The Rights and Duties of Lay Churchmen 目次 | BACK | NEXT

17. 国教会平信徒の権利と義務*1


「キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ」----ピリ1:1

 聖パウロのピリピ人への手紙の冒頭を飾るこの言葉は、非常に尋常ならざる聖句である。聖書を読む人々は、この聖句にしかるべき注意を十分に払っていないのではないかと私は疑うものである。カリフォルニアの黄金のように人々は、自分たちが何世紀にもわたって足で踏みつけてきた地面の下に、何が眠っているか全く気づいていない。実際、もしも英国国教会の一部の神学者たちが、この節を書いている使徒のわきでその手元をのぞき込んでいたとしたら、彼らは使徒に向かって、これは書き間違いではありませんか、と云ったことであろう。

 さて、私はこのように云うことによって何を意味しているのだろうか? 私が言及している尋常ならざる点とは何のことだろうか? 私が指摘したいのは、聖パウロが、「聖徒たち」を「監督と執事たち」の前に言及している、という点である。彼はピリピ教会に語りかける際に、平信徒層を聖職者層の前に置いているのである。バプテスマを受けた者たちの一団を前列に配置し、教役者たちを後列に配置しているのである。

 この場合における異本の読み方については、何の議論の余地もない。少なくともここでは、改訂訳も原文の言葉遣いに手を加えてはいない。これは、神の霊感により取り違えようのないしかたで与えられ、私たちを教えるために書かれているのである。そのようなものとして私はここに、1つの真理の萌芽を見てとるものである。それは現代において、特に注意を払わなくてはならない偉大な真理である。つまり、この聖句は、キリスト教会の平信徒会員の権利と義務という重大な主題を表わしているのである。

 この論考で私は3つの問題を提起し、それを吟味してみたいと思う。----

 I. 使徒たちの時代、教会の平信徒会員はいかなる立場にあったのだろうか?
 II. 過去二百年の間、英国国教会の平信徒層の立場はいかなるものであっただろうか?
 III. 平信徒層の問題に関して、私たちは何を目当てとすれば、英国の国立教会を強化し、改革することができるだろうか?

 この主題全体を取り扱うにあたり私は、それが非常に微妙で困難な問題に関わるものであることを痛感している。一部の革命的な助言者たちは、教会から《信条》も《信仰箇条》も《儀式書》もうっちゃってしまえとか、侵略者に金を与えて追い払おうといわんばかりのあだな望みをいだいては、教会を《娯楽場》にしてしまえとかいう提言をしているが、そうした人々に私は全く共感を覚えない。私が願うのは、ただ聖書的で、理にかなった改革だけであり、私の知る限り、いかなる改革にもまして英国国教会を強める見込みが高いのは、その平信徒層を彼らの正当な立場につかせるという改革にほかならない。今日において、教会の守りを最も効果的に押し進める方法の1つは、賢明な教会改革を押し進めることにある。

 1. まず、使徒たちの時代に、教会の信徒会員たちはいかなる立場にあったのだろうか? 私たちは、自分がローマや、コリントや、エペソや、テサロニケや、エルサレムの、バプテスマを受けた人々の集会を訪れたと想像してみよう。そして、自分が何を見いだすことになるか、また聖書が彼らについて何と教えているかを見いだしてみよう。このことにおいては、他の多くの問題においてと同様、私たちにはこう尋ねる権利がある。「私たちは新約聖書からいかなる光を得られるだろうか?」、と。

 これは、格別な注意を要する問いかけであり、私がよほどひどい思い誤りをしていない限り、その結果は一部の人々を驚愕させ、かつ目を見張らせるであろう。

 では、私は何のためらいもなく云う。あなたは新約聖書のどこを探しても、叙任を受けた教役者たちだけが「教会」と呼ばれていたり、平信徒層との結束や、彼らの協力なしに自分たちだけで教会を代表して行動したりしている箇所を、一節たりとも見いだせないであろう。

 執事たちは任命されただろうか? それは十二使徒が勧めたことではあったが、「全員」が選んだのである(使6:5)。----異教徒の回心者が割礼を受け、儀式律法を守るべきかどうかを検討する会議が開かれただろうか? そこで下された決議は、「兄弟である使徒および長老たち」が「全教会」とともに発したものと云われているのである(使15:22、23)。----霊感された数々の書簡が聖パウロから個別の教会に書かれただろうか? そのうちの8通の宛先は、「教会----聖徒たち----忠実な兄弟たち」であり、----ただ1通(ピリピ人への手紙)においてのみ、その冒頭の呼びかけで「監督と執事たち」が言及されているに過ぎない。----聖パウロは、主の晩餐や異言を話すことについての指示を書き送っただろうか? 彼がそうした指示を送った相手は、「キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々」であり、----教役者たちではなかったのである。----不健全な会員に対しては戒規が実行されただろうか? 私が見いだすのは、聖パウロがその指示を、教職については何の言及もせずに、コリントの聖徒たちに与えている姿なのである。「その悪い人をあなたがたの中から除きなさい」(Iコリ5:13)。----だれかが「あやまちに陥った」ときには、正された後で交わりに復帰させられているだろうか? 聖パウロは、ガラテヤ人の中でも「御霊の人」である人々に向かってそうするように告げており、その件は教役者たちにまかせよなどとは云っていないのである(ガラ6:1)。----ヘブル人キリスト者宛てに一通の書簡が書かれただろうか? 「指導者たち」に関することなど、その最終章の直前まで一言も書かれていないのである。----聖ヤコブは公同書簡を書いているだろうか? 彼は「十二の部族」に語りかけており、3章になって初めて「教師たち」について述べているのである。----聖ペテロは公同書簡を書いているだろうか? 彼は選ばれた人々全体に宛てて書いており、最後の章になるまで「長老たち」については何も云わず、その最終章においてすら、長老たちに向かって、「割り当てられている人たちを支配する」ようなことがないようにすべきであると、注意深く思い出させている。聖ペテロの第二の手紙や聖ヨハネとユダの手紙について云えば、彼らは教職という主題についてまるでふれていない。

 さて、ここでだれも思い違いをしないでほしい。特定の階級の人々が教会に仕えるべきであることは、新約聖書の中で、きわめて平明に教えられていると私には思われる。聖パウロは、「教会ごとに長老たちを選」んだ、と書かれている(使14:23)。Iコリ12:28、エペ4:11、テモテへの手紙第一と第二、それにテトスへの手紙を参照されたい。しかし、ある町、あるいはある土地の「教会」が、特に平信徒層を意味していたこと、また教役者たちが単に「教会に仕えるしもべ」*とみなされていたこと(IIコリ4:5)、これは私にとっては真昼の太陽のように明確であると思われる。聖職者が単独で行動し、何もかも取り仕切り、何もかも決裁し、何もかも判断し、何もかも管理し、平信徒層には全く何の発言権もないような教会のことなど、『使徒の働き』であれ新約書簡の中であれ、影も形も見えない。むしろ逆である。確かに聖パウロは「教役者に深い尊敬を払う」*ようテサロニケ人に告げているが、聖職者層にではなく平信徒層にこそ、彼はこの言葉を語っているのである。「気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け……なさい」(Iテサ5:13、14)。おそらく私たちの英国教会の第六箇条を覚えている国教徒であれば、この点を見落とすことはないであろう。

 この論考の先へ進む前に私は、いささかの自己弁護を述べておき、ひょっとするとありえる誤解の種を取り除いておくのがよいと思う。もしもだれかが私のことを、聖職者層を犠牲にしても平信徒層の立場を称揚し、過大視しようとしているのだとか、教役者の務めのことを軽視しているのだと考えているとしたら、それは完全な思い違いである。キリストの定めとして、また堕落した世に必要なものとして、キリスト教会の教職の価値を深く実感することにかけて、私は人後に落ちるものではない。しかし私は、この件における聖書的な限度を踏み越えるつもりはない。私は何はばかることなく云うものである。僧侶めいた教職、仲保者的な教職、無謬の教職、監督派教会の叙任を受けたというだけで知識を専売特許にしているかのようにふるまう教職、あるいは信仰や儀式的行事に関する紛糾した問題に決着をつける能力を特別に有しているかのようにふるまう教職、----このような教職は、私の判断するところ、人間の発明であり、聖書の裏づけを全く欠いたものである。これは予型的なユダヤ教会の体系から借りてこられた教職制であり、現在の経綸においては何の立場も有さないものである。むろんキリスト教会の教役者は教師であり、大使であり、使節であり、見張り人であり、証人であり、羊飼いであり、管理者である。その権威は、テモテおよびテトスへの手紙における、その義務に関する明確な規定によって、はっきり定められている。しかし教役者がいけにえをささげつつある祭司であることを証明するような証拠は、新約聖書の中のどこを探しても完全に欠落している。

 このように云うとき、私は自分ひとりの意見を云い立てているのではない。かの学識に富むダラム教区主教が、そのピリピ書に関する浩瀚な著作の中で、次のような言葉遣いをしているのである。----

 「キリストの御国には、いかなる僧侶体系もない。そこには、神と人との間に立っていけにえをささげるような、いかなる部族や階級も介在していない。神との和解をかちとり、人が赦しを得られるように懇願する、いかなる部族や階級もない。個々の成員ひとりびとりが、天来のかしらとの個人的な交わりを保っている。ひとりびとりは、このお方に直接責任を有し、このお方から直接に赦しを得、力を引き出しているのである」(p.174、第3版)。

 さらにまた彼は云う。「僧侶的な称号が教会の教役者たちに授けられたことは、一度たりともない。福音のもとにある唯一の司祭たち、新約聖書のもとで司祭と呼びならわされている唯一の祭司団は、聖徒たちであり、キリスト教における兄弟姉妹ひとりびとりである」(p.132、第3版)。

 これは健全な語りであって、だれも非難できないものである。1868年に初版が出されたこの著作は、18年もの批判の試練に耐えぬいおり、その諸原則はだれにも反駁や反論を許さないものであり続けている。こうした原則に私は堅く固執したいし、現代の全英国国教徒にこれらを考察するよう強く要求するものである。

 ここで私は使徒時代の教会における平信徒会員という主題を離れるが、この論考を読んでいるすべての人々に向かって、この主題に注意を払うよう勧めたい。私の確信するところ、こうした各地の原始共同体において平信徒層が占めていた顕著な立場こそは、そうした共同体の否定しがたい力と、成長と、幸福と、成功との大いなる秘訣の1つであった。当時は休眠会員などひとりもいなかった。教会内のあらゆる成員が活動していた。だれもが何かをしなくてはならないと感じていた。バプテスマを受けた会員はみな、ローマ人への手紙16章から判断しうる限り、男女を問わず、教会全体の繁栄と発展に直接的に活発に関わっていた。彼らは、独裁的な羊飼いの云いなりになって引き回される、ふがいない無知な羊ではなかった。軍隊の中でも最良の連隊は、部隊全体を精強なものとすることに、士官と兵卒が等しく関心をいだいている連隊である。それは、ズールー戦役における、かのロークの浅瀬における波乱に満ちた一夜に、あれほどの激戦を戦い抜いたような、士官が兵卒を信頼し、兵卒が士官を信頼している連隊である。それは、兵のひとりひとりにいたるまでが知性を働かせ、戦いの帰趨が自分に肩にかかっているかのようにふるまう連隊である。それは、あらゆる兵卒が自分の義務をわきまえ、自分の職業を光栄あるものと誇りに思い、士官全員が倒れても、軍旗のために最後まで戦おうとする連隊である。そのような連隊こそ、使徒時代の初代教会であった。そこには、その士官があり、その監督があり、執事があった。そこには秩序があり、しかるべき服従があり、規律があった。しかし、その強さの主ぜんまいと中軸は、その平信徒層の熱心と、知性と、活動にあった。おゝ、願わくは、私たちが英国国教会という組織においても同じ種類のものを有するように!

 II. 私が行ないたい第二のことは、過去二百年間の、また現時点に至るまでの、英国国教会の平信徒層の立場を吟味することである。

 まず定義から始めよう。私たちが、わが英国国教会の平信徒層について語るとき、それは何を意味しているのだろうか? もちろん私たちが意味しているのは、この教会内にいて、いかなる教役職にも叙任されていないすべての人々のことである。私たちが意味しているのは、聖職者層と対照区別される一般人のことである。彼らがいかに途方もなく重大な集団であるかは、云うまでもない。そうした点に長々とかかずらうのは時間の無駄であろう。平信徒会員がいなければ、教会は到底存在しているなどと云うことはできない。疑いもなく、「三人寄れば、教会あり(Ubi tres, ibi ecclesia)」、という古い格言は正しい。しかし、軍隊を持たない将軍や、連隊を持たない連隊長や、乗組員を持たない船長にもまして役立たずで、無力なのは、平信徒層を持たない教職からなる教会である。いずれにせよ英国国教会の中には、現在、平信徒のいかなる欠乏も見られない。そこには、おそらく比率にして、教職者ひとりあたり500人の平信徒がいる。それゆえ、他のあらゆることを除外して、数の上からだけ云っても、平信徒層は英国国教会の最も重要な部分なのである。さて私がいま強く主張したいのは、現時点における英国国教会の平信徒の立場が、新約聖書の基準にくらべて非常に欠けがあり、それゆえ非常に不満足なものである、ということである。私がキリスト教信仰の大是とも公理とも考えるところ、教会は聖書の模範に近づけば近づくほど良い教会となり、そこから遠ざかれば遠ざかるほど悪くなる。だが私たちの国教会における実際の活動組織や運営において、その計画の立案や、策定や、作成や、通常の体制において、平信徒会員が占めている地位はほぼ無に等しい! 主教たちはランベス宮で荘厳に密議をこらして、私たちの教会の現況を考察するだろうか? そこに平信徒層はお呼びでない。----大主教区会議では年次討論が持たれているだろうか? そこに平信徒層の代表者はいない。----ある教区の主教は自分の主教管区の働きのために、年次計画を立案しているだろうか? 彼は、どこかの破戒牧師を戒規する、あるいはその件をいかに賢明に処理すべきかという難題をかかえているだろうか? 彼には平信徒による評議会などない。----空席になっている聖職禄か、牧師不在の教会があるだろうか? その任命は教区民の意見など一顧もされずになされる。こうした事がらが事実であることを否定できる人がどこにいるだろうか?

 もちろん、ある人々は私にこう云うであろう。平信徒層は私たちの教会の中で、教区委員によって代表されているではないか。彼らは復活祭のたびに選出されて、毎年、大執事あるいは主教の巡察に招集されているではないか、と。

私はこうしたことをいささかも失念してはいない。それに答えて私はただこのことをだけ問いたい。大概の教区委員は、霊的資質についてはほぼ全く顧慮されずに任命されているのではないだろうか? 私は問いたい。彼らの年ごとの巡察同伴は、ただの虚礼や形式にすぎないのではないだろうか? その巡察の意味について深く知っている教区委員が一体何人いるだろうか? 彼らが知っているのはただ、自分たちがある町に行き、おそらく理解もできないような無味乾燥な主題についての告諭を聞き、ことによると他の教区委員たちと正餐を取り、それから帰宅するというだけのことではないだろうか? いったん任命された者は、教会内で行なわれているすべての事がらについて、常に活発な関心をいだいていなくてはならないなどということを、これっぽっちでも念頭に置いている教区委員が何人いるだろうか? 教会の諸教理や、種々の儀式や、教会政治や、種々の困難や、計画や、案について少しでも知ることを期待されている者が彼らの中に何人いるだろうか?----彼らはしばしば、この上もなく卓越した人々であり、卓越した奉仕を行なうことができる。しかし、実際には、彼らにはほとんど、あるいは何も期待されておらず、ただ世俗的で財務的な仕事が与えられるだけである。教区委員の職務が、新約聖書における平信徒層の教会内の立場の観念を完全に満たしているなどと考えるような人は、自分の常識を全く捨てているに違いない。実際に教会のために大きな働きを行なっている例外的な教区委員がいることは、私も重々承知している。しかし、彼らはあまりにも輝かしい例外であって、それは私の法則の証明にしかならない。もしも、一部の教区委員がその義務を時たま果たしているように、あらゆる教区委員がその義務を常に果たすようになるなら、英国国教会は今よりもはるかに強力な教会となるはずである。

 むろん、ある人々はやはり私に云うであろう。平信徒の国教徒は、種々の教会会議や協議会で顕著な地位を占めており、各種のキリスト教団体で非常に用いられる立場にある、と。私もそれは百も承知であるが、これは全く筋違いの議論である。これらはみな、純粋に有志による機関であって、国教会の公認の、また通常の組織の中では、いかなる位置も占めていない。私が問題にしているのは、国教会の組織体系であって、例外的な平信徒の有志たちによる好意から出た奉仕のことではない。

 しかし、別の人々はやはり私に云うであろう。下院議会が英国国教会の信徒層を代表しているではないか、と。だが、確かにそのようなことは口にしないに越したことはない! このような口をきく人はほとんど歴史をまともに読んだことがないか、この二百年間眠りこけていたに違いない。私たちが生きているのは1686年ではなく、1888年なのである。教会と国家が同延かつ同一のものであるとの心地よい理論は、とうの昔に虚空に消え失せた過去の遺物なのである。下院議会は疑いもなく強力な集団であり、「その視野におさめる万物の君主」である。しかし、それはもはや、「国教徒」だけしか含まない集会ではない。それどころか、広く知られているように、下院議会がいかなる主題にもまして議論しようとしないのはキリスト教信仰に関してであり、いかなる宗教的利害にもまして下院において苦い目に遭わされるのは、英国国教会の利害にほかならない。

 しかし、不幸にしてそれだけではない。その背後にさらに潜んでいるものがある。英国国教会の平信徒層は、キリストの直接の働きおよび、わが国におけるキリスト教の進展において、彼らが当然占めているべき位置を占めていない。信仰に関わる一切のことを教区の牧師にまかせてしまうという有害な習慣が国中に蔓延しており、膨大な数の平信徒は、自分と教会との関わりが、単に教会の供する恵みの手段の恩恵を受け取るだけであると考えているらしく、教会をより用いられるものとするための、個人的かつ活発な尽力を全く行なっていない。教会に通う大多数の人々は、日曜日に教会に行き、主の晩餐に集った後では、その義務をすべて果たし終えたと考えているらしく、他の人々に向かって警告したり、教えたり、叱責したり、その徳を建て上げたり、愛のわざを押し進めたり、伝道事業を助ける義務などいささかも負っていないと考えているように思われる。彼らは世にあって罪を抑制し、キリストの御国を進展させるためには指一本動かそうとしない。彼らが考えているのは、絶え間なく受け取ることだけで、決して何かを行なうことではない。自分は正しい列車の乗客席についたのだから、後はじっと座っていればいい。たとえ半分眠っていても、聖職者層という機関車が彼らを天国に連れて行くのだ。もしもエペソか、ピリピか、テサロニケの平信徒が墓からよみがえって、国教会の平信徒がいかにわずかしか英国教会のために働いていないかを見たとしたら、その人は自分の目が信じられないであろう。典型的な原始教会の平信徒と、典型的な英国国教徒の違いは、光と闇、黒と白ほどにも違うものである。一方は目を覚まして生き生きしているのが常で、たえず自分の《主人》のわざに励んでいた。もう一方は、あまりにも多くの場合、実質的に眠りこけており、無気力で、怠惰で、教区のキリスト教信仰のことを牧師の手にゆだねて安閑としている。双方ともバプテスマは受けている。双方とも恵みの手段は用いている。双方とも説教を聞き、自分がキリスト者であると告白している。しかし、一方の信徒の生き方は、もう一方のそれとは似ても似つかない。こうしたことが事実であるとしたら、----そして、だれがそれを否定できようか?----私たちの組織には何か悲痛なほど誤った部分があるに違いない。もしピリピの平信徒が正しかったとしたら、英国の平信徒が正しいことはありえない。私たちははかりで量られて、目方の足りないことがわかったのである。日常茶飯的に使われている言葉遣いすらも、何かが悲しいほどに間違っていることを、あからさまに証明している。近頃は「教会」と云えば「聖職者層」を意味しているのである。どこかの青年が聖職に入りたいという希望を云い表わすと、その友人たちは、彼が「教会に組み込まれようというわけだ」、と云うのである。まるで、その青年が何年も前から教会の中にいたのではないかのように!

 私は、英国教会とその教憲を最大限に活用したいという願いは決して人後に落ちるものではないが、平信徒層という件に関する現在の体制に欠陥があり、聖書の基準に達していないという結論は避けられない。私は、1888年の英国における監督制教会の平信徒の立場と、十八世紀前にその兄弟が使徒的教会で有していた立場とを調和させることができない。その2つが同等のものであるとは思えない。私の見るところ、英国国教会の通常の仕組みにおいては、あらゆることが聖職者層の手にまかされており、ほとんど何1つ信徒層には割り振られていない! 聖職者層がすべてを決する! 聖職者層がすべてを運営する! 聖職者層がすべてを取り決める! 平信徒層は実質上、いかなる発言権も、地位も、意見も、実権も与えられておらず、聖職者層が彼らにかわって決めたことを受け入れなくてはならない。だからといって、彼らは決して故意に軽視されているわけではない。平信徒層が信頼されていないとか、彼らの能力が疑問視されているなどということは全くない。しかし、何らかの理由によって彼らは、1つの巨大な教会組織の中で、よそよそしい、受け身的な受容者として排除されている。----1つの不格好で、非効率的な団体の中で、活発に働く活動者としてではなく、眠りこけた相方となっている。つまり、英国国教会の通常の活動において、平信徒層の国教徒はわきに押しやられているのである。必要とされていない兵士たちのように、彼らは列伍を離れて、後衛に引っ込み、視野から見えなくなっているのである。

 さて、こうした異常な事態の真の原因は何だろうか? それは容易につきとめることができる。英国の平信徒層の地位は、ローマカトリック教の遺物、残骸以外の何物でもない。それは、ローマが私たちの教会に譲り渡し、これまで一度として一掃されたことのない、かの「厄介な遺産(damnosa haereditas)」の一部なのである。わが国の宗教改革者たち自身も完全な人々ではなく、エリザベス女王ならではの執拗な警戒心によって、彼らが英国の宗教改革の働きを仕上げることは妨げられた。私たちの教会の表面に彼らが残した、数ある染みの1つとして、私が悲しみつつ認めなくてはならないのは、平信徒層の重要性に対する無視が決して小さなものではない、ということである。聖職者層をキリストと人との間の仲介者とすること、----彼らを平信徒層よりもはるかに高く称揚し、教会内のあらゆる実権を彼らの手に握らせること、----彼らに聖なる権威をまとわせ、彼らを教会関係のあらゆる問題における無謬の導き手とみなすこと、----これこそ常にローマカトリック教の体系の本質的要素であり続けている。この要素を私たちの宗教改革者たちは、疑いもなく、スコットランドでジョン・ノックスがそうしたように、平信徒層により大きな実権を与えることによって矯正すべきであった。時間がなかったためか、王室の認可が得られなかったために、彼らはそうすることを省いた。この不作為の不幸な結果として、私たちの教会関係の主たる権威は、徐々に聖職者層の手に完全に握られることとなり、平信徒層はその正当な権利も実権も与えられないまま置き去りにされた。現代におけるその影響は、英国の平信徒層が、彼らが当然占めてしかるべき地位よりもはるかに下の地位しか占めておらず、英国の聖職者層が、彼らの正当な地位よりもはるかに上を占めている、ということにある。つまり、どちらの側も正しくない立場にあるわけである。

 この不満足な事態の結果は何だろうか? それは、まさしく当然予期されてしかるべきことである。----悪である。悪でしかない。神のみ思いから離れるとき、それがいかに小さなことであっても、確実に苦い実が結ばれざるをえない。その正当な立場よりも持ち上げられた英国の聖職者層は常に、聖職者権尊重主義、司祭制主義、うぬぼれ、そして自分の特権と権力についての思い上がりへと傾きがちであった。その正当な立場よりも引き下げられた英国の平信徒層は、時たま輝かしい例外はあったものの、教会の問題にはほとんど関心を持たず、教会関係のあらゆることを聖職者層の運営にまかせがちになることがあまりにも多かった。その間、三世紀にわたって英国の国教会は、非常に多大な、ほとんど取り返しのつかない害悪をこうむってきた。

 顧みられることも、相談を受けることも、実権をゆだねられることも、権威を与えられることもめったになかった国教会の平信徒は、教会問題に関して、概して無知であるか、無関心であるか、無感動である。自分の教区内における教会活動について少しでも知っている平信徒が何と僅かしかいないことか! 聖職者会議について少しでも関心をいだく者の何と僅かなことか! たとえその生活面ではあてになるとしても、自分の教区の代議員の名前をあげることのできる者が何と僅かなことか! 自分たちの教会をほぼ真っ二つに引き裂こうかという教理上の大論争の意味について理解している者が何と僅かなことか! ローマ時代の観衆が、コロセウムの闘技場で相対する剣闘士たちの戦いに対して示したのと同じくらいの個人的興味や興奮を、それらについて示しているような者が何と僅かなことか! 「牧師連中が何やら口げんかしてるらしいよ。自分でもよく分かっていないらしいけどな」、という以上のことを云える者が何と僅かなことか!----これは陰鬱な絵図である。だが私が恐れるに、これは悲しいほどに正確なものである。しかし、何の不思議があるだろうか? 英国の平信徒層はいまだ一度も、英国国教会の運営において、その正当な立場を占めたことがないのである。

 これは過つことのない原則としておいてよいことだが、ある事業について人に関心を感じさせる最上の方法は、その人を「その商売の一員」にすることである。この原則は、商業上の組織と同じように教会組織についてもあてはまる。非国教徒や、米国の監督派や、植民地の監督派は、みなこの原則の重要性をわきまえており、それを実践しようと心砕いている。英国国教会だけが、この原則のことを全く目に入れていない。平信徒層は、本来あってしかるべきほどには決して正当に用いられることも、信頼されることも、考慮されることも、助けを求められることも、相談されることも、立場につかされることも、権威を帯びさせられることもなかった。その結果、集団としての彼らは、教会の事がらについて知りもせず、気遣いもせず、感じもせず、理解もせず、考えもせず、読みもせず、頭を働かせもせず、大して心を悩ませもしていない。こうした事態をはびこり放題にしてきた体制は、巨大な過誤である。それを根こそぎにし、ひっくり返すのは早いに越したことはない。もし私たちが、現在における英国教会の弱さの主たる要因の1つを取り除きたければ、私たちは平信徒層の立場を完全に変革しなくてはならない。教会改革において火急の必要が何か1つあるとしたら、それはこの点についてである。

 III. 最後のこととして私たちが考察したいのは、私たち自身の即座の義務である。英国の国教会を強めるために、平信徒層という件に関して、私たちは何を目当てとすべきだろうか?

 目当てについて語るとなれば、実際的な詳細に立ち入らなくてはならないが、私はひるむことなく自分の考えをそのまま語りたいと思う。とりあえず、英国国教会の平信徒がその正当な立場にないことは十分わかったものととしたい。----この悪に対する治療法は何だろうか? 求められている変化は何だろうか? 何がなされるべきだろうか?

 こうした問いかけに対して一部の人々が返す答えは、あまりにも幼稚で、愚劣で、不適切なものであるため、口にするのも恥ずかしいほどである。彼らはあっさりと、平信徒層は、平信徒奉仕者になり、貧家を回る聖書朗読者になればいいのだ、と云う。----このことでさえも、かつては衝撃的な刷新と考えられたものだったが、今それは関係ない。平信徒は人々に勧めをしたり、短い講話をすることすらできる。----日曜学校で教え、教区訪問者になり、----感化院や保護施設を運営し、----委員会に出席し、教会財政を監督することができる! 私は答えよう。こうした示唆のすべては馬鹿らしいほどに低次元なものであり、教会の必要に対する痛ましい無知を示している。私は、道理のわかった人々がどの面下げてこのようなことを口にできるものか驚くしかない。おゝ、何と大きなお恵み! おゝ、何と素晴らしい寛大さ! われわれは、平信徒には下々の仕事をさせておこうではないか! 結局それは平信徒なしには片づかないものだし、いちいち聖職者に伺いを立てる必要もない仕事だ! もしこれが、こういった人々が「平信徒の協力」を取り付けようとして語るときに意味しているすべてだとしたら、私は彼らを気の毒に思う。そのようなへぼ治療で、私たちのシオンの傷が癒されることはないであろう。そのような改革で、私たちの平信徒層のなまぬるい共感を再びかちえて、彼らを英国国教会の右腕とすることはないであろう。

 私たちの平信徒層の立場に関して私が訴えたい改革は、それよりもはるかに深く、高く、広く、大きく、徹底的で、完全なものである。私が訴えたいのは、問題の大小を問わず、教会におけるいかなることも、平信徒層を抜きにしてなされるべきではない、という大原則を広く認めることである。私が強く主張したいのは、聖職者の叙任および会衆の司牧を除いて、教会が語ったり行なったりするあらゆることにおいて、平信徒層が参与し、発言し、行動すべきである、ということである。私が強く主張したいのは、英国国教会の声は、単に主教や司祭たちの声だけでなく、平信徒層の声でもあるべきであり、教会のいかなる行動も、教会の意見のいかなる表明も、平信徒層が聖職者層と同等の立場で参与していない限りなされるべきではない、ということである。そのような改革は、新約聖書の原則への回帰となるであろう。そのような改革は、英国国教会の力を百倍にも高めるであろう。そのような改革の詳細がいかなるものになるべきか、これから私は説明していこうと思う。

 (a) 平信徒の立場を使徒時代の基準に引き上げようとする場合に、私たちがまず始めなくてはならない個々の単位は、疑いもなく、教区である。全国津々浦々において、私たちは努めてこの大原則を確立すべきである。すなわち、いかなる教職者も、絶えず自分の平信徒の教区民の意見を聞くようにするべきである。

 もしその人が「教区協議会」といった堅苦しく、物々しい響きのものを開きたくないというのであれば、いずれにせよその人は、自分の教会委員や、教会世話役や、陪餐者たちと、自分の職務についてしばしば語り合うがいい。特にその人は、礼拝時間や礼拝の様式を変える際や、新しい儀式や、新しい装飾や、新しい仕草や、新しい挙措といった問題においては、まず自分の平信徒会衆の助言を受けないでは何も行なわないようにするがいい。その人は、彼らのしもべであって、彼らがその人のしもべではないのである。彼らには確かに相談を受けるべき権利がある。もし教職者たちが常にこのようなしかたで行動するとしたら、いかに大量の憤激の種が蒔かれずにすむか、だれにわかろう? 私の信ずるところ、いかなる人々も、理にかなったしかたで申し出を受け、理にかなった扱いを受けた際の平信徒ほど、理にかなったふるまいをすることはない。何にもまして、いかなる教区の教会牧師も、あらゆる陪餐者に向かって、こう教えるように努めるがいい。すなわち、陪餐者はみな英国国教会にとって絶対必要な部分なのであり、国教会の繁栄のために自分にできるあらゆることをなすべきである。----自分の賜物と、時間と、機会に応じて、訪問し、教え、警告し、勧めをし、徳を建て上げ、助けを与え、忠告を与え、慰め、支え、伝道するべきであり、眠っている者を呼び覚まし、求道者を導き、聖徒たちを建て上げ、悔い改めと信仰と聖潔とを至る所で押し進めるべきである、と。その人は、自分の教会員を教育してこう理解させるべきである。すなわち、自分たちは、何もかも牧師にまかせるという現在の怠惰な生き方を打ち捨てなくてはならず、眠っている相方ではなく活発に働く奉仕者とならなくてはならないのだ、と。この点に関しては、遺憾ながら、メソジストや、非国教徒たちの方が国教徒をはるかに引き離していると云わざるをえない。彼らの場合、新しく会員として加わった者は、即座に彼らの教派の新しい国内宣教師となる。英国国教会の場合、あらゆる教会員が、自分には自分の教会のために果たすべき義務があるのだと悟り、その義務を絶えず念頭に置いておくようにならない限り、事態は改善されないであろう。

 私は故意にこの点から始めている。私の確信するところ、これはきわめて重大な点であり、私たちが考察している主題全体の根幹に関わっている。何よりも、これは今すぐ始めることのできる改革であり、いかなる国会制定法がなくとも開始できることである。単に英国の教区牧師や分教区牧師の側で決断しさえすれば、彼らの各教区の陪餐者たちの前に事を持ち出し、立ち上がって自分の義務を果たすように励ますことができるのである。彼らこそ、私の信ずるところ、事の成否を握っている。平信徒層は、私の信ずるところ、いったん教会の健康が危殆に瀕していること、自分たちにもできる働きがあることを納得しさえするなら、その呼びかけに応答するであろう。実際これは、私たちにとって訪れの日である。英国の国教会において、防壁に士官たちを配備し、兵員たちを兵舎でぶらぶらさせておこうしても、決して何にもならない。聖職者層と平信徒層は、協同して働くことを学ばなくてはならない。私たちは、もし私たちの教会を長続きさせたければ、教役者たちの使徒的継承だけでなく、平信徒の使徒的継承も主張しなくてはならない。

 (b) 教会の平信徒層を聖書的な立場まで引き上げようとするとき、次に私たちの注意を引くのは、あらゆる教区と会衆に対して、その教役者が任命される際に、何らかの発言権と投票権を与えることが絶対に必要だという点である。私は何はばかることなく、私たちの現行体制におけるこの欠点を取り上げたいと思う。なぜなら、これは現在、議会に提出されようとしている教会叙任権法案においてじかに取り上げられているからである。はっきり云えば、私はその法案のいくつかの条項をどうでもいいことと考えているし、たとえそれらが上院と下院の両委員会における熾烈な試練をくぐり抜けて成立したとしても、果たしてうまく働くかどうか大いに疑問ではある。しかし、提案された議案の一箇条は、この上もなく感心なものであり、私は深い満足の念とともにそれを認めたいと思う。私が云っているのは、いかなる教区の住民にも、彼らの上に教職者が任命される件に関して、その名前が公表されてから一定期間の間は、それに反対できるようにさせようという箇条のことである。私はこれを、正しい方向への前進であると断固としてみなすものである。私は叙任権が一個人の手に握られるのを見たいとは全然思っていない。いわんや、教職者たちが、全く教区民や会衆によって選出されるのを見たいなどと思うものでもさらさらない。しかし私は、教役者の任命について、人々が、何らかの発言権を持っているべきであると本気で考えている。彼らは、無能な聖職授与権者の意のままに振り回されるべきではないし、その選択に何ら反対することが許されないなどということがあるべきではない。私たちがみな知るように、叙任の前には、「聖職任命予告(si quis)」が読み上げられるが、私が強く主張したいのは、あらゆる場合において、叙任式の前にも、1つの聖職任命予告が求められるべきである、ということである。

 現行体制における聖職禄への任命は、完全に平信徒層を無視しており、しばしば甚だしく濫用されることとなる。自分の立場には全くふさわしくないような教職者が、不承不承の教区と、うんざりした会衆の上に絶え間なく押しつけられつつあり、人々はそれに黙従するしかないのである。その結果、教区民は教会から追い散らされ、国教会は取り返しのつかない損害をこうむっている。いいかげんにこの体制を放棄すべきである。いかなる聖職授与権者も、自分が空席の聖職禄に指名しようと願う教職者の名前を、主教に提出する一箇月前に、教区委員の人々に通達しなくてはならないようにすることである。新しい教区牧師として提案された人物の名前は、結婚予告のように教会で読み上げられ、教会の扉に三週間から四週間にわたって掲示し、いかなる者であれ、事と次第では反対を唱えられるようにすることである。反対者は、主教とその審議会に対して、教理上のものであれ実際的なものであれ、自分の反対には十分な理由があることを納得させなくてはならない。そして主教とその審議会は、もし納得したならば、その聖職授与権者の被指名者を拒否する権限を有するものとする。もちろん、このような保証規定は、しばしば効力の乏しいものであろう。被指名者に対する反対は、しばしば取るに足りないもの、証明しようのないものであろう。しかし、いずれにせよ1つの原則は打ち立てられるであろう。各教区の平信徒層はもはや、自分たちはいつまでたっても、新しい牧師の任命に当たって、全く何の発言権もないまま引き渡されるだけだ、という不平を云えないであろう。1つの権利だけは、今でさえ平信徒層は所有している。彼らに私が思い出してほしいのは、彼らが今よりもずっとしばしば働かせるようになってほしいと、私が心から願う権利である。彼らは、聖職にふさわしくない若者が叙任されるのを事実上妨げることができる。それには、聖職任命予告が読み上げられたときに異議を唱えればよいのである。もし平信徒層が、この権において常に彼らの義務を果たすようになるならば、英国国教会にとってどんなに良いことか!

 (c) 平信徒の立場について、私たちが獲得することを目指すべき第三の、また最後の改革は、教会全体の管理および運営において、国教会の平信徒に、その正当な立場を占めることを認めることである。私はふたりの同労の聖職者の意見に完全に賛成したい。私たちが大いに必要としているのは、主教と、司祭と、平信徒からなる全国教会協議会である。

 そのような協議会は、いかなる立法的な権限も有さず、国王大権および王室の主権にはいささかも干渉できないものとする。それゆえ、その成立のための法的権威を得ることはさほど困難ではないに違いないし、それが設立しても嫉視されることはないはずである。その主たる目的は聖職者層と平信徒層とを相まみえさせ、教会の繁栄に関わるすべての問題を協議できるようにすること、また、必要とあらば、そうした問題に議会を注目させることである。その主たる利点は、それが立法を必要とする何かを議会に提出するときには、こう云えるであろうことにある。「ここには国教会の聖職者層と平信徒層が一致した問題があります。同教会の名において、私たちはあなたがたにこれを取り上げて、国法とすることを求めます」、と。

 残念ながら私は、聖職者会議の大規模な改革を期待しても無駄ではないかと思う。カンタベリーおよびヨークの教会会議がいかに疑いもなく由緒ある、尊ぶべきものであるとはいえ、いかなる人もそれらが英国国教会を本当に代表しているとは云わないと思う。よしんばそれらが適切に聖職者層を代表していたとしても、確かにそれらは信徒層を代表してはいない。このこと1つでも途方もない、許しがたい欠陥であり、概して信徒層が聖職者会議の議事に何の関心もいだかないのは、そのためなのである。彼らは自分たちがのけ者にされていると感じ、ウェストミンスターにおいてであれ、ヨークにおいてであれ、たとえ自分たちと密接に関わる主題が討議されていようと、その討議には何の発言権も、投票権も、立場も、参加権も有していないと感じている。彼らがこのことを好まないとしても不思議ではない。神のことばによれば、彼らは聖職者層と同様に「教会」なのである。彼らは教会の状態によって同じくらい大きく影響されるのである。彼らはしばしば、いかなる教職者にも劣らないほど、良く教育され、知的で、事情に通じ、霊的な考え方をし、キリスト教信仰における「論点の違い」を識別できる力を備えている。賢明なるフッカーのこの言葉には、覚えておくべき価値がある。「何らかの特別なキリストの律法によって、教会関係の法律を作成する権威は、聖職者にだけ永遠に付与されているということが証明されない限り、衡平法および理性に最も合致したやり方は、キリスト教国においてはいかなる教会法も、教職者層だけでなく、信徒層の同意も得ずには作成しないようにすることである」(フッカー、第8巻、第6章)。平信徒の人々が、現在のところ、英国の聖職者会議でいかなる発言権も地位も占めていないという事実だけ取ってみても、こうした会議が時代の要請に完全には答えていないものであり、時代に取り残された制度であることを十二分に示している。

 もちろん私も、カンタベリー管区で平信徒議会が設立されたことを忘れてはいない。それは1つの諮問機関として、また聖職者会議の補佐的な活動をするようにとの明確な目的をもって創設されたものであり、ヨークにも同様の平信徒議会を設けようという決議がなされている。疑いもなくこうした2つの機関の設立は、正しい方向に向かう大きな一歩である。それは、国教会平信徒が、今や国教会の問題に積極的な関心をいだくよう求められなくてはならない時代、大きな教会問題においては、もはや今までのような眠れる相方としての昏睡した立場を保ってはいられない時代になったことが、公に認められたということである。平信徒の権利と義務についての、こうした遅ればせながらの認識について、私は非常に感謝している。1つの大原則が打ち立てられたのであり、私はこの時計が決して逆戻りはしないものと思う。

 しかし私は、むろん自分に無謬の判断力があるなどと主張しはしないが、この新しい平信徒議会が果たして時代の求めに答えられるかどうか、むしろ一時的なその場しのぎ以上のものになりうるかどうか、鄭重な疑念を表明しなくてはならない。本当に平信徒を代表するような平信徒議会をヨークで招集することにいかに途方もない困難が伴うことか! 私はそれについて語ることもできるが、この点についてはかかずらうまい。単に、3つの反論を指摘したいと思う。それは容易には答えを返せないように思われる。

 (a) 第一のこととして、こうした平信徒議会は、国王と議会から正式に認可されない限り、何の法的立場もなく、有志による討論協会以上のものではないであろう。それとは逆に聖職者会議は、本邦有数の由緒ある法的機関である。こうした状態にあるこの2つの組織が、いかに協同して働けるかは、あまり明確ではない。それは鉄と粘土を結びつけようとするようなものである。真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなものである。

 (b) 第二のこととして、こうした平信徒議会を成立させ、組織し、選出するやり方は、現在のところ、到底満足なものとは思えない。もしこれが種々の管区会議で選ばれた平信徒によって構成されるとしたら、それは英国国教会の信徒層の公正な代表団とはならないに違いない。1つのこととして、管区会議の構成は一様ではなく、英国およびウェールズの異なる管区では大きく異なっている。もう1つのこととして、広く知られているように、ほとんどの主教管区では、管区会議に出席する国教会平信徒がめったにおらず、ほとんどはそれを全く無視している。

 (c) 最後に、しかしこれも重要なこととして、こうした平信徒議会では何を討議することが許されるのか全く明確ではないように思える。彼らは「信仰と教理の問題」に関しては決して口を開くべきではない、という考えが提議されているが、これはこの上もなく好ましからざるもののように思われる。知的な英国の平信徒、知性と指導力と知力を備えた人々が、実質上口を封じられ、現世に関わる問題のほか何についても語ることを禁じられることに唯々諾々と従うなどと考えることは非現実的である。

 私の意見では、このような禁止は究極的には摩擦と衝突に至らせるに決まっている。もしあなたが平信徒層に向かって教会を管理する助けを要請するとしたら、あなたは彼らを信頼し、彼らに発言の自由を与えなくてはならない。

 こうした反対意見に対して、答えが見いだされることも非常にありがちではある。もっとも私には、今のところそれを見いだすことができない。私は、信徒層の助力を求め、教会問題における彼らの意見を活用したいという願いが公然と表明されていることに感謝している。しかし私の堅く確信するところ、こうした方向におけるいかなる運動も、私たちが真の全国協議会を有するまでは、大した善を施さないであろう。その全国協議会は、英国とウェールズの三十の主教管区から選出された、三十名の主教と、六十名の司祭と、百二十名の平信徒で構成されていて、その平信徒たちは、上流階級だけでなく中流階級の人々をも含んでいるべきである。しかし、私の信ずるところ、最上にして最も有能な国教会平信徒は、ただの有志的な集会には決して加わらないであろう。自分たちの討議や決定が全く何の権威も持たず、自分たちの決議が何の重みも有していないような集会には決して加わらないであろう。

 何にもまして私たちに必要なのは、主教と司祭と平信徒とが一同に会し、種々の主題について顔と顔をつき合わせて考察するような協議会である。そうすれば聖職者層は世論がいかなるものであるかを見いだす機会を得ることができ、自分たちが無謬ではないことを見いだすであろう。信徒層は聖職者層に、世間では実はいかなることが起こりつつあるかを示す機会を得て、また、その協議会に、実際的かつ事務的な知恵を導入する機会を得られるであろう。こうした方式は、関係者全員にとって、非常な好結果を生むであろう。

 私は国教会平信徒の権利と義務に関する話をここで打ち切ろうと思う。この主題についてこれ以上語っている時間はない。私の提案した意見が、一部の人々にとって不愉快なもの、またその新奇さのゆえに一驚させるようなものであることは自覚している。しかし、現時点においては、私が提唱した平信徒層の立場的な改革は、理論的に最も望ましいもの、時代によって最も緊急に要請されているものではないかと思う。国教廃止論者と、ローマカトリック教徒と、不可知論との間で、英国教会という良き船は風下に押し流されつつあり、破壊者たちが姿を現わしつつあるのである。この船を救いたければ、聖職者層と平信徒層が協力し合わなくてはならない。今は人の気に入るようなことを預言し、盲目の目で望遠鏡をのぞき込み、「平安だ。平安だ。何もしないでいよう」、と叫ぶべき時ではない。

 (a) 「神聖冒涜的な改革だ!」、とある人々は叫ぶであろう。彼らの考えによると、霊的な問題を平信徒層に少しでも携わらせるのは、邪悪きわまりないことなのである。彼らの望みは、平信徒層がギブオン人のように、聖職者層のためにたきぎを割る者、水を汲む者となることでしかない。彼らは厳めしい顔つきで、ダタンやアビラムについて語り、契約の箱に手を出したウザや、神殿で香をたこうとしたウジヤついて語る。こうした人々に対して私は答える。「アイルランド教会を見て、知恵を得るがいい」、と。国教制が廃止されることになるとしたら----そして多くの先見の明のある人々によれば、それはいつの日か必ず起こるという----、そのとき、あなたは好むと好まざるとにかかわらず、平信徒層の援助に身をゆだねるしかないであろう。たとえそれが起こらないとしても、あなたは平信徒層をその正当な立場につかせない限り、決して本当に強くはならないであろう。神聖冒涜に関する曖昧模糊とした話について云えば、それはたわごとでしかない。その観念を、聖書というイスーリエル[ミルトン『失楽園』に出てくる、サタンの正体を暴いた天使]の槍で触れてみるなら、それは消え失せるであろう。

 (b) しかし、「それは危険な改革だ」、とある人々は叫ぶであろう。「平信徒層は、自分の手に手綱を握り、聖職者層の良心を圧して威張りちらすことになるであろう」。こうした恐れは馬鹿げたものでしかない。それよりもはるかに現実的な危険は、平信徒層を無為に過ごさせ、彼らに教会問題についての何の活発な関心もいだかせないことである。私は平信徒層のことを、こうした心配性の人々よりも高く評価している。この新しい教会機構は、最初の間は、整然と働かないかもしれない。新品の蒸気機関も、その継ぎ手がまだ硬く、その軸受がまだ練れていない間は、そうしたものである。平信徒層は、最初の間は、自分たちが何をしなくてはならないか理解できないかもしれない。しかし彼らに時間を与えてみるがいい、時間を。あなたが彼らを信頼していることを見せてやり、何が欠けているかを見てとらせてやれば、平信徒層はすぐにその立場に落ち着き、身を入れて働くようになることは間違いない。国教制廃止の後で、アイルランドの平信徒層がいかに見事に体勢を立て直したかを思い出し、英国の平信徒層にももっと信頼を置くがいい。

 (c) 「しかし、それは無駄な改革だ」、とある人々は最後には叫ぶであろう。「平信徒層には、主教に助言をしたり、教会協議会に参加したり、教区牧師の適性について意見を述べたりする力はない」、と。だが私はそのようなことは一瞬たりとも信じない。私たちの教会の平信徒会員は、ギリシャ語やヘブル語の批評学者ではないかもしれない。聖職者層の多くと比較すれば、学殖の深い神学者ではないかもしれない。しかし、彼らの多くは、いかなる聖職者にも劣らぬほどの恵みと、英語聖書の知識を有している。何にもまして彼らは、概して聖職者層よりも、ずっと常識に富んでいる。わが国の大規模なキリスト教団体の委員会の席上で、最良の平信徒たちがいかにふるまっているかを知っている人であれば、そのことを悟らずにはいられないはずである。クラレンドン卿[1609-74]が聖職者団体について語った評言は、悲しいかな! あまりにも正鵠を射ている。長年の経験をもとに、彼は自分の確信をこう云い表わしている。「教職者たちは、読み書きできるあらゆる人の中でも、人間関係について理解すること最も疎く、その機微を最も解さない人種である」。私が恐れるに、もし彼が現代生きていたとしても、私たちについて、総じてこれよりもましな評価は下さないのではないかと思う。私の堅く信ずるところ、何にもまして教会を利するところ大であるのは、教会の行なうすべてのことに平信徒という要素を巧みに混ぜ合わせ、その影響を及ぼさせることである。この終わりの時代に、教会の犯した過ちの半分は、その真の原因として、平信徒層がその正当な地位についていなかったことにある。

 今日の国教会にとって最大の危難は、かくも多くの人を喜ばせている完全な無活動の方針であり、彼らが国教会の陥っている危険を見てとれないことにある。「もう少し眠らせておいてくれ! もう少しまどろませておいてくれ! なぜ君たちは事をそっとしておいてくれないのか?」 これこそ、教会の改革案が取り沙汰され、人々の注意が喚起されるたびに返される答えである。「なぜ恐れることがあるのか?」、と彼らは叫ぶ。「大した危険はないではないか」。だが、私に向かって《内なる》危険など何もないと云う者がだれかいるだろうか? 実在説や、カトリックばりの告解聴聞席や、教会法規関係の紊乱や、アイルランド自治が穏やかに目こぼしされている一方で、贖罪や、キリストの神性や、聖書の霊感や、奇蹟の真実性が冷ややかに放棄されつつあるというこの時に? また、私に向かって《外なる》危険が何もないと云う者がだれかいるだろうか? 不信心者や、ローマカトリック教徒や、国教反対者が、国教会の破滅を求めて飢え渇き、その目当てを実現するためとあらば海と陸とを飛び回っているというこの時に? ----何と! 何の危険もないというのか? わが国の労働者階級に属するおびただしい数の人々が、国教会には一度も足を踏み入れることなく、国教会を生かしておくためになど指一本動かすまいと思われるにもかかわらず、戸主選挙権によりあらゆる権力をその手に握ってしまったというときに! 何と! 何の危険もないというのか? アイルランド教会の国教制が廃止され、(英国-アイルランド)連合法が足で踏みにじられ、プロテスタントの基本財産がローマカトリック教徒に引き渡され、教会と国家とを分断すべき楔の刃先が打ち込まれ、こうしたことすべてを行なった政治家が今も生存しており、多くの人々から無謬であるとあがめられているというのに。何の危険もない! 人々のそのような言葉に対して、私は呆れて物も云えない。しかし、悲しいかな! 目はあれども見ることをせず、耳はあれども聞くことをせず、理解しようとしない人はいつの世にもいるものである。

 英国の国教会は危機に瀕している。そのことに間違いはない。それこそ、私が教会改革を唱える1つの大きな決定的理由である。[ウェールズ南西部とアイルランドの間の]セントジョージ海峡の彼方には、「壁に手で書かれた文字」がまがまがしい光を放っており、その意味を読み解くのに、いかなるダニエルも必要ではない。世には、あらゆる国定教会を国教制廃止へと至らせようとする潮流が流れており、私たちはすでにそのただ中にいるのである。私たちは徐々に下流に漂い流れつつあるのに、多くの人々はそれに気づいていない。だが、古い陸標に目を留めている者は、私たちの位置が動きつつあることを見てとらざるをえない。私たちはじきに早瀬にさしかかるであろう。もう少し、ほんの数年もすれば私たちは、いま奮励努力しない限り、大瀑布を越えてしまうであろう。英国の大衆は、あらゆる場面で「自由貿易」という壮大な観念に酔いしれているように見える。それは商業面でも宗教面でも、小麦においても教会においても変わらない。日刊紙は、常に一定の紙面を割いては、この主題を繰り返し扱っている。それでは私たちは、ただただ静観するだけで、自分の体勢を立て直そうとしないのだろうか? 私としては、決してそのようなことがあってはならない! と云いたい。私たちは、表通りに放り出されるまで何もせず、その後の混乱の暴風の中で自分たちの改革をしぶしぶ始めようというのだろうか? 私としては、決してそのようなことがあってはならない! と云いたい。老練な将軍の話によると、敵軍を前にして戦列の向きを変えるのは狂気の沙汰であるという。もし国教会制度に危険が迫りつつあると信じているなら、私たちは嵐が炸裂するまで待たないようにしようではないか。可能な間に腰に帯を締め、教会の改革を試みようではないか。

 1. 私は今この主題の全体に対して、聖職者層が祈り深い注意を向けるように勧めたい。「私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます」。おゝ、私が英国中の教区牧師の耳元でラッパを吹き鳴らし、教会の危機を悟るように覚醒できたらどんなに良いことか! 地平線は真っ黒になっている。私の信ずるところ、これは私たちの訪れの時である。今は自分の武具をしまい込み、ただ静観しているべき時ではない。わが国教会は生死のはざまに直面しているのである。この教会を守りたければ、私たちは「残っている仕事の整理をし」、教会の改革を目指さなくてはならない。

 2. 私はこの主題の全体を、思慮に富むすべての平信徒国教徒が考察するように勧めたい。私はあなたがたが私たちとともに立ち、私たちの先祖たちの教会、古のプロテスタント英国国教会を保つ助力をし、前に進み出てあなたの正当な地位と立場を占めるように求めたい。そうすることは、あなたにとって最善の策である。聖職者層と平信徒層がその列伍間を詰めて、肩を接して協力し合うのでない限り、私たちは決して砦を守り抜き、勝利を得ることはできない。そうすることは、あなたにとって最善の幸福である。あなたは、この罪深い世でキリストの御国を進展させるべく活動することにより、また聖職者層と手を携えて一般人として助力することによって、あなたの魂に豊かな報いを受け取ることであろう。考えてみるがいい。シャフツベリ卿のような平信徒がひとりいるだけで、その存命中のわが国に、いかに途方もない祝福をもたらしうることかを。考えてみるがいい。もし卿のような平信徒をもう百人得たとしたら、英国がいかなる国となりうるかを。すぐにあなたは、あなたの同胞に対して善を施し、用いられる者となるための、莫大な機会を見いだすことであろう。今はあなたは、英国国教会に新しいいのちを吹き込み、神の祝福により、それを、敵どもが打ち負かせないものとするであろう。そして、あなたの子々孫々にまでも、それを「月のように美しい、太陽のように明るい、旗を掲げた軍勢のように恐ろしいもの」として引き渡すことができるであろう(雅6:10)。

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注記

 私は、この説教を読んでいるすべての方々に、1870年1月5日付けの『ガーディアン』紙社説から抜粋した以下の文章を読むように勧めたい。このような方面からもたらされた、「信徒層の立場」の重要性に関する証言は、二重に価値あるものである。----

 「これまで私たちは、本邦内で知られているような英国国教会の中で、平信徒層に、彼らが現在享受しているよりも一段と大きな権威と影響力を認めることによって持ち上がりかねない種々の危険について、決して私たちが無頓着ではないことを示してきたと思いたい。ここで私たちは、平信徒層の方から持ち出されている主張を擁護する議論がいかほど強いものであるかを、しばし眺めてみよう。

 「族長制のもとにあっては、王権祭儀権は結びついていた。一家の長は、王であると同時に司祭であった。そして、ある種のいけにえは王しかささげることはできないとの観念が広く行き渡っていた関係で、アテネには、民主政体になった後でも、そうした目的のための王-執政官が保持され、ローマでも同様にして、奉儀王(Rex sacrificulus)の官位が残された。この結びつきは、ある程度まで現在のチベットや中国、そしてイスラム教の支配下にあるほとんどの国々で保持されている。パレスチナにおいては、私たちも知るように、この2つの権威は切り離された。王位は最終的にはユダのものとなり、祭司職はレビのものとなった。結果的に、サウルや、ウザや、ウジヤは、自分の職分にない務めを握ろうとした結果罰されていることが記されている。だが、儀式内容に関するダビデの入念な指示や、ソロモンによるアビヤタルの祭司職罷免や、ヨシヤおよびヒゼキヤといった敬虔な君主たちの行動や、捕囚後のゼルバベルとその子孫たちの立場を思い巡らすとき、モーセ経綸下における平信徒の影響力が非常に大きなものであったことは、確かに認めなくてはならない。イエズス会の高名な注解者たちのひとり(ア・ラピーデもしくはマルドナトゥス)は、ユダヤ教の政体上、国家は教会の上位に立っていた、とためらうことなく認めている。私たちの主の時代、少なくともサンヘドリンの三分の一は平信徒から成っていた。

 「搖籃期のカトリック教会に目を向けると、その共同体が行なったほぼ最初の手続きは、平信徒層の行動を含んでいた。七人の執事は全員によって選ばれたのである。また、エルサレム会議については、種々の異読によりある程度の困難が存在しているにせよ、その決議が全教会によって確証されたことは、記録として残された事実である。こうした初期の出来事に沿った思想と活動が連綿と続いていったという証拠は、かの偉大なる聖博士たち、キュプリアーヌスおよびクリュソストモスの著作から、またカルタゴ、エリベリス、トレドといった場所で開催された初期の公会議の議事録から、また私たちのアングロ・サクソン人の先祖たちの間における慣行からも引き出せると、モバリー博士は述べている。ピサおよびコンスタンツにおける総会議において、傑出した地位が与えられていたのは、ただの平信徒にすぎない教会法学者たちや、その他の法学者たちであった。それだけでなく、ヨーロッパにおける由緒ある諸大学は、世俗の自治団体であるにもかかわらず、国家のみならず教会からも、神学を教える認可を得ており、信仰に関わる問題や、良心の問題の双方について、絶え間なく意見を求められていた。ヘンリー八世の結婚の合法性に関して、こうした高名な団体に参考意見が求められたことは、英国史上で最も名高い事例だが、それは決して孤立した事例ではない。十四世紀においては、そうした判断、特にパリ大学から発せられた判断は、非常に多数にのぼっていた。そして、それらに与えられていた重みは(パーマーの云うところ)、管区の教会会議のそれの代わりとなるほどであった。

 「また平信徒層は、神学に関して些細な事がらしか成し遂げなかったわけではない。異端によって必要となった教義を形成したのは、予期されるように、ほとんどの場合、主教や司祭たち、アタナシオスや、レオや、アウグスティヌスといった人々の働きであった。それは事実である。しかし、キリスト教文学における、信仰と行ないを擁護する卓越した弁明は、何編も平信徒たちの筆から生み出された。それどころか平信徒たちは、特定の時代や場所においては、概して教える側の教会(Ecclesia docens)を構成する部分の教会にまさる情熱を、教理の純粋性に対して示した。その顕著な例を示しているのが、アリウス主義の歴史である。半アリウス主義の傾向を持つ何人かの主教は、自分たち自身が吸収した異端的な毒を、自分たちの群れに注ぎ込むことが不可能であることを知った。ネストリウス主義の異端に最初に注意を引いたのも、ひとりの平信徒であった。この現代には、合衆国における種々の教会大会において、平信徒会員たちの方こそ、少なからぬ場合において、その聖職にある兄弟たちよりも穏健で、保守的な傾向を示しているのである」。

国教会平信徒の権利と義務[了]

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*1 この論考の内容は、元来1886年4月2日に、ウィンチェスター大聖堂で説教されたものである。[本文に戻る]

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