第24章――すべての者はキリストに与するべきである。 適用2. もしキリストが勝利をおさめられるのであれば、国々や国家にとって最善の道は、「御子に口づけする」ことであり(詩2:12)、キリストと、キリストを信ずる信仰とを受け入れ、キリストに与して、この世におけるキリストの御国の働きを自分のものとして認めることである。キリストに与する側こそ、最後には強者であったことがわかるであろう。幸いなことよ。もし私たちが、キリストの手助けすることを許され、「勇士として主の戦いを戦う」*(士5:23)誉れを与えられるならば。ある国家に、真のキリスト教信仰があるということは、ある家に大黒柱があり、ある天幕にそれを支える支柱があるようなものである。 2. それぞれの家庭も同じように、キリストをその家庭の主たる統治者とするがいい。また、3. ひとりひとりの人も、キリストを住まわせる家のようになり、そこに親しく宿っていただき、支配していただくがいい。キリストが去られれば、すべてが失せ去るであろう。キリストのご支配がその定めの儀式や、その御霊のうちに存在しているところでは、キリストに従属するすべての支配が栄えるものである。キリスト教信仰は、他のすべてのものに、いのちと恵みを吹き込む。キリスト教信仰がなければ、他のいかなる美徳も、美しいが顔の欠けた肖像画にすぎない。キリストの種々の律法が心の中に存在しているところでは、他のすべての良い法律が最も良く従われる。人間の法律を軽侮するのは、まずキリストの律法を軽侮する者たちにほかならない(Nemo Humanan authoritatem contemit, nisi qui divinam prius contenpsit.)。すべての人の中で、キリストによって導かれている人こそ最良の存在である。また、世界中のすべての被造物の中で、意志と感情によって導かれている人こそ、悪魔に次いで最悪の存在である。弱い者らの幸福は、強い者によって治められることに存する。盲人にとって最良なのは視力のある人によって導かれることであり、羊その他のか弱い生き物にとって最良なのは人間によって導かれることであり、人間にとって最も幸福なのはキリストによって導かれることである。なぜなら、キリストのご支配ほど強大なものはなく、それは私たちを、私たちの最大の敵たちに対する恐怖と危険から解放し、私たちの性質にとって可能な限りの最上の幸福をもたらしてくれるからである。こういうわけで私たちは、キリストが自分の内側で支配なさるとき喜ぶべきである。ソロモンが即位したとき、「民は……叫んだ……ので、地がその声で裂けた」(I列1:39、40)。それにまさって私たちは、私たちの王なるキリストを喜ぶべきである。
そして、同じように私たちは、自分にとって愛しい人々の魂のためにも努力すべきである。キリストが彼らの内側でも支配するようになり、彼らがこの火によってキリストからバプテスマを授けられ(マタ3:11)、こうした火花が彼らの内側で燃え立たせられるように、と。人々は、自分が訓練している人々の精神と、いわゆる気骨をはぐくもうと心血を注ぐ。なぜなら、彼らの考えるところ、人間は、現世において幾多の事件や困難をかいくぐる際に、そうしたものを役立てることになるであろうからである。おゝ、だが私たちは、自分の訓練している人々の中には、恵みの火花をはぐくもうではないか。というのも、いかなる天性の精神も、多大な困難の中にあってはくじけるであろうが、恵みの火花を有する人々は、いかに大きな悪に直面しても勝利者となるからである。
適用3. もしキリストの公義(さばき)が勝利に至るものとすれば、それと正反対の心持ちを有する教皇制は、倒壊するに違いない。教皇制は、人間の知恵によって設けられ、尊大な無為を決め込むためのものだからである。そして、それは、キリストの光に照らし出されている人々の心の中においては、すでに倒壊している。それは虚偽であり、虚偽に土台を置いたものである。罪と過誤を免れないひとりの人間[教皇]の識別力(さばき)が無謬であるとの土台に置かれたものである。真理の原理とみなしたものが、実は過誤の原理だった場合、それによりかかる程度がはなはだしいほど、危険は大きい。
(第25章につづく)
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