'To Whom?'         目次 | BACK | NEXT

11. 「だれのところに?」*1


「すると、シモン・ペテロが答えた。『主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます』」----ヨハ6:68

 このページの冒頭に冠された聖句を含む章は、異様なほど内容豊かなものである。

 だれでも思い出すように、この章はよく知られた奇蹟から始まる。----それは、5つのパンと2匹の魚で五千人を養った奇蹟、----古代の著述家の何人かが、キリストによって行なわれた中でも最大の奇蹟と称したもの、----四人の《福音書記者》全員がともに記録している唯一の奇蹟、----創造の力をまざまざと示した奇蹟であった。

 続いて私たちに示されるのは、それにまさるとも劣らぬほど驚愕すべき性格をした、もう1つの奇蹟である。----それは、キリストがガリラヤ湖の上を歩いたという奇蹟、----そのみこころにかないさえすれば、主はいわゆる自然法則をも差し止めることのできる御力をお持ちのお方であると示す奇蹟であった。主にとって、水の上を歩くことなど、初めに陸や海を創造なさったのと同じく、たやすいことであった。

 それからこの章が指し示すのは、カペナウムの会堂でなされた素晴らしい講話である。これは、四人の福音書記者の中でも聖ヨハネだけが、世に示すよう霊感を受けた講話であった。キリストがまことのいのちのパンであること、----主のもとに来て、主を信ずるすべての者の有する数々の特権、----キリストの肉を食べ、キリストの血を飲むという深遠な奥義、そしてその肉と血によって伝えられるいのち、----何と尊い真理の宝庫がここにはあることであろう! いかに大きな恩義を教会は第四福音書に負っていることであろう!

 そして最後に、この章の末尾に近い箇所にあるのが、熱血漢の使徒ペテロによる高貴な激情のほとばしりである。----「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます」。この尋常ならざる一節には、いま私がこの論考を手に取ることになるすべての人々に注意するよう勧めたい3つの点がある。

 I. 第一のこととして、この言葉が語られるきっかけとなった状況に注目するよう願いたい。何が、この熱血漢で直情径行型の弟子をして、「私たちがだれのところに行きましょう?」、と叫ばせたのだろうか? その答えは、この聖句に先立つ数節を見ればわかる。「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。そこで、イエスは十二弟子に言われた。『まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう』」。

 そこに記されているのは、陰鬱な、この上もなく教えに富む事実である。キリストご自身からさえ、----「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」、と云われ、比類なく力ある数々のわざを行ない、いかなる人も送ったことのないほど聖く、無害で、汚れなく、罪人とは一線を画した生涯を送ったお方たるキリストからさえ、多くの人々が、しばらくの間つき従った後で、離れ去って行ったのであった。しかり! 多くの者が、である。少々の者が、ではない。----地上がかつて見たことも聞いたこともないような数々の奇蹟と説教とが閃光のようにまばゆく輝いている中で、多くの者が、----多くの者がキリストに背を向け、キリストを離れ、キリストをひとり残し、キリストへのほむべき奉仕から手を引き、もとの自分の場所へと戻っていった。----ある者はユダヤ教へ、ある者はこの世へ、そしてある者は、残念ながら、自分の罪の中へ戻っていった。「彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう」。もし人々がキリストを捨てるようなことさえできるとしたら、私たち、キリストに仕える、誤りがちで弱い教役者たちが、この終わりの時代に捨て去られることがあるとしても、何1つ驚くことはないであろう。

 しかし、なぜこれらの人々は離れ去って行ったのだろうか? おそらく一部の人々が離れ去って行ったのは、あらかじめ費用を計算しておらず、「みことばのために困難や迫害が起こる」ときに、つまずいてしまったためであろう。一部の人々が離れ去って行ったのは、私たちの主の御国の性格について完全に誤解しており、単に物質的な向上や報いのことしか夢見ていなかったためであろう。しかしながら、彼らのうちの大多数の者が離れ去って行ったのは、明らかに、そこで宣告されたばかりの深遠な教えを受け入れることができなかったためであった。----すなわち、救われるには、「キリストの肉を食べ、キリストの血を飲む」ことが絶対に必要である、という教えである。これは古来より繰り返されてきたことである。初めからあったこと、最後まであり続けることである。暗愚な、生まれながらの人の心が、何にもまして嫌悪するもの、それはいわゆる「血の神学」にほかならない。カインは、高慢な無知にかられて代償の犠牲という考え方に背を向け、私たちの主から離れ去ったユダヤ人たちは、人の子の「肉を食べ、血を飲む」ことが必要だと聞いたとき、「離れ去って行った」。

 しかし、こうして「離れ去って行った」ユダヤ人たちに従い、彼らにならう者たちがどの時代にもいたことは、否定しようのない事実である。結局において、彼らのような者たちは後を絶つことがない。あらゆる時代において、おびただしい数の人々が、バプテスマによって教会の中に認め入れられ、信仰を告白するキリスト者としての生涯を始めながら、成年に達すると、全くキリストにもキリスト教にも背を向けるということを続けてきた。「キリストの忠実でりっぱな兵士またしもべであり続ける」かわりに彼らは、罪と世と不信仰のしもべとなる。こうした離脱は絶えず起こりつつある。それは古くからの病であり、私たちはそれに決して驚くべきではない。心は何よりも陰険で、それは直らない。悪魔はじっとしていることがなく、常に食い尽くすべきものを求めている。世は常に罠を仕掛けている。いのちに至る道は狭く、敵たちは多く、友は少なく、困難は大きく、十字架は重く、福音の教理は生まれながらの人にとっては腹立たしい。少しでも思慮を巡らす人にとって、あらゆる時代に大群衆がキリストから離れ去って行ったことは何の不思議でもないであろう。彼らは幼少のころに教会の外的な囲いの中に連れて来られたが、成人するに至って、キリスト教信仰をことごとく投げ捨て、荒野に出て行き、みじめに滅びていくのである。

 だが私は大胆に云う。キリストから離れ去って行きたいという性向が、現代ほど強い時代はなかった、と。生きたキリスト教に対する反抗が、これほど数多く、これほどもっともらしい形で、これほどまことしやかになされている時代はなかった。というのも、現代は自由思想と、行動の自由を標榜する時代だからである。----科学的探求と、古来からの意見に疑義を申し立て、反対尋問を行なおうと心決めしている時代、----快楽を貪欲に追求し、束縛されることに我慢のならない時代、----知性を偶像視し、いわゆる才気を途方もなく賞賛する時代、----新奇なものをアテネ的に渇仰し、絶えざる変化を愛好する時代、----あらゆる方面で大胆不敵な、しかし変転絶え間ない懐疑主義が唱えられ、人間は猿にほとんどまさっていないとされたかと思うと、人間は神にほとんど劣っていないとされるような時代、----不信仰を支持するためならごく薄っぺらな論拠をも病的なほど闇雲に受け入れながら、《天来の》啓示を支持する大いなる根本的な証拠の数々を調査することには、徹底して不熱心なものぐさを決め込もうとする時代である。そして、何にもまして悪いことに、これは見せかけの自由の時代にほかならない。「党派心は悪である! 偏狭さは悪である!」、といった類の大仰な云い回しのもとで、人々はいかなる明確な意見も全く持たずに生き、そして死んでいく。このような時代において、少しでも考えを巡らすキリスト者ならだれしも、キリストから離れていく人々がざらにいることに何の驚きも覚えないであろう。不思議がるのをやめ、愚痴をこぼすことで時間を浪費しないようにするがいい。むしろ勇士のように腰に帯を締め、この悪疫を食い止めるため自分にできることをするがいい。「昔からの通り道」にしっかりと足を踏みしめ、自分が目にしている大量離脱が、古くからの不平の悪化した形にすぎないことを思い出すがいい。死んだ人と生きている人との間に立って、この害毒が増え広がらないよう努めるがいい。「せいいっぱい大声で叫べ」。人々に向かって云うがいい。「あなたがたは自分の旗幟を鮮明にせよ。キリスト教のための戦いは敗北したわけではない。あなたがたも離れたいと思うのか?」、と。

 私のあえて信ずるところ、この論考を手に取ることになる青年たちの多くは、キリストから離れ去って行くようにとの、苛烈な誘惑をしばしば受けているに違いない。ことによるとあなたは、キリスト教の主要な真理が一瞬たりとも決して疑われることのなかった穏やかな実家から、世間に乗り出そうとしているかもしれない。そこでは、ありとあらゆる種類の奇怪な理論が絶えず持ち出されつつあり、あなたが信ずるように教えられてきた昔からの原則とは相容れない奇怪な意見が絶えず口にされるのを聞くであろう。聖なる主題について勝手気ままな考え方や解釈が手放しでなされつつある結果、あなたにとって驚くべきことに、信仰の土台そのものが揺るがされているかのように思えるであろう。あなたは才気とキリスト教信仰が必ずしも相伴わないこと、最も高度な知性の持ち主が、喜んで神を神ご自身の世界から放逐しようとすることがありえることを発見して一驚するであろう。多くの青年たちの純真な信仰にとって、こうした事態が手荒な衝撃であること、そして、それによってぐらつかされた彼らが、キリストから離れ去るように、またキリスト教を完全に捨て去るように誘惑されることに、何の不思議があるだろうか?

 さて、もしこの論考を読んでいる人の中に、このようなしかたで誘惑されている人がいるとしたら、私はキリストのゆえにその人に切に願う。堅く立ち、男らしく動かされず、誘惑に屈さないようにするがいい。今あなたを困惑させている状況には、何1つ目新しいものはないのだと悟るがいい。これは、いかなる時代にも教会を常に悩ませ、苦しめてきた古い病にすぎない。これは、サタンがエバに向かって、「あなたがたは決して死にません」、と告げた日からこのかた、常にあった病である。これは、神が許しておられるふるい分けの方法にすぎない。そのふるい分けによって、麦と殻とが分離されるのであって、私たちはみなこれをくぐり抜けなくてはならない。この世は、結局のところ、その落とし穴や魂にとっての陥穽により、またその競争や苦闘により、その失敗や成功により、その失望や困惑により、その無遠慮な理屈や極端な見解の絶えざる続出により、その精神的な葛藤と不安により、その途方もない自由思想により、それと同じくらい途方もないその迷信により、----この世は燃えさかる炉となり、試練となっているのである。すべての信仰者は、それをくぐり抜ける覚悟を固めなくてはならない。遅かれ早かれ、あなたに向かって、初めの信仰を振り捨て、キリストから離れ去って行くがいい、とほのめかすような誘惑がやって来るに違いない。それは何らかの形で、これまでにもおびただしい数の人々に向かって来たのである。それに抵抗する際には、自分は単に古くからある、しばしば打ち負かされてきた魂の敵に抵抗しているのだと悟るがいい。そうすれば戦いは半ば勝ったも同然である。

 また私はあなたに、キリストから離れさせようとする誘惑に驚かないばかりでなく、それによって動揺させられないことをも、切に願う。あなたの知っている何人もの人が、この襲撃を受けた結果、そのキリスト者としての武具を脱ぎ捨て、自分の聖書を読むことをやめ、自分の日曜日を悪用し、実質的に神などいないかのような生き方を世の中でしているからといって、それが何だというのか? 才気ある人々、前途有為な人々、そのようなことを夢にも見たことのない両親に育てられた息子たちが、自分の徴募された軍の旗じるしを見捨てて、ただの無信主義者、何も信じない者たちになってしまっているからといって、それが何だというのか? 顔を火打石のようにしてエルサレムを見据えるがいい。昔からの通り道に、幸いの道に、天の都に至る実証済みの道に、足をしっかり踏みしめるがいい。

 そうした脱党者たちは、ペテロやヤコブやヨハネにならう者たちにくらべて、いかなる成果を示せるだろうか? 彼らは、自分の内なる平安と、外的に用いられる度合とを、どれくらい増し加えただろうか? 彼らには、いかなる良心の安らぎがあるだろうか? 試練において、いかなる慰めがあるだろうか? 否! いかに多くの者がキリストから離れ去って行こうと、あなたは心を堅く保ってキリストにしがみつき続けるがいい。日ごとに祈り、日ごとに聖書を読み、定期的に恵みの手段に携わるという昔からの習慣を堅く守り続けるがいい。少数の者とともにキリストの側に立ち続け、一時の間だけ笑われたり、蔑まれたりする方が、ほんの数年の間多くの人々から賞賛された後で、キリストなくして自分には何の平安も希望も天国もないことに気づき、すでに手遅れになっているというよりも、一千倍もましである。

 II. 第二のこととして、ペテロが自分の《主人》の訴えに答えて発した問いかけについて考察しよう。主が、「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう」、と云われたことばに対して、この熱血漢で直情径行型の使徒は叫んだ。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう?」、と。疑いもなくその問いかけは、聖書の中の他の百もの問いかけと同じく、強い断定の意を示したに等しかった。「《あなた》以外に、私たちの行ける方はひとりとしていません」、と。これは、ダビデのあの言葉に似ている。「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません」(詩73:25)。

 ペテロの生きていた時代を思い起こすとき私たちは、彼がそうした問いかけを発する理由をふんだんに有していたと感じざるをえない。それは、四千年もかけたあげくに、「この世が自分の知恵によって神を知ることがない」ことがはっきりした時代であった(Iコリ1:21)。エジプト、アッシリヤ、ギリシャ、ローマといった、世俗的な事がらにおいては何にもまして卓越した地位に達した国々でさえ、信仰の事がらにおいては、はなはだしい暗黒の中に沈み込んでいた。比類ない歴史家や、悲劇作者や、詩人や、雄弁家や、建築家たちの同国人らは、偶像を礼拝し、自分の手で作ったわざの前に叩頭していた。ギリシャやローマの最も優秀な哲学者たちは、あたかも盲人であるかのように真理を手探りし続けたがそのかいもなく、戸口を見つけるのに疲れ果てていた。全地は霊的無知と不道徳とで汚れ果て、最も賢明な人々でさえ、ギリシャの哲学者プラトンのように、自分がより多くの光を必要としていると告白することしかできず、解放者を求めて、うめきと吐息をもらすだけだった。まさにペテロはこう叫んでしかるべきであった。「主よ。私たちがあなたを離れたなら、だれのところに行きましょう?」、と。

 実際、もしも使徒が、1854年前、そのカペナウムの会堂を脱党者たちとともに出て、キリストを離れたとしたら、心の平安や、良心の満足や、来世における希望を得るために、どこに向かうことができただろうか! 彼は自分の求めるものを、形式的なパリサイ人や、懐疑的なサドカイ人や、世俗的なヘロデ党の者たちや、禁欲的なエッセネ派や、アテネ、アレクサンドリヤ、ローマの哲学学派の間で、見いだせただろうか? ガマリエルや、カヤパや、ストア派や、エピクロス派や、プラトン派は、彼の霊的な渇きを癒し、彼の魂を養えただろうか? そんな問いかけをしても時間の無駄である。知識の泉であると自称するこうした人々はみな、とうの昔に、人間の作り出した多くの水ため、水をためることのできない、こわれた水ためであることを露呈していた。それらは不安にかられた思いを決して満足させなかった。そうした水を飲んだ者は、再び渇くことになった。

 しかしペテロの尋ねた問いかけは、真のキリスト者が、キリストから離れていくよう誘惑されるときには、常に大胆に問い返してよい質問である。きょうのこの日、----人々が私たちに告げるところ、キリスト教はすでに時代遅れの、すりきれたものになっていると云われるこの日、----私たちはそういう相手に、何かそれよりすぐれたものを示してみよと挑戦して全然かまわない。そうしたければ彼らは、私たちに向かって啓示宗教に関する反論を浴びせかけ、私たちが答えに窮するような数多くのことを云えるであろう。しかし、結局のところ、私たちはそういう人々に向かって、「さらにまさる道」を示してみるがいい、と自信をもって挑むことができる。単純に聖書のすべてを信じ、キリストに従っている人が保持しているものにまさる、堅固な基盤を示してみるがいい、と。

 かりに、私たちが弱さを覚える中にあって、つい、キリストから離れ去って行くという誘惑に従ってしまったとしてみよう。自分の聖書を閉じ、あらゆる教義を退け、自分の父祖たちの化石化したような神学に尊大な蔑みの目を向け、洗練された無信主義で満足するか、冷たい形式主義のちょっとした切れ端で満足することになったとしてみよう。だがいかなる点で私たちは、自分の幸福や、自分が用いられる度合を増し加えたことに気づくだろうか? 自分が手放したものに引き替えて、どれほど堅固なものを手に入れるだろうか? ひとたびキリストに背を向けたならば、どこであなたは良心をいこわせる平安を、義務を行なうための強さを、誘惑に抗する力を、困難における慰めを、死の時における支えを、墓を待ち望むことにおける希望を見いだすのだろうか? あなたはそう尋ねてよいであろう。無信主義には何の答えを返すこともできない。こうした事がらは、十字架につけられ、その後よみがえったキリストを信ずる信仰の生涯を送っている人々によってのみ見いだされるのである。

 実際私たちは、キリストに背を向けるなら、助けと、強さと、慰めを得るために、だれのところに行けるだろうか? 私たちの生きている世界は、好むと好まざるとに関わらず、悩みに満ちた世界である。それを食い止め、防ごうとしても、カヌート王が上げ潮を食い止めて、玉座のまわりに海水が不作法に増水するのを防げなかったのと同じくらい役に立たない。私たちの肉体は一千もの病にかかりやすく、私たちの心は一千もの悲しみに浸されやすい。地上のいかなる被造物にまして、最も脆弱で、最も肉体的に精神的に強い苦しみを受けうるものは人間にほかならない。病が、死が、葬儀が、別れが、離別が、損失が、失敗が、失望が、また傍目にはそれと知れない私的な家族内の試練が、時として私たちに襲いかかる。そして人間性には、何としても、そうしたものに立ち向かうための助けが、助けが、助けが必要である! あゝ、もし私たちがキリストを離れるとしたなら、渇き切った、うめきをあげる人間性はいずこで助けを見いだせるというのだろうか?

 あからさまな真実を云えば、全能の、個人的な《友》のほか何物も、人間の魂の正当な欲求を満たすことは決してない。形而上学的な概念や、哲学的な理論や、抽象的な観念や、「目に見えざる、無限の内なる光」に関するあいまいな思弁などといったものは、少数の選良を一時的には満足させるかもしれない。しかし人類の大部分は、もし何らかの宗教を少しでもいだいているとしたら、自分がより頼み、信頼することのできるような人格を差し出さない宗教では決して満足しないであろう。この人格に対する渇仰こそ、ローマのマリヤ崇拝にその奇妙な力を与えているものにほかならない。そして、ひとたびこの原則を認めるならば、だれにもまして人間を満ち足らわせる、うってつけのお方として、聖書が示すキリストほどのお方をどこで見いだせるだろうか? 世界を見渡し、できるものなら、四福音書の中で私たちの眼前に差し出されている、このほむべき神の子に比肩しうるような信仰の対象を指摘してみるがいい。死に行く世界を前にするとき、私たちに求められるのは否定的言辞ではなく、肯定的な言辞である。「私たちがキリストを離れたなら、だれのところに行きましょう?」

 そう云いたければ、私たちに向かって云うがいい。生ける水をわき上がらせるというあなたがたの古い泉は干上がりつつあり、十九世紀には新しい神学が必要なのだ、と。しかし私には、こうした主張を確証するような証拠を全く目にすることができない。私の見るところ、世界中のおびただしい数の人々は、千八百年経った後でも、この泉から飲み続けている。そして、正直に身を屈めて飲む人のうち、ただひとりも自分の渇きが癒されなかったと不平を云う者はいない。そして、その間ずっと、この幸いな古い泉を軽蔑すると公言している人々は、それに取って代われるようないかなるものをも私たちに示すことができないのである。そうした人が約束する、その精神的自由と高き光は、アフリカの砂漠の蜃気楼のように人を欺き、夢のように非現実的なものである。この古き泉の代替物は、人間の想像の中にしか存在していない。この古き泉を離れる者は、それに立ち戻らなければ、渇きのために死んでしまうことに気づくであろう。ことによると、読者の中でも年若な人々は心ひそかに、啓示宗教に伴う種々の困難は説明しがたいものであって、この暗く不確かな時代にあって自分たちは「どこへ行くべきか」わからないのだ、と自分に思い込ませようとしているかもしれない。私がそういう人々に切に願うのは、不信仰に伴う種々の困難の方が、信仰に伴う困難よりもはるかに大きいことを考えてみることである。人々が云いたいだけのことを云って、聖書による昔からの通り道を見下し、あなたをキリストから引き離そうとするとき、----彼らが古来からの、使い古された反論の数々、すなわち、異なる読み方や、疑わしい著者性や、言明と言明との間にある不一致や、いわゆる信じがたいような奇蹟の数々を積み上げるとき、----彼らはそれでもやはり、聖書に代わる何の代替物も差し出すことはできず、「私たちがだれのところに行きましょう?」、との問いかけに答えられないのである。啓示を証明する主要な数々の証拠は、やはり決してくつがえされてはいない、という大きな事実が残っているのである。私たちが悲しみに満ちた世界の中にある弱い生き物であって、助けの手を必要としており、その助けはキリストだけが差し出すことができ、それを千八百年もの間、おびただしい数の人々が十分なものであると見いだしてきたし、今も見いだしつつある、という広大な事実は残っているのである。蓋然性という大いなる論拠は全く私たちの側にある。確かに、キリストとキリスト教にすがりつくことの方が、そこにいかなる困難があると申し立てられようと、不確実性の大海に乗り出して、何の希望も慰めもなく死ぬまで旅をし、目に見えない世界について全くの無知を告白しているよりも賢明なことであるに違いない。

 そして、結局において、ある特定の教理が一見すると難解であるがためにキリストから離れ去ったとしても、決してそれは、精神的な葛藤から免れることを保証しはしない。キリスト教に伴う種々の問題は大きく、深く見えるかもしれない。だが、不信仰に伴う問題はさらに大きく、ずっと深い。そして、その中でも重要な問題の1つが、この問いかけに答えを返せない、ということなのである。「私は、キリストを離れたなら、魂の真の平安や休息を他のどこで見いだせるだろうか? 私がだれのところに行けるだろうか? 世界中のどこで私は、キリストに対する信仰の道よりもさらにすぐれた道を見いだせるだろうか? キリストに取って代われるほどの個人的な友がどこにいるだろうか?」 昔からの《福音主義的キリスト教》に、いかなる困難な事実や教理が伴っていようと、その受肉や、贖罪や、復活や、昇天の教理の方が、ソッツィーニ主義者や理神論者の唱える冷たく不毛な信条よりも、あるいは現代の不信仰のわびしい否定論よりも、一千倍もましである。聖句と賛美歌と単純な信仰に基づき、何百万もの人々を満足させているキリスト教信仰の方が、だれひとり心底からは満足させないような、思弁的哲学の荒涼たる空虚さよりもましである。

 III. 最後に考察したいのは、シモン・ペテロがこの聖句で口にしている高貴な宣言である。「あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます」。

 私は一瞬たりとも、使徒がここで自分の用いた言葉の意味を完全にとらえていたと考えるものではない。彼がそれを完全に把握していたなどと考えるのは、私たちの主の復活以前に彼が有していた知識について私たちが読みとれる一切合切とつじつまが合わないであろう。彼が意味していたのは、せいぜいこのようなことであったと考えてよかろう。「あなたは真の《メシヤ》です。あなたは、約束されたモーセのような《預言者》です。こう書かれているお方です。『わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる』」(申18:18)。ペテロは、このよく知られた聖句の意味の豊かさをまだ悟っていなかったにせよ、この聖句を念頭にしていたと私は信ずる。

 しかし、1つのことについてはきわめて確かである。「永遠のいのち」という云い回しは、彼にとっても、十二弟子全員にとっても、イエスが彼らの間を出入りしていた間から、非常に耳になじんだものであったに違いない。思うに、彼らがこの云い回しを主の御口から聞かない日々はほとんどなかったであろう。それで彼らは、それを完全に理解することはないまでも、その云い回しが口をついて出てくるほどにはなっていたのである。四福音書に含まれている、私たちの主の教えの短い記録の中に、この云い回しは24回も出現している。聖ヨハネの福音書だけで、これは17回も出てきている。私たちが読んでいるこのヨハネ6章の中には、5回以上も記されている。疑いもなく、そうした主の教えは、こう語ったときのペテロの耳に響いていたに違いない。

 しかしペテロが、その日には自分が「何を言っているか知らなかった」にせよ、主の復活の後には、その悟りが開ける日がやって来た。主の十字架刑の前には、彼は単に「鏡にぼんやり映るものを見て」いるにすぎなかったが、その「永遠のいのちのことば」にある高さと深さを見てとるときはやがてやって来た。そして、「使徒の働き」と新約書簡という完全な光のもとにある私たちは、私たちの主がこれほどしばしばお用いになった、この力強い語句に含まれている事がらについて、いかなる疑念も全く感ずる必要はない。

 キリストがお持ちの永遠のいのちのことばとは、主がこの世に来られて宣言なさったいのち----私たちが生きている間には信仰によって魂のうちで始まり、私たちが死んだときには栄光によって完成されるいのち----が、いかなる性質のものであるかについて語ることばであった。----それは、この永遠のいのちがいかにして罪深い人間に与えられるかという方法、すなわち、主が私たちの《身代わり》として十字架上で贖いの死を遂げるという方法について語ることばであった。----それは、私たちがこの永遠のいのちの必要を感じとった際、それを自分のものとするための条件、すなわち、単純な信仰という条件について語ることばであった。ラティマーが述べたように、それは「信じて、持つ」だけのことである。----それは、永遠のいのちに至る途上にある人々がどうしようもなく必要としており、その人々に豊かに供給されている訓練と規律、すなわち、聖霊の更新と聖化の恵みについて語ることばであった。----それは、永遠のいのちに至るような信仰を有するすべての人々のためにたくわえられている、途上の種々の慰めと励まし、すなわち、キリストの日ごとの助けと同情と入念なご配慮とについて語ることばであった。こうしたすべてのこと、そして、今は私が個別に語ることのできないさらに多くのことが、この小さな語句----「永遠のいのちのことば」----に含まれているのである。私たちの主がある箇所でこう述べておられるのも不思議ではない。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」。「あなたがわたしに下さったみことばを、わたしは彼らに与えました」*(ヨハ10:10; 17:8)。

 しばらくの間、いかに膨大な数の人々が、過去十八世紀の間、この「永遠のいのちのことば」を単なる「言葉」としてではなく、堅固な実質として見いだしてきたか、考えてみよう。彼らはそのことばの正しさを確信し、それを心から信じ、それが自分の魂にとって食べ物であり飲み物であることを見いだした。私たちは非常に多くの雲のような証人によって取り巻かれている。彼らは、このことばを信ずる信仰によって、幸福で、用いられる生涯を送り、栄光に満ちた臨終を迎えて死んでいった。このことをあえて否定するような人がいるだろうか? キリストなしに、そのような生涯や死をどこで見いだせるだろうか?

 キリストの「永遠のいのちのことば」を信ずる信仰こそ、ペテロとヨハネをしてユダヤ人議会の前に大胆に立たせ、自分たちの《主人》について、結果も恐れず、こう告白させたものであった。「世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていない」(使4:12)。

 キリストの「永遠のいのちのことば」を信ずる信仰こそ、パウロをしてユダヤ教から脱退させ、福音宣教のために人生を費やさせ、死の瀬戸際にありながらも、こう云わせたものであった。「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信している」(IIテモ1:12)。

 キリストの「永遠のいのちのことば」を信ずる信仰こそ、フーパー主教をしてグロスターの火刑柱へと大胆に赴く前に、こう云わせたものであった。「生は甘く、死は苦い。さはあれど、永遠の生はいやまして甘く、永遠の死はいやまして苦い」。

 キリストの「永遠のいのちのことば」を信ずる信仰こそ、ニコラス・リドリとヒュー・ラティマーをして、オックスフォードのブロードストリートで焼き殺されても、宗教改革の原則を否定しようとはさせなかったものであった。

 キリストの「永遠のいのちのことば」を信ずる信仰こそ、ヘンリ・マーティンをして、ケンブリッジにおける安逸と栄誉ある生活に背を向けさせ、熱帯気候の地へと向かわせ、宣教師として孤独な死を遂げさせたものであった。

 キリストの「永遠のいのちのことば」を信ずる信仰こそ、かの尊敬すべき女性キャサリン・テイトをして、その最も感動的な伝記が記すように、五週間の間に五人の子どもと死別しながら、キリストがそのみことばをお守りになり、子どもたちの肉体と魂に配慮してくださり、最後の日にはその子たちを連れて彼女を迎えに来てくださるとの完全な確信に満たしたものであった。

 こうした数々の事実にくらべると、キリストに背を向け、他の主人を求めた人々の生涯および死によって示されている事実は、なんとすさまじく対照的なことか! 非キリスト的な理論や、観念や、原理を標榜する人々は、そのありったけの才気を傾けても、いかなる実りを指摘できるだろうか? いかに聖く、愛に満ちた、平穏な霊の静けさを彼らは世に示してきただろうか? 暗愚や不道徳や迷信や罪に対して彼らはいかなる勝利をおさめてきただろうか? いかなる宣教活動に成功してきただろうか? いかなる海を越えてきただろうか? いかなる国々を開化し、教化してきただろうか? 国内で顧みられていない、いかなる階層の人々を向上させてきただろうか? いかなる自己否定的な労苦を忍んできただろうか? いかなる解放を地上にもたらしてきただろうか? そう尋ねてみるがいい。あなたは何の答えも得られないであろう。にせ預言者たちについて私たちの主がこう云われたのも当然である。「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます」(マタ7:15、16)。ペテロとともに、「あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます」、と云える者たちだけが、生前にはその足跡を人類全体の上に残し、死ぬ際には、「死よ。おまえのとげはどこにあるのか」、と云えるのである。

 (a) 結論として、私はこの論考を読んでいるあらゆる人に切に願いたい。果たして自分が、このユダヤ人たちのようにキリストから離れ去って行きつつあるか、それともペテロのように大胆にキリストにしがみつきつつあるかを自問してほしい。あなたは危険な時代に生きている。かつては無信仰がほとんど何の尊敬も得られない時代もあった。だが、そうした時代はすでに絶えて久しい。しかし、今もなおキリストは、あなたの心の扉を叩き続けておられる。自分の生き方について熟考し、あなたがしていることに留意するよう求めておられる。「あなたも離れたいと思うのか?」、と。あなたの心の内奥に裁判所を設けるがいい。自分の内なる性格について決して詮議させようとしない、怠惰なエピクロス的感情に抵抗するがいい。嘘ではない。天におられる偉大な《友》の必要をあなたが感ずる時がやって来ようとしている。そのお方なしでも、そこそこ快適に生きてはいられるかもしれない。だが、そのお方なしには、決して慰めをもって死ぬことはないであろう。

 ことによるとあなたは、私に告げるかもしれない。確かに自分は現在のところは当然あってしかるべき状態に達してはいないが、本気でキリストから離れるつもりなどない、と。しかし、キリスト教信仰の中には、一瞬たりとも態度を留保することを許さないもの、確かな光を得るまで待っていたい、などという弁解を許さないものがいくつかあるのである。あるいはあなたは、何らかの特別な目標に向かって全精力を傾けつつあるため、今は時間がなく、ペリクスのように、「おりを見て、また」考えようと望んでいるのかもしれない。しかし、おお! 待ちつつあり、ぐずつきつつある魂よ。キリストのことばをないがしろにすること、キリストの定めた制度と日をないがしろにすることは、「キリストから離れ去って行くこと」でなくて何であろうか? 目を覚まし、自分が斜面の上に立っていること、そして徐々にずり落ちつつあることに気づくがいい。あなたは漂っている。日々漂い続けている。----そして、神から次第に次第に遠ざかりつつある。目を覚まし、これ以上は漂わないように、神の助けによって決意するがいい。

 (b) しかし、信仰を全く持たないことに次いで、この論考を読むあらゆる人に用心するよう切に願いたいのは、キリストがその正当な地位を占めていないようなキリスト教信仰である。私たちは決して、ちっぽけで、安っぽい、形式的なキリスト教で満足しようとしてはならない。日曜の朝になると無頓着に身に着け、夜になれば脱ぎ捨てる、また、平日の間は何の影響も及ぼさないようなキリスト教で満足していてはならない。そのようなキリスト教は私たちに、生きている間平安も与えることも、死ぬ際に希望を与えることもなく、誘惑に抵抗する力を与えることも、悩みにおいて慰めを与えることもない。キリストだけが「永遠のいのちのことば」を持っておられるのであって、私たちはそのことばを受け入れ、信じ、心にいだき、自分の魂の食べ物飲み物としなくてはならない。生きた、はっきりと感じとれるキリストとの交わりに欠けたキリスト教、キリストの血潮ととりなしとの恩恵を把握していないキリスト教、キリストのいけにえもキリストの祭司性も欠けたキリスト教は、力のない、うんざりするような形式にほかならない。

 (c) 最後に、もし自分がキリストの真のしもべであると思える理由があるとするなら、「私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しよう」。人々が私たちを笑うなら笑わせておくがいい。私たちから顔を背けようとするなら、したいだけ背けさせるがいい。そうした時も私たちは、自分に向かって平静に、またへりくだって云うようにしよう。「『結局において、もしキリストを離れるなら、私はだれのところに行けるだろうか?』 私は、自分の内側で、キリストが『永遠のいのちのことば』を持っておられることを感じている。私の見るところ、何万何千もの人々は、そのことばが自分の魂にとって食べ物飲み物であることを実感している。キリストの行くところに、私も行こう。キリストのお泊まりになるところに、私も泊まろう。死に行く世にあって、私はこれにまさるものがあるとは思えない。私はキリストとそのことばとにすがりついていよう。それらは決して、それらに頼るいかなる者をも裏切ったことがなく、私をも裏切らないと私は信ずる」、と。

「だれのところに?」[了]

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*1 以下のページに含まれている内容は、元来、1880年に、オックスフォードの聖メアリー教会の選抜説教者としての私の番が巡ってきたときに、全学を前に説教されたものである。ここでは、その一部を割愛し、いくつかの修正を加えた形になっている。[本文に戻る]

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