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第19章----キリストはいとも優しくあられるが、それゆえにこそ、その優しさによって慰めを受ける者たちを支配される。

 この箇所と前の部分との関連から生ずる第一の結論は、キリストは無条件に優しくあられるのではなく、このように優しくいつくしまれる者たちのうちに、ご自分の支配を打ち立てられる、ということである。キリストは赦しを与えてくださるが、それはご自分が王として服従を要求するためである。私たちを配偶者としてくださるが、それはご自分が夫として服従を要求するためである。彼の義によって身をおおわなくてはならないと私たちに確信させてくださった同じ御霊は、彼の支配を受けなくてはならないとも確信させてくださる。彼は、私たちを愛するがゆえに、私たちを彼と似た者に形造ろうという思いをいだかれる。また私たちは、彼を愛するがゆえに、彼に喜ばれるような者になろうという思いに駆り立てられる。彼が清くあられるように、自分も汚れをぬぐい去っていただきたいという思いがないような者には、信仰も希望もないのである。彼は私たちを下級の支配者としてくださる。しかり、彼の下位に位置する王たちとしてくださる。そのため彼は私たちに、自分の卑しい情欲に対抗して立つ恵みだけでなく、ある程度そうした情欲を屈服させることのできる恵みをも与えてくださる。私たちひとりひとりをその邪悪な生活が立ち返らせることは、キリストが高く挙げられたため与えられた大きな恵みの1つである(使3:26)。「キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです」(ロマ14:9)。神が誓いによってご自身を縛っておられるのは、私たちが「きよく、正しく、恐れなく、主の御前に」----この世の前で、ばかりでなく----「仕えることを許される」ことである(ルカ1:75)。

 1. これは、どのような者がキリストのあわれみを受けるにふさわしい者であるかを判別する手段として役立つであろう。キリストのあわれみを受けられるのは、キリストのくびきをになおうとする者、ほしいままな肉の自由を楽しむよりもキリストのご支配の下に身を置くことの方を喜びとみなす者だけである。あるがままのキリストをすべて受け入れる者、現世の楽しみと相容れぬからといってキリストを小間切れにしたり、選り好みしない者である。イエスから「主」というところを切り離して、自分なりのキリストを作り出すような者ではない。いかなる者も真実赦しのあわれみを願い求めるときには、癒しのあわれみをも望んだものである。ダビデが祈り求めたのは、あわれみによって赦されることばかりでなく、新しい霊であった(詩51:10)。

 2. このことから、キリストを私たちにとっての義としかせず、聖めとはしない者たち----転嫁によってただで受ける聖め以外の聖めとはしない者たち----の誤りは明らかである。なぜなら、私たちのために生まれ、私たちに与えられたばかりでなく、「主権をその肩に置く」*(イザ9:6、7)主のもとにあることは、私たちの幸福にとってかけがえのない部分だからである。この主こそ私たちの救い主であるばかりでなく、私たちのきよめ主でもあられ、その死のいさおしによって、私たちを罪の咎から救い出してくださり、その御霊の十分な力によって私たちを罪の力から救い出してくださるお方である。したがって、1. この一事を忘れないようにしようではないか。すなわち、私たちの慰めの第一の主要な土台は、祭司としてのキリストが、私たちの身代わりのいけにえとしてご自分を御父におささげになったという事実にあるということである。罪の咎目を負った魂は、まず私たちのために呪いとなり十字架にかかってくださったキリストのもとへ真っ先に飛んでいく。だからこそキリストには私たちを支配する権利があるのであり、だからこそ彼は私たちをみもとへ導くための案内として、御霊を私たちに与えられたのである。

 2. 恵みのうちへ入れられた後の私たちが、日々の営みの中で何らかの罪に捕らえられてしまったときには、まず私たちをお赦しになるキリストのあわれみに頼るべきであることを忘れてはならない。そして、その後で私たちを支配なさるという御霊の約束に助けを求めることである。

 3. また、思いにおいても、果たすべき務めに対しても、心が冷えてしまったように感ずるおりには、私たちのために自分自身を与えてくださった彼の愛といつくしみという火にあたって暖まるにまさることはない。

 4. さらに、キリストは私たちを支配なさるが、キリストの愛を心に感じて彼を愛する霊にとって、彼の戒めは難しくないということを知っておくのがよいであろう。彼は私たちをその自由な彼の霊、自由を与える御霊によって導かれる。彼の臣下は、志願して従っている者ばかりである。彼がその臣下にかける手綱は、愛の手綱である。彼は私たちを愛の綱によって優しく引き寄せなさる。しかし、それにもかかわらず、彼が私たちを力の御霊によっても力強く引き寄せることを忘れてはならない。私たちを義とするためご自分を与えてくださったその愛に感ずるだけでは、キリストを愛し、キリストに従う十分な動機、励ましとはならないのである。それと同時に、キリストの御霊が私たちの心を征服し、聖別して彼を愛するようにさせなくてはならない。それがなければ、他のどのような動機も効果がないであろう。私たちの心の性向が変えられなくてはならない。私たちが新しく造りかえられなくてはならない。心を変えられないまま霊的な愛を求める者らは、地獄で天国を求めているのである。子どもが父親に従うのは、そうすることが物の道理にかなっているからであり、また子どもとしての性質がそうした道理に力を与えているからでもある。神の子どもにとっても、自分が新しくされたならキリストを愛するというのは、理性による推論の帰結としてばかりでなく、内なる恵みの原理と恵みのみわざとから自然に発してのことである。そうした内なる恵みの原理とみわざが、頭で考えた論理的帰結を力あるものとするのである。私たちは、まず第一に神のご性質にあずかる者とされる。そしてその後キリストの御霊によって導かれて、霊的務めへと向かうことが容易にされるのである。

(第20章につづく)

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