第4章----真にいたんだ者のしるし。----彼らをいためる手段と方法、またそうした者への慰め。
反論. だが自分が果たしてあわれみを待ち望めるような者かどうかどうして知りうるのか。
答え 1. ここで云ういたんだ者とは、単にさまざまな苦難によって打ちひしがれた者のことではなく、そうした苦難によって自らの罪を見つめさせられた者を指している。罪はあらゆるものの中で最も人をいためるものである。良心が罪の意識に悩まされるとき、あらゆるさばきは魂に対する神の怒りを告げ、これ以下の苦悩はすべてこの罪の意識という大きな苦悩に行き当たる。あたかも腐った体液がみなからだの病んでいたんだ箇所へ向かうように、またひとたび捕らえられた債務者の上にはあらゆる債権者が群がってくるように、ひとたび良心が目覚めると以前犯した罪と現在の苦難は手に手を取り合ってこの傷口に塩をすり込むのである。さて、このようにいためられた者は自分をいためたお方のあわれみ以外、何物をもってしても満足しない。「神は傷つけたのだ。いやしてくださるに違いない」(イザ61:1)。主よ、あなたは私の罪にふさわしく私をくじかれました。今再び私の心を包んでください、というように。2. また、真にいたんだ者は罪を最も忌まわしいものとみなし、神のいつくしみを最も素晴らしいものと考える。3. 彼は御国のことより、むしろあわれみのことを聞きたいと思う。4. 彼は自分を全く卑しむべき者だと思い、地の上に立つ資格もないと考える。5. 彼は、神の御手にある他の人々を、当然の報いだなどと冷たく見ず、むしろ彼らに対する同情と思いやりでいっぱいになっている。6. 彼は神の御霊の慰めのうちに歩む者を世界で最も幸福な人と考える。7. 「彼は神のことばにおののき」(イザ66:2)、自分に平安をもたらす幸いな器とされた人の足をさえ尊ぶ(ロマ10:15)。8. 彼は形式的な儀式よりも砕かれた心の内側で礼拝を行なうことに、より意を用いる。しかし、慰めを伝えるための聖なるすべての手段も用いることもおろそかにしない。
問い. しかし、どうすればこのような心を持てるようになるのか。
答え. まず私たちは、こうして私たちをくじくことは、神が私たちにもたらす状態か、私たちが自ら行なうべき務めであるとみなさなくてはならない。ここではその両方が意味されている。神が私たちをへりくだらせるときには、自らへりくだって神に逆らい立たないようにしなさい。というのは、もしそうしなければ神は私たちを打ちすえる手をさらに強められるからである。また私たちに対するキリストのお取り扱いはすべて私たちを本心に立ち返らせるものであることを覚えて、あらゆる懲らしめにおいてキリストの正しさを認めなさい。私たちをくじく主のわざは、私たちが自らをくじくのを助ける。自分のかたくなさを嘆き、こう云いなさい。主よ、これらすべてを必要とし、これらのうち1つも容赦されないとは、私は何という心を持っているのでしょう!と。自らの心のかたくなさを包囲し、力の限り罪を攻め立てなさい。私たちは、私たちのために砕かれたキリストを見つめなくてはならない。私たちが自分の罪で刺し貫いたお方を見つめなくてはならない。しかし、いかなる心得も、神がその御霊によって私たちの罪を私たちにつきつけ、私たちを追いつめ、強く確信させてくださるのでなければ役に立たないであろう。そのとき初めて私たちは、あわれみを懇願するのである。罪の確信は悔悟を生み、そしてこのへりくだりを生む。したがって、神が私たちの魂のあらゆるひだに明瞭な強い光を当ててくださり、それと同時に、力の霊をもって私たちの心をへりくだらせてくださるように願いなさい。
私たち自身をくじく決まった手段などというものは規定できないであろう。しかし、1. 私たちにキリストを何よりも重んじさせ、自分に救い主が必要であることを認めさせ、2. たとえ右腕を切り落とし、右目をえぐり出すことになろうとも、誤ったところを正すよう私たちを導いてくれるものである限り、それは私たちをくじく手段と云える。一部には自らをへりくだらせるこの務めを軽んずる危険な風潮があって、キリストがいたんだ葦を折らないということをもっともらしく云い立てては、それを口実におのれの心を徹底的に扱おうとしない者がいる。しかしこのような者は、にわかに恐怖に襲われ、つかの間悲しみに沈んだからといって、いたんだ葦になるわけではないことを知らなくてはならない。私たちをいたんだ葦とするのは、「葦のように頭を垂れる」ことではなく(イザ58:5)、私たちの心を嘆かせて罪を刑罰よりも厭わしいものとし、罪に対して聖い意味での暴力をふるうまでに至らせる務めなのである。そこまでしなくては、私たちは自分をいたわりすぎて、結局神によってくじかれる部分を残し、後で痛切に後悔することになるであろう。確かに人によっては、自分を砕くこの務めをあまりにも長く過度に押し進めるのは危険である。彼らは再び元気づけられる前に苦痛と重荷から死んでしまう。だから種々雑多な人々が集っている集会では、慰めの言葉をもまじえるのがよい。あらゆる人が、それぞれふさわしい分を受けるためである。しかしキリストのうちには私たちの罪にまさるあわれみがある、ということをしっかり抑えている限り、心の徹底的な取り扱いには何の危険もない。くじかれて天国へ行く方が、無傷で地獄に落ちるよりもましである。したがって、あまりにも早く自分を赦すことも、傷のいやされる前に膏薬をはぎ取ることもしないようにし、何にもまさって罪が厭わしいものとなり、何にもまさってキリストが甘やかなお方となるまで、この務めのもとにおのれを従わせなさい。また、いかなる神の御手の下にあるときも、私たちの悲しみを他のものからすべての根源たる罪に向けるのがよい。私たちの嘆きはすべてこの流れに沿って流して、罪が嘆きを生むがごとくに嘆きが罪を焼きつくしてしまうようにしなさい。
問い. だが罰を嘆くよりも罪を嘆くのでなければ、私たちはいたんだ葦ではないのか。
答え. ときには外的な苦しみから来る苦悩の方が、神のみこころをそこなった苦悩よりも魂に重くのしかかるときがある。それはこのような際、その苦悩は内的にも外的にも人間性全体に影響を及ぼして、僅かな信仰の火花のほか、これを押しとどめるものが何もなくなるからである。そしてこの信仰すら、激しい苦悩が押しよせる前には一時的にその働きを止めてしまう。これは苦悩が奔流か洪水のごとく突如として魂に襲いかかるとき最もよく感じられるところである。特に肉体が病んだときには、魂と肉体が同時に同じ苦しみを味わうため、霊的自由ばかりか肉体的自由まで妨げられてしまうほど魂が圧倒される。こういうわけで聖ヤコブは、苦しむ人には自分で祈れと云いながら、病のおりには「長老たちを招く」ように云うのである(ヤコ5:14)。それは彼らが、自分の今の状態を祈ることのできない病人を、その祈りによって、あの福音書に記されている人々のように神のもとに連れていくためであった。こういうわけで神は、ダビデの詩篇にあるような、悩める者の激しく悲痛な嘆願を祈りと認めてくださるのである(詩6ほか)。「主は私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる」(詩103:14)。主は私たちの力が鋼の力ではないことを知っておられる。これは被造物たる私たちに対する神の真実さを示す1つの例である。ここから主は、「真実であられる創造者」と呼ばれるのである(Iペテ4:19)。「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません」(Iコリ10:13)。律法の中には、ユダヤ人が囲いの律法と呼ぶものがいくつかある。人を残酷なふるまいの中に立ち入らせないため神は、「母鳥と小鳥といっしょに取ってはならない。また子やぎをその母親の乳で煮てはならない」(申22:6; 出23:19)と語り、「穀物をこなしている牛にくつこをかけてはならない」(Iコリ9:9)と命じられた。獣をも心にかけてくださる神が、獣よりさらに高貴な被造物を心にかけてくださらないわけがあるだろうか。したがって、このような状況にある神の民が絞り出したつぶやきの声は、愛をもって見るべきである。ヨブはあれほど激しく愚痴を述べ立てたにもかかわらず、神からよく耐え忍んだ者とみなされた。現在の苦境に抑えつけられている信仰はやがて再び力を得るであろう。罪に対する嘆きは、よし激しさの点では外的悲惨に対する嘆きに劣ろうとも、絶えることなく一貫して続くという点では一歩も二歩も先を行くのである。それは、鉄砲水のように急に増水した川は涸れ果てても、泉から湧き出ている流れは涸れないのに似ている。
この点の結びとして、また自分を徹底的にくじき、私たちをくじく神の御手の下でよく忍耐できるようになるための励ましとして、私はすべての人に次のことを知ってもらいたい。すなわち、自分ほど慰めから遠く隔たっている者はない、と自分で思う人ほど慰めを受けるにふさわしい人はない、ということである。たいていの人は、救い主の手が届かないほど失われてしまったと自分から感ずるようなことはない。私たちが聖い絶望に陥るとき、それは真の希望の基である(ホセ14:3)。みなしごは神のうちにあわれみを見出す。人はみなしごになればなるほど、父なる神の愛を天から感じるであろう。なぜなら至高の天に住まわれる神は、それと同じようにへりくだった魂のうちにも住まわれるからである(イザ66:2)。キリストの羊は弱い羊で、いつも何かしら欠けがある。だからこそキリストは、羊それぞれの必要に心を傾けてくださるのである。キリストは、「失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける」(エゼ34:16)。主は最も弱いものを最も優しく世話してくださる。主は小羊をふところに抱いて運ばれる(イザ40:11)。「ペテロ。わたしの羊を飼いなさい」(ヨハ21:15)。主は悩める魂に対して、最も心安く、最も寛容であられる。復活された後、主はいかにペテロや他の使徒たちが気落ちしすぎないよう心を砕いてくださったことか。「行って弟子たちとペテロに告げなさい」(マコ16:7)。薄情にも自分たちの主を見捨てて逃げたという罪の意識が彼らを意気消沈させていたのを主は知っておられた。主は、いかにやさしくトマスの不信仰を忍んでくださったことか。主はその脇に手をさし入れることを許すほど、彼の弱さまで身を低めてくださったのである。
(第5章につづく)
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