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第12章----慰めを妨げる心のとがめが取り除かれる。

 適用。これらの規則としるしを瞑想することによって、弱り果てた人々の魂にも大きな慰めが得られるであろう。その慰めが一層満ちあふれるために、人々を苦しめる隠れた思いやよく持ち出される反論のいくつかに関してもう一言つけ加え、一助としたい。そうした思いや反論は心に入り込んで、しばしば人を失意に陥らせるのである。

 1. 完全な確信がないために、ある人々は自分に全く信仰がないのだと思っている。だがこの世で最も純粋な火といえども煙がないということはないのである。最上の行ないにも煙の匂いがするであろう。にんにくを砕いたすりばちには、いつまでもにんにくの匂いが残る。同じように私たちの行ないもすべてどこかしら古い人の影を残しているのである。

 2. 肉体が弱ると、何をするにも物憂くなり、魂の活動をささえる気力もなえてしまうため、ある人々は恵みが死に絶えたのだと考えてしまう。だが神は、表に出す力もなく胸のうちにそっともらされた溜め息1つをもお見過ごしにならない。貧者をかえりみる者は幸いである、と宣せられたお方は、自らも貧しき者をあわれむ心をお持ちのはずである。

 3. また、ある人々は忌まわしい妄想にとりつかれていて、神やキリストやみことばなどに対してあるまじき不潔な想像が、うるさい蝿のごとく彼らの心の平和を乱し、苦しめている。こうした妄想はサタンが火矢のように投げ込んでくるものであって、その (1) 奇怪さ、(2) 力と激しさ、(3) 腐敗した天性すら及ばぬおぞましさによってそれと見分けうるものである。Vellem servari domine, sed cogitationes non patiuntur.(主よ。もし救い出されるならば。しかしこの妄想は私をとらえて離さないのです)。敬虔な魂はこのような想念について、ベニヤミンが袋の中に入れられたヨセフの杯について潔白だったのと同じくらい潔白である。古来、こうした妄想を忌み嫌えとか、心を他にそらせとか、敬虔な著述家たちが助けとして与えてくれた処方は数あるが、これをもってその第一とするがいい。すなわち、これらの妄想についてキリストに訴え、その守りのみつばさの下に逃げ込み、主にとっても私たちにとっても敵である者に対して代わりに戦ってくださるよう願うことである。一体、人の犯すいかなる罪も冒涜も赦されるというのに、悪魔を父とするこれらの冒涜的な思いが赦されぬということがあろうか。キリスト御自身が同じような目に遭っているすべての貧しい魂を助けるため同じように悩まされたというのに。

 [ただしキリストの場合と私たちの場合とでは違いがある。なぜならサタンはキリストのうちにおのれと通ずるものを何1つ見出さず、そのそそのかしは主の聖い本性のうちに何ら影響を残さなかった。むしろそれは海に落ちた火花のごとくたちどころに消えてしまった。キリストに対するサタンの誘惑は単にサタンの方で示唆し、キリストの方でその示唆の汚らわしさを認識されただけにすぎなかった。他者がそそのかした悪をそれと認識するのは何ら不徳ではない。キリストは悩まされたにせよ罪があるのはサタンである。だがキリストがそのように身を誘惑にさらされたのは、戦いのうちにある私たちをあわれみ、また私たちが主のなさり方にならって霊の武器を用いるように教えるためであった。それで主は力によって打ち負かすこともできたはずのサタンをことばによって撃退されたのである。しかし私たちのもとに来るときサタンは、自分と共通し、一致し、よく見知ったものを私たちのうちに見出す。私たちの天性には、サタンと同じ神を憎み善を憎む心があるのである。そういうわけで、多くの場合サタンの誘惑は私たちに何らかの腐敗のしみを残さずにおかない。しかもサタンのそそのかしがなかろうと、罪深い思いは私たちの内側から起こってくる。何も外から投げ込まれなくとも、内側にその源泉があるのである。魂がこうした思い、morosa cogitatio(気ままな想念)をあたため、そこから罪深い喜びを吸い出したり引き出したりするまでになると、魂はさらに重い咎目を負わされ、神との甘やかな交わりは妨げられ、心の平安は乱され、魂のうちには逆の好みが植えつけられて、より大きな罪への糸口をつくる。穢らわしい罪の腫物もみな初めはただの考えにすぎない。邪悪な思いはこそどろに似て、窓から忍び入ると、大きな仲間のために戸口を開いてやるのである。思いは行ないの種である。こうした思いは、特にサタンの支援を受けるとき多くの善良なキリスト者の生活を地獄の責め苦にしてしまう。このような場合、ある人々が云うような、邪悪な考えは天性から起こるものだ、生まれつきのものはしようがない、といった慰めはごまかしである。私たちは知らねばならない。確かに、初めに神の御手によって造られた天性はそのようなものを吹き出すことがなかった。神によって息を吹き込まれた魂はそのようにおぞましい息吹を持たなかった。しかし魂が罪によって自らを売り渡して以来、罪深い想像をたくましくし、そうした火花の炉となることは魂にとってある程度自然なことなのである。しかもなお悪いことに、この生まれながらの腐敗は私たちの天性のうちに非常に深く根を張り、至る所に広がっていて、いっそう罪深いものとなっている。

 罪の広がりと深さを知るとき私たちはへりくだらされるであろう。今や私たちの天性は新生させられぬ限り、不幸にして邪悪な思いの温床となり果ててしまった。これを知ることだけが、苦しんでいるのは私たちだけではない、という慰めを与えてくれる。ある人々はこのような自分の状態が他の人々とまるでかけ離れたものだと思いこむよう誘惑されて殆ど絶望してしまう。自分のように忌まわしい性質を持った者はいないのだ、というのである。だがこれは原罪がどれほど浸透しているか全く知らぬことから来ている。なぜなら汚れた物から汚れた物以外の何が生ずるであろう。恵みが何らかの変化を生じさせなければ、「顔が、水に映る顔と同じように、人の汚れた心は他の人の心に映ずる」(箴27:19 <英欽定訳>)。さてサタンから来る煩わしの時と同様、この場合においても最上の方法はキリストに私たちの苦情をぶちまけ、パウロとともに叫ぶことである。Domine sim patior(主よ、救い出してください)、「私は、ほんとうにみじめな人間です、だれが……私を救い出してくれるでしょうか」(ロマ7:24、25)。こうして思い乱れた魂を注ぎ出すことによって、彼はたちまち慰めを見出した。彼は感謝をほとばしらせて云う。「神に感謝します」、云々。そして私たちはこれを機会に一層このむかつく死のからだを憎み、かの聖なる人が「愚かで獣のような思い」になった後で行なったように神に近づき(詩73:22、28)、常に心を神に近づけておくがよかろう。朝は天に思いを潜めて心を整え、うちに良きものをたくわえては心を宝庫とし、キリストにその聖霊を乞い願ってはかの忌むべき汚汁を押しとどめ、また内側から良き思いを湧き出させる生きた泉となっていただくことである。汚れきったこの世から逃れて以来、神を楽しむことが願いとなった聖なる人々にとって、自分の魂から、浄い霊なる神に全く逆らう汚物が出て来るのを見ることほどがっかりさせられることはない。しかしそのいやらしさはかえってこうした汚物に対抗する慰めの実を生むものである。魂はおのれの汚れによってあらゆる霊的訓練へ向かわされ、油断することなく、神により近く歩むようになり、また思いはより高次の事柄へ引き上げられる。神の真理や神のみわざ、聖徒の交わり、敬虔の奥義、主を恐れキリスト者たる身分のすばらしさを思い巡らすこと、時にかなった会話などはそのため大いに役立つであろう。内側の汚れは私たちに、日ごとに浄め赦しを与える恵みの必要を教え、またキリストのうちにあるべく努力しなくてはならないと教える。それで最もすぐれた人たちはしばしば膝まづいて祈りへ向かわされるのである。

 しかし私たちが本当に慰めを感ずるのは、私たちのほむべき救い主が、かつて悪魔の厚かましさを忍ばれた後で立ち去れとお命じになったように(マタ4:10)、私たちにとって益となるときが来れば、やはり私たちから離れ去れと悪魔に命じられるだろうということである。悪魔はただの一言で消え失せるであろう。そして私たちの心から乱れ出る反逆的で放埒な思いをも、主は時が来れば叱りつけ、内なる人のあらゆる思いを御自身に従わせることがおできになるし、そうなさるに違いない。]

 4. ある人々は以前より腐敗の煙に悩まされるようになると、自分が前よりも悪くなったのだと考える。腐敗が前よりもひどく見えるのは確かである。だが実のところ前よりも少なくなっているのである。

 なぜなら、第一に、罪があからさまに見えればそれだけ憎まれて、少なくなる。ちりはもともと部屋の中にあるのだが、日の光が射し込んできて初めて見えるようになるのである。

 第二に、反対物は互いに近づけば近づくほど激しく対立するものである。さて敵対するありとあらゆる物の中でも、御霊と肉ほど互いに近くにあるものはない。これらはどちらも新生した物の魂のうちにあり、魂のもろもろの働きのうちにあり、それらの働きから生ずるあらゆる行動のうちに存在している。したがって、この争闘の場となって二分されている魂がくすぶる燈心のようであろうと何ら不思議ではない。

 第三に、恵みが増せばそれだけ霊的いのちも増し、霊的いのちが増せばそれだけ反抗する物への敵意が強くなる。こういうわけで、最も腐敗に敏感な者こそ最も生き生きとした魂を持っているのである。

 第四に、人は肉的な放埒にふける際には、腐敗が拘束を受けていないので、自分の腐敗のせいで苦しむということはない。しかし、ひとたび恵みがその野放図な、ほしいままの振舞いを抑制すると、肉はまるで縄目の恥に色をなすかのごとく憤激する。だがそれは以前より良くなったしるしなのである。煙を発する物質は火をともされる前からたいまつの中に潜んでいるが、火をともされぬ限り不快なものとはならない。かくのごとき者は知るがいい。ひとたび煙が不快なものとなったならば、それは火があるという徴候である。たとえ煙を伴っていようと、火によって益を受ける方が、全く暗黒のうちにあるよりはましであろう。

 光の心地よさにくらべれば、煙の不快さも何ほどのことはない。光は私たちのうちに恵みの真理が存するという証拠を与えてくれるのである。したがって、戦いのうちにあるのは厄介だが、証拠を手にするのは快いことである。ちっぽけな平和を贖うために腐敗に屈し、後で慰めを失うよりは、今腐敗によって不快を味わう方がいい。それゆえ自分の腐敗を相手に戦い、争っている人々はこの聖句を慰めとするがよかろう。

(第13章につづく)

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