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第25章――キリストの支配は公然たる勝利をおさめる。

 ここでは、支配は勝利に至るだけでなく、キリストはその支配を公然たる勝利に至らせる、と云われている。ここで私たちが注目したいのは、恵みはその光輝の絶頂に達し、万人の目を射るようになる、ということである。今もキリストは勝利を得て、ご自分の目的を達してはおられるが、それは幾分、目に見えないものである。私たちの内外にいる、主の敵どもの方が上手をとっているように見受けられる。しかし主は、万人の目の前で、公義(さばき)を勝利に至らせなさるであろう。今は自分の目を閉ざしている悪人も、それを目にして苦悩することになる。狡猾な人間たちがいかに力をつくしても、自分の見たいものだけを見ることはできなくなる。キリストは彼らの心をねじふせるであろう。彼らの意に反して、主の御怒りが、たちどころに彼らの魂をわしづかみにするのと同じように、主は彼らの魂の目をもねじふせ、彼らの悲惨さを増し加えるものを見させ、かつ思い知らせるであろう。悲嘆が彼らの五感にへばりつき、彼らの五感は悲嘆にへばりつくであろう。

 そのとき、彼らが物事に塗りつけていた、まがいものの光沢は、ことごとく拭い去られることになる。人々は、悪の甘い汁を吸いたいと願いながら、善人だとの評判も得たいと望んでいる。このため彼らが何にもまして心からいとうのは、自分の正体が、自分自身にも、他の人々の目の前にもあばかれることである。それで彼らは、世間と自分の良心とをごまかそうとして常に腐心するのである。しかし、やがて来たるべきときには、彼らはこの愚者の楽園から叩き出され、それまでの粉飾が巧妙であればあるほど、大きな恥辱をこうむることになるであろう。神がご自分の威光の主たる輝きとして顕示させようとなさったキリストは、今のご自分のからだなる教会については、顔おおいに包まれているが、ほどなくして、その聖徒たちによって栄光を受け(IIテサ1:10)、そのご属性1つ1つのまばゆい光輝をあますところなく現わしなさるであろう。そして全世界に、ご自分がいかなるお方であるかを宣言なさるであろう。そのときには、キリストとその花嫁の栄光以外には、何の栄光もなくなるのである。今はくすぶる燈心のような者たちも、そのときには「天空の太陽のように輝き」*(マタ13:43)、彼らの「義は真昼のように輝かされる」*であろう。(詩37:6)。

 アダムにおける神のかたちには、威のある尊厳がこめられており、全被造物が彼を敬うほどであった。だが、完成に至らされた神のかたちは、はるかにまさる敬意を、あらゆるものから受けるはずである。現在ですら、身分の上下に関わらず、人は、何らかの恵みの輝きが見てとれる人々に対しては、ひそかな畏怖を感ずるものである。それゆえヘロデは、バプテスマのヨハネを恐れていた。だが、「神の子どもたちの現われ」と呼ばれている、彼らが披露される日には(ロマ8:19)、いかなることになるだろうか?

 やがて世界には、「地の国が主イエス・キリストのものとなり」、キリストが永遠に統治なさるという(黙12:10)、はるかに光輝に満ちた時代がやってくるはずである。そのとき、公義(さばき)と真理は勝利を得て、キリストはご自分の統治を正当なものと宣言なさるはずである。真理はもはや異端とも、分派とも呼ばれなくなり、異端はもはや普遍の教理とは呼ばれなくなるであろう。よこしまさは、もはや仮面による偽装のまま通ることはなく、善良さは、その内なる光彩を陸離と現わすであろう。物事は、その本来の姿になり、「隠されているもので知られずに済むものはありません」(マタ10:26)。不正は、もはやひそかに営まれることはない。主に自分のはかりごとを深く隠そうと考える者たちは、もはや暗がりの中をひそかに歩むことはできないであろう。キリストは、ご自分によってともされた、いかに小さな火花も消さないのと同じように、上から出ていない、いかに敬虔そうに見える盛んな炎をも、水をかけて消してしまわれるであろう。

 適用。 もしこのことが信じられたならば、人々は今よりずっと表裏のなさを大切に思うようになり、とりつくろうことをやめるであろう。表裏のない人こそ大胆になれるのである。また、人前のとりつくろいによって、人は、今はいかに自信満々にふるまっていても、死後には、よけい大きな恥辱を身に招くのである。

 もし公義(さばき)が勝利へと至らされるとしたら、自分自身の陰険な心と誤った精神によって支配されてきた者たちは、不名誉へと至らされるはずである。恵みと真理を誉れで結び合わせておられる神は、罪と恥辱を最終的には結び合わせておられる。いかなる人間の才覚や力によっても、神が合わせなさったものは決して分けることができない。真理と敬神の思いは、一時的には蹂躙されるかもしれないが、あのふたりの証人が、殺された後でよみがえり、足で立ち上がったように(黙11:11)、神から出たいかなるものも、最終的には確固として立つことになる。やがて来たるべきときには、肉体が復活するばかりでなく、真実も復活するであろう。かつて御使いたちをも天から追い出したお方が、ちりや虫けらのえさがそれとは逆の行路をたどって、そのような勝利を常に得ることを許される、などと考えられるだろうか? 否。主は、まことに「王の王、主の主」であるのと同じように(黙19:16)、すべて地上で「ご自分に逆らい立つ者どもを、焼き物の器のように粉々にする」*であろう(詩2:9)。神にいきりたって、だれがそのままで済むだろうか(ヨブ9:4)? 否。疑いもなく人間の憤りは、キリストをあがめさせるだけであろう(詩76:10)。パロについて云われたのと同じことが、あらゆる強情な敵どもについても云われるであろう。魂を失おうとも自分の我意は失うまいとする者たち、彼らが立てられたのは、その壊乱においてキリストが栄光をお受けになるためである。

 それでは私たちは、こうした戦慄すべき末路に至る人々の轍を踏まないように用心しようではないか。人間の性質にふりかかりうる審きの中でも、何にもまして恐ろしいのは、人々や物事に対して良くない判断[識別]を下す思いに引き渡されることにほかならない。「悪を善、善を悪と言」うのは、嘆くべき災厄だからである(イザ5:20)。

 他者の判断を、詭弁やへつらいによって誤り伝え、だましたりだまされたりしつつある者たちは、かの日には、いかなる呪いを負わされることになるだろうか?(IIテモ3:13) そのときには、私たちの最初の母エバの訴えが、むなしく繰り返されるであろう(創3:13)。蛇が私を惑わしたのです。サタンがこれこれのことによって私をだましたのです。罪が私をだましたのです。愚かな心が私をだましたのです、と。だが知恵の最もすぐれた点の1つは、何を自分の魂のよりどころとするかを私たちに考えさせる、ということにある。その日には、何という幸いを得ることであろう。キリストの光によって物事を正しく判断[識別]し、その判断に自分の心をゆだねている人々は。

 ほとんどの人々の魂は、官能の中に埋もれ、種々の貧弱な意見によって引き回され、低俗な過誤や、実体のないまぼろしによって養われている。そしてサタンは、いつでも喜んで、見かけ上の善や、見かけ上の悪を、想像上でふくれあがらせては、実際よりも大きく見せかけようとするものである。また、霊的な物事の方は、度の狂った眼鏡越しに見させ、その大きさを縮めさせようとするものである。このようにして人々は、むなしいものにより頼んでは、自分の理解によって自分を敗北に陥らせているのである。何と悲惨な状況であろう。自分も、自分が高く評価しているものも、もろともに消え失せるのである。それはキリストの公義(さばき)が勝利に至るのと同じくらい確実に実現するであろう。そして、人の愚かな心は、この世の事がらが実際よりも良いものであるとの思いをふくらませていればふくらませているほど、自らの過誤を見てとったとき、痛烈にみじめな思いを味わうであろう。これこそ、敬虔な賢い人と、惑わされているこの世の子らとの違いにほかならない。一方の者が今むなしいと判断していることを、もう一方の者は死後、まさにその通りであったことに気づくだろうが、そのときにはもはや手遅れなのである。しかし、人間というものは何と愚かしいものであることか。私たちは、現世の物事においては、他の何にもまして、だまされたり間違いに陥ったりすることをいやがるのに、自分にとって最も重要な事がらにおいては、あえて自分から無知を決め込み、誤り導かれようとするのである。

(第26章につづく)

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