The Lord's Garden        目次 | BACK | NEXT

15. 主の庭


雅歌4:12

 主イエス・キリストは1つの庭を持っておられる。それは、ご自分を信ずる真の信仰者たち全員の集まりである。彼らこそ主の庭にほかならない。

 見方によると、信仰者たちはイエス・キリストの花嫁である。彼らはみな、破られることのない永遠の契約によって、主と結び合わされている。信仰の婚姻によって主にとついでいる。彼らは、その負債も債務もみなあるまま、短所も不完全さもみなあるまま、永遠に主のものとなるべく、主によってめとられている。彼らの古い名前は消え失せ、今やその花婿の名前の他いかなる名前も帯びてはいない。父なる神は彼らを、ご自分の愛する御子と同一視してくださる。サタンは、いかなる非難も彼らに浴びせることはできない。彼らは《小羊》の妻なのである。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの」(雅2:16)。

 別の見方をすると、信仰者たちはキリストのである。彼らは、多くの事がらにおいて主と似ている。彼らには、主の御霊がある。彼らは、主が愛するものを愛し、主が憎むものを憎んでいる。主のからだに属するあらゆる者を兄弟とみなしている。主によって、子とされる御霊を有し、神のことを「私の父」と云うことができる。まことに彼らは、その《兄》とは、ごく僅かしか似ていない。だがそれでも、似ている点があるのである。

 第三の見方をすると、信仰者たちはキリストのである。これから、いかなる意味でそう云えるのかを見てみよう。

 I. イエスがご自分の民をとお呼びになるのは、彼らが世の人々とは全く異なっているからである。世は荒野であって、いばらとあざみの他ほとんど何も生じさせず、それが豊かに実らせるのは罪でしかない。この世の子らは、神の前では耕されていない荒野である。そのありったけの技芸や科学、知性や技術、雄弁や政治手腕、詩歌や高尚な趣味----こうしたありったけのものを有してはいても、彼らは不毛の荒野であって、悔い改めも、信仰も、聖さも、神への従順も生じさせない。主は、天から見下ろして、何の恵みも見えない場合、そこには「荒野」に等しい状態しかごらんになれない。だが、主イエス・キリストを信ずる民は、地上の緑地であり、不毛の砂漠の中のオアシスである。彼らは主の庭なのである。

 イエスがご自分の民をとお呼びになるのは、彼らが主のみ思いにとって芳しく、美しいからである。主が世を眺めるとき、それは心底から主を悲しませる。だが主がご自分を信ずる民という小さな群れを眺めるとき、それは主を非常に喜ばせる。主は彼らのうちに、ご自分の苦しみの成果を見て、満足なさる。主は、賢い者や知恵のある者が御国を受けようとしないのに、幼子たちには御国が現わされているのを見て、霊の喜びを感じなさる。ノアがいけにえをささげた日のように、主は芳しい香りをかがれ、さわやかに感じなさる。これは非常に驚くべきこと、非常に神秘的なことである! 信仰者たちは、自分の目には邪悪な者としか思えず、みじめな罪人であると感じる。だがイエスは云われるのである。「あなたのすべては美しい。----あなたの声は愛らしい。----あなたの顔は美しい。----あなたはティルツァのように美しく、エルサレムのように愛らしい。----月のように美しい、太陽のように明るい」*(雅1:15; 4:7; 2:14; 6:10以降)。おゝ、何とはかり知りがたいことか! それは理解を絶し、ほとんど信じがたく思われる。だが、真実なのである。

 イエスがご自分の民をとお呼びになるのは、彼らの間を歩むことをお喜びになるからである。主はこの世の子らをごらんになるが、彼らの間に立ち混じりはしない。主の御目は彼らの生き方をすべて見ているが、アブラハムに対してなさったように、天から下りて来て、人がその友と語るように彼らとことばを交わすことはなさらない。その一方で主は、ご自分の燭台の間を歩き、そのともしびが明るく燃えているかどうか確かめることを愛しておられる。ご自分の聖徒たちの集まりの中にいて、彼らのところにはいって、彼らとともに食事をし、彼らがご自分とともに食事をすることを愛しておられる。ご自分の弟子たちのところに御父とともに来て、彼らとともに住むことを愛しておられる。そして、ふたりでも三人でも、ご自分の名において集まる所には、どこであれ主もそこにおられる。主はご自分の庭にはいり、その最上の実を食べること、香料の花壇へ下って、ゆりの花を集めること、ぶどうの木が芽を出したか、花が咲いたか、ざくろの花が咲いたかどうかをごらんになることを愛しておられる(雅7:12)。つまり主は、世に対してはなさらないようなしかたで、ご自分の民と格別な交わりを保ち、彼らを親しく扱ってくださるのである。

 イエスがご自分の民をとお呼びになるのは、彼らが役に立ち、実と花を生じさせるからである。この世の子らは、どこで真の役に立つだろうか? 彼らが未回心のままであり続ける限り、彼らに何の値うちがあるだろうか? 彼らは役に立たない賃借人であり、無価値な土地ふさぎである。彼らは、自分たちを買い取ってくださった主に何の栄光も帰さない。宇宙における自分の役割を果たさない。彼らは、被造世界において、自分の《造り主》が意図なさった働きを行なわない唯一の被造物である。天は神の栄光を宣言している。----木々も、麦も、草も、花々も、流れも、鳥も、神への賛美を語り告げている。----だが、世の人は、自分が神を思っていること、神に仕えていること、神を愛していること、キリストの贖いの死に感謝を感じていることを全く示していない。

 主の民はそうではない。彼らは主に何らかの栄光のみつぎものを携えてくる。彼らは何らかの実をもたらし、全く不毛で役に立たないしもべというわけではない。世にくらべれば彼らは庭である。

 II. 主の庭には、独特の特徴がある。それは、閉じられた庭なのである。

 信仰者の回りには囲いがなされている。さもないと、彼らは決して救われることがないであろう。これこそ、彼らが安全でいられる秘訣である。彼らが失われることを防いでいるのもの、それは彼らの忠実さでも、彼らの力でも、彼らの愛でもない。----それは、彼らの回りに巡らされた垣根にほかならない。彼らは「閉じられた庭」である。

 彼らは、父なる神の永遠の選びによって囲まれている。彼らが生まれるはるか前から、----世の基が置かれるはるか前から、----神は彼らを知っておられ、彼らを選び、彼らがイエス・キリストによる救いを得られるように定めてくださった。この世の子らは、この教理が宣告されるのを好まない。それは人間をへりくだらせ、誇る余地を何も残さない。しかし、選びの教理は、それが濫用されていようがいまいが、真実である。信仰者は、世界の始まる前からキリストにあって選ばれていた。それこそ、彼の救いのかしら石である。この囲みの強さを、だれが正しくわきまえ知りえようか?

 彼らは、子なる神の特別の愛によって囲まれている。主イエスはすべての人の《救い主》だが、特に信仰を有する人々の《救い主》である。主はすべての肉なる者を支配する権威を持っているが、特にご自分に与えられている人々には、他のいかなる人々に対してもなさらないようなしかたで、永遠のいのちをお与えになる。主はすべての人のため十字架上で血を流したが、ご自分にあずかる人々だけを洗ってくださる。すべての人を招いておられるが、ご自分のお望みになる者たちにだけいのちを与え、彼らを栄光に至らせなさる。主は彼らのために祈ってくださるが、世のために祈ることはなさらない。彼らが悪い者から守られ、真理によってきよめられ、彼らの信仰がなくならないようにとりなしていてくださる。この囲みの祝福を、だれが十分に述べることができるだろうか?

 彼らは、聖霊なる神の有効なお働きによって囲まれている。キリストの御霊は彼らを世から召し出し、あたかも彼らと世の間に壁が築かれたかのように有効に彼らを分離してくださる。御霊は彼らのうちに新しい心と、新しい思いと、新しい嗜好と、新しい願いと、新しい悲しみと、新しい喜びと、新しい楽しみと、新しい憧れを植えつけてくださる。御霊は彼らに新しい目と、新しい耳と、新しい感情と、新しい意見を与えてくださる。御霊は彼らを新しく造られた者としてくださる。彼らは新しく生まれた者であり、新生によって新しい存在を始める。何と力強いことよ、聖霊が人を変革する力は! 信仰者と世は完璧に間を裂かれ、永遠に分離される。人は信仰者と未信者とをくっつけて、結婚させ、1つ屋根の下に置くことはできるかもしれないが、それ以上に彼らを1つに結び合わせることは決してできない。一方は「閉じられた庭」に属しており、もう一方はそうではないのである。有効召命は、破ることのできない障壁である。

 この囲みの三重の壁がもたらす慰めを、だれが理解できようか! 信仰者は、選びによって囲まれており、洗いととりなしによって囲まれており、召しと新生によって囲まれている。私たちを囲む、この三重の愛の帯は、何と大きなものであることか、----父なる神の愛、子なる神の愛、聖霊なる神の愛は何と大きなことか! 三つ撚りの糸は簡単には切れない。

 読者の中に、一瞬でも、こうしたことがみな必要だったとは思わない、などと云う人がだれかいるだろうか? 私の信ずるところ、この三重の囲み以下の何物をもってしても、主の庭を完全な荒廃から救うことはできなかった。選びと、とりなしと、新生なくして、いかなる魂も天国に行き着くことはないであろう。林から野生のいのししが入り込んでは食い荒らし、ほえたける獅子がやって来てはすべてを足で踏みにじるであろう。悪魔はたちまち主の庭をただの地面同然にしてしまうであろう。

 神をほむべきことに、私たちは「閉じられた庭」である! 神をほむべきことに、私たちの最終的な安全は私たち自身のいかなるものによっても左右されない。----私たちの種々の恵みや感情によっても、----私たちの聖化の程度によっても、----私たちが善行をいかにやり遂げるかによっても、----私たちの愛によっても、----私たちの恵みにおける成長によっても、----私たちの祈ることや聖書を読むことによっても、----私たちの信仰によってさえも、それは左右されない。それは御父と、御子と、聖霊のみわざ以外の何物によっても左右されないのである。この三重のみわざが私たちを囲んでいる以上、いかなる者に私たちの希望を覆すことができようか? 神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるだろうか?

 アダムには罪に染まっていない心があった。アダムは純粋に無垢であり、悪い模範や腐敗した隣人と接することで汚されてもいなかった。アダムは、私たちがいま占めている立場よりも一千倍も有利な立場にあった。だがしかし、アダムは誘惑を前にしたときに堕落してしまった。この主の庭の最初の花の回りには、何の囲みもなく、サタンを寄せつけない何の壁もなく、何の障壁もなかった。----そして、アダムがいかにひどく堕落したか見るがいい!

 信仰者はそのまどろみがちな目を開き、自分の種々の特権の価値を理解するように努めるがいい! これは主の庭の最も祝福された部分である。それは「閉じられた庭」なのである。私の信ずるところ、何の選びもなければ、何の救いもない。私は、もしも少しでも人間自身に救いがかかっているとしたら、救われるであろう人などひとりも見たことがない。私たちはみな日ごとに主に感謝しよう。心の底から感謝しよう。主の民が選ばれた、守られた民であること、主の庭が「閉じられた庭」以下の何物でもないことを感謝しよう。

 III. 主の庭はからっぽではない。それは常に花々で満ちている。それは、これまでも多くの花で満ちていたし、今も多くの花々で満ちている。信仰者たちこそ、主の庭を満たす花々である。

 主イエスの庭にある花々について、私は2つのことに言及したい。いくつかの事がらにおいては、彼らはみな瓜二つである。いくつかの事がらにおいては、彼らはこの世の庭園の花々が種々に異なっているのと同じように異なっている。

 (a) いくつかの事がらにおいて、彼らはみな似通っている。

 (1) 彼らはみな、植え替えられた者たちである。主の花々のうち、一輪たりとも、主の庭に自生したものはない。彼らはみな、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らであった。いかなる人も恵みを心にいだいて生まれることはない。主の民の間にいるあらゆる信仰者は、かつては神に敵対し、さばかれるべき状態にあった。神の恵みによってこそ、その人はまず世から召し出されたのである。キリストの御霊によってこそ、その人は今ある通りのその人となり、主の庭に植えられたのである。このことにおいて、主の民はみな似通っている。彼らはみな移植された花々なのである。

 (2) 主の花々はみな、その根において似通っている。外的な事がらにおいては異なっているかもしれないが、地面の下ではみな同じである。彼らはみなイエス・キリストに根ざし、基礎を置いている。信仰者たちは別々の場所で礼拝し、別々の教会に属しているかもしれないが、彼らの土台は同じ、---- 十字架と血である。

 (3) 主の花々はみな、初めは弱い。彼らはいきなり完熟したりしない。最初は、生まれたばかりの乳飲み子のようにきゃしゃで、かよわく、堅い食物ではなく乳で養われる必要がある。彼らはすぐに妨げられたり、行く手をはばまれたりする。すべての者がこのようなしかたで始める。

 (4) 主の花々は、みな太陽の光を必要としている。花々は光なしには生きられない。信仰者たちも、慰めをもって生きるためには、イエス・キリストの御顔をしばしば見ることが欠かせない。常に主を見上げていること、常に主を糧とすること、常に主と交わっていること、----これこそ人の心の中における神のいのちの隠れた泉である。

 (5) 主の花々は、みな御霊の露を必要としている。花々は水分がなければ枯れてしまう。信仰者たちも、日ごとに、一時間ごとに、聖霊から自分の心の霊を新たにしていただく必要がある。私たちは古い恵みを糧としていては、新鮮で、生きた、真のキリスト者になることはできない。私たちは日々、いやまさって御霊に満たされなくてはならない。内側の宮のあらゆる部屋が満たされなくてはならない。

 (6) 主の花々は、みな雑草に埋もれる危険がある。花壇では常に雑草を抜き続けなくてはならない。信仰者たちは、日ごとに心を探って、自分が、まつわりつく罪を伸び放題にさせていないかどうか確かめる必要がある。こうしたものこそ、恵みの活動をふさぎ、御霊の影響をくじくものである。だれにでもこの危険があるため、だれもが用心すべきである。

 (7) 主の花々は、みな刈り込みや、掘り返しを必要としている。花々は、放っておくとすぐにやせ細り、育ちが悪くなる。注意深い園丁であれば、決してその薔薇を一年中ほったらかしにはしない。それと同じく信仰者たちも、霊をかき立て、揺り動かし、肉を抑制していないと、まどろみがちになり、ロトのようにソドムのそばに定住する気になってしまう。そしてもし彼らが刈り込みのわざに手間どっているなら、しばしば神は、ご自分でそのわざを彼らに代わって行なわれるのである。

 (8) 主の花々は、みな成長する。偽善者や、羊の衣を着た狼や、にせキリスト者たち以外に、停滞している者はない。真の信仰者たちは、決して長い間同じままではない。恵みから恵みへ、力から力へ、知識から知識へ、信仰から信仰へ、聖さから聖さへと向かうことこそ彼らの願いである。主の庭の歩道を縁取る花壇を、二三年おきに訪れてみれば、それはすぐにわかるであろう。わからないとしたら、おそらく根元に虫が食っているのだと考えた方がよい。いのちは成長するものである。しかし死は、停滞したまま腐っていく。

 (b) しかし、主の花々は、確かにいくつかの事がらにおいてはみな似通っているとはいえ、地上の庭園にある花々と同じく、それ以外の事がらにおいては様々に異なっている。この点についても少し考察してみよう。

 信仰者たちには、共通する多くの事がらがある。----主は1つ、信仰は1つ、御霊のバプテスマは1つ、望みは1つ、土台は1つ、みことばに対する畏敬は1つ、祈りに対する喜びは1つ、心が新しくされることは1つである。だがしかし、いくつかの事がらに関しては、彼らは1つではない。彼らの一般的な経験は同じであり、彼らが天国に入れる資格は同じである。だがしかし、彼らの個別の経験にはばらつきがある。彼らのものの見方や感じ方には、それぞれ微妙な違いがある。彼らは、あらゆる事がらについて、あらゆる時に、あらゆる点で、互いに全く理解し合えるほど完全に1つであるわけではない。このことを念頭に置いておくことは非常に重要である! 信仰者たちは、<類> としては1つだが、<種> としては1つではない。----大まかな原理においては1つだが、あらゆる詳細にわたって1つではない。----真理の全体を受け入れることにおいては1つだが、真理の各部分を重視する度合においては1つではない。----根においては1つだが、花においては1つではない。----主にしか見えない部分においては1つだが、世の目にとまる部分においては1つではない。

 いくつかの事がらにおいて、あなたは自分の兄弟や姉妹を理解できない。あなたは彼らが行なうようには行なえず、彼らが語るようには語れず、彼らが行為するようには行為できず、彼らが笑うようには笑えず、彼らが賞賛するようには賞賛できないであろう。おゝ、性急に彼らを非難してはならない! うわさ話で彼らを罪に陥れてはならない。たとえあなたと彼らの間に共感する部分がほとんどなく、あなたの心に共鳴したり、琴線を打ったりするものがほとんどないとしても、----また、たとえ彼らとの会話がすぐに気詰まりな沈黙を迎え、彼らとあなたの間にはごく狭い共通項しかないことに気づいたとしても、だからといって彼らを卑しめてはならない! 心に刻みつけておくがいい。キリスト者の間には種々の考え方があり、種類があり、種別があり、相違点があるのだ、と。あなたがたはみな主の庭にあって、大まかな教理については一致しているかもしれないが、それにもかかわらず、主の庭は様々な種類の花々によって成り立っているのである。主の花々はみな役に立つものであって、いかなる一輪も蔑まれてはならない。だがしかし、主の庭には、非常に異なる種類の花々が含まれている。

 (1) 主の庭に育つある者らは、色鮮やかで、けばけばしいが、芳しくはない花々のようである。彼らは遠くからでもよく目立ち、この世の目を引きつけ、その色合いは美しいが、それ以上のことは何も云えない。

 こうした人々は多くの場合、公的な立場にあるキリスト者たちである。----大衆の人気を博する説教者、----演壇に立つ講演者、----傾聴者たちの集会での獅子、----人々の耳目に上り、多くの取り巻きを引き連れる人々である。こうした人々は主の庭の鬱金香であり、向日葵であり、牡丹であり、天竺牡丹である。----目覚ましく、派手派手しく、鮮やかで、それなりに見事ではあるが、芳しくはない。

 (2) ある者らは、見かけは何の変哲もないが、この上もなく芳しい香りを放つ花々のようである。

 こうしたキリスト者たちのことを世は決して聞くことがない。彼らはむしろ世間の目にとまることから尻込みする。彼らは穏やかな歩みを続け、物静かに故郷に向かって進んでいく。だが彼らは、自分の周囲のすべてをよい香りで満たすのである。

 こうした人々はめったにおらず、見ることまれである。だが彼らを知れば知るほど、彼らは愛される。彼らの真の性格を彼ら自身の家庭で、彼らの家族の間で尋ねてみるがいい。----夫や、妻や、子どもたちや、しもべたちに、彼らの性格を尋ねてみるがいい。すぐにあなたは、彼らの美しさと、そのこの上もなくすぐれた性質がこの世にあっては十分の一も知られていないことに気づくであろう。主の庭に住むこうした人々は、近づけば近づくほど、より多くの芳香を放つ。こうした人々は主の菫である。----それを尊ぶ人はほんの少ししかいないが、その価値を知る人々にとっては、おゝ、何と芳しいことか!

 (3) 主の庭のある者らは、寒冷な気候のもとでは生きられない花々のようである。

 こうした人々は、ごくわずかの力しか持たず、苦難の日には気落ちし、身の回りのすべてが快適で温暖でないと、すくすく成長できない。試練の寒風や、患難という思いがけない霜によって、彼らは摘み取られ、切り倒されてしまう。しかし、主イエスは非常にあわれみ深いお方であって、彼らを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさらない。主は彼らを雨風にさらされない、陽光の射し込む場所に植えてくださる。彼らを守り、生け垣で囲って、寒気を遮断してくださる。だれも彼らを蔑まないようにするがいい。彼らは主の花々、それぞれの持ち場にあって、それなりに美しい花々なのである。

 (4) 主の庭のある者らは、冬でさえすくすくと成長する耐寒性の花々のようである。

 こうした人々は、いかなる試練をも全く意に介さないように見える、荒々しいキリスト者たちである。彼らは、反抗によっても患難によっても、全く動じないように思える。疑いもなく彼らには、私たちが他の人々の内側に見て賞賛するような柔和さや、芳しさはない。ある人々のうちにあって、説明しようのない魅力となっているような愛すべき繊細さは、残念ながら彼らのうちには見られない。彼らは時として、私たちの知る多くの人々に比べると、そのぞんざいさや、同情心の欠けによって、ぞっとするほど冷たく感じられる。だがしかし、だれも彼らを蔑んではならない。彼らは主の庭のクロッカスであって、その場所にあって、それなりに美しく、時に応じて役に立つのである。

 (5) 種の庭のある者らは、雨上がりの時が最も美しい

 こうした人々は、試練や患難のもとにあるときに最も恵みを現わすキリスト者たちである。陽光と順境の日には、彼らは無頓着になる。彼らがそのすぐれた性質を十二分に現わすには、何らかの悲しみという驟雨に見舞われることが必要である。彼らの涙には、彼らの微笑みにまさる聖潔の美しさがある。彼らは、笑っているときよりも泣くときの方が、イエスに似ている。こうした人々は主の庭の薔薇である。いついかなるときにも愛らしく美しいが、雨上がりの時ほどそれが際立つことはない。

 (6) 主の庭のある者らは、夜の間が最も芳しい

 こうした人々は、恵みの御座に近寄せておくために絶えざる試練を必要とする信仰者たちである。彼らは順境という陽光に耐えられない。彼らは祈りに無頓着になり、みことばについてまどろみがちになり、天国について無関心になり、この世の一隅でベニヤミンとともに安閑としていることをあまりにも好む。このような人々を、主イエスはしばしば曇天のもとに留めておき、彼らに正しい心持ちでいさせるようにする。主は波浪に次ぐ波浪、困難に次ぐ困難を送り、彼らをマリヤのようにご自分の足元にとどまらせ、十字架の側近くにいさせる。彼らが歩まされている暗黒そのものによって、彼らはこれほど芳しくさせられているのである。

 (7) 主の庭のある者らは、押しつぶされたときが最も芳しい

 こうした人々は、何らかの常ならぬすさまじい審きのもとにあるときに、その真実が最も現われるキリスト者たちである。重い患難の暴風や嵐が彼らの上で轟々と吹き荒れるとき、世を驚愕させることに、芳しい香りが馥郁とただよい出すのである。かつて私は、六年もの間、屋根裏部屋で寝たきりの若い女性に会ったことがある。脊椎を病み、良くなる見込みもなく、身動きもできない彼女は、この世を喜ばしいものとするあらゆるものから切り離されていた。しかし、彼女はイエスの庭に属していた。彼女はひとりきりではなかった。イエスがともにおられたからである。あなたは彼女がふさぎこんでいたと想像するであろうが、彼女は快活さそのものであった。あなたは彼女が悲嘆に暮れていたと思うであろうが、彼女は常に喜んでいた。あなたは彼女が弱く、慰めを必要としていたと考えるであろうが、彼女は強く、他者を慰めることができた。あなたは彼女がむっつりしていたに違いないと思い描くであろうが、彼女は私には光そのものであった。あなたは彼女が暗い顔つきをしていたと思い巡らすであろうが、その表情は穏やかな微笑を常にたたえており、内なる平安があふれ出ていた。あなたは彼女がどんな愚痴をこぼしたとしてもまず間違いなく赦すであろうが、彼女は完全な幸福と満足以外の何も表わしたことがなった。主の庭の押しつぶされた花々は、時としてこの上もなく芳しいものである!

 (8) 主の庭のある花々は、死ぬまで決してしかるべく評価されることがない

 こうした人々は、ドルカスのように、善行と、他者に対する活発な愛に満ちている。彼らは、大言壮語や売名を嫌い、自分の主なる《主人》に似て、巡り歩いて良いわざをなすことを喜ぶ。----父のない子どもたちや、やもめたちを訪れ、この無情な世間が知りも気遣いもしない傷に鎮痛剤を注ぎ、友なき者の世話をし、身よりのない人々を助け、絹や天鵞絨をまとった者にではなく、貧者に福音を宣べ伝える。

 こうした人々は、この世代からは注目されない。だが主イエスは彼らを知っておられ、主の御父も知っておられる。彼らが死んでいなくなったとき、彼らの愛のわざと労苦がすべて表に現われる。それは、彼らが助けを与えた者らの心に金剛石で記されている。それを隠すことはできない。生前は黙していた彼らは、死んでから語り始める。私たちは、彼らとともにいるときにはわからなくとも、いなくなって初めて彼らの価値がわかる。彼らの手によって魂や肉体を養われた人々は、驚きあやしむ世に対して、語り告げるであろう。いま故郷に帰った人々は、決してたやすくその代わりが得られず、その穴を容易に埋めることができないような者たちだったのだ、と。彼らには決して、「惜しまれずに世を去った」、というみじめな墓碑銘が記されることはない。彼らは主の庭のラベンダーであって、切り取られて死んだときにまさって珍重され、賞賛されることはない。

 さて、しめくくりとして、実際的な適用の言葉を少し語らせてほしい。

 主の庭には、この世のいかなるものとも似ていないことが1つある。

 この世の花々はみな死んで、しなびて、その芳しさを失い、腐って、最後には何もなくなる。いかに美しい花々も、決して永遠ではない。天性の子らのいかに年古り、いかに力強い者らも、最期を迎える。

 主の花々はそうではない。恵みの子らは決して死ぬことがない。彼らは一時の間眠るであろう。自分たちの世代に仕えて、そのわざをなし終えたときに取り去られるであろう。主は常にご自分の庭に下って、「ゆりの花を集め」、1つまた1つとご自分の胸に花々をだきかかえておられる。だが主の花々はみなよみがえるのである。

 主が再び来られるとき、主はご自分の民を伴って来られる。主の花々はもう一度息を吹き返し、いやまさって鮮やかに、いやまさって芳しく、いやまさって愛らしく、いやまさって美しく、いやまさって素晴らしく、いやまさってきよく、いやまさって輝かしく、いやまさって魅力的になる。彼らは、自分たちの主に似た栄光のからだを持ち、私たちの神の方庭で永遠に咲き誇ることになるのである。

 (1) 読者よ。あなたは主の庭にいるだろうか、それともこの世の荒野にいるだろうか?

 あなたは、そのどちらかでしかありえない。それを自分で選択しなくてはならない。あなたは、どちらを選んだだろうか? また、今そのどちらを選ぶだろうか? 主イエスは喜んであなたを植え替えようとしておられる。主はその御霊によって、あなたと争っておられる。喜んであなたを、その愛する者たちのひとりに加えようとしておられる。あなたの心の戸をみことばと摂理によって叩いておられる。あなたの良心に囁きかけておられる。「目覚めるがいい。立って、悔い改めるがいい。立ち返り、出て来るがいい!」、と。

 おゝ、語っておられる方に背を向けてはならない! 聖霊に逆らってはならない。自分の居場所を荒野にではなく、この庭の中に定めるがいい。目を覚ますがいい。目を覚まして、世に背を向けるがいい。

 (2) 読者よ! 荒野か、庭か! どちらをあなたは有することになるだろうか?

 もし荒野だとすれば、----あなたは、好き勝手に生きることができ、伸びほうだいになり、むだな枝を伸ばし、自分ひとりのための実や花を生じさせ、不毛で、役に立たない、無益な植物となり、だれからも愛されず、自分でも自分が愛すべき存在とは思えず、ついには毒麦の束の中に集められ、焼かれることになる!

 もし庭だとすれば、----あなたは、好き勝手に生きることはできない。しかし、はるかにまさるものを有することになる。----あなたは、神とキリストを自分のものにすることになる。あなたは耕され、水を注がれ、手入れされ、動かされ、刈り込まれ、主イエス・キリストご自身から訓練される。そしてついには、あなたの名前はいのちの束の中に見いだされることになる。

《ならば閉じられた庭を選び、
生きるがいい!》

主の庭[了]


HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT