第22章――キリストの支配は勝利に至る。 第三の結論は、このご支配は勝利に至る、ということである。その理由は、
1. すでにキリストは、まずご自身においてすべてを征服しておられ、キリストは万物の上に君臨する神、永遠にほむべきお方だからである。それゆえキリストは、「罪も、死も、地獄も、サタンも、世も」、その他もろもろをも、従えておられる(ロマ9:5)。そして、キリストは、それらをご自身において打ち負かされたのと同じように、私たちの心と良心の中においても、それらを打ち負かされる。ことわざに、良心は人を王にも卑怯者にもする、という。良心が私たちに植えつけられているのは、それが神にかわって、私たちを是とする、あるいは非とする判決を下すからである。さて、もし生まれながらの良心がそれほど強力なものであるとしたら、それが、それ自体の光に加えて、天来の真理の光を射し込まされている場合、いかなるものとなるだろうか? 疑いもなく、それは圧倒的な力を得て、私たちの頭を大胆に持ち上げさせるか、私たちを自らの足元にはいつくばらせるであろう。もしも良心が、恵みによってキリストの真理に自らを服させるなら、そのときそれは、死をも、地獄をも、審きをも、いかなる霊的な敵どもをも、平然と眺めて揺るぎもしないであろう。なぜなら、そのときキリストは、ご自分の王国をその良心の中に打ち立てておられ、それを一種の楽園となさるからである。
魂が味わう最も痛烈な争闘は、良心と神の正義との間のそれである。さて、もしもキリストの血の注ぎかけを受けた良心が、神の正義に発した襲撃をも打ち負かしているとするなら、それは他のいかなる反抗に対しても勝ちをおさめるであろう。
2. 私たちが対決することになっている敵どもはみな、すでに呪われ、すでに永罰に定められている。それゆえ、もしもそれらが、私たちのうちにおられる御霊の前に倒れ始めるとしたら、それらは確実に倒れるのである。また、もしそれらが息を吹き返すとしたら、それは、さらなる転倒を味わうためなのである。
3. キリストがご自分の教会を、その教え手、導き手として、おゆだねになった真理の御霊、また、キリストの王笏たる御霊の真理は、いつまでもながらえる。それゆえ、御霊の朽ちない種によって(Iペテ1:23)、また、この真理によって生まれた魂は、永遠に生き続けるだけでなく、反抗するあらゆるものに対して勝利をおさめるに違いない。みことばと御霊は、力強く働いているからである(ヘブ4:12)。そして、もし悪の霊が、神によって自分に引き渡された者たちのうちで決して無為に過ごしていないとしたら、聖霊が、ご自分の導きと支配にゆだねられた者たちのうちで無為に過ごされるなどと考えることはできない。否。聖霊は、彼らのうちに宿っておられるだけでなく、ご自分に向かって逆らい立つあらゆるものを追い出し、最終的には、すべてにおいてすべてとなられるであろう。
霊的なものは、永遠である。真理は、それ自体としても、魂に植えつけられたものとしても、キリストの御霊の輝きである。それゆえ真理は――また、いかに小さくとも、真理によって作り出された恵みは――、勝ちをおさめるであろう。小さな道具も、巨人の手ににぎられれば、大きな働きをなすものである。小さな信仰も、キリストによって強められれば、驚嘆すべき働きをするであろう。
4. 「だれでも持っている者は、与えられて豊かにな」る(マタ25:29)。何らかの腐敗か誘惑に対する勝利は、最終的な勝利の担保である。それは、ヨシュアが、自分の征服した五人の王の上に自分の足をかけて、こう云った場合と同じである。「私たちのすべての敵は、神がこのようにされる」*(ヨシ10:25)。
5. 王としてキリストは、魂に威勢ある光を射し込ませ、内なる人の首根っこをとりひしぎ、その鉄の腱を柔らかくされる。そしてキリストは、そのご支配を始めるところでは、永遠にご支配なさる。「その国は終わることがありません」(ルカ1:33)。
6. キリストが来られた目的は、私たちにかわって、また、私たちのうちにおいて、悪魔のしわざを打ちこわすためであった。そして、復活の目的は、単に私たちに対してキリストの勝利を保証するためだけでなく、1. 私たちの魂を、罪にある死から生き返らせるためであり、2. 私たちの魂を、罪の咎目に伴う罠、悲しみ、霊的死から解放するためであり、3. そうした魂を、さながら密雲の裂け間から射し出た太陽がより輝かしく見えるように、より深い慰めとともに引き起こすためであり、4. 私たちを特定の落ち度や失敗の中から、より強いものとして引き起こすためであり、5. 現世のあらゆる悩みと暗黒に満ちた状態の中から私たちを引き起こすためであり、6. 最後には、私たちのからだをちりから引き起こすためである。というのも、私たちのかしらなるキリストが、死の悲しみとその謙卑における最低の状態からよみがえらされた際に御霊が示したのと同じ力、また、いまやキリストのいけにえによってなだめられた神からキリストの死によって得られたのと同じ力を、御霊は、キリストのからだである教会の中で、またその個々の成員ひとりひとりの中で、お示しになるからである。
そして、この力は信仰によって伝達される。信仰によって私たちは、その謙卑と高挙の双方の状態におけるキリストと結合した後で、自分が、単に「キリストとともに死んだだけでなく、ともによみがえらされ、ともに天の所にすわらされている」*のを見てとるのである(エペ2:6)。さて私たちは、自分が死んで、よみがえらされたこと、かつ、その結果、自分が、自分たちのかしら[キリスト]において、自分のすべての敵たちに対して勝利していること、かつ、これらすべてのことにおけるキリストの目的が、私たちをご自分に従うものとすることにあることを悟る中で、この信仰によって、キリストのかたちに変えられて行くのであり(IIコリ3:18)、そのようにして、キリストと同じように、自分の霊的な敵どもすべてを制圧する勝利者となるのである。それを行なう力を私たちが引き出す源となっておられるお方は、ご自分の民のためのあらゆる霊的力の貯蔵庫なのである。キリストは、最後には、私たちのうちにおけるご自分の目的を達成するであろう。そして、信仰はこのことを確信して安心するのである。この確信には非常に大きな力があり、私たちをかき立てて、この目的を果たそうとしておられるキリストに協力させようとする。
また、それは教会全体についても云える。キリストによって、教会はその勝利を得るであろう。キリストは、「人手によらずに山から切り出された一つの小さな石であって、あのみごとな像を打ち砕く」*のである(ダニ2:35)。すなわち、反抗するすべての支配を打ち砕き、「大きな山となって全土に満ち」るまでになる。山から切り出されたその石が、最後には、山そのものとなるのである。それでは、おゝ、山よ。お前は何者だ。この山に向かって立ち上がろうなどと考えるとは。その前では、すべてが、平らにならされることになる。彼は、山のように高くそびえる尊大な思いをぺしゃんこにし、あらゆる肉の高ぶりをひしゃげさせるであろう。もみがらが風に逆らい、刈り株が火に逆らい、足がとげのついた棒をけり、陶片が陶器師に逆らい、人が神に逆らうとき、どちらの側が勝利するかは簡単にわかる。風は、キリストの乗り込んでおられる船を激しく揺さぶることはできるかもしれないが、転覆させることはできない。波浪は岩に打ち寄せるかもしれないが、岩に当たって四方にはね散ることしかできない。
反論。 もしそうだというなら、なぜ神の教会や、恵みを有する多くのキリスト者は、今のような状態にあるのか? 見たところ、勝利をおさめつつあるのは敵側のようではないか。
答え。 その答えとして以下のことを覚えておくがいい。1. 通常、神の子らは、悩みに閉ざされているときには、苦しみを受けることによって、勝利する。ここでは、苦しみを受けることによって、小羊が獅子に勝利し、鳩が鷲に勝利する。このようにすることによって彼らは、最も大きな苦しみを受けたときに最も大きな勝利をおさめられたキリストにならう者となれるのである。忍耐というキリストの王国の隣にこそ、力の王国があったのである。
2. この勝利は、徐々におさめられるものである。それゆえ、最初の一撃を加えただけで完全な勝利を得たいなどと考え、最初の一歩を踏み出すと同時に競走を終えたいなどと思う者たちは、あまりにせっかちな心をしているのである。イスラエル人たちは、カナンへの旅における自分たちの勝利を確信していたが、それを戦いとらなくてはならなかった。神は、キリストがいかに冷酷な敵どもを私たちのために打ち負かしてくださったかを、私たちがさっさと忘れてしまうことを望まれない。「彼らを殺してしまわないでください。私の民が、忘れることのないためです」、と詩篇作者は云う(詩59:11)。それは、彼らから受ける不快さを経験することによって、私たちが、彼らの支配に陥るのを恐れていられるからである。
3. 神はしばしば、対照的なものによってお働きになる。神は、勝利を与えようとなさるときには、最初に私たちが一敗地にまみれることを許される。慰めようとなさるときには、最初に恐怖に陥らせなさる。義と認めようとなさるときには、最初に私たちを罪に定めなさる。栄光に輝かせようと思う者たちを、神は最初に卑しくなさる。キリスト者が勝利を得るのは、敗北を喫するときにほかならない。何らかの罪によって敗北させられたとき、キリスト者は、その他の、より危険な罪――たとえば、霊的高慢や安逸など――に対する勝利をおさめているのである。
4. キリストのみわざは、教会の中においても、キリスト者たちの心の中においても、さらに深く前進できるようになるため、後戻りすることがよくある。種が、冬の間には地中で腐っても、後になると、より美しい姿で姿を現わすように、また、冬が厳しければ春がそれだけ素晴らしいものであるように、私たちは、数々の転落によって立ち続けることを学び、弱さを発見することによって強さを得る――virtuis custos infirmitas――のである。私たちは、揺さぶられることによって、より深く根を張る。そして、たいまつが振り回されると、より明るく燃え輝くように、キリストは、その自由を用いて、このようなしかたで、私たちのうちにおけるご支配を保とうとしておられるのである。それゆえ私たちは、自分の信仰を働かせようではないか。私たちに対するキリストのなさりように、信仰が応答できるようにしようではないか。敗北を喫するときも、自分は勝利を得るのだと信じよう。転落するときも、自分は再び立ち上がるのだと信じよう。ヤコブは、「強く打たれて、びっこをひくほどだったが、それでも格闘をやめず」*、とうとう祝福を手に入れた(創32:24)。そのように、私たちも、決してあきらめることなく、始まりと、途中と、終わりとを、固く1つに結び合わせて考えよう。そうすれば、私たちは、いつのまにか自分が天国に至っており、あらゆる敵の手の届かないところにいることに気づくであろう。私たちは確信していようではないか。神の恵みは、この不完全な状態にあってさえ、完全な状態にあった際のあの最初の人間[アダム]の自由意志よりも強い、と。今やそれは、キリストのうちに基礎を置いており、キリストは私たちの信仰の「創始者」であるように、「完成者」でもあられるからである(ヘブ12:2)。私たちは、最初の契約よりも、さらに恵み深い契約のもとにあるのである。
ある人々が云っているような意見、すなわち、根づいている信仰(fides radicata)は長続きしても、弱い信仰は無に帰す、というようなことは、この聖句と矛盾しているように思われる。いかに強い信仰も揺さぶられることがあるように、いかに弱い信仰も、真理を有していさえすれば、その程度までは根付いているのであり、やがて優位に立つであろうからである。用心深さを伴う弱さはもちこたえるが、自信を持ちすぎた強さは挫折する。弱さは、それが自覚されるときには、神がその強さをふるうための最適の座となり、対象となる。というのも、自分のもろさを意識することによって私たちは、いやでも自分の中からひきずりだされ、自分の強さの基盤が存しているお方のもとへと、追いやられるからである。
こういうわけで弱さは、救いの確信をいだいて立つことが許されるのである。あの弟子たちは、彼らのあらゆる弱さにもかかわらず、喜ぶように命じられている(ルカ10:20)。彼らの名が天に書き記されていることを喜ぶように命じられている。聖化の過程で私たちは、争闘を何度繰り返し、失敗を何度かさねようとも、だからといって、義認についていだいている平安や、救いの確証を弱められるべきではない。重要なのは、私たちのうちに、いかに悪いものがあるか、ということよりも、いかなる良いものがあるか、ということである。いかなる腐敗があるか、ということよりも、私たちがそうした腐敗に対していかなる感情をいだいているか、ということである。私たちの個々の失敗がいかなるものであるか、ということよりも、私たちの人生の筋道、基調は、いかなるものか、ということである。というのも、私たちの内側にある不適当なものに対するキリストの反感は、私たちの人格に対する憎悪を引き起こすわけではなく、私たちのあらゆる欠点を勝利のうちに制圧させようとさせるからである。
こうした争闘を経たある人々は、神のいつくしみ深さに驚嘆してきた。これほど小さく、ふらつきがちな信仰が、これほど大きな戦闘において、サタンがほとんど彼らを手捕りにしたかのように思えたときにも、彼らを支え続けたからである。そして、実際、それは驚嘆に値することである。心さえまっすぐであれば、小さな恵みが、いかに大きく神を説き伏せて私たちを受け入れさせることか、また、いかに私たちの敵どもに対して大きな勝利を得させることか。私たちの甘やかな救い主のいつくしみ深さは、途方もなく大きなもので、私たちの弱さにおいて、ご自分の力を示すことを主は喜びとなさるのである。
適用。 1. それゆえ、まず第一に、貧しく弱いキリスト者たちが、その大きな慰めとして知るべきことは、天からの火花は、たとえ、みずみずしい生木のもとで点ぜられ、いぶるようになるとしても、最後には、すべてを焼き尽くすようになる、ということである。いったん火を点ぜられた愛は、死のように強く、どれほど水をかけられても消えず、それゆえ、すさまじい炎、あるいは、聖霊によって、心の中で火を点ぜられた、神の炎と呼ばれている(雅8:6)。私たちのうちにある、この小さなものは、永遠の源泉によって養われているのである。エリヤの時代に天から降って来た火が(I列18:38)、すべての水をなめ尽くし、神から来た火であることを如実に示したように、この火も、私たちのすべての腐敗を枯渇しつくすであろう。外側からのいかなる患難も、内側からのいかなる腐敗も、この火を消すことはない。明け方には、日の出のまわりに雲が寄り集まり、太陽を隠してしまいそうに見えることがよくあるが、太陽はしだいにそうした雲を薄れさせ、ついには燦々と輝くものである。この火の燃えつきも、最初はさまざまな恐れや疑いによって妨げられるが、最後には、それらすべてを圧倒して、キリストが勝ちをおさめるのである。そしてそのときキリストは、私たちの内側にある、ご自分のさまざまな恵みを支えてくださる。恵みがまず私たちに勝利し、それから私たちは、その恵みによって、他のすべてのものに勝利するのである。それは、その相手が私たちの内側にある種々の腐敗であろうと、私たちの外側から来る種々の誘惑であろうと変わらない。
真理のことばによって生まれたキリストの教会は、使徒たちの教えを冠としてかぶり、月、すなわち、この世と、すべての世的な物事を「足の下に踏み」つける(黙12:1)。「神によって生まれた者はみな、世に勝つ」(Iヨハ5:4)。信仰、特にキリストのご支配の手段となる信仰は、魂を高く引き上げ、他のすべての物事を、遥か下にあるかのように見させるとともに、キリストの御霊によって、より気高い性質の富と、誉れと、美しさと、楽しみとを、魂の前に現わすからである。
さて、私たちのものたるべき慰めに欠けるようなことがないように、私たちは特に2つのことを心にとめておくべきである。1. 自分の内側に、この勝利の約束がなされているような公義(さばき)、または支配があるかどうか。 2. 自分の内側におけるキリストの公義(さばき)を、実際に勝利に至るようなものとするためにいかにふるまうべきかを示す、いくつかの規則、あるいは指針。
自分の内側にある、キリストの公義(さばき)が、勝利を得るようなものであるとわかる証拠となるのは、以下のような場合である。 1. 私たちが、自分の体験から、キリストのなさりかたはすべて正しいものである、と認めることができ――血肉が、それとは逆のことを何と云い立てようとも、おかまいなしに――、神がキリストにあって私たちを天国へ至らせるためにおとりになる道筋に喜んで同意でき、さらには、自分がすでに到達した度合を越えて、さらなる度合の恵みがなおも必要であると認め、それを予想し、あてにできる場合。これ以外のいかなる人々も、本当に良心が目覚めさせられているとしたら、自分のあり方を正しいものと認めることはできない。 2. キリスト教信仰の道理が、自分にとって最も強い道理であって、この世の才知から引き出された道理よりも優勢である場合。 3. 私たちが、自分の目的に対して忠実で、自分の規則に対して堅固であり、いかなる望みや恐れをいだいても、それとは別の方角に引き離されることがありえず、自分の規則に何が合致し、何が反しているかに目をとめている場合。 4. 私たちが、「真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできる」(IIコリ13:8)ほどに、自分のいのちにもまさって真理を慕わしく思う場合。真理は、いかなる肉的な人の心の中でも、これほどの支配力を有することはない。 5. たとえ自分に、だれの支配下で生きるかを選ぶ自由があったとしても、キリストのご支配を喜ぶ内なる人の思いにより、他のだれに支配されるよりも、キリストにだけ支配されることを選ぶ場合。このことによって、私たちがキリストに似た精神の者であること、自由で自発的な民であること、強制的にキリストに奉仕させられているわけでないことが、立証されるからである。唯一そこにある強制は、愛という甘やかな強制だけである。キリストの御霊のご支配を好むがゆえに、すべてのことにおいて自分自身をキリストに明け渡すという場合。私たちが自分の意志を主のみこころに服させるとき、キリストの御国は私たちのもとに来たっているからである。意志がどちらを向いているかによって、私たちは良くも悪くもなるのである。
6. よく秩序だった、均一な、また、気まぐれに左右されない生活は、よく整えられた心を示すものである。それは、ある時計の撞木が正確に時を鳴らし、文字盤の針が正確に時を示していれば、歯車が正しく設定されているしるしであるのと変わらない。 7. キリストのみこころが、何らかの地上的な得失と並び立つとき、それにもかかわらず、その特定の場合に、心がキリストの前に屈従しようとするとき、それは真のしるしである。というのも、恵みの力を最も真実に試すのは、私たちの最も身に迫る具体的な場合のうちにあるからである。そうした場合に私たちの腐敗は、最も強く圧力をかけてくる。キリストは、福音書に出てくる、あの青年の間近にせまったとき、ひとりの弟子を失った(マタ19:22)。 8. ある義務が、キリストを喜ばせはしても、肉にとっても、この世の流れにとっても、不愉快なときに、そうした義務を、私たちが実行できる場合。また、私たちが、自分の性質の傾きやすいような、また、最も心に好ましく思われるような、また、時代の影響力に最も合致するような、また、他の人々がとりことされているような悪において、自分に打ち勝つことができる場合。たとえば、復讐欲や、敵への憎悪、私利私欲などが、それにあたる。そのようなとき、恵みは私たちのうちにあって、天性よりも高く、天は地よりも高くあること、やがて勝利を得るであろうことが見てとれるのである。
この点をさらに明瞭にし、私たちが自分を試す助けとなるものとして、勝利には3つの程度があることを知らなくてはならない。 1. 私たちが抵抗しても敗北を喫する場合。 2. 恵みが勝ちを得るが、争闘を経なくてはならない場合。 3. すべての腐敗が完全に屈服させられている場合。今の私たちには、単に抵抗するだけの強さしかない。だが、私たちのうちにおけるキリストのご支配が勝利を得ることはわかっている。なぜなら、悪魔について云われていることは、私たちのあらゆる霊的な敵たちについても云われているからである。「もし私たちが抵抗すれば、彼らは私たちから逃げ去ります」*(ヤコ4:7)。なぜなら、「私たちのうちにおられる方」、ご自身の恵みに味方してくださるお方は、「この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです」*(Iヨハ4:4)。そして、もし私たちが、ただ抵抗するだけでも勝利を期待できるとしたら、御霊が優勢になるときには、何を望めないわけがあるだろうか?
(第23章につづく)
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