HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT

第18章----私たちのうちにおけるキリストの公義(さばき)、およびキリストの勝利について。その性格。

 ここから第三の区分にはいる。ここで語られているのは、キリストの恵みあふれる御力が間断なく進展しつづけ、ついにキリストは私たちのうちに絶対的な支配を打ち立て、すべての腐敗を打ち負かされるということである。彼は、私たちのうちにあるご自分の恵みの芽吹きをいとおしみつづけ、ついには公義(さばき)[新改訳聖書欄外注参照]を勝利へ導かれる。ここで公義(さばき)というのは、私たちのうちにある恵みの王国、すなわち、キリストが私たちの心のうちにおいて王座を設けられた支配地を意味する。ユダヤ人の間で、王が立つ前に人々を支配した人々は、最初さばきつかさ[judge]と呼ばれた。そこから、この内なる支配も公義(さばき)[judgment]と呼ばれるのである。またそれは、この公義(さばき)が、詩篇作者によってしばしば公正[judgment]と呼ばれるみことばのさばき(詩72:1、2)と一致しているためでもある。みことばは、神のさばきと一致しているからである。人は、神のみことばのうちに自分に対する判決を読みとることができる。神はみことばがさばく通りに人をさばかれるからである。私たちのうちに立てられたこの公義(さばき)によって、善は見きわめられ、受け入れられ、実行される。逆に罪はさばかれ、判決を下され、処刑される。キリストの御霊のもとにある私たちの霊は、キリストによって支配されている。そしてキリストによって支配されている限り、私たちの霊は私たちを恵み深く支配するのである。

 キリストと私たちは1つの公義(さばき)を共有し、1つの意志を共有している。キリストはご自分の意志を私たちのうちに置いておられる。また、私たちのうちに植えつけられたキリストの公義(さばき)は、私たちの公義(さばき)となってしまい、私たちは「御霊によって心に書きしるされた神の律法」(エレ31:33)をうちに宿す。内なる人が持つ律法と、文字として書きしるしてある律法とは、割り符の片割れ同士のようにぴったり一致するのである。

 そこでこの箇所の意味を云うと、キリストの御霊によって打ち立てられた、恵みによる聖い思いは、敵対するすべての勢力が鎮圧されてしまうまで進みつづける、ということである。公義(さばき)の霊は焼き尽くす霊となり(イザ4:4)、恵みに敵対し赤さびのように魂を食い荒らす腐敗をことごとく滅ぼしてしまう。神の家を建てる者らが誤りに陥り、良き土台の上にわらくずなどを建てるなら、神の御霊は霊的な「火」となって、「その日にそれを明らかにし」(Iコリ3:13)、焼きつくしてしまう。彼ら自身も、公義(さばき)の霊によって、自らの過ちと行動を非とするであろう。私たちのうちにおける恵みのみわざの全体は、公義(さばき)という名で(そして時おり知恵という言葉で)述べられている。公義(さばき)は恵みの主たる部分、かなめとなる部分だからである。それだからこそ、悔い改めという恵みのわざは、思いの転換(metanoia)、すなわち「後の知恵」と呼ばれているのである。これを少し難しく云うと、一方で「知恵」を意味する言葉(fronein)には、魂全体の一般的な好み、趣きという意味もあり、どのような知覚感覚にもまさって味覚による判断という意味あいがある。それと同じように、霊的生活においても最も必要な事は、御霊が魂の嗜好を変えてくださり、魂が霊のことがらを深く味わい知るようになり、他の何物も味わうにたえぬようになることである。

 キリストの公義(さばき)は、個々のキリスト者のうちにおいて真実勝利をおさめるのと同じように、キリスト者の集まり----教会----においても勝利をおさめる。キリストの御支配とキリストの真理、すなわち彼が王笏のようにして用いられる支配の道具は、サタンや反キリストや有象無象の敵がいかにあがこうとも、最後には勝利をおさめるのである。「白の馬の乗り手」(黙6:2)なるキリストは、手に弓を持ち、宣教において勝利を得ようと出ていく(黙19:11)。そして打ち負かされた者らは回心へ至るか、潰乱に至るか2つに1つである。しかし私は、この箇所の公義(さばき)は、やはり主として私たちのうちにおけるキリストの御国および支配の意味であるとしたい。なぜなら、1. 神はご自分の王座として、魂と良心の服従を特に望まれるからである。2. また、もしも公義(さばき)が私たちの周囲のすべてのうちに勝利を得ながら、私たち自身の心のうちにおいて勝利していなかったならば、私たちにとって何の慰めにもならないであろう。それゆえ、「御国を来たらせたまえ」、と祈るとき私たちが第一に願うのは、キリストが心のうちに来られて支配してくださることなのである。キリストが定められた諸制度におけるその御国は、ただキリストをそのしかるべき御座所、すなわち私たちの心のうちへ導くためにこそ有用なのである。

 さて、語句の説明を終えて、この公義(さばき)が理性と意志と感情のすべてにおける支配のことを含んでいると明らかにした上は、ここから自然に導き出されるであろう、いくつかの結論を述べることとしたい。

(第19章につづく)

HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT