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第2章----キリストが取り扱わなければならないのはいたんだ者である

 このようにくじかれることは、[1]回心前に必要である。(1) それは、あらゆる高ぶった思いや高慢が打ち倒されて、心の中に御霊が入れるようにするため、また生まれながらの私たちが真実どのような者であるかを悟るためである。私たちは自分を直視したり、自らをかえりみたりすることを好まない。だが神が1つか2つ苦難を送って私たちをくじかれると、私たちは考えを巡らし、放蕩息子のごとくわれに返るのである(ルカ15:17)。

 怠惰で移り気な心をして真実あわれみを求めて叫ばせること、これは至難のわざである。私たちの心は悪者同様あらゆる手段をもって打ち叩かれなければ審判者のあわれみを乞い願おうとはしない。また、(2) このようにくじかれることによって私たちはキリストを尊び重んずるようになる。そのときはじめて福音が真に福音となるのである。道徳といういちじくの葉はこのようなとき何の役にも立ちはしない。そして、(3) これは私たちの感謝を増し、(4) 感謝の念から私たちの生活はより実を結ぶものとなる。多くの人々がかくも冷たく、またかくも実を結ばないのは、一度も罪のためにくじかれたことがなく、自分に対する神の恵みが慕わしいものとなっていないためにほかならない。同じように、(5) この神のお取り扱いは自分勝手な道にある私たちを打ち倒し、いためつけるので、私たちを一層神の道に堅く立たせてくれる。これはしばしば退歩や棄教の原因となるが、それは人が決して最初から罪を悔いようとしないために、彼らが律法の笞の下に十分長く留まっていなかったことによるのである。したがって、あらゆる高ぶりを打ち砕く(IIコリ10:5)この御霊の、あまりかんばしからぬみわざは回心前に必要である。しかも、たいてい聖霊は罪を一段と強く確信させるために、何らかの患難を加えられる。こうした聖別された患難は、いやしと浄めの力を持っているのである。

 否、[2]私たちは回心後もくじかれる必要がある。それは、(1) 葦がおのれは葦であって樫ではないことを悟るためである。私たちのうちには天性の高慢が残っているので、自分があわれみによって生かされていることを悟らされるためには、葦といえどもくじかれなければならない。また、(2) 自分たちよりも強いキリスト者がぐらつき、いためられるのを見るとき、弱い者らもあまりにひどく落胆しなくなるからである。こうしてペテロはくじかれ、激しく泣いた(マタ26:75)。この葦はこの痛手を受けるまでは、髄のつまっていないうつろな葦であった。「たとえすべての者があなたを捨てても、私は捨てません」云々(マタ26:35)。神の民はこうした例なしには立ち行くことができないであろう。教会はかの偉大な人々の英雄的行為よりは、むしろ彼らの失敗や痛手によって慰められる。こうしてダビデはくじかれた(詩32:3-5)。偽らず、洗いざらい罪を告白するまで彼はくじかれた。否、彼の心の内にあった悲しみはつのりゆき、まさに骨を砕くような激痛とまでなったのである(詩51:8)。こうしてヒゼキヤは、神が雄獅子のように「私の骨を砕いた」、とその苦痛を訴える(イザ38:13)。こうして選びの器たる聖パウロは、分を越えて高ぶることのないように、サタンの使いから打たれなくてはならなかった(IIコリ12:7)。

 ここから私たちは、神が訓練のためにいためつけておられる者を、それが私たち自身であろうと他の人々であろうと、あまりにも厳しくさばいてはならないことを学ぶのである。もし私たちに私たちのかしら、すなわち、「私たちのために砕かれた」キリスト(イザ53:5)と似たところが少しもなければ、私たちは自分がどれほどキリストに結びついているか知ることができないであろう。世俗の輩は、神がその子らを天に至らせる方法を知りもしないで、心くじけたキリスト者をみじめな奴らだと非難する。だがそのとき神は、彼らに対して慈悲深く恵みのわざを行なっておられるのである。人を天性から恵みへ、恵みから恵みへと進ませるのは容易なことではない。私たちはそれほどかたくなで不従順なのである。

(第3章につづく)

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