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いたんだ葦とくすぶる燈心

リチャード・シブス


「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは」(マタイ12:20)

第1章----引用聖句の解きあかしと分解。葦とは何か。燈心とは何か。

 預言の霊のはばたきによって没我の境に引き上げられた預言者イザヤは、彼と肉体を取って現われたキリストとの間の時間をすべて飛び越え、預言と信仰の眼をもって、あたかも目の前にいるかのごとくにキリストを見、霊の眼を持つすべての者の前に、神の名において、ここにキリストを指し示している。曰く、「見よ。わたしの選んだわたしのしもべ」云々(イザ43:10)。この預言は、今やキリストにおいて成就した、とマタイは主張する(マタ12:18)。ここに提起されているのは、

 第一に、キリストのその職務への召命。
 第二に、その職務の遂行である。

 I. キリストの召命について: 神はここでキリストを正しいしもべ、またその他の呼び名で呼ばれる。キリストほど大きな務めを負った神のしもべはかつてなく、彼は選ばれたえりぬきのしもべであった。キリストのなされた行為、またその苦しみは、すべて御父の命によるものであった。そこに私たちは、キリストによる私たちの救いのわざをその最も大きな務めとみなし、また愛するひとり子をその務めに当てようという、神の私たちに対する甘やかな愛を見るのである。神が、「見よ」と前に置いて、私たちの注意と感嘆の念を最大限まで高めようとなされたのも、もっともなことである。試みのとき、不安におののく良心は、自らの陥っている現在の問題をあまりにも見つめすぎるので、その悲嘆にくれる魂が平安を見出すことのできるお方に目を向けるためには、まずその状態から呼び起こされなければならない。試みのうちにあるおりは、真の青銅の蛇、真の世の罪を取り除く神の子羊であるキリスト以外の何者にも目をやらぬのが最も安全である(ヨハ1:29)。救いを与えるこのお方の姿は、魂を慰める特別な力を有している。特に、私たちがキリストばかりでなく、キリストのうちにある御父の権威と愛に目を留めるときそうである。というのは私たちは、キリストが仲保者として行なわれ、苦しまれたすべての事柄のうちに、神がキリストにあってこの世をご自分と和解させておられることを覚らざるをえないからである(IIコリ5:19)。

 これは私たちの信仰にとって何という支えであろう。私たちが罪を犯した、その当の相手である父なる神が、かくも救いのわざをお喜びになるというのは。また、これは何という慰めであろう。神の愛がキリストの上にあり、またキリストを喜んでおられることを見るとき、私たちは、もし私たちがキリストのうちにあるならば神は私たちをも同様に喜んでくださる、と知るのである。なぜなら神はキリストと私たちを1つの愛で愛されるので、神の愛は、本来のキリストも、私たちと神秘的に結合しておられるキリストも同様に、全くキリストの上にあるからである。それゆえ私たちはキリストをいだき、キリストのうちに神の愛をいだき、かくも大きな務めをゆだねられた救い主の上に安心して自分の信仰を立て上げようではないか。

 私たちの慰めのため、ここで3つの位格がみな見事に調和しておられるのを見るがいい。御父はキリストにその務めをおゆだねになり、御霊はその務めの必要を満たし聖別なさり、キリストご自身が仲保者の職務を果たされる。私たちの救いは三位一体の三位格すべての合意の上に基づいているのである。

 II. キリストのこの職務の遂行について: ここには、これがこの世の王たちのよくするように物音を立て、埃を舞い上げながらやって来るような仰々しいものではなく、控えめなものであると記されている。「その声を聞く者もない」。もっとも彼の声が聞かれなかったわけではない。しかし、いかなる声であったか。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」(マタ11:28)。彼は叫ばれた。しかし、どのように叫んだのか。「ああ、渇いている者はみな来なさい」云々(イザ55:1)。また彼の訪れは控えめであると同時に穏やかであった。彼はいたんだ葦を折ることもなく云々、とある。ここに私たちは次の3つの事柄を見る。すなわち、-----

 第一に、キリストがどのような状態にある人々を扱わねばならないか。(1) 彼らはいたんだ葦である。(2) 彼らはくすぶる燈心である。

 第二に、彼らに対するキリストのお取り扱いである。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。ここには字面以上のことが語られている。というのは、彼は折ったり消したりしないばかりか、彼らをいつくしまれるからである。

 第三に、この優しいお取り扱いが常に変わらず前進していく点である。「公義を勝利に導くまでは」----すなわち、彼らの心のうちに生じた、きよい恵みの状態がその完成に至り、逆らい立つあらゆる腐敗に打ち勝つまでは、ということである。

 1. まず第一に、彼が取り扱われる人々は、いたんだ葦であり、くすぶる燈心である。大木ではなく葦であり、完全な葦ではなくいたんだ葦である。教会は弱いものにたとえられている。鳥のうちでも鳩に、植物のうちでも葡萄に、獣のうちでも羊に、また弱い器である女に。そしてここで神の子らは、いたんだ葦とくすぶる燈心にたとえられているのである。はじめに、いたんだ葦としての神の子らについて語り、その後でくすぶる燈心として語ることにしよう。まず最初に、

 彼らはその回心前に、そしてしばしば回心後にも、いたんだ葦である。回心前には、すべての人々がいたんだ葦であるが----ただし、教会の中で育てられ、神が幼少期よりその恵み深さを啓示するのをよしとしてこられた者たちは例外である----、どれだけ痛められるかは神のみこころに従って違いがある。またそれは、その人の気質や、才能、生き方その他によって変わるのと同様に、やがて神からどんな務めに用いられようとしているかによっても異なる。というのも神は通常、何らかの大きな奉仕に用いようとする人々を、はじめは全くむなしくし、まるで無価値なものとなさるからである。

 (1.) このいたんだ葦とは、たいていが、キリストのもとへ助けを求めてきた人々のように、何らかの悲惨のうちにある者である。そして、(2) 悲惨によって、その原因たる罪を見つめるようになった者である。なぜなら、いかなる見せかけを取ろうと、罪の最終的な目的は人を痛め、くじくことにあるからである。(3) 彼は罪と悲惨を自覚し、いたんだ者とまでなる。そして、(4) 自らのうちに何の助けもないのを見て、他者からの救いを狂おしいほど待ち望んでいる。いくばくかの希望をもって、おずおずと目を上げてキリストを見るが、即座にあわれみを要求するほど大胆にはなれない。この希望の火花は腐敗から来る疑いや恐れによって妨害されるので、彼はくすぶる燈心のようになってしまう。したがって、このいたんだ葦とくすぶる燈心という2つの例は、哀れな、打ちひしがれた者の状態を相伴ってうまく描き出している。私たちの主は、このような者を指して、心の貧しい者と云われたのである(マタ5:3)。彼は欠けを感じ、そればかりか自分が神の正義に対して負い目のあることを見、自分からも被造物からも何の助けも得られぬことを見るので悲嘆にくれる。だが約束により、またあわれみを手にした他の人々の例により、いくばくかの希望をかき立てられて、そのあわれみに飢え渇いている。

(第2章につづく)

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