HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT

第6章----恵みは腐敗と混じりあっている。

 所見2. しかし恵みは僅かであるばかりでなく、腐敗と混じりあっている。ここからキリスト者はくすぶる燈心と云われるのである。ここに私たちは、恵みが一度に腐敗を滅ぼしつくすわけではなく、腐敗のある部分は残されて、それが戦いを挑んでくることを見る。この世で最も清らかな人の最も汚れなき行ないですら、キリストによって芳香をつけてもらう必要がある。またそれがキリストの職務でもある。私たちが祈るときには、その祈りの欠陥を赦してくださるようにもキリストに祈らなければならない。このくすぶる燈心の例をいくつか見てみよう。紅海のほとりでモーセは非常に思い悩み、云うべき言葉にも転ずるべき道にも窮して、神に向かってうめき声をあげた。これは疑いもなく彼のうちに大きな戦いがあったのである。非常な思い煩いのうちにあるとき、私たちは祈るすべを知らない。だが御霊は云うに云われぬうめきをもって祈りの声を上げてくださる(ロマ8:26)。砕けた心は砕けた祈りしかできない。

 ダビデはガテの王の前でぶざまに醜悪な姿をさらしたが(Iサム21:13)、この煙のうちにもいくらかは火があった。後に彼はこのときのことを素晴らしい詩篇にしている(詩34)。そこで彼はこの経験に基づき、「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられる」、と語る(18節)。詩篇31:22を見ると、「私はあわてて云いました。『私はあなたの目の前から絶たれたのだ』、と」。ここには煙がある。「しかし、あなたは私の願いの声を聞かれました」。これは火である。「先生、私たちがおぼれて死にそうでも何とも思われないのですか」(マタ8:25)、と弟子たちは叫ぶ。ここには不信仰の煙があるが、それでも彼らを奮い立たせてキリストに祈り求めさせるだけの信仰の光がある。「主よ。信じます」。ここには光がある。「不信仰な私をお助けください」(マコ9:24)。ここには煙がある。

 ヨナは叫ぶ。「私はあなたの目の前から追われました」(2:4)。ここには煙がある。「しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです」。ここには光がある。

 「私は、ほんうとにみじめな人間です」(ロマ7:24)、と自分の腐敗を感じて聖パウロはこう語るが、私たちの主イエス・キリストのゆえに神への感謝をほとばしらせるのである。

 「私は眠っていました」、と雅歌の中の教会は云う。「が、心はさめていました」(雅5:2)。かの7つの教会はその光のゆえに「七つの金の燭台」と呼ばれているが(黙2-3)、そのほとんどは光とともに煙をかなり混じえていた。

 このように煙と光が混じりあっているのは、私たちが恵みと天性という二重の原理をかかえているためにほかならない。これは特に、私たちが本性上どうしても突き進んで行きがちな、かの2つの危険な岩礁、すなわち安逸と高慢から私たちを守るためである。そしてまたこれは私たちを、不完全であるばかりか汚点のしみついた聖化にではなく、義認の上に自分の安息を置くようかりたててくれる。

 私たちの霊的な炎は、普通の炎と同じく下の方では混じりものである。しかし、上の方の炎に混じりけが全くなく純粋であるように、私たちの恵みもみな、私たちが自分の本来の居場所、やがて行くべき天にいるときには、最も純粋なものとなるであろう。

 適用. この2つが混じりあっていることから、神の民は恵みのわざを見るときもあり、腐敗の残滓を見るときもあって、自分について全く異なった判断を下すことになる。そして腐敗を見るときには、自分には恵みがないのだと考えてしまう。確かに彼らは聖礼典のうちに、神の子らのうちにキリストを愛しているのだが、自分がキリストのものであるなどと主張するほどには親しい関係をあえて求めることができない。ちょうど燭台の上のろうそくに、時には光が見え、時には光が見えなくなるのと同じように、彼らも時には確信を持つが、時には全く途方にくれてしまうのである。

(第7章につづく)

HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT