8. 勝利*1
「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」----Iヨハ5:4、5いささかでもキリスト教信仰を有していると云う者は、自分の魂の状態を時にふれて吟味し、果たして自分が「神の前に正しく」(使8:21)あるかどうかを見いだすようにこころがけるべきである。
私たちは真のキリスト者だろうか? 私たちが死んだとき、天国に行く見込みはあるだろうか? 私たちは新しく生まれているだろうか?----御霊によって生まれているだろうか?----神によって生まれているだろうか? これらは心探られる問いかけである。答えを出さずにおくわけにはいかない問いかけである。そして、この論考の冒頭に冠した聖句は、その答えを出す助けとなるであろう。もし私たちが神によって生まれているとしたら、私たちには、1つの大きく特徴的な目印があるはずである。----私たちは「世に勝つ」のである。
この主題を解き明かすにあたり私は、この論考において、3つの点に注意を引きたいと願うものである。
I. 第一のこととして、聖ヨハネが真のキリスト者を云い表わしている呼び名を考察しよう。彼は、その第一の手紙の中で、キリスト者のことを六度以上も、「神によって生まれた者」、「神から生まれた者」と呼んでいる。
II. 第二のこととして、聖ヨハネが神から生まれた者について語っている特別な目印を考察しよう。彼は、そうした者が「世に勝つ」と云っている。
III. 最後のこととして、真のキリスト者が世に対して勝利する秘訣を考察しよう。ヨハネは云う。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」。その道ならしとして、まず真剣な希望を表明させてほしい。いかなる読者も、私たちの前にある主題が論争的な主題であると考えて、それから顔をそむけないでほしい。おそらく聖書のいかなる教理にもまして、論争されることが徹底して嫌悪されているのは、この「神によって生まれた者」という語句に含まれている教理ではないかと思う。だが、その語句に含まれているのは、キリスト教の大いなる土台たる真理なのである。それを無視するならば、決して無事にはすまされない。バプテスマの効用や、聖餐式礼拝の意味に関しては、さまざまな不和や論争がなされてきたが、それらの底深くには、この「神によって生まれた者」という語句に込められた、永遠の福音の主要な岩の1つ、----人の魂に及ぼされた聖霊の内的な働きがあるのである。《私たちのために》なされたキリストの贖いのみわざと、《私たちの内側で》なされる聖霊の聖めのみわざこそ、救いに至るキリスト教信仰の2つの土台石にほかならない。確かに新約聖書の最後の記者が、1つの書簡の5つの章の中で七度も提起している真理、----キリスト者たる人の顕著な特徴のいくつかと七度も彼が結びつけている真理、----このような真理は嫌悪されたり、恐れのあまり見て見ぬふりをされたりすべきではない。この主題は、異論の余地ある分野に立ち入ることなしに扱うことはできるに違いない。私はこの論考で、そのようにこれを扱っていこうと思う。
I. まず第一に、私は読者に聖ヨハネが真のキリスト者を云い表わしている呼び名に注目してほしい。ここで、またその他の5つの箇所でヨハネは、キリスト者のことを「神によって生まれた者」と語っている。
この豊かで、素晴らしい表現を手短に分析してみよう。どれほど卑しい階級の、いかなる人間の子どもの自然的出生も、重要な出来事である。それは、太陽や、月や、星々や、地上よりも長く存続するであろう、またやがては世界を揺るがすことになる人格を形成することもありえる被造物が存在するようになったということなのである。では霊的誕生は、どれほどいやまさって重要なものに違いないことか! いかに多くのことが、この比喩的語句、「神によって生まれた者」のうちに見いだされることか!
(a) 「神によって生まれる」ということは、心の《内的変化を受ける》ということである。それは、全く新しい存在となると云えるほど徹底的な変化である。人間の魂に、天からの種、新しい原理、《天来の》性質、新しい意志を導入することである。確かにそれは、決して外的な肉体的変質ではない。だが、それは、それと何ら劣りない、内的な人の徹底的な変質なのである。それは私たちの精神に、いかなる新しい機能もつけ加えはしない。だがそれは、私たちがもとから有する精神機能すべてに、全く新しい傾向と偏向を与えるのである。「神によって生まれた」人の嗜好と意見、罪観、世界観、聖書観、神観、キリスト観は、完全に新しくされていて、その人はいかなる意向においても意図においても、聖パウロが「新しい創造」と呼ぶ者となっているのである。実際、《教会教理問答》が正しくも云うように、それは、「罪に対して死に、義に対して新しく生まれること」である。
(b) 「神によって生まれる」という変化は、信仰を持つご自分の民すべてに対する《主イエス・キリストの格別の賜物》である。主こそ、彼らの心に子とされる御霊を植えつけ、それによって彼らが、「アバ、父」、と呼べるようにし、彼らをご自分の神秘的なからだの肢体とし、全能の主の息子とし娘としてくださるお方である(ロマ8:15)。こう書かれている。「子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」。「父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです」(ヨハ5:21、26)。つまり、聖ヨハネの福音書第1章が教えていることは、世界が存在し続ける限り真理であり続けるのである。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」(ヨハ1:12、13)。
(c) 「神によって生まれる」という変化は、疑いもなく《非常に神秘的な》ものである。主イエス・キリストご自身が、このよく知られた言葉で私たちに告げておられる。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」(ヨハ3:8)。しかし、私たちがみな告白せざるをえないように、私たちの周囲の自然界には、うまく説明のつかない一千もの事がらがあるが、それでも私たちはそれを信じているのである。私たちは自分の意志がいかにして自分の肢体に対して日々働きかけ、それらを自分の思い通りに動かしたり、休ませたりしているのかを説明できない。だが、いかなる人もその事実を否定しようとは考えない。いかに知恵深い哲学者も、物質世界の起源を私たちに告げることはできない。それでは、「神によって生まれた」人が、内側における霊的生命の発端を理解できないからといって、私たちはいかにして不平を云う権利があるだろうか?
(d) しかし、「神によって生まれる」という変化は、《常に見てとること、感じとることができる》ものである。私は決して、この変化をこうむった人が、例外なく自分自身の感ずる感覚を理解できるなどとは云っていない。逆に、そうした感覚はしばしば多くの懸念と、争闘と、内的葛藤を引き起こすもととなる。また私は決して、「神によって生まれた」人が、たちどころに確立したキリスト者となるとか、その生活やあり方のいかなる部分においても弱さや欠点が見られないようなキリスト者となる、などと云っているのではない。しかし私は云いたい。聖霊は、決してある人の魂の内側で働きながら、その人の性格やふるまいのうちに、何らかの感知できる結果を生じさせずにおくようなことはない、と。神の真の恵みは、光や火のようなものである。それは隠しておくことができない。決して何もせずにいることはない。決して眠ることはない。聖書のどこを探しても、「休眠中の」恵みなどというものはない。こう書かれている。「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです」(Iヨハ3:9)。
(e) 最後の最後に、神によって生まれることは、私たちが救われるために《絶対に必要な》ものである。それなくして私たちは、現世で神を正しく知ることも、受け入れていただけるように神に仕えることも、来世において神とともに快適に住むこともできない。いかなるアダムの子も救われるためには、決して欠かせない必要なことが2つある。1つはキリストの血によってその罪を赦されること。もう1つはキリストの御霊によってその心が更新されることである。赦しがなければ、私たちは天国に入る資格がない。更新された心がなければ、私たちは天国を楽しむことができない。この2つのことは決して分離できない。赦された人はみな更新された人であり、更新された人はみな赦された人でもある。福音には、2つの永続的な原則があり、それらを決して忘れてはならない。1つは、「御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがない」*、であり、もう1つは、「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」、である(ヨハ3:36; ロマ8:9)。奇抜だが、真実きわまりない、古い格言はこう云っている。「一度生まれ、二度死に、永遠に死んでいる。二度生まれ、決して死なず、永遠に生きている」。自然的出生がなければ私たちは、決して地上で生きて活動することはなかったはずである。霊的誕生がなければ私たちは、決して天国で生きることも暮らすこともありえない。こう書かれている。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハ3:3)。
さて、この聖句で聖ヨハネが真のキリスト者に与えている呼び名から離れる前に、私たちは、自分が「神によって生まれる」ことについて経験的に何を知っているか、自問してみよう。正直な自己吟味によって、自分の心を探り、それをためしてみよう。自分の内なる人において聖霊の働きが現実に行なわれているかどうかを努めて見いだしてみよう。私は、偽善や、うぬぼれや、狂信を助長しようなどとは毛ほども考えていない。また私はいかなる人にも、天国でしか見いだせないような、御使い的な完全さを、地上にいる自らのうちに探り求めるよう云っているのでもない。私が云っているのはただ、私たちは決してキリスト教の「外的で目に見えるしるし」だけで満足せず、「内的で霊的な恵み」の何がしかを悟り知るまでは、安心しないようにしよう、ということである。私が求めているのはただ、----そして私はそう求める権利があると思うが、----私たちがしばしばこの聖ヨハネの第一の手紙を手にして、その光によって、果たして自分が「神によって生まれた者」かどうかを、努めて探り求めるべきだ、ということである。
もう1つだけつけ足させてほしい。それを云わずにすますわけにはいかない。私たちは決して、この異端のはびこる時代にあって、聖霊の神性と人格性、またその魂におけるお働きの現実性のため熱心に戦うことを恥じないようにしよう。私たちは、《三位一体》の教理および、私たちの主イエス・キリストの正当なる《神性》とを、福音の土台たる偉大な真理として心に抱きしめるのと全く同じように、聖霊なる神についての真理をも堅く握りしめていよう。私たちは常に御霊には、聖書が御霊に割り当てている地位と尊厳を、私たちのキリスト教信仰の中においても与えるようにしよう。神の摂理によって私たちがいかなる場所で礼拝するように召されているとしても、私たちが最初に問うべき問いは、「《小羊》はどこにいるのか?」、とし、第二に問うべき問いは、「《聖霊》はどこにいるのか?」、とするようにしよう。周知のように、イエス・キリストと義認という真の教理のためには、多くの殉教者がいた。だが、とある著名な聖徒はかつてこう云った。「聖霊と、魂の内側におけるそのみわざのための殉教者が必要とされる時代がやって来ることもありえる」、と。幸いなことよ、私たちの尊崇すべき《教会教理問答》のなじみ深い言葉を、単に唇だけでなく、心から云うことのできる人は。----「われは、われおよび全世界を造りたましいし、父なる神を信ず。われは、われおよび全人類を贖いたましいし、子なる神を信ず。われは、われおよび神に選ばれたすべての人々を聖なるものとしたもう聖霊なる神を信ず」。
II. 私がこの聖句で読者に注意してほしい第二のことは、聖ヨハネが真のキリスト者たる人について示している特別な目印である。彼は云っている。「神によって生まれた者はみな、世に勝つ」、と。つまり、かのソダー・アンド・マンの主教であった聖なる人、ウィルスン主教の言葉を用いると、使徒はここで、「新生を示す唯一確実な証明は勝利である」、と教えているのである。
私たちはみな自分にへつらいがちな者である。英国国教会という、かの大いなる教会組織の一員としてきちんと登録されていさえすれば、自分の魂には大方危険はあるはずがない、とみなしがちな者である。私たちは、ひそかに良心の声にあらがい、こうした心地よい考えに身を浸す。「私は国教徒だ。何を恐れることがあろう?」 だが常識によっても、ちょっと考えてみても思い出されるように、特権にはそれに対応する責任がつきものである。自分の教会員籍に自己満足的によりかかって心安んじる前に、自分に向かってこう問いただした方がよいであろう。果たして自分の性格には、キリストの神秘的なからだの生きた肢体であるという目印が伴っているだろうか、と。私たちは、悪魔とそのすべてのわざとの縁を絶つこと、肉をそのさまざまの情欲や欲望とともに十字架につけることとについて、少しでも何か知っているだろうか? そして、この聖句において私たちの前でなされているように、この件を一言で集約すれば、私たちは「世に勝つ」ことについて少しでも何か知っているだろうか?
人間に立ち向かっている3つの霊的大敵のうち、どれが魂に最も害悪を及ぼすものであるかは云いがたいものがある。最後の日にならなければ、その点に決着をつけることはできまい。しかし、私が大胆に云うところ、いま現在ほど、「世」が危険きわまりなく、キリストの教会に危害を加えることに成功している時代はいまだかつてなかった。いかなる時代にも、その時代に独特の伝染性疾患があると云われる。思うに、「世俗性」こそ現代のキリスト教界に独特の悪疫ではないだろうか。福音の初期におけるイスカリオテ・ユダや、デマスや、その他多くの者たちにとってあれほど致命的であったのと同じような世の良きものや良い評判への愛、----同じような世の反対や非難への怯え、----これらはそれぞれ、十九世紀においても紀元一世紀と全く同じように強力であり、その百倍も悪化している。異教徒の皇帝たちの治下における迫害の時代にあってさえ、こうした霊的な敵どもは千人を打ち殺してきたし、現代のような安逸と、奢侈と、自由思想の時代には、万人を打ち殺している。近年、世の微妙な影響力は、私たちの吸い込む空気そのものをすら汚染しているように思われる。それは光の御使いのように私たちの家庭にしのび込み、おびただしい数の人々をとりこにして引いていく。それでいて彼らは、決して自分が奴隷となっていることがわからないのである。英国における富の途方もない増大と、その結果可能になった放縦な暮らし方、そして、ありとあらゆる種類の娯楽や遊興の追求に狂奔する人々のすさまじいほどの増加、そして、いわゆる寛容な意見の驚倒すべき勃興により、だれが何をしようと誤っているとされることはなく、さながら士師記の時代のように、だれしも自分の目に正しいと思うことを考えて、行なうべきであり、それは決して妨げられてはならないと、声高に主張されている状況、----こうした、現代の異様な現象のすべてによって、世には驚愕すべき力が付加されており、キリストの教役者たちは、倍増しで、「世に用心せよ!」、と叫ぶことが必要となっている。
この増大した危険を前にするとき私たちは、決して生ける神のことばが変わらないことを忘れてはならない。「世を……愛してはなりません」。----「この世と調子を合わせてはいけません」。----「世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです」。----神の法令集の中にある、こうした力強い言葉は、いまだに撤回されてはいない(Iヨハ2:15; ロマ12:2; ヤコ4:4)。真のキリスト者は、こうした言葉に従おうと日々努力し、その従順によって自分のキリスト教信仰が真実なものであることを証ししている。千八百年前と変わらず今も真実なこと、それは、「神によって生まれた」人が、多かれ少なかれ、世に抵抗し、世に勝つ人だということである。そのような人が「勝つ」というのは、決して世間の片隅に引きこもり、修道僧や世捨て人になることによってではなく、自分の敵どもに大胆に立ち向かい、それを征服することによってである。その人は社会における正当な立場を占めることを拒んだり、その立場において神がその人を召しておられる義務を果たすのを拒んだりしない。しかしその人は、世の「中に」いても、世に「属して」はいない。その人は世を用いはするが、用いすぎはしない。その人は、いつ「否」と云うべきかを知っている。いつ同調を拒むべきか、いつ止まるべきか、いつ「ここまでは私も行くが、これ以上先へは行かない」と云うべきかを知っている。その人は、人生の仕事や楽しみが、あたかも自分の存在の総体であるかのように、それらに全く没頭しきってはいない。無害な事がらにおいてすらその人は、自分の趣味や嗜好に歯止めを掛けており、それらによって引きずられないようにしている。その人は、人生が娯楽や、金儲けや、政治や、科学的探求だけからなっているような生き方をしたり、来世などないかのような生き方をしたりしない。いかなる場所、いかなる状況にあっても、公においても私においても、仕事においても遊びにおいても、その人は、「より美しき国の市民」のように身を持し、この世にある物事に何から何まで依存してはいない者のようにふるまう。ピュロス王の前に立った、あの高貴なローマ人大使のように、巨象によっても黄金によっても、等しく動かされはしない。賄賂をつまれようが、脅されようが、誘惑されようが、その人は決して自分の魂をないがしろにしはしない。これこそ、真のキリスト者が自分のキリスト教信仰の真実さを証明する1つの方法である。これこそ「神によって生まれた」人が世に勝つ道である。
私は、ここまで語ってきたことが一見すると「ひどいことば」に思えるかもしれないことを百も承知している。私がいま掲げた真のキリスト教の基準は、けた外れの、極端な、この世では達成不可能なもののように見えるかもしれない。私が述べたようなしかたで「勝つ」には、絶えざる戦いと苦闘が必要とされ、そうした戦いはみな、血肉にとっては当然不快なものである。それを私は十分に認める。自分が時折孤立しているのに気づくこと、また身の回りのあらゆる人の意見に逆らった行動をとることは、決して気分のいいものではない。私たちは、偏狭で、排他的で、愛のない者、無愛想で、意地悪で、周囲との和を乱す者とみなされることを好まない。当然ながら私たちは、安楽に、人から良く云われて暮らすことを好み、宗教上のことで人と対立することは絶対に避けたいと思う。それで、もし私たちが真のキリスト者となるには、こうした戦いや闘争のすべてが絶対に必要だと聞かされると、「もう駄目だ、そんなことはできない」、と云いたい気持ちにかられるのである。私は苦い経験から語っている。私自身、こうしたことをみな味わい、感じてきたのである。
このような気分にかられているすべての人々に対して、----そして、私の信ずるところ、青年たちほど強くそうした思いにかられる者はいないであろうが、----そうした、世に勝つことなど不可能だとして一切の努力から尻込みしようという気分になっているすべての人々に対して、----そうした人々全員に私は、友人としていくつかの勧めを差し出したいと思う。あなたが敵の前から逃げ出して、自分に歯が立つ相手ではないと公然と告白する前に、----あなたがその強い人の前に平伏して、首根っこを足で踏みにじられるがまままになる前に、ことによるとあなたが忘れているかもしれないいくつかのことを思い出させていただきたい。
まず、この世こそは、あなたがバプテスマを授けられた際に、今後あなたが抵抗するものと厳粛に誓われた、3つの大敵の1つではないだろうか? そこで読み上げられたこの言葉は、ただのお題目だったのだろうか? 「われらは、この子を、十字架のしるしによりて清める。そは、これより後この子が十字架につけられたるキリストへの信仰告白を恥じることなく、キリストの御旗のもとにて勇敢に罪と、《世と》、悪魔と戦い、キリストの兵士、またしもべとして生涯を全うすべきしるしなり」。あなたは本気で自分の義務を放棄するつもりなのだろうか? 本気であなたの《主人》への奉仕から退き、あなたの軍旗を見捨てて逃亡し、こそこそと後衛の方に引っ込み、戦うことを拒むつもりなのだろうか?
また、確かにおびただしい数の人々、あなたより決して強くなかった人々が、世とのこの戦いを戦い抜いて勝利したのではなかっただろうか? 過去十八世紀の間、この狭い道を歩いてきた、そして圧倒的な勝利者となった、キリスト者の兵士たちの大軍勢のことを考えるがいい。彼らに与えられて、彼らを打ち勝たせたのと同じ《天来の指揮官》が、同じ武具が、同じ助けと支えが、いつでもあなたのものになろうとしている。確かにもし彼らが勝利を得たのなら、あなたも同じことができると希望してよい。
また、世とのこの戦いは、確かに絶対に必要なものではないだろうか? 私たちの《主人》が云っておられはしないだろうか? 「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」(ルカ14:27)。「わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです」(マタ10:34)。いずれにせよ、ここにおいて私たちは、中立を保ち、じっとしていることはできない。国家間の闘争では、そのような身の処し方も可能かもしれないが、魂に関わる争闘においては完全に不可能である。多くの政治家たちをあれほど鼻高々にし、喜ばせている、不干渉の政策、「高貴なる不活動」、ただじっと黙って、物事をなりゆきのままにまかせる方針、----これらはみな、決してキリスト者の戦いにおいては役に立たない。世と、肉と、罪との間に平和を構えることは、神に敵対し、滅びに至る広い道の上にあることである。私たちには何の選択の余地も自由もない。《黙示録にある七つの教会》への約束は、ただ「勝利を得る者」にしか与えられていない。私たちは戦わなくては滅びるしかない。征服しなくては永遠に死ぬしかない。私たちは、神のすべての武具を身に着けなくてはならない。「剣のない者は着物を売って剣を買いなさい」(エペ6:11; ルカ22:36)。
確かに、こうしたことを考えると、この世と平和を構え、それに抵抗しようとしようとしないすべての人々に対して私が、目を覚ませ、自分たちの危険に気づくがいい、と命じ、切に願うのも当然であろう。目を覚まし、怠惰や、世間受けすることを愛する思いによって次第にあなたに巻きつきつつある鎖を振り捨てるがいい。手遅れにならないうちに目を覚ますがいい。----度重なる世俗的な行為によって習慣が形成され、そうした習慣が結晶化して性格の一部となり、あなたが無力な奴隷となる前に、目を覚ますがいい。人々が至るところで戦争に行くことを志願し、朽ちていく冠のために喜んで戦闘に従事しようとするとき、朽ちることのない冠のために事を行なうように立って、決意するがいい。大胆に立ち向かい、正しい武器を用いさえすれば、この世はあなたが思っているほどの強敵ではない。あなたが前に進み出るならば、思い描いていた困難は消え去るか、雪のように溶け去ってしまう。今あなたが怯えている獅子たちは鎖で繋がれていることが明らかになる。自分は何年もの間この世に仕えてきた。だがとうとうその報いがうつろで、中身のないものであることに気づいた。世のいわゆる良きものが魂を満足させも救いもしないものであることに気づいた。このように云う人々はいくらでもいる。ウルジ枢機卿の臨終の言葉は、単に今この瞬間に一万人もの心に浮かんでいるのと同じ言葉にすぎない。----
「この世の徒な虚栄と華やかさを、われは憎む。
無惨に開いた心の傷を、われは感ずる。
もしもわれが、わが王に仕えた半分ほども熱心に
神に仕えていさえしたなら、決して神はこの齢の
われを見捨てて敵の手に渡しはしなかったであろうに」しかし、その一方で、世に対する神の闘いを勇敢に戦い抜いてきた者のうち、どこに豊かな報いを見いださなかった者があるだろうか? 疑いもなくキリスト者の巡礼たちの経験は千差万別である。すべての者が、「御国にはいる恵みを豊かに加えられる」わけではないし、ある人々は「火の中をくぐるようにして助かります」(IIペテ1:11; Iコリ3:15)。しかし、私の確信するところ、いかなる人にもまして大きな喜びと平安を自分の信仰についていだき、心軽やかに天の都への旅をする者は、大胆に世から出て行き、世に対する愛と恐れに打ち勝った人にほかならない。そうした人々に《王の王》は、彼らが生きている間、誉れを与えることを喜びとなさる。また彼らが死ぬとき、彼らの証しは老バニヤンの英雄、真勇者の証しと同じものとなる。----「私は父のみもとに参ります。非常な難儀をしてここへ参りましたが、今いる所に着くために経験したすべての苦労も今は後悔しておりません」*2。
III. この聖句において、私があなたに注意するよう求めたい第三の、そして最後のことは、真のキリスト者が世に対して勝利する秘訣である。聖ヨハネは、その秘訣を私たちに対して二度明かしている。あたかも、自分の云わんとするところを強調し、取り違えようのないしかたではっきりさせておこうとするようにである。「私たちの《信仰》、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と《信じる》者ではありませんか」。
単純さは、神の手のわざの多くをまぎれもなく特徴づけるしるしである。「何と美しく単純なことよ!」、という叫びは、何らかの自然の偉大な秘密を発見した際に哲学者がしばしば発したものである。そうした驚くべき単純さによって特徴づけられているのが、「神によって生まれた」人が世に勝つ際に用いる原理である。ことによると、その人は自分でもそれをよく理解していないかもしれない。しかし、その人がそうしたあり方をしている理由、そうした行ないを行なっている理由、そうした行動をとっている理由、そうしたふるまいをしている理由は、1つの単純な理由にある。----その人が《信じている》からである。その人は、目に見えない物事が実在すると悟っている。それに比べれば、この世の微笑みや渋面は、この世の愛顧や非難は、空気のように軽く取るに足らない。神と、天国と、審きと、永遠は、その人にとって「ことばや名称」ではなく、非常に重い実質を伴った現実なのである。そして、それらに対する信仰によって、他のすべてのことは影のようにぼんやりとした、非現実的なものとなる。しかし、そうした物事を圧してはるかに高くそびえ立っているのが、彼が信仰によって見てとっている、目に見えない《救い主》である。自分を愛し、自分のためにいのちを捨て、神に対する自分の負債をご自分の尊い血によって支払い、自分のために墓に下り、自分のためによみがえり、御父に対する自分の《弁護者》として天に現われていてくださるお方である。《この方を見てとっているので》、その人はこのお方を何にもましてまず第一に愛さざるをえないと感ずる。自分の第一の思いを、地上にある物事にではなく、上にあるものにかけ、自分のために生きるのではなく、自分のために死んでくださった方のために生きざるをえないと感ずる。《この方を見てとっているので》、その人はこの世の不興に直面することを恐れず、自分が「圧倒的な勝利者」になるとの堅い確信をもって戦い続ける。つまり、1つの新しい原理の激発的な力、目に見えない神と目に見えないイエスに対する生きた信仰こそ、真のキリスト者が向き合っている種々の困難を微々たるものとし、人に対する恐れを追い払い、世に打ち勝つものなのである。
この原理こそ、使徒たちをして、ペンテコステの日以後の彼らのような者たちならしめたものにほかならない。ペテロとヨハネが議会の前に立ち、あらゆる人を驚かせるような大胆なしかたで語ったとき、彼らの躍動する信仰は、アンナスやカヤパやその同伴者たちよりもいと高き、彼らを決して捨てることのない《お方》を見ていたのである。サウロが回心し、更新された後で、自国における輝かしい栄達の見込みをすべて捨て去り、かつては軽蔑していた福音の説教者となったとき、彼は、信仰によって、はるか彼方におられる、目には見えない《お方》を見通していたのである。そのお方こそ、この現世では彼に百倍もの物を与え、来世では永遠のいのちを与えることのできるお方であった。こうした人々はみな、《信仰》によって勝ったのである。
この原理こそ、初代教会のキリスト者たちをして、死に至るまでその信仰を堅くにぎらせ、異教徒の皇帝たちによるいかに苛烈な迫害によっても動揺させなかったものである。彼らはしばしば学問もなく無知な人々で、多くの事がらを鏡に映るようにぼんやりと見ているだけだった。しかし、彼らのいわゆる「強情さ」は、プリニウスのような哲学者たちをも驚愕させ、何世紀にもわたって、ポリュカルポスやイグナティウスのように、キリストを否定するくらいなら喜んで死のうという人々は決して後を絶たなかった。罰金も、牢獄も、拷問も、火も、剣も、殉教者たちの高貴な大群の精神をくじくことはできなかった。帝政ローマがその全軍団の総力を傾けても、パレスチナで数人の漁師と取税人によって始められた宗教を撲滅することはできなかった。彼らは《信仰》によって勝ったのである。
この原理こそ、十六世紀におけるわが国の宗教改革者たちをして、ローマ教会に対する彼らの異議を撤回するよりは、死に至るまで艱難に耐えさせたものである。疑いもなく彼らの多くは、ロジャーズや、フィルポットや、ブラッドフォードのように、自分の主張を取り下げさえすれば、富裕な栄職と、自宅の寝台の上での穏やかな死にあずかることができたはずであった。しかし、彼らはむしろ患難を受けることを選び、強い信仰をもって、火刑による死を遂げた。これこそ、それと同時代の英国で殉教した一般市民たち----労働者や、職人や、奉公人たち----をして、自分の身を焼かれるために引き渡させた原理であった。貧しく、教育も受けていない者らではあったが、彼らは信仰には富んでいた。そして彼らは、たとえキリストのために語ることはできなくとも、キリストのために死ぬことはできた。こうした人々はみな、《信ずること》によって勝ったのである。
しかし、この主題について例示できる証拠をことごとく持ち出そうとするなら、いくら時間があっても足るまい。そこで私たちの生きている現代を眺めてみよう。過去百年の間に、キリストの御国の進展のため、世界に最も大きな足跡を残した人々のことを考えてみよう。ホイットフィールドや、ウェスレーや、ロウメインや、ヴェンといった教職者たちが、いかにその時代と世代において孤立していたか、また、いかなる反対と、中傷と、嘲笑と、現実の迫害とをわが国の信仰を告白するキリスト者の十中八九から受ける最中で、英国におけるキリスト教信仰を復興させたかを思い出してみよう。ウィリアム・ウィルバフォースや、ハヴロックや、ヘンリ・ローレンスや、ヘドリ・ヴィカースや、キリスト者商人ジョージ・ムーアといった人々が、いかなる証しをキリストのために、いかに困難な立場においてなしたか、また、いかにキリストの御旗を、下院や、軍営や、連隊会食堂や、財界の会計事務所においてすらも鮮明に示したかを思い出してみよう。こうした神の高貴なしもべたちが、いかに脅かされても、笑われても、自分のキリスト教信仰を捨てず、その敵たちからさえ尊敬を勝ちとっていったかを思い出してみよう。こうした人々はみな、1つの原理を有していたのである。十七世紀に国教会と王家を手荒く扱った、かの奇妙な独裁者[クロムウェル]はこう云った。「私が必要とするのは、原理を有する者たちなのだ」、と。私たちの生きる時代の、こうしたキリスト者の兵士たちは、まさに原理を有していた。そして、そこで働いていた原理とは、目に見えない神と《救い主》に対する信仰であった。この信仰によって彼らは生き、歩み、勇敢に戦い、そして勝ったのである。
この論考を読む人々の中に、真のキリスト者としての生涯を送り、世に勝ちたいと願っている人がいるだろうか? その人はまず、内側に勝利の原則を有することを求めるがいい。それがなければ、いかに外的に霊性豊かなようすをして見せようと全く無価値である。多くの世俗的な心が、修道僧の僧服の下に隠されている。信仰こそ、内なる信仰こそ、必要なただ1つのことである。その人はまず、《信仰》を求めて祈ることから始めるがいい。それは神の賜物であり、求める者には必ず与えられる賜物である。信仰の泉はまだ枯れてはいない。その鉱床は枯渇してはいない。「信仰の創始者」と呼ばれるお方は、きのうもきょうも、いつまでも、同じであり、心から願い求める人々を待っておられる(ヘブ12:2)。信仰がなければ、あなたは決して勇敢に戦うことも、決して自分の足をしっかと踏めしめることも、決してこの滑りやすい世の氷原の上を前進していくこともないであろう。行なうことを望むなら、まず信ずることがなくてはならない。もし人々が、キリスト教信仰において何もせず、興味なげな芝居小屋の観客のようにただじっとしているとしたら、それは単に彼らが信じていないからにほかならない。信仰は、天国へ向かうための最初の一歩である。
この論考を読んでいる人の中に、キリスト者の戦いを日増しに力強く、勝利をおさめつつ戦っている人がだれかいるだろうか? では、その人は、日ごとに信仰が絶えず成長するように祈るがいい。生きている限り毎日、キリストにとどまり、キリストに近づき、いやまさって強くキリストにすがりつくがいい。決してあの弟子たちの、「私たちの信仰を増してください」、という願いを忘れてはならない。自分の信仰を執拗に見守り、決してその火勢が弱まらないようにするがいい。その人の信仰の程度に応じて、その人の平安も、強さも、世に対する勝利も強まるであろう。
(a) さて、この主題全体を離れる前に、厳粛な自己省察を行なおう。「私たちは、この聖句によって示されている、キリスト教信仰の大いなる試金石について何を知っているだろうか? 世に勝つことについて何を知っているだろうか? 私たちはどこにいるだろうか? 何をしているだろうか? 私たちはだれを主人とし、だれに仕えているだろうか? 私たちは勝ちつつあるだろうか? 負かされつつあるだろうか?」 残念ながら、悲しむべき事実を云うと、多くの人は自分がキリストにある自由人であるか、世の奴隷であるかをわかっていない! 世の足かせはしばしば目に見えない。私たちは知らず知らずに下方へ引きずり込まれており、あたかも端艇の中で眠り込んでしまい、自分が漂い流されていることに気づかないまま、ゆっくり静かに漂い下り、滝へと向かっている人も同然なのである。奴隷制の中でも最悪なのは、感じとれない奴隷制である。実際において何にもまして重い鎖は、目に見えない鎖である。いみじくも、私たちの比類なき《連祷》では、このような請願がなされている。「世のあらゆる欺きから、良き主よ、われらを救い出したまえ」。
私が心からの愛情をもってこの省察を勧めたいのは、読者の中でも特に青年たちに対してである。あなたは今、何に対しても偏見なく、疑うことを知らない年代にあり、この世に何の危険があるとも思えず、世はいかにも魅惑的な姿に見えている。そのあなたがこの世によって罠にかけられ、打ち負かされるとしても何の不思議もない。経験を積むことによってしか、敵の本性を見てとることはできない。あなたが私と同じくらいの白髪を頭に加えたときには、あなたもこの世の良きものや、その賞賛や敵意について、今とは非常に異なる評価をするであろう。しかし、今からでもなお、私の注意を覚えておくがいい。「もし自分の魂を愛しているというなら、この世にのめりこんではならない。世には用心するがいい」。
(b) 読者の方に云う。あなたと私は、この論考上で生涯ただ一度相会っており、いま別れれば、おそらくはもう二度と会うことはないであろう。ことによるとあなたは、この荒れ狂う世の波浪の中に乗り出そうとしているところかもしれない。私が心から願い、神に祈っているのは、あなたが順調な航海を続けた上で、ついには永遠のいのちという安全な港に入ることである。しかし、おゝ、これから越えて行かなくてはならない嵐の海に対して十分な装備をしておくよう留意するがいい。舵を取る目安となる信頼性の高い羅針盤があるかどうか、また過つことのない操舵手がいるかどうか確認するがいい! この世にならうことによって難破しないように用心するがいい。悲しいかな、いかに多くの人々が、雄壮な装具を備えた船に乗り込み、旗をなびかせて出帆し、輝かしい将来の見込みがありながら、最後には乗り組んだ全員もろともに滅びていくことか! 彼らは最初は、モーセや、ダニエルや、カイザルの家で仕える聖徒たちとともに出立したように見えるが、最後には、バラムや、デマスや、ロトの妻とともに旅路を終えるのである! 聖書にまさる羅針盤はない! キリストにまさる舵手はない!
この日、友人として私が与える忠告を受けてほしい。主イエス・キリストに向かって、自分の心のもとに来てくださるように、また、信仰によって自分の心に住んでくださり、自分を「今の悪の世界から……救い出」してくださるように願うがいい(ガラ1:4)。ご自分の約束の御霊をあなたに注ぎ、あなたが一刻も早く主の負いやすいくびきを負い、世に抵抗しようという気持ちになれるように願うがいい。キリストの力によって、いかなる代価を払うことになろうと、努めて世に対して勝利をおさめるがいい。いかなる金箔をかぶせた鎖であろうと、奴隷であることを恥じるがいい。首輪のしるしを恥じるがいい。男らしくふるまい、自由になる決意をするがいい。自由は、最高の祝福であり、最大の闘争に値するものである。いみじくも、古代ユダヤのラビたちはこう云っている。「たとえ海を墨とし、世界を羊皮紙としても、決して自由への賛美を書き尽くすことはできまい」。自由のためにこそ、ギリシャ人も、ローマ人も、ゲルマン人も、ポーランド人も、スイス人も、英国人も、しばしば喜び勇んで戦い抜き、自分の命を投げ出してきた。確かに、人々が自分の肉体的自由のためにこれほどの犠牲を払ってきたというなら、信仰を告白するキリスト者たちが、自分の魂の自由のために戦おうとしないというのは不名誉であるに違いない。もう一度云うが、この日、キリストの力によって決意するがいい。世に対して勇敢に戦い、単に戦うだけでなく、勝利を得ることを。「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」(ヨハ8:36)。
(c) 最後に、私たちはみな、キリスト者の兵士たちの最良の時はまだやって来ていないことを覚えておくようにしよう。ここ、この世にあっては、私たちはしばしば自分たちの戦いにおいて、「はなはだしく妨害を受け」ている。多くの辛い事がらを行ない、また耐えなくてはならない。そこかしこに傷口があり負傷がある。不寝番があり疲労がある。敗北があり、失望がある。しかし、万物の終わりは近づいている。「勝利を得る」者たちには、やがて勝利者の冠が与えられるであろう。
この世の戦いにおいて、戦勝日の後の朝の人員点呼は、しばしば悲しい光景である。トムソン女史の名画『点呼の時』を眺めても、何の感動も覚えないでいられるような人間は憐れむべきである。和平が宣布されたときでさえ、凱旋してくる連隊の帰還には悲喜こもごもの感情が伴う。よほど冷血な人間でもない限り、クリミヤ戦争後にロンドンに戻ってきた近衛師団の行進を見て嘆息も涙も誘われない人はなかったはずである。
神に感謝すべきことに、キリストの凱旋軍の閲兵日は非常に異なるものとなるであろう。その日には、ただのひとりも欠員はないであろう。それは、いかなる哀惜も伴わない会合となるであろう。何の涙もない、「雲一つない朝」となるであろう。それは、世に抵抗し、打ち勝つために私たちが受けてきたすべてのことを豊かに償うであろう。
そのロシア戦争[クリミア戦争]の間、私たちの仁慈深き女王が、近衛騎兵連隊本部で、ヴィクトリア十字勲章を授与なさるのを見た人は、むろん心動かされ、感動を覚えたものである。しかし、女王がその御座から下りて、歩くことのできないひとりの士官の胸に、その気高い御手で、彼の勲章をとめてくださるのを見た人は、おそらく一生の間その光景を忘れないであろう。
しかし、結局においてそれは、かの大いなる日に行なわれることにくらべれば無にすぎない。その日、私たちの救いの《指揮官》と、その凱旋兵士たちとは、ついに顔と顔を合わせることになる。いかなる舌が、その幸いを告げることができよう! 私たちは自分たちの武具を打ち捨てて、「剣よ。静かに休め」、と云うことになるのである。いかなる精神が、その時の祝福を思い描くことができよう! 私たちは《王》を、そのありのままの美しさで目にし、このことばを耳にするのである。「よくやった。良い忠実なしもべで兵士だ。主人の喜びをともに喜んでくれ」。その栄光の日を私たちは忍耐強く待っていよう。というのも、それははるか先であるはずがないからである。それを希望して、私たちは労し、見張り、祈り、戦い続け、世に抵抗しよう。そして、私たちの《指揮官》のことばを決して忘れないようにしよう。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハ16:33)。
勝利[了]
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*1 この論考の内容は、元来、1879年に、私がケンブリッジの聖メアリー教会の選抜説教者であったときに説教されたものである。[本文に戻る]
*2 ジョン・バニヤン、「天路歴程 続編」、p.245-246(池谷敏雄訳)、新教出版社、1985. [本文に戻る]
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