第8章----牧師は若き初信者に対しては思いやり深く接する必要がある。 1. したがって、牧師はこのような人々の扱いについては、種々の細々とした点にまで注意を払う必要がある。まず第一に、多くの立派なキリスト者の経験と合致しないようなものを、恵みのしるしとして普遍的で不可欠なものと定め、あまりに高い基準を設けたり、救いや永罰といった重大な問題を、とうていそのような重みには耐えられぬ枝葉末節的な事柄によって決したりしてはならない。そのようなことによって人は根拠もなしに深く落ち込んでしまい、立ち直らせようと急いで差し出される手も(それが自分のものであれ他人のものであれ)間に合わぬのである。あのように優しき救い主の大使は、人々の心の中に君臨したり、わがもの顔にふるまったりすべきではない。彼らの心はキリストおひとりが王座につくべき神殿なのである。人間に重きを置きすぎることは教皇制へ至る1つの門口である。「私たちをキリストのしもべだと考えなさい」(Iコリ4:1)。それ以下でもそれ以上でもなく、ただそのようなものとだけ考えなさい。聖パウロは良心の問題において弱い良心の前にわなを置かぬよういかに注意を払ったことか。
また同様に、煙に巻くような、あいまいな話し方をして自分の言葉の意味をぼかすことがないように注意しなくてはならない。真理が何よりも恐れるのは隠蔽されることであり、何にもまさって望むのはすべての人の前にはっきり明らかにされることである。真理は最もむき出しにされたときこそ、最も美しく力強いのである。
私たちのほむべき救い主は、私たち人間の性質を身にまとわれたのと同じように、私たちの慣れ親しんでいる話し方をもお取りになった。これもまた、主が自ら進んで身を低くされた1つの現われである。聖パウロは第一級の学者だったが、弱き人に対しては乳母のようになった(Iテサ2:7)。
キリストのしもべは、その主のうちにあったこのようなあわれみの心に動かされて、最も小さき者のためにも喜んで身を低めるべきである。
バプテスマのヨハネの日以来、「天の御国が激しく攻められている」(マタ11:12)のはなぜかといえば、慰め深い真理が平明に、だれにでもわかるようなしるしをもって明らかに示されたために他ならない。それゆえに人々は大きな影響を受けて、そうした真理を激しく追求するようになったのである。
キリストはあわれみを説く者として、聖ペテロや聖パウロのように、最も大きなあわれみを受けた者を選ばれた。それは彼ら自身が自分の教えの実例となるためであった。聖パウロは、「すべての人に対してすべてのものと」なり(Iコリ9:22)、人々の益のため彼らの低さまで身をかがめた。キリストは天から下り、魂に対する優しき愛のゆえに至高の権威を捨てられた。だのに私たちは貧しい魂の益のために自分の高慢から下りようとしないというのか。神がへりくだられたあとで人が高ぶっていてよかろうか。私たちはサタンの使いが「ひとりの改宗者をつくるために」自分の姿をいかようにも変えるのを見る(マタ23:15)。イエズス会士はどんな人間にもなるであろう。野心家は出世の手づるをつかもうと人のごきげん取りに精力を傾ける。では私たちは自分を引き上げてくださるキリストのため、否、すでに私たちを天の所で御自身とともに座らせてくださったキリストのみこころに沿うため励み努めるべきではないか。私たちは自分がキリストのものとされたあと、他の人々がキリストのものとなるよう努めるべきである。聖き野心と聖き貪欲は私たちを動かしてキリストの心を身につけさせるであろう。だがその前に私たちは自分を捨てねばならない。
第三に、私たちは彼らの頭を好奇心をそそるような、あるいは「疑いを招くような議論」で悩ませてはならない(ロマ14:1)。それは彼らの気を散らし、うんざりさせ、何もかもどうでもよいことだと思わせるようになるからである。教会が才気ある議論で最も豊かだった時代は、信仰的に最も不毛な時代であった。そうすることによって人は宗教を、難問を出したり解いたりするだけの、才知しかかかわらぬ問題だとしてしまったのである。このように考える人は普通、その心よりも頭の方が熱心になるものである。
とはいえ、中心的な真理が疑われるような時代、境遇に立ち至ったときには、人々をしっかり立たせる努力をしなくてはならない。神は私たちの愛をためし、私たちの才幹を用いさせるために、しばしば問題が起こることを許される。疑われたあと確かだったものほど確実なものはない。雨降って地固まるという。もっとも、疑い深い時代にキリスト者として立ち、何が自分の魂のよりどころなのかを知るにはかなり賢くなければならない。そのようなときに天国への道から石ころを取り除いてやって、その道を平坦にしてやることは愛のつとめである。したがって私たちは議論を避けるという見せかけのもとに、敵方が真理に勝ちをおさめるのをみすみす許すようなことがないよう注意を払わねばならない。さもないと、私たちは手もなく神の真理と人の魂の両方を売り渡すことになるのである。
同様に、あまりに厳格に過ぎて、慰めを求めてやって来た悩める魂を追い返すような者も悪い牧師である。このような態度によって人はその誘惑の炎を抑圧して、内に燃やすことになる。その悲しみを洗いざらい打ち明けて、魂を安んずるべきふところがどこにもないからである。
また神が解いたものを結び合わせ、神が結び合わせたものを解き、神が閉ざしたものを開き、神の開いたものを閉ざすようなことも、やはりしてはならない。過ちを犯さぬためには鍵を正しく用いることである。個人的な勧告をするときは大いに注意しなくてはならない。にせ預言者であっても真理を語ることはできるからである。もしも勧めとして相手にふさわしくない真理を語ったり、時宜を得ぬ真理や良くない形の慰めによって「神が悲しませなかった者を悲しませたり」(哀3:33)[エゼ13:22]するようであれば、悪者の心を力づけることになるであろう。ある者にとっての肉は他の者にとって猛毒かもしれない。
このようなおりの一般的な気質に注意するならば、人をかき立て目覚めさせるようなみことばが最適ではあろう。だが多くの砕けた魂は優しく柔らかな言葉を必要としている。預言者たちは最悪の時代にあってさえ、隠されている信仰深い残りの民のために甘やかな慰めを混じえたものである。神には慰めがある。「角笛のように声をあげよ」(イザ58:1)。だがそれと同じように、「慰めよ。わたしの民を」(イザ40:1)。
しかしここでも注意が必要である。あわれみによって正しい判断力を奪われ、悪臭を放つ燃え木をくすぶる燈心と取り違えるようなことがあってはならない。当然厳格に扱われるべき者どもにまさってあわれみを叫び立てる者はないであろう。今まで述べてきたことはなまぬるさを大目に見、覚醒の必要がある者を甘やかすものではない。冷たい病には熱い治療をせねばならぬ。これは「悪い者をがまんすることができなかった」エペソの教会を賞賛するものである。私たちは他の人々を忍ばねばならないが、それと同時に悪への嫌悪をも明らかにしなくてはならない。私たちの救い主キリストは最愛の弟子たちのうちに危険な欠陥があるのを見るとき、鋭く叱責せずにはおかなかった。敵の脾腹に剣を突き刺すときのような、真の厳しさをもってふるまう場合ですら、「主のわざをおろそかにする者は」のろわれるのである(エレ48:10)。私たちがその最悪の敵たる罪に売り渡してしまった者らは、かの日に私たちをのろうべき正当な理由があるであろう。
私たちにまさる霊の助けなくして、あわれみと厳格の正しい境界を守ることは困難である。私たちはその霊がすべての点について導いてくださるよう願わなくてはならない。「分別を住みかとする」かの知恵(箴8:12)は、こうした微妙な点において私たちを導いてくれるであろう。この知恵なくして徳は徳たりえず、真理は真理たりえないものである。規則と個々の事情はあわせて考えなくてはならない。精密な洞察なしには、見たところ似たような状況は私たちの判断を誤らせるであろう。教皇制のあの激烈で破壊的な精神は、残虐によっておのれの宗教の勢いを伸ばそうとするが、明らかに上から来た知恵とは別物である。上からの知恵は人を優しく穏やかにし、自分が以前受けたあわれみを喜んで示そうとさせるものである。穏和と寛容による支配こそキリストのこころにかない、人の本性にもかなう道である。
それにもかかわらず、寛容を要求する者らのうちにはしばしば偽りの心がひそんでいる。この者らが寛容を求めるのは、ただおのれのたくらみを一層容易になさんがためであって、ひとたび有利な立場に立つと、今他者にやかましく求めているこの寛容を自分で示すことはほとんどない。同じように一種の高慢な寛容心というものもあって、これは人が対立する二派の間にあって、自分が一番賢いかのように双方を非難しようとするときに現われる。だが正しい心さえ持っていれば、第三者の方が争いの渦中にある人よりもよくものが見えるものである。
(第9章につづく)
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