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第17章----このキリストのあわれみ深き御性質に対する罪を非難する。御霊を消すことについて。

 私たちは今、キリストのこのあわれみ深い御性質を深く傷つけるさまざまな種類の人々を考察しようとするものである。すなわち、1. 自分がひどく悪い生き方をしてきたことを考え、まるでキリストのもとへ行っても無駄であるかのように想像し、そのまま悪い生活を続けていく者。その実、天によりたのめばたちどころにあらゆる励ましが私たちのものとなり私たちを前進させてくれるのである。こうした者以外の者にとっては、キリストが私たちを喜んで迎え入れ、さらに先へ導いてくださるというのは1つの魅惑である。教会の中で地獄落ちを宣されるのはただそれを望む者だけである。あるいは、キリストが厳しい方であると無理矢理思い込み、他の物事から満足を得る見かけだけの理由でも手に入れようとする者。これはあの役に立たぬしもべと同じである(マタ25:30)。かのしもべも、与えられたタラントを活用せず、自分にへつらって実を結ばぬ生き方を続けていくために、主人は厳しい人であると自分に思い込ませたのであった。

 2. 自分が地獄への道を歩いて行ってもキリストはそれを黙認し、しかも天国へ入れてくださるだろう、などと自分勝手な希望を持つ者。あらゆる慰めは私たちをキリストへ近づけるべきである。さもなくばその慰めはそれ自体偽りであるか、私たちが真の慰めを偽って適用しているのだ。

 そして3. キリストが燃え立たそうとされる火花を、その光に悩まされたくないからといって、水をかけて消してしまおうとする者。

 このような者は神の子羊もお怒りになることを知らねばならぬ。子羊のあわれみの杖のもとへ来ようとせぬ者どもは、その力の杖で粉々に打ち砕かれる(黙2:9)。確かにかれは真の恵みの光ならどれほど小さくとも恵み深くいつくしみ、守られるが、何の恵みの光もなく、むしろ御自分の御霊への反抗しか見出せぬようなところでは、一度燃え上がった御怒りが地獄へ至るまで焼きつくすのである。情けがぞんざいに拒まれるときにまさって正しい憤りはない。

 神がいやそうとされたのにいやされようとしなかったバビロンは滅びへと引き渡された(エレ51:9)。

 エルサレムはキリストの翼の下に集められようとしなかった。それでその住む所は荒れ果てたまま残るのである(マタ23:37、38)。

 知恵の差し伸べる手を人が拒むとき、知恵は人の滅びを見て笑う(箴1:26)。救いそのものは、自分の割り当てをまき散らし、膏薬を投げ捨てる者を救わない。このあわれみ深い救い主が滅びを見て喜び、人を造られたお方が人に対して何のあわれみも持たぬなどということになるのは悲しいことである。

 今の反逆する者どもは云う。おゝ、神が私たちを造られたのは地獄へ落とすためではなかろう、と。否、もしあなたがあわれみの道でキリストと出会おうとしなければ、あなたは「自分の行ないの実を食らい、自分のたくらみに飽きる」(箴1:31)のがふさわしいであろう。

 自分が自分の魂よりも罪を愛してきたのだと気づく人生の終わりは地獄の中の地獄であろう。そのとき人は、いかなる愛とあわれみがほとんど押しつけられんばかりに差し出されていたか、にもかかわらず自分が滅びることを望んだのだ、と知るのである。私たちが自分の上にさばきを招くのに片棒をかつげばかつぐだけ、良心はやがてうろたえ恥じ入ることになる。キリストに責むべき点は何1つなく、彼らに弁解の余地は何1つないのだ。

 そのとき人が自分の良心に助けを懇願しても、良心はこう告げるであろう。御聖霊はお前のうちに聖なる願いを燃え立たそうとして何度もお前の心を叩かれたのだぞ、と。聖霊は私たちを良くしようとして人の意志と対立するよりも、そこへ人を引き寄せようとなさる。そうでなくてどうして人が聖霊に逆らうなどと云われようか。そういうわけで、教会の中で地獄へ落とされる人々は、もともと自分をそのように運命づけているのである。だから人が地獄へ落ちる十分な理由を胸のうちにたずさえているのであれば、私たちはこの問題についてそれ以上に高遠な理由を求めずともよかろう。

 4. そして私たちのうち最もすぐれた人々でさえ、肉的な性質が好んで楽しもうとする気ままな自由さを警戒しなければ、このあわれみ深い御性質を傷つけることになる。だから私たちは考えてみよう。キリストがくすぶる燈心を消さないというなら、私たちが少しばかり怠惰であるからといって、慰めを失うかもしれないなどと恐れることがあろうか。キリストがそうなさらないというなら、何がくすぶる燈心を消せるのか。

 答え. それにもかかわらず、あなたは使徒の「御霊を消してはならない」(Iテサ5:19)という命令を知っていよう。こういった、消してはならないという警告は、くすぶる燈心を消さぬために御霊が認められた手段なのである。キリストは私たちのうちに適当な努力を呼び起こすことによって、くすぶる燈心を消さぬ御自身の職務を果たされる。また必ず成功すると確信する者にまさって、そのための手段を熱心に用いる者はない。なぜこういうことが云えるかというと、神があることをなしとげようとされるときには、そのための手段もまた神がなそうとされることのうちにふくまれているのである。これは日常一般の事がらにおいてすら当たり前の原則である。たとえば、前もって豊作とわかっているとしても、だれが鋤をおき、耕作を怠るだろうか。

 こうして使徒は、祝福を確かに期待して私たちを奮い立たせるのであり(Iコリ15:57-58)、この聖句の最終的勝利の確信から生ずるこの慰めも、私たちを奮い立たせるためのものであって、私たちを怠けさせるためのものではない。もし私たちが、受けた恵みの実践を怠り、定められた手段の実行を怠って、私たちの魂をおびただしいこの世の心づかいによって押しつぶされるにまかせ、心を眠らせる時代の闇に注意を払わなければ、神は、このような愚かな振る舞いに対して、その賢き御配慮を働かされ、私たちが感情的に暗い状態へ陥ることをしばしばよしとされる。そしてそれは私たちほどに光を受けることが決してなかった人々よりもはなはだしいのである。しかしあわれみの神は、私たちが一度ともされたこの火花を全く打ち捨ててしまうまで自分に仇をなすようにはなさらない。もしも私たちが神に捨てられ、あらゆる努力を全くやめてしまうようなことがあれば、消えてしまうほかあるまい。しかしキリストはこの火花を守られ、この小さな種をいつくしまれて、魂のうちにいつも何らかの配慮があるようにされる。この事実を十分な益としようとするなら、私たちは、キリストが一度芽生えた恵みを保つため用いられるすべての手段に注意を払わなくてはならない。第一に、聖徒との交わりである。キリスト者はそこで互いに暖めあうのである。「ふたりはひとりよりまさっている」云々(伝4:9)。「我らの心は燃えていたではないか」と、かの弟子たちは云った(ルカ24:32)。第二に、静思の時や祈りなど、聖なる務めのうちに一層神との交わりを求めることである。これは魂を燃やすばかりでなく、魂に輝きを与える。第三に、経験から云って私たちが御霊の息吹を感ずるのは、牧師の息吹に接するときである。そういうわけで使徒はこの2つを結びつけている。「御霊を消してはなりません」「預言をないがしろにしてはいけません」(Iテサ5:19、20)。ナタンはほんの数語をもってダビデの絶え入りそうな火花を燃え立たせた。神は御自分の火が私たちのうちで絶えることを望まず、ナタンのような人物を遣わされる。それで私たちのうちには常に何かが残されていて、あたかも火を宿した石炭には火が簡単に移るように、同じ性質のことばにたやすく結びつくのである。くすぶる燈心にはたやすく火が移る。第四に、恵みは実行によって強められるものである。「立ち上がって行ないなさい。主があなたとともにおられるように」、とダビデはわが子ソロモンに告げた(I歴22:16)。あなたのうちにある恵みを燃え立たせなさい。このような聖い衝動は堅い決意となり、決意は実践となり、実践はあらゆる良いわざを喜んで行なう整えられた心となるのである。

 注意. ただし恵みが実行によって増すといっても、それは実行そのものに力があるのではなく、キリストがその御霊によって私たちのうちに流れ込んでくださるからであり、キリストが私たちを源たる御自分のもとへ引き寄せ、そうした行ないのうちに云いようもない慰めを注いでくださって、私たちの心をさらに広げてくださるからなのである。キリスト者の心はキリストの花壇であって、キリストの恵みはその甘やかな香辛料であり、匂やかな花々であり、吹きよせるキリストの御霊が、甘美な芳香を放つようにと育て上げたものである。だから常に心を開いて聖霊をもてなすようにしなさい。聖霊は絶えず腐敗を抑制する新たな力を注ぎ込んでくださる。これは特に主の日にそうである。ヨハネは流刑の地パトモス島においても、主の日に御霊に感じ(黙1:10)、御霊の風はさらに強く、さらに甘やかに吹いたのであった。こういうわけで、この教理から慰めを得ようとする際には、生来の怠惰を甘やかさぬようにし、「敬虔のため自分を鍛錬しなさい」(Iテモ4:7)。また、この火が常に心の祭壇の上で燃えているようにし、私たちのランプを日ごとに整え、新しい油をつめ、私たちの心を高く、より高くねじ上げなさい。のんべんだらりと寝そべることは恵みと全く逆の状態であって、そのような態度はますます度を過ごすようにならざるをえないものである。だれも「恵みを放縦に変える」ことがあってはならない(ユダ4)。自分の弱さはへりくだりの糧とすべきであって、怠慢の口実にしたり、図々しさを助長させたりするものではない。キリストがかくも良い方なのだから、私たちは悪から離れて遠ざかり、こうした愛の石炭が私たちのかたくなさを溶かすようにすべきである。したがって、このキリストの優しさを思ってもそのような考え方のできぬ者は、自分の魂の状態を疑うべき十分な理由があるであろう。確かに、恵みを持つ者にとって腐敗は「目に煙、歯に酢」(箴10:26)のごときものである。だから彼らは信仰にそしりを招かぬため、神の栄光を高めるため、そしてまた自分の慰めのためにも、自分の光が輝き出るように努め励むのである。もしも信仰の火花すらかくも尊いものだとすれば、信仰豊かな者の栄誉はいかほどであろう! 光のうちを歩み、聖霊のうちを歩むことにかえて、だれが闇の中を歩み、惑いのうちを歩むことを望むだろう。現在罪との戦いによって生ずる悩みも、腐敗を楽しんだ後で味わう思い乱れた心にくらべれば何ほどのこともない。真の平安は克服するところにあるのであって、屈服するところにはない。この聖句の慰めは、良いことをしたいと切望しながらも、自分の腐敗によって邪魔されている人のためのものである。しばしば自分を何と考えていいかわからなくなるぽどに迷いのうちにある人のものである。信じたいと切望しながらも、自分が不信者ではないかとしばしば恐れ、自分のような罪深いくずに神が良くしてくださるわけがないと考え、それでもなお、こうした恐れと疑いを退ける人のためのものである。

 5. そしてまた、自分のための仲保者として神との間にキリスト以外の何かを持とうとする者がいかに自分を、またキリストを傷つけることであろう。御自分の骨肉に対してあわれみ深くなろうとして人となられたほどのお方にまさって慈悲深い方があろうか。だからみな常にこの柔和な救い主のもとへ赴き、私たちのすべての願いを その力ある御名にささげようではないか。他の扉を叩く必要があろうか? キリスト以上に私たちに対して優しい方がいようか? 祈りのうちに教会全体のことを、あるいは心砕けたキリスト者のことをキリストにゆだねるとき、私たちにはいかなる励ましがあることか。私たちは彼らのため、かのラザロの姉妹らのごとくキリストに話しかけることができるのである[ヨハ11:3]。主よ、あなたが愛し、御自身をおささげになった教会が今悲嘆のうちにあります。主よ、あなたはこの貧しきキリスト者のため砕かれてくださいましたが、彼は今砕かれ、ひどくみじめな状態にあります、と。御自分のいとしい者らの悲惨なありさまが御前で延べ立てられるとき、キリストは到底あわれみの心を閉ざすことができないのである。

 6. さらに、このキリストのうちにある恵み深き御性質を思って、私たちは次のように考えてみよう。主がこのように私たちに対して優しくあられるのに、私たちは主の御名において、主の真理において、そして主の子らのうちにあって、主に対してむごくふるまうべきであろうか? 「地のへりくだる者」(ゼパ2:3)を喜んでいたぶる者が、どうしてかくも恵み深き救い主の御顔を拝することを望みうるだろう。主の配偶者に対してそのように荒々しくふるまう者は、いつか自分が教会のうちにおられる主御自身を相手にしていたことを知るであろう。そしてこのキリストの愛を感じたことのある者にとって、自分の命の命、魂の魂であるキリストが傷つかれたと聞くことは心を切り裂かずにおかない。そのとき、一度あわれみを受けた者は、自分が自分の罪で刺し貫いたお方キリストのため泣くであろう。かしらとからだの諸器官の間で、相互に鋭敏な交感作用が働いていないはずがない。何らかの罪に誘惑されるとき、私たちはたとえ自分を大事にせずとも、キリストを思いやってキリストに新たな痛みを加えたりせぬようにすべきである。私たち自身をいけにえとして神にささげよと命ずるとき、使徒はキリストにある神のあわれみを思い起こさせること以上に心を刺す議論を見出せなかったのである(ロマ12:1)。

 7. 同様に、私たちはこのキリストのあわれみによって動かされて、外部の敵からは引き裂かれ内部の分裂によってはずたずたにされた教会のみじめな有様に心痛めるべきである。一度でもキリストから慰めを受けたことのある人なら、使徒がいかに愛情をこめて、互いにさばかず愛しあい、一致するよう嘆願しているかを思うとき、心動かされずにはおれまい。「もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ってください」(ピリ2:1)。あたかも使徒はこう云っているかのようである。もしもあなたがたがキリストにある励ましやその他のものをすべて拒絶するのでなければ、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を保つよう努力しなさい、と。世から取り分けられた者たちが自分たちの内部で分裂するのを見ることは、サタンとその一派にとって何という喜ばしき見ものであろう! 私たちの不和は私たちの敵にとって妙なる和音である。

 個人的な目的のために他と意見を異とし、教会の傷をふさがず、また閉じようとせぬ者らは、なおのこと責められるべきである。もちろん、何かの真理に対して口を開くべき正当な理由があるときにも自分の意見を隠せと云っているのではない。最も小さい真理ですら私たちのものではなくキリストのものであり、したがって私たちは気の向くままに肯定したり否定したりすべきではないからである。ポンド札同様ペニー貨にもしかるべき価値がある。だから私たちは時がふさわしければ最も小さい真理にも誠実でなくてはならない。そうすれば私たちの「ことばは銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ」(箴25:11)。時宜にかなって語られたことばは、そうでない千のことばにまさろう。しかし、ある場合には「自分の信仰を自分の信仰として保つ」(ロマ14:22)平和の方が、自分の正しいと思うことを公然と主張するよりも重要である。人間性は、どこかに意見の違いがあるとわかれば必ずや幾分か愛情の減退を招かずにはおかぬほど弱いものだからである。人が別々の頭を持っている限り、恵みと神の平和(コロ3:15)が心を堅く支配するのでなければ、あらゆる人が一つ心になることはまず無理であろう。したがって必要もないのに意見の違いをひけらかすのは決してほめられたことではない。だのに、ある者らは偉ぶって見せようとして、どうでもよい事柄に首をつっこんでは、互いに敵対心を燃やすのである。しかし、そのような者は聖パウロに云わせれば「肉に属しているのではないか」(Iコリ3:3)。それを知恵というならば、それは下からの知恵である。上からの知恵は純真であり、なおかつ平和なのである(ヤコ3:17)。私たちのほむべき救い主が地上を去るとき弟子たちに説いたのは愛と平安でなくて何であったか。また最後の祈りの中で、主はいかに熱心に御父に乞い願われたことか! 「御子と御父が一つであるように彼らもみな一つとなるように」*と(ヨハ17:21)。しかし、主が地上で祈り求められたことを私たちが完全に達成するのは天国である。だから、このことによっても、来たるべきときのことをより甘やかに瞑想するようにするがよい。

 8. そしてさらに、こうしたあからさまな違反者とは別にしても、弱り果て、病んだ魂につけ込み、自分の世俗的目的のために偽りの平安でもって彼らを安心させようとする輩の心根をどう考えればよいものか。傷ついた魂はどんなことでもするであろう。ここから、教皇制が儲け口としているお題目のほとんど、すなわち、告悔、償罪、功績、煉獄、云々かんぬんが生じたのである。しかし、これらは役立たずの医者、否むしろ、医者などというより拷問係である。「さそりの毒針」*(黙9:5)からの解放は、私たちが思うよりもずっと感謝すべき大きな祝福である。霊的専制にまさる暴政はない。それは最もあわれみが必要とされる場合、特にそうである。なのにある者らはそのような場合にも無慈悲な外科医のように治療を長引かせ、人の困窮から利を喰らおうとするのである。「いつくしみを施すことを思わず、かえって貧しい者、乏しい者を責め、心の痛める者を殺そうとする者」(詩109:16)はその身に恐るべき呪いを招くであろう。

 同様に、他人の霊的窮乏から現世的利益をむさぼろうという者どもに結びつくのは、教会を裏切って財産をもうけようとする、ゆだねられた信頼に不誠実な者どもである。子らは生命のパンを求めて泣いているのに与える者はだれもない。こうして彼らは神の民に霊的飢饉という重いさばきを招きよせ、主の肢体を通してキリストを飢えさせのである。一体、「その小羊を飼う」ことにおいて示された愛とあわれみを御自身に向けられたものとされるほどに優しき救い主(ヨハ21:15)に対してそのように報いてよいものか。

 最後の最後に、キリストがその御支配と礼典においてかくも身を低めて私たちのもとへ来られることにつまづく者、福音の単純さを恥じ、宣教を愚かとみなす者、このような者はキリストに対して非常に無情なふるまいをしているのである。

 彼らは心を高ぶらせて、みことばや聖礼典の助けがなくとも十分やっていけると考え、キリストは御自身にふさわしい威厳を取っておられないと考える。こうして彼らは事を自分の手だてによって癒そうとし、そのことによって教皇制と同様、血肉に余計な満足を与えるのである。キリストがあわれみの心をもって備えられた助けをさげすむことほど大きな忘恩があろうか。主が地上におられたとき、高慢なパリサイ人は、ただ魂の医師として罪人と親しくしておられた主に対して腹を立てた。福音を平易に説き明かした聖パウロは、そのためいかなる弁明をせざるをえなかったか。キリストが御自身、あるいはそのしもべらのうちにあって、身を低められるならば、私たちはそれだけ心へりくだらせて、その愛を進んでいつくしむべきであり、また、救いの大業と御支配をかくも柔和な救い主に負わせられた神の恵みをたたえるべきである。この救い主は神と私たち、また私たちと神の間にあってなさねばならぬすべての事をかくもいと優しく行なわれるのである。キリストが私たちのもとへ身を低められれば低められるほど、私たちは心のうちにおいてキリストを高く上げようではないか。またキリストが自分の心のうちで働かれるのを経験したならば、だれもがそうするに違いない。

(第18章につづく)

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