Questions about the Lord's Supper    目次 | BACK | NEXT

20. 主の晩餐に関する問題

 このページから始まる論考には、多少、前置き的な説明の言葉が必要であろう。これは、主の晩餐に関する51の問いからなっており、それらは特に現代、大いに議論や論争の種となっている主題に関わっている。またここでは、こうした問いに対する51の答えが返されている。その主たる出所は、新約聖書であり、英国国教会の《信仰箇条》や、《聖餐式次第》や、《教理問答》である。それだけでなく、英国の権威ある神学者たちの著作からの貴重な抜粋も何編か含まれている。

 痛ましくも、否定することのできない事実であるが、現時点で、英国国教徒の間に意見の相違をもたらしている元凶は、主の晩餐という礼典にほかならない。果たしてこのほむべき儀式をいけにえとみなすべきか否か、----果たして聖卓は祭壇であるか否か、----果たして司式中の教職者は犠牲をささげつつある祭司であるか否か、----果たしてパンと葡萄酒という物素は、聖別の後で、キリストのからだと血が肉体的に、また物質的に存在するものとなるのか否か、----果たしてこうした物素および聖卓は、あたかもキリストが肉体的に臨在しているかのように、大いにへりくだった畏敬と敬意をもって扱われるべきか否か、----こうしたことはみな、絶えず取りざたされている問題である。あからさまに云えば、これらは英国の教職者を2つの明確な党派に分割し、英国国教会を滅ぼしかねない勢いに見える!

 これがすべてではない。これもまた痛ましく危険な事実であるが、英国国教徒の平信徒たちのほぼ大部分は、教職者を二分しつつあるこの問題の非常に深刻な性格についても、それに結びついている数々の教理的な結果についても、全く理解できないように見受けられる。国教徒であるほとんどの平信徒がせいぜい見てとれるのは、ある教会では礼拝が他の教会よりも飾りたてられていて音楽が多いということ、またある教会では聖卓や、花々や、装飾や、挙措や、衣裳や、からだの姿勢が他の教会よりも重要視されているということくらいでしかない。しかし、それ以上のことは彼らには見てとれない。彼らは、教職者たちが互いに意見を異にしている、主の晩餐を執行する際の儀式的な行動が、一部の人が考えているような、単にどうでもいい装飾的なことではないことを察知できないか、察知しようとしない。「どうでもいいこと」どころか、それらは、改革された英国国教会の第一原理の1つを打ち倒そうとする、有害きわまりない教理が、外的に目に見える形をとった表われである。だが彼らの考えによると、誠実で、雄弁で、熱心で、骨身を惜しまず働く教職者はだれであれ、間違いを犯すはずがないのである。そして、あなたが彼らに向かって、多くの教職者たちは国教会の非プロテスタント化を進める決意を公言しているのだ、宗教改革前に後戻りし、ローマカトリック教のミサや告解聴聞席を再び持ち込もうとしているのだ、と告げても、あまりにもしばしば、それは心配のしすぎであると憫笑され、信じてはもらえない。これは私が熟慮の上でいだく確信だが、もしも英国で平信徒の国教徒が目覚めさせられ、主の晩餐に関して存在する意見の違いの真の性格を見てとらなければ、数年もしないうちに、英国国教会の国教制は廃止され、教会財産は没収され、分裂することになるであろう。平信徒の国教徒の半分は、政治か、美術か、木綿か、鉄か、石炭か、小麦か、船舶か、鉄道のことに没頭しているため、信仰的な問題に向かい合わせることができない。もう半分については、あまりにも多くの者らが、平安もないのに、「平安だ。平安だ」、と叫んでおり、「誠実」でありさえすれば、いかなる教職者も、自分の目にとって正しいと思えることを行なうこと、法を破ること、自由にふるまうことを許されるべきだと云い張っている。つまり、今すぐ何らかの変化が起こらない限り、私たちの燭台は取り去られ、私たちの教会は滅びるであろう。

 読者がいま手にとっている論考は、主の晩餐に関する真理をはっきりと示すための、ささやかな手助けである。これは私が新約聖書の中に見いだす真理であり、私たちの教会の権威ある儀式書の中に見いだす真理であり、わが英国の最も偉大な神学者たちの著作の中に見いだす真理である。----こうした真理こそ、以下のページで私が擁護したいと思う真理にほかならない。

 I. 主の晩餐は、キリスト教信仰の中で第一義的に重要な主題だろうか? おびただしい数の国教徒が、それを受けることなしに生き、かつ死んでいるのではないだろうか? 教会に通っている人々の大半はそれに背を向け、それが執行されるときは常に去っていくのではないだろうか? なぜそのようになっているのだろうか?

 主イエス・キリストが定め、指定なさったものが、大して重要なものでないなどということは、決してありえない。私たちの主は、はっきりと弟子たちに、ご自分を覚えて「パンを食べ」、「葡萄酒を飲む」ようにお命じになった。この命令に従わない権利が、いかなるキリスト者にあるだろうか? 疑いもなく、あの悔い改めた強盗のように、主の晩餐を受けることがなくとも、人は救われることはできる。それは、悔い改めや、信仰や、回心のように、絶対的に必須で必要とされることではない。しかし、いやしくも、安全で、健全で、満足できる魂の状態にあるキリスト者が、常習的にキリストに従うことを拒んで主の晩餐に集うことをしないなどということは不可能である。もし、多くの人々が云うように、そうした人が陪餐者となるのに《ふさわしくない》というのであれば、その人は自分があるべき生き方をしていないこと、また今のまま死んだなら神に会う資格がないことを告白しているのである。常習的に陪餐を拒否してきた人々が、最後の審判の日に、その弁解として何を云えるか、想像するも非常に困難である。やがて来たるべき審きにおいては、私たちが行なった、なすべからざることに対する審きのみならず、私たちが行なわずにすませた、なすべきことに対する審きもあるのである。

 2. 主の晩餐について正しい真の見解をいだくことは大いに重要だろうか?

 それは、考えうる限りきわめて重要なことである。ほぼ十八世紀もの間、キリスト教における他のいかなる主題についても、これほど途方もない量の迷信的な誤りが教えられ、保持されてきたことはない。おそらく、これほど人々の魂に害を及ぼしてきた誤りはない。主の晩餐は、それにあずかっていさえすれば、それについてどんな意見をいだいていようと大した問題ではない、などと考えている人は、極度の迷妄のもとにあるのである。キリストによって指定されたいかなる儀式も、「事効的効力(ex opere operato)」をもって、すなわち、単にそれを外的に、肉体的に用いるだけで、私たちの魂に善を施しはしない。主の晩餐の価値は、それが正しく理解され、正しく用いられることに全くかかっている。

 3. 私たちは主の晩餐に関する正しい真の見解をどこで見いだせるだろうか?

 私たちがそれを見いだせるのは、聖マタイ、聖マルコ、聖ルカのそれぞれの福音書、および聖パウロのコリント人への第一の手紙に記されている、この儀式の制定に関わる4つの記述においてである(マタ26:26-28; マコ14:22-24; ルカ22:19、20; Iコリ11:23-29参照)。神のことばの中で詳細な情報を与えているのは、これらしかない。テモテやテトスに宛てた牧会書簡は、特に教役者を指導するために書かれたものなのに、主の晩餐については全く言及されていない。英国国教会の見解や原則は、その《信仰箇条》と、《聖餐式次第》と、《教理問答》と、《第二十七公定説教》の中に見いだされる。こうした儀式書と調和できないようないかなる見解も、「教会の見解」ではない。

 4. 主の晩餐とは何か?

 それは、十字架につけられる前夜のイエス・キリストによって指定された儀式、あるいは礼典であって、キリストの教会の永続的な益と建徳のために、世の終わりにキリストが再び来られるときまで行なわれるべきものである。礼典としてはもう1つ、バプテスマがあるだけである。ローマの教会の主張するところ、《堅信》、《悔悛》(あるいは、《告解と赦罪》)、《叙階》、《聖婚》、《終油》は福音の礼典であるという。だが英国国教会は、その《三十九信仰箇条》において、それらは礼典ではない、と明確に述べている。

 5. 主の晩餐には、いくつの部分があるのか?

 英国国教会の《教理問答》が正しく告げているところ、そこには2つの部分がある。1つは外的な、目に見える部分であって、すべての陪餐者が、自らの善悪にかかわらず、例外なくあずかるものである。もう1つは内的な、目に見えない部分であり、外的な部分によって表わされたもの、また信仰者だけがあずかるもの、《第二十八箇条》が云うように、信仰者が「天的で、霊的なしかたにおいて」あずかるものである。

 6. 主の晩餐における、外的で目に見える部分、あるいはしるしとは何か?

 この礼典の外的で目に見える部分は、聖卓の上に置かれたパンと葡萄酒である。これらは、教役者によって聖別され、取り分けられ、陪餐者によって見られ、触れられ、受け取られ、食べられ、飲まれる。

 7. 主の晩餐における、内的な部分、あるいは象徴されているものとは何か?

 その内的な、あるいは目に見えない部分とは、私たちの罪のために十字架の上でささげられたキリストのからだと血である。それは、陪餐者によって見られもせず、口で触れられも、味われも、受け取られもしない。それは有形の、物質的なものではなく、ただ心によって、信仰をもって、霊的に食され、飲まれるしかない。

 8. 私たちの主が、主の晩餐の最初の制定において、パンについて、「これはわたしのからだです」、と云い、葡萄酒について、「これはわたしの血です」、と云われたとき、何を意味しておられたのか?

 主が決して、「このパンは文字通りに、また物質的にわたしのからだであり、この葡萄酒は文字通りにわたしの血である」、などと意味しておられなかったことは確かである。明らかに使徒たちは、主のことばをそのような意味には理解しなかった。敬虔な、またよく教えを受けたユダヤ人として彼らは、文字通りの血を飲むなどという考えには驚愕し、怖じ気を振るったはずである。私たちの主が意味されたのは、ただ単に、「このパンとこの葡萄酒は、わたしのからだとわたしの血を表わす、その象徴なのである」、ということであった。それは、かつて主が、「畑とはこの世界であり、良い種とは御国の子どもたち……です」、と云われたときに用いたのと同じ語法にすぎない(マタ13:38 <英欽定訳>)。

 9. 主の晩餐という礼典が定められたのはなぜか?

 《教会教理問答》の答えが、考えられる限り最良の答えである。それが定められたのは、「キリストの死による犠牲と、その犠牲からわれらが受けとる祝福とを不断に記念させるため」であった。そのとき裂かれ、与えられ、食されたパンは、十字架上で私たちの罪のためにささげられたキリストのからだを、キリスト者たちに思い起こさせるためのものであった。そのとき注がれ、飲まれた葡萄酒は、私たちの罪のために流されたキリストの血をキリスト者たちに思い起こさせるためのものであった。この儀式の全体は、私たちのためのキリストの死と身代わり、また私たちの罪のためのキリストの贖いを、教会をして永久に思い出させ続けるためのものであった。《祈祷書》の《聖餐式次第》では、主の晩餐の主たる目的を叙述するにあたり、五度以上も、「追想」および「記念」という言葉が明確に用いられている。

 10. 主の晩餐に集うべき者はだれか?

 《教会教理問答》の最後の答えで述べられているような種々の目印と資格を有する者たちだけである。すなわち、「過去の罪を真に悔い改め、新しい人生を送ろうと堅く決意している」人々、----「キリストによる神のあわれみを信ずる鋭敏な信仰を有し、感謝をもってその死を思い起こしている」人々、----「あらゆる人々を愛している」人々、----こうした者らが、こうした者らだけが、陪餐者となるのにふさわしいのである。

 11. ふさわしい陪餐者は主の晩餐からいかなる善を受け取るか?

 《教理問答》が云うように、彼らの魂は、キリストのからだと血に内的で霊的にあずかることによって、さながらパンと葡萄酒によって物質的な肉体が強められるのと同じしかたで、「強められ、活気づけられる」。彼らの悔い改めは深められ、彼らの信仰は増し加えられ、彼らの希望は輝かされ、彼らの知識は広められ、彼らの聖い生き方をする習慣は強められる。

 12. 主の晩餐に集うべきではない者はだれか?

 公然たる罪の中に生きている者、真のキリスト教信仰についてあからさまに無知で、無思慮で、無頓着で、未回心で、キリストの御霊を持たない者らである。そのような人々に向かって、聖卓のもとに来れば善が施されるであろうと告げるのは、積極的な害を彼らに及ぼすことである。義認は礼典によって得られはしない。パンを食べ、葡萄酒を飲むことは、罪の赦しを得る道でも、回心の恵みを得る道でもない。逆に、聖パウロが云うように、人はその飲み食いによってさばきを招くことがありえる(Iコリ11:29)。《第二十九箇条》が云うように、「邪悪な者や、生きた信仰の欠けた者は、肉的に、また目に見える形で……自らの歯をもってキリストのからだと血との礼典を噛みしだこうとも、いかなる意味においてもキリストにあずかる者とはならない。むしろ、これほど大いなることのしるし、すなわち、礼典を飲み食いすることにより、自らにさばきを招くのである」。

 13. しかし、人々の魂が救われるためなら、いかなる人をも例外なく、聖卓に集うようせきたてるべきではないだろうか? 主の晩餐を受けることは、罪の赦しと永遠のいのちを得るための、最も真実で、最短の、また最良の道ではないだろうか? 私たちの主イエス・キリストは、聖ヨハネの福音書6章で、「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません」、と云い、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています」、と云っておられないだろうか?(ヨハ6:53、54)

 この2つの聖句は主の晩餐とは何の関係もない。それがプロテスタントの最良の注解者たち全員の意見であり、何人かのローマカトリックの注解者たちもそれと同意見である。ここで語られている「飲み食い」が意味しているのは、心においてなされる、信仰による霊的な飲み食いのことであり、「肉と血」が意味しているのは、十字架上にかけられたみからだによる、キリストの代償的犠牲のことである。----あの悔い改めた強盗が、主の晩餐のパンと葡萄酒にあずからなかったことは確実であるが、彼が「永遠のいのちを持」ったこと、また死んだときにパラダイスに行ったことは確かである。----イスカリオテ・ユダはそのパンと葡萄酒を飲み食いしたが、彼は「永遠のいのちを持つ」ことなく、自分の罪の中で死んだ。----《祈祷書》の《病者の聖餐式次第》では、その結論的な典礼規定の1つに、以下のような言明が含まれている。「もしもその病者が真に自分の罪を悔い改め、イエス・キリストが自分のために十字架の上で死なれたこと、自分の贖いのために血を流したことを堅く信じ、それにより自分が有する恩恵を誠実に思い起こし、それゆえの感謝をキリストにささげているなら、その人は、たとえ口で礼典にあずかることがなくとも、キリストのからだと血を飲み食いすることにより、自分の魂の健康の益とすることができる」。実際、主の晩餐にあずからない限り、だれも「永遠のいのちを持つ」ことがない、などと主張するのは、最も狭量で、残酷で、不寛容な教理である。それは、何らかの理由によって一度も陪餐者となることのできない、膨大な数の同胞キリスト者たちを、永遠の死に断罪することになる。それは、いかなる礼典をも認めないクエーカー教徒たち全員を断罪することになる。そのような教理をいだける人は、非常に奇妙な精神状態をしているに違いない。

 14. 聖パウロはコリント人たちに向かって、「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか」(Iコリ10:16)、と告げているではないだろうか? これは、主の晩餐においてキリストの物理的な肉体と血が、現実に、肉体的に存在しているという証明ではないだろうか?

 それは何の証明でもない。聖パウロは、そのパンと葡萄酒《が》キリストのからだと血であると云ってはおらず、それらに《あずかること》であると云っているにすぎない。それによって彼が意味しているのは、正しく、ふさわしく、また信仰によってパンと葡萄酒を受けとる陪餐者はみな、そのように受けとることにより、自分の罪のため十字架上でささげられたキリストのからだと血との犠牲に、霊的に、また心においてあずかっている、ということである。というのも、これこそまさに、主の晩餐が指定された目的の1つだからである。それは、信仰者とその十字架にかけられた《救い主》との心の結びつきを深め、強化するためのものであった。正当に考えれば、これ以上のことをこの聖句から引き出すことはできない。

 15. 《教会教理問答》は、「キリストのからだと血は、主の晩餐において真実に、また、まことに、信仰ある者たちによって、受けとられる」、と云っているではないだろうか? 「真実に、また、まことに」という言葉は、この《教理問答》を作成した人々の判断によれば、キリストの物理的なからだと血が、聖別されたパンと葡萄酒の中に現実に、肉体的に実在しているということを意味しているのではないだろうか?

 この問いに対する最も単純な答えは、《第二十八箇条》に見いだされる。「キリストのからだは、この晩餐において、天的で、霊的なしかたにおいてのみ、与えられ、受けとられ、食される。そして、この晩餐において、そのキリストのからだが受けとられ、食される手段は、信仰である」。非常な学識者であったウォータランド大執事の著作からの以下の引用は、綿密な注意に値するものである。----「《教会教理問答》にある、真実に、また、まことに、信仰ある者たちによって、受けとられる、という言葉は、キリストの死によって獲得された種々の恩恵に現実にあずかることを、正しく解釈したものである。キリストのからだと血が、信仰ある者によって取られ、受けとられるのは、肉体的にでもなく、体内においてでもなく、むしろ真実に、また、まことに、すなわち、有効に、受けとられているのである」。----『ウォータランド全集』、第4巻、p.42。

 16. 教役者がパンと葡萄酒を主の晩餐において聖別するとき、それらの中では、何らかの変化が生じるだろうか?

 絶対にそのようなことはない。パンは以前と全く変わらずにパンのままであり続け、葡萄酒は葡萄酒であり続ける。色も、味も、組成も同じままである。英国国教会の《第二十八箇条》はこう宣言している。「主の晩餐における実体変化(すなわち、パンと葡萄酒の実質の変化)は、聖書によって証明できず、むしろ、聖書の平明な言葉と矛盾し、礼典の性質を覆し、多くの迷信を引き起こす契機となってきた」。

 17. 聖別された後のパンと葡萄酒には、キリストの物理的なからだと血が何らかの形で現実に存在しているだろうか?

 もし「現実に」という言葉が、肉体的な、物質的な実在を意味しているとしたら、絶対にそのようなことはない。《祈祷書》の《聖餐式次第》の末尾にある典礼式文は明確にこう云っている。「私たちの《救い主》キリストの物理的なからだと血は天国にあり地上にはない。キリストの物理的なからだが、同時に1つ以上の場所にあることは、そのからだが真のものであることに反するからである」。処女マリヤから生まれたお方のからだが聖卓の上のパンと葡萄酒の中に実在しうるとしたら、それは真の人間のからだではなく、私たちの《救い主》が完璧な人間であるという慰めに満ちた真理はくつがえされてしまうであろう。聖別の言葉が宣言されるや否や、たちまちキリストのからだと血がパンと葡萄酒の中に降ってくると教える人々は、たいへんな間違いを犯しており、自分が証明できないことを主張しているのである。

 18. 主の晩餐において聖別されたパンと葡萄酒は高く掲げられ、飾られ、礼拝されるべきではないだろうか?

 絶対にそうではない。そのパンは、やはり現実に、真にパンのままであり、葡萄酒は現実に、真に葡萄酒のままである。それらは聖別の後では、非常に聖なる物事のしるし、また象徴として、敬意とともに、注意深く扱われるべきである。しかし、その変化は、それらの用途にあるのであって、その実質にあるのではない。そして、それらを崇めるのは、第二戒を破ることである。《祈祷書》の典礼式文は明確に云っている。「礼典用のパンと葡萄酒は、まさにその物理的な実質のままであり続け、崇められるべきではない。というのも、それは信仰深いあらゆるキリスト者にとっておぞましい偶像礼拝となるからである」。《第二十八箇条》は云う。「主の晩餐の礼典は、キリストの制定によれば、保存されも、持ち運ばれも、高く掲げられも、礼拝されもしなかった」。

 19. 主の晩餐においては、何らかの形でキリストの血とからだがいけにえとされているのではないだろうか?

 決してそのようなことはない。この儀式は、新約聖書の中で一度たりとも決していけにえと呼ばれてはいない。それが最初に制定された際の出来事を記述する4つの記事の中には、いかなるいけにえの形跡も全くない。使徒たちは、自分が何らかのいけにえをささげていると考えているようなふしの言葉は、一言も語っていない。それどころか、私たちが新約聖書の中で繰り返し教えられているところ、キリストが私たちの罪のために十字架上でいけにえとしてささげられるや否や、いかなるいけにえも必要なくなり、キリストがご自分という1つのささげ物をささげた後では、罪のための他のいかなるささげ物も無用である(ヘブ10:14、18)。キリストをもう一度ささげようとするなどというのは、冒涜に似た無知な所業である。《祈祷書》は主の晩餐を一度もいえにえとは呼んでいない。それがある箇所で語っている「奉納物」は、献金式においてささげられる金銭のことである。それが言及している唯一の「いけにえ」は、「賛美と感謝」のいけにえである。また、それが言及している唯一の奉献は、「私たち自身と、魂と、からだ」とを、神への「理にかなった、聖く、生きた供え物」とすることである。礼典をいけにえと呼んでいる人々は、到底自分たちの云っていることを証明することはできない。

 20. 主の晩餐においてパンと葡萄酒を聖別する教役者は祭司なのだろうか?

 疑いもなく教役者は司祭である。ただしその場合の「司祭」という言葉の意味は、長老、あるいは、教職者階級における第二の階級にある人物ということでしかない。そして、この意味においてのみ教役者は、《祈祷書》では司祭と呼ばれている。しかし、教役者は決して祭司ではありえない。その言葉が、いけにえをささげる人物を意味しているとすれば、教役者は祭司ではない。教役者はささげるべき何のいけにえも持っておらず、いけにえを持っていない祭司など無意味な称号でしかないからである。キリスト教の教役者は、新約聖書の中で一度も「祭司」とは呼ばれていないからである。旧約時代におけるユダヤ人祭司たちは、日ごとにいけにえをささげなくてはならず、彼らは、後に来るべき偉大な《大祭司》の型であり象徴であった。しかし、キリストが十字架上でご自身をおささげになったとき、たちまち祭儀的な務めは永遠に廃棄された。すべての信仰者が今や「王であり祭司」である。彼らは、「自分のからだを神に、生きた供え物としてささげ」*ているからである(ロマ12:1)。しかし、キリスト教の教役者たちはいけにえをささげる祭司ではなく、そのような者であるはずがない。彼らはキリストの大使であり、使節であり、証人であり、見張り人であり、羊飼いであり、神の奥義の管理者ではあるが、それ以上の者ではない。いかなる装束をまとい、いかなる称号を帯びていようと、それは変わらない。キリスト者にはただひとりの《祭司》しかいない。すなわち、「もろもろの天を通られた……神の子イエス」である(ヘブ4:14)。

 21. 主の晩餐で用いられる卓子を祭壇と呼ぶのは正しいだろうか?

 決してそのようなことはない。それは新約聖書の中で、一度たりとも祭壇とは呼ばれていない。ヘブル書にある聖句、「私たちには一つの祭壇があります」(ヘブ13:10)、は、主の晩餐とは全く何の関係もない。かの碩学ウォータランド博士はこう云っている。「その祭壇とは、私たちの主キリスト、すなわち《祭壇》であり、《祭司》であり、《いけにえ》であり、すべてを一身に兼ねたお方である」(『ウォーターランド全集』、第5巻、p.268、オックスフォード版)。聖卓は、英国の《祈祷書》において一度も「祭壇」とは呼ばれていない。わが英国国教会の宗教改革者たちは、至る所で祭壇を引きずり倒し、木製の卓子を置くように命じた。聖卓を無頓着に「祭壇」と呼び、「祭壇礼拝」について語り、結婚式において花嫁が「祭壇の前に立つ」などと語っている国教徒たちは、腐敗したローマ教会の言葉遣いを無知にも借用し、有害な過誤を奨励することによって、途方もない害悪を及ぼしつつあるのである。もし聖パウロが墓からよみがえって、キリスト教会の内部に「祭壇」があるのを示されたとしたら、彼はそれが何を意味しているのか理解できないであろう。

 22. 主の晩餐を夕刻に行なうことには何か罪深いこと、間違ったことがあるだろうか?

 決してそのようなことはない。キリストとその使徒たちの模範に従うことは、到底罪深いことであるはずがない。新約聖書を読めばだれでも、主の晩餐が制定されたのが夕刻であるとわかるに違いない。『使徒の働き』においても書簡においても、特に時間が指定されていないことは確かである。それと同じくらい確かなのは、《祈祷書》がこの問題を個々の教職者の判断にゆだねており、自分の会衆にとって最良のことを行なうことを許し、その時刻については、賢明にもいかなる杓子定規の規則も規定していない、ということである。夕刻の聖餐式を禁ずるとしたら、大都市内の教区に住む多くの人々を聖卓から完全に閉め出すことになるであろう。労働者階級の大家族を養う母親たちは、到底朝には家を離れることはできない。「晩餐」という名前そのものが、一日のうちの朝ではなく夕刻を指し示しているように思われる。こうした事実に鑑みると、夕刻の聖餐式を不敬で神聖を汚すものであると非難するのは、筋の通ったことでも、賢明なことでもない。

 23. 主の晩餐を受ける前に断食することは必要なこと、都合のよいこと、望ましいことだろうか?

 それが必要とされていないことは確かである。そうした行為は聖書で命ぜられも、勧められもしていないからである。さらに、この礼典が最初に制定されたとき、使徒たちが断食の後で物素を受け取れたはずがなかったことは明々白々である。彼らはまさに過越の食事を食べ終わったところだったからである。それゆえ、この点で何か特に重要なことは全くありえず、あらゆる信仰者は自分の自由を用いてよい。他の人々をさばくことなく、自分の徳を立て上げると思えることを行なうがいい。しかし、恐ろしいのは、断食を伴う聖餐式に途方もない価値を賦与している多くの人々の精神には、1つの漠然とした信念があるのではないか、ということである。そうした人々は、私たちの受け取る聖別されたパンと葡萄酒が、何らかの神秘的なしかたで現実のパンと葡萄酒ではなくなっており、それゆえ肉体の内側で他の食物と混ぜ合わせるべきではないと考えているのではなかろうか! そのような信念を賞賛することはできない。聖餐式の前の断食を、万人が従うべき必須の規則として教えている人々が採っている立場は、非聖書的であるばかりか、残酷なものでもある。断食をした上で早朝の聖餐式に行かせるのは、虚弱な体質の人々の死を招きかねない。

 24. 陪餐者が、主の晩餐に集う前に、自分の罪を個人的に教役者に告白し、赦罪を受けることは、必要なこと、望ましいこと、有益なことだろうか?

 それは必要なことではありえない。新約聖書のいかなる節を見ても、使徒たちがそうした告白を奨励したとか、初代のキリスト者たちがそれを実行したということは示されていない。また、それは確かに望ましいことでも有益なことでもない。教役者に対する個人的な、あるいは秘密の懺悔という習慣は、いかなる状況下にあっても、腐敗したローマ教会の最も有害かつ危険なでっちあげの1つであって、途方もない不道徳と邪悪さの温床となってきた。さらに、これは《悔い改めに関する公定説教》の中で明白に断罪されている。英国国教会のいかなる教役者も、正直であるなら、また自分の叙任の際の誓いに忠実であるなら、これを奨励したり、勧めたり、許可したりするいかなる権利もない。

 25. しかし、私たちの《祈祷書》の《聖餐式次第》の中には、聖餐式の前の個人的な告白を是認している箇所があるのではないだろうか? そこでは教役者がこう云っているのである。「もしあなたがたのうちのだれかが、自分の良心を静めることができず、さらなる励ましや助言を求めているのであれば、その人は私か、神の聖なるみことばに仕える、他の思慮深く学識ある教役者のもとに来て、自分の嘆きを打ち明けるがいい。それは神のことばの宣教によって、その人が赦罪の恩恵を受けるためである」。

 少しでも公正に考えれば、この箇所から秘密懺悔と、礼典による赦罪の教理を引き出すなどということは不可能である。この箇所の単純な意味は、何らかの特別な困難を良心に覚えて悩んでいる人々には、教役者のだれかのもとに行き、個人的にそのことについて話して、聖書の種々の聖句により、すなわち、「神のことばの宣教によって」、そうした困難が拭い去られ、解消させられるようにせよとの助言が与えられている、ということである。これは、現代でも、およそ賢明な教役者ならだれでも、個人的な会見を求めてやってくる人々、あるいは説教の後で教役者と個人的に話すために残っている人々を相手に行なっている、まさにそのことである。しかし、これは、聖餐式の前には常習的に告白を行なうという有害な慣行とは似ても似つかない。それは健全な薬の服用が阿片の吸飲とは似ても似つかず、水が毒とはまるで似ていないようなものである。

 26. パンと葡萄酒を一団の陪餐者たちに与える際に、その分餐語をまとめて一度だけ宣言し、個々の陪餐者ごとに宣言しない教役者は、何か悪いこと、誤ったことを行なっているのだろうか?

 聖書に従えば、その人が何も誤ったことをしていないのは確かである。その人は、まさに私たちの主イエス・キリストが最初に主の晩餐を制定なさったとき行なわれたことをしているにすぎない。新約聖書に含まれている4つの記事において、主は複数形を用いており、単数形は用いておられない。どの記事を見ても主はその言葉を一度だけしか宣言しておらず、その後でパンと葡萄酒を一団の使徒たち全員にお与えになった。私たちの主ご自身の模範を前にするとき、それと同じように行ななくてはならないという教役者を非難し、断罪するのは、確かに賢いことではない。

 27. 《祈祷書》の典礼法規の命ずるところ、教役者はその分餐語を、陪餐者ひとりひとりに個別に云うべきではないだろうか?

 確かにそれはその通りである。だが、理性と常識によって考えてみればわかるように、《祈祷書》を作成した人々は、文字通り一言一句に至るまでこの典礼法規に正確に従うことが、不可能とはいえなくとも、深刻な不都合を招く場合でさえ、厳密な遵守がなされるべきだと解釈されるよう意図していたはずはない。ある教職者が、副牧師ひとりしか伴わずに、三百人から四百人の人々に対してパンと葡萄酒の物素を与えなくてはならないとしたら、必然的にその礼拝は長大なものとなり、老人や虚弱な人々を疲弊させ、後に続く礼拝は妨げられるか、完全にやめなくてはならないはずである。疑いもなく、典礼法規が作成されたときには、個々の教区は小さく、陪餐者の数は少なく、当時は何の《日曜学校》もなく、教職者の中で一日に完全な礼拝を一回以上持っていた者はほとんどなかった。そのような時代の、そのような状況下で作成された規則は、今日厳密に適用されるべきではない。特に、その適用が日曜日の諸礼拝の妨げとなり、益よりは害を及ぼすとあらばなおのことである。

 28. 《祈祷書》の《聖餐式次第》のあらゆる典礼法規に文字通り従っている教職者などいるだろうか?

 おそらく典礼法規のすべてに従っているような者はひとりもいないかもしれないし、《聖餐式次第》の直前にある4つの法規に従っている者は確かにひとりもいないに違いない。卓子を「教会の身廊に」置けとの命令に従っている者はひとりもいない! この件においては、慣習が完全に典礼法規をくつがえしている。しかし、実状がこのようなものである以上、聖餐式の典例法規の解釈には、ある程度の思慮を働かせることが許されてよいに違いない。

 29. 分餐語を陪餐者ひとりひとりに個別にかけてやる方が、内陣手すりの前にいる一団の人々全体にかけてやるよりも、晩餐者の徳を立て上げるのではないだろうか?

 この問いに答えるのは不可能である。これは感性と意見の問題である。多くの陪餐者が、個別に分餐語をかけてもらえないと傷ついたり、腹を立てたりするのは確かである。だが、それと同じくらい確かなことは、別の多くの人々は、分餐語がひっきりなしに繰り返されることを忌み嫌い、特にそれは、七、八人の教役者がかりだされて、ある者がパンを、別の者は葡萄酒を同時に配っているという場合にはなおさらだということである。多くの人々は、それが彼らを混乱させ、気を散らすことに不満をいだく。このような点において私たちは、ひとりひとりが自分の考えを持つことにし、互いにさばき合わないようにしなくてはならない。それぞれ自分の心の中で確信を持つがいい。一部の教職者が分餐語を陪餐者ひとりひとりに個別に繰り返そうとしないのは、彼らが「特定救済」の教理を奉じているからだ、という議論はばかげた、根拠のない、無知な示唆であって、全く真理を含んでいない。

 30. パンと葡萄酒を受ける際に、陪餐者の側では、何らかの肉体的な動作や、姿勢や、挙措をすることが必須だろうか?

 聖書にはいかなる規定もない。主の晩餐が最初に制定された際、明らかに使徒たちは、当時の習慣に従って横になっていた。《祈祷書》では賢明にも膝まづくことが命ぜられている。典礼法規の言葉を用いれば、それは、「その礼典において、あらゆるふさわしい受け手に与えられるキリストの恩恵を、私たちがへりくだりと感謝に満ちて認識していることを意味し、不敬や無規律を避けるためである」。私たちがパンを指先で受けるべきか、手のひらで受けるべきかは、特に結論は出せない、個々人が自分で決めるべき問題であるように思われる。ただし1つだけ忘れてならないのは、そのパンに手で触れまいとして、それが自分の口に入れられるように求めることには、非常に迷信的な態度のように思われる。また、奴隷めいたしかたで腹這いになるほど拝跪するというのは、キリストにある自由人にはふさわしくない格好であり、聖別された物素の真の性質についての無知を疑わせる痛ましい兆候である。

 31. 以下のような付属物を伴って主の晩餐を執行するとき、この礼典の価値と有用性はより高められる、あるいは陪餐者の徳はより立て上げられるだろうか? すなわち、1. 真昼にも聖卓の上に燭台を置くこと。2. 数滴の水を葡萄酒に混合すること。3. 上祭服と呼ばれる特殊な衣裳を教役者にまとわせること。4. 香を焚くこと。

 こうした事がらが何か真に価値あるものであると示すことはできない。これらのうち1つとして新約聖書の中では推奨されてはおらず、名指されてさえいない。これらのうち1つとして《祈祷書》の中で規定されているもの、命ぜられているものはなく、最上の英国人法律家たちはそれらが違法なものであると宣言している。これらは腐敗したローマ教会から借りてこられたものであり、少なからぬ数の教職者が、これらを用い始めた後で、ミサのいけにえを信じるようになり、ローマカトリック教に加入するという末路を辿った。そのような事がらは疑いもなく「賢いもののように見え」、「肉のほしいままな欲望」を満足させる(コロ2:23)。それらは、単なる外的な宗教を好む多くの無知な人々の心に訴える。しかし、それらが神を喜ばせると考えても無駄である。事の性質上それらは、陪餐者の心を、主の晩餐に対する真の、霊的な、また単純な見解から引き離し、そらしてしまいがちである。正気の人ならだれでも、こうした事がらがこの礼典を有効にするために必須のものであるとか、私たちの主が、あるいはその使徒たちが、これらを用いたことがあるなどと云うことはできないはずである。それらは、「人間の好き勝手な礼拝」にほかならず、人間によるでっちあげでしかない(コロ2:23)。自分の主教の戒告にも公然と逆らって、こうした違法な典礼行為を用いることを主張する教職者は、本質的でない事がらについて教会内に分裂と、つまづきと、争いと、論争を引き起こしているのであって、譴責を受けて当然である。

 32. 私たちに、私たちの《信仰箇条》や《祈祷書》を与えてくれた、英国国教会の改革者たちは、主の晩餐の正しく真の見解に、特にこの礼典におけるキリストの臨在の現実の意味に、大いに重きを置いていただろうか?

 しかり! 間違いなくその通りである。まさにこの点においてこそ、私たちのプロテスタント宗教改革者たちは、ローマ教会と最も大きく異なっていた。キリストの物理的なからだと血が、聖別の言葉の後のパンと葡萄酒の形のもとで、肉体的に実在していることを信じようとしなかったからこそ、メアリー女王治下で、彼らの多くは死刑宣告を受け、火刑柱で焼き殺されのである。有名な教会史家フラーは云う。----「祭壇のいけにえは、あわれなプロテスタントたちを見つけだす主たる試金石であった。礼典におけるキリストの現実の肉体的な存在、十字架にかけられたのと同じからだの実在というこの点こそ、反対意見を持つ者らを手軽に発見する方法であった」。----フラーの『教会史』、第3巻、p.399、テッグ版。

 33. 聖墳墓教会の教区牧師、かつ聖パウロ主教座聖堂参事会員であった最初の殉教者、ジョン・ロジャーズはなぜ、1555年2月4日にスミスフィールドで火刑に処されたのだろうか?

 彼自身の説明を聞いてみよう。----

 「私は、私たちの救い主キリストの実際のからだと血が聖餐の中にあると信じているかどうかを問われた。すなわち、処女マリヤから生まれ、十字架の上にかけられた肉体と血が、現実に、実質をもって聖餐の中に存在していることを信じているかと問われた。私は答えた。『私はそれは偽りであると思います。現実に、実質をもって、ということの意味は、肉体的に、ということを意味しているとしか私には理解できません。しかし、肉体的には、キリストは天にしかおられません。ですから、キリストはあなたがたの聖餐の中に肉体的にはおられないのです』」。----フォックスの『殉教者列伝』、第3巻、p.101、1684年版。

 そして、それで彼は焼き殺されたのである。

 34. 一時ウースター主教であったヒュー・ラティマーは、なぜ1555年10月16日にオックスフォードで焼き殺されたのだろうか?

 彼につきつけられた罪状はいかなるものであったとフォックスが云っているか聞いてみよう。----

 「そのほうの公然と確言し、擁護し、主張するところ、キリストの真の物理的なからだは、司祭による聖別の後でも、祭壇の聖餐の中に現実に存在してはおらず、祭壇の聖餐は変わらずパンと葡萄酒の実質をしているとのこと」。

 そして、この罪状に対してこの善良な老人はこう答えた。----

 「ローマカトリック教会の指し示すような肉体的なものとしては、キリストのからだと血は、パンと葡萄酒の形のもとで聖餐の中にはありません」。----フォックス、前掲書、第3巻、p.426。

 そして、それで彼は焼き殺されたのである。

 35. ロンドン教区主教のニコラス・リドリは、なぜ1555年10月16日にオックスフォードで焼き殺されたのだろうか?

 彼の有罪宣告の言葉はいかなるものであったとフォックスが云っているか、もう一度聞いてみよう。----

 「くだんのニコラス・リドリの確言し、主張し、頑強に擁護せるは、神のことばおよび教会の受け入れたる信仰に背く種々の意見と断定であり、その骨子は、キリストの真の物理的なからだと血が、祭壇の聖餐の中にあることを否定すること、第二に、聖別の言葉の後でもパンと葡萄酒の実質が変わらないと確言することにある」。----フォックス、前掲書、第3巻、p.426。

 そして、それで彼は焼き殺されたのである。

 36. 聖パウロ主教座聖堂参事会員であり、リドリ主教付きの司祭であり、エドワード六世付きの司祭のひとりでもあったジョン・ブラッドフォードは、なぜ1555年7月1日にオックスフォードで焼き殺されたのだろうか?

 獄中の彼が、ランカシアおよびチェシアの人々に向かって何と書き送ったとフォックスが云っているか聞いてみよう。----

 「私が異端者として断罪された主たる理由は、私が祭壇の聖餐(これはキリストの晩餐ではなく、ローマカトリック教徒が今も用いているような、ねじくれた慣行にすぎない)の中に、キリストのからだと血が、現実に、物理的に、また肉体的に存在していることを否定したからである。すなわち、実体変化説を私が否定したからである。この実体変化説こそ、悪魔の愛児であり、反キリストの宗教の娘であり世継ぎにほかならない」。----フォックス、前掲書、第3巻、p.260。

 そして、それで彼は焼き殺されたのである。

 37. しかし、この焼き殺された四人は例外的な事例であって、英国国教会の真の代表者ではなかったこともありえるのではないだろうか? 彼らは過激な狂信者で、無知蒙昧な輩だったかもしれないではないだろうか?

 そのような考え方ほど真実から遠いものはありえない。この四人が生命を賭して主張した教理は、エドワード六世の治下で英国国教会全体が告白していた教理であった。それで、孤立していたどころか、彼らと意見を同じくする280名もの人々がメアリー女王治下に焼き殺されたのである。無知蒙昧ということについていえば、リドリとロジャーズは当時の最も博学な人々の中に数えられており、ことにリドリは、わが英国国教会の《祈祷書》の基礎を置くという恩恵を私たちに施してくれたのである。

 38. しかし、ローマ教会から出てきたばかりの英国の改革者たちは、主の晩餐について非常に極端な、むしろ欠陥のある考え方を採用したと云われてはいないだろうか? 宗教改革以来の英国の神学者たちは、《実在説》について、より穏健で、節度ある意見をとってきたのではないだろうか?

 そのようなことをだれが云っていようと、その人は自分には到底証明できないようなことを云っているのである。ごくごくまれな例外を除き、英国の神学者の中で最も偉大で、最も有能で、最も学識のある人々はみな、いかなる学派に属していようと、この三百年の間、主の晩餐において聖別されるパンと葡萄酒には、キリストの物理的なからだと血の現実の肉体的な実在はないと主張することにおいて一致していた。

 39. ジューエル主教は、その聖餐に関する著作で何と云っているだろうか?

 「キリストのからだと、みからだの礼典との間に、いかなる差異があるか吟味してみよう。

 「その差異はここにある。礼典は象徴であり、しるしである。キリストのからだは象徴されたもの、しるしとされたものである。礼典のパンはパンであり、キリストのからだではない。キリストのからだは肉体であり、パンではない。パンは下にあるが、みからだは上にある。パンは卓子の上にあるが、みからだは天にある。パンは口の中にあるが、みからだは心の中にある。パンは体を養うが、みからだは魂を養う。パンは結局失せ果てるが、みからだは消失することなく不滅である。パンは卑しいものだが、キリストのからだは栄光のものである。このような差異がみからだの礼典であるパンと、キリストのみからだそのものとの間にはあるのである。礼典を食するのは信仰者たちも邪悪な者たちも同様であるが、みからだを食するのは信仰者たちだけである。礼典を食べて審きを受けることもありえるが、みからだを食べる者が救われないことはありえない。私たちは礼典なしに救われることはできる。だが、キリストのみからだなしには、いかなる救いもなく、私たちは決して救われることがない」。----『ジューエル全集』、第2巻、「礼典に関する小論」、パーカー協会版、p.1121。

 40. リチャード・フッカーは、その『教会政治理法論』において何と云っているだろうか?

 「キリストの最もほむべきみからだと血との実在は聖餐のうちに求められるべきではなく、その聖餐をふさわしく受けとる者のうちに求められるべきである。

 「そして、このことと私たちの救い主のことばとの順序そのものとは一致している。主はまず、『取って食べなさい』、と云ってから、『これはあなたがたのために裂かれる、わたしのからだです』、と云われた。まず、『みな、この杯から飲みなさい』、と云ってから、『これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです』、ということばが続いた。私の見るところ、いかなる手立てを尽くしてもキリストのこのことばからそうした意味をひねりだすことはできない。----いつ、いかなるところでパンが主のみからだとなり、葡萄酒が主の血となるのかといえば、それを受領する人の魂の心奥と魂の中においてでしかない。聖餐の二品についていえば、それらが実際に表わしているのは、それらについて書かれたことから読みとれることだけである。それらは、神の恵みそのものでもなければ、恵みを真に含んでもいない。その恵みは、神がそれらを通して、あるいは介してお授けになるのである」。----フッカー、『教会政治理法論』、第5巻、p.67。

 41. ジェレミー・テイラーはその著書『実在論』(1654年版、p.13-15)の中で何と述べているだろうか?

 「私たちは、キリストのからだは聖餐の中に実際に、だが霊的に存在していると云う。ローマカトリック教徒も、それが実際に、だが霊的に存在していると云う。ベルラルミーノは大胆にも、この問題についてはそのような言葉遣いが許されると云っているからである。では、その違いはどこにあるのだろうか? この霊的にという言葉によって彼らが意味しているのは、霊の流儀に従った霊的なものということである。私たちが霊的にという言葉によって意味しているのは、私たちの霊にとってのみ現実なものということである。彼らの云うところ、キリストのからだは、それが十字架の上に真に存在していたときのように、聖餐の中に真に存在している。ただし、その存在のしかたは、普通の人が、あるいは、特別なだれかがある場所に存在するようなしかたでではなく、御使いが、ある場所に存在するかのようなしかたでである。----しかし、私たちが、現実に霊的にキリストが存在するということによって理解しているのは、キリストが、神の御霊の臨在のゆえに、祝福と恵みによって、信仰者の心の中に臨在しておられるということである。そして、これこそ、キリストがその場で象徴的に存在しておられるということ以外に、私たちが意味しているすべてである。

 42 アッシャー大主教は、下院におけるその説教の中で何と云っているだろうか?

 「主の晩餐の礼典におけるパンと葡萄酒は、実質において変化することはなく、通常の食卓において供される場合と同じ実質をしている。しかし、それらが聖別される目的たる聖なる用途という点に関しては、それらは今や、普通のパンと葡萄酒とは、天と地ほどにも違う変化を被っている。二品とも、決して何か意味ありげなものというだけでなく、それらと結びついた天的な事がらを表示するものとみなされるべきである。そうした事がらを私たちに伝え、現実に所有させるために神が定められた手段であるとみなされるべきである。それで、この聖なる典礼を用いる際に、人は、その肉体的な手と口がパンと葡萄酒という地上的な被造物を受けとるのと同じくらい真実に、その霊的な手と口によって----それらを有していればだが----キリストのからだと血を受けとるのである。そして、これこそ私たちが、この聖い行為の内的な部分の中にあると確言する、現実の実質的な臨在にほかならない」。

 43. ウォータランドは何と云っているだろうか?

 「教父たちは、キリストの物理的なからだを《聖餐》の真のいけにえとすることが、理性的に考えてばかげているばかりでなく、非常に思い上がった俗悪なものであることをよく理解していた。また、適正ないけにえの外的な象徴を物質的ないけにえとすることが、福音の諸原理とは正反対であり、キリスト教のいけにえをユダヤ教のそれに引き落とし、否、価値においても尊厳においても、ユダヤ教のそれよりも低く卑しいものに引き落としてしまうであろうことをよく理解していた。それゆえ、正しい道は、いけにえを霊的なものとすることであった。そして、福音の諸原理に立つならば、それ以外の道はありえなかった」。----『全集』、第4巻、p.762。

 「いかなる人であれ、また実質的であれ象徴的にであれ、キリストをいけにえとしてささげる権威や権利を有してはいない。それができるのはキリストご自身だけである。そのようにいえにえは、キリストのいけにえであった、私たちのいけにえではない。----父なる神に対して、私たちのためにささげられたいけにえであって、私たちによってささげられるいけにえではない」。----『全集』、第4巻、p.753。

 44. バーネット主教は、《信仰箇条》に関するその著作で何と云っているだろうか?

 「私たちは、キリストのからだと血の実在を主張する。だがそれは、いま天で栄化されているキリストのからだの実在ではなく、十字架上でその血が流れ出たときに裂かれたからだの実在である。すなわち、いかなるふさわしい信仰者にとっても、礼典においてささげられる、目に見える、盟約的な行為の中に、キリストの死が、その功績と効果を伴って存在しているのである。----実在のということで私たちは、真に、ということを意味している。それは、架空の、あるいは想像上のこととは対立的なものであるとともに、モーセ経綸において存在してた種々の影とも対立的なものであることを示している。その影とは、マナや、岩や、青銅の蛇、しかし何にもまして栄光の雲であって、恵みとまことを伴って来たるべきメシヤの型や影であった。その恵みとまこととは、神のあわれみおよび恵みのこの上もなく素晴らしい現われであり、かつ、律法のもとでなされた数々の約束の実現であった。----この意味において私たちは、キリストが礼典に実在すると認めるものである。確かに私たちの確信するところ、わが国の初期の改革者たちは、《実在》という語句を用いるかどうかについて正しく判断し、それを残しておくよりは、全く用いないようにする方がよいとした。というのも、その語句の用法や、それを受け取る側のうちに概して引き起こされる自然な観念の方が、誤解を避けるためにいかに長々とした解説を加えても、はるかに堅くこびりつき、迷信の種となりかねないからである」。----バーネットの第二十八箇条解説。

 45. エクセター教区主教ヘンリ・フィルポッツは、そのチャールズ・バトラー宛の手紙で何と云っているだろうか?

 「ローマ教会の主張では、キリストのからだと血は、パンと葡萄酒という偶有的な性質のもとに存在しているという。英国国教会の主張は、それらが、主の晩餐の礼典に集った陪餐者の魂の中に実在しているというものである。

 「国教会の主張するところ、パンと葡萄酒は、聖別された後で、その性質においてではなく、その用途において変化する。私たちの肉体を養うという用途のかわりに、それらは今や、ふさわしく受けるときに、神が私たちの魂にキリストのからだと血を与えて、魂を養うための器となっている。これは、私たちの十字架にかけられた《贖い主》を架空において、あるいは想像上で私たちに表示しているのではなく、霊的にではあっても現実に表示するものである。実際それは、より効果的であるがゆえに、いかなるキリストの肉的な表示や拝領にもまして現実的なものである。肉は何の益ももたらさないからである」。

 「同じようにして、私たちの主ご自身がこう云われた。『わたしはまことのパンです』、と。(これは、主が焼いた練り粉やマナの塊であるということを意味してはおらず、人間のまことのいのち----肉体的ないのちではない、霊的ないのち----を維持するまことの手段であることを意味している)。それで、礼典において、聖別された物素をふさわしく受ける者には、その性質上は単なるパンと葡萄酒でしかなくとも、真に、現実的に、効果的に、十字架にかけられたキリストのからだと血が与えられるのである。人間を贖う手段たるそのみからだと血に、私たちの霊的ないのちと力は全く依存しているのである。この意味において十字架にかけられたイエスは、その晩餐の聖餐に存在しておられるのである。そのパンと葡萄酒の中にある、とか、それらとともにある、とか、それらの偶有的な性質のもとにある、というのではなく、陪餐者たちの魂の中に存在しておられるのである。肉的にではなく、有効に、かつ信仰的に、それゆえ、この上もなく現実的に存在しておられるのである」。----フィルポッツのバトラーへの手紙、8巻版、1825、p.235-236。

 46. ロングリ大主教は、その死後に印刷され、発表された最後の告諭において、何と云っているだろうか?

 「実在説は、ある意味で英国国教会の教理である。国教会の主張するところ、キリストの肉体と血は、『まことに、また真実に、主の晩餐において信仰者により受けとられる』のである。そしてそれと等しく主張されるのは、そうした臨在が物質的なものでも肉体的なものでもなく、キリストのからだは、『この晩餐において、天的で、霊的なしかたにおいてのみ、与えられ、受けとられ、食される』、ということである(信仰箇条第28条)。キリストの臨在は、彼のみからだが裂かれ、御血潮が流された目的と意図たるすべてのことにとって効力を有している。信仰者の心の中以外の場所における臨在について、英国国教会は沈黙を守っており、それゆえこのフッカーの言葉が国教会の見解を代表するものである。『キリストの最もほむべきみからだと血との実在は礼典のうちに求められるべきではなく、その礼典をふさわしく受けとる者のうちに求められるべきである』」。

 47. 枢密院司法委員会は、かの有名なシェパード対ベネット事件において、何と宣言しただろうか?

 「教職者が以下のごとく教えることは違法である。すなわち、十字架上におけるキリストのいけにえとささげ物が、あるいは、それによって作り出された贖いと、なだめと、満足とが、主の晩餐の典礼のうちで繰り返されている、ないしは繰り返されうるということ。また、その典礼の中に、罪の咎あるいは罰の赦しを得させるために、キリストの死が有効であったのと同じ意味において有効なキリストのいけにえあるいはささげ物が存在しているということ」。

 「聖餐式におけるいかなるキリストの臨在も、もしそれが信仰を有する受け手の魂にとっての臨在でないとしたら、それは英国国教会が決してその《信仰箇条》によっても、種々の儀式書においても、肯定しておらず、決してその教役者たちに受け入れるよう要求していないことである。これほど明白に言明できることは他にない」。

 48. 「王位継承法」のもとで、英国法により、わが国のあらゆる君主が、彼の、あるいは彼女の戴冠式において、「宣言し、承諾し、聞こえるように復唱」しなくてはならない宣言は、いかなるものだろうか?

 忘れてはならないが、これこそ仁慈深いヴィクトリア女王陛下によって宣言され、承諾され、復唱された宣言にほかならない。

 「われ、ヴィクトリアは、厳粛に、かつ真摯に、神の御前にて、かく信ずると告白し、証しし、宣言するものである。すなわち、主の晩餐の礼典において、パンと葡萄酒との物素が、キリストの肉体と血になるとの実体変化は、それらの聖別の時にも、その後にも、いかなる者によってそれが行なわれようとも、全く起こらない、と。また、現在ローマ教会にて用いられているがごとき、処女マリヤないし他のいかなる聖人への祈願や崇拝も、またミサによる犠牲も、迷信的なものであり、偶像礼拝的なものである、と。また、われは、厳粛に、神の御前にて告白し、証しし、宣言するものである。この声明をわれがなすは、そのいかなる部分においても、われに読み上げられた言葉の、平易にして、通常の、英国のプロテスタント教徒が普通に理解する通りの意味においてである、と。また、ここには、いかなる云い紛らわしもなく、いかなる両義性もなく、いかなる意中留保もなく、それらを目的とするいかなる特免も、いまだわれには教皇その他のいかなる権威あるいは人物からも与えられてはおらず、われにはそうした特免を、いかなる人物あるいは権威から受けようとの望みもない、と。また、われには自らが、神と人との前において、この声明の、あるいはそのいかなる部分の言葉からも免除され、放免されている、あるいは、免除され、放免されうるとのいかなる考えもなく、たとえ教皇や、他のいかなる人物ないし人物たちないし権力が特免を与えるか、上記声明を無効にするか、それが当初より効力なき無効なものであると宣言しようとも、そのような考えをいだくことはない、と」。

 49. 結局のところ、主の晩餐における現実の肉体的な臨在やいけにえについての、こうした微妙で深遠な諸問題に、何かしめいに関わるような重要性があるのだろうか? それにより福音の主要な諸真理が阻害されるようなことが現実問題として何かあるだろうか? こうしたことはみな、全く取るに足らない言葉についての争いではないだろうか? 人それぞれの好みにまかせていいような、ただの装飾に関する美的な口論ではないのだろうか?

 このようなことを口にできる人は、新約聖書に規定されているキリスト教神学についての嘆かわしい無知をさらけ出しているのであって、学ぶべきことがまだまだたくさんあるのである。キリストの物理的なからだと血が実際にパンと葡萄酒の中に肉体的に存在するという無害な理論----とある人々が呼ぶもの----は、もしその論理的な帰結まで突き詰めて考えると、福音のあらゆる主要な教理を不明瞭なものとし、キリストの真理の全体系を台無しにし、それを阻害してしまう。主の晩餐がいけにえであり、礼典ではないと一瞬たりとも認めるや否や、----聖別の言葉が唱えられるたびに、聖卓の上で、キリストの物理的なからだと血がパンと葡萄酒の形をとって存在するようになると認めるや否や、----その聖別されたパンを食べ、その聖別された葡萄酒を飲む人はだれでも、現実にキリストのからだと血を飲み食いするのだと認めるや否や、----こうした事がらを一瞬たりとも認めるや否や、途方もなく容易ならざる結果が、こうした前提からいくつも生ずることになる。あなたは、十字架上で死んだときキリストがみわざを完成なさったというほむべき教理を骨抜きにしてしまう。引き続き繰り返されなくてはならないようないけにえは、決して完全な、欠けのないものではない。----あなたはキリストの祭司職という教理を骨抜きにしてしまう。神に受け入れられるいけにえをささげることのできる祭司が、キリスト以外にもいるとしたら、キリストの栄光から偉大な《大祭司》が奪い取られるのである。----あなたはキリスト教の教役者職という聖書的な教理を骨抜きにしてしまう。あなたは罪ある人間を、神と人との間の仲保者に祭り上げてしまう。----あなたはパンと葡萄酒という礼典の物素に、それらが決して受けるはずではなかったような栄誉と崇敬をささげ、信仰を有するキリスト者の忌みきらうべき偶像礼拝を生み出してしまう。----最後に、しかしこれも重要なこととして、あなたはキリストの人間性という真の教理をくつがえしてしまう。もしも処女マリヤから生まれたからだが、同時に一箇所以上の場所に存在しうるとしたら、それは私たち自身のものに似たからだではなく、イエスは真に私たちと同じ性質を有する第二のアダムではなかったことになる。わが国で殉教した宗教改革者たちは、こうした事がらを私たちよりもはるかに明確に見てとり、感じとっていた。そして、それらを見てとり、感じとっていたがゆえに、《実在》の教義を認めるくらいなら死を選んだのである。

 50. しかし、こうした主の晩餐に関する不幸な分裂を癒し、二度と起こさないようにするために、ゆるやかな妥協と寛容の方針を是認することが許されるのではないだろうか? なぜ国教徒は、あらゆる聖職者にも、主の晩餐について自分の好むところを信じて、それを教えることを認可する、ということで一致できないのだろうか? なぜ、平和を守るために、権威筋の宣告により、ある聖職者はこの典礼を礼典と呼び、その隣の教区の別の聖職者はいけにえと呼ぶことが許されるとしないのだろうか?----ある人は、自分の会衆に聖卓の上にはキリストの現実的で肉体的な存在があると告げ、別の人は自分の会衆にそのような存在は全く何もないと告げることが、なぜいけないのだろうか? なぜこうしたことをみな許して平和を保とうとしないのだろうか? 明確な教理は犠牲にした上で、論争を避けようすることが、なぜいけないのだろうか?

 その答えは、明白で歴然としている。この「妥協と寛容の方針」は、いかなる平和ももたらさないであろう。むしろ、私たちの不幸な分裂に油を注ぎ、際立たせ、結晶のように明瞭にし、凝結させるであろう。それは、中産および下層階級の人々からは、ローマカトリック教のミサを復活させ、プロテスタント宗教改革を後退させようという意図的な試みとみなされるであろう。それは、あらゆる教区の教職を2つの明確な集団に分断し、両者とも互いにいかなる交わりをも持たないようになるであろう。それは、主教たちがかかえている困難を十倍に増し加え、主の晩餐に関する点では、聖職への候補者を審査することを不可能にしてしまうであろう。何よりもこの妥協と寛容の政策は、遅かれ早かれ神のご不興をもたらし、英国国教会を滅ぼすであろう。平和や、論争の停止や、自由な考え方や、礼典の執行を随意にまかせることは、云うは易く、遠くから見れば美しく見える。しかし、それらはどこかに限度がなくてはならない。平和を熱心に求めるあまり、信条も典礼法規も投げ捨てて、理神論も、ソッツィーニ主義も、ローマカトリック教も、プロテスタント信仰も、等しく好ましいものとみなす、あるいは、等しくどうでもいいものとみなすような教会は、ただのバベル、混乱の都でしかなく、神の都ではない。これこそ、あの殉教した改革者たちが主の晩餐についていだいていた原則を投げうつ場合に、英国国教会が成り果てる姿であろう。

 51. 英国国教会がこの終わりの日に必要としている《実在》はいかなるものだろうか?

 それは聖霊なる神の臨在である。これこそ、キリストのいかなる肉体的臨在よりもはるかに重要なことである。あらゆる礼拝所における私たちの問いは、「ここにはキリストのからだがあるだろうか?」、ではなく、「慰め主なる御霊はここにおられるだろうか?」、でなくてはならない。キリストの物質的、身体的な臨在を、再臨の前から過大に渇仰するのは、実のところ聖霊に恥辱を与えることにほかならない。聖霊がおられるところには、神の祝福があるであろう。聖霊がおられるところには、キリストのからだと血に真の栄誉が与えられるであろう。キリストの教会が至る所で必要としているのは聖霊の実在である。もし聖霊が臨在しておられなければ、主の晩餐で聖別されたパンと葡萄酒にどれほどの崇敬が示されようと、それは無益な形式であり、神にとっては完全に無価値なものである。

主の晩餐に関する問題[了]

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