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第7章----キリストは小さく弱くはじまったものを消さない。

 教理. 二番目に教えられるのは、キリストはくすぶる燈心を消さないということである。第一に、この火花は天から来たものなのだから、キリスト御自身のものであり、御自身の御霊によって点されたのである。第二に、暗闇の中の光、腐敗の濁流のさ中にある火花を守られることでキリストは、子らのうちに働く御自分の力強い恵みの栄光を高められるのである。

 この小さな火花の中には格別の祝福がある。「ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、『それをそこなうな。その中に祝福があるから』という」(イザ65:8)。私たちは、私たちの主がいかに疑うトマスを忍ばれ、いかに「あの方はイスラエルを贖うため来られたのではなかったか」とつまづき惑いながらエマオへ向かっていた弟子ふたりを忍ばれたかを見るのである(ヨハ20:27; ルカ24:21)。主はペテロのうちで窒息しそうになっていた小さな光を消されなかった。ペテロは主を否んだが、主はペテロを否まれなかった(マタ26)。「主よ、みこころでしたら、私をきよめることがおできになります」、と福音書の中である哀れな男は云った(マタ8:2)。他の男は、「もし、おできになるのでしたら」、と云った(マコ9:22)。ふたりともこのくすぶる燈心だったが、どちらも消されなかった。もしキリストが御自分の威光を重んじておられたならば、もし、と云ってみもとに来る者などはねつけたであろう。しかしキリストは、この男の「もし」に対して恵み深く確かな赦しをもって答えられた。「わたしの心だ。きよくなれ」。かの流出の病に苦しんでいた女はたださわっただけで、しかもふるえる手で、ほんの着物のはしにさわっただけであったが、それにもかかわらず癒され、また慰められて帰っていったのである。あの7つの教会において(黙2-3)私たちは主がどのような美点も認め、いつくしまれるのを見る。弟子たちが悲しみに心ふさがれ、弱さから眠りこんでしまったとき、私たちの救い主キリストは慰め深いことばで彼らを許してくださった。「心は燃えていても、肉体は弱いのです」、と(マタ26:41)。

 もしキリストがあわれみ深くなければ、御自分の目的を果たすことができぬであろう。「あなたが赦してくださるからこそ、あなたは人に恐れられます」(詩130:4)。今やすべての者が、主が御自分の民の上にかかげておられる旗の下に喜んではせ参じようとしている。「みもとにすべての肉なる者が参ります」(詩65:2)。主は穏やかでいつくしみ深い。さもなければ、「わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てる」(イザ57:16)。聖書によればキリストは、「人々が食べるものを持っていないのを見て、動けなくなるといけない」、と心からあわれまれたという(マタ15:32)。ではなおさらのこと、主は私たちが霊的に弱りこんでしまわぬよう配慮してくださるに違いない。

 ここに、キリストの聖い御性質と汚れた人の性との間に見られる全く逆の性向を見よ。人はほんの少し煙がけぶっても光を消してしまう。だが私たちは、キリストがどのようにかぼそくはじまったものをも常にいとおしまれるのを見るのである。いかに主は、不肖の弟子たちの多くの欠点をこらえてくださったことか。主が彼らを厳しく戒められたとしても、それは愛から出たことであり、彼らがいっそう明るく輝くためであった。私たちの模範として、私たちが救いの望みをかけるこの主の態度以上のものがあろうか。「私たち力のある者は力のない人たちの弱さをになうべきです」(ロマ15:1)。「私はすべての人に対して、すべてのものとなりました。それは何とかして幾人でも救うためです」(Iコリ9:22)。おゝ、この、人をかちとろうという心がもっと多くの人のうちにあればよいのに! 私たちのあずかるところで、励ましを欠くため失われていく人が大勢いる。かの忠実な人間を取る漁師、聖パウロがいかに熱心に自分の審問官をとらえようとしたかを見よ。「あなたは預言者を信じておられると思います」(使26:27)。そして彼は、鎖は別として、自分の持っている救いの恵みすべてをあなたにも持ってほしい、と云うのである。彼はさらに言葉を重ねることもできたが、好意しか見せていない人の心をくじきたくなかったので、信仰の良いところだけを告げようとした。私たちのほむべき主はいかに小さき者らがつまづかぬよう心を配ってくださったことか(マタ12-13)。主はいかに弟子たちをパリサイ人らの悪意に満ちたそしりから守ってくださったことか! いかに新しい葡萄酒を古い皮袋に入れず(マタ9:17)、いかに初信の者が(無分別な、ある者たちのように)信仰生活の厳格さによって離れていかぬよう配慮してくださったことか! おゝ、わたしが去れば、彼らは断食する時があろう、聖霊がのぞまれるときには断食する力があろう、と主は云われるのである。

 取るに足らぬちょっとしたことですぐに若い初信の者を責めるのは最上の策とは云えない。むしろ彼らには、さらにすぐれた道を示し、認めはげます方向で育ててやるがいい。そうすればその他のことは彼らのうちからじきになくなってしまうだろう。彼らの欠けを隠してやり、失敗を許し、行ないをほめ、熱意をいつくしみ、行く道から障害を取り除き、できるだけ楽に信仰のくびきが負えるようあらゆる面で助けてやり、知らないうちから食わずぎらいにならぬよう神と神への奉仕に対する愛を教えてやること、これらは当を得たことである。私たちの見るところ殆どの場合キリストは、若い初信者にいわゆる「初めの愛」(黙2:4)と呼ばれる愛を植えつけ、彼らが喜びをもってその信仰告白を貫けるようにしてくださり、また彼らに力がつくまでは試練にさらされない。これは若い草花が根づくまでは囲いをして悪天候から守ってやるのと同じである。私たちは弱い者につまづきを与えるような恐れのあるときは、正当な自由であっても他人に対するあわれみの心から自分の欲求を抑えるべきである。つまづきを受けるのは「小さな者たち」である(マタ18:6)。弱い者は自分が軽蔑されていると誰よりも思いこみやすい。それゆえ私たちは慎重に配慮して彼らを満足させるべきである。

 何のつまづきも与えず、一方何にもつまづかないというのは、キリスト者の大きな戦いであろう。最もすぐれた人は自分に厳しく、他人に優しいものである。

 だが人は自分を忍んでくれている人をうんざりさせ、がまんできぬようにするべきではない。またいくら弱い者だからといって、自分をいたわってくれと要求し、甘えて好き勝手にふるまい、自分の弱さの上にあぐらをかくようなことがあってよかろうはずがない。これは自分の魂を危険にさらし、教会に恥辱を招くもとである。

 教会は弱い者らによって大いに傷つけられるのだから、私たちは当然彼らを穏やかに扱うのと同様、それと同じだけ断固として扱ってよいはずである。真の愛はその人が良くなることをめざすものだが、これは何でも包み隠そうという態度によって妨げられることが多い。ある者に対しては柔和な愛が一番効き目のあるものだが、ある者は笞を必要とする。ある者らは荒々しく「火の中からつかみ出され」なければならない(ユダ23)。彼らも訪れの日には私たちのゆえに神をたたえるであろう。私たちは、私たちの救い主がかたくなな偽善者を相手にする際には災いに災いを重ねるのを見るのである(マタ23:13)。偽善者らの思いはよこしまなので、だれから見てもあからさまな罪人よりも強く罪を確信しなければならない。そういうわけで彼らの回心は激しいものとなるのが普通である。かたい結び目には適当なくさびを打ち込まなくてはならない。さもないと私たちは、残酷なあわれみの心によって彼らの魂を欺くことになる。厳しい叱責は時として尊い真珠となり、甘やかな香油となる。安心しきった罪人の傷は甘い言葉では癒されない。聖霊は鳩のかたちもお取りになるが、炎の舌となってもおいでになるのであり、その同じ聖霊が私たちの言葉と行ないに塩で味をつける思慮と分別の霊を与えてくださるのである。そうした知恵が私たちに、疲れた者に対しても、安逸のうちにある魂に対しても、「時にかなったことばを語る」ように教えるのである(イザ50:4)。そしてそのような者はまさしく、立ち上がらされるにせよ、倒されるにせよ、「教えを受けた者の舌」(イザ50:4)が必要である。だが私はこの箇所では、疲れ切り、自分でもそのことを自覚している者に対する優しさについて語ろうと思う。私たちはこうした者を穏やかに訓育し、ヤコブがその家畜の群れを駆ったやり方にならうべきである(創33:14)。彼は、群れの歩みに会わせ、また子どもらが耐えられるようゆっくり進んだのであった。

 弱いキリスト者は、ちょっと手荒に扱っただけで傷のつくグラスのようなものであり、やさしく扱えば長保ちするのである。私たちは「弱き器」(Iペテ3:7)に対してはこのようにやさしい扱いをして尊重すべきである。そうすることは彼らを守ることになり、また彼らを教会と私たちにとって有益なものにできるのである。

 不健康な肉体から悪い体液をすべて出すとすれば、いのちも何もかも追い出すことになろう。それゆえ神は、「銀を練るように彼らを練る」と云われたが(ゼカ13:9)、「あなたを練ったが、銀の場合とは違う」(イザ48:10)、すなわち、何のかすも残らぬよう厳格にはしなかった、と云われる。神は私たちの弱さを考えてくださるからである。完全な精錬は、完全な人々の魂が住む、次の世のものである。

(第8章につづく)

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