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第9章----個々のキリスト者にも弱き者への思いやりが求められる。

 2. こういうわけで、教会内で譴責を行なう際、キリストの心にかなう道は、厳しさよりも穏やかさを求め、額の上の蝿を殺すのに大槌を用いたり、些細なことによって人を天国から閉め出したりしないことである。幕屋の芯切りばさみが純金でできていたのは、教会の光の輝きを保つためのこうした譴責が純粋なものでなければならぬことを示すためであった。教会に与えられている力は徳を建て上げるためのものであって、打ち滅ぼすためのものではない。聖パウロは近親相姦を犯したあのコリント人が悔い改めたあとで、あまりに深い悲しみに押しつぶされてしまわぬよう、いかに注意を払ったことか(IIコリ2:7)。

 だが個々のキリスト者もまた、常日頃のつきあいにおいて注意すべきことがある。私たちは多くの事柄において弱き者に負債を負っているのである。

 1. 自分の自由を用いるにあたっては用心し、私たちの行動によってつまづきを与えぬよう努めるがいい。弱い者らが無理に私たちの手本にならうようなことがあってはならない。ペテロの場合がそうだったように(ガラ2)、1つの手本には強制的な力がある。ふしだらな生き方は自分にとっても他人の魂にとっても無慈悲な行ないである。たとい滅ぶべき者を結果的に滅びから救い出すことはできぬにせよ、私たちがそれ自体で他人の魂を滅びに至らせるようなことを行なっているのならば、彼らの滅びは私たちの責任となろう。

 2. 他人の良い行ないをけなして「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか」、と云ったサタンと同じ働きについたり(ヨブ1:9)、自分のよこしまな心に基づいて他人を判断して、その人格を中傷したりせぬよう注意するがいい。こうして人を落胆させ、宗教に非難を浴びせかけることによって悪魔は、火あぶりの刑をもってするよりも大きな利益を得るのである。こうした落胆・非難は季節はずれの霜と同様、あらゆる聖い企てをつぼみのうちに摘み取ってしまい、ヘロデとともに持てるだけの力をつくして若き信仰告白者のうちにおられるキリストを殺そうとするのである。だがキリスト者はきよく神聖な、キリストの神殿である。「もし、だれかが神殿をこわすならキリストがその人を滅ぼされます」(Iコリ3:17)。

 3. 他人が受けている試みを思いやらず、何の権限もないくせに図々しく人をとがめだてることも、個々のキリスト者の間で気をつけるべきことの1つである。ある者は感情の激発のまま人を教会から追放したり兄弟づきあいをやめてしまう。だが病によって真の血縁関係が変わるものではない。発作を起こした子どもが母親を知らぬと云おうと、母は親子の縁を切りはしないであろう。

 それゆえ、このようなさばきあう時代にあっては、聖ヤコブの「多くの者が教師になってはならない」(3:1)という警告に基づいて行動するがいい。それは、特に重要でない性質の事柄において、人が性急な譴責を下して互いに傷つけ合うようなことがないためである。ある種の物事はそれをする人の、あるいはしない人の心次第のものなのだ。というのも、双方が主のためにそうしているからである。

 どちらともはっきり決めかねる物事は、聖い志をもって行なうならば、人によって全く正反対の判断を下したように見えても、さほど非難すべきものとはならない。キリストは私たちのうちにある良き志を見て、判断の誤りを見逃してくださり、私たちにその責めを負わせるようなことはなさらないであろう。

 人は好奇心にかられて他人の欠点をせんさくしてはならない。私たちは他人の欠点をつつき出して離れ去るよりも、むしろ彼らが永遠のため何を持っているかを見て、彼らを愛するようにするべきである。そうした欠点はやがて神の御霊が滅ぼしつくすものである。ある者は弱い人の何物にも耐えられぬことを恵みの力と考えているようだが、最も強き者こそ弱き者の欠陥を誰よりも喜んで忍ぼうとするものである。

 最も大いなる聖潔のあるところには最も大いなる寛容がある。そしてなおかつ、この寛容は神への敬虔も他の人々の益も害することがないのである。私たちはキリストの御性質のうちに驚くべき絶対的聖潔と、この聖句にあるような非常な寛容が同居しているのを見る。もしも主がこのように私たちのもとまで身を低くかがめてくださるのでなく、救いを交換条件によるものとしたならば、一体救いはどのようなものとなったであろう。何もキリスト以上に聖いふりをする必要はない。主と同じようにふるまうことはこびへつらいではなく、徳を建て上げるのである。

 聖霊は煙たい不快な魂のうちにも不平を云わずに住まってくださる。おゝ、この御霊が私たちのうちにも同じあわれみの心を吹き込んでくださるように! 私たちは健康に良い成分をふくんでいるというだけで、苦いのをがまんしてニガヨモギや他のいやな味の葉っぱや薬草を食べている。ではどうして、ちょっといやな所があるからというだけで、有用な才能と恵みを持った人を排斥してよいだろうか。私たちの不快に思うところを彼ら自身もまた悲しんでいるというのに。

 私たちがこの地上に生きる間、恵みが住まうのは完全には新しくされていない魂であり、この魂はさまざまな情動に支配されている肉体のうちに住まっているのである。魂はこうした情動に動かされて、あるときには1つの感情を高ぶらせたかと思うと、あるときには別の感情を高ぶらせるものだ。

 ブツァーは深い洞察力を備えた温厚な聖徒だったが、多くの経験によって、「キリストの何か」(Aliquid Christi)が見られる者は何者をも拒まぬことにしたのであった。

 現在の不完全な状態にあっては最高のキリスト者といえども、目方のやや軽い黄金のようなものであって、黄金として通すためには少々大目に見てやらねばならない。私たちは最高の者をも大目に見てやらねばならない。愛とあわれみから、彼らに欠けているものを補ってやらねばならない。

 キリストの教会は万人の病院であって、そこではすべての者がある程度何らかの霊的疾患を病んでいる。したがって私たちは、みな互いに知恵と柔和の霊を働かせるべきである。

 1. それをよりよく行なうために、私たちはキリストの心を身につけることにしよう。神の霊には荘厳さがともなっている。腐敗は他人の腐敗にまず屈服しようとしない。高慢は高慢を許すことができない。この戦いの武器は肉の物であってはならぬのである(IIコリ10:4)。あの偉大な聖徒たちも、「いと高き所から力を着せられるまでは」(ルカ24:49)、その務めにつこうとはしなかった。御霊はただ御自分の道具によってしか働かれない。私たちはこのような場合キリストがどのような心をもって問題の人に当たられたかを思うべきである。かの偉大な医師は、鋭い目と癒しのことばを持っておられたと同様、優しい手と柔らかな心を持っておられた。

 2. そして第二に、私たちが扱う者の置かれている状況に自分を置いてみるがいい。私たちも現在、あるいはかつて、あるいは将来にそのような者であるかもしれない。問題を自分のものとしてとらえ、同時にひとりのキリスト者が私たちにどれほど近しい関係にあるか考えてみよ。彼は私たちの兄弟、仲間、同じ救いの相続者なのである。それゆえ、あらゆる点において彼らに優しい配慮を示すようにするがいい。特に彼らの良心の平和をいつくしむようにしなさい。良心は傷つきやすい敏感なものである。だからそのように扱われねばならない。良心は錠前にも似て、もしその刻み目が乱されると容易に開くことができなくなる。

(第10章につづく)

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