第20章-----キリストの霊的支配には識別力と知恵が結び合わされている。
第二の結論は、キリストが、ご自分の教会、およびご自分の子らのうちで保っておられるご支配は、賢明かつ良く秩序立った支配である、ということである。なぜなら、それは公義(さばき)[judgment]と呼ばれており、識別力(さばき)[judgment]こそ知恵の要諦だからである。この結論は、2つの部分に分かれる。 1. 私たちのうちにおけるキリストの霊的なご支配には、識別力と知恵が結び合わされている。 2. 真の霊的な知恵と識別力のあるところには、キリストの恵み深いご支配も、キリストの御霊によって、同じようにもたらされる。第一の部分について云うと、キリストの様々な規則によって、よく導かれている人生こそ、この世で最も強く高潔な道理にかなった人生にほかならない。だからこそ聖なる人々は、「知恵の子どもたち」*と呼ばれているのであり(ルカ7:35)、道理からも経験からも、知恵の道をすべて正しいと認めることができるのである。それと逆の道をたどるのは、愚かしさと狂気でしかない。それで聖パウロは云うのである。「霊的な人は、すべてのことをわきまえます」*(Iコリ2:15)。その人は、自分に関するすべてのことをわきまえる[識別する]が、その人に劣る、いかなる種別の者からも、わきまえられることはない。なぜなら、そうした者らは、わきまえるための霊的な光と視力に欠けているからである。それにもかかわらず、この種の人々は、手前勝手な判断[識別]をしては、「自分が知りもしないことをそしる」(IIペテ2:12)。彼らは無知から偏見に踏み出し、性急な非難に走る。その途中で正しい識別をすることはない。それゆえ、彼らの判断は何にもならない。しかし、霊的な人の判断[識別]は、その人がどれだけ霊的であるかに応じて、確かなものである。なぜなら、その人の判断は、物事本来の性質に合致しているからである。物事が本来そうある通りのことが、そうした人の判断には反映されている。神は、本来的に、無限のいつくしみと、威光その他を有しておられるお方であるが、その人にとって、神は全くそのようなお方である。その人は、自分の心の中で、神が、神性と、そのいとすぐれたご性質のすべてをお持ちのお方としているからである。キリストは、本来的に、唯一の仲介者であり、教会において、すべてのうちにおられるすべてであられるが(コロ3:11)、その人にとって、キリストは、全くそのようなお方である。その人は、自分の心の中で、キリストをそのようなお方としているからである。「いっさいのことは、キリストにくらべれば、ちりあくたです」*(ピリ3:8)。それら一切のことは、きよめられた人パウロにとって、全くそのようなものであった。キリスト教における最悪のこと、すなわち、「キリストのゆえに受けるそしり」は、「はかない罪の楽しみにまさる喜び」*であるが(ヘブ11:26)、それは、正しい評価のできる人モーセにとっては、まさしく、そのようなものであった。「神の大庭にいる一日は、それ以外の場所の千日にまさる」*ものであるが(詩84:10)、それは、新たにされた識別力を有する人ダビデにとっては、全くそのようなものであった。善良な人の判断[識別]は、物事それ自体の実質と一致しており、神が是としたり非としたりする物事を、その人も、その通りに是としたり非としたりするのである。
人間が何をどう考えようと、真理は真理であり、過誤は過誤であり、不法は不法である。神は、光と闇、善と悪とを永遠に区別しておられる。それは、いかなる被造物の私見によっても、変えることはできない。それゆえ、いかなる人の判断も、物事の尺度としてあてにできるのは、それが物事それ自体に神が刻印なさった真理に合致する点まででしかない。こういうわけで、賢い人は物事の真理に合致する判断をするがゆえに、ある意味において、賢い人は物事の尺度と云われうるのである。そして、ひとりの聖なる賢い人の判断[識別]は、それ以外の千人の判断にもまさって優先されるべきなのである。そうした人々は、通常、中天を駆ける太陽のように何物にも動ずることがない。彼らは、規則によって考え、語り、生きているからである。他の人々が何をしようと、「ヨシュアとヨシュアの家とは、主に仕え」*(ヨシ24:15)、この世とは正反対の道筋をたどろうとする。彼らの識別力は、彼らを正反対の道に導くからである。こういうわけでサタンは、魂の目である識別力に対して悪意をいだき、無知や屁理屈によって、それを狂わせようとするのである。というのも、識別力を奪い去るか、歪めるかしない限り、彼はいかなる人の内側でも支配できないからである。彼は暗闇の君主であり、理性の暗闇の中で支配する。それゆえ、彼を理性の中から追い出すには、まず真理を優勢にし、真理を魂に植えつけることから始めなくてはならない。ならば知識に敵対する者たちは、事実上、サタンと、反キリストが、その王座を立てる手助けをしているのである。反キリストの王国も、サタンのそれと同じように、暗闇の王国だからである。こういうわけで、キリストは、「聖霊は、さばきについて、世に確信させます」*、と約束しておられる。(ヨハ16:8)。すなわち、キリストは、支配の御座を打ち立てようと決意しておられるのである。なぜなら、大いなる無秩序の君主、「この世を支配する者、サタン」が、福音と、福音に伴って来られる御霊によってさばかれ、その詐術があばかれ、彼のもくろみが白日のもとにさらされているからである。それゆえ、福音が伝播していったときに、種々の神託はやんでいき、「サタンが、いなずまのように天から落ちました」(ルカ10:18)。人々は、「彼の王国から、キリストの王国へと移された」*(コロ1:13)。虚偽によって支配がなされているところでは、暴露は勝利にほかならない。「彼らはもうこれ以上に進むことはできません。彼らの愚かさは……すべての人にはっきりわかるからです」(IIテモ3:9)。そのように、過誤をはっきりわからせることは、過誤をくいとめる。だれしも、喜んでだまされていたいとは思わないからである。真理が、何の歯止めも制限もなしに力をふるいさえすれば、サタンやその手先がいかに悪辣な所行を働こうとも、彼らが勝つことはない。ヒエローニュムスが、その時代のペラギウス派について云った通りである*1。いわく、あなたがたの意見を暴露するこそ、それらを打ち破ることにほかならない。あなたがたの冒涜は、一目見ればすぐにわかるのだ、と。
適用。 ここから学べるのは、キリスト者生活をよく整えるためには、理性(understanding)を超自然的な知識に基づかせる必要がある、ということである。
光がなくては、私たちがキリスト者として目指すべき、天性を越えた目的を悟ることはできず、その目的に至る道を示すのに最もふさわしい規則を悟ることもできない。その規則とは、キリストにある神のみこころであり、私たちに対する神のみこころと、神に対する私たちの義務を啓示するものである。その啓示のおかげで私たちは、より豊かな報いを自分にもたらすことすべてを行なえるのである。「まず目を健全にすれば、全身と私たちの生活の枠組が明るくなる」*(マタ6:22)。さもないと私たち自身も、私たちの生活のたどる道も、暗闇にほかならなくなるであろう。キリスト者生活とは、咀嚼された知識が、意志と感情と実行動になったもの以外の何物でもない。もしも最初に胃の中で練り合わされるものが良くなければ、肝臓で練り合わされるものが良いものとなるはずがない。それと同じく、もし識別力に誤りがあったら、それは実行動のすべてを損なうのである。基礎工事で誤りをおかせば、建物全体が損なわれるのと同じである。神は、「決して盲目のいけにえや、霊的でない礼拝など」*お受け取りにならない(マラ1:13)。神がお望みになるのは、私たちが神を「知性を尽くして」愛することである(ロマ12:1)。すなわち、私たちが、「心を尽く」すと同様に、理性をつかさどる部分によっても、神を愛することである(ルカ10:27)。
公義(さばき)によるキリストのご支配に伴う、こうした秩序は、魂のあり方にかなうものである。神は、人間が、人間固有の働きかたをするのを保つことをお喜びになる。すなわち、人が、その識別力から発して、事を行なうという働き方である。恵みは、天性が識別力に基づいていることを前提としているので、恵みの枠組みは、人間のうちにおける天性の枠組みを、そのまま保っておくのである。それゆえ、キリストは、魂にとって良いものをすべて、識別力を通してもたらしてくださるのであり、それも非常に甘やかなしかたでそうなさるために、多くの者たちは、危険きわまりない過誤にかられて、自分のうちにある善や、自分から生ずる善が、自分から出てきたものであって、恵みの力強い働きから出たものではない、と思い誤るほどである。悪の場合もこれと同じで、悪魔は私たちを、私たちの天性が傾きがちな方向へと非常に巧妙に誘導するために、人は、自分たちの罪に、悪魔が何も関与していないと考えるほどである。だが、この場合の思い違いには、さほどの危険はない。私たちは自ら病んだ者であり、悪魔は、私たちのうちにある病んだ部分を手当たり次第に助長するだけですむからである。しかし、私たちの内側に、天性を越えた善良さを生じさせる部分は何1つない。神は私たちのうちに、敵意のほか何も見いださない。神はただ私たちのうちに、1つの性質――これは有益なものだ、と自分が判断するものに、通常は心ひかれる、という性質――を刻み込んでおられるにすぎない。さて、そこに神が、有益なものは何であるかを具体的に、はっきり示されるとき、私たちは、強くそれに引きつけられるのである。また、有害なものは何であるかを神が暴露し、それを私たちに確信させるとき、私たちは、それを心底から忌み嫌うのである。それは以前には心底からそれを抱きしめていたのと変わらない。
ここからわかるように、私たちが当然なすべき働きを行なうとき、すなわち、私たちが、内側の原理に基づいて自分の行為をなすとき、――私たちが良いことを行なった理由が、そうするように育てられたからというだけでなく、あるいは、自分の尊敬するだれかれがそう行なっているからというだけでなく、あるいは、キリスト教信仰を一種の徒党のように考え、自分の党派を守るためにそうするというのではなく、むしろ、自分の判断により、良いことを行なうとき、――私たちは、まず自分の内側で、その行為が良いことだと識別しているのである。あるいは、私たちが有害なことを慎むとき、私たちはまず、内側の識別力によって、そうすることは有害だと判断しているのである。健全なキリスト者は、単に良い方の物事を喜びとするだけでなく、まずそれを、マリヤとともに選びとっているのである(ルカ10:42)。その人は、自分の考えのすべてを熟慮の上で整える(箴20:18)。神は、実際、肉的な人々をも、非常に良い働きのために働かせることがあるが、そのとき、彼らの識別力には、何の変革も確信も伴わってはいない。神は、そうした者たちを用いてお働きにはなるが、そうした者たちの中で働いてはおられない。それゆえ、彼らは、自分たちの行なう良いことを是認することもなければ、自分たちが慎んでいる悪を憎むこともない。
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*1 Sententias vestras prodidisse, sperasse est.: rima fronte apparent blasphemiae.――ヒエローニュムス『クテシフォンへの書簡』 [本文に戻る]
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