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第3章----キリストはいたんだ葦を折らない

 2. 第二の点は、キリストがいたんだ葦を折らない、ということである。医者は患者に激しい苦痛をもたらすが、いのちを奪うのではなく、かえってそれを養い育てる。外科医は患者を切り刻むが、手足を切り取りはしない。病気でわがままな子だからといって、わが子を捨てる母親はいない。では水源の方が支流よりもあわれみに欠くということがあろうか。私たちは自分たちの方が、私たちにあわれみという感情を植えつけてくださった神よりもあわれみ深いとでも思うのか。だがすべてのいたんだ葦に対するキリストのあわれみをより明らかに宣するため、キリストが御自分に結ばれた夫、牧者、兄弟などの慰めに満ちた関係を考えてみよ。これらの慰めの関係においてキリストは、最後までその責任を果たされる。というのは他の者らが自分の召された務めを主の恵みによって果たしているというのに、愛からこうした関係を取られたキリストが、しかもその関係たるや御父が課し、御自分が自ら進んで引き受けられたことに全く基づいているというのに、その務めを全うされないなどということがあるはずないではないか。主の優しいご配慮を示すために柔和この上ない動物から借りてきた子羊、めんどりなどの呼び名を考えてみよ。神ご自身が与えられたイエス、すなわち、救い主という御名を考えてみよ。その名に恥じない、「心の傷ついた者をいやす」(イザ61:1)という主の職務を考えてみよ。主のバプテスマのおり、聖霊が鳩のような形をして主の上に下られたのは、主が鳩のように優しい仲保者となることを示すためであった。預言者としてキリストは祝福のことばをたずさえてやって来られた。「心の貧しい者は幸いです」云々(マタ5:3)。そして心中自らを最も忌み嫌っているような人々をみもとに来るよう招かれた。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい」(マタ11:28)。「羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている群衆を見て」(マタ9:36)、主はいかに胸を痛められたことか! 確かに自分から主のもとを離れていった者はいた。だが主は決してみもとに来る者を拒まれなかった。主は神のしもべとして御自分の敵のため死ぬために来られたのである。肉体をとってこの世におられたとき、主は口ずから祈りの型を弟子たちに教えられ、彼らの口に神への祈願を与え、彼らの心にはとりなしをされる御自分の御霊を与えられた。そして今、主は天において神の怒りと弱いキリスト者らとの間に立ち、彼らのためとりなしておられる。主は御自分の血を流した者どものために涙を流しておられる。かくも主は柔和な王なのである。嘆く者が御前に出ることをとがめない、貧しき者や苦しめられている者の王なのである。主はその威光の輝きに劣らず、あわれみ同情する心を持っておられる「平和の君」(イザ9:6)である。主が「試みを受けられたのは、試みられている者たちを助ける」ためでなくて何であろう(へブ2:18)。恵みを賜うため御自分の上に私たちの性質を取ってくださったほどに恵み深い仲保者(Iテモ2:5)から望めないようなあわれみがあろうか。主はあらゆる病に通じた名医であり、特に傷ついた心をいやすわざに長けておられる。主が死なれたのは、御自分の血という膏薬で私たちの魂をいやし、おのれの罪によって我とわが身を売っていたような私たちを、その死によって救うためであった。では主は今も天においてその同じあわれみの心を持っておられないだろうか。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」(使9:4)、と叫んだのは、地上の足をふみつけられた天上のかしらであった。上に引き上げられたからといってキリストは御自分のからだを忘れられたわけではない。確かに主は痛み苦しみからは自由になったが、私たちに対する同情心まで解き放ちはしなかった。ユダ族の獅子が千々に引き裂くのは、ただ彼が「王になるのを望まなかった」者どもだけである(ルカ19:27)。彼は御自分の前にひれ伏す者らに対しては力をもってはのぞまれない。

 適用1. ここで私たちは、何にもまさって、どのような苦悩のうちにあろうと「大胆に恵みの御座に近づく」(へブ4:16)ことを学ぶべきである。キリストがただ罪人のためだけにその恵みの御座についてくださるというとき、自分に罪があるからといって私たちは落胆すべきだろうか。あなたは心傷んでいるか? 元気を出しなさい、主はあなたを呼んでおられる。あなたの傷をかくさず、すべてを御前にさらけだしなさい。サタンの勧めに従ってはならない。おののきながらでもキリストのもとに行きなさい。あの哀れな女のように、もし「その着物のふさにでもさわることができさえすれば」(マタ9:20)、私たちはいやされ、恵み深いお答えをいただくであろう。肉のまま大胆に神のもとに行きなさい。私たちが大胆にみもとに行くことができるためにこそ、主は私たちの肉の肉、私たちの骨の骨なのである。神のもとに行くことを決して恐れてはならない。なぜなら私たちには私たちの友であるばかりか兄弟であり夫である仲保者が神のみそばにおられるからである。御使いらが天より「見よ。私たちは喜びの訪れを告げに来た」(ルカ2:10)、と宣したのももっともであろう。使徒が「主にあって喜び、また喜ぶ」(ピリ4:4)ように私たちを奮い立たせるのももっともであろう。彼はどのような根拠に立ってものを云っているかよく知っていたのだ。平安と喜びは主の王国に実る2つの大きな果実である。世にあって喜べないというのであれば、世にはそのなすにまかせるがいい。だが私たちは主にあって喜べるのである。主がおられればどのような状況も心安らぐものとなる。主は、幽霊を見たと思っておびえている弟子たちに云われた。「安心しなさい。わたしだ」、と(マタ14:27)。それはあたかも、御自分がおられれば恐れることは何もないのだ、というかのようであった。

 適用2. 自分がくじかれたように感ずるときには、次のことを覚えなさい。キリストは普通はじめに傷つけ、その後でいやすのである。無傷で砕かれないままの魂が天国に入ることは決してない。試みのおりには思いなさい。キリストは私のために試みられたのだ、やがては今の試みに従って、恵みと慰めが与えられるだろう、と。もしキリストがあわれみ深く私を折らずにいてくださるのならば、私は絶望のあまり自分から自分を手折ったりはすまい、私を粉々に打ち砕こうとしている、ほえたける獅子サタンに身をゆだねたりはすまい、と。

 適用3. 第三に、キリストとサタンやその手先との間に見られる正反対の性向を見よ。シメオンとレビが「シェケム人たちを彼らの傷が痛んでいるとき」襲ったように(創34:25)、サタンは私たちが最も弱り果てているときに襲ってくる。しかしキリストは罪とサタンが私たちのうちに作り出した裂け目のすべてを繕ってくださる。主は、「心の傷ついた者をいやす」(イザ61:1)。そしてあたかも母が最も弱く病気がちな子どもを一番優しく扱うように、キリストも最も弱い者に最もあわれみ深く心を傾けてくださり、また同様に、最も弱き者のうちに自分よりも強い者に助けを求めてよりたのもうとする本能を授けられる。かくして葡萄の木は楡にからみつき、弱々しい生き物はしばしば最も強固な避け所を持つ。教会は自らの弱さを自覚するとき進んでその愛するお方によりたのみ、進んでそのみつばさの影に身を隠すようにされるのである。

(第4章につづく)

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