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読者に寄せて

 これ以上の面倒は避けたいとの思いから、私は手を入れた上で自分の説教を公けにすることにしました。ある人々が、私の説教原稿のごく一部をもとに、これを出版しようとしていると聞いたからです。そこでまず、一番手元にあったこの説教を選んでみました。

 しかし、それはまた、最近ある人たちと話をしていて、この説教の内容について新たに考えさせられたためでもあります。その人たちの抱えている問題の大部分は、キリストの恵み深い御性質やキリストの職務を考えていないというところにありました。それらについて正しい理解を持つならば、キリストに喜んで仕えようという思いと、キリストからの慰めが泉のように湧き出すはずです。

 神は、私たちに与えようとする恵みと慰めのすべてを、キリストのうちに貯えておられます。また神は、キリストのみ心のうちに、私たちに対するたぐいなき愛とあわれみと優しさとを植えつけてくださいました。キリストの御父なる神は、キリストに「からだを造って」くださった(ヘブル 10:5)のと同様に、あわれみ深い贖い主の心をも備えてくださったのです。聖書は、へりくだった者に対するキリストの愛と優しいお取扱いを何にもまさって語っています。

 さらにキリストは、御自身、み胸のうちに憐れみの心をお持ちであるだけでなく、御自分のしもべである牧師や他の者らのうちにも、「小心な者を励まし、弱い者を助け」る(Iテサ5:14)同じような思いを起こしてくださるのです。牧師は、その務めからいって花嫁の友人であり、キリストとその花嫁が結ばれるように力をつくす者です。ですから牧師たる者、ことあるごとにキリストのたぐいなき素晴らしさを明らかにすべきです。中でも、キリストがいかに優しく、いかに暖かく、いかに恵み深いお方であるかを、キリストがいかに尊く、力強く、「知恵と知識との宝がすべて隠されている」お方である(コロ2:3)かを説くのに劣らず説かなくてはなりません。

 花嫁は、たとえ弱さとみじめさの中に沈むときも、花婿の優しさ、思いやり深さを思うなら、心を奮い立たせられないではいられないでしょう。彼女の夫は、弱い器に対しどのようにふるまい、どのように扱うべきかを知っており、彼女が弱いからといって彼女を疎んじるどころか、かえって彼女をあわれんでくださるのです。常にかわらず親切であられるばかりか、最も助けを必要とするときほどそうなのです。彼が彼女の心に語りかけてくださるのは、特に彼女が「荒野にあるとき」です(ホセ2:24)。

 これらのことを信じ適用するとき、神の栄光はますます豊かに現わされ、キリスト者の魂は一段と深い慰めを受けます。それだけに神の栄光と人間の慰めを憎む敵は、こうした真理を人々に信じさせまいと懸命なのです。かの敵は、たとえ人間を天国へはいらせず自分と同じような呪われた状態へひきずりこむことはできないとしても、天国へ向かう人々の旅路を悩まそうとするからです。さらにサタンは、人々が恵みの手段を無視して、自分の罪深さばかりを見つめるようにし、神の栄誉を涜しては罪に罪を加えることまでさせます。こうして人々は、この誘惑の下で、息も絶え絶えに生きるのです。サタンに手足をしばられたかのようになり、キリストに向かって声を上げることもできなくなりながら、しかし、心の奥底でつくため息と神へのうめきとによって、ひそかに信仰のともしびをかかげるのです。このような人々を悩ませるのは、キリストに対する偽りの想像です。このような者らに対するキリストの道は常にあわれみの道であり、キリストの思いは、常に愛の思いだからです。

 サタンが悪意をもって魂を暗闇につなぎとめようとしている以上、それだけ魂は安定した土台の上に堅く据えられなくてはなりません。私たちの信仰を建てあげるべき基盤はいくつかあります。例えば、ほしければただで恵みを受けよという誘い(黙22:17)や、疲れた者、重荷を負った者すべてに対する優しい招き(マタ11:28)、金を払わずに買うがよいということば(イザ55:1)、信ぜよという命令(Iヨハ3:23)、信じない者がその他のすべての罪につながれてしまう危険(ヨハ16:9)、信ぜよという優しい招きと、使節を任命してまで願われる和解(IIコリ5:20)、そして彼らのうちに思いやりある心を与えて、その召しにふさわしい者としてくださったこと、契約の証印として聖礼典を定めてくださったことがそうです。しかし、こうした信仰の基盤とならんで、そうです、このように心を揺さぶる数々のことばとならんで、ひときわ力強く、他のすべてを賦活化しているのが、これらすべてがキリストから出ているということです。キリストは権威あるお方です。さらに、私たちのために人となってくださったばかりか、呪いにまでなってくださったほどの深いあわれみの心をお持ちのお方です。なればこそ、キリストは「いたんだ葦を折ることがなく、くすぶる燈心を消すことがない」と云われているのです、これらの愛のことばが、常にかわることのないキリストの御性質から出ているということこそ、信仰を力づけてくれます。神は、私たちが罪を犯しがちで、したがって良心が全く目覚めさせられると、自分の罪に絶望しがちな者であることを御存じです。ですから神は御自分のおこころを、さまざまな箇所であかしてくださっているのです。すなわち、自ら恵みの契約の中に立ってくださり、私たちの最も恐れる災いと敵とをキリストにおいて打ち負かしてくださるということ、また、御自分の御思いが人の思いとは異なるということ(イザ5:8)、御自分が神であって人ではないということ(ホセ11:9)、御自分のうちにあるあわれみには、私たちのすべての罪と悲惨さの深みにまさる高さと深さと広さがあるということ(エペ3:18)、私たちの犯す罪が人の罪であり、御自分のあわれみが神のあわれみであるからには、決して私たちは絶望するしかないような、打ち棄てられた状態に置かれてはいないということです。

 しかし、「心砕かれた罪人はかくも強く勧められているあわれみを抱くべきである」、というこの真理ほど、光輝く陽光よりも明らかに述べられていながら、心が自らを閉ざしてしまうものはありません。特に魂があわれみを受けるのに最もふさわしい、みじめな失意の中に陥っているときほどそうなのです。御聖霊が良心にキリストの血潮を注ぎ、心にキリストの愛を注ぎ出してくださってはじめて、キリストの血潮は良心のうちで罪の意識にまさる力強い声を上げることができるのです。ひとも慰めを語ることはできるでしょう。しかし、真に慰めることができるのはただキリストの御霊だけです。平安はくちびるの実といわれますが、神によって創造されてこそそうなのです(イザ57:19)。良心にせまりくる御怒りを取り除くことができるのは、ただその御怒りを置かれたお方だけであって、造られたいかなるものにもその力はありません。力ある議論をいくら並べ立ててみても、御聖霊が神聖な修辞を用いて雄弁に説得してくださってはじめて私たちは、心を御民の慰め主なるお方へ向け、そうした論理を魂に確信させていただくことができるのです。神は人を理性ある存在として扱ってくださいます。このように良心に力強く働きかけなさるとき、神は友人に語りかけるようなやりかたで懇願し、説得し、キリストにある御自身の愛を明かし、最も卑しく、最もなさけない人間に対してすらあわれみを給う、このキリストの恵み深い御性質を教えてくださるのです。

 Loquitur Deus ad modum nostrum,
  agit ad modum suum.
 (神は我々のことばでお語りになり、御自身の仕方でふるまわれる。)

 神はこのようなみこころをもって心の中へ入ろうとされ、そこに平安をうちたてようと望んでおられるのですから、私たちはこうしたすべての聖なる慰めを恐れかしこみつつ顧み、とりわけ父なる神が描き出してくださった、このキリストの麗しい御姿を思って、おりにかなった助けを受けるため、大胆に恵みの御座に近づくべきです。

 しかし私たちは、あらゆることにおいてキリストの御支配に身をゆだねる者たち以外、このような慰めを受けることはできないことを知らなくてはなりません。なぜならこの聖句においては、いたんだ葦に対するあわれみと、義の支配が腐敗に対して次第にうちたてられていくこととが、1つに結び合わされているからです。キリストは弱い者たちを真底からいたわられるので、彼らの魂を今より良い状態へと引き上げてくださるのです。また、あわれみを求めながら導きに服そうとしない魂などあるはずがありません。夫、かしら、羊飼いといった立場は、柔和さやあわれみを意味するだけでなく、支配の権限をも含んでいます。キリスト者になるということは、何者にも仕えず好き勝手に生きるということではなく、自分の仕える主人を替えたというだけなのです。ですから、悪い生き方をしていながら、差し出される先から慰めをひったくるような人々は、自分が恐ろしい危険に直面していることを知るべきです。痴れ者が、さまざまな薬品の山積みしてある薬局にはいってゆき、何でもかんでも手当たり次第に飲み下すようなものです。それは薬でなく毒かもしれません。現実に悪を行なっていないとしても、「心に不義をいだく」者(詩66:18)に対する慰めのことばなど、神の聖書のどこをさがしても一言も書いてありません。そういう人たちの唯一の慰めは、永遠の刑罰という宣告がまだ下されていないので、まだ安心していられる、まだ大丈夫だ、と思っていられるということだけです。そうでもなければ、みことばによってまざまざと罪を確信させられ、断罪を受けていることでしょう。そして、「白の馬の乗り手」(黙6:2)なるキリストが、その矢筒の矢を彼らにことごとく浴びせかけて痛手を負わせ、死に至らしめることでしょう。よこしまな道を歩みながら自分を喜ぶような者に対して、神の怒りは地獄へ至るまで燃え上がるのです。キリストをお喜ばせしようとも思わずに、キリストから慰めを受けられると思ってはなりません。それと違った考えを持ち、キリストがみだらで締まりのない生き方をけしかけている方のように思いみなすのは、幻想です。いえ、それはキリストを悪魔の似姿と変えてしまうことに他なりません。しかし、キリストが来られたのは当の悪魔のしわざを打ちこわすためでなくて何だったでしょう(Iヨハ3:8)。これは他の何物よりも忌まわしい偶像礼拝です。キリストの御霊がキリストの民のうちで勝利をおさめられる1つの方法は、彼らをこのような思いから守ることです。それでも、肉に快く、自分たちにとって都合のよい神を、勝手な想像によって捏造する人々が見うけられます。そうした想像は、中身のないむなしいもので、そこから生じる実もむなしいものでしかありません。砂上に建てた建物と同じです。

 こうしたすべてが先ず第一に目的としているのは、私たちをやさしく招いて、キリストの穏やかで安全な、また、賢く、力強い御支配を抱かせるようにするということです。そして、救いが力強くなしとげられたばかりでなく、優しく分かち与えられていることを示して、キリストの支配を受け入れようとしない人々の云い逃れをすべて封じることなのです。彼が支配なさるのは御自分の満足のためではありません。私たちの益のためなのです。愛によって救われた私たちは、その愛への応答として、内側に神への愛が燃え立たせられるようになります。なぜなら、この愛情は私たちの魂を溶かして、あらゆる義務を行なわせ、しかもそれを受け入れられる仕方で行なえるように鋳込むからです。神は私たちの果たす義務そのものよりも、その中にある愛の心を認めてくださいます。それは、私たちに対するキリストの愛から生ずる、真の、福音的な思いであり、またキリストの愛に対する、私たちの愛です。この愛はキリストのもとへ来ることを恐れません。それを巨象の牙をつかむことででもあるかのように恐れる人がいますが、キリストの御国になる実は、平和と、聖霊による喜びです。神は私たちが奴隷のようにびくびくしていることをお喜びになるなどと考えるのは、とんでもない間違いです。こういう考え方をするからキリスト者は弱々しく、卑屈で、迷信的になるのです。

 キリスト者の平安を非常にかき乱すものが2つあります。すなわち、(1)自分にこびりついた弱さ、(2)自分がいつまで持ちこたえられるかという恐れです。しかしこの聖句は、この双方に対する特効薬です。すなわち、ここでキリストは、弱い者らの優しき救い主として語られており、将来までも、その力ある御配慮と愛は決して絶えることがなく、ついには公義に勝利がもたらされることが述べられているのです。人々を救うための手段と、その救いによってもたらされた恵み、そして、その恵みの最たるものである栄光とが、かくもしばしば「神の国」(神の支配)という一語であらわされているのはそういうわけです。神は救いの手段によって恵みの中へ導かれた者たちを、恵みによって栄光へと導かれるからです。

 これは後の世の審判に対して私たちの心を安んじてくれます。そのとき審判者となられるお方は、今の世でかれに支配されている人々の味方となってくださるに違いないからです。かれは、自分の計画に従って導いた人々を、さらに栄光へと導かれるのです(詩73:24)。もしも私たちの信仰が、現在キリストのうちにある自分の状態と同じくらい、堅く立ってゆるがず、栄誉にあふれたものであったならば、私たちはどれほど変わることでしょう。

 私は弱い人々をしめあげるような調子で書こうとはしませんでした。そのようなことをしたら、私の目当てとは全く逆の結果を招き、自分の述べたことを帳消しにしてしまったに相違ありません。主のしもべにすぎない私たちが、どうして主御自身のいつくしまれる、そうした、か弱い火花を消してよいものでしょうか。たとえ一部の人々に非難されようとも、その他の人々の益を妨げたくはないのです。そして、このささやかな一文がいささかなりともその方々の役に立つならば、それで私は満足です。私が書こうとしているのは神学論文ではなく、聖句の講解です。こうした種類の仕事は、割り込んでくる多くの用事の合間を縫って、少しずつ進めなくてはなりません。願わくは主が私たちの心も、舌も、ペンも、主の御栄光と御民の益のために導いてくださいますように。

リチャード・シブス

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