第16章----私たちに対してサタンが描き出すキリストの姿を信じてはならぬこと。
キリストはかくも慰めに満ちた姿で私たちの前に示されているのだから、私たちはサタンが描き出すキリストの姿を信ぜぬようにしようではないか。私たちが自分の罪で良心を悩ましているとき、あたかも恐ろしく峻厳な裁判官が正義を手にして私たちに立ち向かっているかのごときキリストを苦しむ魂の前に描き出す、これがサタンの常套手段である。しかしそのようなときには、ここに神御自身が私たちに示してくださったような、あわれみの王笏を差しのべ、双手を広げて私たちを受け入れてくださろうとしておられる主の姿を魂に思い描くがよい。ヨセフやダニエル、福音書記者のヨハネなどを思うとき私たちは、心暖まる優しく穏やかな人々を想像する。ならばキリストを思うとき、私たちはいやまさってあらゆる柔和さの鏡たるお方と思うべきである。もしもあらゆる花の芳香が1つに集まったとしたなら、その花のかぐわしさはいかほどであろう。キリストのうちにはあらゆる愛とあわれみがその全き形で1つに合わさっているのである。ならば、かくも恵み深き心に宿るあわれみはいかに大いなるものであろう。夫や父親、かしらのうちにいかなる優しさが散らされていようと、それはみなキリストから来た照り返しにすぎない。それはキリストのうちにこそ、その最もすぐれた形を取っているのである。私たちは弱い、が主のものである。私たちはいびつな姿をしている、が、それでも主のかたちを身に帯びている。父親はわが子のうちに疵を見るよりは自分に似た性質を見ようとする。そのようにキリストは私たちのうちに御自身のものを見つけては愛してくださるのである。主は私たちのうちに御自身の性質を見てくださる。私たちは病んではいても主の肢体である。病んでいるから、弱っているからといって自分の体をうち捨てておく者がどこにいよう。だれも自分の身を憎んだ者はいない。頭が体を忘れえようか。キリストが自分自身を忘れえようか。私たちが主を持っているように、私たちは主の欠けを満たす者なのである。主は人の性質をまとった愛そのものであり、主はその愛とかくも密接に結びついては、そのいつくしみを一層自由に私たちへ伝えようとされるのである。その愛によって主は人間の性質を、その最もすぐれたさまにおいてではなく、それが天性万人に共通なあらゆる弱さに支配されている卑しい状態にあったときに、まとってくださった。それゆえ、かの呪われし霊[サタン]が投げかけ、いただく、すべての疑いの思いを忌み嫌おうではないか。かの霊は、かつて「もしあなたが神の子ならば」云々(マタ4:6)と云って御父と御子の間をねたみで裂こうとしたのと同様、今も、キリストにはこんな者どもに対するそんな愛などないと云い、私たちにキリストの誤った姿を思い込ませて、御子と私たちの間を裂こうと日々努めているのである。神の愛を疑問視させて人間に神を疑わせるのは、私たちの最初の父アダムの昔より初めからサタンの手口の1つである。そのときの成功に気をよくして、かれは今なおその武器を用いるのを好むのである。
反論. しかし、いくらそのようなことを云われても、私にはキリストはそんなふうに感じられない、とくすぶる燈心は云う。むしろ、まるで逆だ、キリストは私に対して敵のように思える。私は主の正当な御不快のあかしを見、そして感じているのだ、と。
答え. キリストはヨセフがそうしたようにしばしの間、敵の役を演じられることがある。しかしそれはより時宜にかなったおりに、御自分のあわれみ深き役割を果たすためである。主にはそのあわれみの心を長い間おさえておくことはできない。ヤコブのときのごとく主は私たちと組み打つように思える。だが主は私たちに隠れた力を与え、私たちがついには勝てるようになさる。信仰は主の御顔の覆面を取り除き、冷たい見せかけのかげに愛する心を見るのである。Fides Christo larvam detrahit. 主ははじめ泣いてみあとにすがるカナン人の女に一言もお答えにならなかった。2. 次いで彼女の願いを退け、3. 彼女を契約外の者として犬と呼び、叱りつけるようなお答えをされた。しかしそれでも彼女はくじけなかった。彼女は主が来られた目的を考えていたからである。主にとって、慰めを与える御愛顧の感覚から最も遠ざかったときほど、御父が近くいまし、力をもって助けてくださったことはなかったように、私たちにとっても、最もキリストが御臨在を隠してしまったように思えるときにもまさって、キリストが近くおられ、力をもって支えてくださるときはないのである。義の太陽[マラ4:2]の力は、その光よりも深く突き通すものである。このような場合には、キリストが現在私たちに対してどのようにふるまわれようとも、主の御性質と職務をかかげ、対抗するがよい。主は御自分を否むことができない。主は御父が下し置かれた職務を果たさずにはおられない。私たちはここに、主は「くすぶる燈心を消さない」と御父が保証してくださったのを見る。そしてキリストもまた御父に対して私たちの保証人となってくださり、非難される所のない私たちを御父の前に立たせるときまで、私たちのため御前に立っていてくださるのである(ヨハ17:6、11)。御父は私たちをキリストに与えられた。そしてキリストは私たちを再び御父へささげ返されるのである。
反論. それは素晴らしい慰めだと思うが、それも私がくすぶる燈心だったらの話だ。
答え. あなたの反論がキリストでなくあなた自身へ向かったのはよいことである。あなたが、他者に対して(あなたに対してでなくとも)あわれみ深くあられるキリストに誉れを帰したのはよい。サタンは私たちに対してキリストを誹謗するように、私たちを私たち自身に対して誹謗する。だが、もしあなたがくすぶる燈心でもないというなら、なぜキリストに関心を持ち続け、恵みの契約にこだわり続けるのか。あなたはこれを否定し去ることはできないのだ。なぜあなたは、いっそまるっきり他の楽しみに没入しようとしないのか。あなたの霊がそのようなことを許さないのだ。この絶え間ないうめきや不満はどこから来るのか。この、あなたの現在の状態と、そのような者に対するキリストの職務を並べてみよ。そして全能者の慰めを軽んじないようにしなければならない。また自分自身の哀れみを拒んでもならない。キリストの腕の中に身を投げかけ、滅びるものならそこで滅びるがよい。そうしなければ確実に滅びるのだ。もしあわれみが見出されるとしたら、そこしかない。
キリストがあなたにある程度敏感な心を与えてくださったということ、ここにこそキリストのあなたに対する心づかいが見られる。キリストはあなたを、あらゆる霊的なさばきの中でも最悪のもの、すなわち、かたくなで安逸をむさぼる世俗的な心へ引き渡すこともできたのだ。敵のためにも死んでくださったお方が、御自分を慕い求める魂を拒むだろうか。使者を送っても私たちが和解させられることを望まれたお方が、その御手から熱心に和解を求める私たちを今になって退けるだろうか。否、私たちのうちに聖い願いを燃え立たせて、私たちを導かれる主は、御自身のやり方で喜んで私たちと会ってくださるに違いない。あの放蕩息子が父のもとへ帰ることにしたとき、父親は息子をただ待つのでなく、途中まで出迎えに行った。「主が心を強くしてくださるとき、主は耳を傾けられる」*(詩10:17)。主は長い間御自身を私たちから隠しておく気にはなれない。神が私たちを暗闇の中へ引き入れ、神からも被造物からも何の光も見ることができないようなときには、預言者イザヤによって語られた主のことばを思い出そうではないか。「暗やみの中を歩き、光を持たぬ者は」----慰めの光、神の御顔の光を何も持たぬ者は----「それでも主の御名に信頼せよ」*(イザ50:10)。私たちが完全に絶望してよいような状態になることは決してない。だから船乗りたちにならって私たちも闇中に錨を投げようではないか。キリストはこのようなときいかに私たちをあわれむべきか御存知である。主が砕かれたとき御父からどのような慰めを感じたか見るがよい(イザ53:3)。私たちもまた、傷められるときには主御自身から同じような慰めを感ずるであろう。
傷める心のため息はその中に何がしかのたよりを運ぶ。私たちのキリストに対する愛情ばかりでなく、キリストの私たちに対する心づかいというたよりをも。私たちの魂は主を見上げることができなくとも、まず主の方から私たちに恵み深いまなざしを注いでくださる。主に対する私たちの最も小さな愛も、最初に輝いた主の私たちに対する愛の反映なのである。キリストが私たちになすべき義務として与えることがすべて御自身模範として行なわれたことであるように、私たちに与える苦しみもすべて主御自身忍ばれた苦しみである。あの園において、また十字架上で神から断たれたとき、キリストは御父の御臨在のうちにある、あの云いようもない慰めを進んで失ってくださった。それは私たちのためひとときの間主の御怒りを負うため、また私たちが最も激しい苦難に会うとき、いかに私たちを慰めるべきかよりよく知るためであった。神は御子がかくも深くあおられた、かの杯を私たちも味わうことをよしとされる。罪とはいかなるものか、御子の愛はいかなるものであったかを私たちがわずかでも知るためである。しかし私たちの慰めは、キリストが私たちのためその杯の残滓を飲み干してくださったこと、また私たちの霊が神の御不快のうちに感ずるこの少量の苦味によって全く衰えることのないようキリストが助けてくださるということである。キリストは人となられたばかりではない。私たちのため呪いとなり悲しみの人となってくださった。主は私たちが砕かれぬため砕かれてくださった。私たちが絶望的に悩むことのないよう悩んでくださった。また私たちが呪われぬよう呪いとなってくださった。すべてについて十全な慰め主に対して望まれることは、何であれみなキリストのうちに見出される。
1. 御父からの権威も。主には「いっさいの権威が与えられている」(マタ28:18)。
2. 御自身の力も。その名は「力ある神」なのである(イザ9:6)。
3. いついかにして助けるかという知恵も、御自分の経験から。
4. 意欲も。主は私たちの肉の肉、骨の骨である(イザ9:6)。
(第17章につづく)
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