Thoughts for Young Men         目次 | BACK | NEXT

19. 青年に思う

 聖パウロは、テトスに向かって、その教役者としての義務について書き送った際に、青年男子を格別な注意が必要とされる1つの階層としている。老人たち、年とった婦人たち、若い婦人たちについて語った後で彼は、この簡潔な忠言を加えている。----「同じように、若い人々には、思慮深くあるように勧めなさい」(テト2:6)。これから私は使徒の忠言に従おうと思う。私は、友人としての勧告の言葉をいくつか、青年たちに差し出したいのである。

 私も今では年老いつつあるが、まだ多少は自分の青春時代のことをよく覚えている。青年の生き方に伴う喜びや悲しみ、望みや恐れ、誘惑や困難、見込み違いやふさわしからざる愛情、過ちや大望を、まざまざと思い出すことができる。もしもこれから語ることで、ひとりでも多くの青年が正道を離れずにすみ、その現世と永遠の双方における前途を台無しにするような過誤や罪から守られるとしたら、幸いこれに過ぐるものはない。

 これから私は、4つのことを行なおうと思う。

 I. 私は、なぜ青年たちが勧告を必要としているかという一般的な理由をいくつかあげていこう。
 II. 私は、青年たちが警告しなくてはならない特別な危険をいくつか指摘しよう。
 III. 私は、青年たちに受け入れてほしい一般的な助言をいくつか差し出そう。
 IV. 私は、青年たちが守るように強く勧めたい特別な行動の基準をいくつか規定しよう。

 私は、この4つの点それぞれについて、特に云っておきたいことがある。願わくは神が、これから語ることによって、ひとりでも多くの魂に善が施されるようにしてくださるように。

I. 青年に勧告を与えなくてはならない理由

1. 第一のこととして、青年が格別に勧告されなくてはならない一般的な理由は何か。私はこれを、順を追って述べていこう。

 (1) 1つのこととして、少しでも真面目にキリスト教信仰をいだいている青年がほとんどどこにも見当たらないという痛ましい事実がある。

 こう云うとき私は、いかなる人をも特別扱いしてはいない。私はあらゆる人々について云っている。身分の上下、貧富の差、家柄の違い、学問の有無、都会育ちか田舎育ちか、----これらは全く問題にならない。私がぞっとさせられるのは、いかに少数の青年しか御霊によって導かれていないか、----いかに少数の青年しか、いのちに至るせまい道を歩いていないか、----いかに少数の青年しか上にあるものを心にかけていないか、----いかに少数の青年しか十字架を負ってキリストに従っていないかを目にすることである。これは衷心から悲しみつつ口にするものだが、神の御前ではっきり私の信ずるところ、いま私が語っていることは、まぎれもない真実にほかならない。

 私は青年である方々に告げたい。あなたがたは、わが国の人口の大きな、かつ最も重要な部分を占めている。だが、あなたの不滅の魂はどこに、また、いかなる状態にあるのか? 悲しいかな、私たちがどこにその答えを求めようとも、全く同じ返答が得られるであろう。

 福音に忠実に仕えているどこかの教役者に問うてみよう。そして、その人の告げることに注意してみよう。主の晩餐に集うためにやって来る独身青年は、一体何人いるだろうか? 恵みの手段に携わることに最も気乗り薄なのは、いかなる人々だろうか?----日曜日の礼拝出席が最も不規則な者たち、----平日の講演や祈祷会に引き寄せるのが最も困難な者たち、----説教を不熱心にしか聴こうとしない者たちは、いかなる人々だろうか? 教役者としてその人が、自分の会衆の中で最も不安に感ずるのは、いかなる部類の人々だろうか? その人が、「大いに思案」することが最も多いルベンの氏族はいかなる人々だろうか[士5:16 <口語訳>]? その人の群れの中で、最も御しがたい者たち、----最もしきりに警告と叱責を必要とする者たち、----最も大きな不安と悲しみのきっかけとなる者たち、----その人が、最も霊的な心配を感じ、最も望みがないように思える者たちは、いかなる人々だろうか? 請け合ってもいいが、その答えは常に、「青年たちです」、であろう。

 英国内のどの教区でもいいから、子どもを持つ人々に尋ねてみよう。そして、そうした親たちの大部分が語るであろうことを考えてみよう。家族の中で、彼らに最も大きな苦痛と困難をもたらすのは、いかなる者たちだろうか? 最も目を離せず、最も困惑と失望の種となりがちなのは、いかなる者たちだろうか? 真っ先に正道からはずれ、最後まで警告と忠言を思い出さないのは、いかなる者たちだろうか? 押さえつけておくこと、身の程をわきまえさせることが最も困難なのは、いかなる者たちだろうか? 公然たる罪に走り、一族の家名に泥を塗り、その友らを不幸にし、その親族の老後を苦々しいものとし、しらが頭の人々を悲しみながらよみに下らせることが最も多いのは、いかなる者たちだろうか? 請け合ってもいいが、その答えは概して、「青年たちです」、であろう。

 治安判事や裁判官たちに尋ねてみよう。そして、彼らが何と答えるかに注目してみよう。だれよりも酒場や酒屋にいりびたっているのは、いかなる者たちだろうか? だれよりも頻繁に安息日を破っているのは、いかなる者たちだろうか? 暴徒や煽動的な集会の中核をなしているのは、いかなる者たちだろうか? 泥酔や、騒擾や、喧嘩や、密漁や、窃盗や、暴行といったかどで捕まるのが最も多いのは、いかなる者たちだろうか? 監獄や、感化院や、流刑船にひしめいているのは、いかなる者たちだろうか? いかなる集団にもまして、絶えず目を光らせ、監視しておかなくてはならないのは、いかなる者たちだろうか? 請け合ってもいいが、彼らはたちどころに同じ方向を指し示すであろう。----彼らは云うであろう。「それは若い連中だ」、と。

 上流階級に目を向けてみよう。そして、そこで目につくことに注意してみよう。ある家の息子たちは、利己的な快楽の追求のために、絶えず時間や、健康や、金銭を浪費している。別の家の息子たちは、何の定職にもつかず、人生の最も貴重な歳月を、のらくらと何もしないでいることに費やしている。別の家の息子たちは、単に世間体だけのために職業につくが、その義務には全く気をとめようとしない。別の家の息子たちは、年柄年中悪い連中と知り合いになり、賭博にふけり、借金をかかえ、不良仲間とつきあい、友人たちを絶えずやきもきさせている。悲しいかな、身分も、称号も、富も、教育も、こうしたことを防ぎはしない! もし真実を知ることができるとしたら、不安に満ちた父親たち、心も張り裂けた母親たち、悲しみに暮れた姉妹たちは、彼らについて悲しい物語を告げることができるであろう。この世で手に入るものなら何1つ不自由していない多くの家庭には、その縁者の中に、決して口にされることのない、----あるいは、決して悔恨と恥辱の念を伴わずには口にされることのない、----何らかの名前がある。----そうした息子が、兄弟が、従兄弟が、甥が何人かいる。----好き勝手な生き方をするあまり、親類縁者すべての悲嘆の種となっている者たちがいる。

 いかなる富裕な一家の中にも、ほぼ例外なく、一族の頭痛の種となっている者たちが何人かはいる。その幸福な記録の中には何らかの汚点があり、絶えざる苦痛と心労のもととなっている者たちがいる。----そしてしばしば、あまりにもしばしば、その真の原因は「青年たち」ではないだろうか?

 こうした事がらに私たちは何と云えるだろうか? これらは事実である。----白日のようにあからさまな事実、----どこに目を向けても際立っている事実、----否定しようのない事実である。私が、だれかひとり青年と出会うたびに、そこにいるのは、まず間違いなく神の敵のひとりであり、----滅びへと至る広い道を歩んでいる者、----天国にふさわしからざる者なのである。これは慄然とさせられる考えである! 確かに、いま眺めたような事実をもってすればあなたも、私があなたに勧告することを不思議には思うまい。----そこにはそれなりの理由があると、あなたも認めざるをえないであろう。

 (2) もう1つのこととして、死と審きは、他の人々と同様、青年たちの前にもつきつけられており、彼らはほとんど全員それを失念しているように見受けられる。

 私は青年である方々に云いたい。あなたには、一度死ぬことが定められている。今のあなたがいかに頑健で健康であったとしても、ことによるとあなたの命日は旦夕に迫っているかもしれない。私は、年配者と同様、青年たちが病に倒れる姿を見てきている。私は、老人たちと同様、青年のなきがらをも埋葬してきている。どこの教会墓地に行っても私は、あなたよりも年下の人々の名前を読むことができる。ある書物によれば、死亡する人の数が最も多い年代は、幼年期および老年期を除くと、13歳から23歳の間であるという。だがしかし、現在のあなたは、まるで自分が不死身であると確信しているかのような生き方をしている。

 あなたは、こうした事がらを気にかけるのは明日でいいと考えているだろうか? ソロモンの言葉を思い出すがいい。「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ」(箴27:1)。ある異教徒*1は、来たるべき危険のことを自分に警告してくれた者に向かって、「真面目な話は明日にしよう」、と語ったが、彼の明日は決して来ることがなかった。明日は悪魔の日であるが、今日は神の日である。サタンは、あなたがどれほど霊的なことを意図しようが、どれほどあなたの決意が聖なるものであろうが、それらが明日行なわれることになっている限りは、全く意に介さない。おゝ、この件について悪魔に譲ってはならない。彼にはこう答えるがいい。「否、サタンよ! それは今日のことだ、今日なのだ」、と。だれもがイサクやヤコブのように一族の長となるまで生きながらえるわけではない。多くの子どもたちは、親に先立って死んでいく。ダビデは自慢の息子ふたりの死を嘆かなくてはならなかった。ヨブは十人の子宝を一日のうちに失った。あなたの運命は、彼らと同じようなものかもしれない。そして、その迎えが来たときに、明日のことをいくら語っても無駄であろう。----あなたは、ただちに旅立たなくてはならない。

 あなたは、こうした事がらをおりを見て、また少しずつ気にかけようと考えているだろうか? ペリクスやアテネの人々も、パウロの説教を聞いたときにはそう考えた。だが、その明日は決してやって来なかった。地獄への道は、そういう幻想で舗装されている。むしろ、そうする力のあるうちに、確実に動き出すことである。魂に関わることにおいては、いかなる危険も冒してはならない。嘘ではない。魂の救いは生やさしいことではない。老若を問わず、すべての人は「大いなる」救いを必要としている。すべての人は新しく生まれる必要がある。----すべての人はキリストの血によって洗われる必要がある。----すべての人は御霊によって聖なるものとされる必要がある。幸いなことよ、こうした事がらを不確かなままにしておかず、自分が神の子どもであるという御霊の証しを内側に得るまで決して安心しない人は。

 私は青年である方々に云いたい。あなたの時は縮まっている。あなたの日々はごくわずかで、影や霧のようなもので、----ひと息のように終わる。イザヤは云う。「若い男もつまずき倒れる」(イザ40:30)。あなたの健康は、一瞬のうちに取り去られるかもしれない。----それには、ちょっと高いところから転落するか、熱病にかかるか、炎症を起こすか、血管を傷つけるだけで事足りる。----そうなったら、あなたはじきに虫のえじきになるしかない。あなたがたの間には、死とほんの一歩の隔たりしかない人がいるであろう。今晩、あなたの魂があなたから取り去られることになるかもしれない。あなたは急速に地の全面を過ぎつつあり、----じきに過ぎ去って見えなくなるであろう。あなたの人生は不確かなことばかりである。----だが、あなたの死と審きは完璧に確実である。あなたも、御使いのかしらの吹き鳴らすらっぱの音を聞かなくてはならず、大きな白い御座の前に立たなくてはならない。----あなたも、ヒエローニュムスの云うところ常に彼の耳に鳴り響いていたという、あの召還に従わなくてはならない。「死んだ者よ。起き上がって、審きを受けよ」。《審き主》ご自身がこう云っておられる。「しかり。わたしはすぐに来る」。私は到底あなたを放っておくことはできない。そうしようとも思わないし、決してそうはすまい。

 おゝ、願わくはあなたがたがみな、かの《伝道者》の言葉を心に銘記するように。「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ」(伝11:9)。不可思議きわまりないのは、未来にこうしたことが待ち受けていると知りながら、無頓着で、のんきにしていられる人々である! 確かに、死の備えを何もせずに、のうのうと生きている者ほど狂った者はいない。確かに、人々の不信仰こそは、この世で最も驚愕すべきことである。いみじくも、聖書の中で最も明晰な預言は、この言葉によって始まっている。「私たちの聞いたことを、だれが信じたか」(イザ53:1)。いみじくも主イエスはこう云っておられる。「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」(ルカ18:8)。私は青年である方々に云いたい。私は、天の法廷では、あなたがたの多くについて、こういう調査報告が提出されているのではないかと恐れるものである。「彼らは信じようとしない」、と。私は、あなたがこの世から瞬く間に出て行き、目を覚ましたときには、死も審きも現実であるという取り返しのつかない真実に気づくのではないかと恐れるものである。私はこうしたすべてを恐れるものである。それゆえ私はあなたに勧告しているのである。

 (3) もう1つのこととして、青年の将来の姿は、ほぼ間違いなく、彼らが今いかなるありかたをしているかによって決まるものだが、このことを彼らは忘れているかのように見受けられる。

 青春期は、成年期のための種蒔きの時である。----短い人生における形成期である。----人間の精神史における転換点である。

 私たちは苗によって成木を判断する。----花によって実を判断する。----春先に収穫を判断する。----朝にその日一日を判断する。----そして、青年期の性格によって、一般には、その人が成人したときいかなる人物になるかを判断することができる。

 私は青年である方々に云いたい。欺かれてはならない。前半生では思いのままに情欲と快楽に仕えていながら、後半生になったら、行って神に仕えることがたやすくできるなどと考えてはならない。エサウとともに暮らしてから、ヤコブとともに死ぬことができるなどと考えてはならない。分別のある人は、神とあなたの魂を、そのように扱いはしない。自分の力の精華を世と悪魔に与え、《王の王》にはあなたの心の切れ端や残り物を与えてごまかす----あなたの力の残骸や余り物をあてがっておく----ことができるなどと考えるとしたら、すさまじい間違いである。途方もない誤りである。そのようなことはありえないとわかったときには手遅れであろう。

 おそらくあなたは、晩年になっての悔い改めを当て込んでいるであろう。だが、あなたは自分が何をしているかわかっていない。あなたは神を計算に入れていない。悔い改めと信仰は神の賜物であって、長いこと差し出しされていても受け取られないと、しばしば神が差し止めなさる賜物なのである。私も真の悔い改めに遅すぎることはないと認めるが、それと同時に、あなたに警告しておきたいのは、晩年になってからの悔い改めが真実であることはめったにない、ということである。私も、ひとりの悔い改めた強盗が死の間際で回心したことは認める。それは、だれも絶望しないためである。だが私はあなたに警告したい。回心したのは片方の強盗でしかなかった。それは、だれもつけ上がることのないためである。私も、イエスが「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります」、と書かれていることは認める(ヘブ7:25)。しかし私はあなたに警告したい。同じ御霊によって、こうも書かれているのである。「わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。……それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう」(箴1:24、26)。

 嘘ではない。思いのままに神に立ち返るのは、決して生やさしいことではないことにあなたは気づくであろう。いみじくも善良なるレイトン大主教はこう云っている。「罪の道は下り坂である。立ち止まろうと思っても止まることはできない」。聖なる願望や真剣な罪の確信は、かの百人隊長のしもべとは違って、あなたの思い通りに来たり去ったりするものではない。むしろそれは、ヨブ記で云われる野牛に似ている。----あなたの声に従ったり、あなたの命令を聞いたりすることはない。古代の高名な将軍*2について伝えられるところ、彼は、自分の攻めていた都市*3を征服しようと思えば征服できたときに、そうしようとしなかったがために、しだいしだいに、そうしたいと思っても、そうできなかった、という。用心するがいい。こうした類のことが、永遠のいのちに関することで、あなたの身にふりかからないように。

 私はなぜこうしたすべてを語っているのだろうか? 私がこう語るのは、習慣の力ゆえである。私がこう語るのは、経験の告げるところ、人々の心は、若いときに変えられない限り、めったに変わるものではないからである。人が老年になってから回心するのは実にまれである。習慣の根は深い。あなたの胸にひとたび落ち着くことを許された罪は、言葉1つで外に追い出せるものではない。慣習は第二の天性となり、その鎖は簡単には切れない三つ撚りの糸である。いみじくも、預言者はこう云っている。「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行なうことができるだろう」(エレ13:23)。習慣は丘を転がり落ちつつある落石に似ている。----長く転がれば転がるほど、その速度は早まり、始末に負えなくなる。習慣は、木々のように齢を重ねるほどに強められる。樫の木も、苗木のときなら、子どもでも曲げることができる。----だが成木になってしまうと、大人が百人がかりでも引き抜くことはできない。テムズ川も、その水源においては、子どもでも渡ることができる。----だが、その河口の近くでは、世界一の巨大船を浮かべることもできる。習慣もそれと全く同じである。年を重ねればそれだけ強くなり、----長年持っていればそれだけ投げ捨てるのが困難になる。それは私たちの成長とともに成長し、私たちの力とともに強められる。慣習は罪の乳母である。新たに罪を行なうたびに恐れや呵責の念は少なくなり、私たちの心はかたくなにされ、私たちの良心の切っ先は鈍らされ、私たちの悪しき傾向は強められる。

 私は青年である方々に云いたい。あなたは私がこの点についてあまりにも強調しすぎていると思っているかもしれない。だが、もしあなたが私と同じように臨終間際の老人を見たことがあるとしたら、----その無感覚で、無感動な、石臼のように無情で、死んだ、冷たく、かたくななようすを見たことがあるとしたら、----あなたもそうは思うまい。嘘ではない。魂の問題において、あなたは静止していることはできない。良いこと悪いことの習慣が日々あなたの心を強めている。毎日あなたは神に近づいていくか、遠ざかっていくかの2つに1つである。あなたが悔悟せずに生き続ける毎年毎年、あなたと天国とを隔てている壁はいやましてその高さと厚みを加えつつあり、あなたが渡らなくてはならない深淵はいやましてその深さと広さを増しつつある。おゝ、罪の中で絶えずぐすぐずしていることにより、いかにすさまじく心がかたくなにされることか! 今は受け入れられる時である。あなたがたの逃げるのが、冬にならぬようにするがいい。もしあなたが若いときに主を求めなければ、習慣のすさまじい力によってあなたは、おそらく決して主を求めることがないであろう。

 私はこのことを恐れるものであり、それゆえあなたに勧告しているのである。

 (4) 別のこととして、悪魔は青年の魂を滅ぼそうとして格別に力を傾注しているが、青年たちはそれがわかっていないように見受けられる。

 サタンはあなたがたが次の世代を形成するようになることを重々承知しており、それゆえ彼は、あなたがたを早めにわがものにしようと、あらゆる手練手管を用いている。私は彼の策略についてあなたが無知でいてほしくないと思う。

 あなたがたこそ、サタンがそのえりすぐりの誘惑のすべてを仕掛ける者たちである。彼はその投網を細心の注意を払って広げて、あなたの心を引っかけようとしている。彼はその罠にこの上もなく甘美な餌をつけておき、あなたを手中にしようとしている。彼は、無類の巧妙さでその商品をあなたの目の前に陳列し、あなたにその砂糖でまぶした毒物を買わせ、その呪われた珍味を食べさせようとしている。あなたは彼の攻撃の大目標なのである。願わくは主が、彼を叱責し、あなたを彼の手から救い出してくださるように。

 私は青年である方々に云いたい。サタンの罠にとらわれないように用心するがいい。彼はあなたの目に埃を投げ入れ、あなたが何事についても、その真の性質を見てとれないようにしようとしている。彼はあなたが悪を善と、善を悪と考えるようになることを喜びとする。彼は罪に化粧を施し、金でめっきし、粉飾しては、あなたにそれを愛させようとするであろう。真のキリスト教信仰を醜くし、誤り伝え、戯画化しては、あなたにそれを嫌わせようとするであろう。彼はよこしまな道の快楽をほめそやす。----だが、その毒針は隠しておくであろう。あなたの目の前に十字架とその苦痛を高々と掲げる。----だが、永遠の冠の姿は見えないようにするであろう。あなたに対して彼は、キリストに対してそうしたように、自分に仕えさえするならすべてを与えようと約束するであろう。もしあなたが実質をないがしろにしさえするなら、キリスト教信仰の見かけを身につけることすら手助けするであろう。彼は、あなたが人生の初期にあるときには、まだ神に仕えるなど早すぎると告げるであろう。----あなたが人生の終わりに近づくときには、それはもう遅すぎると告げるであろう。おゝ、欺かれてはならない!

 あなたは、自分がこの敵によっていかなる危険にさらされているかほとんど知っていない。そして、まさにこの無知こそ私を不安にさせているのである。あなたがたは、落とし穴だらけの道を歩いている盲人に似ている。あなたがたには、自分を取り巻いている幾多の危険が見えていない。

 あなたの敵は強大である。彼は「この世を支配する者」と呼ばれている(ヨハ14:30)。彼は、私たちの主イエス・キリストに、その公生涯の間中反抗していた。彼はアダムとエバを誘惑して禁断の木の実を食べさせ、罪と死を世にもたらした。彼は、神ご自身の心にかなった者と云われたダビデさえも誘惑し、彼の後半生を悲しみに満ちたものとした。彼は、えり抜きの使徒であったペテロさえも誘惑し、自分の主を否ませた。確かに、彼の敵意を軽んじるべきではないであろう。

 あなたの敵は疲れを知らない。彼は決して眠ることがない。ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、常にあちこちを歩き回っている。あなたがたは自分の魂について無頓着を決め込んでいるかもしれないが、彼はそうではない。彼はあなたの魂を自分と同じように惨めにしてやりたいと、----否、できるものなら、あなたの魂をわがものにしてやりたいと思っているのである。確かに、彼の敵意を軽んじるべきではないであろう。

 また、あなたの敵はずる賢い。ほぼ六千年もの間、彼は1つの書物を読んできている。そしてその書物とは、人間の心である。彼はそれを熟知しているに違いないし、実際にそれをよく知っている。----そのあらゆる弱さ、そのあらゆる陰険さ、そのあらゆる愚かさを知っている。また彼は、人の心に害を及ぼす見込みが最も高い誘惑をごまんと携えている。あなたは、彼に見つからないような場所には決して行くことがないであろう。町中に行ってみるがいい。----彼はそこにいるであろう。荒野に行ってみるがいい。----彼はそこにもいるであろう。酔いどれや道楽者たちの間に座ってみるがいい。----そこでも彼はあなたの手助けをしようと待っているであろう。説教に耳を傾けるがいい。----そこでも彼はあなたの気を散らそうと待っているであろう。確かに、このような敵意を軽んじるべきではないであろう。

 私は青年である方々に云いたい。この敵は、あなたが考えてもいないときに、あなたを破滅させようと、しゃにむに働いているのである。あなたこそは、彼がことさら一心に追い求めている獲物にほかならない。彼はあなたが、あなたの生きている時代にあって祝福となるか、呪いとなるかのいずれかでしかないことを予見しており、それで彼は必死になって、このように若年の時代からあなたの心の内側に橋頭堡を築き、あなたがしだいしだいに彼の王国の進展を助けるようにさせようとしているのである。彼は、花を台無しにするには芽を腐らせるに越したことはないのを承知しているのである。

 おゝ、願わくはあなたが、ドタンにおけるエリシャの召使いのように目を開かれるように! おゝ、願わくはあなたが、あなたの平安を奪い取るためにサタンがいかなる詐術を仕掛けているか見てとることができるように! 私はあなたに警告しなくてはならない。----あなたに勧告しなくてはならない。、あなたが聞こうが聞くまいが、私はあなたを放っておくことなどできない。そうしようとも思わないし、決してそうはすまい。

 (5) 別のこととして、青年が勧告を必要とするのは、いま神に仕え始めることによって、彼らが多くの悲しみを免れることができるからである。

 罪はあらゆる悲しみの母である。そして、いかなる種類の罪よりも大きな悲惨と苦痛を人にもたらすように思われるのは、若いときの罪にほかならない。青年時代に行なった愚かしい行為の数々、----浪費した時間、----犯した数々の過ち、----つきあっていた悪い仲間、----わが身と魂の双方にもたらした害悪、----幸福になれたのに棒に振った数々の機会、----世のため人のために働けたはずなのに無駄にした数々の好機、----これらはみな、しばしば老人の良心を苦いものとし、人生のたそがれに陰鬱な影を投げかけ、生涯最後の時間を自責と不面目の思いで満たすものである。

 ある人々は、若いときの罪によってもたらされた、早すぎる健康の喪失について、あなたに告げることができるであろう。病が彼らの四肢を侵し、生きるのがいやになるほどの苦しみをもたらす。その衰え果てた腕力にとっては、いなごすら重荷と思われる。彼らの目は年よりも早くかすみ、彼らの体力は抜け落ちていく。彼らの健康の太陽は、まだ昼間のうちから没してしまい、彼らは自分の肉体が老いさらばえていることを嘆く。嘘ではない。これは飲むには苦い杯である。

 別の人々は、怠惰のもたらした結果について悲しい物語をあなたに伝えることができるであろう。彼らは、物事を学べる黄金の機会を空費してしまった。彼らは、自分の精神が最も知恵を受け入れる力のあるときに、またそれを記憶しておく力が最も旺盛なときに、知恵を得ようとしなかった。そして今となっては手遅れなのである。彼らには、じっくり腰を据えて学ぶことのできる暇がない。たとえその暇があっても、以前のような力はない。失われた時間は、決して取り返しがつかない。これもまた、飲むには苦い杯である。

 他の人々は、一生の間苦しむことになる嘆かわしい判断の誤りについてあなたに告げることができるであろう。彼らは自分のわがままを通したがった。他人の助言を聞こうとしなかった。自分の幸福にとって全く破滅的な関係を結んでしまった。自分にとって全くふさわしくないような職業を選んでしまった。そして彼らは、今それらをみな見てとっている。しかし、目が開かれたときには、もはや過ちをなかったことにはできなかった。おゝ、これもまた、飲むには苦い杯である!

 私は青年である方々に切に願いたい。ぜひ知ってほしい。良心の安息にとって、若いときに犯した罪の長い一覧によって重荷を負わされていないということが、いかに尊いことかを。そうした傷こそ、心に最も深手を負わせる傷である。そうした罪こそ、人のたましいに毒を飲み込ませる矢である。これこそ魂に打ち込まれるくさびである。自分を大切にするがいい。若いうちに主を求め、多くの苦い涙を流さないですむようにするがいい。

 これこそヨブが実感していたように思われる真理である。彼は云う。「実にあなたは私に対してひどい宣告を書きたて、私の若い時の咎を私に受け継がせようとされます」(ヨブ13:26)。同じように、彼の友人であるツォファルも悪人についてこう云っている。「彼の骨は若い時の罪に満ちており、それが彼とともにちりに横たわる」(ヨブ20:11 <英欽定訳>)。

 ダビデもまた、このことを感じとっていたようである。彼は主に向かって云っている。「私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください」(詩25:7)。

 かの偉大なスイスの宗教改革者ベザは、この真理を痛切に実感していたらしく、その遺言状の中で、自分が16歳のときに神の恵みによって世から召し出されたことを格別なあわれみとして特にあげているほどである。

 信仰者たちのもとに行き、彼らに問うてみるがいい。多くの者たちは、ほぼ異口同音にこう告げると思う。「おゝ、若い頃に戻ってもう一度人生をやり直せたならどんなに良いことか!」 その人はほぼ間違いなくこう云うであろう。「おゝ、もしも私が人生の出だしを、より良いしかたで始めていたとしたら! おゝ、もしも私が青春時代に、あれほど強固に悪習慣の土台を据えることがなかったならば!」、と。

 私は、青年である方々が、できるものなら、一切こうした悲しみを免れるようにしてやりたいと思う。地獄が真実であると知ったときには手遅れである。まだ間に合ううちに知恵を得るがいい。青年期に蒔いたものは、老年期に刈り取らなくてはならない。あなたの人生の最も貴重な時期を、あなたが末期を迎える時に慰めとならないようなものに与えてはならない。正義の種を蒔き、耕地を開拓するがいい。いばらの中に種を蒔いてはならない。

 今は、罪はあなたの手からたやすくこぼれだし、あなたの舌から軽やかに流れ出るかもしれない。だが、請け合ってもいいが、罪とあなたは徐々に、いやでも顔をつきあわせなくなってくる。古傷は、しばしばそれが癒えて傷跡しか残らなくなった後、何年もたってから痛みだし、非常な苦痛をもたらすことが多い。----それと同じことをあなたは自分の罪について見いだすであろう。かつては濡れた砂であった岩の上には、動物たちの足跡が、それをつけた動物たちがとうの昔に死に絶えた後になっても、くっきり残っている*4。----あなたの罪もそれと同じようになるであろう。

 ことわざに、「経験は法外な学び舎である。だが愚か者たちは他のどの学び舎でも学ぼうとはしない」、という。私はあなたがたがみな、この学び舎で学ぶような悲惨な目に遭わないでほしいと願っている。若いときの罪に確実に伴う不幸を、あなたがたは避けてほしいと思う。これが、私があなたに勧告する最後の理由である。

 

II. 青年の危険

2. 第二のこととして、青年たちには、警告されなくてはならない特別な危険がいくつかある。

 (1) 青年にとって1つの危険は高慢である。

 私も、あらゆる魂が恐ろしい危難にさらされていることはよく承知している。老人であるか若人であるかは全く関係ない。あらゆる人には走るべき競走があり、戦うべき戦闘があり、抑制すべき心があり、打ち勝つべき世があり、従わせるべきからだがあり、立ち向かうべき悪魔がいる。それゆえ私たちは、こう云って当然であろう。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう、と。しかし、それでもあらゆる年代と状況には、それぞれに特定の罠と誘惑があり、それらを知っておくに越したことはない。警戒は警備なり、と云う。もし私がこれから語っていく危険の数々に対して、あなたが警戒を固めるようになるとしたら、私は確かにあなたの魂にとって大切な奉仕をしたに違いない。

 高慢はこの世で最も古い罪である。実際、それは世界の創世前からあった。サタンとその使いたちは、高慢によって堕落した。彼らは自分たちの最初の立場に満足しなかった。こうして、高慢によって地獄は、最初の居住者たちをくわえ込むことになったのである。

 高慢によってアダムは楽園から放逐された。彼は、神から割り当てられた地位に満足しなかった。彼は自分を高めようとして転落した。このように、高慢によって罪と、悲しみと、死は、入り込んできたのである。

 高慢は生まれながらに私たちすべての心にある。私たちは高慢な者として生まれる。高慢によって私たちは、自己満足してあぐらをかく。----今のままの自分で十分善良だと考える。----忠言に対して耳を閉ざす。----キリストの福音を拒否する。----あらゆる者が自分勝手な道に向かって行く。しかし、いかなる場所にもまして高慢が強大な支配権を振るうのは、青年たちの心の中である。何と多くの青年たちが、依怙地で、尊大で、他人の助言にがまんできない姿をさらしていることか! いかにしばしば彼らは、自分の回りにいるすべての人々にぞんざいで不作法な態度をとり、自分にはしかるべき評価も栄誉も与えられていないと考えることか! いかにしばしば彼らは、年配者からの示唆に馬耳東風を決め込むことか! 彼らは、自分が何もかも知っていると思っている。自分ほどの知恵者はいないとうぬぼれきっている。彼らは年長の人々、特に自分に血のつながる人々を愚かで、鈍くて、物わかりが悪い愚物とみなしている。自分が何の教訓も指導も受ける必要がないと夢想している。自分は何もかも理解しているのだ。彼らは、忠告を受けるとほとんど怒りを発するほどである。若駒と同じく、彼らはほんのささいな制御にもがまんがならない。彼らはだれからも束縛を受けずに、やりたい放題にしないではいられない。彼らはヨブが言及した人々のように、「われわれこそ人だ。われわれが死ぬと、知恵も共に死ぬ」*、と考えている(ヨブ12:2)。そしてこれらはみな高慢なのである。

 そうした者がレハベアムであった。彼は父王の補佐をしていた老練な年配者たちの忠言を軽蔑し、自分と同世代の青年たちの助言に聞き従った。彼は後に自分の愚劣さの結果を刈り取ることになった。何と多くの者が、彼に似ていることか。

 そうした者が、たとえ話のあの放蕩息子であった。彼は自分の財産の分け前を遮二無二ほしがり、自分ひとりで旅立った。彼は父の家の屋根の下でおとなしく暮らしていることができず、遠い国に行き、だれの指図も受けずに生きたがった。だが、母親の手をふりほどいて自分ひとりで歩きたがる幼子のように、彼はすぐに自分の愚行によって痛い目に遭うことになった。彼は、豚の食べるいなご豆を食べなくてはならなくなって初めて、自分の愚かさかげんが身にしみた。しかし、何と多くの者が彼のようであることか。

 私は青年である方々に切に願いたい。高慢に用心するがいい。この世には見るもまれなものが2つあると云う。----1つは青年が謙遜にしている姿であり、もう1つは老人が満ち足りている姿である。残念ながら、この言葉はあまりにも真実ではないかと思う。

 自分の才能を誇らないようにするがいい。----あなた自身の力や、----あなた自身の知識、----あなた自身の容姿、----あなた自身の才気を誇ってはならない。自分を誇りとせず、いかなる類のものであれ自分の天賦の才を誇ってはならない。これらはみな、自分自身をも、世をも知らないことから出ているのである。年を重ねるにつれてあなたはより目が見えるようになり、より自分を誇りに思う理由が少なくなっていくであろう。無知と未経験こそは高慢の台座である。その台座を取り払ってしまうが早いか、高慢はたちまち瓦解するであろう。

 聖書がいかにしばしば謙遜な精神のこの上ない素晴らしさを私たちに指し示していることか思い出すがいい。いかに私たちが、「思うべき限度を越えて思い上がってはいけません」、と強く警告されていることか(ロマ12:3)。いかに私たちは、はっきり告げられていることか。「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」、と(Iコリ8:2)! 次のような命令のいかに厳格なことか! 「謙遜……を身に着けなさい」(コロ3:12)。また、「謙遜を身に着けなさい」(Iペテ5:5)。悲しいかな、多くの人々は、この衣を、ぼろきれ同然に身に着けたがらない。

 私たちの主イエス・キリストがこの点で私たちに残された偉大な模範を考えてみるがいい。主はご自分の弟子たちの足を洗ってこう云われた。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように」(ヨハ13:15)。こう書かれている。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました」(IIコリ8:9)。また、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし……たのです」(ピリ2:7、8)。確かに高慢になるということは、キリストに似た者となるよりは、悪魔や、堕落したアダムにより似た者となることであるに違いない。確かに主に似た者となることは、卑しいことでも、憂鬱なことでもないに違いない。

 史上最も知恵を有していた人物のことを考えてみるがいい。----私の云っているのはソロモンのことである。彼がいかに自分のことを「小さい子ども」と語っているか見るがいい。----いかに彼が自分のことを「出入りするすべを知りません」、すなわち身の処し方がわからない、と云っているか見てみるがいい(I列3:7、8)。これは、彼の兄アブシャロムとは非常に異なった精神であった。兄の方は、何様にも負けないという思い上がった心持ちをしていた。「ああ、だれかが私をこの国のさばきつかさに立ててくれたら、訴えや申し立てのある人がみな、私のところに来て、私がその訴えを正しくさばくのだが」(IIサム15:4)。また、これは、彼の兄アドニヤとも非常に異なった精神であった。彼は「『私が王になろう。』と言って、野心をいだ」いた(I列1:5)。謙遜さこそソロモンの知恵の始めであった。彼は自分自身の経験としてこう書き記している。「自分を知恵のある者と思っている人を見ただろう。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある」(箴26:12)。

 私は青年である方々に云いたい。ここに引用された聖句を心に銘記しておくがいい。自分自身の判断にあまりにも自信を持ちすぎてはならない。正しいのは常に自分で、他の人々は常に間違っていると確信するのはやめるがいい。あなたの意見が自分よりも年長の人々の意見とぶつかるときには、特にあなた自身の両親の意見と対立するときには、自分を信用しないようにするがいい。人は齢とともに経験を重ねるものであり、それゆえ敬意に値するのである。ヨブ記のエリフは、その知恵のしるしをこのように示している。「エリフはヨブに語りかけようと待っていた。彼らが自分よりも年長だったからである」(ヨブ32:4)。また、その後の箇所では、こう語っている。「私は若く、あなたがたは年寄りだ。だから、わきに控えて、遠慮し、あなたがたに私の意見を述べなかった。私は思った。『日を重ねた者が語り、年の多い者が知恵を教える。』と」(ヨブ32:6、7)。慎みと沈黙は、青年のうちにあるとき、ひときわ美しく輝く恵みである。人からものを学ぶことを決して恥じてはならない。12歳のときのイエスはそうなさらなかった。彼は、「宮で教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられ」た(ルカ2:46)。人は賢い人ほど、あなたにこう語り聞かせるであろう。自分が常に学びつつあることを、また、いかに自分が何も知らないに等しいかを悟って謙遜にさせられていることを。偉大なアイザック・ニュートン卿が口癖のように云っていたのは、自分は知識の大海の岸辺できれいな小石を拾い集めている幼子のようにしか感じられない、ということであった。

 私は青年である方々に云いたい。もしあなたが幸福になりたければ、私がいま与えつつある警告を覚えておくことである。----高慢に用心するがいい。

 (2) 青年にとってもう1つの危険は、快楽への愛である。

 青年期は私たちの情動が最も強力な時期である。----そして、それらが手に負えない子どものように、わがまま放題に泣きわめく時期である。青年期は、概して私たちが最も健康で強壮な時期である。死は彼方にしか見えず、現世で楽しみを得ることがすべてに思える。青年期はたいていの人々にとって、とりたてて注意すべき地上的な気遣いや心配事がほとんどない時期である。そして、こうしたすべての事がらに励まされて、青年たちは快楽のほか何も考えることがない。もしも、「あなたはだれに仕えているのか?」、と問われるならば、多くの青年が心底で返す答えはこうなるであろう。「私は情欲と快楽に仕えています」。

 私は青年である方々に云いたい。もし私があなたに、この快楽への愛が生み出すすべての果実を告げようとするならば、またそれがあなたに害をもたらすしかたを逐一あげようとするならば、いくら暇があっても足りないであろう。ここであえて、酒盛りや、乱痴気騒ぎや、泥酔や、賭博や、劇場通いや、舞踏などといったものについて語る必要があるだろうか? こうしたことのいくばくかを苦い経験によって知っていない者はほとんどいないはずである。そして、これらは、ほんの数例にすぎない。一時の昂揚感をもたらすすべてのこと、----思索をかき消し、精神を絶え間ないめまぐるしさの中にとどめておくすべてのこと、----官能を喜ばせ、肉を満足させるすべてのこと、----こうした事がらこそ、あなたが迎えている人生の時期において強大な力をふるう類の事がらであって、それらの力の根源は快楽への愛にあるのである。警戒を固めるがいい。パウロが語っているような種類の者にならないようにするがいい。「神よりも快楽を愛する者」(IIテモ3:4)。

 私の云うことを覚えておくがいい。もしあなたが地上的な楽しみにしがみつき続けようとするなら、----これらは魂を殺すことになる。良心を無感覚にし、悔悟することのないかたくなな心を手に入れる最も確実な方法は、肉と精神の欲望に身をまかせることである。それは、最初のうちは何ほどのことでもないように思えるが、長い目で見るとじわじわと効いてくる。

 ペテロが云っていることを考えてみるがいい。「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい」(IIペテ2:11)。種々の肉欲は魂の平安を破壊し、その強さをくじき、その首根をがっちりと抑えて、奴隷にしてしまう。

 パウロが云っていることを考えてみるがいい。「地上のからだの諸部分……を殺してしまいなさい」(コロ3:5)。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」(ガラ5:24)。「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます」(Iコリ9:27)。かつて肉体は、魂にとって完璧な住まいであった。----今ではそれは芯から腐敗し、調子を狂わせており、常に監視が必要である。それは魂にとって重荷であり、----良い助け手ではない。妨げであり、----力添えではない。それはしもべとしては役に立つものとなりえるが、主人としては常に最悪である。

 また、パウロの言葉を考えてみるがいい。「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません」(ロマ13:14)。レイトンは云う。「これこそ、それを読むことによってアウグスティヌスを一変させた言葉である。これによって、放蕩三昧の青年が、イエス・キリストに仕える忠実なしもべと変えられたのである」。私は青年である方々に云いたい。願わくは、これがあなたがた全員の経験となるように。

 さらに、もしもあなたが地上的な楽しみにしがみつき続けようとするなら、それらがみな不満足で、うつろで、空しいものであることを思い出すがいい。黙示録にあるいなごの幻のように、それらは頭には冠をかぶっているように見えるが、その同じいなごのように、あなたはそれらに針があることに気づくであろう。----それは真の針、----その尾についた針である。光るものすべてが金ではない。甘く感じられるもののすべてが良いものではない。一時的に人を喜ばせるものすべてが真の喜びではない。

 そうしたければ、行って地上的な快楽を思う存分に満喫するがいい。----あなたは決してそれらが心を満足させないことに気づくであろう。あなたの内心では、常に1つの声が、箴言に云う蛭のように、「くれろ、くれろ」、と叫んでやまないであろう。そこには、ぽっかりとした空洞があり、神以外の何物によっても満たせないであろう。あなたはソロモンが経験によって悟ったように、地上的な快楽が空しい見せかけでしかないことに気づくであろう。----それは、精神の空虚さとむなしさ、----白く塗った墓であって、その外側は美しく見えても、内側は、灰や腐れで満ちている。手遅れになる前に知恵を得るがいい。地上的な快楽のすべてに「毒物」と書いておくがいい。いかに正当な楽しみといえども、慎み深く用いられなくてはならない。これらはみな、あなたが心をまかせれば、魂を破滅させるものとなる*5

 そして、ここで私がためらうことなくあらゆる青年に警告したいのは、第七戒を忘れてはならない、ということである。姦淫や、不品行や、あらゆる種類のみだらな行ないすべてに用心するがいい。私は、神の律法のこの部分について、歯に衣着せぬ物云いがしばしば欠けているのではないかと恐れるものである。しかし、いかに預言者や使徒たちがこの主題を取り扱っているかを見てとるとき、----また、いかにわが国教会の宗教改革者たちがそれを公然と非難しているかに注目するとき、----また、いかにおびただしい数の青年たちが、ルベンや、ホフニや、ピネハスや、アムノンの足どりをたどっているかを見てとるとき、----私としては、口をつぐんで安閑としてはいられないのである。私は世が、この戒めについて過剰な沈黙を守ることによって少しでもまともになっているかどうか疑わしく思う。私としては、青年に対する語りかけにおいて、何にもまして「青年の罪」であることについて語らないのは、間違った、また非聖書的な潔癖さであろうと感じている。

 第七戒への違反は、他のいかなる罪にもまして、ホセアが云うように、「心を奪い取る」罪である(ホセ4:11 <英欽定訳>)。それは、人間が犯しうるいかなる罪よりも、深々とした傷跡を魂に残す罪である。それは、あらゆる時代にその幾千人をも打ち殺してきた罪であり、少なからぬ数の神の聖徒たちを過去の時代に転覆させてきた罪である。ロトや、サムソンや、ダビデがその恐ろしい証明である。それは、人が一笑に付し、お楽しみだの、若気の至りだの、奔放さだの、不身持ちなどといった名前のもとで云いつくろって恥じない罪である。しかし、それは悪魔がことのほか喜びを感ずる罪である。というのも悪魔は「汚れた霊」だからである。またそれは、神がことのほか忌みきらう罪であって、神によって「さばかれる」と宣告されている罪である(ヘブ13:4)。

 私は青年である方々に云いたい。いのちを愛しているというのなら、「不品行を避けなさい」(Iコリ6:18)。「むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです」(エペ5:6)。この罪のきっかけとなるものを避けるがいい。----あなたをこの罪に引き込みかねない仲間たち、----あなたがこの罪に誘惑されかねない場所を避けるがいい。マタ5:28で、この件について私たちの主が何と云っておられるか読んでみるがいい。聖なるヨブのようになるがいい。「私は自分の目と契約を結んだ」(ヨブ31:1)。それについて口にすることをも避けるがいい。これは、口にすることさえも許されてはならない事がらの1つである。朱に交わって赤くならずにすむ者はいない。それについて考えることをも避けるがいい。そうした想念に抵抗し、それらを抑制し、それらに対抗して祈るがいい。----いかなる犠牲を払ってもそれらに屈してはならない。想像は、この罪があまりにもしばしば孵化する温床である。あなたが思いを堅く守っていいる限り、自分の行為について恐れる心配はほとんどない。

 私が与えてきた警告を考えてみるがいい。もしあなたが他のすべてを忘れても、このことだけは忘れてはならない

 (3) 青年にとってもう1つの危険は、無思慮と無分別である。

 思慮が足りないことこそ、おびただしい数の魂が永遠に難船しつつある理由にほかならない。人々は考えようとしない。----前を見通そうとしない。----あたりを見渡そうとしない。----自分の現在の人生行路の行く末も、自分の現在の生き方が確実に招く結果も思い巡らそうとしない。----そして、最後に目覚めたときに彼らは、自分に考えが足りなかったために地獄に堕ちていることに気づくのである。

 私は青年である方々に云いたい。いかなる人にもましてこの危険にさらされているのは、あなたである。あなたは、自分の回りの危険の種をほとんど知らず、そのため自分の歩み方に注意を払わない。あなたは真面目にじっくりと考えを巡らす手間暇を嫌い、頭から悲しみに飛び込んでいく。青年エサウは、何がなんでも弟の煮物をほしがったために、長子の権を売り払った。彼が決して考えなかったのは、いつの日か自分がどれほどそれを欲するようになるか、ということであった。青年シメオンとレビは、何がなんでも妹ディナの復讐をしたがったために、シェケム人たちを打ち殺した。彼らが決して思い巡らさなかったのは、彼らがどれほどの困難と不安を父ヤコブとその家にもたらすか、ということであった。ヨブは自分の子どもたちのこの無思慮さをことのほか恐れていたように思われる。こう書かれている。彼らが祝宴を持ったときには、「祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、『私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。』と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた」(ヨブ1:5)。

 嘘ではない。この世は、私たちが考えもなしにうまくやっていけるような場所ではない。ことに、それが私たちの魂に関わることとあらばなおさらである。「考えることなどない」、とサタンは囁きかけている。彼は、未回心の心が不正直な商人の帳簿にも似て、精密な吟味には耐えられないことを知っているのである。「あなたがたの現状をよく考えよ」、と神のことばは云う[ハガ1:5、7]。----立ち止まって考えよ。----考えて、知恵を得よ、と。このスペインの格言は至言である。「せわしさは悪魔から来る」。さながら急いで結婚してゆっくり後悔する人と同じように、人々は瞬時のうちに自分の魂について間違いを犯しては、何年もかけてその結果に苦しむのである。ふとした過ちを犯した悪いしもべが、後になって、「何の気なしにしてしまいました」、と云うように、青年たちは罪に突き進んでいってから、「ぼくは何も考えていなかった。----まるで罪のようには見えなかったのだもの」、と云う。罪のようには見えなかった! 一体あなたは罪がどんな姿をしていると思っているのか。罪はあなたのもとにやって来て、「俺様は罪だ」、などと云いはしない。そうだとしたら、ほとんど何の害をなすこともできないであろう。罪は常に、それを犯すときには、「良く、目に慕わしく、いかにも好ましく」思われるものである。おゝ、知恵を得て、分別を得るがいい! ソロモンの言葉を思い出すがいい。「あなたの足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を堅く定めよ」(箴4:26)。いみじくもベーコン卿はこう云っている。「何事もあせっては行なうな。しばしとどまる方が、それだけ早く事は済む」。

 あえて云うが、一部の人々は私に反対して、私の求めていることは理不尽だというであろう。青年期は、人々が重々しく思慮に富むようになるべき人生の時期ではない、と。私の答えは、現今において、青年たちがそのようになりすぎる危険はほとんどない、ということである。与太話や、悪ふざけや、冗談や、行き過ぎた陽気さは、あまりにもはびこり過ぎている。疑いもなく、すべてのことには時がある。だが、常に軽薄で、浮薄にしていることは、到底賢明なことではありえない。賢者中の賢者は何と云っているだろうか?----「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く」(伝7:2、3、4)。マシュー・ヘンリの告げる話によると、エリザベス女王の時代のとある大政治家*6は、その晩年に公人としての生活から隠退し、真剣な思索にふけるようになったという。彼の以前の陽気な仲間たちが彼を訪問し、彼がだんだん憂鬱になっていると告げたところ彼は、「いいや」、と答えて云った。「私は真剣なのだ。私の回りのすべてのものが真剣だからだ。神は真剣に私たちを見つめておられる。----キリストは真剣に私たちのためとりなしておられる。----御霊は真剣に私たちと争っておられる。----神の真理は真剣なものだ。----私たちの霊的な敵どもは真剣に私たちを破滅させようと努力している。----あわれな失われた罪人たちは地獄で真剣に苦しんでいる。----では、どうして君や私が真剣にならずにいてよかろうか?」

 おゝ、私は青年である方々に云いたい。思慮深くなるがいい! 自分が何をしているのか、どこへ行こうとしているのかを考えるようになるがいい。じっくりと腰を据えて思索する時を設けるがいい。自分自身の心と親しく語り合い、静かにしているがいい。私の注意を忘れてはならない。----単に思慮が足りないがために滅びないようにするがいい。

 (4) 青年にとってもう1つの危険は、キリスト教信仰に対する軽蔑である。

 これもまた、特にあなたが陥りやすい危険の1つである。私が常に目にするところ、いかなる者にもましてキリスト教信仰に外的な敬意をまず払わないのは青年たちである。これほど恵みの手段に携わることの少ない者たちはなく、----礼拝に集っていてさえも、これほどその部分部分に身を入れることの少ない者たちはなく、----これほど聖書と《祈祷書》を用いることの少ない者たちはなく、----これほど歌うことの少ない者はなく、----これほど説教に耳を傾けることの少ない者はない。たいがいの場合、これほど祈祷会や、講演や、魂にとって助けとなるそうした平日の集会に欠席する者はない。彼らは、自分にはそうしたものが必要ないと考えているらしい。----それらは女性や老人には良いものかもしれないが、彼らにはお呼びでない。彼らは自分の魂について気がかりな素振りを見せることを恥じているように思われる。彼らを見ていると、ほとんど彼らは天国に行くのが不名誉なことででもあるかのように考えているように思えるほどである。これこそ、キリスト教信仰への軽蔑にほかならない。----それは、ベテルの青年たちがエリシャをからかったのと同じ精神である。----そして、この精神について私はあらゆる青年に云いたいのである。用心するがいい、と! もしもキリスト教信仰をいだくことに価値があるとするなら、キリスト教信仰には熱心に追求する価値があるはずである。

 聖なる物事に対する軽蔑こそ、不信心に至る大道である。人がいったんキリスト教の何らかの部分をあざ笑ったり、冗談にしたりし出すが早いか、私はその人が徹底的な不信者になり果てたと聞いても決して驚かない。

 私は青年である方々に云いたい。あなたは本気でそのような運命を辿る決心をしているのだろうか? あなたは、キリスト教信仰を侮り続ける者の前に開いている深淵をちゃんと覗き込んだことがあるだろうか? ダビデの言葉を思い起こすがいい。「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている」(詩14:1)。愚か者、まぎれもない愚か者である!----彼はそう云ってはいる。だが、それを決して証明したことはない! 覚えておくがいい。もし何か一冊、最初から最後まで、あらゆる種類の証拠によって真実であると証明されている本があるとするなら、その書物は聖書である。それはあらゆる敵、あらゆるあら探し屋の攻撃をはねかえしてきた。「主のみことばはまことに試されたもの」*(詩18:30)。それはあらゆるしかたで試されてきており、試されれば試されるほど、まさに神ご自身の手のわざであることがいやまして明確になっている。聖書を信じなければ、あなたは何を信じようというのか。何か滑稽で、ばかげたものを信ずるほかあるまい*7。嘘ではない。いかなる人にもまして、うかうかと物を信じ込んでいるのは、聖書が神のことばであることを否定する人である。----だが、もし聖書が神のことばだというなら、それを軽蔑しないように留意するがいい。

 人々はあなたに聖書の中には困難がいくつもあると告げるかもしれない。----理解困難なことがいくつもあると云うかもしれない。だが、もしそうでなければ、それは神の書ではないであろう。また、そうしたことがあるとしても、それでどうしたというのか? あなたは、医者が薬を使って何をしているかすべて説明できないからといって、薬を軽蔑しはすまい。しかし、人間が何と云おうと、救いに必要な事がらは陽光のように明らかである。よく聞いてほしい。----人々が聖書を拒否するのは、決して聖書を理解できないからではない。理解しすぎるからなのである。彼らは、聖書が自分の行ないを糾弾していることを理解する。聖書が自分のもろもろの罪に不利な証言を行ない、自分を審きに召還していることを理解する。彼らが聖書など虚偽で役立たずだと信じ込もうとするのは、それを真実であると認めるのがいやだからなのである。「悪の生活は」、と高名なロチェスター卿は、聖書に手を置いてこう語った。「悪の生活は、この書物に反対する唯一の大きな反論である」。サウスは云う。「人々がキリスト教の真理を疑うのは、彼らがキリスト教の実践を忌み嫌っているからなのだ」。

 私は青年である方々に云いたい。神がその約束を守れなかったことが一度でもあっただろうか? 一度お語りになったことを、神は常に行なわれる。また、口にされたことを常に成就なさる。ノアの洪水のとき、神はお語りになったことを反故になさっただろうか?----否。ソドムとゴモラについてそうなさっただろうか?----否。不信仰なエルサレムについてそうなさっただろうか?----否。現時点に至るまでのユダヤ人についてそうなさっただろうか?----否。神は、決してご自分のことばを実現せずにはおかなかった。注意するがいい。あなたが神のことばを軽蔑する者たちの間に見いだされることがないように。

 決してキリスト教信仰を笑いものにしてはならない。決して聖なる事がらを侮ってはならない。決して自分の魂について真剣になり、熱心になっている人々を嘲ってはならない。やがてあなたが、自分の笑っていた人々の方が幸福であるとみなす時がやってくるかもしれない。----あなたの笑いが悲しみに変わり、あなたの嘲りが憂いに変わる時が来るかもしれない。

 (5) 青年にとってもう1つの危険は、人の意見への恐れである。

 まことに、「人を恐れるとわなにかかる」(箴29:25)。これがほとんどの精神、特に青年の精神に及ぼしている力は、見るも恐ろしいものがある。自分の意見というものを持っている者、自分で考えるということをしている者は、ほとんどいないように思える。死んだ魚のように、彼らは潮流に流されていく。他の人々が正しいと考えることを、彼らも正しいと考え、他の人々が間違っていると云うことを、彼らも間違っていると云う。世界には独創的な考え方をする人はそれほど多くいない。ほとんどの人は羊のように指導者についていくだけである。もしも時代の流行がローマカトリック教徒になることなら、彼らはローマカトリック教徒になるであろう。----イスラム教徒になることなら、イスラム教徒になるであろう。彼らは時代の流れに逆行することに怖じ気をふるう。一言で云うと、時代の意見が彼らの信仰、彼らの信条、彼らの聖書、彼らの神となっているのである。

 「友だちから何と云われるだろうか、何と思われるだろうか?」、という考えが、多くの良い傾向を芽のうちに摘み取ってしまう。きょうのこの日、持ち主さえその気になれば、いつでも読めるようになっている聖書がこの国にはごまんとある。人は聖書を読むべきであるとは知っているが、心に恐れがあるのである。----「人から何と云われるだろう?」 きょうのこの夜、祈りのために屈めようと思えば屈めることのできる膝はたくさんある。だが、人への恐れがそうさせないでしまう。----「妻は、弟は、友は、仲間は、私が祈っているのを見たら何と云うだろうか?」 悲しいかな、これは何とみじめな、だがしかし、何とよく見受けられる奴隷根性であろう! 「私は民を恐れ……たのです」、とサウルはサムエルに云った。それで彼は主の命令にそむいたのである(Iサム15:24)。「私は人々を恐れる」*、と神に見放されたユダ王ゼデキヤは云った。それで彼はエレミヤの与えた助言に従わなかったのである(エレ38:19)。ヘロデは客人たちから何と思われるかを恐れて、自分でも「非常に心を痛めた」ことを行なった。----彼はバプテスマのヨハネの首を打ち落としたのである。ピラトはユダヤ人たちを怒らせることを恐れた。それで彼は自分の良心では不正と知っていることを行なった。----彼はイエスを十字架につけるために引き渡したのである。もしこれが奴隷根性でなければ、何が奴隷根性だろうか?

 私は青年である方々に云いたい。あなたがたはみな、この奴隷のくびきから自由になってほしい。あなたがたそれぞれが、義務の道が明らかな時には、他人の意見など屁とも思わない者になってほしい。嘘ではない。「否!」、と云えることは大いなることなのである。ここに善王ヨシャパテの弱点があった。----彼は、アハブとの関係においてあまりにも唯々諾々と、云いなりになっていたがために、多くの困難を身に招いた(I列22:4)。「否!」、と云えるようになってほしい。気難しい人間に見られるのではないか、などという恐れによって、「否」、と云えないようなことがないようにするがいい。罪人たちがあなたを誘惑するときには、きっぱりと、「私はいやです」、と云えるようになるがいい(箴1:10)。

 この、人間への恐れが、いかに理に合わないことかだけでも考えてみるがいい。人間の敵意がいかに短命で、人間がいかに僅かな害悪しかあなたに加えられないことか! 「あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。天を引き延べ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ……ている」(イザ51:12、13)。また、この恐れが、いかに恩知らずなものであることか! あなたがそうしたからといって、だれもあなたに感心する者はいないであろう。世が最も尊敬するのは、常に、神のために大胆に行動する人々である。おゝ、こうした束縛を打ち砕き、こうした鎖を打ち捨てるがいい! あなたが天国に行きたいと望んでいることを人々に見せるのを決して恥じてはならない。自分が神のしもべであることを表明するのを不名誉と考えてはならない。正しいことを行なうことを決して恐れてはならない。

 主イエスのことばを思い出すがいい。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタ10:28)。ただ神だけを喜ばせようとこころがけるがいい。そうすれば神は、すぐに他の人々があなたのことを喜ぶようにしてくださる。「主は、人の行ないを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる」(箴16:7)。

 私は青年である方々に云いたい。勇気を持つがいい。----この世から何と云われるか、何と思われるかなど気にしてはならない。あなたはこの世といつまでもともにいるわけではない。人間があなたの魂を救えるだろうか?----否。人間があの大いなる、恐ろしい精算の日に、あなたの審き主となるだろうか?----否。人間があなたに、現世にあっては晴れやかな良心を、死にあっては確かな希望を、復活の朝には素晴らしい答えを与えられるだろうか?----否! 否! 否! 人間にはそうしたことが何1つ行なえない。では、「人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。しみが彼らを衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす……からだ」(イザ51:7、8)。善良なガードナー大佐の言葉を胸に留めるがいい。「私は神を恐れている。従って私には、他に恐るべきものは何1つない」。行って、彼と同じようになるがいい。

 こうしたことが、私があなたに与える警告である。これらを心に銘記するがいい。これらは繰り返し考える値うちがある。私がよほどひどい思い違いをしていない限り、これらは非常に必要とされていることである。願わくは主が、ここで与えられた警告をあなたにとって無駄にならないものとしてくださるように

III. 青年に対する一般的な助言

3. 第三に、私は青年に一般的な忠告をいくつか与えたいと思う。

 (1) 1つのこととして、罪の悪について明確な見方をするようにこころがけるがいい。

 私は青年である方々に云いたい。もしも罪がいかなるものであるかを、また、罪がいかなることをもたらしてきたかを知っていさえするなら、あなたは私がこのように切々と訴えていることを不思議には思うまい。あなたは罪の正体を見てとっていない。あなたの目は生まれながらに罪の咎にも危険にも盲目で、それがためにあなたは、なぜ私がこれほどあなたのことを心配しているか理解できないのである。おゝ、罪など大したことはないという悪魔の説得に屈してはならない!

 しばし、聖書が罪について何と云っているか考えてみるがいい。----いかに罪が生来あらゆる人々の心に巣くっているものか(伝7:20; ロマ3:23)、----いかにそれが私たちの思いと、ことば、行動をこれまでに汚し、かつ、絶え間なく汚し続けていることか(創6:5; マタ15:19)、----いかにそれが私たちを聖なる神の前で咎ある者、忌まわしい者としていることか(イザ64:6; ハバ1:13)、----私たちが自分自身に目を向けるとき、いかにそれが私たちに何の救いの望みも残していないことか(詩143:2; ロマ3:20)、----いかにこの世におけるその実が恥辱であり、来たるべき世におけるその報酬が死であることか(ロマ6:21、23)。こうしたことをみな冷静に考えてみるがいい。きょうのこの日、私はあなたに云う。肺結核を病んで死につつありながら、それに気づいていないことよりも悲惨なのは、生きている人間でありながら、これに気づいていないということである。 私たちの全性質に対して罪がいかにすさまじい変化をおよぼしているか考えてみるがいい。人間は、もはや神が地のちりから彼を造り出したときのような者ではない。彼が神の手から出てきたときは、正しくて、何の罪もなかった(伝7:29)。創造された日の彼は、他のすべてのものと同じく、「非常によかった」(創1:31)。だが、現在の人間はどうであろうか?----堕落した生物、荒れ果てた廃墟、どこを見ても腐敗の跡だらけの者、----その心はエブカデネザルのように、退化し、地上的なものとなり、地面を見つめて天を見上げることをせず、----その感情は、統制の取れていない家中のように、何者にも従おうとせず、すべてが野放図に混乱をきわめており、----その理解力は、ろうそく差しの上で明滅しているともしびのように、彼を導くことができず、善悪の区別をつけられず、----その意志は舵を失った船のように、あらゆる欲望に吹き回されて、絶え間なく神の望む道以外のあらゆる道を選び取っている。悲しいかな、人間は、そのありうべき姿とくらべると、何と落魄した者となっていることか! 御霊が現在の人間の姿を示す際に、盲目や、耳しいや、病や、眠りや、死といった比喩を用いていることもうなづけるであろう。だが、覚えておくがいい。今のような人間の姿は、罪によってもたらされたのである。

 また、罪の償いをつけるためにいかなる代価が払われなくてはならなかったか、また罪人に対する赦罪と赦しを提供するために何が必要であったかをも考えてみるがいい。神ご自身の御子が世に来て、私たちの性質を身に帯びなくては、私たちの贖いの代価を払い、違反された律法の呪いから私たちを解放することができなかったのである。初めに神とともにあったお方、その方によってすべての物が造られたお方が、罪のために死に、正しい方が悪い人々の身代わりとなり、----悪人としての死を遂げなくては、いかなる魂にとっても天国への道が開かれることはありえなかったのである。主イエス・キリストが人々から蔑まれ、のけ者にされ、むち打たれ、嘲られ、侮辱される姿を見てみるがいい。----この方がカルバリの十字架の上で血を流している姿を見るがいい。----この方が苦しみの中から、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」、と叫んでいるのを聞くがいい。----その光景を見ていかに太陽が暗くなり、岩が裂けたかを見るがいい。----そして、青年である方々は考えてみるがいい。罪の悪と咎がいかなるものでなくてはならないかを。

 また、あなたは、すでに地上で罪がいかなることをなしてきたかを考えるがいい。考えてみるがいい。それがいかにアダムとエバをエデンから追い出したか、----古の世界に洪水をもたらしたか、----ソドムとゴモラに天から火を降らせたか、----パロとその軍勢を紅海で溺れさせたか、----カナンに住んでいた7つの邪悪な国民を滅ぼしたか、----イスラエルの十二部族を地の表に四散させたかを。罪だけがこれらすべての張本人なのである。

 さらに考えてみるがいい。罪が引き起こしてきた悲惨さと悲しみのすべて、また、きょうのこの日に至るまで引き起こしつつある悲惨さと悲しみのすべてを。痛み、病、死、----争闘、いさかい、分裂、----ねたみ、嫉妬、悪意、----欺き、騙り、ごまかし、----暴力、抑圧、盗み、----わがまま、不親切、忘恩、----これらはみな罪の実である。罪こそはこれらすべての生みの親にほかならない。罪こそは、神の被造世界の前面をかくも傷つけ、損なってきたものなのである。

 私は青年である方々に云いたい。こうしたことを考えてみるがいい。そのときあなたは私たちがこのような説教をしていることを異とはしないであろう。確かに、こうしたことを考えてみさえするなら、あなたは永遠に罪と手を切りたいと思うであろう。あなたは毒をもてあそびたいのだろうか? 地獄を相手にたわむれたいのだろうか? 火を手づかみにしたいのだろうか? 自分の不倶戴天の敵を胸中に住まわせたいのだろうか? 自分の罪が赦されようが許されまいがどうでもいいかのような生き方、----罪があなたを支配していようが、あなたが罪を支配していようがどちらでもいいかのような生き方を続けたいのだろうか? おゝ、目を覚まして、罪の罪深さと危険とをまざまざと感じとるがいい! ソロモンの言葉を思い出すがいい。「おろかなる者は」、実際、愚かなる者だけが、「罪をかろんず」(箴14:9 <文語訳>)。

 それでは、この日私があなたに告げる要請を聞くがいい。----神に祈って、罪の真の邪悪さを教えてくださいと願うがいい。魂を救われたいと思っているなら、起き上がって祈るがいい

 (2) 別のことして、主イエス・キリストと親しむようになるがいい。

 これは、実際、キリスト教信仰の根本に関わることである。これこそキリスト教信仰の土台石である。あなたがこのことを知るようにならない限り、私の警告も助言も無駄骨折りにすぎず、あなたのいかなる努力も何の役にも立つまう。主ぜんまいを欠いた時計にもまして役立たずなもの、それはキリストを抜きにしたキリスト教信仰である。

 しかし、だれも誤解しないでほしい。私が意味しているのは、単にキリストの名前を知ることではない。----それは、キリストのあわれみと、恵み、御力を知ること、----耳で聞くことでキリストを知るのではなく、心の体験によってキリストを知ることである。私が願っているのは、あなたが信仰によってキリストを知ること、----パウロが云うように、「キリストの復活の力を知り、キリストの死と同じ状態になる」*ことを知ることである(ピリ3:10)。私が願っているのは、あなたがキリストについてこう云えるようになることである。この方は私の平安であり私の力、私のいのちであり私の慰め、私の《医者》であり私の《羊飼い》、私の《救い主》であり私の神です、と。

 なぜ私はこの点を強調しているのだろうか? それは、キリストにのみ、「満ち満ちた神の本質が宿っている」*からである(コロ1:19)。----キリストによってのみ、人が魂の欠けのために必要とするすべてが十分に供給されるからである。私たちはみな、自分ひとりでは、あわれな欠けある生き物である。----義と平安に欠けており、----強さと慰めに欠けており、----勇気と忍耐に欠けており、----この曲がった世でもちこたえ、進み続け、進歩する力に欠けている。キリストにのみ、こうしたすべての事がらが見いだされる。----恵み、平安、知恵、義、聖め、贖いが見いだされる。私たちは、キリストを糧として生きる度合に正確に応じて強いキリスト者となるのである。自我が無となり、キリストが私たちのいだく自信のすべてとなるときのみ、そうなるときのみ、私たちは偉大な手柄を立てるであろう。そうなるときのみ、私たちは人生の戦いのために武装させられ、勝利を得るであろう。そうなるときのみ、私たちは人生の旅備えができ、前に進めるであろう。キリストを糧として生きること、----キリストからすべてを引き出すこと、----キリストの力によってすべてをなすこと、----常にキリストを仰ぎ見ること、----これこそ霊的に力強く生きるための真の秘訣である。パウロは云う。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリ4:13)。

 青年である方々に私は云いたい。私はこの日、イエス・キリストをあなたの魂の宝庫としてあなたの前に提示するものである。賞を受けられるように走りたければ、私はあなたに、キリストのもとに行くことから始めるように勧めたい。これをあなたの第一歩とすることである。----キリストのもとに行くがいい。あなたは友人たちに相談したいだろうか?----キリストは最上の友である。「兄弟よりも親密な」友である(箴18:24)。あなたは自分の罪ゆえに無価値な者であると感じているだろうか?----恐れてはならない。キリストの血はすべての罪からきよめる。キリストは云う。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」(イザ1:18)。あなたは自分が弱く、キリストに従えないと感じているだろうか?----恐れてはならない。キリストはあなたに神の子どもとされる特権をお与えになる。あなたのうちに宿る聖霊を与えて、ご自分のものたる証印をあなたに押してくださる。新しい心をあなたに与え、新しい霊をあなたのうちに入れてくださる。あなたは特定の弱さに悩まされ、からみつかれているだろうか?----恐れてはならない。キリストが追い出すことのできない悪い霊は1つもない。----キリストに癒すことのできない霊の病は1つもない。あなたは疑いと恐れを感じているだろうか?----それらを打ち捨てるがいい。キリストは云う。「わたしのところに来なさい」、そして、「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。キリストは青年の心をよく知っておられる。キリストは、あなたの受けている試練も誘惑も、あなたの困難も敵も、知っておられる。肉体をとって地上におられた時期、キリストはあなたと同じようであられた。----ナザレ出身の青年であられた。キリストはご自分の体験から青年の精神を知っておられる。キリストはあなたの感ずる弱さに同情することができる。----というのも、キリストは身に苦しみを受け、誘惑を受けなさったからである。確かに、もしあなたがこのような《救い主》かつ《友》から離れ去るとしたら、あなたに弁解の余地はない。

 それでは、この日私があなたに告げる要請を聞くがいい。----いのちを愛しているというなら、イエス・キリストと親しくなることを求めるがいい。

 (3) もう1つのこととして、自分の魂ほど重要なものはないことを決して忘れないようにするがいい。

 あなたの魂は永遠のものである。それは未来永劫生き続ける。世とその中にあるすべてのものは過ぎ去る。----今は安定し、堅牢で、美しく、整然としているとはいえ、世はやがて終結を迎えることになる。「地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます」(IIペテ3:10)。政治家や、著述家や、画家や、建築家らのわざはみな一過性のものである。あなたの魂はそれらすべてを合わせたよりも長生きする。いつの日か、御使いのこの声が響き渡るであろう。「もはや時が延ばされることはない」、と(黙10:6)。----しかし、それはあなたの魂については決して云いえないことである。

 私はあなたに切に願う。ぜひとも、自分の魂こそ生きる目的とするに値する唯一のものだという事実を悟るように努めてほしい。それこそ、あなたの中で、常に真っ先に考えるべき部分である。いかなる場所も、いかなる仕事も、あなたの魂を害するとあらば、あなたにとって良いものではない。いかなる友も、いかなる仲間も、あなたの魂に対する気遣いを軽んずるのであれば、信頼してよい者らではない。あなたの肉体や、あなたの財産や、あなたの人格を傷つける人は、あなたに一時的な害を加えているにすぎない。あなたの魂に損害を与えようと画策する者こそ真の敵である。

 しばし考えてみるがいい。あなたが何のためにこの世に遣わされたのかを。それは、単に飲み食いしたり、肉の欲にふけるためではない。----単に肉体に着物を着せ、その情欲のおもむくままに引きずり回されるためではない。----単に働き、眠り、笑い、話をし、楽しい時を過ごし、現世のこと以外何も考えないで過ごすためではない。否! あなたはそれよりも高く、それよりもまともなことを目指すべき者である。あなたがここに置かれているのは、永遠のための訓練を受けるためである。あなたの肉体は、あなたの不滅の霊の家となるだけのためのものである。多くの人がしているようにすること----魂を肉体のしもべとし、肉体を魂のしもべとしないこと----は、神の目的と真っ向からぶつかっている*8

 私は青年である方々に云いたい。神は人をえこひいきなどなさらない。神はいかなる人の外套や、財布や、身分や、地位をも重んじない。神は人が見るようには見ない。救貧院で死んだいかに貧しい聖徒も、神の前では、宮殿で死んだ大富豪の罪人にまさって尊ばれている。神は富や、称号や、学識や、美貌や、そうした類のいかなるものをも顧慮しない。神が顧みなさるのはただ1つ、それは不滅の魂である。神はすべての人々を1つの基準、1つの尺度、1つの試験、1つの標準ではかる。そしてそれは、彼らの魂の状態なのである。

 このことを忘れてはならない。朝も、昼も、夜も、あなたの魂のためになることを心に留めておくがいい。毎日、起床するときには魂が益を受けるようになることを願い、----毎晩、床につくときには、実際には魂がどのような歩みをしたかを自問するがいい。古代の大画家ゼウクシスのことを思い出すがいい。人々が彼に、なぜそうも一心不乱に精を出すのか、なぜどんな絵を描くにもそれほどまでの苦心をするのかと聞いたとき、彼は単純にこう答えた。「私は永遠のために描いているのだ」。彼のようであることを恥じてはならない。あなたの不滅の魂をあなたの精神の目の前に置いておき、人々があなたに向かって、なぜあなたはそんな生き方をしているのか、と尋ねるときには、彼と同じ精神で答えるがいい。「私は永遠のために生きているのだ」、と。嘘ではない。いま急速に近づきつつある日が来たときには、魂こそ人々が考える唯一のものとなるであろう。そして、唯一大切な問いはこうなるであろう。「私の魂は失われているだろうか? それとも、救われているだろうか?

 (4) 別のこととして、青年であっても、神に仕えることは可能であることを忘れてはならない。

 私は、この点でサタンがあなたに仕掛けている罠を恐れるものである。彼があなたの精神をあだな考え、すなわち、若いうちに真のキリスト者となるなど不可能である、といった空しい考えでまんまと満たしはしないかと恐れるものである。私は、大勢の者がこの迷妄によってさらわれていくのを見てきた。このように云われるのを耳にしてきた。「あなたの要求しておられるようなことは不可能です。若者に、それほど強いキリスト教信仰など期待できるはずないでしょう。青年期は、深刻な考えを巡らすには不向きですよ。私たちには奔放な欲望があり、あなたの望むようなしかたで、それを押さえつけておくのは自然なことではありません。神が私たちに求めておられるのは、今の自分を楽しむことです。キリスト教信仰のことはだんだんと考えていきますよ。時間はたっぷりあるのですから」。そして、こういった類の話は、この世によっていやというほど奨励されている。世は、あまりにも簡単に、青春時代の罪を大目に見ようとする。世は、青年が「若気の放蕩をする」ことを当然しごくのことと考えているように見受けられる。世は、青年が必然的に不信心なものであり、キリストに従うことなど不可能であると決めてかかっているように思われる。

 私は青年である方々に、単純にこう問いかけようと思う。----こうした一切合切は、神のことばのどこに書いてあるだろうか? 世のこうした語り口や理屈を支持するような章や節が、聖書のどこにあるだろうか? 聖書は、老人にも若人にも、分け隔てなく語りかけてはいないだろうか? 二十歳のときに犯されようが、五十歳のときに犯されようが、罪は罪ではないだろうか? 最後の審判の日に、「私は自分が罪を犯したと知っています。でも、そのとき私は若かったのです」、と云っても、それが、これっぽっちでも云い訳になるだろうか? ぜひ常識を働かせてほしい。こうした空しい云い訳を捨て去るがいい。あなたは、善悪の区別がつくようになった瞬間から、神に対して責任があるのであり、自分の行為を弁明すべき義務を負っているのである。

 青年の生き方に多くの困難が伴っていることは百も承知している。----私もそれを認めるのにやぶさかではない。しかし、正しいことを行なう道に困難はつきものである。天国への小道は、私たちが青年であろうと老人であろうと、常に狭い。

 そこには困難がある。----だが神は、それらに打ち勝つ恵みをあなたに与えてくださるであろう。神は決して厳しい主人ではない。神は、パロとは違って、わらも与えずにれんがを作るよう要求したりしない。神は、明らかな義務の道をたどることが決して不可能ではないように気遣ってくださる。神は決して人間に命令を下しておいて、それを実行できる力を与えないでおくようなお方ではない。

 そこには困難がある。----だが、これまでも多くの青年たちがそれらに打ち勝ってきたのであり、あなたもそうできるはずである。モーセはあなたと同じような青年であった。----だが、聖書で彼について何と云われているか見てみるがいい。「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです」(ヘブ11:24-26)。ダニエルは、バビロンで神に仕え始めたときには青年であった。彼はありとあらゆる誘惑に取り囲まれていた。彼の味方はほとんどおらず、多くの者が彼に敵対していた。それでもダニエルの生涯は、あまりにも非の打ち所がなく、あまりにも裏表がなかったために、彼の敵たちでさえ、「彼の神の律法について」でなければ、何の非難もできないほどであった(ダニ6:5)。そして、これらは例外的な場合ではないのである。私が名前をあげることのできる証人は雲のようにいる。もし、青年イサクや、青年ソロモンや、青年アビヤや、青年オバデヤや、青年ヨシヤや、青年テモテについても話すならば、時が足りないであろう。彼らは御使いではなく人間であった。あなた自身と生まれつき同じような心をした人間であった。彼らにも、あなたがたのだれにも負けないほど、戦わなくてはならない障害があり、抑制しなくてはならない情欲があり、耐え忍ばなくてはならない試練があり、果たさなくてはならない立場があった。しかし、彼らは青年ではあっても、みな神に仕えることが可能であることを見いだした。もしあなたが、それは実行不可能だと云い続けるとしたら、彼ら全員が審きにおいて立ち上がり、あなたを罪に定めるのではないだろうか?

 私は青年である方々に云いたい。試しに神に仕えることを始めてみるがいい。それは不可能だと悪魔が囁くときには、抵抗するがいい。試してみるがいい。----そうするとき、種々の約束の与え主なる神は、それを試そうしているあなたに力を与えるであろう。神は、ご自分のもとに来るために苦闘している者たちに会うのを愛しており、あなたに会っては、あなたが必要だと感じている力を与えてくださる。バニヤンの巡礼が解説者の家で出会った男のようになるがいい。----大胆に前に進み行き、「私の名を書きとめて下さい」、と云い続けるがいい。私たちの主のこのことばは、----確かにしばしば心ここにあらずの、無感動な口で繰り返されるのが聞かれるとはいえ、----真実である。「捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタ7:7)。山のように見える困難も、春先の雪のように溶け去るであろう。遠くの霧の中から見ると巨人のように思えた障害も、真っ向から相対するなら、次第に小さくなって無に帰すであろう。あなたが恐れる途上の獅子は、鎖につながれていることがわかるであろう。もし人々が種々の約束をもっと堅く信じているなら、彼らは決して義務を恐れはしないであろう。しかし、私があなたに向かって強調したい、この短い一言を覚えておき、悪魔から、「若いうちはキリスト者になどなれませんよ」、と云われるときには、こう答えるがいい。「下がれ、サタン。神の助けによって、私は試してみよう」、と。

 (5) 別のこととして、生きている限り聖書をあなたの道案内とし、助言者とすることを決意するがいい。

 聖書は、罪深い人間の魂の糧として、あわれみ深くも神が与えてくださったものである。----永遠のいのちに到達したければ、人が自分の進路を定めるために用いなくてはならない地図である。私たちが平安に満たされ、聖く、幸福になるため知る必要のあることはすべて、そこに豊かに含まれている。もし青年が、いかに幸先の良く人生の出だしを切るべきかを知りたければ、ダビデが何と云っているか聞くがいい。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです」(詩119:9)。

 私は青年である方々に命じたい。聖書を読む習慣を身につけ、その習慣を堅く守るがいい。たとえ仲間からあざ笑われようが、----同居している家族に悪い習慣があろうが、----こうしたいかなることがあろうが、この習慣を守ることを妨げられてはならない。あなたは、聖書を持っているだけでなく、それを読む時間を作ろうと決意するがいい。だれが何と云おうと、聖書など日曜学校の子どもか、老婦人だけのための本だなどと説得させられてはならない。この本こそ、ダビデ王が知恵と悟りを得た本なのである。この本こそ、青年テモテが幼少のころから親しんでいた本なのである。これを読むことを決して恥じてはならない。「みことばをさげすむ」者となってはならない(箴13:13)。

 それを祈りとともに読むがいい。それを理解するための御霊の恵みを乞い求めつつ読むことである。いみじくもベヴァリジ主教は云う。「目を使わずに聖書の文字が読めるようになりでもしない限り、恵みを持たずに聖書の精神を理解することはありえない」。

 それを敬虔に読むがいい。人の言葉としてではなく、神のことばとして読むことである。----それが是認していることは正しく、それが非難していることは悪であると、無条件に信ずる心持ちで読むことである。聖書という試金石に耐えられないような教理はいずれも偽りであると確信するがいい。こうすることによってあなたは、この終わりの日にはびこる数々の危険な意見によって吹き回されたり、もてあそばれたりせずにすむであろう。あなたの生き方の中に聖書に反するような行ないがあるとしたら、それらはみな罪深いものであって、すっぱり縁を切らなくてはならないと確信するがいい。こうすることによって、良心の多くの問題が解決され、多くの疑わしい結び目が断ち切られるであろう。ユダのふたりの王が神のことばをいかに異なる態度で読んだかを思い出すがいい。エホヤキムはそれを読むなり、その書物を切り刻み、火で焼いてしまった(エレ36:23)。なぜだろうか?----彼の心がそれに反発し、彼は従わないことに決めたからである。ヨシヤはそれを読むなり、自分の衣を裂いて、主に向かって大声で泣いた(II歴34:19)。なぜだろうか?----彼の心が柔らかく、従順だったからである。彼は、聖書によって自分の義務であると示されたいかなることも、すぐに行なおうとしていた。おゝ、願わくはあなたが、このふたりのうちの後者にならう者となり、前者にならわない者となるように!

 そして、聖書を規則正しく読むがいい。これこそ「聖書に通じ」た人となるための唯一の道である。時たま急いで聖書に目を走らせるだけでは、ほとんど何の益もない。そうした具合では、あなたは決してその宝に親しむことも、戦いの時に自分の手になじむ御霊の剣を感ずることもないであろう。それとは逆に、勤勉に読むことによって精神に聖書をたくわえるがいい。あなたはすぐに、その価値と力を見いだすであろう。誘惑の折には聖句が心に思い浮かぶであろう。疑いを感ずるときには、数々の命令が念頭に浮かぶであろう。落胆する時には、種々の約束が思いをよぎるであろう。----そして、このようにしてあなたは、ダビデの言葉が真実であることを体験するであろう。「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました」(詩119:11)。ソロモンの言葉についても同様であろう。「これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目ざめるとき、あなたに話しかける」(箴6:22)。

 私がこうした事がらをやや詳しく取り上げているのは、現代が読書の時代だからである。多くの本を作ることには、限りがない。ただし、真に有益な本はひとにぎりしかない。世はあげて安っぽい印刷や出版物に狂奔しているように見受けられる。ありとあらゆる種類の新聞が氾濫しており、その一部に見受けられる調子は、それがいかに大きな発行部数を誇っていようと、この時代の趣味の悪さをすこぶる示している。こうした危険な読み物の洪水のただ中で私は、私の《主人》の本のために弁ずるものである。----私はあなたに、魂の書を忘れないように求めたい。新聞や、小説や、物語本を読んでいながら、預言者たちや使徒たちが、見下されたまま放り出されているようなことがないようにするがいい。興奮と放縦とを喚起するような本によって注意力を呑みつくされて、徳を建て上げ、聖なるものとするような本があなたの精神に入り込む余地を与えられないようなことがあってはならない。

 私は青年である方々に云いたい。あなたは、生涯最後の日に至るまで、聖書に、その受けてしかるべき栄誉を与えるがいい。あなたが何を読むにせよ、まず真っ先に聖書を読むがいい。そして、悪い書物には用心するがいい。今日そうした書物は山ほどある。自分が何を読んでいるかに留意するがいい。こうしたしかたでいかに多くの害悪が魂に及ぼされうるか、ほとんどの人は夢にも思わないのではないかと私は疑うものである。いかなる書物も、それが聖書に合致している度合に応じて評価するがいい。聖書に最も近い書物こそ最良の書物であり、聖書から最もかけ離れた、最も対立している書物こそ最悪の書物である。

 (6) 別のこととして、神の友ならざる者を決してあなたの親密な友としてはならない。

 誤解しないでほしい。----私は知人について語っているのではない。私は何もあなたが、真のキリスト者以外のいかなる人とも没交渉であるべきだなどと云ってはいない。そのような生き方をするのは、この世にあって可能なことでも、望ましいことでもない。キリスト教はいかなる人に対しても、無作法になることを要求してはいない。

 しかし私があなたに忠告したいのは、友人の選択にあたって細心の注意を払うようにすることである。ある人が、単に才気があって、人好きがして、気立てが良くて、陽気で、親切だからといって、あなたの胸襟をすべて開いてはならない。こうした性格はみなそれなりに非常に良いものではあるが、それだけがすべてではない。あなたの魂にとって有益なものとならないようないかなる人との友情にも決して満足してはならない。

 嘘ではない。この助言の重要性はいかに高く評価しても足りない。不敬虔な仲間や友人との交際によって、いかなる害が及ぼされるかははかり知れない。悪魔が人の魂を滅ぼすために受ける手助けの中でも、これほど役に立つものはほとんどない。その手助けさえ悪魔に与えるなら、あなたがいかなる武具によって彼に立ち向かおうとしても、彼はほとんど気にも留めないであろう。良い教育や、幼少からの道徳的習慣や、説教や、書物や、整った家庭や、両親からの手紙などといったすべては、悪魔がよく知っているように、あなたが不敬虔な友人たちにしがみ続けさえするなら、ほとんど役に立たない。あなたは多くの公然たる誘惑に抵抗し、多くのあからさまな罠を拒否するかもしれない。だが、いったん悪い仲間に心をひかれるならば、それで悪魔は満足するのである。タマルに対するアムノンの邪悪なふるまいが語られている、あのすさまじい章の冒頭部分には、このような言葉が記されている。「アムノンには……友人がいた。……非常に悪賢い男であった」(IIサム13:3)。

 あなたは、人がみな模倣の所産であることを思い起こさなくてはならない。戒めは私たちにものを教えるが、模範こそ私たちを引きつけるものである。私たちはみな、常に自分と生活をともにしている人々の生き方にとらわれがちな所がある。そして、相手を好ましく思えば思うほど、そうした性向は強くなるものである。自分では気づかないうちに、彼らは私たちの趣味と意見に影響を与えている。----私たちはしだいしだいに彼らの嫌うものを打ち捨てて、彼らの好むものを取り上げて、彼らとより親密な友人になろうとする。そして、中でも最も悪いことに、私たちは彼らの生き方の中でも、良い事がらを身につけるよりも、はるかに早く悪い事がらを身につけるのである。不幸なことに健康には伝染性がないが、病気にはそれがある。人から悪寒をうつされる方が、人にからだのほてりを分け与えるよりもはるかに容易である。そして、互いのキリスト教信仰を成長させ、生き生きと育てるよりも、それを次第に小さくしていく方がはるかに容易なのである。

 私は青年である方々に願いたい。こうした事がらを心に銘記してほしい。だれかをあなたの四六時中ともにいる仲間にする前に、その人に何もかも打ち明け、あなたのあらゆる困難、あらゆる楽しみにおいてその人のもとを訪れる習慣を身につける前に、----そうする前に、私が云ってきたことをまず考えるがいい。「これは私にとって果たして有益な友情となるだろうか? そうでないだろうか?」

 実際、「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます」(Iコリ15:33)。私はこの聖句が習字帖に記されているのと同じくらい多くの心に記されていてほしいと願うものである。良い友人は、私たちにとって最大の祝福の1つである。----彼らは私たちを多くの悪に近寄らせず、私たちの行き方を活気づけ、時宜にかなった言葉を語り、私たちを高みへと引き上げ、かつ、引き上げ続けてくれる。しかし、悪い友人は疫病めいた災難であり、私たちを絶えず下方に引きずり続ける重みであり、私たちを地上に縛りつける鎖である。不信心な人間と交際を続けていると、まず間違いなくあなたは、最後には、その人のような者となるであろう。それが、そうした友情すべての一般的な結果である。善人の方は悪人へと下降し、悪人の方は善人の方まで上ることがない。石ですら、絶えず転がり落ちていては音を上げるであろう。世間で通用している、このことわざはまぎれもなく正しい。「着物と友だちを見れば、その人の本性は知れる」。スペイン人の云うところ、「人がだれとつきあっているかを見さえすれば、その人がいかなる人かはあてることができる」。

 この点を私がやや詳しく取り上げているのは、それがあなたの人生の有望な未来にとって、一見そうと思われるよりも、大きな関わりがあるからである。もしあなたが結婚するとしたら、まず間違いなくあなたは、あなたの友人たちの縁者の中から妻を選ぶであろう。もしヨシャパテの子ヨラムがアハブの家と親交を結んでいなかったとしたら、彼はおそらくアハブの娘をめとることはなかったであろう。また、結婚相手を正しく選択することの重要性をだれがはかり知りえようか? それは、古い格言によれば、「男を男とするか、男を落とさせる」ような一歩である。現世と来世の双方におけるあなたの幸福が、それにかかっているのである。あなたの妻は、あなたの魂にとって助けとなるか害悪となるかのいずれかであって、その中間はない。彼女はあなたの心の中のキリスト教信仰の炎をあおるか、それに冷水を浴びせかけて、火勢を弱めるかであろう。彼女は、その品性に応じて、あなたのキリスト教にとって翼となるか足枷となるか、手綱となるか拍車となるかである。事実、良い妻を見つける者は、「しあわせを見つけ」るのである。だが、もしあなたが良い妻を見つけたいという願いを少しでも持っているとしたら、友人の選び方に気をつけるがいい。

 あなたは私に、いかなる種類の友人を選ぶべきか尋ねるだろうか? あなたの魂に益をもたらす友人を選ぶがいい。----あなたが本当に尊敬できる友人、----あなたが臨終の床につくときにはそばにいてほしいと願うような友人、----聖書を愛し、聖書についての話をあなたに話すことを恐れないような友人、----キリストが来臨し、最後の審判となる日に、あなたが恥じることなく自分の友であると云えるような友人を選ぶがいい。ダビデがあなたに示している模範に従うがいい。彼は云う。「私は、あなたを恐れるすべての者と、あなたの戒めを守る者とのともがらです」(詩119:63)。ソロモンの言葉を覚えておくがいい。「知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける」(箴13:20)。しかし、請け合ってもいいが、今の生において悪い仲間とつきあうことは、来たるべき生においてそれよりもさらに悪い仲間を確保するための確実な道である。

IV. 青年のための特別な基準

4. 最後に、私は、あらゆる青年が守るように強く勧めたい特別な行動の基準をいくつか規定しよう。

 (1) 1つのこととして、いかに小さなものであっても、罪とわかっていることとは、神の助けによりことごとく手を切ろうと、ただちに決断するがいい。

 あなたがたはみな、ひとりひとり自分の内側を見つめるがいい。自分の心を吟味するがいい。あなたはそこに、神の前で誤っていると知っているような癖か習慣が何か見えるだろうか? もしそうなら、一瞬の遅れもなしにそれに襲いかかるがいい。ただちにそれを放棄する決心をするがいい。

 いかなるものにもましてあなたの精神の目を暗くし、良心を確実に鈍らせるのは、見逃されている罪にほかならない。それは小さなものかもしれないが、だからといって、決してその分危険でないことにはならない。小さな漏れ口によつて巨大な船が沈み、小さな火花によって大きな火がたきつけられ、同じようなしかたで、小さな罪を見逃すことで不滅の魂が滅ぼされるであろう。私の助言を受け入れて、決して小さな罪1つも容赦しないようにするがいい。イスラエル人は、あらゆるカナン人を、子どももおとなもみな殺すように命ぜられた。同じ原則に立って行動し、小さな罪に何の情けもかけてはならない。いみじくも雅歌はこう云っている。「私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や狐を捕えておくれ」(雅2:15)。

 いかなる悪人も、初めからそれほどの悪人になろうと思っていたわけでないことは確かである。しかし彼は、何らかの小さな違反を自分に許すことから始め、それが、それよりも大きな違反に至らせ、そのうちにそれがさらに大きな違反を生み出し、このようにして彼は今ある通りのみじめな存在になってしまったのである。ハザエルがエリシャから、やがて自分が行なうことになるすさまじい行為を聞いたとき、彼は驚愕してこう云った。「しもべは犬にすぎないのに、どうして、そんなだいそれたことができましょう」(II列8:13)。しかし彼は罪が自分の心に根を張ることを許し、最後にはそうした行為をみな行なったのである。

 私は青年である方々に云いたい。罪はその最初のうちに抵抗するがいい。それらは小さく、取るに足らないものに見えるかも知れないが、私の云うことを聞いて、それらに立ち向かうがいい。----いかなる妥協もせず、いかなる罪もあなたの心の中で平穏に、のうのうとさせてはおかないようにするがいい。古い格言に云う。「災いの母は、羽虫の羽根ほどの大きさしかない」。針の先ほどほっそりしたものはないが、いったんそれが穴を空けると、その後に続いて縫い糸全体をかいくぐらせるのである。使徒の言葉を思い起こすがいい。「ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませる」(Iコリ5:6)。

 多くの青年は、悲しみと恥とともにあなたに告げることができるであろう。彼らが自分の有為な将来のすべてをだいなしにしたきっかけをたどると、それは私が語っている点----最初に罪に屈してしまったこと----に至る、と。彼は、小さな事がらにおいて偽りと不正直を混ぜ合わせる習慣を始めて、それらをつのらせていったのである。一歩ずつ彼は悪化の一途をたどり、ついに彼は自分でも不可能と思っていたようなことを行なってしまう。ついに彼は地位を失い、品性を失い、慰めを失い、ほとんど自分の魂を失ってしまう。彼は自分の良心の壁に空いていた裂け目を、小さく見えるからといって、見過ごしにした。----そして、いったん見過ごされると、その裂け目は毎日広がり続け、ついには壁全体がくずれ落ちそうになってしまったのである。

 これは特に、誠実正直という問題において覚えておくがいい。片言隻語に至るまで、偽りを云わないようにするがいい。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実で……す」(ルカ16:10)。この世が何と云いたがろうと、小さな罪など1つもない。いかに巨大な建物も小さな部分部分から組み立てられている。----最初に積まれる石は、他のどの石にも劣らず重要である。あらゆる習慣は、連綿なく続けられた小さな行為によって身につくものであり、最初の小さな行為は途轍もなく重要である。寓話の中のあの斧は、木々に向かって、どうぞ取っ手になるような小さな木切れをください、それさえいただけたら、あとはみなさんを煩わせません、と頼んだだけであった。だがそれを手に入れると、斧はすべての木を切り倒してしまった。悪魔が望むのは、あなたの心に食い込む、見逃された罪という小さなくさびだけである。そうすれば、すぐにあなたのすべてが彼のものとなるであろう。いみじくも古のウィリアム・ブリッジはこう云っている。「私たちと神の間に小さなものなど何1つない。神は無限の神だからである」。

 教会の尖塔の天辺から降りる道は2つある。1つは飛び降りること。----もう1つは階段を使って降りてくること。だが、どちらによっても、人は地面に着くであろう。それと同じように、地獄に行く道は2つある。1つは、何もかも承知の上で地獄につき進むこと。----こうしたことをする人はほとんどいない。もう1つは、小さな罪を段階を追って重ねていくこと。----そして、不幸にも、この道をたどる人があまりにも多いのではないかと思う。二三の小さな罪を放置しておくと、すぐにもう二三のさらなる罪を欲するようになる。ある異教徒*9すら、こう云うことができた。「たった1つの罪で満足できた者などいまだかつていただろうか?」 そして、そのようにするとき、あなたの生き方は年を追うごとに着実に悪化していくであろう。いみじくもジェレミー・テイラーは、人の内側で罪が発達していく次第をこう叙述している。「最初それは人をぎょっとさせ、次に快いものとなり、次に手軽なこととなり、次に喜ばしいものとなり、次にしばしばなされることとなり、次に習慣的なものとなり、次に凝り固まったものとなる!----それからその人は悔悟しない者となり、次にかたくなな者となり、次に決して悔い改めない決意をし、そして地獄に落とされる」。

 私は青年である方々に云いたい。このようになりたくなければ、私がこの日あなたに与える基準を思い起こすがいい。----罪と分かっているあらゆることと、ただちに手を切るがいい。

 (2) 別のこととして、罪のきっかけとなりうるあらゆることを、神の助けによって避ける決意をするがいい。

 善良なるホール主教はいみじくも云っている。「悪の行為から無事に守られたい者は、そのきっかけとなるものを大きく避けなくてはならない」*10。私たちは、いかなる罪も犯さない決心をするだけでは十分ではない。罪のように見えるあらゆるものから十分遠ざかっていなくてはならない。この試金石によって私たちは、自分の時間の使い方を試すべきである。----私たちの読む書物を、私たちの訪問する家庭を、仲間との寄り集まりを試すべきである。私たちは、「ここには、はっきり悪であるものは何もない」、と云うだけで満足していてはならない。さらに進んで、こう云わなくてはならない。「ここには私にとって罪のきっかけとなりうるものが何もないだろうか?」、と。

 覚えておいてほしいが、これこそ、無為をこれほど避けるべきである、1つの大きな理由である。何もしていないことそのものが、はっきり邪悪なことというわけではない。問題は、それが悪い思いや、愚かしい想像にふける機会となることにある。それがサタンに対して開けっ放しにする扉から、彼が悪事の種を投げ入れることにある。それこそ、第一に恐れなくてはならないことである。もしダビデが、エルサレムの屋上で無為をむさぼって、悪魔にきっかけを与えなければ、おそらく彼は決してバテシェバを見ることも、ウリヤを殺すこともなかったであろう。

 これは、なぜ世的な娯楽がこれほど好ましくないかという1つの大きな理由でもある。場合によっては、世の娯楽そのものが、はっきり非聖書的で間違っていると示すことは困難かもしれない。しかし、それらのほとんどすべての傾向が魂にとってこの上もなく有害なものであることを示すのは、造作もないことである。それらは、地上的な、また官能的な心持ちの種を蒔く。それらは信仰のいのちに戦いをいどむ。それらは不健全で不自然な、興奮への渇望を助長する。それらは肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢を満足させる。それらは天国と永遠の展望をかすませ、現世の物事をゆがめて見せる。それらは、密室の祈りや、聖書を読むことや、神と静かに交わりを持とうとする気持ちをなくさせる。それらにのめりこむ人は、サタンに最高の地歩を与えるも同然である。その人は戦わなくてはならない戦闘があるのに、敵にとって有利な太陽の向き、風向き、陣地を与えているのである。もしその人が絶えず打ち負かされないとしたら、はなはだ不思議と云うべきであろう。

 私は青年である方々に云いたい。いのちの日の限り、自分の魂にとって有害となりうるあらゆるものから努めて遠ざかっているがいい。決して悪魔となれあってはならない。人はあなたのことを几帳面すぎるとか、物事にやかましすぎるとか、これこれのことに何の大きな害があろうか、などと云うであろう。しかし、耳を貸してはならない。刃物をもてあそぶのは危険なことだが、自分の不滅の魂をぞんざいに扱うのは、はるかに危険なことである。安全でいたい人は、危険な崖っぷちに近づいてはならない。その人は、自分の心を火薬庫とみなして、自分に制することのできない誘惑の火花1つすら扱わないように注意深くしていなくてはならない。

 「われらを試みに遭わせず」、と祈っていても、あなた自身が試みに陥らないよう気を遣っていなければ、それが何の役に立つだろうか? 「悪より救い出したまえ」、と祈っていても、あなたが悪の道から離れていたいという望みを示すのでなければ、何になるだろうか? ヨセフの模範にならうがいい。----彼は自分の女主人の悪への懇願を拒否しただけでなく、思慮深くも「彼女といっしょにいることも」全く拒否した(創39:10)。ソロモンの忠告を心に銘記するがいい。単に「悪の道にはいらない」ばかりでなく、「それを無視せよ。そこを通るな。それを避けて通れ」(箴4:15)。酔ってはならないばかりでなく、「ぶどう酒が赤(い)……とき、それを見てはならない」(箴23:31)。イスラエルでナジル人の誓いを立てた者は、単に全く葡萄酒を飲まないばかりでなく、いかなる形の葡萄の実をも絶った。「悪を憎め」*、とパウロはローマ人たちに云っている(ロマ12:9)。悪を行なわないだけでは足りないのである。----「情欲を避けよ」*、と彼はテモテに書き送っている。可能な限り、それらから遠ざかっているがいい、と(IIテモ2:22)。悲しいかな、こうした注意の何と必要なことか! ディナは何としても邪悪なシェケム人の間に出て行き、彼らの暮らしぶりを見なくてはならないと考えた結果、純潔を失った。ロトは、何としても罪深いソドム付近に天幕を張らなくてはならないと考えた結果、自分のいのちのほか何もかも失った。

 私は青年である方々に云いたい。時のあるうちに知恵を得るがいい。魂の敵をどこまで近寄らせれば、無事に逃れることができるかを試してばかりいてはならない。彼を近づけないようにするがいい。できる限り誘惑から努めて身を離しておくがいい。そうすればこれは、罪から遠ざかっているための1つの大きな助けとなるであろう。

 (3) 別のこととして、決して神の目を忘れないように決意するがいい。

 神の目! それを考えてみるがいい。どこにいても、いかなる家にいても、いかなる野にあっても、いかなる者らとともにいようと、ひとりきりでいても群衆の中にいても、神の目は常にあなたに注がれているのである。「主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている」(箴15:3)。そしてその御目は、行為と同様、心をも読むことができるのである。

 私は、あなたがた全員がこの事実を努めて悟るようにするよう切に願う。思い起こすがいい。あなたが弁明しなくてはならないのが、すべてをごらんになっておられる神であることを。----まどろむこともなく、眠ることもない神、----あなたの思いを遠くから読み取られ、夜も昼のように明るくみなされる神であることを。あなたは、あの放蕩息子のように自分の父の屋根を離れて遠い国へ旅立ち、自分のふるまいを見ているものはだれもない、と考えるかもしれない。だが、神の目と耳はそこでもあなたの前にあるのである。あなたは自分の両親や雇い主を欺き、彼らに偽りを告げ、彼らの面前と背後では全く別の顔を見せているかもしれない。だがあなたは神を欺くことはできない。神はあなたの裏も表もご存知である。神は今日ここへ来るときにあなたが云っていたことを聞いておられた。あなたが今この瞬間に何を考えているか知っておられる。神はあなたの秘中の秘である罪を御顔の光の中に置いておられ、それらは、あなたが心を留めなければ、いつの日か全世界の前に暴き出され、あなたを恥じ入られることになるであろう。

 これは、実際には何と僅かしか感じられていないことか! 他人から見られていると思っていたら決して行なわないような多くの事がらが、いかに絶え間なくなされていることか! 決して日の光には耐えられないような、いかに多くのことが内心の想像の中では行なわれていることか! しかり、人々は世間にさらけ出されたら恥じ入り、赤面するであろうようなことをひそかに考え、ひそかに語り、ひそかに行なっている。近づいてくる足音によって、中止されられてきたよこしまな行為は多い。扉を叩く音によって、大あわてで中断され、急いで棚上げにされる悪のわざは多い。しかし、おゝ、これはみな、なんと惨めでたわけた愚かさであろう! 私たちがどこに行こうと、すべてを見ているひとりの《証人》が私たちとともにいるのである。扉に閂をかけ、日よけを下ろし、鎧戸を閉じ、ともしびを吹き消しても、何にもならず、何の違いも生まない。神はあらゆるところにおられ、あなたは神を閉め出すことも、神が見るのを妨げることもできない。「神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです」(ヘブ4:13)。青年ヨセフは、自分の女主人から誘惑されたとき、このことを実によくわきまえていた。その家の中には、彼らを見ている者はだれひとりいなかった。----いかなる人目も彼に反する証言をするはずはなかった。----だがヨセフは、目に見えない方を見るようにして生きている者であった。彼は云った。「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」(創39:9)。

 私は青年である方々に云いたい。ぜひ詩篇139篇を読んでほしい。私は、あなたがたがみな、それを暗記するように勧めたい。それを、この世での仕事のしかたすべてを試す試金石にするがいい。しばしばこう自問するがいい。「私は神が私を見ていることを覚えているだろうか?」

 神に見られている者として生きるがいい。これがアブラハムのしたことであった。----彼は神の前を歩んだ。これがエノクのしたことであった。----彼は神とともに歩んだ。これが天国そのもののありかたであろう。----それは神の御前に永遠にあることであろう。神に見られたくないと思うようなうことは何1つ行なわないようにするがいい。神に聞かれたくないと思うようなことは何1つ云わないようにするがいい。神に読まれたくないと思うようなことは何1つ書かないようにするがいい。神に見いだされたくないような、いかなる場所にも行かないようにするがいい。神から、「それを私に見せよ」、と云われたくないような本を何1つ読まないようにするがいい。「あなたは何をしているのか」、と神から云われたくないような時間の使い方を決してしないようにするがいい。

 (4) 別のこととして、公の恵みの手段のすべてを勤勉に用いるがいい。

 規則正しく神の家に通うがいい。神の家が祈りと説教のために開かれているとき、また自分に出席できる力があるときには、いつでもそうすることである。主の日を聖なる日として規則正しく守るがいい。今後、七日のうちの神の日は、常にその正しい持ち主にささげるよう決意するがいい。

 私は、あなたの精神に何ら偽りの印象を残したいとは思わない。これから外に出たときあなたは、教会出席を守ることだけがキリスト教信仰のすべてだと云われた、などと語ってはならない。私はそのようなことは何1つ云っていない。私は、あなたが形式尊重主義者やパリサイ人になるのを見たくない。もしあなたが、一週間のうち特定の日、特定の時間、特定の建物に、からだを運びさえすればキリスト者になり、神に会う備えができるなどと考えているとしたら、はっきり云うがあなたは悲惨なほど欺かれている。心の礼拝を伴わない礼拝はみな、無益でむなしい。真の礼拝者とは、「霊とまことによって神を礼拝する」*人々であり、「父はこのような人々を礼拝者として求めておられる」のである(ヨハ4:23)。

 しかし、恵みの手段は、それらが救い主でないからといって蔑まれるべきではない。黄金は食物ではない。----それを食べることはできない。----だが、だからといってあなたはそれが役に立たないと云ったり、それを投げ捨てたりしないであろう。あなたの魂の永遠の至福が恵みの手段にかかっていないことはこの上もなく確実だが、それに劣らず確実なのは、一般論として、それらなしには、あなたの魂は良い状態にならないということである。神は救われた者たちを、エリヤに対してなさったように、全員、火の戦車で天国で連れて行く力はお持ちであるが、そうはなさらない。神は彼らを、全員、幻と、夢と、奇蹟的な介入によって教えて、彼らが自分で読んだり考えたりすることを要求せずにすませる力はお持ちであるが、そうはなさらない。だが、それはなぜだろうか? それは神が、手段によって働く神だからであり、いかなる者が神と関わりを持つ際にも、手段が用いられることが神のおきてであり、みこころだからである。馬鹿か狂信者でもない限り、梯子や足場なしで家を建てようなどと考えはしないであろう。それと全く同じように、賢い者ならだれしも手段を蔑みはしないであろう。

 私がこの点をやや詳しく取り上げているのは、サタンがあなたの精神に手段に反する議論を詰め込もうと激しく試みるだろうからである。彼は、恵みの手段を用いていても、それで何も向上していない幾多の人々にあなたの注意を引こうとするであろう。彼は囁くであろう。「あいつらを見るがいい。教会に通っている者も、教会に来ようとしない者とくらべて、何もましになっていないのがわからないのか?」、と。しかし、これで動揺してはならない。何かが不適当な用いられ方をしているからといって、それに反対する議論をするのは公平ではない。恵みの手段に携わっても、そこから何の益も得ていない人が多いからといって、恵みの手段が何の益も与えられないことにはならない。薬は、服用しても健康を回復しない人が多いからといって蔑まれるべきではない。他の人々が不適当な飲み食いをして病気になっているからといって、飲み食いをやめる人などひとりもいないであろう。恵みの手段の価値は、他の物事と同じように、私たちがそれを用いる際の態度と精神に大いにかかっているのである。

 私がこの点も詳しく取り上げているのは、キリストの福音の説教を、規則正しく聞いてほしいと強く切望しているためである。これを私がいかに重要なことと考えているか、到底あなたにはわからないであろう。神の祝福によって、福音宣教は、あなたの魂を回心させる手段となりえる。----あなたを、救いに至るキリストの知識に導く手段、----あなたを、行ないと真実において神の子どもとする手段となりえる。実際これは永遠に感謝すべき原因となるであろう。これは御使いたちが喜ぶであろう出来事であろう。しかし、たとえそうならないとしても、福音宣教には1つの抑制的な力と影響力があり、その力と影響力のもとに、私はあらゆる青年が置かれるようになってほしいと切望するものである。福音宣教によって悪から遠ざけられている人々は何万人もいる。たとえそれがまだ彼らを神に立ち返らせてはいないにしても。----それによって彼らは、はるかに健全な社会の一員とさせられている。たとえそれがまだ彼らを真のキリスト者にしてはいないにしても。福音の忠実な説教には、ある種の神秘的な力があり、それを耳にしていながら心に受け入れてはいない、おびただしい数の人々に感じとれないようなしかたで語りかけている。罪がけなされ、聖潔がほめたてられるのを聞くこと、キリストが称揚され、悪魔のわざが糾弾されるのを聞くこと、----天国とその祝福された様子が物語られ、この世とそのむなしさがあばきだされるのを聞くこと、これを毎週毎週、日曜ごとに聞くことは、魂に良い感化を及ぼさないことがめったにない。そのようにした後で、過度の放縦や放蕩に陥ることははるかに困難になる。それは人の心にとって、健全な抑止として働く。これは、私の信ずるところ、この神の約束が成就する1つのしかたである。「わたしの口から出るわたしのことばは、むなしく、わたしのところに帰っては来ない」*(イザ55:11)。ホイットフィールドのこの強烈な言葉には大きな真実がある。「福音は、多くの人を、たとえ地獄から救い出すことはなくとも、監獄や絞首台からは救い出している」。

 この主題と密接に関連したもう1つの点をあげさせてほしい。何が何でも、安息日を破るように誘惑されてはならない。私はこの点に注意するようあなたに強く訴えるものである。あなたの安息日を、誠心誠意、一日残らず神にささげるようにするがいい。この聖なる日を軽視する精神は、恐ろしいほど急速に世間に増大しつつあり、特にそれは青年の間において著しいものがある。鉄道や汽船による日曜日の旅行、日曜日の訪問、日曜日の遠足は年を追うごとに、以前よりも一般的なこととなりつつあり、魂にとってはかり知れない害悪を及ぼしている。

 私は青年である方々に云いたい。この点において執拗な警戒をするがいい。町に住んでいようと田舎に住んでいようと、決然とした態度をとるがいい。あなたの安息日の神聖を汚さないよう決意するがいい。「からだのために休養は必要だ」、などというもっともらしい議論によっても、----周囲のいかなる人の模範によっても、----あなたがこの世で置かれている場でいかなる誘いを仲間から受けても、----こうしたすべてによっても、神の日は神にささげられなくてはならない、という確固たる原則から離されてはならない。

 安息日に対する心遣いをいったん捨ててしまえば、しまいにはあなたは、自分の魂に対する心遣いを捨てることになるであろう。この結末に至る段階は容易で、しごく当然なものである。神の日を敬わないようになれば、じきにあなたは神の家を敬わないようになるであろう。----神の家を敬わないようになれば、じきにあなたは神の書を敬わないようになるであろう。神の書を敬わないようになれば、しだいにあなたは神に何の敬意も払わなくなるであろう。安息日など持たないという土台石を据える人が、何の神もいらないという冠石を置く末路をたどるとしても、私は決して驚かない。これはヘール判事の尋常ならざる言葉である。「死罪に問われている審理中の犯罪者を取り調べてみると、ごくまれな例外を除きその全員が、自分の邪悪な経歴の端緒となったのは安息日をないがしろにすることであったと告白するものである」。

 私は青年である方々に云いたい。あなたがこの世で置かれている場の仲間たちは主の日の栄誉を忘れているかもしれない。だが、神の助けにより決意するがいい。あなたは常にそれを聖なる日として守るようにこころがける、と。それを敬って、福音の宣べ伝えられている、いずれかの場所に定期的に集うがいい。忠実な福音宣教がなされている所に身を落ちつけ、いったん身を落ちつけたならば、決してその教会のあなたの席を空席にしてはならない。嘘ではない。あなたは、格別の祝福があなたを追ってくることに気づくであろう。「もし、あなたが……安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『はえある日』と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。『わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ……(る)』」(イザ58:13、14)。そして、1つのことだけはきわめて確かである。----安息日についてのあなたの感情は常に、あなたが天国にふさわしい者であるかを示す試金石であり基準であろう。安息日は天国の前味であり、その一断片である。それを重荷と感じ、特権と思わないような人の心が、絶大な変化を必要としていることは確実であろう。

 (5) 別のこととして、あなたは、どこにいようと、祈ることを決意するがいい。

 祈りは人の魂のいのちの息である。それなしには、私たちは名目上は生きているとも、キリスト者であるともみなされるかもしれないが、神の前では死んでいるのである。私たちが神にあわれみと平安を求めて叫ばなくてはならない感情こそ、恵みの目印である。そして、神の前に自分の魂の欲求を注ぎ出す習慣は、私たちが子とされる霊を受けている証拠である。また祈りは、私たちの霊的な必要に対する救済を獲得するために定められた手段である。----それは宝物庫を開き、泉を流れ出させる。私たちのものにならないのは、私たちが願わないからである。

 祈りは、御霊が私たちの心に注ぎ出されるための道である。イエスは《慰め主》なる聖霊を約束してくださった。聖霊はいつでもその尊い賜物をたずさえて下ってこようと待っておられる。その更新し、聖なるものとし、きよめ、力づけ、意気上がらせ、励まし、光を与え、教え、指示し、すべての真理に導き入れる恵みをもって来ようとしておられる。しかし、そこで聖霊は、私たちが懇願することを待っておられるのである。

 そして、ここでこそ、----私は悲しみとともに云うが----ここでこそ人々はかくも惨めに欠けを示しているのである。実際、祈っているのを見いだされる人はほとんどいない。多くの人は膝まづいて、ことによると形式的な祈りの文句を唱えているかもれないが、祈る人はほとんどいない。ほとんどの人は、神に叫び求めず、主を呼び求めず、ぜがひでも探し出そうというかのように追い求めず、飢え渇いるかのように扉を叩かず、格闘せず、答えを求めて熱心に神と争うことをせず、黙らず神を責めたることをせず、たゆみなく祈らず、祈りのために身を慎むことをせず、絶えず祈らず、望みを持ち続けることをしていない。しかり、ほとんどの人は祈っていない! これは、当然なされているはずのことと思いみなされていながら、めったに実行されることのない事がらの1つにほかならない。だれしもすべきでありながら、実際にはほとんどだれもしていないことである。

 私は青年である方々に云いたい。嘘ではない。もし自分の魂を救おうというのなら、あなたは祈らなくてはならない。神におしの子どもたちはひとりもいない。もしあなたが世と、肉と、悪魔に立ち向かわなくてはならないとしたら、あなたは祈らなくてはならない。試練の時に力を尋ね求めても、それは、前々から乞い求められいるのでなければ、役に立たない。あなたが遣わされている場にいる人々は決してそのようなことをしていないかもしれない。あなたが同じ部屋でともに眠っている人は、神に決して何も求めない人かもしれない。----それでも、注意して聞くがいい。あなたは祈らなくてはならない。

 あなたが、このことについて数々の大きな困難を見いだすことは、きわめてありえるであろう。ふさわしい折と、時間と、場所に関して大きな困難に出会うことはありえるであろう。これらの点について私は、あまりはっきりした規則は規定しないでおこう。それらは、あなた自身の良心にまかせておく。あなたは状況によって導かれなくてはならない。私たちの主イエス・キリストは山の上で祈られた。イサクは野で祈っていた。病床で横たわっていたヒゼキヤは、壁に顔を向けて祈った。使徒ペテロは屋上で祈っていた。私は、厩舎や、屋根裏の乾草置場で祈っているという青年たちのことも聞いたことがある。私が強く主張したいことはただ1つ、----あなたは、「自分の奥まった部屋にはいる」とはどういうことかを知らなくてはならない(マタ6:6)。あなたには、顔と顔を合わせて神と語り合う、決まった時がなくてはならない。----毎日、あなたは祈りの時を持たなくてはならない。----あなたは祈らなくてはならない。

 このことになしには、いかなる助言も忠告も無駄である。これはパウロが、エペソ書6章の霊的な武具の一覧の中で、最後にあげているものだが、その価値と重要性においては、実は真っ先に来べきものである。これは、もしあなたがこの人生の荒野を無事に旅して行きたければ、日々食べなくてはならない食物である。これによって力をつけられるのでなければ、あなたは神の山に向かって歩を進めることができない。聞くところによると、シェフィールドで働く針の研磨工たちは、磁石性の口おおいをかけることがあるという。それによって、周囲を飛び交っている微細な粉塵が彼らの肺に入らないように防護し、命を守るのである。祈りは、あなたが絶えずかけていなくてはならない口おおいである。そうしなければあなたは、決してこの罪深い世の不健全な雰囲気によって害を受けないまま働き続けることはないであろう。----あなたは祈らなくてはならない。

 私は青年である方々に云いたい。人が膝まづいて祈るために費やした時間ほど有効に費やされた時間はないと確信するがいい。あなたの職種のいかんにかかわらず、このことのために時間を作るがいい。イスラエルの王ダビデのことを考えてみるがいい。彼は何と云っているだろうか? 「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる」(詩55:17)。ダニエルのことを考えてみるがいい。彼は一王国のあらゆる政務を一手に握っていた。だが、彼は日に三度祈っていたのである。そこに、邪悪なバビロンにおいて彼が安全に保たれていた秘訣を見てとるがいい。ソロモンのことを考えてみるがいい。彼はその治世の開始にあたり、助けと支えを求める祈りをささげた。それゆえ彼は素晴らしい繁栄を得た。ネヘミヤのことを考えてみるがいい。彼は、自分の主人アルタシャスタの前に立っているときでさえ、天の神に祈りをささげる時間を見いだすことができた。こうした敬虔な人々が残した模範のことを考え、行って同じようにするがいい。

 おゝ、願わくは主があなたにあらゆる恵みと願いの霊を与えてくださるように! 「(あなたは)今でも、わたしに、こう呼びかけているではないか。『父よ。あなたは私の若いころの《導き手》です」(エレ3:4 <英欽定訳>)。私は、今日の演説の何が忘れられても、この祈りの重要性という教えだけがあなたの心に印象づけられたとしたら、喜んでそれをよしとするであろう。

V. 結論

 さて私は、急いで結論に向かうこととしよう。私が語ってきたことは、ことによると多くの人々が気にくわず、受け入れようとしないものであるかもしれない。だが、私はあなたの良心に訴えたい。これらは真実ではなかろうか?

 私は青年である方々に云いたい。あなたがたにはみな良心がある。堕落によって私たちは腐敗し、荒廃しているとはいえ、私たちはめいめい良心を有している。あらゆる人の心の片隅には、神のために弁ずる証人がいる。----私たちが間違ったことをしたときには非難し、正しいことをしたときには賛同する証人がいる。その証人に向かって、私はこの日、私の訴えをしたい。私がここまで云ってきたことは真実ではなかろうか?

 では、私は青年である方々に云いたい。行って、この日、あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えるがいい。恵みの日が過ぎ去る前に。----あなたの良心が年を重ねるとともにかたくなになり、繰り返し踏みつけにされることで無感覚にさせられる前に。----あなたにまだ力と、時間と、機会があるうちに。----行って、忘れ去られることのない永遠の契約によって、自分を主に結び合わせるがいい。御霊はいつまでも争ってはおられない。良心の声は、あなたが逆らい続けるにつれて、年ごとにかすかになり、か細くなっていくであろう。アテネ人たちはパウロにこう云った。「このことについては、またいつか聞くことにしよう」。だが彼らは、それから二度とパウロの言葉を聞くことはなかったのである(使17:32)。急ぐがいい。一刻を争うがいい。もはやぐずついたり、ためらっていてはならない。

 もしあなたが私の忠言を受け入れたならば、いかに言葉につくせぬ慰めを両親に、親族に、友人に、与えることかを考えてみるがいい。彼らは時間や、金銭や、健康をも惜しまずにあなたを育て、あなたを今ある通りの人間にしてくれたのである。確かに彼らは、あなたから何がしかの思いやりを受けるに値しているはずである。青年がいかなる喜びと楽しさを引き起こす力を手にしているか、だれにはかり知りえようか? エサウや、ホフニや、ピネハスや、アブシャロムのごとき息子たちが、いかなる心痛と悲しみを引き起こしうるか、だれが知りえようか? 実にソロモンの言葉は至言である。「知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみである」(箴10:1)。おゝ、こうしたことを考え、神にあなたの心を与えるがいい! 多くの人々について云われるように、「青年期は大失敗、成人期は絶えざる苦闘、老年期は後悔のみ」、などということが、結局あなたについて云われるようなことがないようにするがいい。

 いかにあなたが世に対して善を施すことのできる器となれるか考えてみるがいい。神の卓越した聖徒たちは、ほとんど全員が、若い時代から主を求めていた。モーセや、サムエルや、ダビデや、ダニエルらは、みな青年期から神に仕えていた。神は、年若いしもべたちに特別の栄誉を授けることをお喜びになっておられるように思われる。----神がわが国の幼少王エドワード六世の上に置かれた栄誉を思い出すがいい。そして、もし現代の青年たちがその青春期を神に聖別するとしたら、私たちが自信とともに期待できないことが何かあるだろうか? 今は、いかに大きく健全な活動事業においても、ほぼ例外なく働き人が欠けていて、欠員を補充できないでいる。真理を伝播するための、あらゆる種類の組織が存在しているがそれを動かす働き手が足りない。金銭を調達する方が、人員を調達するよりも容易である。次々と立つ新しい教会のためには教役者が足りず、----新しい宣教地のためには宣教師が足りず、----ないがしろにされてきた地域のためには訪問者が足りず、----新しい学校のためには教師が足りず、----多くの良い働きが、働き人が欠けているというだけの理由で休業しているのである。敬虔で、忠実で、信頼の置ける人々が、私のあげたような部署では、はるかにその需要を下回っているのである。

 私は現代の青年たちに云いたい。あなたは神から求められているのである。今の時代は、格別に活動の時代である。私たちは、過去の時代の利己主義を振り落としつつある。人々はもはや先祖たちがしていたようには、他の人々に関する冷淡さや無関心さの中で眠りこけてはいない。人々は、カインのように----「私は、自分の弟の番人なのでしょうか」、と----考えることを恥じ出している。身を乗り出してやる気になりさえするなら、あなたの前には大いに用いられることのできる地平が広がっている。収穫は多いが、働き人が少ない。熱心になって、良いわざに熱心になるがいい。来るがいい。来て、大勢に抗して主のわざを助けるがいい*11

 これは一種、神のようになることである。神は、「いつくしみ深くあられ」るだけでなく、「いつくしみを施され」る(詩119:68)。これはあなたの主なる《救い主》の歩みにならう道である。主は「巡り歩いて良いわざをなし」た(使10:38)。

 これはダビデが生きたように生きることである。彼は、「その生きていた時代において神のみこころに仕え……た」(使13:36)。

 そして、これが不滅の魂にとって最も似つかわしい小道であることを、だれが疑うことができようか? だれがヨシヤのようにすべての人に悼まれて世を去るのではなく、ヨラムのように「人々に愛されることなく」世を去ることを願うだろうか(II歴21:20)? 果たして、無為の、取るに足らない、無益な場所ふさぎとなり、自分の肉体と、自分の利己心と、自分の情欲と、自分の高慢のために生きることが良い生き方だろうか?----それとも、自分の同胞たちを益するという栄えある働きのために財を費やし、また自分自身をさえ使い尽くすことの方が、----ウィルバフォースやシャフツベリ卿のように、自国と世にとって祝福となることの方が、----監獄人と囚人の友ハワードのようになること、----異教国のおびただしい数の不滅の魂にとって霊の父となったシュヴァルツのようになること、----かの神の人ロバート・マクチェーンのようになり、燃えて輝くともしびとなること、すべての人に知られ、また読まれているキリストの手紙となり、あなたの道を横切るあらゆるキリスト者の心を奮い立たせる者となることの方がより良い生き方だろうか? おゝ、それを疑える者がだれかいるだろうか? 一瞬たりとも、だれに疑いえようか?

 私は青年である方々に云いたい。自分の責任を考慮するがいい。善を施すという特権と贅沢について考えてみるがいい。この日、用いられる者となることを決意するがいい。きっぱりと自分の心をキリストに引き渡すがいい。

 最後に、神に仕えるときに、あなた自身の魂にやって来る幸福を考えてみるがいい。----人生の旅を歩む途上で受ける幸福、----その旅が終わるとき最後に受ける幸福を考えてみるがいい。嘘ではない。これまであなたがいかに下らない考えを吹き込まれていようと、嘘ではない。この世においてすら、義人には報いがあるのである。敬虔さには、実際、来たるべき世における約束と同様、この世における約束もある。あなたはこの世で、神が自分の友であるという堅固な平安を感じることができる。たとえ自分がいかに無価値な者であろうと、自分はキリストにおいて全うされているのだ、----自分には、なくなることのない分け前があるのだ、----自分は決して取り去られることのない良い資産を選び取ったのだ、----と知りえる真の満足がある。

 心の堕落している者は自分の道に飽き飽きするが、「善良な人は自分自身に満足を覚える」(箴14:14 <英欽定訳>)。世的な人の小道は生きている限り毎年毎年暗くなっていく。----キリスト者の小道は輝く光のように、最後まで明るさを増し加えていく。その人の太陽は、世的な人の太陽が永遠に没しつつあるとき、まさに登っていくのである。----その人の最良のことがみな開花して、永遠に花盛りになり始めるときに、世的な人の最良のものはみな自分の手からすり抜けて、消え失せていくのである。

 私は青年である方々に云いたい。こうした事がらは真実である。ぜひ勧めの言葉を与えさせてほしい。確信するがいい。十字架を負うがいい。キリストに従うがいい。自分自身を神に明け渡すがいい。

青年に思う[了]

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*1 テーバイ人アルキアス。[本文に戻る]

*2 ハンニバル。[本文に戻る]

*3 ローマ。[本文に戻る]

*4 バックランドの『ブリッジウォーター小論』、第2巻、図26。[本文に戻る]

*5 第二ペテロに関する注解でアダムズは云う。「楽しみには、まずそれが罪のないものであるという保証がなくてはならない。----それから、それが行き過ぎたものでないという限度がなくてはならない」。[本文に戻る]

*6 ウォルシンガム大臣。[本文に戻る]

*7 この主題に関しては、ファーバーの『不信仰の困難』を参照されたい。[本文に戻る]

*8 ウェストミンスター大教理問答は、この見事な問いと答えから始まっている。「人間のおもな、最高の目的は何であるか」。「神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである」。[本文に戻る]

*9 ユヴェナリス。[本文に戻る]

*10 古い寓話だが、あるとき蝶々が梟に尋ねたという。自分の羽根を焦がした火をどう扱うべきですか、と。そのとき梟は蝶々に答えてこう助言した。その煙すらも見ないようにしなさい、と。[本文に戻る]

*11 国内および海外における青年のための英国国教会宣教支援会や、ロンドンにおけるキリスト教青年会は、真のキリスト者全員の支持を受けるに値するものである。これらのような制度が組織されたことは、この邪悪な時代において励まされる、まれなしるしの1つである。他の場所でも同種の協会が創設されつつあるのを見て私は嬉しく思う。----神がそれらを豊かに祝してくださると固く信ずるものである。[本文に戻る]

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