第5章----恵みははじめごく僅かしかない。 第二のこととして、神はくすぶる燈心を消すことなく、むしろ息を吹きかけてそれを燃え立たせてくださる。くすぶる燈心には光がかすかにしか見えず、この燃え上がることのできぬ弱々しい光は煙と混じりあっている。
ここに見られる教えは、第一に、神の子らのうちには----特にその回心初期には----恵みはほんの僅かしかなく、この僅かな恵みに、煙のごとく不快な腐敗がおびただしく混じりあっているということ。第二に、キリストはこのくすぶる燈心を消さないということである。
所見1. まず第一に、恵みははじめごく僅かである。キリスト者にはそれぞれ異なった時期というものがあって、ある者は幼子であり、ある者は若い者である。恵みは「からし種」のようなものである(マタ13:31)。はじめは恵みほど小さなものはないのだが、後になるとこれほど輝くばかりに壮大なものはない。高等な生き物ほど、成熟するには長い時間がかかる。最高の被造物たる人間は次第次第に成熟していくが、きのこだの何だのといったどうでもいいようなものは、ヨナのとうごまのごとく、生え出たかと思えばたちまち失せていく。新しく造られた者はこの世で最も精緻な仕組みのものであり、したがって少しずつ成長していくものである。私たちは自然を見ても大きな樫の木が一粒のどんぐりから生ずるのを見るのである。キリスト者はエッサイの枯れた切り株から芽生えたキリストと似ている(イザ13:2)。主はダビデの家が最も落ちぶれ果てたときに現われたが、天よりも高く育った。義の木は楽園に生えていた木々とは違って、はじめから成木として創造されるわけではない。この美しい世界のあらゆる被造物はもともとあの原初の混沌とした塊の中に隠されていたのだが、神が命ずるとその中からすべての被造物が生じたのである。小さな種の中には幹も枝も、芽も実も隠されている。僅かな原則の中には聖なる真理の慰めに満ちた結論がすべて隠されている。聖徒らのうちに見られるあの華麗な、花火のごとき熱心と聖潔は、みなかすかな火花1つから生じたのである。
それゆえ私たちは、恵みがはじめ少なくとも失望することなく、自らを「聖く傷ない者となるため選ばれた者」とみなすがいい。自分がはじめは不完全であっても、ただそれによってより一層力を注いで完全を目指して戦うようにし、常にへりくだっているようにするだけにしなさい。また、落胆したときには、キリストは自分を御自身にふさわしい者にしようとしておられるのだと考えなさい。キリストも私たちをそのような者と見ていてくださるのである。キリストは私たちを、私たちの将来の姿に従って評価し、私たちの選びの目的に従って私たちをはかられる。私たちが小さな苗木をも木と呼ぶのは、それがやがて大きな木に育つことを知っているからである。「だれがその日を小さな事としてさげすんだのか」(ゼカ4:10)。キリストは私たちが小さな事をさげすむのを喜ばれまい。
栄光に輝く御使いたちは小さい者らに仕えることをいとわない。彼ら自身の目には小さく見え、世の目にも小さく見える者たちなのだが。
恵みは量としては小さくとも、その力と価値は大いなるものなのである。
小さく、みすぼらしい場所や人々の価値を高めるのはキリストである。小さきベツレヘムは決して一番小さくはない(ミカ5:2; マタ2:6)。それ自体としては最も小さかろうが、キリストがそこでお生まれになったことを考えると決してそうではない。第二の宮は、外見の壮大さは先のものに劣った(ハガ2:9)。だがキリストがお入りになったのであるから、その栄光は第一のものよりもまさっている。神殿の主が御自分の宮に入られたのである。瞳は非常に小さなものだが、天の果てしなき広がりを一望にできる。真珠は小さくともたいへんな価値を有している。この世の何物も、ほんの僅かな恵みほどにすぐれてはいない。
(第6章につづく)
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