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12. 私たちの信仰の告白
「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」----ヘブ4:14ヘブル人への手紙を丹念に読んでいくと、まず間違いなく、「ではありませんか」、という言葉が、その第4章の中に四度も見いだされることに注目しないではいられないはずである。第1節では、「恐れる心を持とうではありませんか」、と記されており、----第11節では、「力を尽くして努め……ようではありませんか」、と、----第14節では、「堅く保とうではありませんか」、と、----第16節では、「大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」、と記されている。私たちはこのことに注意すべきである。
さて、なぜ使徒聖パウロはこのように書いているのだろうか? それは、宛先のヘブル人キリスト者たちが、独特の民族であり、独特の立場を占めていたからである。彼らは、異邦人の回心者とは違い、種々の偶像を礼拝するように育てられたわけでも、神からの啓示を全然受けていなかったわけでもなかった。ユダヤ人は千五百年もの間、神の特別ないつくしみを享受してきた民族であった。その長い期間を通して彼らは、モーセの律法を、また膨大な量の霊的光を有していた。それは、地上のいかなる他の国民にも与えられなかったものであった。こうした特権によって彼らは、いかなる変化に対しても非常に神経を尖らせ、頑強な抵抗を示すようになった。彼らには、非常に優しく、また細かな心遣いをもって近づく必要があり、独特のしかたで語りかける必要があった。こうしたすべてのことを、自分自身ユダヤ人として生まれた聖パウロは、よく覚えていた。彼は自分を彼らの水準に置き、こう云っているのである。----「そのようにしようではないか。----どうか怒らないでほしい。私は、自分自身に対しても、あなたがたに対するのと同じように語っているのだ」、と。
しかし、それがすべてではない。もう1つ云わなくてはならないのは、ユダヤ人キリスト者は、非常に独特の試練を受けなくてはならなかった、ということである。おそらく彼らは、その回心後には、異邦人キリスト者にまさる迫害と虐待を忍ばなくてはならなかった。疑いもなく、異邦人がその種々の偶像から回心することも困難ではあった。しかし、それにもはるかにまして困難であったのは、ひとりのユダヤ人が、自分はモーセの儀式律法では満足できない、と云い、自分はナザレのイエスと十字架の血のうちに、よりすぐれた祭司を見いだし、よりすぐれたいけにえを見いだした、と告白することであった。このことをもまた、聖パウロはよく覚えており、自分を彼らの側に置いて、彼らを元気づけ、励まして、こう云っているのである。「恐れる心を持とうではありませんか」、----「力を尽くして努めようではありませんか」、----「堅く保とうではありませんか」、----「大胆に近づこうではありませんか」、----「私もあなたがたと同じなのだ。私たちはみな同じ船に乗っているのだ」、と。
この論考において私は、上に冠された聖句にのみ限定して語ることにする。そして3つの問いかけに答えていこうと思う。
I. 聖パウロが語っている、この信仰の告白とは何か?
II. 聖パウロはなぜ、「堅く保とうではありませんか」、と云っているのか?
III. 聖パウロが私たちに、「堅く保つ」ために与えている大きな励ましは何か?先に進む前に、一言読者に注意しておきたい。これから私たちが考察しようとしている事がらは、世の終わりに至るまでの全時代のキリストの教会に益を与えるために、聖霊の霊感によって書かれたのである。それを忘れないでほしい。それらは、英国の真のキリスト者ひとりひとりが、また、あらゆる階級の人々が、身分の上下や富貧の差にかかわらず、ロンドンであれリヴァプールであれ、地上のどこにいようと用いるためのものである。ヘブル人への手紙は、単に十八世紀前のユダヤ人にしかあてはまらない、古い擦りきれた手紙ではない。それは、あなたや私のためのものなのである。私たちはみな、「私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」、と勧められる必要がある。
I. 最初に考察したいのは、「私たちの信仰の告白」とは何を意味しているか、ということである。
聖パウロがこの表現を用いるとき、その意味についてはほとんど疑問の余地はない。彼が意味しているのは、キリストを信じ、キリストに従うという、公の「告白」である。だれでもキリスト教会の一員になるときに行なった告白である。使徒の時代、ある人がユダヤ教あるいは異教主義を離れて、キリストを《救い主》として受け入れたときには、種々の特定の行為によって自分がキリスト者となったことを宣言した。その人はそれを、公にバプテスマを受けること、すでにバプテスマを受けた人々の集団に加わること、あらゆる種類の偶像礼拝と邪悪さを断ち切ると公に約束すること、また、ナザレのイエスに従う者たちが行なうあらゆる宗教的集会と、彼らの生き方と、彼らの行動のしかたとに常に賛同することによって、明らかに示した。これこそ、聖パウロが、「私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」、という言葉を書いたときに念頭に置いていたことであった。
当時、信仰の告白をするのは非常に深刻なことであり、非常に深刻な結果を伴っていた。それはしばしば、その人に迫害や、財産の喪失や、投獄をもたらし、時には死すらもたらした。その結果、初期の教会においてキリスト者となる告白をしたほとんどすべての人は、完全に真剣で、真に回心した、本当の信仰者たちだけであった。疑いもなくそこに多少の例外はあった。アナニヤとサッピラや、魔術師シモンや、デマスのような人々が弟子たちの中にもぐり込み、加入していた。しかし、それは例外的な場合である。一般的な原則としては、キリスト教の信仰告白をするなどという割の合わないことをするのは、心底からその信仰を告白したいという者に限られていた。そこには大きな代償が伴った。それは人に、途方もなく多くの困難を受ける危険をもたらし、得になるようなことは非常に僅かしかなかった。こうしたすべての結果、使徒の時代には、教会内の真摯で正しい心をした回心者の比率は、過去十八世紀における他のいかなる時代よりも、はるかに高かった。聖パウロが、「私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」、と云ったときの言葉には、非常に深い意味がこもっていたのである。
私たちが生きているような時代における「信仰の告白」は、それとは非常に異なる意味を持っている。膨大な数の人々が信仰を告白し、キリスト者であると自称しているが、彼らを使徒は、全くキリスト者などとは呼ばなかったであろう。膨大な数の人々が、毎年バプテスマを授けられ、教会の会員名簿や洗礼簿に加えられているが、彼らはほとんど、あるいは全くキリスト教信仰をいだいていない。彼らの多くは、死ぬまで一度も礼拝所に出席せずに暮らし、非常に不敬虔な生き方をしている。さらに多くの人々は、教会か会堂に時たま顔を出すか、せいぜい日曜に一度しか教会に行かないですます。他の多くの人々は、一生の間、一度も陪餐者にならずに過ごし、主が受けるようにお命じになった《聖礼典》を常習的にないがしろにしたまま生き、また死んでいく。こうした人々のほとんどは、生きている間はキリスト者とみなされ、死んだときにはキリスト教式に葬られる。しかし、彼らについて聖パウロなら何と云っただろうか? 残念ながら、その答えについては何の疑いもありえないと思う。彼は云ったはずである。彼らはいかなる教会の一員とみなされる資格も全くない、と! 彼らに向かって彼は、「聖徒たちで、キリストにある忠実な兄弟たち」、と呼びかけはしなかったであろう。彼らに対して、「私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」、とは求めなかったであろう。彼は彼らに告げたはずである。彼らには、堅く保つべき信仰の告白など何1つなく、彼らはまだ、「自分の罪過と罪との中に死んで」いる、と(エペ2:1)。こうしたことすべては悲しく、痛ましいことではあるが、あまりにも真実である。それを否定したければ否定してみるがいい。
しかしながら、神に感謝すべきことに、キリスト教国のあらゆる地域には、本当に自ら告白する通りである少なからぬ数の人々がいる。----真の、真摯な、真剣な心持ちの、心から回心した、信仰を有するキリスト者たちがいる。疑いもなくその中のある人々は、自分の魂にほとんど助けを得られないような教会に属している。その中のある人々は、非常に不完全な知識しかなく、彼らがいだいている真理には、多くの不適切な見解が混じりあっている。しかし、彼らにはみな、特定の共通の目印がいくつかある。彼らは自分の魂の価値を見てとっており、本当に救われたいと願っている。罪の極度の罪深さを感じており、それを憎み、それと戦い、それから自由にされたいと願っている。イエス・キリストだけが自分を救えるお方であること、イエス・キリストだけにより頼むべきであることを見てとっている。自分が聖く敬虔な生き方をすべきであること、自分なりの貧しいしかたで、そうするようここがけなくてはならないことを見てとっている。彼らは個人的に聖書を読み、祈るが、その読み方祈り方は非常に欠陥のあるものかもしれない。つまり、彼らの中のある者たちは、キリストの学び舎の最高の基準に達しており、知識にも、信仰にも、愛にも強い者たちである。他の人々は、ただ幼児室にいるだけで、あらゆる点で弱く、貧しい。しかし、1つの点においては彼らは一致している。彼らの心は神の前で正しく、彼らはキリストを愛しており、彼の顔は堅く天国に向けられていて、そこに行きたいと願っているのである。こうした人々こそ、今日、私がこの論考において、聖パウロのこの勧告を適用したいと願っている人々にほかならない。「私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」。この告白にすがりつき、手放さないようにしようではないか。
ここで忘れてならないのは、私たちが日常生活の中で出会う、おびただしい数の人々が、「自分は何の信仰告白もしません」、と云ってやまないことである。彼らは単にそう云うだけでなく、そう云うことが、あたかも正しく、賢明で、適切なことででもあるかのように、それを誇りとしている。それどころか、信仰告白をする人々を軽蔑し、そうした人々を偽善者か詐欺師でもあるかのようにみなす、あるいは、いずれにせよ頭が弱く愚かな人々であるとみなしているように見受けられる。もしこの論考が、こうした種類の人の手に渡るようなことがあるとしたら、私はその人に云いたいことがある。そうした人は、よくよく注意して聞いてほしい。
私は、キリスト教会の内部に多くの偽善者がいることを否定するものではない。そうした偽善者は、これまでも常にいたし、世界が続く限り、いなくなることはないであろう。国内に良質の金貨や銀貨がある限り、偽造や、変造や、贋金はなくなることがないであろう。悪貨が存在すること自体、それを模造するに値する何かがあること、また良質の貨幣が現在流通していることを間接的に証明している。キリスト教についても全く同じである! 多くの偽りの信仰告白者が教会内にいるという事実そのものが、真実な心をした健全な信仰者たちがいるという間接的な証明なのである。一部の不幸な人々をして、本当は信じてもいない信仰を告白させるように仕向けること、これは、キリスト教の信用を失墜させようとするサタンが愛好する手口の1つである。彼は、この世における私たちの主イエス・キリストの御国の進展を傷つけようとして、羊の皮を着た狼たちを送り、カナンの言葉を話し、神の子らの外衣を着ているが、心の内側では腐っている人々を起こすのである。しかし、こうしたことがあるからといって、キリスト教信仰のありとあらゆる告白を非難してよいということにはならない。
自分は信仰の告白など行なわない、と豪語する人々に私は云いたい。あなたがたは、聖書に関する自分自身の悲しむべき無知をさらけだしているにすぎないのだ、と。一部の不幸な人々が偽善者であるとしても、決して私たちが自分自身の義務を行なわないでいてよいことにはならない。他人が私たちについて何と云うか、何と考えるかを気にしてはならない。私たちは、自分がキリストの側につく者であることを大胆に示すために、主のみことばと、主の日と、主の儀式を尊ぶこと、キリストの御国の進展のためにふさわしい機会があればいつでも口を開くこと、この世の子らのもろもろの罪や愚かしさにならうことを堅く拒否することを決して恥じてはならない。私たちの主イエス・キリストのこのことばは決して忘れられるべきではない。「もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします」(ルカ9:26)。もし私たちが、地上でキリストを告白しないようなら、また公然と自分はキリストのしもべであると告白しないようなら、キリストが、最後の審判の日に天国で私たちをご自分のものであると告白なさると期待してはならない。
つまり、人が何をおいても決して恥じるべきでないもの、それは、キリスト教信仰の「告白」なのである。不幸にも、世にはほとんどの人々が全く恥としていないように見受けられるものが山ほどある。不機嫌、わがまま、冷淡、ものぐさ、悪意、陰口、うそつき、中傷、暴飲、性的不純行為、賭博、安息日破り、----これらはみな、すさまじいほど人々の間でありふれたことであり、そのほとんどについて人々はこれっぽっちも恥じてはいない。だが、恥じるのが当然である! 常習的に「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」(ガラ5:21)。しかし、聖書を読むことや、祈りや、聖い生き方や、人々の霊肉に善を施すための働きについては、だれひとり恥じる必要はない。こうした事がらは、多くの人々から笑われたり、嫌われたり、蔑まれたり、うとまれたりするかもしれないが、これらこそ神がお喜びになる事がらなのである。もう一度私は繰り返したい。人々が何と云おうと、私たちが何をおいても決して恥じるべきではないもの、それは、私たちのキリストを信ずる信仰、およびキリストに従うという「告白」である。
II. 第二のこととして私たちが考察したいのは、聖パウロがなぜ、「私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」、と云っているのか、ということである。この問いかけに対する答えは3つあり、自分が本当に真摯にキリスト教信仰の告白をしていると考えるすべての人が真剣に注意を払わなくてはならないものである。
(a) 1つのこととして、《私たちの心》は、たとえ回心後であっても、常に弱く、愚かなものである。私たちは死からいのちに移っており、心の霊において新しくされているかもしれない。かつてとは違い、自分の魂の価値を見てとっているかもしれない。新しく造られた者になっているかもしれない。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなっているかもしれない。しかし、信仰者が決して忘れてならないのは、死ぬまで自分には、弱く、愚かで、裏切りがちな心があるのだ、ということである。ありとあらゆる種類の悪が、聖霊の恵みによってその根元まで切り取られてはいても、いまだにその根を私たちのうちに残しているのである。私たちがそう認めるのを好むと好まざるとにかかわらず、私たちの内側には、最良の時期においてすら、厄介事に対する潜在的な嫌悪や、人を喜ばせ、世の流れにならいたいというひそかな願望や、個人的に聖書を読んだり祈ったりすることに対する無頓着さや、他人に対するねたみや羨望や、善を施すことに関する怠惰さや、利己的に自分の思い通りにしたがる願望や、他人の願いに対する忘れっぽさや、自分自身にまつわりつく罪に対する警戒の欠如があるのである。こうした事がらはみな、しばしば私たちの内側に隠れており、心の底にひそんでいる。いかに聖い聖徒といえども、いつの日か、こうした悪の根がみな生きていて、いつでも姿を現わそうとしていることに気づいてほぞをかむことがありうる。私たちの主イエスが、三人の使徒たちに、かの園でこう云われたのも不思議はない。「誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」(マコ14:38)。私が思うに、疑いもなく聖パウロは、「堅く保とう」という言葉を書いたときに、そうした心を念頭に置いていたのである。「私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」。
(b) もう1つのこととして、世は、キリスト者の魂にとって途方もない危険の源泉である。私たちは、自分が回心したその日から、キリスト教信仰にとっては最も不健全な雰囲気の中で生きている。私たちは、生きたキリスト教を全く有していない膨大な数の人々のただ中に生き、動き、また存在している。人生のあらゆる階級において私たちが出会うおびただしい数の人々は、いかに道徳的で品行方正ではあっても、次のような事がらのほか何も顧慮しようとしないように見える。すなわち、----何を食べるか? 何を飲むか? 何を得られるか? いくら払えるか? 自由な時間をどう使うか? どれだけ儲かるのか? どんな楽しみが得られるのか? どんな愉快な仲間といられるのか?----神や、キリストや、聖霊や、聖書や、祈りや、悔い改めや、信仰や、聖い生き方や、世において善を施すことや、死や、復活や、審きや、天国や、地獄について云えば、こうした主題は、病床に伏したり葬式に出たりしない限り、決して彼らの思いをよぎらないように思われる。さて、キリスト者がしなくてはならないように、常にこうした人々のただ中で生きることは、確かにキリスト者にとって大きな試練であり、害を受けないように常に用心する必要がある。私たちは絶え間なく、小さな事がらについて譲歩したり、妥協したり、あやふやにすませたりする誘惑を受けている。私たちは生来、他の人々を怒らせることを好まず、親族や、友人や、隣人たちとの摩擦や衝突を嫌うものである。私たちは、大多数の人々から笑われたり、嘲られたりすること、自分がどこにいても常に少数派であると感ずることを好まない。残念ながら、あまりにも多くの人が、人々からのもの笑いによって天国から遠ざけられ、人々からのもの笑いによって地獄に落とされているのではないかと思う。いみじくもソロモンは云っている。「人を恐れるとわなにかかる」(箴29:25)。かつて私が知っていた、ひとりの勇敢な騎兵連隊の軍曹は、五十歳になるまで全くキリスト教信仰と関係なく生きてきた後で、その生涯の最後の数年のうちに、断固たるキリスト者となった。彼が私に告げたところ、彼が最初に自分の魂について気遣い出し、祈り始めたとき、数箇月もしなくては、自分の妻に自分が祈っていることを打ち明ける勇気が出なかったという。それまでは、祈るため夜に二階に行くときには、靴を脱いで忍び足で行くのが常だったという。それは、足音を聞きつけた彼の妻が、自分のしていることを発見しないためであった!
あからさまな真実を云うと、「全世界は悪い者の支配下にある」のであって(Iヨハ5:19)、この世が信仰者の魂をいかなる危険にさらしているかを無視しても無駄である。世の精神や、世の基調や、世の趣味や、世の気分や、世の息づかいは、キリスト者が生きる限り毎日絶え間なくキリスト者の回りにあり、その人を引き寄せ、その足を引っ張ろうとしている。もしその人が、自分の信仰を生き生きと発揮させ続けていなければ、確実にその人は感染して、害をこうむるに違いない。さながら、ローマのカンパーニャ平原を越えて旅をする人々が、その時には気づかないうちに熱病にかかってしまうのと同じである。何よりも有害で健康に良くない気体は、肉体的感覚では看破できないような気体である。私たちは、聖ヨハネが「世に打ち勝つ」と云う信仰が増し加わるように絶えず祈るべき理由がある(Iヨハ5:4)。まことに幸いなことよ、世の中にいはしても、世のものではないというキリスト者、----世にあって自分の義務を果たしてはいても、世にならいはしないキリスト者、----世を通り過ぎていく間、その微笑みにも渋面にも、そのへつらいにも敵意にも、その公然たる反対にもにやけた嘲笑にも、その甘きにも苦きにも、その黄金にも剣にも動かされることのないキリスト者は! 私は、世がいかなるものであるかを考え、それが魂にいかなる害をこれまでもたらし、今ももたらしつつあるかを見るとき、聖パウロが「堅く保とう」と云っているのを全く不思議とは思わない。「私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」。
(c) もう1つのこととして、悪魔はキリスト者の魂にとって不断の敵である。かの大いなる、眠ることなく、倦み疲れることのない仇敵は、常に私たちに危害を加えようとして働いている。私たちを殺したり滅ぼしたりできない以上、悪魔が常に狙っているのは私たちを傷つけ、害し、悩ませ、痛めつけ、弱めることである。この目に見えない敵は、常に私たちのそば近くにいて、「われらが道の回りにおり、われらが床の回りにおり」、私たちのすべての道を見張り、ひとりひとりに特有の弱点にその誘惑をあてがおうと待ちかまえている。かれは、私たちが自分自身を知るよりもはるかによく私たちのことを知っている。かれは、1つの書物----堕落した人間性という書物----を六千年もの間研究しており、ほとんど際限のない陰険さ、狡猾さ、また際限のない悪意を持つ霊である。いかにすぐれた聖徒といえども、自分の心に生ずるいかに多くの邪悪な示唆が悪魔からきたものか、また自分の右側にいかに不眠不休の敵が張りついているか見当もつかない。
これこそ最初にエバを誘惑した者であり、神にそむいて禁断の木の実を食べても死にはしないと彼女を云いくるめた者である。----これこそダビデを誘惑して民の人口を数えさせ、三日間の疫病によってその臣下七万人の死をもたらした者である。----これこそバプテスマを受けた直後の私たちの主を荒野で誘惑し、その目的を果たすためには聖書の引用さえした者である。----これこそ私たちの主の三年間の公生涯すべてを通じて主に反抗し、時には不幸な人々の肉体に神秘的なしかたで取り憑き、最後には主の使徒たちのひとりに主を裏切る思いを吹き込んだ者である。----これこそ私たちの主の昇天後に使徒たちに常に反抗し、福音の進展をくい止めようとしてきた者である。----これこそ聖パウロが、「サタンさえ光の御使いに変装するのです」、と証言し(IIコリ11:14)、にせ教師たちを手先として用いている者である。
この論考を読む人々の中に、悪魔は眠っているとか、死んでいるとか、昔の時代ほど有害ではないなどと愚かな考えをいだいている人がだれかいるだろうか? 決してそのようなことはない! かれは今なお、「ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回って」いる。かれは今なお、「地を行き巡り、そこを歩き回って」いる(Iペテ5:8; ヨブ1:7)。これこそ異教国の中を横行し、偶像礼拝のために、あるいは血みどろの戦争のために血の大海を流させるよう人々を云いくるめている者である。----これこそ堕落した教会の中を行き巡り、それらを云いくるめて聖書を投げ出させ、人々を形式的な礼拝や下卑た迷信で満足させている者である。----これこそプロテスタント諸国を歩き回って、党派心をかき立て、激しい政争を巻き起こし、階級と階級を争わせ、臣下を支配者に逆らわせ、人々の思いをよりまさるものからそらしている者である。----これこそ、知的で高等教育を受けた人々の耳元に絶えずやって来ては、古くさい聖書など真理ではないと彼らを云いくるめ、《無神論》や、《有神論》や、《不可知論》や、《世俗主義》で満足し、来世については概して軽蔑するよう助言している者である。----何にもまして、これこそ愚かな人々を云いくるめて、悪魔などいない、未来における死後の審判などない、地獄などない、と信じさせている者なのである。こうした恐るべき事がらの総覧において、私の堅く信ずるところ、悪魔はその根底にひそんでおり、その真の根であり、理由であり、原因である。一瞬でも私たちは、悪魔が黙って真のキリスト者をやすやすと天国に行かせ、その途中で何の誘惑もしかけないなどと考えられるだろうか? そのような馬鹿げた考えは振り捨てるがいい! 私たちは世と肉に屈さないよう祈るだけでなく、悪魔に屈さないようにも祈る必要がある。信仰者が日々思い出さなくてはならない大いなる悪の三位一体の中でも、もしかする悪魔こそ最悪の者かもしれない。なぜなら悪魔は最も目につかないからである。何にもましてかれを喜ばせるのは(もしも、実際に悪魔が何かを喜ぶことがあるとしたらだが)、それは真のキリスト者を傷つけ、そのキリスト教信仰に泥を塗らせることである。私は、悪魔のことを思うとき、聖パウロが「堅く保とう」、と云ったことを全く不思議には思わない。「私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」。
さて、もしかすると今、この論考を読んでいる人の中には、心ひそかにこう思っている人がいるかもしれない。この著者は心配性すぎるのではないか、そのように用心したり、警戒したり、「堅く保つ」必要などないのではないか、と。私はそうした人に願いたい。ぜひ私とともに、しばしの間、聖書に向かい、そのほむべき書物が何と教えているか真剣に考察してほしい、と。
私はその人に思い出してほしいと思う。イスタリオテ・ユダやデマスが、良い出だしを切り、立派な告白をしていたことを。ひとりは私たちの主イエス・キリストのえり抜きの使徒であり、私たちのほむべき《救い主》と三年間も常に行をともにしていた。彼は主とともに歩み、主と語り合い、主の教えを聞き、主の数々の奇蹟を目の当たりにし、私たちの主が十字架につけられるその前夜まで、ペテロやヤコブやヨハネにおさおさ劣らぬ者と目されていた。だが、この不幸な男は、結局は自分の告白を手放し、自分の《主人》を裏切り、悲惨な末路を迎え、自分のところに行ってしまった。----私が名をあげたもうひとりの人物、デマスは、使徒聖パウロのえり抜きの同行者であり、この卓越した神の人と心を同じくしていると告白していた。まず間違いなく彼は、何年かはパウロとともに旅をし、パウロを助け、彼の伝道活動の一翼を担っていた。しかし、その結末はいかなるものだっただろうか? 彼は自分の信仰告白を捨て去り、聖パウロが書いた最後の書簡には、この陰惨な記録が含まれているのである。「デマスは今の世を愛し、私を捨てて」いった、と(IIテモ4:10)。彼のことを私たちは二度と聞かない。----私がキリスト者の危険についてあまりにも長々とかかずらっていると考えているすべての人に、この日、私は云っておく。デマスを思い出すがいい。イスカリオテ・ユダを思い出すがいい。手をゆるめることなく、「あなたの信仰の告白を堅く保つ」ようにし、用心しているがいい、と。私たちは、人前ではしばらくの間、非常に立派なキリスト者のように見えるかもしれないが、結局は岩地のような聞き手であったこと、婚礼の衣装を持たない者であったことが明らかになるかもしれないのである。
しかし、それがすべてではない。私があらゆる信仰者に思い出してほしいのは、もし「堅く保つ」ことをしなければ、その人は非常な苦痛をもって自分を刺し通し、自分の人格に大きく泥を塗ることになりかねない、ということである。私たちは決して、ウリヤの妻の事件におけるダビデのすさまじい転落を忘れるべきではない。ペテロが自分の《主人》を三度否んだことを忘れるべきではない。クランマーが一時的に臆病風に吹かれて、それを最後には激しく悔いたことを忘れるべきではない。あなたは彼らよりもすぐれており、彼らよりも強いのだろうか? 「高ぶらないで、かえって恐れなさい」。魂にとって非常に有益な、敬虔な恐れというものがある。かの偉大な《異邦人への使徒》こそ、こうした言葉を書いた者であった。「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです」(Iコリ9:27)。
このページを読んでいるキリスト者の中に、キリスト教信仰によって大きな幸福を得たい、また、信じることによって大きな喜びと平安を得たいと願っている人がだれかいるだろうか? その人は、この日、一老牧師の助言を受けて、「自分の信仰の告白を堅く保つ」ようにするがいい。非常に徹底した者、非常に断固たる者、非常に用心深い者、非常に自分の魂の状態に気を遣う者となるように決意するがいい。自分の旗幟を鮮明に打ち出せば打ち出すほど、また、より妥協することなく確固たる者になればなるほど、その人は心が軽くなることに気づき、自分の顔に注がれる陽光が暖かくなるのを感じるであろう。神に仕えることにおいて、断固たるキリスト者ほど幸せな者はいない。メアリー女王治下で最初の殉教者となったジョン・ロジャーズが、スミスフィールドで火刑に処されるために引き出されたとき、フランス大使はその情景をこう報告している。彼は全く明るく、朗らかなようすに見え、まるで自分の結婚式に向かうかのようであった、と。
このページを読んでいるキリスト者の中に、自分のキリスト教信仰によって、他の人々のために大きく用いられたいと願っている人がだれかいるだろうか? その人に請け合わせてほしいが、人生を長い目で見るとき、最も大きな善を施し、最も深々とその世代に足跡を残すのは、「自分の信仰の告白を堅く保つ」人々、信仰をしっかり握って手放さない人、そして最も断固としてキリストに仕える人々にほかならない。わが国において、ことによると、いかなる者にもましてプロテスタント宗教革命の進展のために大きな働きをなし、ローマの権力を完璧に揺るがしたのは、オックスフォードにおいて、背中合わせで一本の火刑柱にくくられて焼き殺された、ふたりの尊ぶべき主教であったかもしれない。彼らは、いのち惜しさに自分の信仰を手放そうとはしなかった。云うまでもなく私が言及しているのは、リドリとラティマーのことである。無頓着で、無思慮で、無信仰な世は、こうした人々に注目し、彼らの信仰には何か確かな本物があるのだと、いやでも認めざるをえない。私たちの生き方が光輝くものとなればなるほど、私たちは世界で善を施すことになるはずである。私たちの主は、山上の説教において、あだやおろそかにこう語っておられるのではない。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタ5:16)。
こうした事がらをみな私たちは、自分の記憶に寄せ集めておき、決してそれらを忘れないようにしよう。自分の思いにおいて、これを確固たる原則にしておこう。すなわち、自分が幸福な者となり、用いられる者となるために途方もなく重要なことは、「私たちの信仰の告白を堅く保つ」こと、また常に用心を固めておくことである、と。信仰者はただじっと何もせず、神に「自分をゆだねる」だけでいいのだ、などという粗雑な現代風の考え方は、頭から叩き出すようにしよう。むしろ私たちは、聖書の言葉遣いを守り、努めて「からだの行ないを殺」し、「自分の肉を……十字架につけ」、「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ」、格闘し、戦い、兵士としての生き方をするようにしよう(ロマ8:13; ガラ5:24; IIコリ7:1; エペ6:12; Iテモ6:12; IIテモ2:3)。人によっては、エペソ人への手紙における神の武具の記述によって、私たちの義務に関する問題には決着がつくと考えるかもしれない。しかし、あからさまな真実を云うと、人々は2つの異なるもの----すなわち、義認と聖化----を混同することを決してやめようとしないのである。義認において、人に語りかけるべき言葉は、「信ぜよ。ただ、信ぜよ」、である。聖化において、その言葉は、「目を覚まして、祈り、戦え」、である。神が2つに分けたものを、私たちは混ぜ合わせたり、一緒くたにしたりしないようにしよう。私は、「私たちの信仰の告白を堅く保つ」ことの途方もない重要性を、自分がいかに深く痛感しているか云い表わすべき言葉を知らない。
III. 最後のこととして私たちが考察したいのは、キリスト者には、その信仰の告白を堅く保つためのいかなる励ましがあるか、ということである。
恵みにおいても、その性質からしても、使徒聖パウロほど、この主題を扱うにうってつけの人物はいなかった。霊感を受けて新約聖書を書いたすべての記者の中でも、人間の心の争闘を扱うために、ことのほか徹底的な教えを神から受けたように思われるのは、聖パウロである。パウロほど、魂の数々の危険や、病や、治療法に精通していた者はいない。その証明は、彼のローマ人への手紙7章、およびそのコリント人への第二の手紙5章に見られる。この2つの章は、自分自身の心を理解したいと願うあらゆるキリスト者によってしばしば学ばれるべき章である。
さて、聖パウロが差し出している励ましの根拠は何だろうか? 彼が私たちに、「私たちの信仰の告白を堅く保とう」、と云い、それを手放さないようにしよう、と告げているのは、「私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられる」からであった。
「大祭司」という言葉は、ユダヤ人読者の耳には、異邦人キリスト者の耳におけるよりも、はるかに力強く響きわたったであろう。それはその人の脳裏に、幕屋や神殿の奉仕における数多くの予型的な事がらを思い起こさせたであろう。それは、ユダヤ教の大祭司が、神と民との仲介者のような立場にあったことを思い出させたであろう。----大祭司だけが、年に一度の贖罪の日に、至聖所の中に入り、垂れ幕を通って、贖いのふたに近づいたこと、----大祭司は、十二部族と神との間の仲裁者のようなものであり、その手を双方の上に置いていたこと(ヨブ9:33)、----大祭司は神の家で仕える第一の管理者であって、「無知な迷っている人々を思いやることができる」はずの者であったことを思い出させたであろう(ヘブ5:2)。こうしたすべての事がらによってユダヤ人は、聖パウロが、私たちには偉大な大祭司が天におられるのだから「堅く保とう」、と云ったときに意図していたことについて、何らかの考えをいだいたであろう。あからさまな真実を云うと、キリスト者は、自分には強大な、生きた《友》が天におられるのだと理解すべきなのである。その《友》は、私たちのために死んだだけでなく、よみがえり、よみがえった後で神の右の座に着き、私たちの《弁護者》となり、御父への《とりなし手》となって、再び来られる日を待っておられるのである。私たちは、キリストが私たちのために死んだだけでなく、私たちのためにいま生きておられ、きょうのこの日も、私たちのために活発に働いておられることを理解すべきである。つまり、聖パウロが信仰者たちに差し出している励ましとは、イエス・キリストの生きた祭司職なのである。
これこそ、彼がヘブル人たちに、キリストが「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」(ヘブ7:25)、と告げたとき、まさに意図していたことではないだろうか?----これこそ、彼がローマ人たちに、「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです」(ロマ5:10)、と告げたときに意図していたことではないだろうか?----これこそ、彼があの素晴らしい挑戦を書いたときに意図していたことではないだろうか? 「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ロマ8:34)。一言で云えば、ここには信仰者の慰めの源泉があるのである。信仰者は、自分の《身代わり》として死んで、自分のためにその血を流した《救い主》を仰ぐだけでなく、その復活後に神の右の座に着いて、そこで自分の絶えざる《とりなし手》また《祭司》としても生きておられる《救い主》を仰ぐべきなのである。
私たちは、しばしの間、いかに素晴らしく、いかに最適の《大祭司》が、私たちが信仰を告白する《大祭司》であられるか、また、アロンの家系のいかなる大祭司よりも百万倍もすぐれた《大祭司》であられるかを考えてみよう。
イエスは、全能の力をお持ちの《大祭司》である。というのも、イエスはまぎれもなく神ご自身であられ、決してまどろむことも、決して眠ることも、決して死ぬこともない、永遠のお方だからである。ユダヤ教の大祭司たちは、「死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができ」なかったが(ヘブ7:23)、キリストは死人の中からよみがられたお方であって、二度と死ぬことがない。私たちの偉大な《大祭司》は決して老いることなく、決して死ぬことがない(ロマ6:9)。
イエスは、完全な神であるのと同じく完全な人である《大祭司》である。イエスは、私たちがいかなる肉体をしているか知っておられる。ご自分でも肉体をお持ちになり、その罪ならぬ弱さと痛みのすべてに親しんでおられるからである。イエスは、飢えや、渇きや、苦しみがいかなるものか知っておられる。33年の間地上で生きたため、幼児の、また子どもの、また少年の、また青年の、また成人の肉体的な性質がいかなるものであるかを知っておられるからである。「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれた」(ヘブ2:18)。
イエスは、比類ない同情心をお持ちの《大祭司》である。イエスは、「私たちの弱さに同情でき」るお方である(ヘブ4:15)。地上におられたときのイエスの心は、常に愛と、憐憫と、あわれみに満ちていた。イエスはラザロの墓で涙を流された。不信仰を続けるエルサレムのために泣かれた。助けを求める者のあらゆる叫びにいつでも耳を傾け、常に巡り歩いて、病む者、苦しむ者に善を施された。十字架上におけるその最後の思いの1つは、ご自分の母への気遣いであり、その復活の後で最初に発されたことばの1つは、ご自分のあわれな転落した使徒たちに対する「平安」であった。そして、イエスは変わってはおられない。イエスはその素晴らしいお心を天へ伴って行かれ、ご自分の群れのいかに弱い小羊をも、あわれみ深い優しさで常に見守っておられる。
イエスは、完璧な知恵をお持ちの《大祭司》である。イエスは、私たちひとりひとりがいかなるものか、また何を必要としているかを正確に知っておられる。「彼は私たちを耐えることのできないような試練に会わせるようなことは」*せず(Iコリ10:13)、私たちが精錬されるのに必要な時間を一瞬たりとも越えて私たちが苦しみの炉の中にとどまることをお許しにはならない。イエスは、一日に応じた力を私たちに与え、私たちの必要に応じた恵みをお与えになる。私たちの心のいかにひそかな感情をも知り、私たちのいかに微かな祈りの意味をも理解しておられる。イエスは、アロンや、エリや、アビヤタルや、アンナスや、カヤパのように、誤りやすく、不完全な大祭司ではない。ご自分のもとに来て、その願いを御前に注ぎ出す者たちを扱うにあたって、いかなる間違いも決して犯すことはない。
私はこの論考を読んでいるあらゆる人に大胆に問いかけたい。果たしてあなたは、このような《大祭司》を有することにまさって、大きな慰めと励ましを人の魂に与えるものを、何か示せるだろうか? 近年の私たちは、このお方について十分に考えることをしていない。私たちは、イエスの死について、その犠牲について、その血について、その贖罪について、その十字架上における完成したみわざについて語っている。また、疑いもなく私たちは、こうした栄えある主題について決して語りすぎることはできない。しかし、もしそこで止まってしまうとしたら、私たちは大きな間違いを犯しているのである。私たちは、十字架と墓を越えて、私たちの主キリストのいのちと、祭司職と、絶えざるとりなしとに目を向けるべきである。そうするまで私たちは、キリスト教の教理について、不完全な見方しかしていない。私たちの主の職務のこの部分をないがしろにする結果は非常に深刻なものであり、これまで教会と世に多大な害を及ぼしてきた。
私たちのすべての教会における青年男女は、また一般的に云って、信じたばかりのあらゆる信仰者は、キリストの祭司職について正しく教えられることがないために、途方もない害を受けつつある。彼らは、いのちに至る狭い道をたどり、自分の前に置かれている競争を走る際に、自分の内側に日ごとの助けと、恵みと、力と、導きを切望するものを感ずる。彼らは、常に後ろにある十字架と贖罪を見るべきであると聞かされるだけでは満足しない。彼らの内側には、自分には生きた友がほしい、と囁く何かがある。そこへ悪魔がやって来て、ほのめかすのである。彼らは地上にいる司祭のところへ行くべきであり、そこで告悔をし、赦罪を受け、このようにする習慣を絶えず守るべきである、と。彼らはしばしば、あまりにも簡単にこのことを信じ込んでしまい、愚かにも自分の魂の飢えを満たそうとして、度を超して頻繁に主の晩餐にあずかったり、どこかの聖職者の霊的な独裁に身を任せたりする。これらはみな、宗教的な阿片吸飲や酒類常飲とほとんど変わるところはない。それはしばらくの間は心をなだめるが、真の善は何も施さず、しばしば魂を病的に迷信的な隷属状態へと陥れる結果に至る。それは、聖書が提供している治療薬ではない。すべての信仰者、特に近年の青年男女に語られなくてはならない真理は、キリストが天で生きておられ、私たちのための祭司としてとりなしをしておられるという真理である。私たちは、地上にいかなる聴罪司祭も持つ必要がなく、いかなる地上の司祭も必要ない。私たちが日ごとの求めを携えて赴くべき《祭司》はただひとり、神の御子イエスだけである。どこを探しても、これほど力強く、これほど愛に満ち、これほど賢く、これほどいつでも助けようとしておられるお方はいない。いみじくも、古のある神学者はこう云っている。「信仰者の目は、その神とのやりとりの一切において、キリストにひたと据えられているべきである。その一方の目はキリストの奉献物に、もう一方の目はキリストのとりなしに据えられているべきである」。私たちは決してこのことを忘れないようにしよう。私たちの信仰の告白を堅く保つ真の秘訣は、常にキリストの祭司職を信ずる信仰を発揮させ、それを日々用いることにある。
この原則に立って行動する人は、いかに厳しい状況にあっても、いかなる立場にあろうとも、神に仕え、キリスト者であることが可能であることに気づくであろう。その人は、一瞬たりとも、世から隠遁して修道院に入るか、洞窟に住む隠者のように生きる者でなければ、真のキリスト教信仰を有せないのだ、などと考える必要はない。若い女性は、自分の家には未回心の両親や、兄弟や、姉妹がいるから神に仕えることはできないのだ、自分はどこかの、いわゆる「信仰の家」[修道院]に入って、同じように考える数人の婦人たちとともに生きなくてはならないのだ、などと決して考えてはならない。こうした考えはみな無分別で、非聖書的なものである。それらは下から来たものであって、上から来たものではない。学校においても大学においても、陸軍においても海軍においても、銀行においても法廷においても、商店においても取引所においても、人が神に仕えることは可能である。自宅にいる娘であっても、高校に勤める教師であっても、商社にいる助手であっても、いかなる婦人も神に仕えることは可能であって、決してそれが不可能であるなどという臆病な考えに屈してはならない。しかし、それはみないかにしてなされるのか。単純に、神の御子を信ずる信仰によって生きることによってである。十字架の上の御子を振り返り、日ごとの赦しと良心の平安のためにその血という泉を見てとり、また日ごとに神の右の座で私たちのためにとりなしをしている御子を見上げ、この欠け多い世にあって日ごとに御子からの恵みの供給を引き出すことによってである。煎じ詰めれば、それがすべてである。私たちには、もろもろの天を通られた偉大な《大祭司》がおり、そのお方によって私たちは、自分の信仰の告白を始めることだけでなく、それを「堅く保つ」ことが可能なのである。
この論考のしめくくりにあたって私は、この論考を手にとるであろうあらゆる人に直接、いくつか実際的な適用の言葉を語りかけようと思う。
(a) あなたは、かの巨大な種族、すなわち、いわゆる全く何の信仰告白もしようとしないキリスト者たちに属しているだろうか? 悲しいかな! この種族がこれほど大人数であることは痛ましいことである。だが、それが非常な大人数であるという事実に私たちの目を閉ざしても役には立たない。私がいま語っている人々は、無神論者でも不信心者でもない。彼らは、一瞬たりともキリスト者でないなどと云われることにがまんできないであろう。彼らは礼拝所に通っており、キリスト教は子どもの洗礼や、結婚式や、葬式のためには非常にふさわしいものであると考えている。彼らは、食前食後の祈りは欠かさない。子どもにはキリスト教的な教育が施されることを望んでいる。しかし、決してそれ以上先に達するようには見えない。彼らは、「信仰の告白」をすることから尻込みする。彼らに向かって「堅く保て」と告げても無駄である。彼らには、保つべき何もないからである。
そのような人々に私は、心からの愛情といつくしみをもって願いたい。自分の立場が、いかに筋の通らない、首尾一貫しないものか考えてみるがいい。彼らのほとんどは《使徒信条》を信じている。彼らは、ひとりの神がおられること、また死後には来世があること、復活があり、審きがあり、永遠のいのちがあることを信じている。しかし、こうしたすべての事がらを信じていながら、この大いなる未来に対する備えを全くすることなく墓場への旅を続けることほど無分別なことがどこにあろうか? あなたは、最後のラッパが鳴って、かの大きな白い御座の前に立つとき、自分が万物の《審き主》、主イエス・キリストと会わなくてはならないことを否定しないであろう。しかし、もしあなたが地上に生きていた間に、一度も信仰を告白せず、その《審き主》に従う者であることを一度も告白してこなかったとしたら、その恐るべき日に、あなたはどこにいることになるだろうか? もしあなたが、地上にいる間に、そのお方を告白することを恐れたり、恥じたりし、そのお方の側につくと大胆に宣言することをしてこなかったとしたら、その時そのお方が、あなたをご自分のものであると告白し、宣言するなどということが、いかにして期待できるだろうか?
私は切に願う。こうしたことを考えて、あなたの人生の計画を変更するがいい。それを引き延ばすための下らない云い訳や、ささいや理屈など投げ捨てるがいい。神の恵みによって、イエス・キリストを堅くつかみ、その御旗のもとに男らしく入隊する決心をするがいい。かのほむべき《救い主》は、あなたが自分ではいかに無価値な者と感じていようと、ありのままのあなたを受け入れてくださるであろう。ぐずぐずせずに、一刻も早くそうするがいい。きょうのこの日、祈り始めるがいい。本物の、生きた、熱烈な祈りを、あの十字架上で悔い改めた強盗のように捧げるがいい。あなたが長年放ったらかしにしてきた聖書を棚から取り、それを読み始めるがいい。自分で悪いとわかっているあらゆる悪習を断ち切るがいい。徹底的なキリスト者たちとの交わりと友情を求めるがいい。あなたの魂が害しか受けられないようなあらゆる場所に行くことをやめるがいい。一言で云えば、人の笑いも嘲りも恐れずに、「信仰の告白」を行ない出すがいい。主イエスのこのことばは、他の人のもののためであるばかりか、あなたのためのものでもある。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(ヨハ6:37)。私は、多くの人々の臨終を看取ってきたが、ひとりとして私に向かって、自分がキリスト教信仰の「告白」をしてきたことを残念に思うと云った者はいなかった。
(b) 最後に、あなたはかの少人数の種族、すなわち、キリスト教信仰とキリスト者としての服従を本当に告白し、いかに弱くあろうとも、悪の世のただ中でキリストに従おうとしている人々に属しているだろうか? 私は、あなたの心の中で起こりつつあることを多少ともわかっていると思う。あなたは時として、自分が到底最後までやり抜くことなどできないと感じ、いつの日か自分の信仰告白を捨てざるをえないのではないかと感じている。時としてあなたは、自分について手ひどいことを云いたくなる思いにかられ、自分には何の恵みも全くないのだと思いたくなる。残念ながら、このような状態にある真のキリスト者は、おびただしい数に上るのではないかと思う。天国への道を、『天路歴程』の落胆氏や、心配子や、恐怖者とともに、震えつつ疑いつつ歩んでいる人々、《天の都》に行き着くことなど絶対にできないのではないかと恐れている人々である。しかし、実に奇妙なことに、彼らのうめきや、疑いや、恐れのすべてにもかかわらず、彼らは自分の出て来た都に立ち戻ろうとはしない(ヘブ11:15)。彼らは、こわごわと、しかし一心に、歩を進め、ジョン・ウェスレーが自分の派の信者たちについてよく云っていたように、「彼らは見事な最期を迎える」。
さて、そのような人々がひとりでもこの論考を読んでいるとしたら、そうしたすべての人に対する私の助言は、非常に単純なものである。あなたは、生きる限り毎朝毎晩、「主よ。私の信仰を増してください」、と云うがいい。あなたの目をよりイエス・キリストだけに据える習慣を身につけ、キリストのうちに、その信仰を有する民のひとりひとりにとっていかに豊かな富がたくわえられているかを、いやまして知るように努めるがいい。いつもうなだれて自分の心の不完全さを凝視して、自分自身にまつわりつく罪を詳細に吟味してばかりてけあってはならない。上を見上げるがいい。天におられる、あなたの復活した《かしら》を眺めて、主イエスがあなたのために死んだだけでなく、よみがえられもしたこと、また今も生きて、あなたの《祭司》、あなたの《弁護者》、あなたの《全能の友》として神の右の座に着いておられることを、今にもまして深く悟るように努めるがいい。使徒ペテロが「水の上を歩いてイエスのほうに行った」とき、彼は、自分の《全能の主人》にして《救い主》なるお方に目を据えている限りは、非常にうまくいっていた。しかし、彼が目をそらして風や波を見て、理屈を考え出し、自分の力や、わが身の重さを考えたとき、たちまち彼は沈みかけ、「主よ。助けてください」、と叫んだ。私たちの恵み深い主が、ペテロの手をつかんで、彼を水底の墓場から救い出しながら、こう云われたのも無理はない。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」。悲しいかな! 私たちの多くは非常にペテロに似ている。----私たちはイエスから目をそらしては、自分の心がくじけて、沈み込んでいくように感じるのである(マタ14:28-31)。
最後の最後に、いかに膨大な数の、あなたと同じような人々が、過去千八百年もの間、無事に故郷にたどりついたかを考えてみるがいい。あなたと同じように、彼らにも彼らなりの戦いがあり、争闘があり、疑いがあり、恐れがあった。彼らの中には、「信仰による喜びと平和」を非常に僅かしか知ることなく、パラダイスで目覚めたときにほとんど驚愕した者もいた。彼らの中には、確固たる希望と、強い慰めを享受し、帆を一杯に張った雄壮な船が入港するように、永遠のいのちという港へ入った者もいた。だが、この後者に属する人々とはいかなる者らであったのか? 彼らは、自分の信仰の告白を人差し指と親指でつまみ上げるだけの者らではなく、それを両手でしっかりとつかみとり、キリストを人前で告白しないくらないら、キリストのために死ぬことをもいとわない人々であった。私は信仰者に云いたい。勇気を出すがいい。あなたが大胆になり、断固たる者になればなるほど、あなたがキリストのうちにいだく慰めは大きくなるであろう。あなたは、2つの天国を有することはできない。地上でも、来世でも天国を有することはできない。あなたはまだ世におり、肉体を持っており、身近には常におとなしくしていない悪魔がいる。しかし、大きな信仰には常に大きな平安が伴う。キリスト教信仰において最も幸福な人は、常に聖パウロのように、心の底からこう云える人々である。「いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」。私は自分の内側のものは何も見ないが、常にイエスを眺め続けており、その恵みによって私は、自分の信仰の告白を堅く保っているのである(ガラ2:20)。
さてこの偉大で厳粛な主題を離れるにあたり私は、一言、別れの言葉として、私たちが生きている時代に関する警告を発さないでおくわけにはいかない。どういうことか、努めて手短に説明してみよう。
私の信ずるところ、この三世紀の中でも現代ほど、信仰を告白するキリスト者に向かって、「堅く保つ」ことを促す必要が大きかった時代はなかった。疑いもなく、近年は、何らかの種類のキリスト教信仰が巷にあふれかえっている。三十年前にくらべると、全国的に、はるかに多くの人々が公の礼拝に出席している。しかし、果たしてそこに生きたキリスト教の増進があるかどうかは疑われてよい。私がよほどひどい思い違いをしていない限り、そこには何事をも「堅く保つ」ことをしないですまそうという傾向、また、可能な限り、あらゆることを締まりなく保っていようとしたがる心持ちが増大している。「何も堅くとらえるな! すべてを締まりなくせよ!」 これが今日の風潮と思える。
信仰と教理の面ではどうだろうか? かつては、聖書の霊感や、贖罪や、御霊のみわざや、悪魔の人格性や、未来の刑罰の現実性などといった点については明確で、明瞭な見解を保つことが重要であると考えられていたものである。だが今は違う。旧来の物事のありようは過ぎ去ってしまった。人は、誠実で真摯でありさえすれば、こうした点について何を信じていてもいいし、何も信じなくてもいいのである。堅く保つ生き方は、締まりなく保つ生き方にとってかわられたのである。
礼拝や儀式の面ではどうだろうか? かつては、《祈祷書》の平明な教えで満足することが重要であると考えられていたものである。だが今は違う。あなたは、《祈祷書》で全く何の裏づけも与えていないような、祭壇と呼ばれる聖卓を持たなくてはならず、いけにえと呼ばれる礼典を持たなくてはならず、こうした新奇な考え方に適した儀式を持たなくてはならない。そして、もしそれに文句を云うと、あなたは非常に狭量であり、不寛容だと決めつけられ、教職者は単に誠実で真摯でありさえずば、何をしようと、何を教えようと許されるべきだ、と云われる。堅く保つ生き方は、締まりなく保つ生き方にとってかわられたのである。
聖い生活の面ではどうだろうか? かつては、「この悪の世の虚飾や虚栄を非難する」こと、また、競馬や、劇場通いや、舞踏場や、骨牌遊びといったものには一切関わらないことが重要であると考えられていたものである。だが今は違う。あなたは、《四旬節》を守って、時おり早朝の聖餐式に集っていさえすれば、好きな所に出かけていってかまわないのではないだろうか? あなたはそれほど厳格で、几帳面ではあってはならない。もう一度私は云う。堅く保つ生き方は、締まりなく保つ生き方にとってかわられたのである。
こうした事態は、どう控えめに云っても、満足できるものではない。これは危険に満ちた状況である。ここに示されているキリスト教の状態は、確かに私の信ずるところ、聖パウロをも聖ヨハネをも満足させないであろう。このようにあいまいで、締まりのない教理と行ないによって、十八世紀前の世界がひっくり返ったわけではない。現代の人々の魂は、英国においても、いずこにおいても、このような締まりのないキリスト教からは決して大した恩恵を受けることがないであろう。教えと生き方における決断こそ、神が過去の時代において祝福を与え、現代においても祝福し続けてくださるであろう唯一のキリスト教である。締まりのない、あいまいな、ぼやけた、広やかなキリスト教は、人を怒らせることなく、健康で富み栄えている際の人々は喜ばせるかもしれないが、魂を回心させることも、悲しみや病にある時、あるいは臨終の床の上で堅固な慰めを与えることもないであろう。
あからさまな真実を云えば、その「真摯さと誠実さ」こそ、この終わりの時代にあって多くの英国人キリスト者の偶像となっているのである。人々は、ある人が「誠実で真摯で」ありさえすれば、キリスト教信仰についていかなる意見をいだいてようと大した問題ではないと考えているように見受けられる。また、もしそうした人の信仰的な健全さを疑おうものなら、愛がないと思われる! こうした単なる「誠実さ」崇拝に対して、私は厳粛な抗議をするものである。私はこの論考を読んでいるあらゆる人に命ずる。神の書かれたみことばこそ、信仰の唯一の基準であることを忘れてはならない。そして、キリスト教信仰において、聖書の平明な聖句によって証明できないようなことは、何1つ真理であるとも、魂を救うものであるとも信じてはならない、と。私はその人に切に願う。聖書を読み、それを唯一の試金石として物事の真偽、善悪を判断するがいい。そして、最後に私は云う。「あなたの信仰の告白を堅く----締まりなくではなく----堅く保つがいい」、と。
私たちの信仰の告白[了]
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