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第23章――恵みを勝利に至らせるための手段。

 第二のことは、いくつかの指針である。

 私たちが知らなくてはならないのは、確かにキリストは、この勝利を保証しておられるとはいえ、それを、ご自分の戦闘を戦えるように私たちを訓練することによって成し遂げられる、ということである。キリストが私たちのうちで勝利を得るのは、私たちに「知恵を与えて救いを受けさせる」*ことによってである(IIテモ3:15)。そして私たちは、キリストの勝利をどれだけ強く信ずるかに従い、それと同じ度合で、自分も主の恵みによって勝利できるように努力するものである。というのも、信仰は従順な、また、知恵のある恵みだからである。キリストは私たちに知恵を与えては、物事をじっくりと思い量らせ、その格付けをさせた上で、その順序を定めさせる。それは、私たちが最善なことは何かについて、よりふさわしい選択ができるようになるためである。私たちが物事を判断する[識別する]際の助けとなる、いくつかの規則は以下の通りである。

 (1.) 物事は、それが大筋の助けとなるか妨げとなるかで判断すること。(2.) 私たちの死後の報いを、増し加えるか妨げるかで判断すること。(3.) 私たちをより霊的にするかしないか、また、そのようにして、善の源泉に近づけるか否かで判断すること。(4.) それが最終的には私たちに平安をもたらすか悲しみをもたらすかで判断すること。(5.) 私たちを神に推賞するかしないか、また、私たちが自らを神の前に良い者であると示すか示さないかで判断すること。(6.) 同じように、物事は、自分があたかも死後に判断するかのようにして、判断すること。死後の魂は、最善の判断をくだすことができる。社会に何か大きな災害が望んだ際や、だれかが死を迎えた際もそうである。そうしたとき、魂は、他のあらゆる物事から心を引き離し、一心に考えさせられるものである。(7.) 過去の経験を振り返り、最も好ましかったのは何か、自分が最悪の状況にあったとき、最もありがたかったのは何かを思い起こすこと。もし、そうした場合に恵みが最善なものであったとしたら、今もそうである。そして、(8.) 努めて物事は、やがて私たちの審き主となるはずのお方が判断するように判断すること。あるいは、御霊によって導かれている聖なる人々が判断するように判断すること。より具体的に云うと、(9.) 問題のことと、いかなる利害関係がない人々は、いかなる判断をくだすだろうか? というのも、外的な物事は、賢者の目さえくらませるからである。私たちの見るところ、ローマカトリック教徒が最も腐り果てている点は、彼らの栄誉や、安逸や、利得にからんだ問題である。だが、こうした事がらにふれていない三位一体の教理においては、彼らは健全である。しかし、識別力が正しいだけでは十分ではない。その識別力は、同じように、敏活で、強壮なものでなくてはならない。

 1. キリストは、ご自分のご支配を打ち立てなさるところには、識別力を明瞭で、清新なものに保たせようとする心遣いを吹き込んでくださる。というのも、識別力がまっすぐで堅固なものである限りは、魂全体の心持ちは強く、不抜のものであり続けるからである。こうして、私たちのうちにある真の識別力はキリストの御国を前進させ、キリストはその識別力を前進させてくださるであろう。すべての罪は、偽りの原理か、無知か、無分別か、真理を信じないことから生ずる。無思慮と、同意のこころもとなさによってエバは、最初に自分の足場を失った(創3:6)。それゆえ、私たちにとって、心の中に種々の真の原理をたくわえておき、それをしばしば新たに思い起こすのはよいことである。そうした原理のおかげで、私たちの感情と行動は、より活気づけられるからである。識別力が強められるとき、悪は何の入口も見いだせなくなり、良い事がらは、私たちの内側にいる味方から歓待してもらえるようになる。確信を伴う真の光によって照らされ続ける限り、私たちは、いかに小さな罪の悪をも、罰という最大の悪に鑑みて行なわないであろう。「翼のあるものが見ているところで、網を張っても、むだなことだ」*(箴1:17)。魂が高く保たれている限り、下の方の罠にかかる危険はほとんどない。私たちは、物事を評価する敏感な感覚を失って初めて、何らかの罪に引き寄せられることがありえるのである。

 2. また、知識と感情が互いに助け合うものである以上、あらゆる甘やかな刺激と天来の励ましによって、愛と喜びの感情を保っておくのはよいことである。というのも、心が最も好むものを、精神は最も一途に追求するからである。心でキリストを喜ぶことのできる者たちは、キリストの道を最もよく知っている。知恵は、知恵を愛する者を愛する。愛こそ、真理の最良のもてなし手である。だが、真理が、これほど愛らしい存在であるにもかかわらず、「それを愛する思いでもてなされない」*とき(IIテサ2:10)、真理は心から離れ去り、もはやとどまることをしないであろう。よくあるのは、まず愛が衰えてから、識別力が腐っていくという道筋である。なぜなら私たちは、自分の愛に従って物事を識別しようとするからである。だからこそ、地上の物事に関して、愛情を持つと同時に賢明であることは困難なのである。だが天的な物事に関しては、あらかじめ正しい見識が識別されている場合、私たちの愛情が大きくなればなるほど、私たちの識別力はより良いもの、より明瞭なものとなるであろう。なぜなら、私たちの種々の愛情は、いかに強まろうとも、決してそうした物事の素晴らしさに値するほど高まることはないからである。私たちが殉教者のうちに見るのは、キリストの甘やかな教えがいったん彼らの心をとらえたならば、人間たちがその残酷な才知の限りを尽くして考案するいかなる責め苦によっても、それを追い出すことはできなかった、ということである。もしキリストがいったん愛情をとりこになさったなら、それは二度とキリストを手放すことはない。心の中の火は、外側のあらゆる火に打ち勝つのである。

 3. 同じように知恵は、私たちの弱さがどこに存するか、また私たちの敵の強さがいかほどであるかを私たちに教えている。それによって私たちの内側には、執拗な恐れがかき立てられ、それによって私たちは保たれるのである。というのも、この敬虔な執拗さによって私たちは、活発に働き続ける種々の刺激を、自分の内側にある受動的で、感染しがちなものから遠ざけるようになるからである。それは、私たちが火を火薬から遠ざけておくのと変わらない。有害な生き物の発生を妨げたいと思う者は、まず、その受胎を妨げようとして、雌雄を分けておくものである。この執拗さを大いに助長するため役立つのは、私たちの内側にある恵み深い気質を、これまでに何が助けてきたか、あるいは妨げてきたかを、厳密に観察することである。そのことによって私たちは、自分の、あるいは他人の血肉に相談しないよう気をつけるようになるであろう。キリストが自分を導いて勝利へ至らせてくださると考えていながら、キリストの、また自分の敵たちから助言を受けるなどということが、どうしてありえようか?

 4. 同じようにキリストは私たちを、あらゆる有益な手段に心をとめて携わらせることによって、私たちの中に清新な思いと感情をかき立て、それが保たれるようにしてくださる。キリストは種々の手段の活用と、私たちの中に入れてくださった心遣いを尊んでおられる。それでキリストは、恵みが保たれることも勝利することも、私たちが自分を保とうとする心遣いにまかせておられるのである。「神から生まれた者は自分を守る」(Iヨハ5:18 <英欽定訳>)。だがそれは、自分によって自分を守るのではなく、その人が主によって、種々の手段を用いつつ主により頼むことを通して守るということである。私たちは、知識を始めとする、あらゆる有利な立場のもとに自らを置いておくという知恵を失うときに、もはや安全ではない。神の道の外に出て行くことによって私たちは、そのご支配の外に出て行くのであり、そうすることで正気を失い、たちまちそれとは逆の傾向に自分がおおわれてしまうことに気づく。私たちが、主の定めの手段によってキリストに近づくとき(ヤコ4:8)、キリストは私たちに近づいてくださる。

 5. 恵みを働かせ続けるがいい。眠りこみがちな習性ではなく、働かされている恵みこそ、私たちを保つものである。魂が、市民としての、あるいはキリスト教的な、何らかの務めに従事している間は、私たちの内側にある種々の腐敗は相当に押さえつけられ、サタンの方々の通り道はふさがれ、御霊は私たちの中で大いに驥足を伸ばすことができ、さらに、御使いたちの護衛は最も私たちの身近に伴うのである。私たちの霊的な敵たちに打ち勝つには、こうしたやり方の方が、直接的な反抗よりもしばしば功を奏する。キリストの働きについている者たちを保つことは、キリストの栄誉にかかわっているのである。

 6. 第六に、あらゆる指針において私たちは、生かす御霊なるキリスト[Iコリ15:45]を見上げて、その強さによって決意を固めなくてはならない。確かに私たちは、「心を堅く保って、常に主にとどまっている」(使11:23)よう勧められてはいるが、それでも私たちは、ダビデとともにこう祈らなくてはならない。「主よ。私たちの心に計る思いをとこしえにお守りください。私たちの心をしっかりとあなたに向けさせてください」*(I歴29:13)。私たちの心は、それ自体では、非常にたるんだ、あてにならないものである。「私たちの心を一つにしてください。御名を恐れるように」(詩86:11)。さもないと、主がともにおられない場合の私たちは、いかに最善の意図をいだいていても失敗するであろう。神に向かって、どうかあなたが喜ばれるような魂の心持ちを与えてください、と神への愛に動かされつつ乞い求めるのは、愛すべき懇願である。それゆえ私たちは、いかなる手段を用いる際にも、自分の願いと不満を天国へ送り込み、強さと助けを神に求めなくてはならない。そうするときに私たちは、神が「公義を勝利に導く」ことを確信できるであろう。

 7. 最後に、魂の状態を向上させるには、それがいかなる心持ちにあるかを知らなくてはならない。そのようにして私たちは、自分の魂をふさわしく整えることができるのである。私たちは、常に神との交わりに適した状態にあって、地上の仕事をしているときも、天的な思いをしているべきである。また、いつでも喜んでそうした仕事から手を離し、より良い物事のために、時を生かそうとするべきである。私たちは、いついかなる時にも現世を離れる用意ができているべきである。いつ死んでもよいと思えるような状態で生きているべきである。私たちの心は、あらゆる良い義務を果たす備えができたもの、あらゆる良い機会に対して開かれたもの、あらゆる誘惑に対して閉ざされたもの、警戒を怠らないもの、そして、常に武装の備えができているものたるべきである。こうしたことが欠けている限り、私たちは、高慢の鼻をへし折られても当然に違いない。だがしかし、それでも前に向けて進むがいい。それは私たちが、より多くの良い点を身につけ、そうした事がらを、より自分にとって親しみのあるもの、愛すべきものとするためである。また、自分の魂が、どことなく下降していることに気づくときには、自分を目覚めさせるような瞑想によって、ただちに魂を引き起こすにこしたことはない。たとえば、神の御前について瞑想することである。また、自分がやがてなさなくてはならない厳密な精算について、キリストにおける神の無限の愛について、その種々の実について、キリスト者の召しのいともすぐれた点について、この世という時期の短かさや不確かさについて瞑想することである。一体私たちは、こうした心を盗み出す物事の一切合切によって、いかにちっぽけな益しか、いかに僅かな間しか得られないことか。また、つかのまのこの人生を有益に送るか無益に過ごすかに従って、それ以後の永遠が、いかなるものとなるであろうか云々。こうした考えが自分の心にしみわたるようにすればするほど私たちは、やがて天国で楽しむことになるような魂の状態へと近づくであろう。逆に、私たちが自分の魂を守ることに不注意になるとき、神は痛烈な苦難によって、良き物事に対する私たちの嗜好を回復なさる。このようにしてダビデや、ソロモンや、サムソンや、その他の人々は回復された。だが、守られている方が、回復させられるよりも、ずっと難儀は少ない。

 反論。 しかし、私の苦闘にもかかわらず、私は何の進歩もしていないように思える。

 答え 1. 恵みは、あのたとえ話の種のように育つものであり[マコ4:26-28]、それがどのようにしてか私たちにはわからなくとも、最後には、神が最もよしとされるときに、私たちは、自分のすべての努力がむだでなかったことを見てとることになる。木は最後の一打ちで倒れるかもしれないが、それも、それまでの一打ち一打ちがあってこそなのである。

 答え 2. 時として勝利は、何らかのアカンが見つけ出されていないためか、あるいは、私たちが十分にへりくだらされていないために、差し止められていることがある。さながら、あのイスラエル人が断食をして祈るまでは、ベニヤミン族から手痛い敗北を喫し続けたのと同じである(士20:26)。さもなければ、その理由は、私たちが自分の種々の助けを捨てて、自分の警戒を固めず、御霊の動きにただちに従おうとしないためかもしれない。御霊は、私たちが心にとめさえすれば、常に最善の事がらを私たちに思い起こさせようとしておられるのである。私たち自身の良心は、私たちから語ることを許されさえするなら、私たちに告げるであろう。私たちの何らかの罪深い偏愛こそ、その原因なのだ、と。この場合、勝ちを得る道は、1. 私たち自身の高慢な性質に対して勝利を得るために、自分自身に恥を帰し、へりくだって神に告白すること。また、それに続いて、2. 私たちの不信仰な心に打ち勝つために、赦しの約束に身をゆだねること。そして、3. キリストのみ助けに信頼し、自分を支配してきた罪に反抗することである。そのときに私たちは、自分自身に対する勝ちをおさめ、自分のあらゆる敵たちに対してたやすく勝ちを得て、かつ、自分の陥っているあらゆる状況に勝利するのである。

(第24章につづく)

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