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第15章----弱さについて。落胆してはならぬこと。これは誰のうちにあるか。そして失われた平安をいかにして回復するか。

 また、私たちの心をくじくもろもろの原因の中でも、ある人々は特に良心のとがめに悩まされていて、それが最善至当の務めすら妨げるものとなっている。これは1つには肉体的不調に加えて、サタンが天国をめざして進む彼らに悪意をもって目つぶしをかけるためであろう。また1つには、まだ何らかの知識が十分でなく、暗闇にあるかのごとく恐怖が生まれるのであろう。無知というものが普通そうであるように、特にこのキリストのあわれみ深い御性質についての無知においては、ひとたび真実を納得させられれば、それまでのあらゆる反対論にもかかわらず、キリストを罠の中に座すかのごとく思いこませてきた偽りの恐怖は、たやすく払いのけることができる。そのとき初めて、彼らは自分がいかに自らをいたぶり、のみならずいかに自らの幸福をさいなんできたかを悟るのである。たいていの場合、こうした良心の呵責は、雑草が良い土のしるしとなるように、敬虔な魂のしるしである。だから彼らは一層あわれまれるべきである。これは重い患難なのだから。またこれは殆どの人の場合、悩める良心というよりも病的な想像の産物である。キリストが世に来られたのは、私たちをこのような根拠なき恐怖からことごとく救い出すためであった。

 それでもなおある人々は、私たちが恵みの契約の下にあって受けている安らかな状態について十分に知らず、そのためひどく心くじかれている。それゆえ私たちは知らねばならぬ。1. 弱さは神との契約を破棄したりしない。夫と妻の間でそのようなことはないであろう。ならば私たちは、世のすべての夫に対して自らを愛の模範とされたキリストよりも自分の方があわれみ深いとでも云うのか[エペ5:25]。2. 弱さは私たちをあわれみから閉め出したりしない。否、かえって神のあわれみをさらに引き出すのである(詩78:39)。あわれみは教会が終生受けるべき寡婦年金の一部である。「キリストはあわれみをもって契りを結ぶ」*(ホセ2:19)。夫には「弱き器」たる妻を支えるべき義務がある(Iペテ3:7)。では私たちは、キリストが自らの定めた規則から御自身を除外し、御自分の弱きつれあいを支えることがないとでも思うのか。

 3. もしキリストが私たちの弱さに対しあわれみ深くなければ、御自身に仕える民など残らぬことであろう。

 それゆえ、たとえ私たちがひどく弱い者であるとしても、自分が悪意をもって神の真理に敵対し、これを傷つけたりするのでなければ、絶望の思いに屈さぬようにしようではないか。私たちにはあわれみ深い救い主がおられるのである。しかし根拠もなく自分にこびることのないよう、私たちは弱さとは何か知らねばならない。弱さとは、1. 私たちの最善の行ないにこびりついている不完全さであるか、2. 私たちがキリストにある幼子であって、年端のゆかぬためになされた行ないであるか、3. 手だても力もないために起こったことか、4. 私たちの大本の性向や意図とは逆に、突如むら雲のごとく起こった誘惑によって判断力を覆されて、よく考えもせず不意に行なってしまうものである。そしてその後では、1. 私たちは自分の不完全さを痛感し、2. そのため嘆き、3. 嘆きと不平とを訴え、4. それとともにこれを改めようと戦い、力を尽くし、5. その戦いのうちに自分の腐敗に対していくらか勝ちをおさめるものである。

 このように考えたとき、弱さは、たとえいかに私たちをへりくだらせ、またいかに日々制してゆかねばならぬものだとしても、なお神の前に大胆に立ちうるものである。良きわざは弱さによって消し去られも、また神から全く斥けられるほどに汚されもしない。しかし欠点の弁護をすることは欠点以上である。弱さのうちにある自分を容認することは弱さ以上である。悪を正当化するとき唇は閉ざされ、魂はもはや子どものごとく神を父と呼ぶことも、神との甘やかな交わりを楽しむこともできなくなる。これは、おのれをはずかしめ、信仰をあらたにすることによって和解がなるときまで続く。ペテロはキリストの恵み深きまなざしによって、ダビデはアビガイルの言葉によって我に返った。だが盗人やごろつきに向かってお前たちは正道をはずれていると云ってみるがいい。彼らは気にもとめまい。彼らにとって正道とはおのれの目的にかなう道以外にないのである。

 この点をさらに明らかにするため、次のことを知っておこう。1. 不完全の罪がどこにあろうと、その人のうちには必ずや恵みのいのちが芽生えているに違いない。いのちなきところに弱さなどありえない。2. その人の大本には最善至当のものを求める真摯な思いがあるはずである。神の人はたとえ何らかの細かな点で突然脇道へそらされ道をはずれることがあろうと、キリストの御霊がその人を気づかい、その人の目的も大筋においては正しいために、自分で立ち直るか、他人の忠告に従うかするのである。3. その人のうちには最善の道を認める正しい判断力があるはずである。さもなくばその心は腐っていて、その腐れを生活の全域に吹き込み、そのあらゆる行ないを源泉から汚染しているのだ。4. その人のうちにはあたかも妻の夫に対するかのようなキリストへの愛があるに違いない。この愛を持つ者はいかなることがあろうと自分の主人を、自分の夫を取り替えたり、全く自分をおのれの、あるいは他人の情欲の支配にゆだねたりしないのである。

 キリスト者のキリストに対する態度は多くの面で非常に不快なものとなりうるし、どこかよそよそしい感を与えることもある。それでも彼はキリストを捨てず、キリストも彼を捨てない。彼は間違いなくキリストと決裂すると知っているような道へは決して向かわない。

 このように心がこれらの点について十分資格ありとされたならば、ここで私たちは知らねばならない。キリストは多くの欠点を見すごされることを御自身の誉れとみなされ、否、欠点のうちにこそその御力を全うされるのである。私たちには忘れっぽさ、魂のもの憂さ、突然の激情、恐れなどの殆ど打ち勝ちがたい欠点がある。これらは自然なものではあるが、大部分は罪によって堕落している。しかしもしキリストのいのちが私たちのうちにあるならば、私たちはこうした欠点を厭い、病人がおこりを振り捨てることを望むように、払い落とそうとするであろう。さもなくばそれは弱さというより故意のふるまいとみなされるべきである。そして意志のあるところそれだけ罪のあるものなのだ。小さな罪も神が良心を覚醒させて、「目の前でこれを述べ立てる」とき(詩50:21)、大きな重荷となり、葉をいためるばかりか杉の木すら震わせる。しかし神の子らが全心の意志をもって罪を犯すことは決してない。彼らの心のうちには異なった律法があって、罪の支配を打ち破るこの律法は、絶えず罪の律法に対して隠れた働きを続けているのである。とはいえ、1つの罪深い行為の中にふくまれていた意志が後になって私たちの慰めを驚くほど滅ぼし、私たちを乱れ騒ぐ良心の苦闘のうちに閉じこめてしまうこともある。その間神は父としての配慮からその愛の感覚を私たちからさしとどめておかれるのである。罪を犯すとき私たちは自分の意志に屈する程度に応じて慰めから遠く隔たることになる。良心に反する罪は燭の中の盗人のようなもので、私たちの喜びを滅ぼし、その結果私たちの力を弱めてしまう。それゆえ私たちは知らねばならない。聖化において意図的に違反するとき、私たちは自分が義とされている感覚を大いに喪うのである。

 問い. そういう人は平安を取り戻すためにどのような手段を取ればいいのか。

 答え. そうした者はおのれを厳しく断罪せねばならぬ。が、それでも最初の回心のときのごとく、キリストにある神のあわれみに身をゆだねるべきである。自分のうちの困窮が高まるのを見るときには、より堅くキリストにしがみつく必要があるわけだから、ここのくすぶる燈心を消さぬキリストの優しさを思い出すがよい。私たちのしばしば見るところだが、私たちを深くへりくだらせた後でキリストは以前にもまさって平和を語られ、この和解の真実さを証明される。主はサタンがこのような者らの心をくじき、おとしめようと画策することも、彼らが自分からしおれてしまって、キリストの御顔を見ようともせぬほど自分の不義理を恥じていることも御存知だからである。私たちは神がダビデを赦されたばかりか、激しく彼をくじいた後で王国の世継ぎに賢者ソロモンを与えられたことを見る。雅歌では、教会がキリストを軽んじてへりくだらされた後で再びキリストによって甘やかに抱かれ、美しさをたたえられてゆくのを見る(雅5-)。慰めを得るため知るがよい。キリストがこの偉大な仲保者の働きに油注がれたのは小さな罪のためばかりではなく、私たちのうちにキリストをとらえる真の信仰が火花1つでもある限り、最大極悪の罪のためでもあるのだ。したがって、もしもあなたがたのうちにいたんだ葦がいるのなら、キリストが除こうとなされぬのに、自分を除こうなどとせぬがよい。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」(マタ11:28)。どこに、かくも恵み深き御性質に甘えてならぬという法があろうか。誘惑されるときには悪魔よりもキリストを信じなさい。真理そのものによって真理を信じて、嘘つき・敵・人殺しの云うことを聞いてはならぬ。

(第16章につづく)

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