Many                目次 | BACK | NEXT

13. たくさんの人


「たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます」----マタ8:11

 このページに冠した聖書の言葉は、私たちの主イエス・キリストによって語られたものである。これは預言として取ることも、約束として取ることもできよう。どちらの見方からしても、それら非常に興味深く、多くの思索の種を含んでいる。

 この言葉を預言として取り、それが確実に成就することを思い起こしてみるがいい。聖書には、まるで見込みがなく、到底起こりそうもない事がらに関する数多くの予告が含まれているが、それでもそれらは真実であると証明されてきた。アラビア民族の父祖イシュマエルついては、彼が、「野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう」、と云われていなかっただろうか(創16:12)? きょうのこの日の私たちは、スーダンの諸部族を眺め、砂漠の地の遊牧民たちの生き方を観察するとき、その言葉が成就しているのを見ているのである。----エジプトについては、それが最終的には「どの王国にも劣」るようになり、その住民たちが、自分で他を支配することも、他から支配されることもない民となると云われていなかっただろうか(エゼ29:15)? きょうのこの日の私たちは、ナイルの谷間の全体にわたって、その言葉が成就しているのを見ており、ヨーロッパのいかなる政治家もそのことを痛いほどに知っているのである。私たちの目の前にある、この預言についても全く同じようになるであろう。「たくさんの人が……天の御国で……食卓に着きます」。

 この言葉を約束と取ってみるがいい。それが語られたのは、使徒たち、および現代に至るあらゆるキリスト教の教役者や教師たちを励ますためであった。私たちはしばしば、説教も、教えも、訪問も、魂をキリストのもとに連れて行こうとする苦心も、何の役にも立たず、自分の労苦はみな無駄骨だ、という思いにかられることがある。しかしここには、「偽ることのない」お方、決して口にしたことを守れないことのないお方の約束があるのである。この方は、恵み深いおことばによって私たちを元気づけてくださる。私たちの気がくじけないように、また私たちが絶望に屈さないようにしてくださる。私たちがいかに考えようと、また私たちの目にする成果がいかに僅かしかなくとも、私たちの前には決して破られることのない聖書がある。「たくさんの人が……天の御国で……食卓に着きます」。

 I. 私たちがこの言葉の中で最初に見るのは、救われることになる人々の数である。私たちの主イエス・キリストは、彼らは「たくさんの人」であると宣言しておられる。

 「たくさんの人」というこの言葉の何と奇妙に響くことか! 新しく生まれも、キリストの血で洗われも、聖霊によって聖なるものとされもせずに救われるような人がいるだろうか? 罪を悔い改めも、主イエスを信じて赦されも、心において聖くされもしないまま、救われるような人が(幼児を除き)いるだろうか? 否、否、ひとりもいない。もし人々が、悔い改めや、信仰や、聖さなしに救われることができるとしたら、私たちは聖書を投げ捨てて、キリスト教を全く打ち捨てた方がよいであろう。

 しかし、世界には、この種の人々が数多く見受けられるだろうか? 悲しいかな! ごく少数しか見られない。私たちが見知っている信仰者たちは、「小さな群れ」である。「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(マタ7:14)。都会にはほとんど見あたらず、田舎の教区にもほとんどいない! 老人の間にもほとんどおらず、若者の間にもほとんどいない! 学のある人々の間にもほとんどおらず、無学な者の間にもほとんどいない! 王宮にもほとんどおらず、あばら屋にもほとんどいない! 真のキリスト者たちにとって、常々悲しく思われるのは、彼らと出会う人々の中に、祈ったり、賛美したり、聖書を読んだり、霊的な事がらについて話したりできる人が、あまりにも少ないということである。彼らはしばしば孤立しているように感じる。まことに多いのは、元日から大晦日に至るまで、いかなる礼拝所にも一度も行くことのない人々である。まことに少ないのは、いずれかの教会の陪餐者である。----それは、聖卓の前に決して集おうとしない人々とくらべると、ほんの一握りしかいない。まことに少ないのは、地上におけるキリストの御国の進展のために何かを行なっているような人々、身の回りにいる人々が失われているか救われているかを気にかけるような人々である。こうしたことを否定できる人がだれかいるだろうか? 不可能である! だが、ここで私たちの主イエス・キリストは云っておられるのである。「たくさんの人が……天の御国で……食卓に着きます」、と。

 さて、なぜ私たちの主はそう云われたのだろうか? 主は決して過ちを犯すことがなく、主が口になさるすべてのことは真実である。これから、この問いかけについて、何がしかの光を投じさせてほしい。

 (a) 主にあって死んだ人々が、最初の聖徒アベルに始まり、かのラッパが鳴って復活が起こるときに生きている最後の聖徒に至るまで、すべてともに集められるとき、そこには「たくさんの人」がいるはずである。彼らは「だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」となるはずである(黙7:9)。

 (b) 善悪もわきまえず、物心もつかないうちに死んだすべての幼児が、その小さな墓から呼び出され、集められるとき、そこには「たくさんの人」がいるはずである。おそらく、生後一年とは生きられなかった子どもたちが、どれほど途方もない割合になるか気づいている人はほとんどいない! 彼らは、「だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」となるはずである。

 (c) あらゆる名前、国民、民族、国語の信仰者たち、----エノクや、ノアや、アブラハムや、イサクや、ヤコブや、モーセや、ダビデや、預言者たちといった旧約聖書の聖徒たち、----使徒たちのような新約聖書の聖徒たち、----原始教会のキリスト者たちの間の聖徒たちや、宗教改革者たち、----こうしたすべての人々が、一堂に集められるとき、そこには「たくさんの人」がいるはずである。彼らは、「だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」となるであろう。

 (d) 今は地の面に散らばっている、教会からも世からも知られていない、真のキリスト者たちがともに集められるとき、そこには「たくさんの人」がいるはずである。少なからぬ人々が、いかなる会衆にも属しておらず、いかなる陪餐者名簿でも数えられていないが、《小羊》のいのちの書にはその名が記載されているのである。その中には、人に知られることなく、訪ねる人もいない、大きな、見過ごしにされている教区の中で生き、そして死んでいく人々がある。その中には、国内や海外において、宣教師の語る福音を聞くことによって真理をつかんだが、その説教者は彼らのことを決して知らず、彼らも決して正式には回心者名簿に登録されることがないという人々がある。その中には、ひとりきりのまま、その同輩からも悟られずに、連隊に属し、船に乗り組んでいる兵士や海兵がある。私の信ずるところ、こうした信仰の生活を送り、キリストを愛し、主からは知られていながら、人々によっては知られていない人々はおびただしい数に上るはずである。こうした人々もやはり、この「だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」の大きな部分をなすであろう。

 あからさまな真実を云うと、神の家族は、最終的には、私たちのほとんどが考えているよりも、はるかに大人数であることが見いだされるであろう。私たちは種々の物事を眺め、自分の目で見てとっているが、世界では、----ヨーロッパで、アジアで、アフリカで、アメリカでは、----いかに多くのことが、決して私たちの目にふれない所で起こりつつあるかを忘れているのである。私たちの回りにいる大多数の人々の内的生活は、私たちには全く思い及びもつかない、隠れた事がらである。私たちは、過ぎ去った時代のことを考えない。今では「ちりや灰」となってしまったが、それぞれが順々にキリストにあって眠りにつき、アブラハムのふところに運ばれていった、無数の人々のことを考えもしない。疑いもなく、「滅びに至る門は大きく、その道は広い……。そして、そこからはいって行く者が多い」、という言葉は完璧に真実であろう(マタ7:13)。私たちの回りのいかにすさまじく大多数の人々が、一見すると罪の中で、全く神に出会う備えもないままで死んでいくかを考えるのは、ぞっとさせられることである。しかし、これらすべてにもかかわらず、私たちは神の子どもたちの数を過小評価してはならない。たとえ人間的な見積もりによって判断すれば彼らが少数派であると思われても、彼らはそれでもやはり最後には、栄光の御国において非常にたくさんの人々、膨大な人数の集まり、「だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」であることがわかるであろう。

 この論考の読者の中に、断固として信仰を告白する者の人数が少ないからといって、キリスト教信仰を笑い飛ばそうとしがちな人がだれかいるだろうか? あなたは、個人的に聖書を読み、日曜日を聖く保つことを良心的に守り、神と身近に歩もうと努める人々を、心ひそかに軽蔑する思いにかられているだろうか? あなたは自分が信仰告白したなら、自分に味方する人々は少なく、自分に反対する人々はあまりにも多く、珍しがられて、孤立するだろうと考えて、信仰の告白を恐れているだろうか? 悲しいかな! あなたのような人々は常にたくさんいた! ノアが箱舟を造っていたとき、彼に味方する者はほとんどなく、多くの者が彼を嘲った。だが、最後にはノアの方が正しかったことがわかったのである。----ユダヤ人たちがバビロンから帰還した後でエルサレムの城壁を再建していたとき、サヌバラテとトビヤは彼らをあざ笑い、「この哀れなユダヤ人たちは、いったい何をしているのか」、と云った。----主イエス・キリストが世を離れたときには、ほんの百二十人ほどの弟子がエルサレムの屋上の間で集まっているだけだったが、不信仰なパリサイ人や、律法学者や、祭司たちの友人たちは何万人もいた。しかし弟子たちの方が正しく、彼らの敵の方が間違っていた。----流血女王メアリーが王座に座っていたとき、またラティマーやリドリが火刑柱で焼き殺されていたとき、福音の友人は非常に少なく思われ、彼らの敵は非常に大勢だった。だが、改革者たちは正しく、彼らの敵は間違っていた。----あなたのしようとしていることに気をつけるがいい! 生きたキリスト教を、その告白者の数の見かけ上の少なさで判断しないように用心するがいい。今のあなたは大群衆を身近に引き寄せ、あなたの方が笑っているかもしれない。しかし、やがて来ようとしている日には、あなたは驚愕のあまりに目を見開き、あなたが少人数であると蔑んでいた当の人々が、「たくさんの人」であり、膨大な集まりであり、「だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」であることに、ことによるともう手遅れになってから、気づくであろう。

 この論考の読者の中に、自分はキリストを愛してキリストに仕えようと努めているが、自分がほとんどひとりきりであることを見いだして打ちひしがれ、落胆しそうになっている人がだれかいるだろうか? あなたは、ともに祈り合い、賛美し合い、聖書を読み合い、キリストについて語り合い、恐れなしに心を打ち明けあう人と出会うことがあまりもまれであるために、時として心をくじかれ、手が弱まり、膝から力が抜けることがあるだろうか? あなたは心ひそかに仲間がいないことを嘆くことがあるだろうか? よろしい、あなたは多くの人々がこれまでにも飲んできた杯を飲んでいるにすぎない。アブラハムや、イサクや、ヤコブや、ヨセフや、モーセや、サムエルや、ダビデや、預言者たちや、パウロや、ヨハネや、使徒たちは、みな非常に多くの場合、ひとりきりで立たなくてはならなかった。あなたは、自分が彼らよりもいい思いができると期待しているのだろうか? 勇気を奮い起こし、信仰を持つがいい。世にはあなたに見えるよりも多くの恵みがあり、あなたが気づいているよりも多くのキリスト者たちが天国に向けて旅をしている。エリヤは自分が孤立していると考えていたが、そのときにも、「バアルにひざをかがめなかった七千人」*がいたのである。勇気を奮い起こし、将来を見据えるがいい。あなたの良い時はまだ来てはいない。やがてあなたは、自分の傍らに、多くの人々からなる集団を見いだすであろう。あなたは天の御国で、ほんの少しの人ではなく、たくさんの人を見いだすであろう。----あなたを歓迎するたくさんの人、----ともに喜び、ともに賛美するたくさんの人、----ほむべき永遠をあなたとともに過ごすたくさんの人を見いだすであろう。今、ほんの一時でも、ひとりの聖徒と出会うことが何と喜ばしいことか! 夏の日の雪のように、曇天の後の日差しのように、それは何と私たちを元気づけ、心をさわやかにすることか! では、私たちが聖徒たちのおびただしい集団と出会い、その調和を乱す未回心の罪人がひとりもおらず、あらゆる人が信仰者であり、ひとりも不信者がいない集団と出会い、すべてが麦であり、何の殻もない集団と出会い、そうした「だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」と出会うときは、どうであろうか! 確かに、私たちが天国で出会う「たくさんの人」は、私たちがいま地上で見ている「少しの人」を償って大いに余りあるであろう。

 II. 私たちの主イエス・キリストのこのことばにおいて、私たちが第二に見るのは、最終的に救われることになる人々の居所と立場である。彼らは、「東からも西からも来る」、と書かれている。

 この表現が、ことわざ的なものであることはほとんど間違いない。これを文字通りに取って、あたかも救われる人々は北や南からはやって来ず、ただ日の出、日の入りの方角からしかやって来ない、などととらえてはならない。これと同じ表現は詩篇103篇でも用いられている。「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される」。この表現の意味は、単にこういうことにすぎない。すなわち、救われた人々は異なる場所からやって来る。----遠く離れた場所から、----また、まずありえないだろうと考えるような所からやって来る。

 (a) 彼らはみなが1つの《教会》に属する者たちではないであろう。そこには監督派や、長老派や、独立派や、バプテスト派や、メソジスト派や、プリマス・ブレザレン派や、今の私には逐一その名を挙げる紙数も暇もない他の多くの種類のキリスト者たちがいるであろう。今の彼らがいかに一致できず、いかに云い争っているとしても、最後には同意せざるをえないであろう。彼らは、自ら驚き呆れることに、自分たちが1つの思いである点は非常に膨大な数に上り、異なっている点は非常に僅かであることに気づくであろう。彼らは心を1つにしてこう云えるであろう。「ハレルヤ! 私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ってくださったお方はほむべきかな!」 そして彼らはみな、異口同音に答えることができるであろう。「アーメン、アーメン!」 天国における頌歌は、善良なるジョージ・ホイットフィールドが述べたように、永遠にわたって、「何ということを神はなされたのか!」、であろう。地上で不一致があったもろもろの点は見えなくなり、春先の雪のように消え失せている。聖霊の同じ教えが、天国にいるあらゆる人の目に、はっきり明瞭に浮き上がって見える。とうとう、1つの真の「聖なる公同の教会」が、しみや、傷や、そのようなものの何1つない姿で現われるであろう。そこには何の口論も、論争も、意見の相違もなく、すべてが麦で、何の毒麦もなく、すべてが健全な者で、不健全な者はひとりもいない。

 (b) 彼らは、地球上のあらゆる地域にある様々な国からやって来るであろう。グリーンランドの氷の山々から、熱帯地方の焼きつけるような地帯から、インドやオーストラリアから、アメリカから中国から、ニュージーランドから太平洋の島々から、アフリカからメキシコからやって来るであろう。ある者たちは、ペルシャにおけるヘンリ・マーティンのように、その死に敬意を表する者も全くないまま、うら寂しい墓に骨を横たえた者たちであろう。ある者たちは、海員たちの流儀で、海に葬られた者たちであろう。ある者たちは、わが国の宗教改革者たちのように、殉教の死を遂げて、焼いて灰にされた者たちであろう。ある者たちは、宣教地で悪性の気候か、異教徒の暴力の犠牲になった者たちであろう。そして、ある者たちはモーセのように、いかなる人間の目にもふれない場所で死んだ者たちであろう。しかし、彼らはみなともに集まり、天国で再会するはずである。私たちがどこで葬られるか、またいかにして、いかなる種類の墓に葬られるかなどは、ほとんど問題ではない。中国は、英国と全く同じくらい天国に近い所にあり、海は地上と同じ瞬間にその死者たちを出すはずである。私たちの棺や、私たちの葬儀や、埋葬式や、会葬者たちの長い行列は、みな非常に二義的な重要度しか有していない。私たちが確実にしておくべき唯一の点は、自分がどこからやって来ることになろうと、「天の御国で食卓に着く」人々の中にいる、ということである。

 (c) 彼らは、全く異なる身分、階級、職業の出であるはずである。天国は、主人たちのための場所であるのと同じくしもべたちのための場所でもあり、女主人たちのための場所であるのと同じく女中たちのための場所でもあり、富者たちのための場所であるのと同じく貧者たちのための場所でもあり、学のある者たちのための場所であるのと同じく学のない者たちのための場所でもあり、地主たちのための場所であるのと同じく小作人たちのための場所でもあり、支配者たちのための場所であるのと同じく臣下たちのための場所でもあり、女王のための場所であるのと同じく乞食のための場所でもある。天国に行くための王道はなく、そこに行き着いたなら、そこには何の階級の区別もない。ついに完璧な平等、完璧な博愛、完璧な自由が現出するであろう。地上で私たちが多くの金銭を有していたか、無一文であったかなどは何の問題でもない。唯一の問題は、果たして私たちが真に自分の罪を悔い改めたか、真に主イエスを信じたか、真に回心し、聖なるものとされた民であったかどうか、であろう。修道院や、女子修道院や、隠者の洞穴から来た人々が、他の人々にまさって優遇されることは決してない。神によって召された生活状態において自分の義務を果たしてきた人々、また、陸軍や海軍において、議会や法廷において、銀行や商店の事務所において、店頭や炭坑において、キリストの十字架を負ってきた人々は、天の御国において第一の列の中に見いだされる見込みが非常に高いであろう。風変わりな衣裳を身にまとったり、厳格な顔つきをしたり、隠遁したりしなくとも、天の御国の食卓に着くことはできるのである。

 (d) 彼らは、最も思いも及ばない場所から、また、とても永遠のいのちの種が魂の中で育つはずがないと思えるような立場からやって来るはずである。若きパリサイ人サウロは、ガマリエルの門下生だったが、キリスト者の迫害者から転じて、偉大な《異邦人への使徒》となり、世界をひっくり返した。ダニエルはバビロンに住んでいたが、偶像礼拝と異教主義のただ中で忠実に神に仕えていた。ペテロはかつてガリラヤ湖の一漁師だった。マタイは、日がな税金を集めて暮らす取税人だった。ルターやラティマーは、献身的なローマカトリック教徒として人生を始めたが、献身的なプロテスタントとして人生を終えた。『天路歴程』の著者ジョン・バニヤンはかつて、とある村の、無頓着で、無思慮な、悪態をついては、鈴を鳴らしている若者だった。ジョージ・ホイットフィールドは、グロスターの宿屋で給仕として働き、鍋を磨いたり、麦酒を運んだりする日々を送っていた。数多くの有名な賛美歌や書簡の著者であるジョン・ニュートンは、かつてはアフリカ沿岸の奴隷船の船長であり、人間の血肉を売り買いすることに何の害悪もないと考えていた。こうしたすべての人々が、まさに「東からも西からも来」た人々であって、その生涯の一時期には、世界で最もキリストのもとに来たり、「天の御国で食卓に着」いたりしそうもない者らと思われていた。しかし、彼らはまぎれもなくやって来たのであり、私たちの主イエス・キリストのこの言葉が厳密に真実であるという永遠の証明となるのである。人々は、「東からも西からも来」るが、それでも最後には永遠の幸福と栄光の御国で見いだされるのである。

 私たちはいかなる人の救いも、その人が生きている限りは、あきらめないようにしよう。父たちは、放蕩息子たちについて決してあきらめるべきではない。母たちは、わがままで強情な娘たちについて決してあきらめるべきではない。夫たちは妻たちについて、妻たちは夫たちについて決してあきらめるべきではない。神に不可能なことは何1つない。恵みの腕は非常に長く、非常に遠くにいるように思える者たちにも届くことができる。聖霊はいかなる心をも変えることができる。キリストの血はすべての罪をきよめることができる。私たちは、人々の救いが現在はいかにありそうもなく見えても、彼らのために祈り続け、希望を持ち続けよう。私たちは天国で、決してそこに見いだすまいと思っていた、たくさんの人々に出会うはずである。後の者はまだ先となるかもしれず、先の者はまだ後になることがありえる。《ヨークシアの使徒》として有名なグリムショーが死んだとき、彼には、未回心のひとり息子が遺された。それは無頓着で、無思慮で、キリスト教信仰に鼻もひっかけない息子であった。だが、やがて彼の心が変えられる日が訪れ、彼もその父の歩みを歩むようになった。彼がその臨終の床についたとき、その最後の言葉はこうであった。「天国で、親父が私を見たら何と云うだろうか!」

 私たちは、真のキリスト者である友人たちと別れるときも、また、ことによると、それが永久の別れであったとしても、「望みのない人々のように」悲しみに沈まないようにしよう。この世における別離や暇乞いは、おそらく世の中で最も悲痛な事がらの1つである。家族の輪が解消し、暖かな古巣から櫛の歯を引くように居住者がいなくなり、青年たちがオーストラリアや、ニュージーランドや、フィージー諸島に、十年か十二年は戻って来る見込みもなしに出帆するとき、----こうした事がらが起こるとき、それは血肉にとっては甚だしい試練である。私はリヴァプールの桟橋で何度となく、巨大な汽船が今まさにアメリカへの航海を始めようとする光景を目撃してきた。それは、いかに非情な心をした第三者の目にも涙を浮かべさせるような場面である。この世における別離は耐えがたい苦痛である。だが、キリストを信ずる真の信仰と、キリストによる永遠のいのちへの復活は、いかにつらい別離の苦痛をも和らげる。それによって信仰者は、目に見えるものを越えて目に見えないものを見越すことができ、《救い主》の来臨と、私たちが彼のみもとに集められることを思い描くことができる。しかり、その巨大汽船が動き出し、私たちが手を振って最後の別れを告げるときに、こう思い出すのは喜ばしいことである。「もうほんの少しすれば、私たちは彼らとみな再会し、二度と別れることはないのだ」、と。神の民は、東からも西からも来るはずであり、私たちはみな最後には、「天の御国で」出会い、もはやそこから出て行くことはないはずである。

 III. 私たちの主イエス・キリストのこの言葉の中に、第三に私たちが見るのは、最終的に救われる人々の未来の相続分と報いである。こう書かれている。「彼らは、天の御国で食卓に着きます」*。

 「食卓に着く」というこの表現は、私が思うに、非常に快く、慰めに満ちたものである。これを厳密に調べ、吟味し、ここに何が含まれているか見てみよう。最後の審判の日、信仰者たちはキリストの右に大胆に立ち、こう云うはずである。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ロマ8:33、34)。しかし、その審きの宣告が終わって、永遠の御国が始まるとき、彼らは食卓に着くはずである。

 (a) 食卓に着くことには、確信とくつろぎという意味がこめられている。もし私たちが峻厳な裁判官を前にしているとしたら、あるいは、恐るべき威厳を身にまとった王を前にしているとしたら、私たちは食卓に着くことなどできまい。しかし、天の御国には、何1つ信仰者たちを恐れさせるものはないであろう。彼らは、自分の過去の生活のもろもろの罪によって震えることも、すくみあがることもない。それらがいかに多く、いかに大きく、いかにどす黒くとも、それらはみな、キリストの尊い血によって洗い流されており、しみ1つ残っていない。完璧に義と認められ、完璧な赦罪を受け、完璧に赦され、完璧に「その愛する方によって受け入れられ」た彼らは、「罪を知らない方でありながら、私たちの代わりに罪とされた」*お方のゆえをもって、神の前で義と認められているであろう(IIコリ5:21)。彼らの人生で犯されてきたもろもろの罪は、「緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」。彼らの罪は、「二度と思い出されないように」なり、「見つけようとしても、それはなく」、「雲のように、ぬぐい去られ」、「神のうしろに投げやられ」、「海の深みに投げ入れ」られるであろう。信仰者たちには、死後、何の煉獄も必要ないであろう。そのように考えるの無知と不信仰である。ひとたびキリストに信仰によって結び合わされた彼らは、父なる神の前で完全な者となっており、いかに完璧な御使いたちも、彼らのうちに何のしみも見てとることはない。確かに彼らは、食卓に着き、くつろいでしかるべきである! 彼らが過去の人生のすべての罪を思い出し、その追憶を前にしてへりくだることはあるかもしれない。しかし、そうした罪が彼らを恐れさせることはないであろう。

 日々の失敗や、弱さや、不完全さや、内的な葛藤を意識して彼らの平安が乱されることはもはやないであろう。ついに彼らの聖潔は完成されるであろう。内なる闘争は完全に終結するはずである。彼らの古い、まとわりつく罪と弱さは、彼らから離れて下に落ち、溶け去るであろう。とうとう彼らは、倦み疲れることなしに神に仕え、気を散らされることなしに神のもとにはべることができるようになり、もはや絶えずこう叫ばなくてもよくなる。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょう」(ロマ7:24)。まだ肉体のうちにある者のうち、だれがこうしたすべての祝福をわきまえることができようか? この現世において私たちは、私たちの義認の完全さを悟っておらず、自分の不完全な聖潔のゆえに、「重荷を負って、うめいて」いる。悲しいことに私たちは、聖さを求めていかに 最上の努力を払おうとも、日々失敗を自覚せざるをえない。しかし、とうとう「古い人」が完全に死に、肉がもはや御霊に逆らわなくなるとき、----内住の罪に終止符が打たれ、世と悪魔がもはや私たちを誘惑できなくなるとき、----そのとき私たちはついに、神を愛する者のために、神の備えてくださったものが、いかなるものであるかを理解するはずである。私たちは、「天の御国で食卓に着く」はずである。

 (b) しかし、それがすべてではない。食卓に着くことには、休息すること、働きや、労苦や、争闘を完全にやめることが暗示されている。休むべき安息が、神の民のためにまだ残っているのである。この人生において私たちは決してじっとしていられない。神のことばの告げるところ、キリスト者は「目を覚まし」、「走り」、「働き」、「労し」、「戦い」、「うめき」、「十字架を負い」、「武具」を身に着け、敵地で警戒に当たる歩哨のように立っていなくてはならない。天の御国に入るまで、私たちは「食卓に着く」ことが期待できない。疑いもなく、キリストのために働くことは喜ばしく、この人生においてすら、豊かな報いをもたらす。----幸いな良心という報い、----ただの政治家や商人や快楽の徒といった、朽ちる冠しか求めていない人々には決して獲得できない報いがある。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます」。しかし、そのキリスト者の働きでさえ、血肉にとっては疲弊を招くものであり、私たちが死すべき肉体のうちにある限り、働きと倦怠は相伴うであろう。自分では抑制できない、他者のうちの罪を見させられることは、私たちの魂にとって日ごとの試練である。疑いもなく、信仰の戦いは、「勇敢な戦い」ではあるが、傷や、痛みや、疲労を伴わない戦いなど決してありえない。キリスト者が身に着けるように命ぜられている武具そのものが重い。かぶとと胸当て、大盾と剣といった、悪魔に打ち勝つために欠かせない装具は、絶えざる奮励なしには決して身に帯びてはいられないものである。確かに私たちの敵どもがみな切り倒され、私たちが自分の武具を安全に脱ぎ捨てて、「天の御国で食卓に着く」ことのできるときは、ほむべき時であろう。

 それまでの間、私たちは決して時が縮まっていることを忘れないようにしよう。悪魔ですらそのことをわきまえており、「自分の時の短いことを知り、激しく怒って」いる(黙12:12)。私たちは、全く十分な確信をもって、働き続け、戦い続け、それが永遠に続くのではないという、ほむべき事実を思い起こすようにしよう。ワーテルローの戦いの激戦の最中で、勝敗の帰趨が誰の目にも定かではないように思われたときに、ウェリントン公は穏やかにその目を左方に注ぎ続けて、同盟軍たるプロシャ勢がまもなく現われ、自分の勝利を確定するはずだという自信と期待をいだいていた。こうした種類の希望によって私たちも、日の盛りの中で労苦するときも、自分の魂を励まそう。私たちの《王》はじきに来られる。そして、彼が来られるとき、私たちは「食卓に着き」、労苦と戦いはもはやなくなるのである。

 IV. 私たちの主イエス・キリストのことばに含まれている第四の、そして最後のことは、最終的に救われる人々が永遠に同伴することになる人々である。

 さて、人々との交際は幸福の大きな秘訣の1つである。人は生来、社会的な存在である。常にひとりきりでいることを好むような人というのは、実にまれな例外である。莫大な富と奢侈品に満ちた王宮といえども、そこにたったひとりで住むとしたら、結局はほとんど牢獄と変わらないであろう。気のあった人々ともに住むあばら屋の方が、話しかける相手も、耳を傾けるべき相手も、意見を交換し会う相手も、語り合うべき何者も、自分の貧しい心以外にはいないような王城よりは、いやまさって幸福な住まいである。私たちはみな、ともに住み、愛し合う相手を欲するものであり、ロビンソン・クルーソーのように孤島に住むことには、真の人間であるなら、決して満足を覚えない。地のちりから人間を形作り、人間を人間たらしめた、私たちのほむべき主は、そのことを完全によくご存知であった。それゆえ主は、ご自分の信仰を有する民が未来に受ける相続分について述べる際に、彼らが天の御国でいかなる種類の人々とともにいることになるかをわざわざ私たちに語っておられるのである。主のことばによると、救われた人は、来たるべき世において、「アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます」。

 さて、この表現は何を意味しているのだろうか? それを眺めて、詳しく検討し、ここに何が含まれているか見てとってみよう。

 救われた人が永遠の世界でともにいることになる人々は、地上で生を送ったことのある、最初から最後に至るまでの、あらゆる信仰者である。古の兵士たち、古の巡礼たち、古のキリストのしもべたち、古のキリストの家族のひとりひとり、----つまり、信仰によって生き、キリストに仕え、神とともに歩んだすべての人々、こうした人々こそ、救われた人が終わりなき存在をともに過ごすことになる人々をなすはずである。

 救われた人々は、旧約聖書で読んだことのある古の偉人たちすべてに出会うはずである。----キリストの到来を待ち望みながら、キリストを見ることなく死んだ族長たち、預言者たち、聖い王たちと出会うはずである。新約聖書の聖徒たち、使徒たち、また、じかにキリストを見たことのある聖い人々と出会うはずである。真理のために死んだ初期の教父たち、また、ローマ皇帝の迫害下で獅子の穴に投げ込まれ、首を切られた人々に出会うはずである。ヨーロッパ大陸で、ちりの中から福音を復興し、くずによってふさがれていたいのちの水の泉から再び生ける水が流れ出るようにした、雄々しい宗教改革者たちに出会うはずである。わが国に栄光あるプロテスタント宗教改革をもたらし、国民に英語の聖書を与え、福音の進展のため朗らかに火刑柱で死んでいった、ほむべき殉教者たちに出会うはずである。前世紀の聖なる人々、ホイットフィールドや、ウェスレーや、ロウメインや、彼らとともに働いた人々、すなわち、苛烈な反対の中でも、英国国教会にキリスト教信仰をよみがえらせた人々と出会うはずである。何にもまして彼らは、キリストにあって眠った自分の友たち、かつて自分が滂沱たる涙を流しつつ、その棺を墓まで送っていった友たちと、もはや別れることないのだという安らかな思いとともに出会うはずである。確かにこのような人々とともにいることになるとの思いは、狭い道を旅する中で、私たちを励ますはずである! 後にはすばらしいものが来ようとしているのである。

 人と寄り集まっていても、そこに完全な共感と趣味の一致がなければ、ほとんど何の幸福もない。地上にいる真のキリスト者にとって何よりも重い試練の1つは、信仰について自分と1つ心になれる人々と出会うことがあまりにも少ない、ということである。いかにしばしば彼は、人々の集まりの中で、自分の舌を抑えて何も云わずにいることをしいられることか! いかに心痛ませられる多くのことを見聞きさせられ、重く落ち込んだ心とともに帰宅することを余儀なくさせられることか! ふたり、または三人の人と自由に語り合い、相手を怒らせたり、自分が誤解されたりする恐れを持たずにすむ機会を時おり持てるならば、それはまれな特権である。しかし、天の御国では、このような事態に終止符が打たれるであろう。救われた人々がそこに見いだすのは、ひとり残らず、自分と同じ御霊に導かれ、同じ経験を経てきた人々であろう。そこには、ひとりとして罪の思いを痛切に感じてこなかった者、それについて嘆きも、告白しも、それと戦いも、それを十字架につけようとこころがけもしてこなかった人々はいないであろう。そこには、ひとりとして、信仰によってキリストのもとに逃れこなかった者、自分の魂の重みを全くキリストに投げかけも、キリストを自分の《贖い主》として喜びもしなかった人々はいないであろう。そこには、ひとりとして神のことばを喜びとしてこなかった者、祈りにより恵みの御座で自分の魂を注ぎ出しも、聖い生き方をしようと苦闘してもこなかった人々はいないであろう。一言で云えば、そこにはひとりとして、神に対する悔い改めや、私たちの主イエス・キリストに対する信仰や、生き方や生活の聖さを知らなかった者はいないであろう。地上においても、天国へ至る狭い道を旅する中で、こうした種類のごく数人の人々と出会うのは喜ばしいことである。それは、路傍の小川のように私たちの心をさわやかにし、厚いとばりの中を一瞥するにも似ている。しかし、私たちが、「だれにも数えきれぬほどの大ぜいの」聖徒たち、あらゆる罪から完全に解放された聖徒たち、調和を乱すような未回心の者をひとりも含まない集団と出会うときの喜びは、いかばかりだろうか!

 私たちが、自分の信仰を有する友たちと再会するときの喜びは、いかばかりだろうか! ついに完全になり、彼らにまつわりついていた罪、私たち自身にまつわりついていた罪がことごとく過ぎ去り、腐敗をまじえるない恵みのほか何も内側に残っていないのを見いだすときの喜びは、いかばかりだろうか! だが、こうしたすべては、私たちが幕の内側に入るときには実現するのである。その住民は、互いに理解しあえない、混じり合った群衆ではない。彼らはみな、1つの心と、1つの思いをしているであろう。もしも、一部の人々が誤り教えているように、ありとあらゆる性格の者たちが天国に行き着くとしたら、天国そのものが何の天国でもなくなるであろう。そのような天国には何の秩序も何の幸福もありえない。そこには、「光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格」がなくてはならない(コロ1:12)。

 (1) さて、読者の方にここで云いたい。あなたがこの論考を置く前に、「天の御国で食卓に着く」という、このたくさんの人の中に、果たして自分が見いだされることになるかどうか自問してみるがいい。この問いには答えを出さなくてはならない。私はあなたに命ずる。この問いに満足なしかたで答えられるようになるまで、決して魂を安んじてはならない。時は急速に過ぎ去りつつあり、世界は年老いつつある。時のしるしによって私たちはみな、考えさせられてしかるべきである。「諸国の民が……不安に陥って悩」むことは、年を増すごとに多くなっているように思える。政治家たちの知恵は、いかなる方面でも戦争や混乱を防ぐことが全くできないように思える。芸術と科学と文明の進歩は、非常な道徳的悪の存在を防ぐ力に全く欠けているように見える。人間性に巣くう病を癒すことのできる唯一のもの、それは、かの《偉大な医者》、《平和の君》の帰還、すなわち、イエス・キリストご自身の再臨だけであろう。そしてキリストが来られるときに、あなたは「天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着」くはずの「たくさんの人」の中に見いだされるだろうか?

 なぜあなたが、そのたくさんの人の中に見いだされてならないことがあるだろうか? 私の知る限り、そうならない理由はただ、あなた自身の意欲の欠けか、あなた自身の怠惰や怠け心か、あなた自身の断固として罪と世とを愛そうとする思いのほかには何もない。開かれた扉があなたの前にはある。なぜそれに入ろうとしないのか? 私たちの主イエス・キリストには、あなたを救うことができる力も、意欲もある。なぜあなたは、魂をキリストにお任せし、キリストが天から差し出しておられる御手を握ろうとしないのか? もう一度云う。私の知る限り、あなたが最後の日に、この「たくさんの人」の中に見いだされてならない理由は何1つない。

 あなたは、まだ時間は十分ある、急ぐことはない、すぐさま決断する必要はない、と思い込んでいる。だが、自分の云っていることに注意した方がいい。七十年まで齢を重ね、自分の寝床で大往生を遂げることは、だれにでも許されることではない。この死すべき肉体から立ち退けとの通達は、時として非常に突然に訪れ、人々は一瞬のうちに目に見えない世界へ行くよう召還されることもある。あなたは、まだ時間があるうちに時間を用い、「おりを見て、また」という、あの悲惨な岩に座礁しないようにした方がよい。

 あなたは、もし自分が魂のことを気遣い出したり、天の御国に入ろうと心がけ始めたりすれば、人々から笑われたり、馬鹿にされたりするであろうと恐れているのだろうか? そうした臆病な感情は振り捨てて、キリスト教信仰のことを決して恥じないように決意するがいい。悲しいかな! 人々からのもの笑いによって天国から遠ざけられ、人々からのもの笑いによって地獄に落とされる人はあまりにも多い。だが、せいぜいあなたのからだを傷つけることしかできない人間の非難を恐れてはならない。魂もからだも、ともに地獄で滅ぼすことのできる方を恐れるがいい。キリストを大胆につかむがいい。そうすればキリストは、あなたがいま恐れているすべてのものに対する勝利を与えてくださるであろう。かつては逃げ出して、自分の《主人》を否定した使徒ペテロをして、ユダヤ人議会の前で岩のように堅く立たせ、ついには福音のために死ぬこともできるようになさったお方は、神の右の座で、いつも生きておられ、ご自分によって神に近づくすべての者たちを完全に救って、圧倒的な勝利者にすることがおできになる。

 あなたは、自分の魂が救われること、天の御国で食卓に着くことを求めても、自分が幸せにならないだろうなどと考えているのだろうか? そのような恥ずべき思いは、悪魔から出た偽りのほのめかしとして振り捨てるがいい。真のキリスト者ほど真に幸福な者は決していない。あざ笑う世間がいかに好き勝手なことを云おうと、キリスト者には彼らが知らない食物があり、世には理解できない内なる慰めがある。真のキリスト教信仰には決して陰鬱なものはなく、陰鬱で不機嫌でふさぎこんだところには決して真のキリスト教信仰はない。十字架や争闘にもかかわらず、真のキリスト者には、世の中にいかなるものともくらべものにならないほどの内なる平安がある。というのも、それは困難も、離別も、病も、死そのものも取り去ることのできない平安だからである。この《主人》のことばは厳密に真実である。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(ヨハ14:27)。人がもし真に幸福になりたければ、努力して、「天の御国で食卓に着く」人々の中に入るようにするべきである。

 (2) 最後に、しかしこれも重要なこととして、すべてをしめくくるにあたって一言、勧告と励ましの言葉を、自分が天の御国で食卓に着くたくさんの人の中にいるという望みをいだく理由がある人々に対して差し出させてほしい。

 あなたは信ずることに多くの喜びと平安を感じているだろうか? では、この世で、できる限りの善を努めて施すようにするがいい。世には常になすべき多くのことがありながら、それを行なう人はほとんどいない。この世には常に、無知と罪の中で生き、かつ死んでいく多くの人々がいるが、彼らの近くに行く者、また彼らの魂を救おうと努める者はほとんどいない。私たちの生きている時代は、《高教会主義》や、《低教会主義》や、《広教会主義》や、《儀式尊重主義》や、《合理主義》や、《懐疑主義》については大いに喧伝されているが、時代の悪をただすための真にキリスト者的な働きはほとんどなされていない! もしも私たちのすべての教会のすべての陪餐者たちが、自分の身を捧げて、聖書を手に携え、キリストのような愛に満ちた同情心を心にいだいて、この世で神なく生きている人々の間に出て行くならば、彼らはすぐに今よりもはるかに幸福になり、社会の面はすぐに一変するであろう。無為こそ、かくも多くの人々が苦情をかこつ憂鬱さの大きな原因の1つである。あまりにも多くの人々、あまりにも多くのキリスト者たちが、自分ひとりで天国に行くことで全く満足し、他の人々をも神の国に連れて行くことには全然関心がないように見受けられる。

 もしあなたが正しいしかたで善を施すように努めるなら、あなたは決して善がなされることを疑う必要はない。多くの日曜学校教師は、日曜日の夜、重い心をいだいて帰宅し、自分の労苦はみな無駄骨だと思い込む。多くの訪問者たちは、自分の巡回路から帰って、自分が何の効果も生みだしていないと考える。多くの教役者たちは、落胆と失意とともに講壇を降り、自分の説教が全く何にもならなかったと想像する。しかし、これらはみな恥ずべき不信仰である。心と良心においては、私たちの目に見えるよりも、はるかに多くのことが、しばしば起こりつつあるのである。「種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る」(詩126:6)。回心し、救われる人々は、私たちが考えているよりも多い。私たちは、自分が死ぬときには決して目にするとは思わなかったような「たくさんの人が、天の御国で食卓に着く」はずである。私たちは、朗読し続け、祈り続け、訪問し続け、語り続け、自分の手の届く限りのあらゆる人にキリストのことを告げ続けよう。もし私たちが、ただ、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励nみ」さえするなら、私たちは、自分でも驚くことに、自分の労苦が、主にあって無駄ではなかったことを見いだすであろう(Iコリ15:58)。

 しかし、もし私たちが善を施そうとするなら、私たちは常に忍耐を養わなくてはならない。私たちは天国を2つ持つことはできない。地上の天国と、死後の天国を持つことはできない。戦闘はまだ終わってはいない。収穫の時はまだ来ていない。悪魔はまだ縛られていない。私たちの主の約束が成就する時はまだ到来していない。しかし、それはまもなく到来するであろう。私たちの仁慈深き女王が、クリミヤ戦争の末期に、英国近衛騎兵の前にお出ましになり、殊勲を立てた勇敢な兵士たちに、その気高い御手によってヴィクトリア十字勲章を授与なさったとき、その公の栄誉は、そうした兵士たちがくぐり抜けてきたすべてのことを豊かに償った。バラクラーヴァや、インケルマンや、塹壕における辛苦は、みな一時の間忘れられ、比較的小さな事がらと思われた。それでは、私たちの救いの《指揮官》が、ご自分の忠実な兵士たちをご自分の回りに集められ、それぞれの者らにしぼむことのない栄光の冠をお授けになるとき、その喜びはいかばかりであろう! 確かに私たちは忍耐をもってその日を待っているのがよいであろう。その日は近づきつつあり、最後には確実にやって来るであろう。その日を覚えて、私たちは疑いと不信仰を投げ捨て、自分の顔を堅くエルサレムに向けていよう。「夜はふけて、昼が近づきました」(ロマ13:12)。私たちの前にあるほむべき約束は、一言たりとも破られることはない。「たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます」。

たくさんの人[了]

HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT