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第21章----真の知恵と識別力のあるところには、キリストがその支配を打ち立てられる。

 第二の項目は、真の知恵と識別力(さばき)[judgment]のあるところには、常にキリストがそのご支配を打ち立てられる、ということである。なぜなら、知恵がある場合、それは、私たちに理解するよう命ずるだけでなく、私たちの生き方が正しく秩序立ったものとなるようにも命ずるからである。キリストは、その御霊により、預言者として教えておられるところでは、その御霊により、王としてその心を制圧して、教えられたことに従順にならせる。これこそ神が約束された、頭だけでなく心そのものが教えられる教えである。人々が、自分のなすべきことを知るだけでなく、それを行なうことそのものを教えられる教えである。彼らは、単に愛し、恐れ、従うべきであると教えられるだけではなく、愛そのもの、恐れや従順そのものを教えられる。キリストは、ご自分の臣下に、良い者たれと教えるだけでなく、ご自分の御座を、彼らの心そのものの中に据えて、その心のありかたを改め、彼らを良い者にしてくださるのである。他の王たちも善法を作ることはできるが、彼らは、「それを人々の心に書きつけることはできない」*(エレ32:40)。これはキリストの大権である。キリストは、ご自分の臣下である者たちに、ご自身の御霊を注入なさる。「彼の上にとどまるのは、知恵と悟りの霊だけでなく、主を恐れる霊でもある」*(イザ11:2)。キリストから発して私たちが有するキリストについての知識は、私たちを別のありかたに変える知識である(IIコリ3:18)。精神(mind)に光を与えたのと同じ御霊が、意志と感情にも恵みに満ちた種々の性向を吹き込み、人格全体に力を注入なさるのである。恵みに満ちた人は、正しい判断[識別]を下すだけでなく、それと同じように、自分が判断する通りに愛し、かつ行なう。その人の生活は、その人の内なる人の注解である。神の真理と、その人の判断と、その人の生活全体との間には、甘やかな調和がある。キリスト者の心は、最良の時代のエルサレムのようであり、それは、よくまとめられた町である(詩122:3)。そこには、数々の公義(さばき)の座が据えられている(詩122:5)。公義(さばき)は、あらゆるキリスト者の心の中に王座を有するべきである。もちろん公義(さばき)だけが変化を生じさせるわけではない。意志は、まず恵みによってその好みや偏りを変更されてはじめて、理性(understanding)の作用におとなしく服すようになるのである。しかし、神は、この2つのことを分かちがたく結び合わせておられるため、神が人の理性を救いに至るように光で照らされるときには常に、柔らかく曲がりやすい心をもお授けになるのである。というのも、神の御霊による、心への働きかけがなければ、心は、それ自体の性向に従って、識別力がいかに逆のことを云おうとも、自らの好むところへ向かうはずだからである。聖なるものとされていない心と、聖なるものとされた識別力とは、決して本来、相容れるものではない。というのも、変えられていない心は、何が良いことかについて、識別力に冷静沈着な結論を下すことを絶対に許さないからである。さながら、おこりにかかりがちな病人が、その不調により、嗜好を腐敗させられている間は、医者の語ることに聞き従うよりも、その腐敗した嗜好を喜ばせることを望むのと同じである。識別力は、意志が制圧されていないところでは、自らを律する力がない。というのも、意志と種々の感情は、何らかの利得や快楽が、識別力が良いことだと普通は考えるようなものと競い合うような場合には、自分たちに利するような判決を下すように、識別力を抱き込むからである。それゆえ、大概の場合は、心がどう思うかによって、個別の物事に対する理性の判断や決定は左右されるのである。だが、恵みが心を従えている場合、理性は、手に負えない種々の情動によって、それほどかすまされることはなく、とりわけ、何が最も良いことかを見てとることができる。利己愛から湧き出した、卑俗な関心が、こうした事情を変えたり、識別力を正反対の方向に片寄らせたりすることはない。むしろ、それ自体で良いものは、私たちにとっても良いこととなる。それが、自分の個人的な世俗的利得のためにならないとしても関係ない。

 適用。 このことを正しく把握することによって、実際の行動は、影響を受ける。それを私は、より詳細に説明したいと思う。ここで教えられるのは、敬虔さの正しい順序である。すなわち、正しい敬虔さにおいては、まず良いことが識別され、それから、神に向かって、理性に光が与えられるように乞い求めるだけでなく、意志と感情に聖なる性向が与えられるように乞い求めることが続くのである。それは、自分の心の中に完全な支配が打ち立てられ、私たちの「知識が、あらゆる識別力を伴うように」*なること(ピリ1:9)、つまり、経験と感覚を伴うようになることである。キリストの公義(さばき)が、私たちの種々の識別力の中に打ち立てられるとき、また、そこに発して、キリストの御霊により、私たちの心の中にもたらされるとき、そのときこそ、その公義(さばき)は、その正当な場所、正当な王座についているのである。そして、そのようになるまで、真理は私たちに何の善も施さず、私たちを罪に定める役にしか立たない。キリスト者生活は、規則的な生活であり、新しい創造の基準に従って進む者(ガラ6:16)の上にこそ、平安があるのである。「自分の道をさげすみ、漫然と生き、肉のあらゆる自由を追求する者は死ぬ」*(箴19:16)。そして、このことは、聖パウロによって保証されている。「もし肉に従って生きるなら、私たちは死ぬのです」*(ロマ8:13)。

 同じように私たちが教えられるのは、不健全な生き方をしている人々には、真の識別力が全くない、ということである。いかなる悪人も、賢い人になることはできない。そして、キリストの御霊なしには、魂は混乱の中にあり、何の麗しい姿かたちもない。それは、創造の前の万物が、混沌の中にあったのと同じである。魂の全体は、「すべてのことを立て直す」役目をお持ちのおかたによって再び整えられるまでは、たがが外れているのである。魂の卑俗な部分は、服従すべきものであるにもかかわらず、すべてを支配し、理性の中にある、なけなしの真理を踏みにじり、それを卑しい種々の感情のとりこにしている。そしてサタンは、腐敗により、魂のあらゆる部分を掌握する。それは、彼よりも強いお方であるキリストが来るまで続く。だがキリストが来られたならば、キリストはサタンを追い出し、魂とからだの、あらゆる力と部分を御手におさめ、それらを義の武器として、ご自分に仕えさせ、こうして新しい君主、新しい律法が始まる。新しい征服者としてキリストは、古いアダムの根本的な律法を変革し、ご自分のご支配を打ち立てなさるのである。

(第22章につづく)

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