"Let Any Man Come."       目次 | BACK | NEXT

7. 「だれでも来なさい」*1


「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』」----ヨハ7:37、38

 この論考の冒頭に掲げた聖句にふくまれたキリストのおことばは、黄金の文字で印刷するに価する重大なおことばの1つである。天の星々はみな輝かしく美しい。だが、「個々の星によって栄光が違」う(Iコリ15:41)ことは、子どもでもわかる。聖書はすべて、神の霊感によるものである。しかし、よほど冷たく鈍感な心の持ち主でもない限り、聖書の中に、とりわけ内容豊かで滋味に富む節があることは、だれにでも感じられるに違いない。そのような節の1つがこの聖句である。

 この聖句の意味するところとその麗しさを余すところなく理解するには、それがそもそも語られた場所と、時と、時期を思い起こさなくてはならない。

 その《場所》は、エルサレムであった。ユダヤ教の総本山、祭司や律法学者、パリサイ人やサドカイ人の根拠地である。----その《時期》は、仮庵の祭りの間であった。余儀ない事情のない限り、あらゆるユダヤ人が、律法に従って宮に上ってくる、年ごとの大祭の1つである。----その《時》は、「祭りの終わりの日」であった。すべての儀式が終わりに近づき、シロアムの池から汲み上げられた水が、伝統的な習慣に従って、厳粛に祭壇に注ぎかけられた後は、礼拝者たちが家に帰るだけとなった時である。

 この決定的な瞬間に及んで、私たちの主イエス・キリストは「立って」、人目につく場所に進み出て、集まっていた群衆に語りかけた。疑いもなく彼は、人々の心を読んでおられた。彼らが、痛む良心と満たされない思いをもって去って行こうとしているのをごらんになった。盲目の教師であるパリサイ人やサドカイ人から何も与えてもらえず、仰々しい礼式の不毛な思い出だけを胸に去って行こうとしているのをごらんになった。彼らを見て、あわれまれた主は、伝令官のごとく大声で叫ばれた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」。----この忘れがたい機会に、私たちの主がこれだけしか語らなかったとは考えにくい。むしろここにあるのは、主のなさった講話の要旨にすぎないのではないかと思う。しかし私の想像では、これが主の口から発せられた最初の言葉であった。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来なさい」。だれでも、生ける、満足を与える水が飲みたければ、《わたしの》もとに来なさい、と。

 ここで少し時間をとって読者に思い起こしていただきたいのは、いかなる預言者であれ使徒であれ、このような言葉をあえて口にしたことは決してなかったということである。「私たちといっしょに行きましょう」、とモーセはホバブに云った(民10:29)。「水を求めて出て来い」、とイザヤは云った(イザ55:1)。「見よ、神の小羊」、とバプテスマのヨハネは云った(ヨハ1:29)。「主イエスを信じなさい」、と聖パウロは云った(使16:31)。しかし、ナザレのイエスの他だれも、「《わたしの》もとに来なさい」、と云った者はなかった。この事実には非常に意義深いものがある。「わたしのもとに来なさい」、と云ったお方は、そう口にされたとき、ご自分が《永遠の神の御子》であり、約束された《メシヤ》であり、世の《救い主》であることを知っており、感じておられたのである。

 私たちの主のこの重大なおことばの中で、私は今、3つの点に注意を向けたいと思う。

 I. 1つの《問題》が示されている。:「だれでも渇いているなら」。
 II. 1つの《解決》が提示されている。:「わたしのもとに来て飲みなさい」。
 III. 1つの《約束》が差し出されている。:「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」。

 この3つの点はいずれも、この論考を手にとって読むであろうすべての人に関わるものである。これから1つずつ説き明かしていきたい。

 I. まず第一にここでは、1つの問題が示されている。私たちの主は、「だれでも渇いているなら」、と云っておられる。

 のどの渇きが、定命の人間のからだにふりかかる苦痛の中でも最も激しいものであることは広く知られている。カルカッタの土牢で悲惨な集団死に至らされた人々の物語を読んでみるがいい。----熱帯地方のぎらつく太陽の下で砂漠を横断した人々に尋ねてみるがいい。----戦場で負傷したことのある老兵士に、そのとき何よりも欲したものは何か聞いてみるがいい。----あの『コスパトリック』号のように、大海原の真ん中で船が難破した際に、生き残った乗組員がどのような経験をするものか思い出してみるがいい。----あのたとえ話の中に出てくる金持ちの恐るべき言葉に注意するがいい。「ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません」(ルカ16:24)。すべての証言は1つである。渇きほどすさまじく、耐えがたいものはない。

 しかし、のどの渇きがそれほど苦しいとしたら、魂の渇きの苦しみはどれほどの激しさであろう! 肉体的な苦しみは、永遠の刑罰の最悪の部分ではない。この世においてすら、のどの渇きなど格段に軽いと思わせるのが、心と内なる人の苦しみである。自分の魂の価値を見てとり、しかしそれが永遠の滅びに瀕しているのを見出すこと、----赦されざる罪の重荷を感じていながら、どこに救いを求めるべきか全くわからないこと、----良心が病みただれているのに、その治療法を知らないこと、----自分が死につつあり、日々死に近づいているのに、神に会う備えができていないことに気づくこと、----自分の咎と邪悪さについて多少なりとも明確に悟らされてきたのに、その赦罪については完全な暗闇の中にあること、----これこそ究極の苦痛である。----魂と霊を呑み込み、関節と骨髄の分かれ目すら刺し貫く苦痛である! そしてこれこそ疑いもなく私たちの主が語っておられる渇きである。それは赦しと、赦罪と、赦免と、神との平和を欲してやまない渇きである。それは真に覚醒させられた良心が、満足を求めつつも、どこでそれを見出せばよいかを知らず、水のない地をさまよいながら、どこにも休み場を見つけられずにいるときに覚える渇望である。

 これこそ、あのユダヤ人たちが、ペンテコステの日にペテロが説教したとき感じた渇きである。こう書かれている。 彼らは「心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。』と言った」、と(使2:37)。

 これこそ、あのピリピ人の看守が、自分の霊的危険に目覚めて、自分の足元で地震が牢獄を揺さぶるのを感じたときに感じた渇きである。こう書かれている。彼は「震えながらひれ伏した。そして、ふたりを外に連れ出して『先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。』と言った」、と(使16:30)。

 これこそ、神の最大のしもべたちの多くが、心を照らす光を最初に自覚したとき感じた渇きであった。マニ教の異教徒たちの間に安息を求めながらも決してそれを見出せないでいたアウグスティヌス、----エアフルト修道院の修道僧たちの間で真理を手探りしていたルター、----エルストウの田舎家で疑いと葛藤に身もだえしていたジョン・バニヤン、----オックスフォードの学部生時代に明瞭な教えを受けないまま自ら課した禁欲生活のもとで苦悶していたジョージ・ホイットフィールド、----彼らはみな自分の経験を記録に残している。そしてみな、私たちの主が「渇き」と語られたときに何を意味していたかを知っていたはずである。

 そして私たちもみな、この渇きを《多少は》知っているに違いないと云っても確かに云い過ぎではなかろう。むろんアウグスティヌスやルター、バニヤン、ホイットフィールドほど激しい渇きではないかもしれない。だが私たちのように死につつある世界で生きている者、----本音を云えば、墓の向こうには世界があること、死後のさばきがあることを自覚せざるをえない者、----真剣な思いになるときには、いかに人間というものが貧しく、弱く、不安定で、欠陥だらけの生き物で、いかに神の前に出る資格に欠けているかを感じざるをえない者、----心の奥底では、今の時をいかに生かすかで永遠における自分の立場が決まってしまうことを意識せざるをえない者、----そのような者たる私たちは、生ける神と和解したい、その実感を持ちたいという、「渇き」に似た何かを身の裡に感じていなくてはならないはずである。しかし悲しむべきかな、人間の堕落した性質を何よりも決定的に証明しているのは、世間一般にあまねく見られる、この霊的渇望の欠如である! 金銭や、権力や、快楽や、地位や、栄誉や、名声、----こうしたすべては、現在、おびただしい数の人々が激しく渇仰するものである。絶望的な可能性に挑戦すること、地下の黄金めざして掘り進むこと、要塞の突破口を強襲すること、厚く波打つ氷原を越えて北極への進路を切り開くこと、----この種の目標をめざす冒険者たち、志願者たちは後を絶たない。熾烈な競争が、たゆむことなく、これら朽ちていく冠のために行なわれている! しかし、これと比較してみると、実際、何とわずかな人々しか永遠のいのちを渇き求めていないことか。生まれながらの人が、聖書で「死んでいる」、「眠っている」、「盲人」、「耳しい」と呼ばれているのも不思議ではない。第二の出生と新しい創造が必要であると云われているのも不思議ではない。肉体の死を示す最も確実な徴候は、あらゆる感覚が失われていることである。魂の不健康な状態を示す最も痛ましいしるしは、霊的な渇きが完全に欠如していることである。わざわいなるかな、救い主からこのように云われる者は。「あなたは……自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」(黙3:17)。

 しかし、この論考の読者の中に罪の重荷を感じ、神との和解をあえぎ求めている人はいるだろうか? 私たちの祈祷書の、この告白の言葉を真に実感している人はいるだろうか? 「われ過ちて、迷える羊のごとくさまよい出たり。----われに健やかなる部位なし。----われはみじめな咎人なり」。聖餐式礼拝に心から参加し、真心からこう云える人がいるだろうか? 「わが罪の記憶はいと重く、その重荷は耐えがたし」。その人こそ、神に感謝すべき人である。罪と咎と魂の貧しさの実感こそ、聖霊が霊的な宮をお建てになるとき最初に据える土台石である。御霊は罪を確信させなさる。光は、物質的な創造において、最初に呼び出されたものであった(創1:3)。自分の状態に関する光は、新しい創造における、最初のみわざである。もう一度云うが、いま渇いている人こそ、神に感謝すべきである。神の国はあなたから遠くない。私たちは、自分が良く感じ出したときではなく、悪く感じ出したときに、天国への第一歩を踏み出すのである。あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか? この内なる光はどこから来たのか? だれがあなたの目を開き、あなたを見えるようにしたのか? 感じとれるようにしたのか? きょう知るがいい。これらのことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいます私たちの父である。大学は学位を授与できるかもしれず、学校はあらゆる神秘の知識を分け与えてくれるかもしれないが、人に罪を感じさせることはできない。自分の霊的必要を悟り、真の霊的渇きを感じることこそ、救いに至るキリスト教のABCである。

これは、エリフがヨブ記の中で語っている偉大な言葉である。「彼は人々を見つめて言う。『私は罪を犯し、正しい事を曲げた。しかし、神は私のようではなかった。神は私のたましいを贖ってよみの穴に下らせず、私のいのちは光を見る。』と」(ヨブ33:27、28)。少しでも霊的な「渇き」を知っている人は恥じてはならない。むしろ頭を上げて、希望をいだき始めるがいい。神がお始めになったみわざをお続けになり、それを自分にさらに深く感じさせてくださるように祈るがいい。

 II. 示された問題から、提示された解決へと話を進めよう。私たちのほむべき主イエス・キリストは云われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」、と。

 この短い一文にまつわる壮大な単純さには、感嘆おくあたわざるものがある。ここにある単語はみな、文字通りの意味は、子どもにもわかるものばかりである。それでいてここには、単純そうに見えながら、奥深い霊的意味がある。二本の指でつまみ上げられる、王室所蔵のダイヤモンド「コイヌール」のように、言語を絶する価値がある。これは、ギリシャとローマの全哲学者が決して解くことのできなかった、「いかにして人は神と和解できようか」、という難問を解いてしまう。これを、あなたの主が語られた他の6つの黄金のおことばとともに記憶にとどめておくがいい。----その6つとは、「わたしがいのちのパンです。《わたしに》来る者は決して飢えることがなく、《わたしを》信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」。----「わたしは、世の光です。《わたしに》従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」。----「わたしは門です。だれでも、《わたしを》通ってはいるなら、救われます」。----「わたしが《道》であり、《真理》であり、《いのち》なのです。《わたしを》通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」。----「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、《わたしのところに》来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」。----「《わたしのところに》来る者を、わたしは決して捨てません」、である。----この6つの聖句に、きょうあなたの目の前にある聖句を加えるがいい。7つの聖句全体を暗記するがいい。これを頭にたたきこみ、決してなくさないようにするがいい。あなたが病床にあり、死を間近にしてあの冷たい川に足が触れたとき、あなたは、これら7つの聖句に測り知れない価値があることに気づくであろう(ヨハ6:35; 8:12; 10:9; 14:6; マタ11:28; ヨハ6:37)。

 この単純な言葉の意味するところを一言で云うと何であろうか? それは、こういうことである。キリストは、渇ける魂のため神が恵み深くも備えてくださった生ける水の《泉》であられる。キリストからは、あたかもモーセに打たれた岩から流れ出たような豊かな流れが、この世の荒野を旅するすべての人々のために流れ出る。キリストは私たちの《贖い主》また《身代わり》として、私たちの罪のために十字架にかけられ、私たちが義と認められるためによみがえられたが、そのキリストのうちには人間が必要とするあらゆるものが備えられている。キリストにある赦し、赦免、あわれみ、恵み、平安、安息、安心、慰め、希望は尽きることがない。

 この豊かな備えをもたらすためにキリストが支払われた代価は、ご自分の尊い血潮であった。この素晴らしい泉を開くため、彼は罪のために死なれた。正しい方が悪い人々の身代わりとなり、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われたのである。彼は罪を知らない方であったが、私たちの代わりに罪とされた。私たちが、この方にあって、神の義となるためである(Iペテ2:24; 3:18; IIコリ5:21)。そして今や彼は証印を押され、あらゆる疲れた人、重荷を負った人を《休ませるお方》、あらゆる渇いた人に生ける水を《与えるお方》として任命されている。罪人を受け入れるのが彼の職務である。罪人に赦しといのちと平安を与えるのが彼の喜びである。そしてこの聖句の言葉は、彼が全人類に対して発している宣言なのである。----「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」。

 この論考を読むあらゆる人に思い起こしてほしいが、薬品の効能は、その服用のしかたに大きくかかっている。世界一の名医の世界一の処方といえども、患者が処方箋に記された用法に従うことを拒むなら何の役にも立たない。そこで、少しばかり勧めの言葉を語らせていただきたい。この生ける水の《泉》について注意と助言を差し上げたいと思う。

 (a) この渇きを覚え、安きを得たい人は、キリストご自身のもとへ来なくてはならない。キリストの教会やキリストの儀式、キリストの民が集う祈りや賛美の集会に来ることで満足してはならない。聖餐式の台に進み出ることで終わってしまったり、叙任された教役者に個人的に悩みを打ち明けることで安心しきってはならない。おゝ、否! こうした水を飲むだけで満足する者は「また渇きます」(ヨハ4:13)。これらよりも、もっと高く、もっと先へ、はるかに先へ行かなくてはならない。キリストご自身との個人的な関係がなくてはならない。信仰生活のすべては、キリストを抜きにしては無にひとしい。王の宮殿、侍従たち、麗々しく飾りたてられた晩餐会館、その晩餐そのもの----すべては、私たちが《王》と語り合うのでなければ無である。キリストの御手だけが、私たちの背中から重荷を取り除き、私たちを自由にすることができる。人の手は墓をふさぐ石を取り去り、死体を見せることができるかもしれない。しかし、ただイエスおひとりだけが死人に向かって、「出て来て、生きよ」、と云うことができるのである(ヨハ11:41-43)。私たちは直接キリストと関係を持たなくてはならない。

 (b) また、この渇きを覚え、キリストから安きを得たい人は、実際にキリストのもとへ来るのでなくてはならない。願ったり、口にしたり、志したり、意図したり、決心したり、希望したりするだけでは十分ではない。地獄は夢でも空想でもなく、すさまじい現実である。その地獄への道は、いみじくも、無数の良き意図によって舗装されていると云われる。そのようにして何万もの人々が毎年失われていき、停泊地のほんの手前で悲惨に滅んでいく。志を立て、意図しつつ彼らは生き、志を立て、意図しつつ彼らは死ぬ。おゝ、否! 私たちは「起きあがって、行かなくては」ならない! もしあの放蕩息子が、「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。いつかは家に帰りたいものだ」、などと云うだけで満足していたら、彼は豚に囲まれて一生を終えていたであろう。彼が《立ち上がって》、自分の父のもとに《行った》とき初めて、父親は走り寄って彼を出迎え、「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。……食べて祝おうではないか」、と云ったのである(ルカ15:20-23)。この放蕩息子のように私たちは、「我に返って」考えるだけでなく、実際に《大祭司》キリストのところへ行かなくてはならない。《医者》のもとに来なくてはならない。

 (c) さらにまた、この渇きを覚え、キリストのもとへ行きたいという人は、《単純な信仰こそ唯一求められているものだ》ということを忘れてはならない。むろん、悔い砕かれた、悔恨の心をもって来ることは欠かせないことである。しかし、それさえあれば自分が受け入れられるだろうなどと夢想してはならない。信仰こそ、生ける水を私たちの唇に運ぶことのできる唯一の手である。信仰は、私たちの義認ということにおいては、すべての要である。「信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ」ことは、何度も何度も書き記されている(ヨハ3:15、16)。「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」(ロマ4:5)。幸いなのは、この比類なき賛美歌に明示された原則をつかむことのできる者である。

     「ありのままの我にて 誇れるもの何もなきまま
      ただわがため 汝が血の流されしゆえ
      また汝の われに来よと命じ給うがゆえ----
      おゝ、神の子羊よ われは行かん」 (賛美歌271番原詩)

 この渇きの解決は何と単純に見えることか! しかし、おゝ、これを受け入れるよう人を説得することの何と困難なことか! たとえば人に、何か難事業を云い渡してみるとする。苦行を積んだり、巡礼に出たり、全財産を貧民のため施して、救いの功徳を積むよう云い渡すと、人は云われた通りに行なおうとする。では、功徳というような考え方をことごとく投げ捨てよと云ってみる。行ないや働きにはよらず、何も手に持たない、無一物の罪人としてキリストのもとへ来よと告げると、ナアマンのように彼らは軽蔑しきった面持ちで背を向けて去っていくのである(II列5:12)。人間性はいかなる時代にも常に変わらない。今もなお、ある人々はユダヤ人のようであり、別の人々はギリシャ人のようである。十字架につけられたキリストは、今なおユダヤ人にとってはつまづき、ギリシャ人にとっては愚かである。時代の移り変わりにもかかわらず、彼らの後継者だけは途絶えることがない! 私たちの主が語られたおことばの中でも、あのサンヘドリンの高慢な律法学者らに向けられたものほど真実なものはなかった。「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに《来ようとはしません》」(ヨハ5:40)。

 しかしこの解決がいかに単純に見えようと、それは人の霊的病に対する唯一の治療法であり、地上から天国にかかる唯一のかけ橋である。国王も臣下も、説教者も聴衆も、主人もしもべも、貴人も賎民も、金持ちも貧乏人も、学者も野人も、みな変わることなくこの生ける水を飲まなくてはならず、同じしかたで飲まなくてはならない。18世紀もの間、人間はこれ以外の薬を探し出し、疲れ果てた良心を癒そうと努力してきたが、その努力はむなしかった。無数の人々が、手豆を作り、白髪になるまで、「水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘」り続けた(エレ2:13)あげくに、生涯最後の段階に至って、このキリストのうちだけにしか真の平安はないと告白したのである。

 渇きに対するこの昔ながらの解決は、単純に見えても、あらゆる時代における神の最大のしもべたちの内的生活の根幹であった。教会史の各時代における聖人たちや殉教者たちは、信仰によって日々キリストのもとへ行き、「彼の肉はまことの食物、彼の血はまことの飲み物」*であることを見出していた人々にほかならなかった(ヨハ6:55)。彼らはみな、神の御子を信じる信仰によって生き、彼のうちにある満ち満ちた豊かさを日ごとに飲んでいた人々にほかならなかった(ガラ2:20)。ここにこそ、何らかの形で世界に足跡をしるした、最も真実で最上のキリスト者たちが完全に同意するものがある。聖教父たちも改革者たちも、聖なる国教会の聖職者たちもピューリタンたちも、聖なる監督派たちも非国教徒たちも、その最上の状態にあるときには、このいのちの《泉》の価値について同一の証しをしている。その生涯においては、時として分離したり争い合ったりしたかもしれないが、その死においては彼らは分裂していない。かの《恐怖の王》との最後の格闘において彼らは、単純にキリストの十字架によりすがり、あらゆる罪と汚れを除き去るために開かれた《泉》たる、かの「尊い血」のほか何も誇りとしなかった。

 私たちはいかに感謝しなくてはならないことであろうか。私たちが住んでいるのは、この霊的渇きに対する解決が知られている国である。----聖書がだれにでも読める国、----福音が説き聞かされている国、あふれるほどの恵みの手段が備えられた国、----キリストの犠牲の効力が今なお、程度に差こそあれ、毎日曜ごとに二万の講壇上から宣べ伝えられている国なのである。私たちには自分の特権の価値がわかっていない。イスラエルが荒野で「このみじめな食物」には飽き飽きしたように(民21:5)、あまりに慣れ親しんでしまうと、マナはつまらぬものに見えてくる。しかし、あの比類なきプラトンのような異教徒の哲学者の著書をひもとき、いかに彼が光を求めて、目隠しされた者が戸口を求めるかのように手探りを続け、疲れ果てているか見るがいい。どれほど卑しい農民であれ、祈祷書にある私たちの麗しき聖餐式礼拝の4つの「慰めの言葉」を理解しているなら、彼は神との和解の道を、このアテナイの賢人よりもずっとよく知っているのである。----信頼の置ける旅行者や宣教師たちの報告を読み、福音を一度も聞いたことのない異教徒たちの状態についてどのようなことが記されているか調べてみるがいい。アフリカにおける人身供犠や、ヒンドゥー教の帰依者らがわが身に加える、身の毛もよだつような責め苦について読み、それらがみな、癒されることなき「渇き」と、神に近づきたいとの盲目的で満たされざる願望との結果であることを思い起こすがいい。そのようにするとき、自分がこの国のような場所に生まれついたことを感謝する心を持つがいい。悲しいかな、神は私たちの感謝を知らない心ゆえに私たちと云い争われるのではなかろうか! 本当に冷たく死んだ心の持ち主でもない限り、アフリカや中国やヒンドスタンの状況を調べた後では、自分がキリスト教国である英国に生きていることを神に感謝せずにはいられまい。

 III. 最後に、キリストのもとへ行くすべての人々に対して差し出されている約束へと話を進めよう。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」。

 聖書の種々の約束という主題は、果てしなく、興趣尽きないものである。今日、それは受けてしかるべき注意を受けていないのではないかと思う。クラークの『聖書の約束』は古い本で、現代では、私たちの父祖たちの時代よりもはるかに学ばれていないように思える。ほとんどのキリスト者は、用いさえすればだれにでも特別な益と励ましが与えられるというのに、聖書にたくわえられている、「わたしは〜する」や「あなたがたは〜となる」という尊いことばの数も長さも広さも深さも高さも多様さも悟ってはいない。

 しかし約束は、人生の物事における対人交渉のほぼすべての根底に存しているものである。あらゆる文明国におけるアダムの子らの大多数は、日々種々の約束への信仰に立って行動している。小作に雇われた者が、月曜の朝から土曜の夜まで精を出して働くのは、週末には、約束された賃金を受け取れると信じているからである。兵士が軍に入隊し、船員が海軍兵員名簿に記名するのは、兵役を勤めていれば、やがて約束の俸給を支払ってもらえると完全に信頼しているからである。ある家庭に住み込んで働く最も小さな女中も、与えられた務めを毎日果たしているのは、女主人が約束の賃金を払ってくれると信じてのことである。大都市における貿易商や銀行家や商人の間の商取引においても、種々の約束に対する絶え間ない信仰がなくては何1つ行なえない。分別のある人ならだれでも、小切手や証券や約束手形を使う以外に、膨大な量の商行為を遂行していく手段はないと知っているはずである。実業家は、否応なしに、見るところによってではなく、信仰によって行動せざるをえない。彼らは種々の約束を信じ、自分自身をも信じてもらうことを期待する。つまり、約束と、約束に対する信仰と、約束に対する信仰から生ずる行動とは、キリスト教国全域にわたって、人と人とがやりとりするあらゆる場合の九分通りを支える基盤なのである。

 さて聖書における信仰の約束もまた、同じように、神が人の魂に近づく際おとりになる大きな手段である。聖書を注意深く学ぶ人にはいやでも目につくことだが、神は絶えず、人間がご自分に耳を傾け、従い、仕えるように、その誘因となるものを差し出しておられる。また、人間が注意を向けて信じさえすれば、大きなことを行なうと請け合っておられる。一言で云えば、聖ペテロが云うように、「尊い、すばらしい約束が私たちに与えられ」ているのである(IIペテ1:4)。恵み深くも聖書全巻をお書かせになり、私たちが読んで学ぶようになさったお方が、人間性を完璧に理解しておられたことは明らかである。なぜならこの方は、あらゆる種類の経験、あらゆる生活環境に適合する無数の約束を、聖書全体にわたって、ふんだんに散りばめられたからである。あたかも、こう云っておられるかのようにである。「あなたは、わたしがあなたのために何を行なうと請け合っているか知りたいか? わたしの示す条件を聞きたいと思うか? では聖書を手に取り、読むがいい」。

 しかし、アダムの子らの約束と神の約束との間には、決して忘れてはならない大きな違いが1つある。人間の約束は果たされるとは限らない。どれほど真面目な善意から出たものであっても、人間は必ずしも約束を守れないことがある。病や死が強盗のようにやって来て、約束をした人をこの世から取り去って行くかもしれない。戦争や疫病や飢饉や凶作や暴風が、彼の財産をはぎ取り、契約の履行を不可能にしてしまうかもしれない。それとは逆に、神の約束は確実に守られる。神は全能であられる。何物も神がご自分のことばを実行なさるのを妨げることはできない。神は決して変わることがない。神にとって常に「みこころは一つ」であり、神には「移り変わりや、移り行く影はありません」(ヨブ23:13; ヤコ1:17)。神は一度語られたことを必ず守られる。あるとき一人の幼い少女がその教師に語って驚かせたように、神にも不可能なことが1つある。「神は……偽ることができません」(ヘブ6:18)。どれほど途方もなく、ありえないと思われるようなことも、ひとたび神が行なわれると告げられたことは、確実に実現してきた。古の世界の洪水による破滅、箱船に乗り込んだノアの救出、イサクの誕生、エジプトからのイスラエル救出、サウルの王座へのダビデの登位、キリストの奇跡的誕生、キリストの復活、ユダヤ人の全世界への離散、そしてユダヤ民族の独自性の間断なき保持、----こうしたことほど途方もなく、ありえなさそうな出来事をだれが想像できただろう? しかし神はこれらが行なわれると語り、時至ってこれらはみな実現した。つまり、神にとって云うは易し、行なうも易しなである。いかなることを約束なさろうと、神は確実に成し遂げられる。

 聖書の約束の多様さと豊かさについては、この短い論考の中で語れるよりもはるかに多くのことが云えるであろう。まさに約束の名はレギオンである。この主題はほとんど無尽蔵である。人間の一生における、幼年期から老年期に至るまでのありとあらゆる段階、また人間が直面しうるありとあらゆる状況について聖書は、神の前で正しく歩もうと願うすべての者に励ましを差し出している。神の宝庫の中には、いかなる状態についても、「わたしは〜する」、「あなたがたは〜となる」とのみことばがある。神の無限のいつくしみとあわれみについて、----また悔い改めて信ずるすべての者をいつでも受け入れようとしておられる優しさについて、----また罪人のかしらの罪をも喜んで赦し、帳消しにし、免責してくださる心の広さについて、----また心を変えて私たちの腐敗した性質を更新なさる御力について、----また祈ろうとする者、福音を聞こうとする者、恵みの御座に近づこうとする者への励ましについて、----また義務を果たそうとする者への力、困難にあるときの慰め、悩みにあるときの導き、病にあるときの助け、死に臨むときの平安、死別したときの支え、墓を越えたところにある幸福、永遠における報酬、----こうしたものすべてについて、みことばには、あふれるほど豊かな約束が備えられている。聖書を丹念に探り、その主題を常に見続けている人でなければ、その豊かさがどれほどのものかは決して思い描くことができない。それを疑うのであれば、私には、「来て、そして、見なさい」、としか云えない。ソロモンの王宮における、あのシェバの女王のように、あなたはすぐに云うであろう。「私にはその半分も知らされていなかったのです」、と(I列10:17)。

 この論考の冒頭に掲げた私たちの主イエス・キリストの約束は、ある意味で独特のものである。ここには、霊的渇きを感じ、その癒しを求めて彼のみもとに来るすべての者に対する並外れて豊かな励ましがあり、それゆえ特別な注意が払われてしかるべきである。ほとんどの場合、私たちの主の約束は、それぞれの約束を語りかけられた特定の人が受ける恵みや祝福のことを特に語っている。だが私たちの前にあるこの約束は、はるかに広い範囲に及び、主が語りかけた人々以外の多くの人々のことをも語っていると思われる。というのも、主は何と云っておられるであろうか。----「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに」(また至るところで教えているように)「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである」。これは疑いもなく比喩的な言葉である。----先の言葉、「渇き」や「飲む」と同じように、比喩的な言葉である。----しかし、聖書のあらゆる比喩には偉大な真理が含まれている。私たちの前にある比喩にいかなる意図があるか、それを私は今から示していこうと思う。

 (1) さて1つのこととして、私の信ずるところ、私たちの主が意図しておられるのは、信仰によってキリストのもとに来る者は、自分の魂の欠乏を癒すために望みうるすべてのものを、豊かに供給されることになる、ということである。御霊が彼に、変わらぬ赦しと平安と希望の感覚を伝えてくださるので、それは彼の内なる人にあって決して干上がることのない水源のようになる。その人は、御霊が知らせてくださる「キリストのもの」*(ヨハ16:15)によって完全に満足させられるため、死やさばきや永遠に関する霊的不安から解放される。自分の弱さや悪魔の誘惑によって、暗闇や疑いの時期をくぐることはあるかもしれない。しかし一般的に云って、ひとたび信仰によってキリストのもとへ行った人は、心の奥に尽きざる慰めの泉があることに気づく。これが、私たちの前にある約束にふくまれる第一のことである。そう理解しようではないか。私たちの主はこう云っておられるかのようである。----「あわれな、不安に満ちた魂よ。ただわたしのもとに来さえすれば、おまえの霊的不安は癒されるのだ。聖霊の力によって、わたしはおまえの心の中に、わたしの贖いととりなしを基として、赦しと平安の感覚を与える。それによって、おまえは決して、もう一度枯渇するようなことはない。肉体のうちにある間は、疑いや恐れや葛藤を覚えることがあるかもしれない。しかし、いったんわたしのもとに来たならば、そしてわたしをおまえの《救い主》として受け入れたならば、おまえは決して完全に自分に絶望することはない。おまえの内なる人の状態は、以前とは全く変化してしまったため、おまえはあたかも自分のうちに絶えずこんこんと流れ出す泉があると感ずるようになるだろう」、と。

 こうした事がらに対して、私たちは何と云うであろうか? 私はここに自分の信念を宣言したい。いかなる人も、信仰によって本当にキリストのもとへ行くなら、この約束が成就するのに気づくであろう。その人は、もしかすると恵みにおいて弱く、自分の状態について多くの疑念をいだくかもしれない。もしかすると自分が回心したとか、義と認められたとか、きよめられたと云うような気にはなれず、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格などないと思うかもしれない。しかし、それらすべてにもかかわらず、私は大胆に云おう。キリストを信ずる最も小さく、最も弱々しい信者といえども、その内側には、自分では完全には理解していないかもしれないが、決して彼から離れ去ることのない何かがある。その「何か」とは何か? まさしくこの「生ける水の川」である。いかなるアダムの子も、キリストのもとに来て彼から飲むなり心の中に流れ出す川である。このような意味で、キリストのこの素晴らしい約束は常に成就しつつある、と私は信ずるものである。

 (2) しかし、これがこの論考の冒頭にある約束に含まれた意味のすべてだろうか? 決してそうではない。まだまだ多くのことが隠されている。さらに語るべきことがある。私の信ずるところ、私たちの主が私たちに理解させようとしておられること、それは、信仰によって主のもとへ行く者は、自分の魂のため必要とするあらゆるものを潤沢に供給されるだけでなく、自分自身が他の人々の魂にとって祝福の源泉ともなる、ということである。その人のうちに住む御霊はその人を、同胞に対する恵みと祝福がわき出る泉としてくださる。そのことにより、後わりの日には、その人のうちから「生ける水の川」が流れ出していたことがわかるであろう。

 これは私たちの主の約束の最も重要な部分である。多くのキリスト者たちは、このことを、めったにわきまえることも、実感することもない。しかしこれは非常に重要な主題であり、現在よりもはるかに大きな注意を受けてしかるべきことである。私は、これは神の真理であると信ずる。私の信ずるところ、キリスト者の中には「だれひとりとして、自分のために生きている者は」ないのと同じく(ロマ14:7)、だれひとりとして、自分だけ回心して終わる者はなく、ひとりの人の回心は常に、神の素晴らしい摂理によって、他の人々の回心へと至らされるものである。私は、すべての信者がそれを自覚できるとは一言も云っていない。はるかにずっとありがちなのは、多くの人が信仰によって生き、だれかの魂に善をなしたなどとは夢にも思わずに死んでいくだろう、ということである。しかし私の信ずるところ、復活の朝と最後の審判の日、あらゆるキリスト者の隠れた歴史が明らかにされるときには、私たちの前にあるこの約束の十分な意味が決して失われなかったことは示されるであろう。だれにとって一度も「生ける水の川」となることない信者、----また御霊が救いに至る恵みを伝える水路とならないような信者がいるかどうかは、疑わしいと思う。あの悔い改めた強盗ですら、悔い改めた後の時間は短かったとはいえ、おびただしい数の魂にとって祝福の源泉となってきたのである!

 (a) ある信仰者たちは、彼らが生きている間に生ける水の川となる。彼らの言葉、彼らの会話、彼らの説教、彼らの教えは、みな、いのちの水が彼らの同胞の心に流れ込んでいく手段である。たとえば、それが、何の書簡も書かず、ただみことばを説教するだけだった使徒たちであった。また、ルターや、ホイットフィールドや、ウェスレーや、ベリッジや、ロウランズや、その他幾千もの、今はひとりひとり名を挙げて語ることのできない人々であった。

 (b) ある信仰者たちは、彼らが死ぬときに生ける水の川となる。かの《恐怖の王》に相対する彼らの勇気、最も苦痛に満ちた苦しみにおける彼らの大胆さ、火刑に処せられても揺らぐことのなかったキリストの真理に対する忠実さ、死の瀬戸際にあっても明らかに見てとれる彼らの平安、----これらはみな、おびただしい数の人々を考え込ませ、多くの人々を悔い改めと信仰へと導いてきた。たとえば、それが、ローマ皇帝によって迫害された初代教会の殉教者たちであった。また、ヤン・フスや、プラハのヒエローニュムスであった。クランマーや、リドリや、ラティマー、フーパー、そしてメアリー女王治下で殉教した大勢の高貴な人々であった。彼らの死に臨んでの働きは、サムソンと同じく、彼らが生前に行なった働きにはるかにまさっていた。

 (c) ある信仰者たちは、その死後も長い間、生ける水の川となっている。彼らはその著書や著作によって、ペンを握った手が朽ちて土に還ったはるか後までも、世界の至る所で善を施している。そのような人々が、バニヤンや、バクスターや、オーウェンや、ジョージ・ハーバートや、ロバート・マクチェーンであった。これらのほむべき神のしもべたちは、おそらく生前にその舌でなしたよりも多くの善を、その著書によって、今この瞬間にも行なっている。彼らは死んだが、今もなお語っているのである(ヘブ11:4)。

 (d) 最後に、ある信仰者たちは、その日々の行動やふるまいの美しさによって、生ける水の川となっている。世には多くの、もの静かで、温和で、しかし中途半端でないキリスト者たちがいて、世間の耳目を集めるようなことはないが、周囲のすべての人々の上に知らぬ間に深い良い影響を及ぼしている。彼らは人をその「無言のふるまいによって、神のものと」する(Iペテ3:1)。口では何も云わなくとも、彼らの愛、彼らの親切、彼らの優しい気立て、彼らの忍耐、彼らの思いやりは、広い範囲の人々に語りかけ、多くの人々の思いに反省と自分を見つめ直させる種を蒔いている。非常な平安のうちに死んだ一人の老婦人が、素晴らしい証しを残している。----彼女は、自分の救いを、神のもとにあってホイットフィールド氏に負っているとのことであった。----「それは、あの方がなさったどんな説教でもありません。あの方が私に話してくださったどんな言葉でもありません。それは、あの方のかげひなたない日常生活の美しい親切さでした。私は、あの方が滞在しておられた家の小さな少女でしたが、自分にこう云ったのです。『もし自分も信仰を持つとしたら、ホイットフィールド様の神様を信じよう』、と」。

 私は、この論考を読むあらゆる人々に命ずる。私たちの主の約束のこの面を心におさめ、決して忘れないようにするがいい。あなたが信仰によってキリストのもとに行き、彼に従うとき、救われるのはあなた自身の魂だけだ、などとは一瞬も思ってはならない。他の人々にとって生ける水の川になるという幸いについて思うがいい。あなたが、他の多くの人々をキリストのもとに連れてくる手段にならないと、だれに云えよう。このことを絶えず念頭に置きながら生き、行動し、語り、祈り、働くがいい。私の知っているある家族は、両親と十人の子どもたちからなっていたが、真の信仰に導かれたのは、まず娘のひとりからであった。当初、彼女は孤立し、残りの家族全員がこの世にとどまっていた。それにもかかわらず彼女は、死ぬ前には、自分の二親と兄弟姉妹の全員が神に立ち返るのを見たのである。そしてこれはみな、人間的に云うと、元はと云えば彼女の影響であった! 確かに、こうした事実を前にしては、信者が他の人々にとって「生ける水の川」になれることを疑う必要はない。回心はあなたが生きている間には起こらず、あなたはだれの回心も見ず死んでいくかもしれない。しかし疑ってはならない。普通、1つの回心は多数の回心へと至るものであり、ひとりきりで天国へ行く者はめったにいない。あの北国の使徒、ホーワースのグリムショーが死んだとき、彼には恵みを知らず神をも知らない息子がひとり遺された。その後その息子は回心したが、それは父の忠言と模範を決して忘れられなかったからであった。彼は最後にこう云い残している。「天国で、親父が私を見たら何と云うだろうか」、と。私たちはキリストの約束を信じて、勇気と希望を持ち続けようではないか。

 (1) さてそこで、この論考のしめくくりとして、1つ簡単な質問をさせていただきたい。あなたは少しでもこの霊的渇きを知っているだろうか? あなたは、自分の魂について純粋に、深い懸念を感じるようなことが一度でもあっただろうか?----残念ながら、多くの人はそれを全く知らないのではないかと思う。私が、一世紀の四分の三という痛ましい経験を通じて学んだこと、それは、人は神の家に何年集い続けていようと、決して自分の罪を自覚することも、救われたいという願いを起こすこともないことがありうるということである。世の心づかいや、快楽への愛、そして「その他いろいろな欲望」が良い種を毎日曜ごとにふさぎ、実を結ばさせない。彼らは、その足で踏みしめる歩道の敷石のように冷たい心で教会にやってくる。そして、壁の記念碑から彼らを見下ろす大理石の胸像のように、何1つ思い巡らすことも心動かすこともなく去っていく。しかしである。なるほど、それは事実かもしれないが私は、その人が生きている限り、だれのことをも絶望していない。ロンドンの聖ポール大寺院では、大きな古い鐘が何百年もの間、時を告げてきたが、日中その鐘の音を聞く人はほとんどいない。街路の往来の絶え間ない騒音には、奇妙なことにその音を消すような作用があり、人の耳に届かないようにしてしまうのである。しかし昼間の仕事が終わり、事務所の机に鍵が掛けられ、扉が閉ざされ、帳簿が片づけられ、静寂が大都市を覆うようになると、状況は一転する。古い鐘が夜の十一時、十二時、一時、二時、三時を打っていくとき、日中はその音を一度も聞かなかったおびただしい数の人々がそれを聞く。私は、多くの人々の魂も、そのようであってほしいと思う。健康も体力も充実していて、目まぐるしい仕事の渦に巻き込まれている今は、あなたの良心の声はしばしば押さえつけられ、心の耳に届かないかもしれない。しかしいつか、良心の大鐘が、あなたの望むと望まざるとにかかわらず、鳴り轟く日が来るかもしれない。働きの場から遠ざけられ無為の生活に身をゆだねるとき、また病に伏して身動きすらできなくなってしまったとき、内面を見つめさせられ、自分の魂の関心事を考えさせられる日が来るかもしれない。そしてそのとき、覚醒した良心の大鐘があなたの耳に響いているとき、この論考を読む大勢の人々が神の声を聞いて悔い改め、渇きを覚えるようになり、癒しを求めてキリストのもとへ行くようになると思いたい。しかり、願わくはあなたが渇きを覚えるのが遅すぎることのないように!

 (2) しかし、今この瞬間にあなたは何かを感じているだろうか? あなたの良心は目覚めて、活動を始めているだろうか? あなたは霊的渇きを感じつつあり、癒しを渇望しているだろうか? ならば、この日私が、私の《主人》の御名において、あなたにもたらす招きを聞くがいい。----「だれでも」、どのような人でも、----貴人であれ賎民であれ、金持ちであれ貧乏人であれ、学者であれ野人であれ、----「だれでも渇いているなら、キリストのもとに来て飲みなさい」。ためらうことなく、この招きを聞いて受け入れるがいい。ぐずぐずしていてはならない。何かきっかけを待っていてはならない。「おりを見て、また」、などと云っているうちに手遅れにならないと、だれに云えよう? 生ける《贖い主》の御手は今、天から差し出されている。しかし、いつそれが引っ込められるかはわからない。《泉》は今は開いている。しかし、いつ永遠に閉ざされるかはわからない。「だれでも渇いているなら」、すぐさま「来て飲みなさい」。たとえ、これまでどれほど重い罪を犯してきたとしても、警告と勧告と説教に抵抗してきたとしても、それでも来るがいい。----たとえあなたが、これまで、光にも知識にも、父の助言にも母の涙にも逆らって罪を犯しに犯し、何年も何年も礼拝出席も祈りもせずに生きてきたとしても、それでも来るがいい。----どのように行けばいいのかわからないと云ってはならない。信じるとはどういうことか理解できないと云ってはならない。もう少し光が与えられるのを待たなくてはならないと云ってはならない。疲れ切った人が、疲れすぎて横にもなれない、などと云うだろうか? 溺れかかっている人が、助けようとして延ばされた手のつかみ方がわからない、などと云うだろうか? 難破した船の乗組員が、座礁した船体に横付けされた救命艇を見て、飛び乗り方がわからない、などと云うだろうか? おゝ、そうした愚にもつかない云い訳はふり捨てるがいい。立ち上がって、来よ! 扉は閉ざされていない。泉はふさがれていない。主イエスはあなたを招いておられる。あなたは、渇いているのを感じ、救われたいと願っている。それだけで十分である。来よ。ためらわずにキリストのもとへ来よ。罪のための泉に来て、それが干上がっているのを見出した者がいまだかつてあろうか? 満たされることなく立ち去った者がひとりでもあろうか?

 (3) しかし、あなたはすでにキリストのもとに来て、癒しを見出した人であろうか? ならば、さらに近づき、今よりもなお近づくがいい。あなたのキリストとの交わりが親密なものになればなるほど、あなたはより大きな慰めを感ずることであろう。日ごとにこの泉のかたわらで生きれば生きるほど、あなたは自分の内側に「泉となり、永遠のいのちへの水がわき出」るものを感ずるに違いない(ヨハ4:14)。あなたは自分が祝福されるだけでなく、他の人々に対する祝福の源泉にもなるに違いない。

 この曲がった世にあって、ことによるとあなたは、自分の願う、具体的な慰めのすべてを感ずることはないかもしれない。しかし、2つの天国は持てないことを忘れてはならない。完璧な幸福はまだ来てはいない。悪魔はまだ縛られていない。自分の罪を感じてキリストのもとに来た者、そして自分の渇いた魂をキリストの保護にゆだねた者すべてには、「これから良い時がやって来る」。キリストが再び来られるとき、彼らは完全に満足するであろう。

「だれでも来なさい」[了]


注 記

 ある古い著述家が残した文章は、この論考で言及されたいくつかの点に大きな光を投ずるものである。それで私は何の弁解もすることなく、ここに、その全体を引用したい。引用元の著書は、今ではほとんど知られておらず、それを読む人はさらにまれである。しかしこれは私にとって有益なものであった。他の人々にも有益であろうと思う。

 「人が覚醒させられ、その必然的な結果として、あの、『救われるためには、何をしなければなりませんか』(使16:30、31)との思い、またはこれよりもずっと捨て鉢な思いに至らしめられたとき、私たちには使徒の答えが与えられている。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』。この答えは、あまりにも古くからあるため、多くの人々には時代遅れと思われている。しかし、これは今もなお、そして今後も、常に新鮮で、新しく、さわやかなものであり続け、良心と世界が存続する限り、この良心の大問題に対する唯一の解答である。人間のいかなる機知も技巧も、この答えに欠けやひびを見いだすことはないし、別の、あるいはより良い答えをこしらえることもない。この答え以外の何物も、覚醒させられた良心の傷を正しく癒すことはできない。

 「こころみに、わがイスラエルの教師の何人かに、この男がこの問題の解決を求めたと考えてみよう。彼らは自分たちの主義主張に従い、彼に告げたに違いない。『悔い改めて、知りうる限りの罪について嘆き悲しみ、そうした罪を離れ、忌み嫌いなさい。そうすれば神はあなたをあわれまれよう』。『あゝ!』(と、この哀れな男は云うであろう)『私の心は強情で、正しく悔い改めることができません。そうです。今の私には、罪の中でのうのうと生きていたときよりも、ずっと自分の心が強情で邪悪に感じられます』、と。もしあなたがこの男に、キリストに救いを求める者の条件について話してみると、彼はそれを何1つ知らない。真摯な従順について話してみると、すぐさま彼は率直に答えるであろう。『従順になれるのは生きた人間だけです。真摯さは、新しくされた魂にしかありません』、と。それゆえ、死んだ、新しくされていない罪人にとって、真摯な従順は、完璧な従順と同じくらい不可能なのである。なぜこの覚醒された罪人に正しい答えが与えられないのだろうか? 『主イエスを信じなさい。そうすれば救われます』、と。彼に告げてやるがいい。キリストがどんなお方か、また罪人の永遠の贖いをかちとるため、神なる御父のみこころに従って何を行ない、どのように苦しまれたかを。彼に向かって率直に、神の御子によってなしとげられた福音の物語を聞かせてやるがいい。彼に福音の出来事と奥義とをわかりやすく告げてやるがいい。それにより聖霊が、あの異邦人の初穂のうちになされたように、信仰を生み出してくださるかもしれない(使10:44)。

 「もし彼がイエス・キリストを信じなくてはならない理由が何かあるのかと問うたなら、その欠くべからざる絶対的な必要を告げてやるがいい。なぜならキリストを信じなければ、永遠に滅びるしかないのである。彼に告げてやるがいい。神はあなたに、恵み深くキリストとそのすべての贖いを差し出しておられる。信仰によってその申し出を受け入れるならば、キリストとキリストによる救いは、あなたのものとなるとの約束があるのだ、と。告げてやるがいい。あなたには、キリストの御名を信じなくてはならない神の明確な命令(Iヨハ3:23)があり、道徳律法のあらゆる命令と同様、この命令にも心から従うべきなのだ、と。彼に、キリストの救い主としての力と善意を告げるがいい。キリストに身をゆだねた者のうち、拒否された者はいまだかつて一人もいない。絶望的な者たちであればあるほど、キリストの救いのわざの栄光ある勝利となる。信仰と不信仰には間(あるいは中間)がないと彼に告げるがいい。一方を無視して他方を続けることには何の云い訳もありえない。主イエスを信じて救われようとすることは、神の律法に対するどのような従順にもまさって、神にとり喜ばしいことである。不信仰は、あらゆる罪の中で最も神を怒らせ、最も重く人を断罪する。彼のもろもろの罪の大きさ、律法ののろい、さばき主としての神の厳格さを向こうに回して、彼に差し出されている唯一の救済策は、キリストが自ら犠牲にして神の義を満足させられた功績による、神の無代価の、無限の恵み以外にない。

 「もし彼がこのことについて、『イエス・キリストを信ずるとはどういうことですか?』、と云うなら、みことばの中にはそのような質問をした者はいない。むしろ、キリストを信じようとしなかったユダヤ人であれ(ヨハ6:28-30)、祭司長やパリサイ人であれ(ヨハ7:48)、あの盲人であれ(ヨハ9:35)、多かれ少なかれ、キリストを信ずるとはどういうことかを正確に理解していたと思う。キリストがかの盲人に、「あなたは人の子を信じますか」、と尋ねたとき、彼は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように」。キリストがそれがだれか告げると(37節)、彼は、「信じるとはどういうことですか?」、などとは云わず、たちどころに、「主よ。私は信じます」、と云い、主を拝して、キリストに対する信仰を告白し、その信仰によって行動した。あのてんかんの少年の父親や(マコ9:23、24)、あの宦官(使8:37)も同様であった。人々はみな、キリストの敵であれ弟子であれ、キリストに対する信仰が何を意味するかを知っていた。それは、ナザレのイエスという人物が神の御子であり、メシヤであり、世の救い主であると信じること、そしてそれゆえその御名による救いを受け入れ、期待することであった(使4:12)。これは、キリストとその使徒と弟子たちによって宣べ伝えられ、それを聞いたあらゆる人がたちまち理解した、単純な訪れなのである。

 「もしそれでも彼が、自分は何を信ずればいいのか、と問うなら、教えてやるがいい。信ずるように求められているのは、彼がキリストのうちにあることでも、彼のもろもろの罪が赦されたことでも、彼が義と認められた人となっているということでもない。むしろ彼が信ずべきなのは、神がキリストについてなされたあかしである(Iヨハ5:10-12)。そしてそのあかしとは、神がその御子イエス・キリストにおいて、私たちに永遠のいのちを与えておられる(つまり、差し出しておられる)ということ、また、このあかしを心から信じ、自分の魂をこの喜ばしい訪れに基づいて休らわせる者はみな救われる(ロマ10:9-11)ということである。そしてこのようにして彼は、自分が義と認められることを信じるべきなのである(ガラ2:16)。

 「それでもまだ彼が、このように信ずるのは難しいと云うなら、それは良い性質の疑いであるが、簡単に解決できる。それは、その人が深くへりくだらされている証拠である。自分は完全には神の律法に従うことができない、とさとる人は多い。しかし、信ずることが困難だと理解する人はめったにいない。彼の問題を解決してやるため、彼に問うてみるがいい。何があなたにとって信ずることを困難にしているのか、と。それは義と認められたり、救われたりしたくないという心があるためか。イエス・キリストによって救われることをいさぎよしとしない心があるためか。キリストにある神の恵みをたたえることになるのが気に入らないためか。自分に誇れるものが何1つなくなることがいやなのか。こうしたことを彼は否定するに違いない。では、それは福音の記録が真実であることを信用できないからか。これにも彼は、決してそんなことはない、と云うであろう。救い主としてのキリストの力や善意が疑わしいからか。それは福音における神の証言を否定することである。では、それは、彼がキリストとその贖いの相続分にあずかることを疑っているからか。あなたは彼に、キリストを信ずることがキリストのうちにある祝福にあずかる第一歩なのだ、と告げるがいい。

 「もし彼が、自分がイエス・キリストを信じられないのは、この信仰を働かせることの困難さゆえだと云うなら、またその信仰を引き出すには、自分ではどこにあるかわからない神の力が必要だ、と云うなら、あなたは彼に告げるがいい。イエス・キリストを信ずることは行ないではなく、イエス・キリストを頼みとして安らうことだ、またそうした口実が筋の通らないものであることは、長い旅をしてきて疲れ果て、もう一歩も進むことのできなくなった人が、立っていることも進むこともできないでいるのに、『もう疲れすぎて、横たわることもできない』、と云うようなものである、と。あわれな疲れ切った罪人は、自分のために自分で何かできると思っている限りは、決してイエス・キリストを信ずることはできない。だから彼が最初に信ずるときには、絶望的な、希望のない者として、キリストの救いに自分をかけるのが常である。そして、福音からのそのような論じ合いを彼と交わすことによって主は、(これまでしばしばなさってきたように)、信ずることによる信仰と喜びと平安を伝えてくださるのである」。----『ロバート・トレイル全集』、1696年。第1巻、266-269。

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*1 この論考の大部分の内容は、1878年、ロンドンの聖ポール大寺院の大聖堂、およびチェスター大聖堂の身廊で説教されたものである。[本文に戻る]

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