The Duties of Parents        目次 | BACK | NEXT

16. キリスト者の家庭教育


「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば年老いても、それから離れない」 箴言22:6

 何年か教会に来ているキリスト者なら、ほとんどの人はここにあげた聖句に見覚えがあるだろうと思う。この言葉の響きは、おそらく古い調べのように耳なじみのものであろう。読者も、この言葉を耳にしたり、読んだり、口にしたり、引用したりしたことが何度もあったのではなかろうか。

 しかしそれでいながら、この聖句の中身については何と多くがなおざりにされていることであろう。ここにふくまれている教理はほとんど知られていないように見える。ここに記された義務を実践している人は恐ろしいほどまれにしかいないように思える。このことに、だれが異論を唱えられるだろうか。

 これが目新しい主題であるとは云えない。世界が始まってこのかた、すでに何千年も経っており、私たちにはほぼ六千年に及ぶ経験の助けがある。また現代は、あらゆる方面で過熱気味に教育がなされている時代である。新しい学校が創設されたという話は至るところから聞こえてくる。巷では、ありとあらゆる種類の幼児教育システムや早期教育本が喧伝されている。しかしこうしたもろもろの事実にもかかわらず、子どもたちの大半がその行く道にふさわしく教育されていないことは火を見るよりも明らかである。成人したとき神とともに歩む者がほとんどいないからである。

 さてこのような実状をどのように説明すればよいだろうか。はっきり云えば、この聖句にある主の命令がかえりみられていないということである。だからこそ、この聖句にある主の約束が実現しないのである。

 こうした事柄を見るとき、心に大きな痛みを覚えない者があるだろうか。それゆえ今、一牧師が語るこの勧めの言葉に耳を貸していただきたい。実際、正しい教育のあり方というこの主題は、あらゆる人の肺腑をえぐるべき問題である。だれしもみな自らに問うてみなくてはならない。「この点で私は自分にできることをしているだろうか」、と。

 自分はそんな主題と関係ないと云える人はごくまれである。これと無関係な家庭はほとんどないと云ってよい。親はもちろん、乳母であれ教師であれ、名付け親であれ伯父伯母であれ、兄弟であれ姉妹であれ、いかなる者も無縁ではいられない。どんな人も、子どもを持つ知人があるなら、その家庭のおさめ方に何らかの影響を与えられるし、提案や助言を与えることで、その子たちの教育に影響を与えられるであろう。私たちはだれしも、直接的にであれ間接的にであれ、この方面で何かができるのではないだろうか。だから私は、すべての人の関心を喚起して、この問題を心に覚えてもらいたいのである。

 さらにまた子育てという問題には、当事者になるとだれしも義務を怠りがちになるという大きな危険もある。これほど自分の欠点より他人の欠点が目につくことはない。人はしばしば、知人友人に向かっては、しつけがなっていないと批判しておきながら、自分の子どもをしつける段になると、まるで同じようなことをしがちである。他人の家庭のちりは見えるが、自分の家庭の梁は見落としてしまう。よその家の間違いには鷲のように目ざといのに、自宅で毎日なされている致命的な過ちにはコウモリのように盲目になる。兄弟の家庭については賢いが、血を分けたわが子のこととなると愚鈍になるのである。それゆえ他のことはどうあれ、子育てにおいては、自分の判断はあてにできないと思い定める必要がある。これもまた、頭に置いておいた方がよい *1

 さてそれでは、これから正しい教育のあり方について二三の示唆を述べさせていただきたい。願わくは、父なる神・子なる神・聖霊なる神がそれを祝福し、読者全員にとって時宜にかなった言葉としてくださるように。歯に衣着せぬ率直な物言いだからといって拒絶しないでいただきたい。云い古されたことだからといって馬鹿にしないでいただきたい。わが子を天国に入れるように教育したければ、以下に記すことは軽々しく無視してよいことではないのである。


 1.
まず第一に、子どもを正しく教育したけば、子どもの行きたがる道にではなく、行くべき道に向かって教育しなさい。

 忘れてはならない。子どもたちには、生まれつき悪へ向かう決定的な偏向がある。それゆえ、子どもを好き勝手にさせれば、悪を選ぶに決まっている。

 いとけない幼子をいだく母親は、その子がどのように成長するか知ることはできない。背の高い子になるか低い子になるか、病弱になるか頑健になるか、頭の良い子になるか悪い子になるか----どんな子にでもなりうるし、はっきりとしたことは何もわからない。しかし確実に云えることが1つだけある。それは、その子が腐敗した、罪深い心を持つようになるだろうということである。私たちにとって悪を行なうのは自然なことである。ソロモンは云う。「愚かさは子どもの心につながれている」(箴22:15)。「わがままにさせた子は、母に恥を見させる」(箴29:15)。私たちの心は地面のようなもので、放っておけば確実に雑草が生えてくる。

 ということは、もし子どもを賢いしかたで育てたければ、子ども自身の願い通りにはさせないことである。からだの弱い人や盲目な人に接するときと同じように、子どもにかわって考えてやり、子どもにかわって判断してやり、子どもにかわって行動してやりなさい。しかし決して決して、子どもをその子自身の気まぐれな嗜好や性質にまかせることだけはしてはならない。伺いを立てるべきなのは、その子の好みや望みであってはならない。子どもは、からだにとって良いことが何かわからないのと同じくらい、心と魂にとって何が良いのかわかっていないのである。子どもの食べ物、飲み物、着る物などを子どもの好きに決めさせる親などいないであろう。では、子どもの心についても首尾一貫して同じように扱うがいい。子どもの気に入る道ではなく、聖書に従った正しい道へと教育してやりなさい。

 キリスト者の家庭教育におけるこの第一原則について心を堅く定めることができない人は、これ以上先を読んでも無意味である。わがままこそ、子どもの心から真っ先に生じてくるものの1つである。そしてそれに抵抗することこそ、あなたがたの最初の一歩でなくてはならない。


 2. 子どもを教育するには、ありったけの優しさと愛情と忍耐を尽くしなさい。

 これは子どもを甘やかせということではない。子どもには、あなたがたが彼らを愛していることを見せてやりなさい、ということである。

 愛こそあなたがたの全行動を貫く銀の糸たるべきである。親切で、心広く、穏やかで、つまらぬことをとがめだてせず、辛抱強くて、同情深く、子どもっぽい悩みにも喜んで耳を傾け、子どもっぽい喜びにも身を乗り出して没入する態度----こうした絆を結んでいてこそ、人は子どもにやすやすと云うことを聞かせることができるのであり、こうした道しるべに従っていてこそ、子どもの心に通ずる道を見出せるのである。

 成人でも、よほど奇特な人でもない限り、優しく導かれるより追い立てられる方が好きだなどという者はいない。だれでも、強制させられれば向かっ腹を立てるものである。私たちは、無理強いさせられるということだけで態度を硬化させ、強情になってしまう。私たちは調練師のもとにある若馬のようなもので、優しく扱われれば簡単に云うことを聞くようになり、しだいに細糸ででも導けるようになるが、荒々しく乱暴に扱えば、御せるようになるまで何か月もかかる。

 さて子どもたちの心も、本質的には大人とほとんど変わるところはない。何のゆとりもなしに厳しく彼らに接すれば、その心を凍てつかせ、反感をいだかせてしまう。彼らの心は閉ざされ、どれほど苦労しても扉を見出せなくなる。しかし、いったんこちらが子どもたちへの愛に満ちていることをわからせさえするなら----つまり、こちらが本当に彼らを幸せにしてやりたい、彼らに良くしてやりたいと願っていることを納得させさえするなら----、また、たとえ彼らを罰するとしても、それは彼らのためになされたことであり、あたかも自分の胸に傷をつけ血を餌にして雛に与えるというペリカンのように、わが身を犠牲にしても彼らの魂を養いたいのだということをわからせさえするなら----、私は云う。彼らはたちどころに、こちらに心を全くゆだねるであろう。云うことを聞いてほしければ、優しく親切な態度で彼らの心を勝ち取らなくてはならない。

 そして理性的に考えれば、こうしたことは当然であるとわかるはずである。子どもたちは弱く、かよわい生き物である。そうした者らには、忍耐と思いやりのある扱いが必要である。私たちは精密機械を扱うときのように、デリカシーをもって彼らを扱わなくてはならない。さもないと手荒にいじくり回すことによって善よりも悪をなすことになるからである。彼らは芽吹きだした植物のようであって、ていねいな水やりが必要である。頻繁に、しかし一回の量は少なく。

 私たちは一度に何もかもを期待してはならない。子どもたちがどういう者であるかを忘れないようにし、彼らに耐えられるだけのことを教えていかなくてはならない。彼らの心は金属の塊のようであって、一気に鍛造してすぐ使うのではなく、ハンマーの一打ち一打ちによって少しずつ形を整えていくべきである。彼らの理解力は細手の瓶にも似て、知識の葡萄酒を少量ずつ注いでいかなければ、その大半はこぼれて失われてしまう。「規則に規則、戒めに戒め、ここに少し、あそこに少し」、これが鉄則である。砥石で刃を研ぐには、ゆっくりと何度も刃をあてなくてはならない。まことに子どもの教育には忍耐が必要である。しかし忍耐なしには何事も行なうことはできない。

 他のいかなる物もこの暖かい心と愛の代わりにはならない。ある牧師がイエスのうちにある真理を明確に、力強く、論駁の余地ないほど完璧に語れるとしても、もし愛によって語るのでなければ、救われる人はまずいないであろう。同じようにあなたがたも、自分の子どもたちの前にその義務を示さなくてはならない----命令し、恐れさせ、罰し、事を分けて論じなくてはならない----が、もしもそこに愛情が欠けているとしたら、あなたがたの労苦はことごとく無駄な骨折りとなるであろう。

 愛は、子育てに成功するための大きな秘訣である。怒って厳しく当たれば子どもを恐れさせることはできるかもしれないが、心から納得させはしない。また、子どもの前でしばしばかんしゃくを爆発させる親は、じきに子どもの尊敬を失うであろう。息子に向かって、サウルがヨナタンに語ったように語る父親は(Iサム20:30)、息子を自分の意に添わせる力を全く失って当然である。

 それゆえ、子どもの愛情を捕えて離さないよう懸命に努力しなさい。子どもが親を恐れてびくびくしているとしたら危険な徴候である。親子の間の冷淡さやよそよそしさほどひどいものはないが、こうしたものは恐れとともに持ち込まれてくるのである。恐れは、うちとけた態度を葬り去り、隠し事を持たせ、あまたの偽善の種を蒔き、多くの嘘へと導く。コロサイ人へ向けた使徒の言葉には、非常に深遠な真実がある。「父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです」(コロ3:21)。ここにふくまれている忠言を見落とさないようにしようではないか。


 3. 子どもを教育するには、わが子の将来が自分にかかっているのだという堅い信念を常に持ち続けなさい。

 この世に働く力の中で最も強いのは、恵みの原理である。年老いた罪人に救いの恵みが訪れるとき、どれほど革命的な影響がもたらされるか見るがよい。それがいかにサタンの要塞を覆滅し、いかに山々をならし谷々を埋め立てることか。いかにねじ曲がったものを真っ直ぐにし、いかに人を新しく造りかえることか。まことに、恵みに不可能なことは1つもない。

 天性もまた非常に強力である。生来の性質がいかに神の国の事がらに逆らいあらがうことか。いかに私たちがより聖くなろうと試みるたびに反抗することか。いかに私たちの内側に、人生最後の時に至るまで、絶えざる戦いをしかけ続けることか。確かに天性は実に強大な力である。

 しかし天性と恵みを別にすれば、疑いもなく、教育ほど強いものはない。語弊を恐れずに云えば、神の摂理のもとで幼少期に身についた習慣は、全人格を決めてしまうのである。私たちの人となりは、私たちがどう教育されたかにかかっている。私たちの性格は、幼児期にどのような鋳型にはめられたかで定まる*2

 私たちの人格は、幼少期どのような人々によって育てられたかによって大きく左右される。私たちが彼らから受け継ぐ個性、趣味、心の傾向は、多かれ少なかれ私たちに生涯つきまとう。私たちは乳母や母親の言葉を聞いて、ほぼ無意識のうちに話し方を覚えてしまうが、それと同時に、彼女たちの物腰や態度や考え方も、ある程度身につけるはずである。私たちが幼児期に受けた印象にいかに多くを負っているか、また現在の私たちの性格のいかに多くが幼少期に周囲にいた人々の蒔いた種子までさかのぼれるか、これは、時間さえ経てばだれの目にも明らかになるのではなかろうか。非常な学識者であった英国人ロック氏は、こうも云っている。「私たちの出会う人はみな、その人となりの十分の九を、良きにつけ悪しきにつけ、有用なものであれ無用なものであれ、教育の成果に負っているのである」、と。

 そしてこれはみな、神のあわれみ深いお取りはからいの一例にほかならない。神は子どもたちに柔らかい粘土のような、与えられた印象をそのまま受け入れる心を与えておられる。人生の出発点にあたって、あなたが彼らに告げることを何でも信じ、あなたが彼らに助言することを素直に受け取り、他のだれよりもあなたの言葉に信頼するような心持ちを与えておられる。つまり神は親であるあなたに、子どものためになることをしてやれる黄金の機会を与えておられるのである。その機会をないがしろにしたり、棒に振ったりしないように注意しなさい。いったん取りのがしたら、それは永遠に戻ってこないのである。

 よく注意して、ある人々のような悲惨な迷妄に陥らないようにしなさい。そうした考えによると、親は子どものために何もできないのだから、ただ子どもを放任しておき、恵みをじっと待つだけでなくてはならないという。このような親がわが子のために抱いている願いは、バラムの願いと軌を一にしている。彼らは、わが子が正しい人が死ぬように死んでほしいと願うが、正しい人として生かすためには指一本動かさないのである[民23:10]。彼らは多くを望むが、何も得られない。そして悪魔が喜ぶのはそうした屁理屈である。悪魔は怠惰を大目に見たり、恵みの手段をないがしろにさせたりするようなことなら、何であっても喜ぶのである。

 親の力では子どもを回心させられないということは私も知っている。新しく生まれる者らは、人の意欲によってではなく、神によって生まれる[ヨハ1:13]。そのことも知っている。しかし私は、神がはっきりと「若者をその行く道にふさわしく教育せよ」、と語っておられること、また神が命令されるときには必ずそれを実行するための恵みをお与えになることをも知っているのである。また私たちの義務が、突っ立って論議することにではなく、行って従うことにあることも知っているのである。立ち上がって行動する中でこそ、神は私たちに会ってくださる。従順の道こそ、神が祝福を与えてくださる道である。私たちは、カナの婚礼で水がめを水で満たすように主から命ぜられたしもべらのようにしさえすればよい。その後で水を葡萄酒に変えることは安心して主におゆだねしてよいのである。


 4. 子育てにおいて何よりも考えなくてはならないのは、子どもの魂である。このことを絶えず肝に銘じつつ教育しなさい。

 疑いもなく、幼いわが子は目の中に入れても痛くないほど可愛いであろう。しかし本当に子どもを愛しているというなら、彼らの魂についてしばしば考えなさい。彼らの永遠の利益とはかりにかけるほど重い利益があってはならない。彼らのいかなる部分をも、不死の部分とひきかえにするほど尊んではならない。この世はどれほど華やかに見えても、いつかは過ぎ去る。丘々は溶け去り、天は巻物のように巻き取られ、太陽は輝くことをやめる。しかし、あなたが愛してやまないこの小さな者らのうちに宿る霊は、それらの万象が失せ去った後も存在し続けるのであり、それが至福のうちの永世となるか悲惨のうちの永世となるかは、(人間的に云えば)あなたしだいなのである。

 これこそ、子どものため何をするにも常に念頭に置いておくべきことである。子どもについてどんな処置をとるときも、どんな計画や予定を立てるときも、どんな取り決めをするときも、「これは彼らの魂にどのように影響するだろうか」、という重大きわまりない問いを忘れてはならない。

 魂を愛することこそ、本当に愛するということである。わが子を猫かわいがりし、ほしがるものはみな与え、甘やかし放題にする、----それも、この世にしか良いものはなく、この人生でしか幸福が得られないかのようにそうする、----これは真の愛ではなく、残虐行為である。これはわが子をけだもの扱いするのと変わらない。動物なら、望むべきものはこの世にしかなく、死後に期待すべきものは何もないであろう。しかし人間の子どもの場合そうするのは、物心がつくが早いか教え込まなくてはならない重大な真理----人生の主たる目的は魂の救いにあるということ----を故意に押し隠すことである。

 真のキリスト者は、わが子を天国へ向けて教育しようと思うのであれば、決して流行の奴隷となってはならない。世のならいだからというだけで、何かをしても大丈夫だと思ってはならない。どこの家でもそうしているからというだけで右ならえの教育をしたり、どこの子も読んでいるからというだけで疑わしい種類の本を読ませたり、今流行しているからというだけであやしげな習慣を身につけさせたりしてはならない。キリスト者の子育ては、常にわが子の魂に目を配りつつ行なわれなくてはならない。はたから子育てが風変わりだとか、ずれているとか云われても恥じてはならない。それが何だというのか? 時はうつろい、この世の流行はすたれる。わが子を地上へ向けてではなく天国へ向けて教育してきた人、----人間に向けてではなく神へ向けて教育してきた人、----そのような人こそ、最後の最後で賢い人と呼ばれるのである。


 5. 子どもには聖書の知識を身につけさせなさい。

 子どもが聖書を愛するように強制することはできない。それは私も認める。ご聖霊のほか何者も、みことばを喜ぶ心を与えることはできない。しかし、子どもを聖書に親しませることはできるし、このほむべき書物に親しませるのに早すぎるとか、親しませすぎるとかいうことはない。

 聖書の徹底的な知識は、信仰を少しでも明晰に把握するためには決して欠かせない土台である。たいていの場合、聖書の手ほどきを十分受けた人がふらついたり、新しい教えの風に吹き回されたりすることはめったにない。聖書の知識を最優先にしていないような教育方針は危険であり、不健全である。

 今はこの点で注意深くなくてはならない時代である。悪魔は至る所に出没し、誤った考えが巷にあふれているからである。キリスト者の中には、イエス・キリストにのみふさわしい栄誉を教会に与えている人々がいる。別の人々は、聖礼典を救い主にまつりあげ、永遠のいのちへの切符としている。さらに別の人々は、教理問答を聖書以上に尊ぶか、真理の聖書のかわりに、ちゃちで内容貧困な物語本で子どもたちの心を満たしている。しかし本当に子どもを愛しているなら、その魂の訓育においては、混じりけのない聖書を何よりも重んじ、その他の本は聖書以下の、補助的なものとみなすべきである。

 教理問答に精通させるよりは、聖書に精通した子にさせなさい。事実、それこそ神が尊ばれる訓育である。詩篇作者は神についてこう語っている。「あなたは、ご自分のすべての御名のゆえに、あなたのみことばを高く上げられた」(詩138:2)。そして神は、人々の間でみことばを高く上げようとする人々に、特別な祝福をお与えになると私は思う。

 子どもが聖書を敬虔な態度で読むようにさせなさい。人間の言葉ではなく、事実通りに神のことばであるとみなさせなさい。----ご聖霊によって書かれた、すべてが真理で、すべてが有益な書物であると、また私たちに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることのできる書物であるとみなさせなさい[Iテサ2:13; IIテモ3:15]。

 また聖書を規則正しく読むようにさせなさい。子どもをよく教えて、聖書を彼らの魂の日々の糧----魂の日々の健康を支えるため不可欠なもの----であるとみなさせなさい。むろん親がどんなに努力してもこれを単なる形式以上のものにすることはできない。それは私にもわかっている。しかし単なる形式が、間接的にどれほど多くの罪をくいとめるか、だれにわかろう。

 また聖書のすべての部分を読むようにさせなさい。どんな教理も、子どもの前に持ち出すのをためらうことはない。子どもにはキリスト教の主要教理が理解できないのではないかなどと思う必要はない。子どもたちは、ともすれば私たちが設けがちな限度をはるかに越えて聖書を理解するものである。

 彼らに罪について、その咎、その結果、その力、その下劣さ、卑しさについて教えてみるがいい。その幾分かは理解できていることがわかるであろう。

 彼らに主イエス・キリストについて、また私たちの救いのためになされた主のみわざについて教えてみるがいい。その贖い、十字架、血潮、犠牲、とりなしについて教えてみるがいい。こうしたことすべてについて、多少とも子どもにもわかる部分があることに気づくであろう。

 彼らに人の心におけるご聖霊のみわざについて教えてみるがいい。ご聖霊がいかに人の心を変えて新しく生まれさせ、聖なるものとし、きよめてくださるかを教えてみるがいい。子どもたちも、ある程度まではこれらについて把握できることがわかるであろう。つまり、幼子といえども栄光の福音の長さと広さについて、私たちの想像をはるかに越えて理解できるのではないかと私は思う。大人の考える以上に彼らは、こうした事がらを理解するものである*3

 彼らの心を聖書で満たしなさい。みことばを彼らのうちに豊かに住まわせなさい[コロ3.16]。彼らに聖書を与えなさい。聖書全巻を与えなさい。彼らが幼少のうちからそうしなさい。


 6. 子どもには祈りの習慣を身につけさせなさい。

 祈りは真の信仰の命を支える息吹きそのものである。それは人が新しく生まれたという最初の証拠の1つである。アナニヤを遣わされた日に主は、「見よ」とサウロについて語っておられる。「見よ。彼は祈っている」(使9:11 <英欽定訳>)。

 祈りは、主の民を特徴づける顕著なしるしであった。主の民と世との分離が始まった日について、聖書にはこう書かれている。「そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた」(創4:26)。

 祈りは今も、真のキリスト者全員の特質である。彼らが祈るのは、自分の望み、感情、願い、恐れを神に申し上げるためであり、その言葉は心からのものである。名ばかりのキリスト者であっても、祈りをおうむがえしに繰り返すことはできるかもしれない。立派な祈りすらよどみなく唱えられるかもしれない。しかし彼らは、それ以上一歩も先には行かないのである。

 祈りは人の魂の転回点である。人が祈るため膝まづくようにならない限り、いかなる霊的指導も無益であり、いかなる働きもむなしい。そのように変わらない人については何の希望も持てない。

 祈りは人の霊的幸福の偉大な秘訣の1つである。密室で神と大いに交わっている人の魂は、雨の後の草のように生き生きと成長する。神との交わりをほとんど持たない場合、すべてが行き詰まり、魂は全く生気を失ってしまうであろう。ぐんぐん成長しているキリスト者、いつも前向きなキリスト者、力にあふれるキリスト者、霊的に恵まれているキリスト者は、みな例外なく常々自分の主と語り合っている人のはずである。そういう人は多くを求めているからこそ、多くを得ているのである。イエスに何もかも申し上げているからこそ、どう身を処せばよいかいつでもわかるのである。

 祈りは、神が私たちの手にお授けになった最も強大な道具である。あらゆる困難に際して使える最上の武器であり、いかなる問題にあたっても確実な解決をもたらす治療薬である。祈りは、神の数々の約束の宝庫を開く鍵であり、苦境にあるとき恵みと助けを引き出す手である。いかなる必要があるときも、神が私たちに吹き鳴らすよう命じておられる銀のトランペットであり、母が愛児の声を聞き逃さないように、神が常に聞きつけてくださると約束なさった叫びである。

 祈りは人が神のもとに向かうにあたって用いることのできる最も単純な手段である。これはだれでも簡単に用いることのできるものである。----病人、老人、弱者、身体麻痺者、盲人、貧者、無学者----だれにでも祈ることはできる。記憶力のなさや、学問のなさ、書物のなさや学識のなさを申し立てても何にもならない。自分の魂の状態を語れる口がある限り、祈ることはできるし、祈るべきである。「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです」との言葉は(ヤコ4:2)は、最後の審判の日、多くの人々にとって恐るべき断罪理由となるであろう。

 私は子どもを持つ方々に云いたい。もし本当に子どもを愛しているなら、あらん限りの手を尽くして祈りの習慣を身につけさせなさい。どのように祈り出せばよいか手本を示してやりなさい。何について祈るべきか教えてやりなさい。うむことなく祈り続けられるよう励ましてやりなさい。彼らの祈りがなげやりになったり、だれてきたら、注意してやりなさい。少なくとも、彼らが主の御名を一生呼び求めないようなことがあったとしても、それがあなたのせいではないようにしておきなさい。

 覚えておきなさい。これこそキリスト教教育において子どもが踏み出せる最初の一歩である。子どもを母の隣でひざまづかせることは、字が読めるようになるずっと前からできる。母の口移しによる簡単な言葉で、祈りと賛美を唱えさせることは、ごく幼少のうちからできる。また、何をするにも最初の一歩は常に最も重要であるが、それと同じく、あなたの子どもが祈るときの態度もまた非常に重要であり、親が細心の注意を払わなくてはならない点である。この点にどれほど多くがかかっているか、ほとんどの人は全く気づいていないように見える。子どもの祈りが口早で、おざなりで、ぞんざいなものになってきたら要注意である。親は、わが子がどう祈るかを使用人や乳母に監督させてまかせきりにしたり、親の目の届かない所で子どもがどんな祈りをしているかについて無関心になったりしないよう用心しなさい。わが子の毎日の生活において最も重要な部分であるこの一事を他人にゆだねて何とも思わないような母親をほめるわけにはいかない。あなた自身が目を光らせ、あなた自身の手で身につけさせるべき習慣が1つあるとすれば、それは疑いもなく祈りの習慣以外にないであろう。事実、もしあなたがわが子の祈るのを一度も自分で聞こうとしないなら、あなたは大いに非難されてしかるべきである。そんな親は、ヨブ記で述べられている鳥に毛が生えたような知性しかないのである。「だちょうは卵を土に置き去りにし、これを砂で暖めさせ、足がそれをつぶすことも、野の獣がこれを踏みつけることも忘れている。だちょうは自分の子を自分のものでないかのように荒く扱い、その産みの苦しみがむだになることも気にしない」(ヨブ39:14-16)。

 祈りは、ありとあらゆる習慣の中で、最も長く記憶に残るものである。多くの白髪の老人が、その幼少時に自分がどのように母親から祈らされたかを語ることができるであろう。それ以外のことは記憶から抜け落ちているかもしれない。どんな教会に連れていかれたか、どんな牧師の説教を聞いたか、どんな仲間と遊んでいたか、----これらすべては記憶から消え去り、何の痕跡も残していないかもしれない。しかし、幼いころにどんな祈りをしていたかという点に限っていえば、事情は全く異なることが多い。どんな所でひざまづいたか、何について祈るように教えられたか、ことによると自分が祈っている間母親がどのようにそれを見守っていたかさえ、告げることのできる老人が少なくない。彼らの心の眼には、それが昨日のことででもあるかのように新鮮に思い出されるであろう。

 私は読者の方々に云いたい。もし本当にわが子を愛しているのなら、毎日敬虔に祈るという習慣の種を蒔く時期を決してあだに過ぎ去らせてはならない。子どもに何か1つしつけるというのであれば、少なくとも祈りの習慣を身につけるようしつけなさい。


 7. 子どもには、規則正しく真面目に礼拝に出席する習慣を身につけさせなさい。

 子どもたちに教えなさい。神の家に集い、会衆と声を合わせて祈りを唱えることが、いかに義務であり特権であるかを。また、主の民が集まる所にはどこにでも主イエスが特別のしかたで臨在しておられ、自分から欠席する者は、使徒トマスのように祝福を取り逃がすのだということを。みことばの説き明かしを聞くことがいかに重要であるか、またそれが人の魂を回心させ、きよめ、確立させるために神がお定めになった手段であることを。使徒パウロが私たちに向かって、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたり」せず、むしろ互いに戒め合い、互いに奮起しあい、かの日が近づいているのを見てますますそうせよ、といかに命じているかを(へブ10:25)。

 私が教会の中で見ていて悲しく思うのは、主の晩餐にあずかるために進み出てくるのが老人だけで、青年男女は全員背を向けて去っていくという光景である。しかし、それ以上に悲しいのは、日曜学校にやって来るため礼拝出席せざるをえない者らをのぞいて、教会の中に子どもがひとりも見られないという光景である。決してこうした事態の責めがあなたに帰されないようにしなさい。どんな教区であれ、学校に通ってくる子たち以外に、大勢の男の子や女の子がいる。その子たちの親であり友人であるあなたがたは、彼らがあなたがたと連れ立って教会に来るようにすべきである。

 子どもが、なんだかんだと教会に来ない云い訳をつけながら大きくなっていくようなことがないようにしなさい。はっきり彼らに云って聞かせることである。この屋根の下に住んでいる限り、健康な者は全員、主の日には主の家を尊ぶのがこの家のしきたりである、と。また、安息日を破る者は、自分自身の魂を殺す者であるとみなす、と。

 それとともに、できる限り、子どもにはあなたとともに教会に行くようにさせ、教会ではあなたのそばに座らせなさい。教会に行くということと、教会の中で行儀よくしているということは別物である。実際、あなた自身の目が届くところにいさせることにまさって、子どもを行儀よくさせておくことはできない。

 子どもはちょっとしたことでもすぐ気をそらされ、注意が散漫になりがちである。だから、それを防ぐためにできることは何でもすべきである。私は、子どもが自分たちだけで教会に来るのは好まない。----彼らはしばしば道の途中で悪い仲間とつきあい、他のどんな平日にもまさって主の日に悪事を覚えこむのである。それと同じく私は、教会の中に、いわゆる「年少者コーナー」があるのも好きではない。彼らはしばしばそこで、礼拝に集中せず、礼拝を軽んずる習慣を身につけてしまい、そうした習慣を払拭するには何年も何年もかかる。へたをすれば一生身についたままである。私が見たいのは、家族そろって、老いも若きも、男も女も、大人も子どもも、一家全員が並んで一箇所に座り、礼拝を守る姿である。

 しかし世の中には、子どもを礼拝に出させても、意味がわからないのだから無駄だという者がある。

 そんな理屈には耳を貸さないでほしい。そんな教理は旧約聖書のどこにも書いていない。モーセがパロの前に出たとき(出10:9)、彼はこう云うのである。「私たちは若い者や年寄りも連れて行きます。息子や娘も……連れて行きます。私たちは主の祭りをするのですから」。ヨシュアが律法を読んでいるところには(ヨシ8:35)、こう書いてあるのである。「ヨシュアがイスラエルの全集会、および女と子どもたち、ならびに彼らの間に来る在留異国人の前で読み上げなかったことばは、一つもなかった」。出34:23にはこう書いてある。「年に三度、男子[男の子どもたち <英欽定訳>]はみな、イスラエルの神、主、主の前に出なければならない」。また新約聖書を開くと、そこで言及されている子どもたちは、旧約時代と全く同じく、公同の礼拝に参加していることがわかるのである。パウロがツロの弟子たちと最後の別れを交わしている場面には、こう書いてある(使21:5)。「彼らはみな、妻や子どももいっしょに、町はずれまで私たちを送って来た。そして、ともに海岸にひざまずいて祈っ……た」。

 幼少期のサムエルは、本当の意味で主を知る少し前から、主に仕えていたように見受けられる。「サムエルはまだ、主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかった」(Iサム3:7)。使徒たち自身、私たちの主が云われたことのすべてを、語られたとき即座に理解したとは思えない。「初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した」(ヨハ12:16)。

 子どもを持つ方々は、こうした数々の例で心を励ましていただきたい。あなたの子どもたちが今、礼拝の尊さを完全には理解していないからといって、落胆してはならない。ただ規則正しく出席する習慣を身につけさせることだけを考えなさい。礼拝出席が、高貴で、聖く、厳粛な義務であるということを、肝に銘じさせなさい。そうすれば、あなたがそうしてくれたことで、彼らがあなたに感謝する日がほぼ間違いなくやって来るであろう。

 8. 子どもには信仰の習慣を身につけさせなさい。

 これは、子どもは、親の言葉を信ずるようにしつけるべきだということである。努めて子どもには、あなたの判断を信頼させ、あなたの考えの方が自分の考えよりも正しくて重要であると考えさせるべきである。子どもたちには、何かが彼らにとって悪いことだとあなたが云うとき、それは悪いことに違いない、と、また何かが彼らにとって良いことだとあなたが云うとき、それは良いことに違いない、と一も二もなく受け入れさせなくてはならない。一言で云えば、親は自分よりもよく物を知っているのだから、だまって親の言葉を信用しておけば間違いはない、という考えになじませるべきである。今はわからないことも、おそらくやがてわかるようになるのだ。親が命ずることにはみな、それ相応の理由があるのだ、という思いを植えつけなくてはならない。

 実際、真に信仰深い精神は、云いつくしがたいほど幸いなものである。というよりも、不信仰こそ、世に測り知れないほどの悲惨さをもたらしてきたものである。不信仰によってエバは禁断の木の実を食べた。----彼女は、「あなたは必ず死ぬ」、という神のことばの正しさを疑ったからである。不信仰によって古の世界はノアの警告を拒否し、罪の中で滅んだ。不信仰によってイスラエルは荒野に閉じこめられた。----不信仰こそ、彼らが約束の地に入るのをはばんでいた垣根であった。不信仰によってユダヤ人は栄光の主を十字架につけた。----彼らは、毎日読み聞かされていたはずのモーセや預言者らの声を信じなかったのである。そして不信仰は、まさに今この時に至るまで人の心を牛耳っている罪である。----神の約束に対する不信仰----神の脅かしに対する不信仰----自分の罪深さに対する不信仰----自分の危険に対する不信仰----自分の高慢と悪しき心に反する、あらゆることに対する不信仰。私は読者に云いたい。いくらよく子どもをしつけようとしても、素直に信ずる習慣----親の言葉を信じ、親が云うことに間違いがあるはずないと信ずる心----を身につけさせなければ、ほとんど何の役にも立たない、と。

 ある人々の説によれば、子どもには、彼らの理解できないことは何も命じてはならない、という。子どもに何かさせたいことがあれば、必ずその理由を説明してやるべきである、と。私は厳粛に警告しておく。こんな考えを信じてはならない。はっきり云えば、これは不健全な、腐った原則だと思う。もちろん、親のすることなすことをみな秘密めかしておくのは馬鹿げたことである。子どもたちに説明してやり、それが筋の通った賢いことであるとわからせた方が良いことはたくさんある。しかし、子どもには何1つ無条件で信じさせてはならないとか、たとえその子にどれほど弱く不完全な理解力しかなくとも、事のいわれや因縁を完全に明瞭にしてからでなければどんなこともさせてはならない、といった考えで子育てをすること、----これは実際恐るべき間違いであり、子どもたちの心に最悪の影響を及ぼすであろう。

 そうしたければ、時には子どもと論じ合うのもいい。しかし(本当に子どもを愛しているなら)、決して子どもに忘れさせてはならないことがある。結局自分は子どもでしかないのだ、ということである。----自分には子どもの考え方しかできず、子どもの理解力しかなく、それゆえ、あらゆることの理由をいっぺんに知ることはできないのだ、ということである。

 子どもにはイサクの模範を示してやるがいい。アブラハムがイサクを連れてモリヤの山に行き、彼をいけにえとしてささげようとした日(創22)、イサクは父に1つ質問をした。「全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか」、と。だが、返ってきたのは、「神ご自身が羊を備えてくださるのだ」、という答えしかなかった。どのようにして、どこで、どこから、どんなしかたで、何を用いて羊が備えられるのか----イサクには何も告げられなかった。しかし、その答えだけで十分であった。イサクはそれで大丈夫だと思った。父がそう云ったからである。それでイサクは満足したのである。

 子どもには告げてやるがいい。だれでも最初は一から学ばなくてはならないのだ、と。----いかなる種類の知識にも、まずは覚えなくてはならないアルファベットがある。----世界一の駿馬といえども、一度は馴らされる必要があった。----やがて今訓練されていることがどんなに大切なことであるか、わかる日が来るだろう、と。しかし、その日が来るまでは、親が正しいと云ったら、子どもはそれを受け入れなくてはならない。----親を信じなくてはならず、それで満足しなくてはならない。

 子どもを持つ方に私は云いたい。子育ての肝となることが何か1つあるとしたら、それはこの点である。あなたがわが子に対していだいている情愛にかけて、私は命ずる。あらゆる手段を用いて、子どもには信仰の習慣を身につけさせなさい。


 9. 子どもには服従の習慣を身につけさせなさい。

 これは、どれほどの労力を費やしてもかけがえのない目標である。これほど私たちの人生に大きな影響を及ぼす習慣はないのではないかと思う。子どもを持つ方に云うが、たとえどれほど面倒な事態になろうと、またどれほど子どもの涙をふりしぼらせることになろうと、子どもをあなたに従わせる決心をしなさい。何の反問も、屁理屈も、云い争いも、引き延ばしも、口答えも許してはならない。あなたが子どもに何か命じたら、何がどうあろうと従わなくてはならないということを、子どもの頭にたたきこみなさい。

 服従こそ唯一の現実である。それは目に見える信仰であり、働く信仰であり、具体化した信仰である。それは主の民の中で、だれが真の弟子かを見分けさせるものである。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です」(ヨハ15:14)。よくしつけられた子どもたちのしるしは、親から命じられたら何でも行なうということでなくてはならない。実際、父と母の云いつけに子どもたちが朗らかに、喜んで、すぐさま従わないとしたら、第五戒で命じられている「敬い」はどこにあるというのか?

 幼少期から親に服従することは、聖書の至る所で認められている。アブラハムのほまれは、自分の家族を訓練しただけでなく、「彼がその子らと、彼の後の家族とに命じ」たことであった(創18:19)。主イエス・キリストご自身についてもこう云われている。「彼は若く、マリヤとヨセフに仕えられた」*(ルカ2:51)。ヨセフが父の命令に、いかに黙って従ったか見るがいい(創37:13)。イザヤがいかに、「若い者が年寄りに向かって高ぶ」ることを悪と語っていることか(イザ3:5)。見よ。いかにパウロが、親への不服従を終わりの日の悪いしるしの1つに挙げていることか(IIテモ3:2)。いかにパウロが、服従を要求するというこの恵みを、キリスト教の教役者を飾るべき資質の1つとして、わざわざ挙げていることか。「監督はこういう人でなければなりません。すなわち、……自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です」[Iテモ3:4]。同じように、長老として立つ者に求められている条件は、「その子どもが不品行を責められたり、反抗的であったりしない」ことであった(テト1:6)。

 私は子どもを持つ方に云いたい。あなたはわが子が幸せになるのを見たいだろうか? ならば子どもをよくしつけて、云いつけられたことには従い、命ぜられた通り行なうようにさせなさい。嘘ではない。私たちは何もかもから自由に生きるようには造られていない。----そのようなことに私たちは適していない。キリストが与えてくださる自由にすら、負うべきくびきがある[マタ11:29]。キリスト者は「主キリストに仕えている」のである(コロ3:24)。この世界は私たちがみな支配者となるためにあるのではないし、長上者にいかに従うかを学ぶまで、私たちは決してふさわしい立場にあるとは云えない。こうしたことを子どもに教えるのに早すぎることはない。子どもには、その幼いうちから人に従うことを教えなさい。さもないと彼らは一生の間神に対して苛立って暮らすことになり、神の支配から独立しようという、あだな考えで自らをすりつぶすであろう。

 今この言葉を読んでいる人に私は云いたい。この助言は現在この上もなく必要なものである。少し見渡せばわかる通り、最近の親たちの多くは、子どもに判断力がつくはるか以前から、子どもが自分で選択したり考えたりするがままにさせている。彼らは子どもが親に服従しなくとも、何ら非難に当たらないかのように、子どもの弁護をしさえする。しかし私の見るところ、何でも子どもの云うなりになっている親、何でも自分の思い通りにしている子どもの姿ほど痛ましい光景はない。----痛ましいというのは、神のお定めになった物事の秩序が逆転させられ、あべこべになっているからである。----痛ましいというのは、その子どもの性格の行き着く先が見えているからである。すなわち、わがまま、思い上がり、うぬぼれである。幼少のころから地上の父親に逆らい放題に育てられた人が、成人して後、天にいます御父に従うことを拒否するとしても、何の不思議もない。

 子どもを持つ方々に私は云いたい。もしわが子を愛しているのなら、親への服従ということを、いついかなるときも絶対的な原則として子どもに示していなさい。


 10. 子どもには、常に真実を語る習慣を身につけさせなさい。

 真実を語ることは、私たちが日頃思い込んでいるよりもずっと世にまれなものである。「すべての真実、真実以外の何物でもない真実」、という黄金の原則を心にとめておくことは、多くの人にとって益するところ大であろう。嘘をつくこと、ごまかすことは、古の昔からある罪である。悪魔がそれらの父であった。----彼は大胆な嘘でエバを欺いた。そして堕落以後、それはエバの全子孫が警戒しなくてはならない罪となっている。
 この世にどれだけ偽りと欺きが満ちているか、少しでも考えてみるがいい。何とはなはだしい誇張があることか。何と多くの尾鰭が真実につけ加えられることか。何と多くのことが、話し手の利害に反する場合は省略されることか。何と私たちの周囲には、無条件でその言葉を信頼できるような人々が少ないことか。まことに古代のペルシャ人たちは賢明であった。彼らが子弟教育において眼目としたことの1つは、子どもたちに真実を語ることを学ばせるという点であった。だが、そもそもそのような点を挙げる必要があるという自体、人間の生まれながらの罪深さについての、何と恐るべき証拠であろう!

 旧約聖書において、神がいかにしばしば真実の神と語られているかに注意してほしい。真実は、私たちが弁明すべき相手たるお方のご性質のうちの主要な特徴として特に示されていると思われる。神は嘘と偽善を忌み嫌われる。このことを常に子どもたちの心に対して示し続けておくがいい。いついかなるときも、彼らに対して強く主張することである。真実以下のことはみな嘘である、と。また、云い逃れや弁解や誇張はことごとく偽りの始まりであり、避けなくてはならない、と。いかなる状況においても率直であり、どれほどの代価を払うことになっても真実を語るように彼らを励ましてやるがいい。

 私がこの主題にあなたの注意を引いているのは、単にあなたの子どもたちのこの世における人格形成のためばかりではない。----その点についても、いくらでも詳しく語っていけると思うが----私がこれをあなたに勧めるのは、あなた自身の慰めのため、また子どもたちを相手にするあらゆる場面で、あなたの助けとするためである。どんなときにもわが子の言葉を信じられるということ、これは実に力強い助けであることにあなたは気づくであろう。それは、不幸にも子どもたちの間で非常にはびこることのある、あの隠し立ての習慣を防ぐのに大いに効果があるであろう。あけっぴろげな率直さは、この件で親がどのように子どもを扱ってきたかに非常に左右されるものである。


 11. 子どもには、常に時間を有効に用いる習慣を身につけさせなさい。

 怠惰は悪魔の最良の友である。それは、悪魔に私たちを害させる機会を与える最も確実な道にほかならない。怠惰な精神は、あけっぱなしの扉のようなもので、たとえ悪魔自身がそこから入り込まないとしても、彼が何か悪い考えを引き起こすものを私たちの魂の中に投げ込んでくることは確かである。

 いかなる被造物も、怠惰に過ごすために造られてはいない。奉仕し、働くことこそ、神のあらゆる被造物に任ぜられた定めである。天の御使いたちは働いている。----彼らは主に仕える霊であり、常に主のみこころを行なっている。楽園におけるアダムには働きがあった。----彼はエデンの園を耕し、守るように任ぜられていた[創2:15]。贖われて栄光に入った聖徒らには働きがある。----「彼らは、昼も夜も絶え間なく」、彼らを買い取ってくださったお方の賛美と栄光を歌い続ける。そして人間も、弱く罪深い人間も、何かなすべきことがなくてはならない。さもないと、魂がたちまち不健全な状態に陥るであろう。私たちは、何かで自分の手をふさぎ、何かで思いを占めさせていなくてはならない。さもないと私たちは空想にふけることとなり、それがたちまち有害な思いをかきたて、悪を生じさせるであろう。

 そして私たちにとって真実なことは、子どもたちにとっても真実である。まことに、何もすることがないという人間ほど悲しむべき者はない! ユダヤ人は怠惰を積極的な罪であると考えた。彼らの戒律によれば、あらゆる人は自分の息子を、何か有益な職を手につけた者となるよう育てなくてはならなかった。----そして彼らは正しかった。彼らは人の心というものを、私たちの中のある人々よりも、はるかによく知っていたように見受けられる。

 怠惰こそソドムをあのような町にしたものであった。「あなたの妹ソドムの不義はこうだった。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き、安逸をむさぼ……った」(エゼ16:49)。怠惰こそダビデが、ウリヤの妻について犯したすさまじい罪に大きくかかわったものであった。----IIサム11によれば、ヨアブがアモン人との戦争に出かけていた間、「しかしダビデはエルサレムにとどまっていた」、と記されている。これが怠惰ではなかろうか? そして、まさにそのときに彼はバテシェバを見そめたのであり、----続いて私たちが読まされるのは、彼が途方もなく、みじめに堕落していく姿である。

 まことに私の信ずるところ、思いつく限りの、ほぼどのような習慣にもまさって、怠惰ほど多くの罪に導くものはない。怠惰こそ、多くの肉の行ないの母ではなかろうか。----姦淫の母、不品行の母、酩酊の母、その他枚挙のいとまがないほど多くの暗闇のわざの母ではなかろうか。あなた自身の良心で、私が真実を語っていないかどうか判断してほしい。怠惰に身をまかせるやいなや、悪魔が扉を叩き、するりと入り込むのである。

 そして、それも全く理の当然である。----この世で私たちの周囲にある、ありとあらゆるものが同じ教訓を教えているように思える。行き場のない水こそ、よどんで不潔になっていく水である。流れ続け、ほとばしり続ける水の流れは、常に澄んでいる。蒸気機関は絶えず動かしていないと、たちまち故障し始める。馬は毎日走らせなくてはならない。規則正しく運動させている馬こそ、最も役に立つ馬である。私たちも、健やかで強壮な肉体を持ちたければ、運動しなくてはならない。年がら年中腰を落ち着けてじっとしているだけでは、そのうち体が悲鳴を上げはじめるであろう。魂もそれと全く同じである。絶えず活発に動き続ける精神は、悪魔にとっても撃ち落とすのが困難な的である。努めて常に心が何か有益な仕事で占められているようにしなさい。そうすれば、あなたの敵も毒麦を蒔く余地をなかなか見出せないであろう。

 私はこのページを読む人に云いたい。どうかこうした事をあなたの子どもたちの思いに植えつけてほしい。時間の価値を彼らに教え、時間を有益に用いる習慣が彼らの身につくように努力しなさい。私が胸を痛めるのは、子どもたちが何であれ手持ちの仕事に精を出さず、のらくらしている姿である。私は子どもたちには活動的で、勤勉で、自分のしていることに一心に打ちこむ子どもであってほしいと思う。勉強しなくてはならないときには一心に勉強する子ども、遊びに行くときには遊びにも一心に打ちこむ子どもであってほしいと思う。

 それゆえ、もし子どもを本当に愛しているというのなら、怠惰をあなたの家庭における敵とすることである。


 12. 子どもは甘やかしすぎないように、絶えず恐れつつ育てなさい。

 これこそ、あなたが何よりも警戒を固めなくてはならない点である。血を分けたわが子をいとおしみ、可愛がりたいと思うのは自然の情である。だが、そうした自然な情愛の行き過ぎこそ、恐れなくてはならないことである。その愛情に妨げられて、わが子の欠点が何も見えなくなったり、他人がわが子のことで忠告してくれる言葉に全く耳を貸せなくなったりしないように用心しなくてはならない。その愛情の行き過ぎゆえに、子どもの悪い素行を見逃したり、罰を与え懲らしめるのが忍びないなどと心くじけたりしないように用心しなくてはならない。

 罰や懲らしめが愉快でないことは私も承知している。愛する者に苦痛を与え、涙をふりしぼらせることほど不快なことはない。しかし人間の心というものの性質からして、一般的原則としては、子どもを懲らしめもせずに正しく育て上げられるなどというのは、あだな望みというべきである。

 駄目にするとは非常に内容豊かな言葉であり、悲しいほど幅広い意味を持っている。さて、子どもを駄目にする最も簡単な方法は、何でも思い通りにさせることである。----悪いことをしていても放っておき、その罰を与えないでおくことである。私は切に願う。決してそのようなことを行なってはならない。たとえ、いかに忍びがたく感じようとも、わが子の魂を滅ぼしたいというのでない限り、決して行なってはならない。

 この件について、聖書が何もはっきりしたことを語っていないなどと云うことはできない。「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる」(箴13:24)。「望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。その泣き声に心和らげてはならない」(箴19:18 <英欽定訳>)。「愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る」(箴22:15)。「子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる」(箴23:13、14)。「むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる」。「あなたの子を懲らせ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、あなたの心に喜びを与える」(箴29:15、17)。

 これらの聖句の何と力強く、力のこもったものであることか! 多くのキリスト者家庭で、これらがほとんど知られていないように思えるという事実の、何と物悲しいことか! その子どもたちは叱責を必要としているのに、まず叱られることはない。懲らしめを必要としているのに、懲らしめられることはほとんどない。しかし、この箴言という書物は、時代遅れのものでも、キリスト者にとって不適当なものでもない。これは神の霊感によって与えられたもの、また有益なものである。それが与えられたのは私たちが教えを受けるためであり、その点は、ローマ人への手紙やエペソ人への手紙と何ら変わることはない。実際、箴言の助言に注意を払わずに子育てをしている信仰者は、書かれたことを越えて賢くなっているのであり、非常に大きな間違いを犯しているのである。

 子どもを持つ父親の方、また母親の方に私ははっきりと云いたい。わが子が過ちを犯していても決して罰を与えない親は、子どもに最悪の害を及ぼしているのである。私たちはあなたがたに警告する。これこそ、あらゆる時代の神の聖徒らが、あまりにもしばしば破船の憂き目に会ってきた岩礁である。私が口を酸っぱくしてもあなたがたに勧めたいのは、まだ間に合ううちに賢くあれ、それを避けて進め、ということである。エリの場合を見るがいい。エリは、息子のホフニとピネハスが、「みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった」。彼は息子たちを厳しく叱責しなくてはならないときに、おざなりの、なまぬるい小言しか云わなかった。そして、こうした事態がいかなる結末を招いたことか! 老いた彼は、ふたりの息子が一度に戦死したのを聞かなくてはならず、自分のしらが頭を、悲しみながら、よみに下らせることになったのである(Iサム2:22-29; 3:13)。

 ダビデの場合も見るがいい。彼の子らとその罪の物語を読んで心痛まない者がいようか? アムノンの近親相姦、----アブシャロムの殺人と思い上がった反逆、----アドニヤの狡猾な野心----まことにこれらは、神の心にかなうと云われた人物が自分の家庭から受ける傷としては苛酷な深手であった。しかし、ダビデの側には何の落ち度もなかったのだろうか? 残念ながら、ダビデに責任の一端があったことに疑いはないと思う。I列王記1:6にあるアドニヤの記事に、すべてを解き明かすかぎが見られる。「彼の父は存命中、『あなたはどうしてこんなことをしたのか。』と言って、彼のことで心を痛めたことがなかった」。ここに、あらゆる災厄の根源があった。ダビデは子どもを甘やかしすぎる父親だったのである。----わが子に好き放題にさせておく父親だったのである。----そして彼は、自分の蒔いたものの刈り取りをすることになったのである。

 私は親である方々に願いたい。わが子を可愛いと思うなら、甘やかしすぎないように用心することである。忘れないでほしい。あなたがたの第一の義務は、子どもたちの願いや好みをかなえてやることではなく、彼らにとって本当にためになることは何かを考えることである。----彼らにこびるのではなく、彼らをしつけることである。----彼らの機嫌をとるのではなく、益をもたらすことである。

 たとえどれほどわが子を愛していようと、子どもが気まぐれやわがままを起こすたびに従っていてはならない。決して彼らに、自分の意志にはだれも逆らえないのだ、一言ほしいと云えば何でも与えられるのだ、などと思わせてはならない。私はぜひとも願いたい。わが子を偶像にしてはならない。神が彼らを取り去り、あなたの偶像を破壊し、あなたに自分の愚かさを思い知らせるようなことが起こらないようにしなくてはならない。

 わが子に向かって、「いけません」、と云えるようになることである。何であれ、あなたが子どもにふさわしくないと思うことは拒否できるところを、子どもに見せてやるることである。不服従はすぐさま罰し、罰を与えると云ったときには、口先だけの脅しでなく、ちゃんと実行できるところを見せてやることである。あまりにも頻繁に脅してはならない*4。人は脅されただけでは死なないし、過ちは脅されただけではなくならない。罰を与えるのはここぞというときだけにし、そのときには本気で厳しく罰することである。----年がら年中、取るに足らないような罰を与えているのは、実に低劣なやりかたである*5

 「大したことではない」、と考えて、小さな過ちを見逃さないよう用心するがいい。子どものしつけに小さなことなど何1つない。すべてが重要である。小さな雑草も、大きな雑草に劣らず引き抜く必要がある。放ったらかしにしておくと、それは見る間に大きく育つ。

 私は読者の方に云いたい。信じてほしいが、もし何かあなたがたの注意に値する点があるとしたら、それはこのことである。これが苦しく厄介なものであることは承知している。しかし、もしあなたがたが、子どもの小さいうちに苦労をいとうならば、彼らが成長したとき、彼らはあなたに苦労をかけるであろう。好きな方を選ぶがいい。


 13. 子どもを教育するには、神がその子らを訓練なさるしかたを常に覚えておきなさい。

 聖書によれば、神はこの世界に1つの選びの民----1つの家族を有しておられる。罪を確信し、平安を求めてイエスのもとに逃れ来た、あわれな罪人の全集団がその家族である。心からキリストを救い主として信ずる私たちはみな、その一員なのである。

 さて父なる神は、この家族に属するひとりひとりを絶えず訓練し、永遠に天国でご自身とともに住む者としてふさわしくしようとしておられる。御父は、葡萄の木に多くの実を結ばせようとして枝を刈り込む農夫のように働かれる。御父は私たちひとりひとりの性格をご存知である。----私たちにからみつく罪----私たちの弱さ----私たちひとりひとりに特有の欠点----私たちの個別の必要をよく知っておられる。私たちの仕事は何か、どこに住んでいるか、いかなる人々を人生の伴侶や友人としているか、どのような試練の中にあり、何が誘惑となっているか、いかなる特権を受けているかを知悉しておられる。これらすべてを知っての上で御父は、常にすべてを私たちの益のためになるよう整えておられる。御父はその摂理によって、私たちひとりひとりに最も豊かに実を結ばせるため、まさに必要なものを割り当ててくださる。----私たちが耐えられるだけの日光と雨水----私たちが忍べるだけの苦難と楽しみを割り当ててくださる。このページを読む読者の方に私は云いたい。わが子を賢くしつけたければ、父なる神がいかにご自分の子らをしつけておられるかによく注意することである。御父はすべてを完璧に行なわれるお方であり、御父が採用しておられる方針に決して間違いはない。

 そこでまず注意したいのは、神がいかに多くのものをその子らに与えずにおくことをしておられるか、ということである。神の子らのうち、何かを神に願ってそれを絶対にかなえてもらえなかったという経験をしていない者はほとんどいないだろうと思う。彼らはしばしば何かをしたいと願うが、必ずそれを妨げる何らかの障壁があるのである。あたかも神が、それを私たちの手の届かないところに置いて、「これはお前のためにならないものだ。絶対にさわってはならない」、と云っているかのようである。モーセはヨルダン川を渡って、美しき約束の地を一目見たいと必死に願ったが、知っての通り彼の願いは決してかなえられなかった。

 次に注意したいのは、神がいかにしばしばその民を、一見私たちの目には暗く神秘的な道へとわざわざ導かれるか、ということである。私たちは、自分に対する神のお取り扱いの意味を必ずしも常に理解することはできない。自分の足が踏みしめている道が理にかなったものだとは思えない。時として、あまりにも多くの試練に襲われるため----あまりにも多くの困難に取り囲まれるため----、私たちにはそうした一切合切の必要性がまるで見当もつかないことがある。あたかも御父が私たちの手を取って暗闇の中を通り抜けつつあり、「何も聞かず、黙ってわたしについて来るがいい」、と云っているかのようである。エジプトからカナンへは一直線に続く道が伸びていたが、イスラエルはその道に導かれなかった。むしろ荒野を通る迂回路へと導かれた。そしてこれは、その時にはつらく思われた。「民は、途中でがまんができなくな」ったと記されている(出13:17; 民21:4)。

 さらに注意したいのは、神がいかにしばしばその民を試練や患難によって懲らしめることをなさるか、ということである。神は彼らに十字架や失望をお送りになる。彼らを病に伏させ、財産や友人を奪い、ある立場から別の立場に移し、血肉にとってはこの上もなくつらい物事によって訪れなさる。このため時として私たちは、あまりの重荷に気も絶えんばかりになることがある。限界を超えた力で押しつぶされつつあるように感じ、自分を懲らしめる御手に向かってつぶやきたくなることすらある。使徒パウロは、肉体に1つのとげを持つように定められた。それは疑いもなく、何らかの激しい苦痛を伴う肉体的試練であったに違いない。私たちは、それが何であったのか正確なところはわからないが、このことだけははっきりしている。----彼はそれが取り除かれるようにと三度も主に願ったが、それは取り去られなかったということである(IIコリ12:8、9)。

 だが私はこのページを読んでいる方に問いたい。こうしたすべてのことにもかかわらず、神の子らのうちひとりでも、御父が自分を愚かしく取り扱ったなどと考える者があったと聞いたことがあるだろうか? 否、決してないであろう。神の子らは常にあなたに告げるはずである。長い目で見たとき、自分たちが思い通りのことを許されなかったのは実にほむべきことであり、神は、自分たちが自分のためにできたはずのことよりも、はるかにまさって良いことを自分たちのためになしてくださった、と。しかり! そしてまた彼らは、こうも告げてくれるであろう。神のおとりはからいが自分たちに得させてくれた幸せは、自分が独力で得られただろう幸せよりもずっと多く、神のなさり方は、時には不可解に思えても、楽しみの道、平和の小道であった、と。

 私があなたに願いたいのは、御民に対する神のお取り扱いから学びとるべき教訓を心に深く刻み込んでほしい、ということである。もしも何か、わが子に害を与えるだろうと思われるものがあるなら、それが何であれ、またその子自身の願いがどうあれ、恐れることなく、与えずにおくがいい。それが神の方針である。

 いま現在、子どもにして見れば賢明なものと思えないような命令をも、ためらうことなく下すがいい。また今のその子には道理に合わないように見えるような道にも、ためらうことなく導いていくがいい。それが神の方針である。

 また、もしわが子の魂の健康のために必要であると考えるのなら、どれほど痛ましく思われても、またいついかなるときも、ひるむことなく子どもを罰し、懲らしめるがいい。人の心に必要な薬は、苦いからといって退けてはならないということを忘れないようにするがいい。それが神の方針である。

 そして何よりも、こうした方針によって子どもをしつけることで、その子が不幸せになるのではないかなどと案じないようにするがいい。そのような迷妄に陥らないよう私はあなたに警告する。嘘ではない。常にわがままし放題にさせられることほど確実に不幸に至る道はない。自分の意向を妨げられたり拒否されたりすることは、私たちにとって幸いなことである。そうしたことがあればこそ、いざ楽しみが来たときにそれを嬉しく思うことができるのである。日頃から絶え間なくちやほやされている子どもは、確実に利己的な人間になる。そして利己的な人間や甘やかされた子どもたちは、請け合ってもいいが、めったに幸せになることがない。

 このページを読む読者に私は云いたい。神よりも賢くなってはならない。----わが子は、神がその子らを育てるように育てることである。


 14. 子どもを教育するには、親自身の模範が持つ影響力の大きさを絶えず心にとめていなさい。

 いくら教えても、忠告しても、命令しても、それがあなた自身の生き方によって裏打ちされていなければ、ほとんど益はない。あなたが自分の助言と矛盾するような行動をしている限り、あなたの子どもたちは、決してあなたの言葉をまともにとりあわず、あなたが真剣に云うことを聞かせようとしているなどとは思わないであろう。ティロットスン大主教は賢明な言葉を残している。「子どもたちに良い教えと悪い見本を与えるのは、頭では彼らに天国への道を指し示しつつ、手では彼らを地獄への道に引きずっていくことにほかならない」、と。

 私たちは、模範にどれほど強大な力があるかほとんどわかっていない。だが、この世で自分だけ孤立して生きていられる人はだれひとりいない。私たちは常に、何らかのしかたで、良きにつけ悪しきにつけ、神のために、あるいは罪のために、身の回りにいる人々に影響を与えつつある。----彼らは私たちの生き方を注視しており、私たちの行動を目に留め、私たちのふるまいを観察し、私たちが常日頃行なうのを見せていることこそ、私たちが正しいと考えていることだろうと正しくも推察するのである。そして私が思うに、模範が何よりも強大な力をふるうのは、親子関係においてである。

 父親、また母親である方々に私は云いたい。忘れてならないのは、子どもたちは、耳からよりも目から多くを学ぶものだということである。いかなる学校にもまして、人格の上にくっきりとした痕跡を刻み込むのは家庭にほかならない。どれほど優秀な教師が植えつける影響にもまして、彼らの思いに感化を与えるのは、彼らがあなたがたの炉端で見聞きすることである。模倣は、子どもにとって記憶よりもはるかに力強い原理である。彼らが見ることは、彼らが教えられることよりもはるかに強い影響を彼らの思いに及ぼす。

 では、子どもたちの前で何をするにも気をつけることである。「子どもの前で罪を犯す者は、2つの罪を犯す」、という格言は正しい。むしろあなたは家族のだれもが読めるような、しかも鮮明に読みとれるような、キリストの生きた手紙となるよう努めるがいい。神のみことばに対する敬虔さ、祈りにおける敬虔さ、恵みの手段に対する敬虔さ、主の日に対する敬虔さにおいて模範となるがいい。----言葉と、気立てと、勤勉さと、節制と、信仰と、愛と、親切と、謙遜とにおいて模範になるがいい。あなたの子どもたちが、あなたのうちに見もしないようなことを行なうようになると考えてはならない。あなたは彼らの範となる原型であって、彼らはあなたのすることなすことを写し取るのである。あなたの情理を尽くした言葉も小言も、あなたの賢明な命令も良き忠告も、彼らは全然理解しないかもしれない。しかし、あなたの生き方だけは理解できるであろう。

 子どもたちは非常に目端のきくものである。ちょっとした偽善をも鋭く見抜き、あなたが考えたり感じている本音の部分を鋭く発見し、あなたの身ごなしや意見をたちまち身につけてしまう。あなたがしばしば身を持って体験するのは、子は親の鏡だ、ということである。

 征服者カエサルが戦闘において兵士たちに語るのを常とした言葉を覚えておくがいい。彼は「前へ行け」とは云わず、常に、「ついてこい」、と云った。あなたが子どもを教育する際にも、それと同じでなくてはならない。子どもたちは、あなたが軽視しているような習慣を身につけることはめったになく、あなたが自分で歩んでもいないような道を歩くことはめったにない。自分が実行してもいないようなことをわが子に説き聞かす人は、絶対に先へ進まないような仕事をしているのである。ギリシャ神話の語るオデュッセウスの妻ペーネロペイアは、その織物を昼間は織り込み、夜になるとほどき続けたというが、それと全く同じである。良い模範を示すことなしに子どもたちを教育しようとしている親は、片手で建て上げようとしていることを、もう一方の手で引き倒しているのである。


 15. 子どもを教育するには、罪の力のことを絶えず覚えていなさい。

 非聖書的な期待をふくらませる人がいないように、このことについても手短に云っておこう。

 あなたは決して、自分の子どもの心がまっさらな白紙であるとか、正しい手段を用いれば何の問題も生じないはずだ、などと期待してはならない。はっきり警告しておくが、そのような期待は裏切られるのが落ちである。がんぜない幼児の心にすら、どれほど多くの腐敗と悪がひそんでいるものか、また、それがいかに早々と実を結ばせ始めるかは、見るも痛ましいほどである。かんしゃく、わがまま、うぬぼれ、嫉妬、むくれ、向かっ腹、怠け、自己中心、ごまかし、ずる、嘘、偽善、そして悪い習慣を身につけるすさまじいばかりの素早さ、良い習慣を身につけるすさまじいばかりの遅さ、望みをかなえるためならなりふりかまわぬ変わり身の早さ、----あなたは、こうしたことのすべてが、あるいはそのいくつかが、血を分けたわが子のうちにも生じてくるのを見る覚悟をしていなくてはならない。これらは、ごく幼い年齢のうちから、少しずつ忍び込んでくるであろう。これらが、いかにも自然に現われてくるようすは、ほとんど驚きと云うしかない。子どもたちは何の訓練も受けなくとも罪を犯すことだけはできる。

 しかしあなたは、自分の目にすることで気を落としたり、落胆してはならない。幼い心が罪の巣窟ともなりうることを、あやしむべきことや、異常なことと考えてはならない。これは、祖先アダムが私たちに残した唯一の運命なのである。それは、私たちが世に持って生まれ出た、かの堕落した性質であり、私たち全員に属する、かの遺産なのである。むしろそのことであなたは、より一層熱心に、神の祝福を得ればそうした害毒を打ち消すこともできるであろう、あらゆる手段を用いるようにするがいい。そのことであなたは、より一層細心の注意を払って、自分の力の及ぶ限り、わが子を誘惑の道から遠ざけようとするがいい。

 たとえだれかから、良いお子さんですね、しつけが行きとどいていて、見ていて何の心配もありませんね、と云われても、耳を貸してはならない。むしろ子どもたちの心は、火口のように常に燃え上がりやすいものであると考えるがいい。最良の状態にあってさえ、火花1つで彼らの腐敗はたちまち燃えさかるものである。親たる者は、どれほど用心しても用心のしすぎということはめったにない。わが子が生来堕落したものであることを覚えておき、注意するがいい。


 16. 子どもを教育するには、聖書の約束を絶えず覚えていなさい。

 気落ちする人がないように、このことについても手短に云っておこう。

 あなたの味方となる平明な約束がある。「あなたの子をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない」*(箴22:6)。このような約束が与えられている意味を考えてみるがいい。約束は、聖書が記される以前に、族長たちの心を励ました唯一の希望のともしびであった。エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、----これらの人々はみな、ほんのわずかな約束に立って生き、その魂を生き生きと輝かせていた。約束は、あらゆる時代において信仰者を支え、力づけてきた強壮剤である。自分に味方する平明な聖句が1つありさえすれば、その人は決して落胆することがない。父であり、母である方々に私は云いたい。あなたの心が失意に沈みつつあり、今にもうなだれてしまいそうなときには、この聖句の言葉を見つめて、慰めを得ることである。

 約束をしてくださったのはどなたか考えてみるがいい。これは、偽ったり悔いたりするような、人間の言葉ではない。これは、決して変わることのない王の王のことばなのである。神は、約束されたことを成し遂げられないだろうか。神にとって、できないことが1つでもあろうか。人にはできないことが、神にはできるのである。私は読者の方々に云いたい。もしも私たちが、いま論じている約束の益を受け取っていないのだとしたら、非は神にではなく、私たちにあるのである。

 また、この約束から慰めを受けるのを拒絶する前に、そこに何がふくまれているかを考えてみるがいい。これは、良き教育が特に実を結ぶ、ある特定の時期について語っている。----「年老いても」。確かにここには慰めがある。あなたは、自分の目では、苦心の教育の成果を目にすることができないかもしれない。だが、あなたが死んで世を去った後で、そこからどれほど幸いな実りが生ずるかはわからないのである。神はそのご方針として、何もかもを一遍にお与えにはならない。「後になって」こそ、自然界の事がらにおいても、恵みの事がらにおいても、神がしばしばお選びになる、お働きの時期である。「後になって」こそ、患難が平安な義の実を結ばせる季節である(ヘブ12:11)。「後になって」こそ、あの父親のぶどう畑で働くことを拒んだ息子が、悪かったと思って出かけて行った時であった(マタ21:30)。そして、「後になって」こそ、成果をすぐには目にすることのない両親が待ち望まなくてはならない時期である。----あなたは、希望をもって蒔き、希望をもって植えなくてはならない。

 御霊は云われる。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう」(伝11:1)。私は確信している。たとえ両親の生前には、その良い教育によって益を受けたというしるしを全く見せなかった多くの子どもたちが、最後の審判の日には立ち上がって、そのことで両親に感謝するであろう、と。それでは、信仰によって前進し、あなたの労苦が全く無駄になることはないと堅く信ずるがいい。エリヤは、あのやもめの子が息を吹き返すまで三度、その子の上に身を伏せた[I列17:21]。エリヤにならって、屈せず最後まで努めることである。


 17. 最後に、子どもを教育するには、自分の行なうすべてのことに祝福があるように絶えず祈っていなさい。

 主の祝福がなければ、あなたがどれほど手を尽くして努力しても何の益にもならないであろう。主はすべての人の心を御手の中におさめておられ、主が御霊によってあなたの子どもの心に触れてくださらなければ、いかなる労苦も無駄骨折りとなる。それゆえ、あなたが彼らの心に蒔く種には、不断の祈りという水を注ぐがいい。主は私たちが祈りたいと思う以上に、はるかに祈りを聞き届けたいと願っておられる。私たちが願う以上に、はるかに祝福を与えようとしておられる。----しかし主は、私たちがそれを乞い求めることを大きな喜びとなさるのである。それで私は、この祈りということを、あなたが行なうすべてのことの冠石として、また固めのしるしとして、はっきり示しておきたいのである。私がひそかに確信するところ、多くの祈りが積まれた子は、めったに滅びることがない。

 あなたの子どもたちを、ヤコブがその子らを見たような目で眺めるがいい。彼はエサウに、これは「神があなたのしもべに恵んでくださった子どもたちです」、と云った(創33:5)。ヨセフがその子らを見たような目で眺めるがいい。彼は自分の父に、「神が……私に授けてくださった子どもです」、と告げた(創48:9)。詩篇作者と同じように、わが子を「主の賜物、報酬」*とみなすがいい(詩127:3)。それから、聖なる大胆さをもって主に向かい、ご自分の賜物に対して恵み深く、あわれみ深くあられるように願うがいい。いかにアブラハムがイシュマエルのためにとりなしているか注意してみるがいい。それは、わが子を愛していたからである。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように」(創17:18)。いかにマノアがサムソンのことで御使いに語っているか見るがいい。「その子のための定めとならわしはどのようにすべきでしょうか」(士13:12)。いかにヨブが子どもたちの魂のことを心細やかに配慮していたか注目するがいい。「彼は……彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、『私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。』と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた」(ヨブ1:5)。私は親である方々に云いたい。もしわが子を愛しているなら、行って同じようにしなさい。あなたは、彼らの名前を何度、「贖いのふた」の前に持ち出しても、やりすぎということはない。

 さて、結論として、このページを読んでいる方々にもう一度強調させていただきたい。わが子を天国へ向けて教育したければ、用いることのできる手段をすべて用いることが必要であり、重要である。

 云うまでもなく神は主権の神であり、みこころによりご計画のままをみな実現される方である[エペ1:11]。私も、レハブアムがソロモンの子であり、マナセがヒゼキヤの子であり、必ずしも敬虔な両親から敬虔な子どもが生まれるわけではないことは承知している。しかし私は、神が手段によって働かれる神であることも知っており、もしもあなたがこれまで私の言及してきたような手段を軽視するなら、あなたの子どもたちがまともに育つことはまずありえなくなると確信している。

 父であり母である方々に私は云いたい。あなたは自分の子どもたちに洗礼を受けさせ、キリスト教会の会員名簿に名を連ねさせることはできるかもしれない。----敬虔な名付け親に立ってもらい、子どもたちの代理人として答えてもらい、あなたを祈りで支援してもらうことはできるかもしれない。----子どもたちを最高の学校へやり、聖書と祈祷書を買い与え、詰め込み教育で頭でっかちにすることはできるかもしれない。----しかし、もしもその間、規則的な家庭教育が全くなされていないとしたら、はっきり云っておくが、それは結局、あなたの子どもたちの魂をひどい目に遭わせることになると思う。家庭こそ、習慣が身につく所である。----家庭こそ、人格の土台が据えられる所である。----家庭こそ、個人の趣味や好みや意見に先入主を与える所である。ならば、ぜひとも細心の注意を払って家庭教育を行なっていただきたい。だれよりも幸いなのは、ボルトンのようにその死の床にあって子どもたちにこう云えるような者である。「私は心から信じている。お前たちのうちのだれひとりとして、万が一にも未回心の状態のままキリストの法廷で私と会うようなことはないだろう、と」。

 父であり母である方々に私は、神と主イエス・キリストとの前で、おごそかに命ずる。いかなる労苦を伴おうと、わが子を行く道にふさわしく教育しなさい。こう命ずるのは、単にあなたの子どもたちの魂のためばかりではない。あなた自身の将来の慰めと平安のためである。実際そうすることは、あなたのためになることなのである。実際あなた自身の幸福が、このことに大きくかかっているのである。いまだかつて、子どもほど人の心を鋭く刺し貫く矢を射かけてきた弓はない。子どもほど苦い杯を人に味あわせてきたものはない。子どもほど悲しい涙を人にふりしぼらせてきたものはない。アダムは心から同意するであろう。ヤコブは心から同意するであろう。ダビデは心から同意するであろう。この世に、子どもが両親にもたらすものにまさる悲しみはない。おゝ、心しておくがいい。さもないと、あなた自身の怠慢によって、年老いたときあなたにふりかかる惨めさが幾重にも積み重なっていくであろう。心しておくがいい。さもないとあなたは、目がかすみ体力も衰えたときに、恩知らずなわが子の無慈悲な扱いを受けて泣くことになるであろう。

 もしあなたが、わが子によって元気づけられ、老後をみとってほしいと本当に願うのであれば、----もしあなたが、わが子を呪いではなく祝福としたければ、----悲しみではなく喜びとし、----ルベンのような者ではなくユダのような者とし、----オルパのような者ではなくルツのような者とし、----ノアのようにわが子の行為を恥じることなく、リベカのようにわが子によって生きているのがいやになるようなことがないようにしたければ、もしこれらがあなたの願いだとするなら、手遅れにならないうちに私の助言を思い起こし、彼らを正しい道へ向けて教育するがいい。

 そして私の方では、しめくくりとして、この論考を読むすべての人々のため、神に祈りをささげたいと思う。どうかあなたがたがみな、神に教えられ、自分自身の魂の尊さを感じとれるように、と。こうしたこともあるため、あまりにもしばしばバプテスマは単なる形式になりはて、キリスト教教育は馬鹿にされ、省みられないのである。あまりにもしばしば、親たち自身に信仰のありがたみが感じられていないため、子どもに信仰が必要であるとの実感を持てないのである。多くの親は、生まれながらの状態と恵みのうちにある状態との間にある途方もない違いを悟っていない。それゆえ子どもを放ったらかしにしたまま満足していられるのである。

 願わくはいま主が、罪は神がお憎みになる忌まわしいものであることを、あなたがた全員に教えてくださるように。そうなれば、あなたがたは自分の子どもの種々の罪のために嘆き、彼らを火から取り出した燃えさしのようにつかみとろうと努めるはずである。

 願わくは主が、キリストがいかに尊く、いかに力強く完全なみわざを私たちの救いのために成し遂げてくださったかを、あなたがた全員に教えてくださるように。そうなれば、あなたがたはあらゆる手段を用いて自分の子どもをイエスに導き、彼らがイエスによって生きられるようにするに違いない。

 願わくは主が、いかに聖霊があなたがたの魂を新しくし、聖め、生かしてくださるのに必要なお方であるかを、あなたがた全員に教えてくださるように。そうなれば、あなたがたは自分の子どもに、聖霊を求める祈りをうむことなくささげさせ、心に聖霊が力をもってやって来られ、自分を新しく造りかえてくださるまで安心しないようにさせるに決まっている。

 願わくは主が、このようにあなたがたを変えてくださるように。そうなれば私は、あなたがたの行なう家庭教育に希望を持つことができる。----あなたがたは、自分の子どもをこの世のためにもよく教育し、来たるべき世のためにもよく教育し、地上のためにもよく教育し、天国のためにもよく教育し、神のため、キリストのため、永遠のために、彼らをよく教育するであろう、と。

キリスト者の家庭教育[了]


*1 牧師として云わずにおられないことだが、子育てほど人を頑迷にする主題はまれである。これには私も全く唖然とさせられることがある。他の点ではしごく思慮分別のあるキリスト者が、わが子が間違っているとか、非難に値するということだけはなかなか認めようとしない。少なからぬ数の親たちに対して私は、あなたは罪人ですと面と向かって語る方が、あなたの子どもが悪いことをしましたと云うよりもずっと心安く感ずる。[本文に戻る]

*2 「少しでも人生に通じた人であれば、人々の意見や考え方のかげに、彼らの受けた教育の影響を逐一見抜くことができよう。育児室を出る子どもたちは、その後の一生の間、彼らの目立った特徴となるものを携えて出てくるのである。」----セシル[本文に戻る]

*3 子どもの宗教教育を何歳から始めるべきかについては、万人向けの規則を定めることはできない。ある子どもたちの知性は、他の子どもたちよりもはるかに幼いうちから発現するように見える。幼すぎて失敗することはめったにない。3歳児の子どもでさえ、どれだけ深く信仰を理解できるかということについては数々の素晴らしい実例が記録されている。[本文に戻る]

*4 一部の親や子守たちは、何かちょっとしたことがあると、しばしば十分な理由もなしに、「いけない子ね」、と口癖のように子どもに向かって云う。これは非常に愚かな習慣である。責め言葉は、それ相応の理由もなしに決して用いるべきではない。[本文に戻る]

*5 子どもを罰する最良のやりかたについては、いかなる一般規則も定めることはできない。子どもたちの性格は千差万別であって、ある子どもには厳しすぎるような罰が、別の子には痛くもかゆくもないのである。ここで私はただ、いかなる子どもをもむちで打ってはならないという現代の考えに断固たる抗議をしておきたい。疑いもなく一部の親たちは、肉体的な懲らしめをあまりにも頻繁に、またあまりにも激しく用いすぎている。しかし、他の多くの親たちは、私の恐れるところ、それを用いなさすぎているのではないか。[本文に戻る]

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