第13章----弱さにもかかわらず務めに励むべきこと。 ここには私たちを励まして務めに向かわせてくれるものがある。すなわち、キリストはくすぶる燈心を消さず、むしろ燃え立たせてくださるということである。気も進まず、やっても見苦しいものにしかなるまいと、ある人々は良き務めの励行をしぶる。だが私たちは欠点がこびりついているからといって良きわざを遠ざけるべきではない。キリストは私たちのわざのうちにこれから取り除こうとされる悪よりも、いつくしもうとされる善を見てくださる。病人は時として食事によって病を悪化させることもあるが、食事をやめはしない。病に対抗するいのちの力を養うためである。同様に、たとえ罪が私たちのやることなすことにこびりついていようと、私たちが弁明すべき相手たるお方はかくも良き主人なのだから、務めに励もうではないか。そこで行なわれる戦いが激しければ激しいほど主は私たちを受け入れてくださる。キリストは喜んで私たちの生み出す良き実を味わってくださる。たとえ常にその実にもとの親株の味が残っていようとである。自分は祈れないと愚痴をこぼすキリスト者がいる。あゝ、私はこんなに多くの気を散らす思いに悩まされていて、それがこれほど激しかったことはなかったのです、と。しかし主は、あなたの心に祈りたいという願いを与えてくださっているではないか。主は御自身の御霊があなたのうちで発する願いを聞かれる。「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが」(またどのように事をなせばよいかわからないのだが)、「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、弱い私たちを助けてくださいます」*(ロマ8:26)。御霊のうめきは神に隠されていない。「私の嘆きはあなたから隠されていません」(詩38:9)。神は千々に乱れた祈りの中から意味を 拾い出してくださる。こうした願いは神の耳の中であなたの罪よりも大きく鳴り響くであろう。時としてキリスト者は思い乱れて何も云えず、ただ子どもが泣くように、おお父よ、としか云えないことがある。紅海のほとりのモーセのように、自分の欲することも云えなくなるのである。
こうした霊の激情が子とされる霊[ロマ8:15]から、また向上するための戦いから起こるとき、それは神の深いあわれみを揺り動かし、私たちへの同情で神を満たす。
反論。おゝ、しかしあのように聖なる神がこのような祈りを受け入れてくださるようなことがあろうか? と疑い惑う心は考える。
答え。しかり。神は御自身のものを受け入れてくださり、私たちのものは赦してくださるであろう。「ヨナは鯨の腹の中から祈った」*(ヨナ2:1)。罪の咎目に悩みながらの祈りであった。しかし神は聞いてくださった。だから自分の欠点によって落胆せぬようにしようではないか。聖ヤコブはこうした反論を斥けている(5:17)。もしもエリヤのごとき聖者だったなら私の祈りも聞かれるでしょうが、と云う者がいるかもしれない。だがヤコブは云う。「エリヤは私たちと同じような人でした」。エリヤもまた私たちと同じ人間だったのである。一体エリヤの祈りが聞かれたのはエリヤが完全無欠であったからなのか。確かにそうではない。約束の数々に目を向けるがよい。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたの声を聞こう」*(詩50:15)。「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタ7:7)等々。たとえ弱々しくとも神は私たちの祈りを受け入れてくださる。なぜなら、1. 私たちは神御自身の子であり、私たちの祈りは御自身の御霊から発するのである。2. そうした祈りは神のみこころにかなっている。3. 私たちの祈りはキリストのとりなしのうちにささげられ、神はこれを取って御自身のかおりと交えてくださる(黙8:3)。聖徒のため息ひとつ、私たちの涙ひとしずくといえど失われることはない。またすべての恵みは実行によって増すものだが、祈りの恵みも同様である。私たちは祈ることによって祈れるようになる。だから、同じように、かくも優しき救い主をいだいている私たちは、他のすべての聖なる務めにおいても落胆の霊に警戒しなくてはならない。受けた恵みの量りに従って、力の及ぶ限り祈り、力の及ぶ限り聞き、力の及ぶ限り戦い、力の及ぶ限り事をなすがよい。神は、キリストにあって、御自身に属するものにいつくしみ深い目を注いでくださる。「自分のしたい善を行なうことができない」からといって、パウロは指をくわえてじっとしていただろうか? 否、彼は「目標を目ざして一心に走る」のである(ピリ3:14)。キリストがこのように恵み深くあられるのだから、私たちはいたずらに自虐的にならぬようにしようではないか。
すべて志を立てさせ事を行なわれるのは神のみこころであるとして、いかほどであれ与えられた能力を神に感謝し、受けた恵みの量りに満足して安んずるのは、1つの柔和さである。もっともそこに留まって以後の努力を怠るほど安んじてしまってはならないが。しかし誠実に努力してもなお自分のあるべき姿に達せず、余人に及ばぬというときは、慰めとして知るがよい。キリストはくすぶる燈心を消さず、また先にも述べた通り、真心と真実をもって成長すべく努力することこそ私たちの<完全>なのである。「彼のみは、多少良きところもあれば安らかに墓に葬られん」(I列14:13)、という神のお告げは私たちを慰めてくれる。ほんの多少であれそうなのである。「主よ、信じます」(マコ9:24)。弱い信仰ですが、信仰です。あなたを愛します。小さな愛ですが、愛です。努力いたします。かぼそい努力ですが、努力です。たとえくすぶってはいても、小さな炎も火です。敵であった私をあなたは取り上げてあなたの契約へ入れ、あなたのものとしてくださいましたのに、これらの欠けがあるからといって投げ捨ててしまうのですか? こうした欠けはあなたにとって不快であるように、私の心の悲しみともなっておりますのに。
(第14章につづく)
HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT