうか? 「神はあなたの父祖の神なのだから、それに従え!」 しかし、否。彼はそのような低次元の訴えはしなかった。彼は云った。「もし、神が神であれば――神があなたの父祖の神であろうとなかろうとどうでもよい――、それに従え」。「なぜあなたは非国教徒の会堂に行って、国教会には行かないのですか?」、とある人は云うであろう。「なぜなら、私の父も祖父も非国教徒だったからです」。なぜ国教会に集うのか、国教徒という国教徒に問うてみるがいい。「そうですね。わが家は代々そうするようにしつけられてきたのです。それで私は国教会に通っているのですよ」。さて私は、ある特定の宗教を信ずる数ある理由の中でも最悪の理由は、自分がそうしつけられてきたから、という理由だと思う。私は決してそのようには考えない。私は父や祖父とともに神の家に集ってきた。だが、私は聖書を読んだとき、事を自分で判断するのが義務であると思った。私は、[独立派の教役者たちである]父と祖父が幼児たちを腕でかかえ、その顔に水を数滴垂らしては、その子たちがバプテスマを授かったと云うのを知っている。私は自分の聖書を取り上げたが、赤ん坊がバプテスマを授けられることについては全く何も見いだせなかった。私はギリシヤ語を多少かじったが、「バプテスマを授ける」という言葉に水を振りかけるという意味があるとは発見できなかった。それで私は自分に云った。「彼らは善良な人かもしれないが、間違っているのかもしれない。そして、確かに私は彼らを愛し、敬ってはいるが、それでも、だからといって私が彼らの真似をすべきだという理由にはならない!」 そして彼らも、私の正直な確信について知ったときに、私が正しいとみなしてくれた。そして、私にとって自分の確信に従って行動することは、きわめて正しいことであった。というのも、私は物心のついていない幼児に洗礼を授けることは、船舶や釣鐘に洗礼を施すのと全く同じくらい愚かなことと考えるからである。そのどちらの裏づけとなる聖書箇所も全くないからである。それゆえ、私は彼らから離れて、今の私――バプテスト派の教役者と呼ばれる者となった。だが、私はバプテスト派であるよりは、はるかにずっとキリスト者であると希望している。このことについて私はめったに言及しない。今そうするのは単にこの点における例証としてである。多くの人々が会堂に通うのは、自分の祖母がそうしていたからである。よろしい。彼女は善良な老婦人であったろうが、私は彼女があなたの判断に影響を及ぼすべきだとは思わない。「そんなこと大したことじゃありません」、とある人は云うであろう。「私は父祖たちの教会から離れたくありません」。私も同じくらいそう思う。私はむしろ父と同じ教派に属していたいと思う。私は自分の友人たちと故意に意見を違えようとか、彼らの宗派や教派から離れようとしたのではない。だが自分の両親よりも神を上に置くがいい。両親が私たちの心の一番上にいようと、私たちが彼らを愛し、敬っていようと、また、その他の事がらにおいては厳密に敬意を表していようと、キリスト教信仰に関しては、また、私たちが立つのも倒れるのも、その心次第である《主人》[ロマ14:4]に関しては、私たちは独立した個人として判断する権利を有していると主張するものであり、その判断を下した後では、自分たちの確信を実行に移すことを私たちの義務であると考えるものである。さて私は、「もし、神があなたの母の神であれば、それに従え」、と云うつもりはない。それは、あなたがたの中のある人々にとっては非常に強力な議論であろうが、あなたがた、迷っている人たちに対して私が用いる唯一の訴えは、「もし、神が神であれば、それに従え」、である。もし福音が正しければ、それを信じるがいい。もし信仰生活が正しければ、それを実行するがいい。さもなければ、それを見限るがいい。私はただ自分の議論をエリヤの訴えの上に置くだけである。――「もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え」。

 VI. そして今、私はよろめいている人々、迷っている人々に対する自分の訴えを、いくつかの問いかけによって行ないたい。そして、それを主が適用してくださるよう祈りたい。さて、私はこの問いを彼らに発するであろう。「あなたがたは、いつまでよろめいているのか?」 私は彼らに云うであろう。優柔不断であるすべての人たち。あなたがたが、どっちつかずによろめいているのは、神が火をもってお答えになるときまでである。火は、そこに集まった人々が欲しがっていたものではなかった。エリヤが、「火をもって答える神、その方が神である」、と云ったとき[I列18:24]、私は彼らの中の何人かがこう云ったのが聞こえるような気がする。「いいや、水をもって答える神、その方が神であろう。われわれは雨が降ってほしくてたまらないのだから」。「否」、とエリヤは云った。「もし雨がやって来たなら、あなたはそれが摂理の通常の運行であると云うであろう。それでは、あなたの心を決めされることにはならない」。私はあなたに云うが、あなたがた、優柔不断な者に降りかかるいかなる摂理も、あなたの心を決めさせはしないであろう。神はあなたを幾多の摂理で取り囲むかもしれない。あなたの同胞たちの死の床からの度重なる警告であなたを取り囲むかもしれない。だが摂理は決してあなたの心を決めさせないであろう。雨の神ではなく、火の神こそそうなさるお方である。あなたがた、優柔不断な者たちがやがて心を決めさせられるしかたには、2つある。あなたがた、神に仕えると心を決めている人たちは、何も決断する必要はないであろう。あなたがた、サタンに仕えると心を決めている人たちは、何も決断する必要はないであろう。あなたはサタンの側におり、永遠に燃える火の中に未来永劫住まなくてはならない。しかし、こうした優柔不断な者たちには、彼らの心を決めさせる何かが必要である。そして、それは次の2つのうちのどちらかである。彼らは、神の御霊の火を受けて心を決めさせられるか、さもなければ、永遠の審きの火を受けて心を決めさせられるかのいずれかであろう。私はあなたに説教するかもしれない。話をお聞きの方々。そして、この世のあらゆる教役者たちがあなたがた、迷っている人々に対して説教するかもしれない。だが、あなたは、あなた自身の意志の力によっては、決して神に仕える決心をすることがないであろう。あなたがたの中のひとりとして、もしあなたの生まれながらの識別力と、あなた自身の理性とにゆだねられていたとしたら、決して神に仕える決心をしないであろう。単に外的な形においてだけは、神に仕える決心をするかもしれないが、内的な霊的なものとしては、神に仕える決心をしないであろう。だが、その内的なものこそ、キリスト者としてのあなた、有効な恵みの教理を信ずる信仰者としてのあなたの心を占めるべきものである。私は、あなたがたの中のだれひとり、神の福音を受け入れる決心をすることは、神があなたに決心させてくださらない限りありえないことを知っている。そして私はあなたに告げる。あなたは神の御霊の火があなたの心にいま下ることによって心を決めるのでなければ、最後の審判の日に心を決めるしかないのだ、と。おゝ! それはいかなることとなるだろうか? おゝ! この場にいる一千もの口によって、この祈りがささげられるとしたらどんなに良いことか。「主よ。いま、あなたの御霊の火によって私の心を決めさせてください。おゝ! あなたの御霊を私の心に降らせ、雄牛を焼き尽くし、私が全く神に対する全焼のいけにえとなれるようにしてください。私の罪という木も石も焼き尽くしてください。世俗性のちりさえ焼き尽くしてください。あゝ、そして私の不敬神な念という水を、また、このいけにえを消火しようとする私の冷淡な無関心さをなめ尽くしてください」。

   「この心をば 晴らすか、痛め、――
    疑い断てよ、われに代わりて。
    よしこの心 悔いずば、砕き
    癒し給えや、汝がみむねにて」。

   「主権(たか)き恵みよ、わが魂(たま)屈しぬ。
    手を引かれ行かん 勝ち誇りつつ。
    われは望みて 主のとりことなり
    誉れ歌わん、主のみことばの」。

そして、それはそうなるであろう。すなわち、私が語っている間も、人には見えず、あなたがたの中の大多数の人々には感じられないような強大な火が、誰かの心の中に降ってくるであろう。それは、神の神聖な選びにより、昔、神にささげられた心であり、今は崩れ果てた祭壇のようになってい心である。だが、それを神は、その無代価の恵みによって、きょう建て直される。おゝ! 私は祈る。その影響力が、何人かの人の心に入り、この場を出て行く何人かの人々が、こう云うようになっていることを。――

   「成し遂げられぬ、大いなる取引(わざ)、
    われは主のもの、主はわれのもの。
    主われを引きて、われは従い、
    喜びて服従(き)く 天つ御声に」

さあ、休むがいい。私の分裂せざる心よ。この堅固な中心に据えられて、休むがいい。おゝ! 多くの人々がそう云えるとしたらどんなに良いことか! しかし、覚えておくがいい。たといそうならなかったとしても、来たるべき日がある。――dies irae が、憤りと怒りの日がやって来る。そのとき、あなたがたは神についてはっきり心を定めるであろう。天空は稲妻で明々と輝き、地は酔いどれのように恐怖でのたうち、宇宙の支柱は震え、神はその御子というお方において御座に着き、義をもって世界をお審きになる[使17:31]。そのとき、あなたは心を決めかねるということはなく、「のろわれた者ども。わたしから離れよ」*、あるいは、「さあ、祝福された人たち」*があなたの運命となるであろう[マタ25:41、34]。そのとき、そこには何の気の迷いもなく、あなたがたは喜びをもって、あるいは恐怖をもって主と対面するであろう。――そのとき、「岩よ、私をかくまってくれ。山よ。私たちの上に倒れかかってくれ」*があなたの陰鬱な悲鳴となる[ルカ23;30]。あるいは、あなたの喜ばしい歌は、「主は来ませり」、となるであろう。その日、あなたは心を決めるであろう。だが、それまでは、聖霊の生きた火があなたの心を決めさせない限り、あなたはどっちつかずによろめいているであろう。願わくは神があなたに、その聖霊を与え、あなたが神に立ち返って救われるようにしてくださるように! 

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*1 ストウ夫人著、『アンクル・トムの小屋(上)』、大橋吉之輔 訳、旺文社、昭和42年、p.121。原著 'Uncle Tom's Cabin' 初版は、1852年に刊行され、英国では1856年末までに百万部が売れたという。[本文に戻る]

  

 

優柔不断な者に対するエリヤの訴え[了]

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