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第14章----愚図つく心と意気阻喪の解決。

 1. 以上述べたところに二、三つけ足せば、ある人々が助けを必要としている問題の解決も困難ではない。すなわち、まるで気乗りがしないのに務めを果たさねばならないのか、ということである。満足のゆくよう以下のことを知るがいい。1. 私たちの心はもともと勝手気ままを好むもので、義務のくびきを負わせるのは容易ではない。またその務めが霊的なものであればあるほど気の向かぬものとなるのである。大抵の場合、一度怠慢に屈するたびに腐敗はそれだけ優勢になる。これは流れに逆らって船を漕ぐようなもので、一掻き怠ければ三掻き漕いでも取り返せない。だから私たちの心を務めから離さぬようにし、心がいつでもひねり出してくる逃げ口上に応じぬがよい。

 2. 務めに向かう際、神は、私たちのうちにあって御自身に与するものを強めてくださる。私たちは心が暖まるのを感じ、御霊が私たちに伴い、次第に私たちを奮い起こしてくださって、自分がいつの間にか、いわば天に至っているのに気づくのである。神はしばしば私たちの気乗り薄な心を用いて、御手のわざを一層はっきり示し、そのわざに伴う栄誉のすべてを、あらゆる力の基なる御自身に帰される。

 3. それを行なう楽しみが他に何もないとき、服従は最も純粋なものとなる。たとえ不完全ないけにえであっても、そのいけにえとともにささげられた服従は受け入れられるのである。

 4. 私たちが腐敗から戦利品として勝ち取るものは、今のところ重荷となるほどの慰めを後になってもたらす。感情と霊の自由は務めがなされるまでさしとどめられているのである。報いは働いたあとに与えられる。務めを果たす間、また果たした後で私たちの経験する神の臨在は、服従なしにはいくら待ち望もうと決して得られぬものである。もちろんこれは思いのままに私たちの魂へ吹いてくる御霊の自由を妨げるものではない(ヨハ3:8)。私たちはただ、沈滞しきっていて、いわば流れに逆らっても漕いでゆかねばならぬ魂について語っているのである。航海において、手はともに置き、目は星へ向けられねばならぬのと同様、ここでもありったけの力を務めに注いでは、御霊が自由に、またおりにかなったときに給う助けを求めるがよい。

 注意。(1.) ただし魂ばかりでなく肉体をも必要とする務めの場合は、力が回復するまで中断してもよかろう。刃をとぐのは妨げではなく、よき準備である。(2) 突然激情にとらわれたときには、魂を鎮め、心を調律するときを持つべきである。預言者も魂を整えるため音楽家を必要としたものである(Iサム16:16-17)。

 また同様に、私たちは患難に会うとき忍耐の足りぬため意気阻喪してしまいやすい。あゝ、このような十字架には耐えられない!、と。だが神が負わせた十字架であれば、そこに神はともにいまし、ついにはより精錬された私たちを引き出してくださろう。私たちが失うのは、かなかすだけである(ゼカ13:9)。私たちは自分ひとりの力では、ほんの小さな悩みも負いきれない。しかし御霊の助けがあればどれほど巨大な困難にも耐えることができる。御霊は弱さを担った私たちを助けて肩代わりしてくださるであろう。「主は我らが倒れぬよう手をささえてくださる」*(詩37:24)。「あなたがたはヨブの忍耐のことを聞いています」、とヤコブは云うが(5:11)、同様に私たちはヨブがその苦悩に根を上げたことも聞いている。が、神はあわれみ深くそれを見逃してくださった。これはまた、私たちが直接神の御手の下に置かれ、独り淋しさをかみしめるような、疫病や同様の場合においても私たちに慰めを与えてくれる。そのときキリストは私たちの寝台の傍らに恵みの御座を設け、私たちの涙もうめきも数えてくださるのである。かつまた、私たちが今執り行なおうとしている聖礼典について云うと、これが定められたのは御使いのためではなく人間のためであり、完全無欠な人間のためではなく弱い人間のためであり、真理そのものであられるキリストを縛ろうなどというためではなく、罪に悩み信じきれない心を持つ私たちがまことの真理に疑いをさしはさみがちな者だからである。それゆえ恵み深いキリストは私たちに尊い約束の数々を残すばかりでよしとはせずに、しるしを与えて私たちを力づけてくださるのである。たとえ私たちが当然なすべきほどに整えられていないとしても、ヒゼキヤのごとく祈ろうではないか。「主よ、これらの者をゆるしてください。この者らは聖所の清めの規定どおりにはしませんでしたが、その心を傾けて神を求め、その先祖の神、主を求めたのです」*(II歴30:19)。そうするとき私たちは朗らかにこの聖き礼典に集い、多くの益を受けるのである。もしも自分の腐敗を憎み、これと戦うならば、それは私たちの腐敗とはみなされぬということ、これを知るとき私たちはすべての務めを快活になしとげることができるであろう。聖パウロは云う、それは私ではなく、「私のうちに住む罪なのです」、と(ロマ7:17)。これは私たちを不快にするものが私たちを傷つけることは決してない(quod non placet, non nocet)からであり、私たちが神のものとされることを愛し、願い、そのため努力するようになるため私たちは神のものとみなされるのである。私たちは自分の願う通りの者となり、自分が真に打ち勝ちたいと思うものに打ち勝つであろう。神は御自身を恐れる者の願いをかなえられるからである(詩145:19)。願望はその成就の前兆である。いかにちっぽけな励ましによって私たちはこの世の事柄にいそしむことか! だのに神の与えてくださるすべての助けはなかなか私たちの愚図つきがちな性質にまさらぬようである。それでは私たちをくじくものはどこから来るのか。1. それは御父から来るものではない。御父は御自分が結んだ契約によって「父がその子をあわれむように、私たちをあわれまれ」*(詩103:13)、また父として私たちのはかない努力を受け入れてくださるからである。また務めの力が欠けているところは、御自身の恵み深き寛大さの中から自由に引き出してよいと云われる。それによって私たちはその恵みを尊び、そのことを御父は他のどんな完全な務めとも同じように喜ばれるのである。Possibilitas tua mensura tua(あなたの可能性があなたのはかりである)。

 2. またキリストから来るものでもない。主はその職務により、くすぶる燈心を消さないからである。私たちはいかにキリストが、身分卑しく、弱い部分や欠けを持った、否、おぞましく不快な罪に堕ちた人々に対しても、その愛の全き実を与えてくださるかを見る。第一に、このようにして主は、神の愛を何か外的な卓越性から測ろうとしがちな肉の誇りをはずかしめるのである。第二に、このようにして主は御自身の恵みと王としての大権の自由な行使を示すことを喜ばれるのである。

 私たちはへブル書11章において、あの雲のごとき証人たちの間に、ラハブやギデオン、サムソンが信仰者の父アブラハムと同列に並んでいるのを見る(へブ11:31、32)。私たちのほむべき救い主は、御父の本質の現われであったのと同じ思いをもって、ここにおいても、この世の誉れを一身に集める人々を省みず、単純素朴な人々に福音の奥義を顕わされた御父の栄光を現わしておられるのである。

 ここで聖徒アウグスティヌスの語る、一人の愚かな男について思い起こすのも意味なきことではない。知力が殆どなきに等しいその男は、自分にどのような侮辱を加えられてもじっと耐えていたが、宗教を尊ぶ思いから、キリストの御名に対するどのようなそしりをも忍ぶことができなかった。それは涜し事を云う輩に石を投げつけるほどであり、この件においては自分の支配者らをも容赦しなかったのである。これはいかなる人のいかなる器官もキリストの恵み深き思いやりが及ばぬほど卑しいものではないことを示している。この思いやりが主を動かして、そのあわれみをひときわ高めるところでは、主はたとえどのように劣った能力の人をも見過ごしになることはない。

 3. 御霊も私たちの心をくじくことはない。御霊は私たちの欠けたところを助け、またその職務上慰め主であられる(ロマ8:26)。よしんば御霊が罪を確信させ、私たちをへりくだらせるにせよ、それは私たちを慰める御自分の職務を明らかに示そうとしてのことである。それでは私たちが落胆するのは、私たち自身とサタンから出ていることに違いない。サタンは私たちに務めをいとう心を負わせようと力を尽くしているのである。

†欄外注----この説教は聖餐式のときに語られた。[本文に戻る]

(第15章につづく)

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