Questions about Regeneration 目次 | BACK | NEXT
18. 新生に関する問題 このページから始まる論考は、洗礼新生に関して当惑と困惑を覚えているすべての国教徒に、判断の材料を与えるためのものである。この有名な教理は、非常に広範な支持を集め、非常な確信をもって真実であると宣言されているため、この主題全体を討議するには、いくつかの単純な問いかけを投げかけ、それに答えを返す形にするのが望ましいと私は思う。いま私が、この問題について態度を決めかねている人々に示したいと願っているのは、バプテスマと新生が必ずしも同時に起こるものではないと主張する国教徒には、一般に考えられているよりも、はるかに大きな理性と、論理と、聖書と、《祈祷書》との後ろ盾があるのだ、ということである。少なくとも、そうした人々の見解は、あまりにもしばしばなされているように、傲然たる、理不尽な軽蔑とともに見下されるべきではない。それゆえ私は、この論考に含まれている種々の議論が、敬意をもって考察されるに値するものであると、あえて考えるものである。
1. 新生とは何であろうか?
それは、ある人が真のキリスト者になるとき、聖霊がその人に内側に作り出してくださる、心と性格とにおける完全な変化である。《教会教理問答》はそれを、「罪に対して死に、義に対して新しく生まれること」と呼んでいる。それは、「新しく生まれること」、「神によって生まれること」、「御霊から生まれること」と同じである。「人は、新しく生まれなければ」、というのは、「人は、新生しなければ」、という意味である。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」、というのは、その人が「新しく生まれた、あるいは、新生した」、ということである(ヨハ3:3; IIコリ5:17)。
2. しかし、信仰を告白するキリスト者はみな真のキリスト者ではないのだろうか?
決してそうではない。不幸にして、おびただしい数の人々は単に名ばかりのキリスト者であって、その心にも生活にも、真のキリスト教を全く有していない。聖パウロはかつて、「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく」、と云ったように(ロマ2:28)、今なら、「外見上のキリスト者がキリスト者なのではない」、と云うであろう。「内面におけるユダヤ人がユダヤ人であり」<英欽定訳>、と云ったように、今なら、「内面におけるキリスト者がキリスト者である」、と云うであろう。つまり、真のキリスト者は新生しており、単なる名目上のキリスト者は新生していないのである。
3. しかし、私たちは自分が新生しているかどうかをどうすればわかるのだろうか? それは死ぬまでわからないのではないだろうか?
新生は常に、それが、ある人の生活や性格に生じさせる実や効果によって知ることができる。それには常に、特定の目印、証拠、効果、成果、結果が伴う。あらゆる新生した人はこうした目印を多かれ少なかれ明確に有しており、それらを有していない人は新生してはいない。何の効果も生じさせず、何の実も結ばせず、生活において全く見られないような新生は、聖書で決して言及されていない新生である。
4. 新生の目印や証拠とは何か?
それは聖ヨハネの第一の手紙の中で非常に明確に、また平易に規定されているので、走り読みしてもはっきりわかるであろう。そこにはこう書かれている。「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません」。「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです」。「義を行なう者はみな神から生まれた」*。「愛のある者はみな神から生まれ……ています」。「神によって生まれた者はみな、世に勝つ」。「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きない」(Iヨハ3:9; 5:1; 2:29; 4:7、5:4、18)。英語の平易な言葉に何の意味もないとでも云うのでない限り、こうした聖句の意味ははっきりしている。こうした目印を有している人は「新しく生まれて」おり、「新生して」いるが、これらを持っていない人は新生していないのである。
5. 新生したすべての人々は、こうした新生の目印を、同じ程度の深さ、強さ、明瞭さ、明確さで有しているのだろうか?
絶対にそのようなことはない。「新しく生まれた」人々の有する恵みのうち、最高のものと最低のものの間には、非常な程度の差がある。本物の、真のキリスト者の中には、霊的な境地において「幼子」でしかない者らもいれば、「強い者」、頑強な者、キリストのために大きなわざを行なえる者らもいる(Iヨハ2:12-14)。聖書は、小さい信仰や大きい信仰について、小さい力や大きい力について語っている。だが、1つのことだけは確かである。----新生した人はだれしも、多かれ少なかれ新生の目印を有しており、そうした目印を何1つ持たない人は新しく生まれてはいない(マタ14:31; 15:28; 黙3:8; ロマ15:1)。
6. しかし、バプテスマを受けたすべての人は新生しており、バプテスマには常に新生が伴うのではないだろうか?
決してそうではない。バプテスマを受けた膨大な数の人々には、その内側にも生活にも、聖書的な新生の目印が1つも伴っていない。彼らは、「罪に対して死に、義に対して新しく生まれること」がいかなることか全くわからない。それとは逆に彼らは、あまりにもしばしば罪の中に生き、すべての正義の敵となっている。こうした人々をそのバプテスマのゆえに「新生している」と云うのは、聖ヨハネの第一の手紙と全く相容れないように思われる。《教会教理問答》によると、バプテスマには2つの部分が含まれている。----外見的な、目に見えるしるしと、内面における霊的な恵みである。しかし、その《教理問答》のどこを見ても、そうしたしるしと恵みが必ず相伴うものだとは書かれていない。
7. しかし、英国国教会の《祈祷書》の《洗礼式次第》では、バプテスマを受けたあらゆる子どもについて、「この子は新生している」、と云っていないだろうか? また、神が「この幼子を新生させることをよしとしたもうた」ことについて感謝するよう命じていないだろうか? これは一体どういうことなのだろうか? それをどう説明できるだろうか?
《洗礼式次第》がこうした表現を用いているのは、その《式次第》を用いる者たち、また自分の子どもたちにバプテスマを授けに連れて来る者たちが、真に告白する通りの者であるという、愛による仮定によっているのである。カールトン主教が云うように、「これらすべては教会の愛である。それ以上のいかなることが云えようか?」 ダウネーム主教が云うように、「私たちは、愛の判断と、確実な判断とを区別すべきである」。
8. しかし、《洗礼式次第》の言葉遣いを、そのように説明するのは正直で、自然で、正しいことだろうか? それがこの言葉を解すべき真の意味なのだろうか?
それこそ、《祈祷書》全体の精神と首尾一貫する唯一の意味にほかならない。《祈祷書》は、最初から最後まで、それを用いるすべての者が本物の、徹底的なキリスト者であると、愛によって仮定している。これこそ、《埋葬式次第》を解釈できる唯一の意味である。これこそ、私たちが《教会教理問答》を子どもたちに教えることのできる唯一の意味である。私たちは彼らにこう云うように命ずる。「聖霊は私を、また神によって選ばれた人々を聖なるものとしてくださる」、と。だが、まともな分別のある人ならだれでも、《教理問答》を唱えるすべての子どもたちが、単にこうした言葉を用いているからといって、真に「聖なるものとされている」とか、真に「選ばれている」などと云いはしないであろう。
9. しかし、キリストのお定めになった儀式を用いるすべての人は、理の当然として祝福を受けると信ずるべきではないだろうか?
決してそうではない。キリストのお定めになった儀式の恩恵は、それらが用いられる精神としかたに完全に左右される。聖書が明確に云っているように、人は主の晩餐を「ふさわしくないままで」受け、その飲み食いによりさばかれることがありえる。英国国教会の《信仰箇条》の宣言するところ、礼典は、それらを「正しく、ふさわしいしかたで、信仰をもって」受け取る者たちにおいてのみ、健全な効果と働きを及ぼすのである。それらは決して、理の当然として、薬が肉体に働きかけるのと同じようなしかたで、「事効的効力(ex opere operato)」をもって、恵みを伝えはしない。有名なフッカーの教えによると、「神の恵みの礼典を受けるもののすべてが、神の恵みを受けるのではない」。水のバプテスマを受けたすべての子どもたちがすぐさま新生し、新しく生まれると主張するのは、バプテスマという礼典を単なる形式に変えてしまうこと、聖書と《三十九信仰箇条》の双方に矛盾することのように思われる。
10. しかし、あらゆる幼児は、バプテスマの恵みを妨げる何の障害もないのだから、ふさわしいしかたでバプテスマを受けているのではないだろうか? その結果、彼らは、理の当然として、バプテスマを受けた瞬間に、みな新生するのではないだろうか?
決してそうではない。いかなる幼児も、それ自体としては、恵みを受けるにふさわしくはない。なぜなら、《教理問答》が云うように、それは「罪のうちに生まれた、御怒りを受けるべき子」だからである。それが教会に受け入れられ、バプテスマを授けられるのは、ただその両親あるいは名親の信仰と告白に基づいてのみである。真の宣教師ならだれしも、介添えも名親もいない異教徒の子どもたちにバプテスマを授けることなど考えもしない。《教会教理問答》は、こう問いかけている。「なぜ幼児にバプテスマが授けられるのか?」 しかし、それが返している答えは、「彼らには、恵みを妨げる何の障害もないからである」、ではない。----むしろ、「彼らは、その保証人によって悔い改めと信仰を約束するからである」。それゆえ、私たちは常に覚えておこう。《保証人》の告白がなければ、幼児はバプテスマを受けるいかなる資格もない、と。確かにこの《保証人》たちが、悔い改めや信仰について何も知らなければ、あるいは自分たちが何を約束しているのかを知らなければ、常識からもわかるように、その幼児がその礼典から何か内的な恩恵を受け取れる見込みは全くない。あからさまに云えば、もし両親か名親かがある幼児をバプテスマに連れて来るとき、全くの無知で、信仰も祈りも知識もないという場合、それにもかかわらず、その幼児が新生を受けるに違いないなどと考えるのは奇怪なことである。このような具合では、礼典はどのようなしかたで用いられようと、----無知のもとに用いられようと、知識をもって用いられようと、----ほとんど問題はないということになるであろう。また、それらを用いる人々が敬虔であろうと不敬虔であろうと、大した問題はないということになるであろう。つまり、信仰を有する親の子どもたちも、有さない親の子どもたちも、バプテスマから全く同一の恩恵を受けるのである! このような結論は、筋の通らない、ばかげたものと思われる。
11. しかし、聖パウロはその書簡の中で、キリスト者が「バプテスマによってキリストとともに葬られ」た、と云い、バプテスマを受けた者は「キリストをその身に着た」と云っていないだろうか?(ガラ3:27; コロ2:12)
疑いもなく聖パウロはそう云っている。しかし、彼がこのようなことを云っている人々がバプテスマを受けたのは、幼児期にではなく、成人してからである。また当時は、信仰とバプテスマが堅く結びついており、人は信じるとすぐに、バプテスマによってその信仰を公に告白したのである。しかし、新約聖書のどこを見ても、幼児に対するバプテスマの効果を詳細に述べている部分など一箇所もなく、あらゆる幼児が新しく生まれるとか、新生するとか、キリストとともに葬られているなどと語っている聖句など1つもない。モズリ主教座聖堂参事会員が云うように、「聖書はいかなる箇所においても、明示的にも暗示的にも、決してバプテスマにおける幼児の新生を主張してはいない」(モズリの『洗礼論争』、p.34)。それだけでなく、私たちがはっきり告げられているように、魔術師シモンはそのバプテスマを受けた後も、キリストに「あずかること」がなく、彼の心は「神の前に正しくない」ものであった。それゆえシモンは、バプテスマによって新生していた----あるいは新しく生まれていた----はずがない(使8:21)。
12. しかし、聖ペテロは、「バプテスマは今私たちを救う」、と云っていないだろうか? そして、もしそれが私たちを救うのなら、それは私たちを新生させもするのではないだろうか?(Iペテ3:21 <英欽定訳>)
疑いもなく聖ペテロはそう云っている。しかし、この聖句を引用する人々は、「私たちを救う」、という言葉で止まらずに、その文の最後まで注意深く読むべきである。そうすればわかるように、聖ペテロは、自分の述べていることが誤解されないように明確な但し書きと限定を設けている。彼の云うところ、私たちを「救う」バプテスマとは、単に外見上、水をからだにつけることではなく、「正しい良心の神への誓い」を伴うバプテスマなのである。さらに、奇妙な事実だが、この「バプテスマは救う」という表現を用いている聖ペテロこそ、バプテスマを受けた後のシモンに向かって、あなたは「不義のきずなの中にいる」、また、あなたの心は「神の前に正しくない」、と告げた当の使徒だったのである(使8:21)。
13. しかし、私たちの主イエス・キリストはニコデモに向かって、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」(ヨハ3:5)と云っていないだろうか? これは、水によるバプテスマを受けたすべての者が新生していることを証明していないだろうか?
決してそうではない。その種のことは何も証明されていない。この有名な、またしばしば引用される聖句をもとに何が云えるにせよ、それはせいぜい、もし私たちが救われたければ、「水と御霊によって生まれ」る必要がある、ということでしかない。しかしそれは、バプテスマを受けたすべての者、あるいは「水によって生まれた」すべての者が、それと同時に、「御霊によって生まれ」ているなどと云ってはいない。そこからは、バプテスマと新生とが結びついている場合も時にはある、とまでは証明できるかもしれないが、それは両者が常に変わらず関係しているなどとは、いささかも証明していない。
14. しかし、バプテスマを受けたすべての人々が、バプテスマによって霊的新生の恵みを受け、そうした人々の多くが、後になってその恵みを失うというのが正しいのではないだろうか?
聖書には、このような言明をはっきり裏づけるような言葉は一言も書かれていない。聖ペテロが明確に云っているように、私たちが「新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からで」ある(Iペテ1:23)。私たちの教会の第十七信仰箇条は、恵みのことを、失われることがありえないものと語っている。「かくも卓越した神の恩恵を授けられている者たちは、信仰深く良い行ないのうちを歩み、ついには、永遠の至福に達する」。聖霊の力強い内的なみわざが、これほど絶え間なく失われ、足で踏みにじられることがありえるなどと考えるのは、非常にその栄誉を汚すことである。さらに、生まれたばかりの幼児期にバプテスマを受けたおびただしい数の人々は、失うことになるような恵みを持っているという、ごく僅かな証拠も決して示すことがなく、少年少女としての彼らは、クエーカー教徒やバプテスト教徒を親に持つ、バプテスマを受けていない子どもたちとくらべて、ほんの少しもましではない。ソールズベリーの主教ロバート・アボットがこう問うたのも無理はない。「もし彼らが語るような救われ方がバプテスマを受けた者たちのうちにあるのだとしたら、一体いかなるわけで、その効果やしるしがこれほど目に見えること僅かなのだろうか?」
15. しかし、バプテスマを受けたすべての人々が、バプテスマによって霊的新生の恵みを受け、その恵みは彼らのうちに休眠中の種子のように生きてとどまり続けるが、現在のところは何の実も結んでいないというのが正しいのではないだろうか?
決してそうではない。使徒聖ヨハネがはっきり禁じているように、私たちは、休眠中の恵みなどというものがありえると考えてはならない。彼は云う。「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです」(Iヨハ3:9)。この証言はほんとうである。この世に、目に見えない光や、熱くない火などというものがあればともかく、そうでもない限り、休眠していて活動しない恵みなどいうものはありえない。「あなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」、という良く知られた言葉は、あまりにもしばしばバプテスマを受けた人々に向けて語られている。だが、常識をもって自分の聖書を開いてみれば、だれでも、この言葉がバプテスマの効果についてではなく、教役者たちの賜物について用いられていることがわかるはずである(IIテモ1:6)。
16. しかし、初期の教父たちは、バプテスマを受けたすべての人々は、必然的にバプテスマによって新生していると主張しているではないだろうか? また、あらゆる時代の偉大な学識ある神学者たちの多くが同じ意見をいだいてきたではないだろうか?
教父たちは、2つの礼典のどちらについても、突拍子もない言葉遣いで語っており、この点について安全な導き手ではない。さらに、彼らはしばしば互いの間で矛盾することを語っている。新生が必ずしもバプテスマに伴うものではないと主張する神学者たちも、洗礼新生の教理を主張するいかなる神学者にも負けず劣らず、注意されてしかるべき、学識ある、賢明な人々である。クランマーや、ホウィットギフトや、アッシャーや、レイトンといった大主教たち、ラティマーや、リドリや、ジューエルや、ダヴナントや、カールトンや、ホプキンズや、ロバート・アボットといった主教たちが残した明確な証拠によると、彼らは霊的な新生の恵みが、必然的に、また常に変わることなくバプテスマに結びついていると考えてはいなかった。これだけ云えば十分であろう。結局のところ、こうした問題において私たちは、いかなる人間をも《先生》と呼んではならない。人間が云うことは大した問題ではない。聖書は何と云っているのだろうか?
17. しかし、この見解のように、バプテスマを受けた多くの人々が全く新生しておらず、そのバプテスマから何の恩恵も受けていないとするような新生についての見解は、キリストがお定めになった礼典の1つに途方もない不名誉を投げかけ、それを蔑視させることにつながるのではないだろうか?
全くそのようなことはない。真実はそれとは正反対である。さながら化学溶液が写真板に効果を生じさせるかのように、幼児洗礼が機械的に恵みを授けるなどと云い、たとえ無思慮で無頓着な教職者が、無思慮で無知な両親の子どもに対して水や特定の言葉が用いたとしても、その子はたちまち新しく生まれるなどと云い、----さらには、目に見える効果が全くなくとも、途方もない霊的効果がバプテスマによって生じさせられているのだ、などと云うこと、----こうしたことすべての方が、ものを考える多くの人々の見るところでは、バプテスマの尊さに泥を塗るものである! それは、はたで見ている人々をして、バプテスマなど無益であると考えさせるか、新生などに何の意味もないと考えさせることになりがちである。バプテスマに栄誉を帰したいと願う人は、こう主張すべきである。すなわち、それは、高く聖なる儀式であって、キリストによって定められたあらゆる儀式と同じく、厳粛な畏敬の念をいだかずに携わるべきではない。また、それが心と、知識と、信仰と、祈りによって用いられなければ、また、受洗した子どもを敬虔に訓練することが後に続かなければ、いかなる祝福も期待できない、と。何にもまして、その人は主張するべきである。バプテスマが善をもたらすとき、その善はバプテスマを受けた者の生活とあり方のうちに見えるであろう、と。この件についてまだ納得がいかないという人々は、形式的に、また無頓着に用いられたご自分の儀式について神が、いかに激しい言葉遣いを預言者イザヤに語らせているか、注意深く調べてみるがいい(イザ1:11、12)。こうした言葉を書いたとき、この預言者はいかなることを意味していたのだろうか? 「『あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう。』と、主は仰せられる。……『わたしは、雄牛、子羊……の血も喜ばない』」。彼が明らかに意味しているのは、神ご自身の儀式も、人間の濫用によって、完全に無益なものとなり果てることがありえる、ということである。
18. しかし、私たちは、新生とは状態の変化しか意味しておらず、道徳的、霊的な変化など全く意味していないと信じてもいいのではないだろうか? 私たちは、それが単なる教会用語であって、教会内の特権にあずかる状態に認め入れられたこと以上には、何も意味していないと信じてよいのではないだろうか? だとすると私たちは、バプテスマを受けたあらゆる人は、バプテスマによって新生していると云ってもよいのではないだろうか?
もちろん私たちは、英国のように自由な国では、自分の好きなことを何でも云ったり信じたりしてよいし、この教会用語としての新生という観念は、多くの困難の結び目を断ち切るもの、常に一部の人々の思いを満足させてきたものではある。しかし、ここで打ち勝ちがたい困難となるのは、「新生」という言葉が、新約聖書の中では一度たりとも決してそのような意味で用いられてはいない、ということである。さらに、聖ヨハネの第一の手紙の中にある平行表現である、「神によって生まれる」という表現は、間違いなく確実に、単に教会内の特権にあずかる状態へと認め入れることをはるかに越えた大きなことを意味している! たとえば、「だれでもバプテスマを受けた者は、罪のうちを歩みません。……また、世に勝ちます」、などと云うのはばかげているであろう。事実と異なるからである。----さらに、《教会教理問答》が明確に教えるところ、バプテスマにおける内的で霊的な恵みは、単なる教会制度上の変化ではなく、「罪に対して死に、義に対して新しく生まれること」である。さらに、《聖霊降臨祭のための公定説教》は、新生のことを、はっきりと、内的で霊的な変化であると述べている。1つのことだけはまぎれもなく確かである。いかに学識のない人も、聖書を読んで、人が「新生」していながら、救われていないことがありえるなどということを理解できるとは思えない。貧しく、単純な考え方しかできない人々は、教会制度上の新生などという観念を受け入れることができない!
19. しかし、バプテスマを受けたすべての人々は新生していると仮定し、そのような者として語りかける方が、より親切で、寛大で、愛あることではないだろうか?
絶対にそのようなことはない。むしろ逆に、それは良心を致命的な油断へと眠り込ませてしまうはずである。それは怠惰さを助長し、自己吟味を妨げ、安直で、自己満足的な魂の状態を励ます見込みが高い。いかに信仰的な言明も、もしそれが厳密に真実なものでなければ、決して親切でも愛あるものでもない。親切めかして、神の真理のいかなる部分をも押し隠すのは、間違ったことであるばかりか、罪である。善を施す道は、あからさまに人々に警告し、バプテスマを受けているからといって新生していると考えてはならない、と告げることである。彼らは、果たして自分が「新しく生まれて」いるかどうか、自分を吟味するよう命ぜられなくてはならない。そして、新生の聖書的な目印を有していない限り、自分を新生した者と考えてはならない、と告げられなくてはならない。
20. しかし、この新生という教理をそれほど重要視することが本当に必要なのだろうか? 単に人々には、「善良」で、教会に通い、「誠実」で、自分の義務を果たさなくてはならない、そうすれば、どうにかして、いつかは天国に行き着くことができる、と教えるだけで十分なのではないだろうか? このように、無条件に、独断的なしかたで、彼らが「新しく生まれ」なければならない、などと告げることはないのではないだろうか?
こうした問いかけに対する答えは、単純簡明なものである。キリスト者が、キリスト教信仰について有する、信仰と行為との唯一の基準は聖書である。もし聖書が真実であるとしたら、新生は救われるために絶対に必要である。こう書かれている。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。----「あなたがたは新しく生まれなければならない」。----「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」(ヨハ3:3-8; マタ18:3)。人は、あの悔い改めた強盗のように、バプテスマを受けなくとも天国に入り、救われることが可能である。だが、いかなる人も、新生することなしに救われたり、天国に行くことはできない。あの悔い改めた強盗は、バプテスマを受けはしなかったものの、「新しく生まれ」ていた。それゆえ、新生は、主要にして、第一級の重要度を有する教理なのである。
21. しかし、もしこれらのことが真実だとしたら、また、新生しない限りだれひとり救われることができないとしたら、信仰を告白する多くのキリスト者たちは、非常に危険な立場にあるのではないだろうか? 「新しく生まれ」ているという種々の目印を有していない人々は、永遠に滅びてしまいかねない、途方もない危地に陥っているのではないだろうか?
もちろん彼らは危地のうちにある。しかし、これこそ聖書が最初から最後まで、こうした人々についてまさに語っていることなのである。こう書かれている。「滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです」。また、こう書かれている。「というのは、私は……涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです」(マタ7:13; ピリ3:18)。多くの人々の信仰的な状態として、最も悲惨な部分は、彼らが自分はバプテスマを授かり、教会に通っているから天国に行くだろうと思い描いていながら、その実、新生していないために、永遠の破滅への道をたどっているということである。
22. キリストの教会の教役者は、自分の会衆に新生する恵みを授けることができるだろうか?
絶対にできない。聖ヨハネがはっきり云っているように、神によって生まれた人々は、「血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」(ヨハ1:13)。「いのちを与えるのは御霊です」。パウロは植えて、アポロは水を注ぐかもしれないが、「成長させてくださる」のは神だけである(ヨハ6:63; Iコリ3:7)。教役者は、バプテスマのヨハネのように、水によってバプテスマを授けることはできるが、キリストだけが、「聖霊のバプテスマをお授けに」なれる(マコ1:8)。霊的ないのちを与えるのは、肉体的生命の場合と同じく、神だけに属する大権である。人間はそれを自分自身に与えることも、他者に与えることもできない。
23. しかし、こうした事がらが真実だとしても、新生の目印が何1つ伴っておらず、自分が新しく生まれていないように感ずる不幸な人々は何をすべきなのだろうか? 彼らは望みのない絶望に沈んでただじっとしているしかないのだろうか?
聖書はこの問いに対して単純な答えを与えている。もしある人が本当に新生する必要を感じ、それを切望するのなら、その人は、いのちの源なるキリストのもとに行き、キリストに切に願わなくてはならない。聖霊のバプテスマをお授けになるその方に、自分の心にバプテスマを授けて、恵みをお与えくださいと願わなくてはならない。こう書かれている。「この方を受け入れた人々……には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハ1:12)。その人は、新しい心を祈り求めなくてはならない。こう書かれている。「天の父は、求める人たちに、聖霊を下さる」*(ルカ11:13)。その人は、勤勉に神のことばを読むことによって、いのちを求めなくてはならない。こう書かれている。「信仰は聞くことから始ま……る」。----「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました」(ロマ10:17; ヤコ1:18)。このようなしかたで正直に恵みを追い求めた人の中で、それを見いだせなかった人はひとりもいない。このようなやり方で求めるのが面倒だというような人は、真に新生を願ってはおらず、自分の魂について真剣になってはいないのである。
24. しかし、ある人が自分自身のうちに、自分が真に新しく生まれているとか、新生の真の目印を有しているとかいう何らかの望みをいだくべき理由を見いだしたとしたら、その人は何をすべきだろうか? その人は黙って何もせず、自分の魂について指一本動かさずにいてよいだろうか?
決してそうではない。その人は日々、「キリストの恵みと知識において成長」するよう努力しなくてはならない(IIペテ3:18)。自分の内側における聖霊のみわざを深め、また強めるために、努めて勤勉に自分の受けた恵みを活性化するようにしなくてはならない。その人は、「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全う」しなくてはならない(IIコリ7:1)。その人は、より密接に「キリストにとどまり」*、神の御子を信ずる信仰によって生きるように努力しなくてはならない。自分が新生している考えていながら、生きる限り毎年、より聖く、よりキリストに似た者になろうという絶えざる願いを感じていないという人は、非常に不満足で不健全な魂の状態のうちにあるのである(ヨハ15:4、5; ガラ2:20; IIペテ1:5-10)。
25. この論考で主張されているような新生に関する見解をいだく福音主義的国教徒は、自分の意見を恥じるべき何らかの理由があるだろうか?
そのようなものは全くない。彼らは、自分の見解が聖書や、《三十九信仰箇条》や、《祈祷書》や、《教理問答》や、《公定説教集》や、英国国教会の最上の神学者たちの多くの著作物と一致していないことを証明してみよと、いかなる人に向かって挑戦してもさしつかえない。このような立場をとる人々に恥じるべき理由は何もない。最後の審判の日には、だれが正しかったかが明らかになるであろう。その日の審きに、私たちは安全に、確信をもって訴えることができる。
この論考のしめくくりとして私は、『聖公会祈祷書』が最初に編纂された際の大原則について、一言大まかに述べることにしよう。それは、この《典礼式文》の冒頭から末尾まで一貫して流れている原則である。この原則に対するはなはだしい無知や軽視から生じた過誤や、偽りの教えは、到底はかり知ることができない。それが何か示させてほしい。
《祈祷書》の原則とは、教会の全会員を、彼らの告白の通りに、実際においても、真にキリストを信ずる信仰者であり、聖霊によって聖なるものとされた人々であると仮定することにある。《祈祷書》は、ひとりのキリスト者がいかなる者であるべきかについて、最高の基準をかかげて、それに応じた言葉遣いですべてを規定している。教役者は、公の礼拝に集った人々が信仰者であるものとして語りかける。この《典礼式文》が云わせている言葉を用いる人々は、信仰者であると仮定されている。しかし、《祈祷書》を作成した人々が決して主張しようと意図しなかったこと、それは、英国国教会の会員であるすべての者たちが現実に、また実際に真のキリスト者である、などということである! むしろ逆に、彼らが《信仰箇条》で明確に私たちに告げているところ、「目に見える教会には、悪が常に善と入り混じっている」。しかし彼らは、何らかの祈祷形式を作成しなくてはならないとしたら、それは、その形式を用いる人々が真のキリスト者であって、偽りのキリスト者ではないという仮定に立って作成しなくてはならないと考えたのである。そして、そのようにすることにおいて、彼らは全く正しかったと私は思う。不信者や未回心の人々にとって、《典礼式文》などばかげており、実質的に無益であろう。会衆の中で、それが意図している部分の人々は、いかなる《典礼式文》をもほとんど、あるいは全く顧みないであろう。また、その会衆の、聖く信仰を有する部分の人々は、その言葉遣いが全く自分たちには適しておらず、自分たちの必要にかなっていないのを見いだすであろう。
《祈祷書式次第》の全体を通じて流れているこの原則を、人がいかにして見落とすことができるのかは、率直に云って私がどうしても理解できないことの1つである。まぎれもなく聖パウロも、新約聖書中にある、諸教会に宛てたその書簡を書いた際には、この原則に立っているのである。彼は絶えずその教会員たちを「聖徒」と呼び、「選ばれた人々」と呼び、恵みと、信仰と、希望と、愛を有する者らとして語りかけているが、その中の一部の人々は如実に何の恵みも全く有していなかった! 私の堅く確信するところ、私たちの《祈祷書》の編纂者たちが、その《式次第》を作成したときには、それと同じ方針、すなわち、愛ある仮定の方針に沿って作成したのである。そして、この原則に立ってのみ、祈祷書は解釈されうるのであって、それは特に、《バプテスマ》と《新生》という主題について云えるのである。*1
新生に関する問題[了]
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*1 この主題をより深く研究したいという人々には、以下の著作を読むように勧めたい。----
ファーバー主教座聖堂参事会員の『初期の新生の教理』、8巻。グッド聖堂参事会長の『幼児洗礼の効用について』、8巻。モズリ主教座聖堂参事会員の『洗礼新生』、8巻。モズリ主教座聖堂参事会員の『洗礼論争』、8巻。
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