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14. 雲一つなく*1


「『太陽の上る朝の光、雲一つない朝の光のようだ。雨の後に、地の若草を照らすようだ。』 まことにわが家は、このように神とともにある。とこしえの契約が私に立てられているからだ。このすべては備えられ、また守られる。まことに神は、私の救いと願いとを、すべて、育て上げてくださる」----IIサム23:4、5

 このページの冒頭に冠した聖句は、あらゆるキリスト者にとって非常に興味深いものたるべき章から取られている。その章は、この感動的な語句によって語り出されている。「これはダビデの最後のことばである」。

 この語句が、「これは、《詩篇作者》としての霊感によってダビデが語った最後のことばである」、という意味であろうと、「これはダビデがその死の前に語った最後のことばの1つである」、という意味であろうと、大した問題ではない。あらゆる点から見て、この語句は多くの思想を示唆している。

 ここに含まれているのは、連綿たる山あり谷ありの人生を送ってきた、神の老いたしもべの経験である。ここでは、老兵士が自分の従軍してきた戦役を述懐しているのである。老いた旅人が、自分の旅程を振り返っているのである。

 I. 私たちが第一に考察したいのは、ダビデのへりくだった告白である。

 彼が預言者的な目によって待ち望んでいるのは、未来におけるメシヤの到来である。約束された《救い主》、アブラハムの子孫、ダビデの子孫の到来である。彼が待ち望んでいるのは、1つの栄光の王国の《降臨》である。その王国には何の邪悪さもなく、義こそ、その臣下すべてに共通する性格となる。彼が待ち望んでいるのは、完璧な家族の集合である。そこにはひとりとして不健全な者がおらず、何の欠陥も、何の罪も、何の悲しみも、何の死も、何の涙もない。そして彼は云うのである。その王国の光は、「太陽の上る朝の光、雲一つない朝の光のようだ」、と。

 しかし、それから彼は自分自身の家族に目を向け、悲しみつつこう云っている。「わが家は、このように神とともにはない」<英欽定訳> 、と。それは完璧ではなく、罪を免れてはおらず、幾多の汚点や傷にまみれている。それは私に多くの涙をふりしぼらせた。そのような家を私は望んだことはなく、そのような家にしようとして力を尽くしてきたのでもない。

 あわれなダビデがそのように云うのも無理はない! もしもどこかに幾多の試練に満ちた家庭を有し、悲しみに満ちた人生を送った人がだれかひとりいるとしたら、それはダビデであった。自分自身の兄たちのねたみから来た試練、----サウルのゆえもない迫害から来た試練、----ヨアブやアヒトフェルといった、自分自身のしもべたちから来た試練、----かつてはあれほど彼を愛してくれた妻ミカルから来た試練、----アブシャロムや、アムノンや、アドニヤといった、自分の子どもたちから来た試練、----彼の功業のすべてを一時は忘れ果て、彼に反逆して彼をエルサレムから追放した、自分自身の臣下たちから来た試練、----ありとあらゆる種類の試練、波浪に次ぐ波浪が、絶え間なくダビデに打ち寄せ、それがその生涯最後まで続いた。こうした試練のうちの最悪のもののいくつかは、疑いもなく、彼自身の犯した罪の正当な報いであり、愛に満ちた御父の賢明な懲らしめであった。しかし、よほど冷淡な心をした人でもない限り、ダビデがまことに「悲しみの人」であったことを思いやれない人はいないであろう。

 しかし、これは、神の最も高貴な聖徒たちや、神に最も愛された子どもたちの多くが経験するところではないだろうか? 聖書を丹念に読んでいる人ならだれでも、アダムや、ノアや、アブラハムや、イサクや、ヤコブや、ヨセフや、モーセや、サムエルがみな、多くの悲しみの人であったこと、また、こうした悲しみが主として彼ら自身の家庭から生じたものであったことを見逃さずにおられようか?

 あからさまな真実を云うと、家庭から来る種々の試練こそ、神が信仰を有するご自分の民を聖なるものとし、きよめなさる多くの手段の1つなのである。それらによって、神は私たちをへりくだらせ続けてくださる。それらによって、私たちをご自分のもとに引き寄せてくださる。それらによって、私たちを聖書に向かわせてくださる。それらによって、私たちに祈ることを教えてくださる。それらによって、私たちに自分がキリストを必要としていることを示してくださる。それらによって、私たちを、何の失望も、何の涙も、何の罪もない、「堅い基礎の上に建てられた都」のために整えてくださる。キリスト者が何の試練も受けないとき、それは決して神のいつくしみのしるしではない。種々の試練は、あわれな堕落した人間性にとって絶対に必要な霊の薬なのである。ソロモン王の人生行路は、全く途切れることのない平和と繁栄に満ちていた。しかし、これが彼の魂にとって良いものであったかどうかは疑わしいであろう。

 私たちの主題のこの部分を離れる前に、いくつか実際的な教訓を学んでおこう。

 (a) 私たちが学びたいのは、両親は自分の子どもたちに恵みを与えることができない、また主人はしもべたちに恵みを与えられない、ということである。あらゆる手段を用いても、確実にうまく行くとは限らない。私たちは、身の回りの者たちに、いのちのパンといのちの水を示すことはできるが、彼らにそれを食べさせたり、飲ませたりすることはできない。永遠のいのちへの道を指し示すことはできるが、他の人々にそれを歩ませることはできない。「いのちを与えるのは御霊です」。いのちだけは、いかに才気ある科学の徒も決して造り出したり、分け与えたりすることのできないものである。それは、「血によってではなく、……人の意欲によってでもなく」やって来る(ヨハ1:13)。いのちを与えることは、神の偉大な大権である。

 (b) 私たちが学びたいのは、この堕落した世界のいかなる人にも、いかなる物にも、あまり多くを期待しすぎない、ということである。人を不幸にする大きな秘訣の1つは、あまりにも誇大な期待にふけりすぎる習慣である。金銭に、結婚に、取引に、家屋に、子どもたちに、世間的栄誉に、政治的な成功に、人々は絶えず自分が決して見いだせないような望みをかけている。そして大多数の人々は失意をいだいて死んでいく。幸いなことよ、いついかなる時にもこう云えるようになっている人は。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ」(詩62:5)。

 (c) 私たちが学びたいのは、試練がいざ来たときにも驚かないこと、苛立たないことである。ヨブは賢明にもこう云っている。「人は生まれると苦しみに会う。火花が上に飛ぶように」(ヨブ5:7)。疑いもなくある人々は、他の人々にまさって大きな悲しみの杯を飲まなくてはならない。しかし、それなりの長さの人生を生きている人で、いかなる種類の悩みも心労も身に受けたことがないなどという人はめったにいない。私たちの情愛が大きければ大きいほど、私たちの患難は深くなり、私たちが愛すれば愛するほど、私たちは激しく涙しなくてはならない。ゆりかごの中に横たわっている赤子について予告できる唯一確実なことは、このことである。----その子は、もしも無事に育つとしたら、多くの悩みに出会い、最後には死ぬであろう。

 (d) 最後に私たちが学びたいのは、私たちの愛する者を私たちから取り去る最善の時がいつであるかについて、神は私たちよりもはるかに良く知っておられる、ということである。ダビデの子どもたちの何人かの死は、その年齢においても、死にかたにおいても、状況においても、痛ましいほど尋常ならざるものであった。ダビデの小さな幼子が病気で伏せったとき、ダビデはその子に生きてほしいと思い、すべてが終わるまで、断食し、嘆き悲しんだ。だが、その子が息を引き取ったとき、彼は、その子に再び会えるという強い確信とともに、こう云った。「私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない」(IIサム12:23)。しかし、それとは逆に、アブシャロムが戦死したとき、----美しきアブシャロム----彼の心の愛し子アブシャロム----しかし、神と父に対する公然たる罪の中で死んだアブシャロム----、そのときダビデは何と云っただろうか? 彼の絶望的な叫びを聞くがいい。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに」(IIサム18:33)。悲しいかな! 私たちのうちだれひとりとして、私たち自身にとっても、私たちの子どもたちにとっても、私たちの友人たちにとっても、いつ死ぬのが最善であるかを知る者はない。私たちはこう云うことができるように祈るべきである。「私の時は、御手の中にあります」、あなたがお望みの時、あなたがお望みの場所、あなたがお望みのしかたで、みこころのままに行なってください、と(詩31:15)。

 II. 私たちが第二に考察したいのは、ダビデの現在の人生における慰めの源泉が何であったか、ということである。彼は云っている。「わが家は、このように神とともにはないが、また、大きな悲しみの種ではあるが、神はとこしえの契約を私と結んでくださった。このすべては備えられ、また守られる」*。それから彼は、こうつけ加えている。「これこそ、私の救いのすべて、私の願いのすべてだ」*、と。

 さて、この「契約」という言葉は、神がなさるいかなることについてあてはめられた場合も、深遠で、神秘的なことである。私たちは、人間同士の契約がいかなるものであるかは理解できる。それは、ふたりの人の間の合意であって、それによって彼らは特定の条件を果たし、特定の事がらを行なう義務を負う。しかし、《永遠の神》によって結ばれた契約を、だれが完全に理解できるだろうか? それは、私たちの力をはるかに越えた、到底見通すことのできないものである。それは、神が恵み深くもご自分を私たちの貧しく愚かな知能に合わせることをよしとなさって用いてくださった語句ではあるが、私たちには、せいぜいごく僅かしかつかみきることはできない。

 ダビデが自分の慰めとして言及している神の契約は、《ほむべき三位一体》の《三位格》の間で結ばれた、永遠の合意、あるいはご計画を意味しているに違いない。それは、キリストの生きた肢体のすべてに益をもたらすために、永遠の昔から存在していたご計画である。

 この神秘的で、言葉に尽くせない取り決めによって、私たちの魂と、私たちの現在の平安と、私たちの最終的栄光とに必要なすべての事がらが、完全にして全く備えられるのであり、このすべては、父なる神、子なる神、聖霊なる神が共同して行なうみわざによってなされるのである。子なる神が、私たちの《代理者》として十字架上で死ぬことによってなさった贖いのみわざ、----父なる神が私たちを選び、御子のもとへ来させる、引き寄せるみわざ、----聖霊が目覚めさせ、いのちを与え、私たちの堕落した性質を更新なさる、聖なるものとするみわざ、----これらはみな、この契約に含まれているのである。また、それらとともに、信仰者の魂が恵みと栄光との間で必要とするあらゆるものが含まれているのである。

 この契約の中で、《三位一体》の《第二位格》は《仲介者》である(ヘブ12:24)。彼を通して、この契約のあらゆる祝福と特権とが、信仰を有する彼の肢体たるすべての者たちに伝えられている。そして、このダビデの言葉のように、神が人と契約を結ぶことについて聖書が語るとき、それは、キリストのうちにある人、御子の肢体であり、部分である人と結ばれた契約のことを意味している。彼らはキリストの神秘的なからだであり、キリストは彼らの《かしら》であり、その《かしら》を通して、この永遠の契約のあらゆる祝福はからだに伝えられるのである。キリストは、一言で云うと、「契約の保証」なのであり、キリストを通して信仰者たちは種々の恩恵を受け取るのである。これこそ、ダビデが見てとっていた偉大な契約である。

 真のキリスト者は、今しているよりもずっとこの契約について考え、ずっとそれを覚えておき、ずっと自分の魂の重荷をその上に揺り落とすようにすべきである。私たちの魂の救いが永遠の昔から備えられており、つい昨今にできた急ごしらえのものではないという考えには、云いつくしがたい慰めがある。私たちの名前は、昔から《小羊》のいのちの書に記されていた。キリストの血による私たちの赦しと良心の平安、義務を行なうべき私たちの強さ、試練における私たちの慰め、キリストの戦いを戦うべき私たちの力はみな、果てしない過去の時代、私たちの生まれるはるか昔から、みな私たちのために手配されていたのである。この地上で私たちは祈り、読み、戦い、格闘し、うめき、泣き、しばしば自分の旅路を激しく妨害される。しかし、私たちが覚えておくべきことに、《全能の》目がはるか昔から私たちのことをご覧になっており、私たちは、自分ではそれと知っていなかったにせよ、天来の守りをずっと身に受けていたのである。

 何にもまして、キリスト者たちが決して忘れるべきでないのは、この永遠の契約の「すべては備えられ、また守られる」、ということである。私たちの日常生活のいかに小さな事がらも、そのときにはそれとわからなくとも、ともに働いて益となる。私たちの頭の毛さえも、みな数えられている。雀の一羽でも、私たちの父のお許しなしには地に落ちることはない。私たちに起こるいかなることにも、運だの偶然だのということはない。私たちの人生のいかに小さな出来事も、永遠の企図あるいはご計画の一部なのである。そのご計画において神は、あらゆることを私たちの魂の益となるように予知し、取り決めておられるのである。

 私たちはみな、この永遠の契約について思い起こす習慣を身につけよう。これは、正しく用いられさえするなら、強力な慰めに満ちた教理である。これは、私たちの責任を無効にするためのものではない。これは、イスラム教の運命論とはかけ離れたものである。これは、悲しみと試練に満ちた世にあって、特に心を元気づける強壮剤として実際的な使われ方をするためのものである。私たちが人生の多くの悲しみや失望の最中にあって思い出すべきなのは、「今は私たちにはわからないことも、あとでわかるようになる」、ということである。私たちが飲まなくてはならない、あらゆる苦き杯には意味があり、「必要」がある。また、私たちが嘆くいかなる損失にも死別にも、深い知恵による理由がある。

 結局において、私たちは何と僅かしかものを知っていないことか! 私たちは、半ばしか完成していない建物を見て、その完成時の姿が、まるで見当もつかない子どもたちのようなものである。彼らに見えるのは、ただ大量の石や、煉瓦や、がらくたや、木材や、漆喰や、足場や、汚泥といった一切合切が、見るからに雑然と置かれている姿である。しかし、その建物を設計した建築家は、すべてのうちに秩序を見てとり、建物全体が完成する日を静かに、喜びをもって待ち受ける。私たちもそれと全く同じである。私たちは、自分の人生における多くの摂理の意味をとらえることができず、自分の回りにあるすべては混乱でしかないという思いにかられることがある。しかし、私たちは努めて思い起こすべきである。天におられる偉大な《建築家》はいつでも賢明に、また手際よく事を行なっており、私たちを常に「まっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせ」ようとしておられるのだ、と(詩107:7)。復活の朝には、すべての説明がつくであろう。ひとりの古の神学者は、奇抜な、しかし賢明な言葉を残している。「真の信仰には鋭い眼力があり、たとえ暗闇の中でも、ものを見ることができるのである」。

 メアリー女王治下で多くの人々が殉教していった時代に、《北方の使徒》と称された宗教改革者バーナード・ギルピンについて、こう記録されている。彼は自分の身に何が起ころうと、決してつぶやきや不平を口にしないことで有名であった。最悪、最暗黒の時代にあっても、彼は常々、「これはみな、神の永遠の契約の中にあることで、良いことに違いない」、と云うのであった。メアリー女王の治世も終わりに近づく頃、彼は突如としてダラムからロンドンへと召還され、異端審問を受けることになった。どう考えても、彼がリドリやラティマーのように、火刑によって殺されることは必至と思われた。この善良な人物は静かにその召還に従い、嘆き悲しむ友人たちにこう云ったという。「これは神の永遠の契約の中にあることで、良いことに違いありません」。ところがダラムからロンドンに旅する中で、彼の馬が転倒し、彼は足を骨折してしまった。それで彼は、沿道の旅館に横たえられた。ここでも彼は、「あなたはこれをどう思いますか」、と尋ねられたが、彼はやはり答えた。「これは神の永遠の契約の中にあることで、良いことに違いありません」。そして、事実そのようになったのである。何週間も何週間もかかって、ようやく彼の足は癒えて、旅を続けることができるようになった。しかし、この数週間の間に、不幸なメアリー女王は死に、迫害はやみ、この尊い老改革者は、北方の自宅に喜びながら帰っていったのである。彼は友人たちに云うのだった。「私の云った通りだったではありませんか。すべてのことは働いて、益とされるのです」。

 私たちもバーナード・ギルピンの信仰の何がしかを有していれば、また、彼がしたように永遠の契約を実際的に用いることができるならば、どんなに良いことかと思う。幸いなのは、心からこうした言葉を云うことのできるキリスト者である。----

「わが行く道 われは知らねど
  われ知る 確かにわが《導き手》を。
 わらべのごとく われは信じつ手をば伸ぶ
  わが側にます 強き《友》へと。
 わが手を取れる 君にぞ われただ
  かく云うほかなし。----『堅く手を取り、
 われにわが道 見失わせざらしめたまえ。
  ついには故郷へ 帰らせたまえ』。」

 III. 最後に考察したいのは、ダビデ王が未来についていだいていた希望は何であったか、ということである。その希望とは、疑いもなく、世の終わりにおけるメシヤの栄光ある降臨であり、最終的に「万物の改まる時」における、義の王国の設立であった(使3:21)。

 もちろん、ダビデ王がこの王国について有していた理解は、新約聖書を読んで理解しているいかなる人の知識とくらべても、おぼろげで、曖昧なものであった。彼は、苦しみを受けるためにやって来るメシヤについて無知ではなかった。そのことについて彼は詩篇22編で語っているからである。しかし彼は、そのはるかかなたに、統治するためにやって来るメシヤを見てとっており、彼の熱心な信仰は、この2つの《降臨》の間の隔たりを飛び越えてしまった。彼の思いが、かの約束、すなわち、「女の子孫」が、いつの日か完全に「へびの頭を踏み砕き」、地から呪いが取り除かれ、アダムの堕落による種々の影響が完全に取り去られるという約束に据えられていたことに、私は全く何の疑いも感じない。もしキリストの教会が、ダビデの歩みにならい、ダビデと同じくらい《再臨》に注意を払ってきたとしたら、どんなに良かったことであろう。

 このメシヤの降臨と未来の王国について語るにあたってダビデが用いている比喩やたとえは、ことのほか美しく、それが教会および地にもたらすであろう種々の恩恵を明らかに示すのに、この上もなく適切なものである。キリストの《再臨》は、「太陽の上る朝の光、雲一つない朝の光のよう」であり、「雨の後に、地の若草を照らすよう」であろう。こうした言葉は、一千もの思想に値する。一体だれか、身の回りを眺めわたして、私たちの生きている世界の状態を考察するとき、暗雲と暗黒が今は至る所にあると告白しないでいられるだろうか? 「被造物全体が……うめき……産みの苦しみをしている」(ロマ8:22)。どこを眺めても、私たちが見るのは混乱や、争いや、国家間の戦争や、政治家の無力さや、下層階級の不満と不平や、富者の間における過度な奢侈や、貧者の間における極度の貧困や、放縦や、不純行為や、不正直や、詐欺や、虚偽や、詐取や、貪欲や、異教主義や、迷信や、キリスト者たちの間における形式主義や、生きたキリスト教信仰の腐敗である。----こうした事がらは、私たちが全世界で、----ヨーロッパや、アジアや、アフリカや、アメリカで、絶えず見てとっていることである。これらは、被造世界の面を汚し、悪魔が「この世を支配する者」であること、神の国がまだ来ていないことを証明する事がらである。これらはまことに、私たちの目からしばしば太陽を隠す雲である。

 しかし、やがて良い時が来ようとしている。ダビデがはるかかなたに遠望したその時には、こうした物事の状態は完全に一変するであろう。やがて来たるべき王国においては、聖さが通則となり、罪は全くどこにも見られないであろう。

 一体だれが、自分の近隣を見回して、自宅の1マイル四方に、罪の種々の結果が地上に重くのしかかっていること、悲しみと悩みがはびこっていることを見てとらないだろうか? 病や、痛みや、死は、あらゆる階級の人々を訪れ、富者であれ貧者であれ、いかなる者をも目こぼししない。若者が老人より先に死に、子どもたちが両親に先立つ。この上もなくすさまじい種類の肉体的苦痛が、また治癒不能な病が、多くの人々の生活を悲惨なものとしている。伴侶を亡くし、子どももなく、孤独をかこつことによって、多くの人々は、金銭で得られるものなら何でも手に入れられるにも関わらず、人生に倦み疲れた思いにかられる。骨肉の争いや、ねたみや、羨望によって、多くの家庭の平和が打ち壊され、多くの金持ちの平和の根元に虫が巣くう。一体だれが、こうした事がらすべてが私たちの回りの四方八方に見られることを否定できるだろうか? 今は多くの雲があるのである。

 こうした事態は何物によっても終わらないのだろうか? 被造世界は、このようなあり方のまま永遠にうめいたり、産みの苦しみをしたりし続けるのだろうか? 神に感謝すべきことに、キリストの《再臨》がこうした問いに答えを与えている。主イエス・キリストは、人間のためのそのみわざをまだ完了してはいない。主はいつの日かもう一度(そして、ことによると、もうまもなくすると)やって来られ、1つの栄光の王国を設立するであろう。その王国では、罪の種々の結果が全くどこにも見られないであろう。その王国には、何の痛みも何の病もなく、「そこに住む者は、だれも『私は病気だ。』とは言わ」ない(イザ33:24)。その王国には、何の別離も、何の転居も、何の変化も、何の暇乞いもない。それは、何の死も、何の葬儀も、何の涙も、何の喪服もない王国である。何の争いも、何の損失も、何の苦難も、何の失望も、何の邪悪な子どもたちも、何の悪いしもべたちも、何の不忠実な友人たちもいない王国である。最後のラッパが鳴り、死者が朽ちないものによみがえるとき、そこには神の民すべての壮大な集まりが生まれるであろう。私たちが目覚めて、私たちの主の似姿となるとき、私たちは満ち足りるであろう(詩17:15)。このような事態が始まることを心から慕い求めないキリスト者がどこにいるだろうか? 私たちは黙示録の最後の祈りを取り上げ、しばしば叫んでしかるべきである。「主イエスよ、すぐに来てください」*(黙22:20)。

 (a) さて、私たちには悩みがあるだろうか? 「そんなものはない」、と云えるような人が地上のどこにいるだろうか? 私たちはあらゆる悩みを主イエス・キリストのもとに持っていくようにしよう。主のように慰めることのできるお方はいない。私たちのもろもろの罪のための赦しを獲得するために十字架上で死なれたお方は、愛と同情に満ちた心をもって神の右の座に着いておられる。主は悲しみがいかなるものかご存じである。この罪に満ちた世で33年間暮らし、ご自分も誘惑に遭い、日ごとに苦しみを目にしていたからである。そして主はそれを忘れてはおられない。主が天に昇り、御父の右の座にお着きになったとき、主は完全な人間の心を伴って行かれた。「彼は、私たちの弱さに同情できない方ではない」*(ヘブ4:15)。主は思いやることがおできになる。十字架上における主のほとんど最後の思いは、ご自分の母のことであった。そして主は今も、肉親を失って泣き崩れる母親たちのことを気遣っておられる。

 主が私たちに求めておられるのは、キリストにあって私たちから離れていった友たちが失われたのではなく、単に先に行っただけだ、ということを私たちが決して忘れないことである。私たちは、ともに集まる日に、もう一度彼らと出会うことになる。というのも、「神は……イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られる」からである(Iテサ4:14)。私たちは、新しくされたからだを持つ彼らと再会し、彼らをそれと見知るであろうが、彼らは私たちが地上で彼らを見ていたいかなるときにもまして健康で、美しく、幸福になっているであろう。何よりも良いことに私たちは、これから決して彼らと別れなくてよいという、安らかな思いをもって彼らに会うことができるであろう。

 (b) 私たちには悩みがあるだろうか? 私たちは、老ダビデが生涯最後まですがりついていた永遠の契約を決して忘れないようにしよう。それは、今なお完全に有効である。それは無効になってはいない。それは、エッサイの子の所有物であったのと全く同じように、富者であれ貧者であれ、イエスを信ずるあらゆる信仰者の所有物である。私たちは、決して苛立ちや、不平や、愚痴を云いたがる精神に屈さないようにしよう。最悪の事態にあっても、私たちの生涯のあらゆる歩みは、主によって、完璧な知恵と完璧な愛をもって整えられていること、やがて最後には私たちもそのすべてを見てとるはずであることを、堅く信じていよう。主が常にすべての事がらを良い方向に働かせておられることを疑わないようにしよう。主は与えるときも良いお方であり、取り去るときも同じくらい良いお方である。

 (c) 最後に、私たちには悩みがあるだろうか? 私たちは決して忘れないようにしよう。その最良の治療法と、最も苦痛を和らげる治療薬の1つは、他の人々に努めて善を施すこと、また用いられる者となることである、と。私たちは、自分の身を捧げて、この罪の重みにのしかかられた世界の悲しみを少なくし、喜びを大きくするようにしよう。私たちの施すべき善は、自宅の玄関から何メートルもしないところに必ずやあるものである。あらゆるキリスト者は努めてそれを行なうようにし、他の人々の肉体から、精神から、苦痛を取り除くようにするがいい。

「慰めを与え 祝福を垂れ
  悩める人の 慰藉を探し
 寂しき人とみなし子を助くち
  そは下界における 天使のわざなり」

 利己的に、自分の悩みだけしか考えず、怠惰にも自分の悲しみに没頭することこそ、多くの人々が一生の間とりつかれている陰鬱なみじめさの一秘訣である。もし私たちがイエス・キリストの血に信頼しているのなら、キリストの模範を覚えておこう。主は常に「巡り歩いて良いわざをなし」ておられた(使10:38)。主が来られたのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、多くの人々のための、贖いの代価として、ご自分のいのちを与えるためであった。私たちは努めて主のようになろう。良きサマリヤ人の歩みにならい、助けが本当に必要とされているときにはいつでも助けを与えよう。時宜にかなって語られた、ほんの一言の親切な言葉さえ、しばしば大きな祝福となる。かの旧約聖書の約束は、まだ擦り切れてはいない。「幸いなことよ。病む者貧しい者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される」(詩41:1、<祈祷書版>)。

雲一つなく[了]

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*1 この論考の内容は、1885年10月16日に、リヴァプールのディングルで、ターナー・メモリアル霊園チャペルの開設にあたって語られたものである。[本文に戻る]

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