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6. 「一つの血」*1


使17:26

 これは非常に短く単純な語句であり、子どもでもその言葉の意味はわかる。しかし単純であるとはいえ、この語句によって考えるべきことは多く、これはひとりの偉大な人物が、ある偉大な機会に行なった語りかけの一部をなしているのである。

 その語り手とは、《異邦人への使徒》聖パウロである。その聞き手は、アテネの文化人たち、また特に、エピクロス派とストア派の哲学者たちである。その場所は、アテネのマルスの丘であり、数々の宗教的な建物や神像を一望のもとにおさめる高台であった。そうした建造物は、粉々に砕け散った遺跡となった今日もなお、芸術上の驚異である。ことによると、このような場所、このような人物、このような聴衆が一堂に会したことは、空前絶後であったかもしれない! それは奇妙な光景であった。だが聖パウロは、この機会をいかに用いただろうか? このよそ者のユダヤ人は何をしただろうか? この、アジアの辺鄙な片隅からやって来た被蔑視民族の一員、この、「実際に会ったばあいは弱々しく」、ラファエロの下絵にあるような理想的体格とは似ても似つかぬ小男は、こうした知的なギリシャ人たちに向かって何と云っているだろうか?

 彼は、彼らに向かって大胆に、真の神の唯一性を告げている。世にはただひとりの、天地の造り主なる神しかいない。----その聴衆が見るからに考えていたように多くの神格がいるのではない。----その神は、人の手で作ったいかなる神殿も必要とせず、木や金属や石でできたいかなる像によっても表わされるべきお方ではない。威風堂々たるパルテノンと、壮麗なミネルヴァ神の像の前に立って彼は、その洗練された聴衆に向かって、彼らが礼拝する際の無知と、偶像礼拝の愚かさと、全人類に臨もうとしている審きと、復活の確実性と、悔い改めの絶対的必要性とを説き明かしている。そして、もう1つ重要なこととして彼がこの高慢なアテネの人々に告げているのは、うぬぼれてはならない、ということであった。われわれは優越した存在だ、他の人々とはできが違う、他の人種よりも格段にまさっている、などという彼らの自信満々の考えは間違っていた。否! 彼が宣言しているように、「神は、一つの血からすべての国の人々を造り出し」たのである[新改訳欄外訳]。そこには何の違いもない。地球上の全人類の性質は、必要は、神に対する責務は、全く同一である。

 私は、この「一つの血」という表現にだけ注目し、それだけを取り扱おうと思う。ここには3つの大きな点がある。----1. 事実に関する点。2. 教理に関する点。3. 義務に関する点、である。今から、それらについて解き明かしていきたい。

 I. 第一のこととして取り上げるのは、事実に関する点である。私たちはみな、「一つの血から」造られている。人間の起源に関する聖書の説明は真実である。創世記は正しい。人類の全家族は、何十億いようと、一組の夫婦から----アダムとエバから----発した子孫なのである。

 疑いもなくこれは、心へりくだらされる事実に違いない。だが、それは真実なのである。国王もその臣下も、富者も貧者も、学のある者もない者も、王子も乞食も、教育のある英国人も無教養な黒人も、ロンドンのウェストエンドに住む社交界の婦人も北米土人の女も、----すべてが、すべての人が、その家系をたどれば、----六十世紀もたどることができればの話だが、----ひとりの男とひとりの女へとたどりつくであろう。疑いもなく、六千年もの長きにわたれば、途方もなく多様な人種的差異が徐々に発達していったに違いない。気候の寒暖により、民族の肌の色や肉体的特性にはそれなりの影響が及ぼされてきた。文明や文化によって、地球上の異なる地域に住む人々の習慣や、態度や、精神的達成は異なっていった。アダムの子らの一部は、時の経過とともに非常に下落していったが、他の一部は向上し、進歩していった。しかし、この偉大な事実は変わらずに残っている。モーセによって書かれた物語は真実である。ヨーロッパや、アジアや、アフリカや、アメリカの全住民は、元来はアダムとエバから発しているのである。私たちはみな、「一つの血から造られ」たのである。

 さて、なぜ私はこうした事がらに長々とかかずらっているのだろうか? それは、読者の思いに、創世記の十全霊感と神的権威とを強く印象づけたいからである。私はあなたが、人間の起源に関する昔からの教えを堅く握り、何があろうとそれを手放すことを拒んでほしいと思う。

 あえて云うまでもないが、あなたが生きている時代は、懐疑主義と不信仰が猖獗をきわめている時代である。才気ある著述家や講演者たちが、絶え間なく旧約聖書、特に創世記に軽蔑を浴びせかけている。この尊ばれるべき文書の内容は、ある人々の無遠慮な言葉によれば、真の歴史的事実ではなく、虚構として、また寓話として読まれるべきであるという。アダムとエバが最初に創造された唯一の男女であるとか、全人類が一組の夫婦から発しているなどと考えるべきではない。むしろ別々の人種が、地球上の別々の場所で、別々の時代に、互いに何の関連もなしに発生するようになったと信じるべきである。つまり私たちは、あっさりこう告げられているのである。創世記の前半は、東洋風のご愛敬ともいうべき作り話であって、現実の史実では全くない、と。さて、私はあなたに命ずる。このような話を聞いても、一瞬たりとも動揺してはならない。昔からの信仰の通り道に、特に人間の起源ということに関して、堅く立つがいい。モーセの正しさを示す証拠は山ほどあり、モーセの正確さや信憑性に疑いを差しはさむ人々は間違っているのである。私たちはみな、ひとりの堕落した先祖から発した子孫である。私たちは「一つの血からすべて」出ている。

 この論考の紙数さえ許せば容易に示せるであろうが、世界中の国々の最古の伝承は、モーセの書いた記事の正しさを最も驚くべきしかたで確証しているのである。ギーキー[スコットランドの地質学者]がその著書『聖書とのひととき』の中で簡略に記すところ、最初の男女、蛇、堕落、洪水、箱舟といった物語は、人間に居住可能な、ほとんどあらゆる地域において、様々に装いを変えて現われている。しかし、人間の始祖が1つであったことを示す最良の証明は、人間が、その肌の色とは無関係に示している、痛ましいほどに一様な道徳的性質である。地球上のどこかに行き、それがいずこであろうと、人々がどのような者たちであるかを観察してみるがいい。アフリカや中国の最奥地に、あるいは太平洋の最遠隔の孤島に行き、そこで調査した結果をよく見るがいい。私の大胆に主張するところ、あなたはいずこに行こうと、いかなる気候のもとにあろうと、人間という種族の道徳的性質が全く同一であることを見いだすであろう。いずこにおいてもあなたは、人間たちが生まれながらによこしまな者であり、腐敗し、利己的で、高慢で、怠惰で、欺きに満ち、不敬虔な者であること、----情欲と情動の奴隷であることを見いだすであろう。そして私は断言したい。このことに筋の通った説明をつけられるのは、創世記の最初の三章以外にない、と。私たちの道徳的なありさまは、私たちがひとりの親から発していて、その親の性質にあずかっている結果にほかならない。私たちはみな、アダムというひとりの堕落した人間の子孫であり、アダムにあって私たちはみな死んだのである。モーセは正しい。私たちはみな「一つの血」に属している。

 結局のところ、もしだれかの思いに疑いが残っているとしても、またその人が創世記の叙述を全く信じられないとしても、私はその人に思い起こしてほしいと思う。その人の不信仰が、いかに致命的な打撃を新約聖書の権威に加えているかを。聖書の最初の書物に見られる、種々の問題点を指摘することはたやすい。だが、創世記が、キリストや使徒によって繰り返し裏書きされているという事実を説明し去ることは容易ではない。この骨太な事実を克服することはできない。天地創造や、蛇や、堕落や、カインとアベルや、エノクや、ノアや、洪水や、箱舟や、アブラハムや、ロトや、ソドムとゴモラや、イサクや、ヤコブや、エサウは、みな歴史的な出来事、歴史的な人物として、新約聖書の中で言及されているのである。この事実に対して、私たちは何と云うべきだろうか? キリストや使徒たちは、だまされていた、無知な人々だったのだろうか? ばかげた考えである。彼らは、人気取りのために自分を偽り、聴衆がいだいていた民間の見解に自分たちを合わせていたのだろうか? そして、その間ずっと、自分たちの語っている物事や人物が絵空事であり、歴史的なものでは全然ないと知っていたのだろうか? そのように考えること自体、邪悪で冒涜的なことである。私たちにとりうる結論は1つしかなく、私には他のいかなる選択肢も見当たらない。もしあなたが旧約聖書を放り出すなら、新約聖書も放り出さなくてはならない。創世記の超自然的な叙述に対する不信と、福音に対する不信との間には、いかなる中立点もない。もしあなたがモーセを信じられないというのなら、キリストや使徒たちをも信頼すべきではない。彼らがモーセを信じていたことは確実だからである。あなたは本当に、主イエス・キリストや聖パウロよりも頭がいいのだろうか? あなたは本当に、彼らよりも良く物を知っているのだろうか? そのような考え方は振り捨てるがいい。昔からの土台に堅く立ち、現代のあれやこれやの理論によって足をすくわれないようにするがいい。そして、1つの大きなかしら石として、この論考の聖句が示す事実、全人類の起源は1つであるという事実に足を踏みしめるがいい。「私たちはみな一つの血から造られている」。

 II. さて私は、この聖句の事実に関する点から、教理に関する点へと話を進めよう。私たちはみな「一つの血」から造られているだろうか? では私たちはみな、自分の魂に巣くう家伝の業病についても、全く同一の治療法を必要としているのである。その病とは罪にほかならない。私たちはそれを私たちの両親から受け継いでおり、それは私たちの性質の一部となっている。人はみな罪を負って生まれる。貴種の出であろうと庶民の出であろうと、学問があろうとなかろうと、富者であろうと貧者であろうと、堕落したアダムの子孫として、アダムの血が私たちの血管には流れている。この病は、私たちの成長とともに成長し、私たちが力を増すとともに力を増し、私たちが死を迎えるまでに治癒されないと、私たちの魂に死をもたらすのである。

 さて、このすさまじい霊的病を癒せる唯一の治療法とは何だろうか? 何が私たちを、この罪の咎からきよめてくれるのだろうか? 何が私たちのあわれな、死んだ心に健康と平安をもたらし、私たちを生きている間は神とともに歩ませ、死ぬときには神とともに住ませることができるのだろうか? こうした問いかけに対して私は、短く、何の迷いもない答えを返そう。アダムの子らがみな等しくかかっている同じ魂の病には、たった1つの治療法しかない。その治療法とは、「キリストの尊い血」である。アダムの血にこそ、私たちの致命的な霊的疾患の発端がある。そして、ただキリストの血によってこそ、私たちはみな、治癒されることを求めなくてはならない。

 読者には明確に理解しておいてほしいが、私が「キリストの血」について語るとき、それは決して、キリストが十字架にかけられたときに、その御手と御足とわき腹から流れ出た、文字通りの、物質的な血液のことを意味しているのではない。その血は、疑いもなく私たちの主を十字架に釘づけた兵士たちの指を染めたであろう。だが、それで彼らの魂に何らかの善が施されたという証拠はこれっぽっちもない。たとえその血が、一部の人々が冒涜的に教えているように、主の晩餐における聖餐杯の中に本当に存在しているとしても、また私たちがその血に自分の唇で触れるとしても、そうした、ただの物質的な接触では、私たちは何の益も受けない。おゝ、否! 私がキリストの「血」こそ、この、アダムの血から私たちがみな受け継いだ致命的な疾病の特効薬であると語るとき、私が意味しているのは、キリストが流されたいのちの血潮、キリストが罪人たちのためカルバリの上で死んだとき彼らにかちとられた救済、----主がその代償の犠牲によって私たちのために獲得なさった救い、----主が私たちの《身代わり》として苦しまれた際に買い取られた、罪の咎と力と種々の結果からの解放のことである。これが、これこそが、私が「キリストの血」はアダムのすべての子らが必要とする唯一の治療薬であると語るときに意味していることである。私たちがみな、永遠の死から救われるために必要としているのは、単にキリストの受肉と生だけではなく、キリストのである。キリストが死なれたときに流してくださった、贖いの「血」こそ、救いの大いなる秘訣である。私たちに代わって苦しまれたこの第二のアダムの血こそ、唯一、最初のアダムの血が血管に流れている者たちすべてに、いのちと、健康と、平安を与えることができるのである。

 私たちは、教会において、キリストの血に関する真の教理を常に主張し続けなくてはならない。その重要性を、私がいかに痛切に感じているかは、いかなる言葉をもってしても云い表わせない。私たちの時代の1つの悪疫は、人々が教義神学と呼びたがるものに対する、嫌悪感の広がりである。それに代わるものとして、時代の偶像となっているのは、一種のくらげのようなキリスト教である。----骨もなければ、筋肉もなく、腱もないキリスト教、----贖罪や、御霊のみわざや、義認や、神との平和を持つための方法について、いかなる明確な教えも欠いたキリスト教、----曖昧模糊とした、霞のかかったキリスト教、----「誠実であれ。うそをつかず、真実で、勇敢で、熱心で、寛大で、親切な者であれ。いかなる人の教理的見解も非難してはならない。いかなる人も正しいとしなくてはならない。いかなる人も間違っているとしてはならない」、といった標語しかないように見受けられるキリスト教である。そして、この《信条抜きの》種類のキリスト教信仰こそ、良心の平安を与えるものだと実際に告げられているのである! そして、不幸に満ちた、死に行く世界にいるだれかが、そうした信仰では満足できないというと、それは非常に心の狭い人間である証拠だという! これで満足しろと云うのか! そんな信仰は、堕落したことのない御使いたちには、役に立つかもしれない。しかし、罪深く、死に行く人々、私たちの先祖アダムの血が血管に流れている人々に向かって、これで満足せよというのは、常識を侮辱し、私たちの苦悩をあざ笑うことにほかならない。私たちには、それよりもはるかにまさるものが必要である。私たちにはキリストの血が必要なのである。

 聖書は、「その血」について何と云っているだろうか? 今から読者に、それを思い出させてほしい。私たちは今、神の前できよく、咎ない者になりたいと願っているだろうか? こう書かれている。「イエス・キリストの血はすべての罪からきよめる」*。----それは「義と認める」*。----「私たちはこれによって神に近づくことができる」*。----それによって私たちは、「贖い、すなわち罪の赦しを受けている」。----それは、「良心をきよめ」る。----それは、「神と人との間に平和をつくる」*。----それによって人は、「大胆にまことの聖所にはいることができる」。しかり! 栄光のうちにある聖徒たちについては、はっきりこう書かれている。「彼らは……その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです」。また、彼らは、「小羊の血のゆえに、彼らの魂の敵に打ち勝った」*のである(Iヨハ1:7; コロ1:20; ヘブ10:19; エペ1:7; ヘブ9:14; エペ2:13; ロマ5:9; 黙7:14)。常識の名において問うが、もし聖書が天国へ行くための手引だと云うなら、なぜ私たちはキリストの血に関する聖書の教えを退けて、人類に共通する魂の業病の治療法を他で求めなくてはならないのだろうか?----それに加えて、もしも旧約聖書における種々のいけにえが、十字架上におけるキリストの死という犠牲を指し示していなかったとしたら、それらは無益で、何の意味もない形式でしかなかったことになり、幕屋や神殿の外庭は、屠殺場とほとんど異なることがなかったであろう。しかしもしも、私が堅く信じているように、それらがユダヤ人の思いをさらにすぐれたいけにえ、神の真の小羊による犠牲へと導くためのものであったなら、それらは、この日私が主張する立場にとって、反論しようのない確証となる。その立場とは、この1つの「キリストの血」こそ、「アダムの一つの血」が血管に流れているすべての人々にとって霊的な治療薬である、ということである。

 この論考を読む人々の中に、この世で善を施したいと願っている人がだれかいるだろうか? 多くの人々がそう願っていると信じたい。自分が世を去るときに、そこを少しでも自分が生まれる前よりは良い世界にして行きたいと望まないような人は、まことに貧相な種類のキリスト者である。この日、私が与える助言を受け取るがいい。人類の霊的な業病に対して、その場しのぎの、不適切な治療法で事足れりとしないように用心するがいい。《小羊》の血を人々に示さない限り、あなたのいかなる労苦も無駄骨となるであろう。伝説のシーシュポスのようにあなたは、いかに苦労しようと、大石が常に自分の上に転がり落ちてくることに気づくであろう。教育も、絶対禁酒主義も、清潔な住居も、大衆向け演奏会も、禁酒会員を示す青徽章連盟も、白十字軍も、1ペニー文庫も、美術館も、----すべては、これらすべては、それなりに非常に良いものではある。だが、それらは、人間の病の表面にしか触れない。その根源にまで行き着くことはない。しばらくの間は悪魔を追い出すが、悪魔の居場所を満たすことがないので、悪魔が舞い戻ってくるのを防ぐことがない。事をなせるのは、ただ、聖霊が十字架の物語を良心に適用してくださり、それが、信仰によって迎え入れられ、受け入れられることしかない。しかり! キリストの血こそ、----キリストの模範だけでなく、その美しい道徳的教えだけでもなく、----キリストの代償の犠牲こそ、魂の必要を満たすものである。聖ペテロがそれを「尊い」血と呼んでいるのも不思議ではない。それは、海外の異教徒たちによっても、国内の貴族によっても農民によっても、尊いものであることが悟られてきた。それは数多くの臨終の床において、かの卓越した神学者ベンゲルによっても、ジョン・ウェスレー配下の疲れを知らない働き人によっても、故ロングリ大主教によっても、現代のハミルトン主教によっても、尊いものであることが悟られてきた。願わくはそれが、私たちの目にとって常に尊いものであるように! もし善を施すことを願うのであれば、私たちはキリストの血を重要視しなくてはならない。いかなる人の罪をもきよめることのできる泉がたった1つだけある。その泉とは《小羊》の血である。

 III. この聖句から生じてくる第三の、また最後の点は、義務に関する点である。私たちはみな「一つの血」から造られているだろうか? ならば私たちは、そのような者として生きるべきである。1つの大家族の一員であるかのようにふるまうべきである。「兄弟愛を示す」べきである。怒りも、短気も、悪意も、いさかいも、神の前では格別に憎まれるべきものとして、自分から遠ざけるべきである。あらゆる人に対する親切心と博愛とを身につけるようにすべきである。褐色の肌のアフリカ黒人にも、ロンドンの不道徳な貧民窟に住む汚れきった人にも、私たちは注意を向けなくてはならない。その人は、私たちが信じたいと思おうが思うまいが、親族であり、兄弟なのである。私たちと同じように、その人はアダムとエバの子孫であり、堕落した性質と、不死の魂を受け継いでいるのである。

 さて、私たちキリスト者は、自分がこうしたことを信じて、悟っている証明として、いかなることを行なっているだろうか? 私たちは自分の兄弟たちのために何をしているだろうか? だれしも忘れてはいないと思うが、このぞっとするような問いを発したのは、邪悪なカインであった。「私は、自分の弟の番人なのでしょうか?」(創4:9)

 海外の異教徒のために私たちは何を行なっているだろうか? それは深刻な問いかけであり、今はそれを十分に考察している余裕はない。ただ私が云っておきたいのは、私たちは、本来なすべきことよりもはるかに少ししか行なっていない、ということである。世界中の海港という海港に、その国旗をひるがえしていることを得々と自慢している国が、一隻の一級装甲艦の費用よりも少ない金額しか、外国伝道のために捧げていないのである。

 しかし私たちは、国内の一般大衆のために何を行なっているだろうか? これは、はるかに深刻な問いかけであり、差し迫って答えを返さなくてはならない問いかけである。異教徒たちは私たちの目にとまらないところにいて、思いにも浮かばないことが多い。だが英国の大衆は、私たち自身の玄関前に押し迫っており、彼らの状態は、政治家や博愛主義者たちが必死になって解決しようとしている問題であり、避けようのないものである。私たちは、高まりつつある富者と貧者の間の不公平感を減少させ、日増しに深まりつつある不満感の溝を埋めるために、何を行なっているだろうか? 社会主義や、共産主義や、財産没収の影が、遠方から不気味な姿を表わそうとしており、新聞紙上で大きな注目を集めている。無神論や世俗主義は、一部の方面、特に広がりきって顧みられていない教区で急速に勢力を集めつつある。さて、私たちのとるべき義務の道は何だろうか?

 私はためらうことなく答える。私たちには、国内における兄弟愛を大きく増大させることが必要である。私たちには、私たちがみな「一つの血」から造られているという偉大な原理をつかんでいる人々、そして身を張って善を施そうとする人々が必要である。富者はより貧者のことを気遣い、雇用者は被雇用者のことを、富裕な会衆は大都市の労働者階級の会衆を、ロンドンのウェストエンドは東部地区や西部地区のことを、より気遣うことが必要である。そして、忘れてならないことだが、求められているのは単に物質的な救援だけではない。ローマの皇帝たちは、最下層階級や下層階級の人々を平穏にさせておこうと、曲芸の出し物や穀物のばらまきを行なった。また、一部の無知な現代英国人には、金銭や、安価な食料や、快適な住居や、気晴らしこそが、今の時代における社会の最下層の諸悪を癒す治療薬であると考えているふしがある。これは完璧な誤りである。大衆が求めているのは、より多くの同情であり、より多くの親切心であり、より多くの兄弟愛であり、より多くの、彼らが本当に私たちと同じ「一つの血」から造られているかのような取扱いである。それを彼らに与えるならば、不満感の大きな溝の半ばを埋めることであろう。

 今日よく云われる言葉によると、労働者階級は全くキリスト教信仰を持っておらず、彼らは英国国教会から遊離しており、彼らを教会に連れてくることはできず、彼らに善を施せる見込みはなく、それは無駄なことであるという。私は、こうした類のことを全く信じない。私の信ずるところ、労働者階級は、「上流階級の一万人」にくらべて、いささかもキリスト教信仰に反対してはいないし、良い影響力には全く同じくらい心を開いており、もし正しいしかたで近づくとしたら、いやまさって救われる見込みもある。しかし、彼らが好むのは、「一つの血」として扱われることである。いま求められるのは、同情心をより大きなものとし、彼らに対する個人的で友好的な取扱いをより増大させることである。

 私は、同情心と親切心の力に大きな信頼を置くものであると告白する。故タルフォード裁判官の言葉はまさに正鵠を射ていると思う。それは、スタッフォード裁判所の大陪審に対する、彼のほとんど最後の訓告であった。----「紳士諸君。今の時代に大いに求められているのは、階級間におけるより多くの同情心なのだ」。私は完全に彼に同意する。身分の高い者と低い者、富者と貧者、雇用者と被雇用者、聖職者と民衆の間において、同情心と仲間意識がより増し加わることこそ、時代の要求する癒しの治療薬の1つである。完璧な形で表わされた同情心こそ、キリストの福音が異教世界で最初に姿を現わしたときに、それを受け入れさせるもととなった副次的な原因の1つであった。いみじくもマコーレー卿は云っている。----「《神格》が人間のかたちをとり、人々の間を歩き、彼らの弱さにあずかり、彼らの胸によりかかり、彼らの墓の前で泣き、かいばおけの中でまどろみ、十字架の上で血を流したこと、それこそ、ユダヤ教会堂の偏見や、哲学者たちの疑念や、捕縛吏たちの束桿や、三十軍団の剣をして、一敗地にまみれさせたものであった」。そして、同情心は、私の堅く信ずるところ、十九世紀においても、紀元一世紀と同じくらい大きなことができるはずである。もしも、この終わりの時代にはびこる階級間の冷たい隔意を溶かすことができるものが何かあるとしたら、また、私たちの社会組織をきっちりとつまった無数の立方体からなるものとし、ほんの一点でしか触れあっていない無数の球体からなるものでなくさせるものが何かあるとしたら、それはキリストに似た同情心を大きく増大させることであろう。

 さて私はいま、英国の労働者はことのほか同情心に心を開いていると、確信をもって主張する。労働者は粗末な住居に住んでいるかもしれない。一日中炭坑や、綿織工場や、鋳鉄製造工場や、波止場や、化学工場で働いてきた後では、しばしば非常に気が立っていて、汚れているかもしれない。しかし、結局において彼は、私たちと同じ血肉なのである。その気性の荒さの下には、心と良心があり、鋭敏な正義感があり、自分の人間としての、また英国人としての権利を決して忘れない矜持がある。彼は、踏みつけにされたり、叱りつけられたり、無視されたりするのを好まないのと同様、慇懃無礼にへりくだられたり、こびへつらわれるのを好まない。だが彼は、友好的で、親切で、同情心のあるしかたで、兄弟として扱われることは好むのである。彼は強制されようとはしないであろう。いかに才気があっても冷たく非情な人間のためには指一本動かさないであろう。しかし、もし彼の家屋を訪問するキリスト者が、人間を人間たらしめているのはその外衣ではなく心であること、ギニー貨の価値を決めるのはその黄金であって、その上の刻印ではないことを本当に理解している人であったとしたらどうであろう。それがキリストについて語るだけでなく、彼の家庭に腰を下ろし、キリストに似た、親しみ深いしかたで彼の手をとる訪問者であったらどうであろう。もしその訪問者が、----それが教職者であればなおのこと、----キリストの聖なる信仰においては、人がかたより見られることは全くないことを悟っているとしたらどうであろう。富者も貧者も「一つの血から造られて」いて、同一の贖いの血を必要としていること、雇用者にも被雇用者にも、《救い主》はただひとりしかおらず、罪のための《泉》はただ1つしかなく、天国は1つしかないことを悟っているとしたらどうであろう。その教職者が泣く者とともに泣き、喜ぶ者とともに喜び、自分の教区内のいかに卑しい住民に対しても、その心労や、困難や、出産や、結婚や、死に対して、こまやかな関心を感じているとしたらどうであろう。私は云う。労働者のもとにそうした種類の教職者が訪れるとしたら、たいていの場合、その労働者は、相手の教会を訪れ、共産主義者や不信者になることはないであろう。そのような教職者は、がらんとした座席に向かって説教するようなことはないであろう。

 だが結局のところ、兄弟愛のこの上もない重要性を悟っているように見受けられる人々のいかに少ないことか! 自分がかのほむべき《救い主》の弟子であると証明しようというなら、その模範にならって、すべての人々に対して「巡り歩いて良いわざをなす」ことが絶対に必要であると悟っているように見える人々の、いかに少ないことか! もしもあのたとえ話の良きサマリヤ人のようなふるまいがまれになっている時代がこれまでにあったとしたら、それはいま私たちが生きている現代である。他者の必要に対して利己的な無関心を決め込むことは、現代の痛ましい特徴の1つである。私たちが住んでいる国の津々浦々を、ワイト島からベリッカポンツイード、ランズエンド岬からノース岬まで見て回り、慈善事業に対する資金支援者が少数派でないような郡か町を1つでも見つけてみるがいい。否、それに加えて、博愛主義的な、またキリスト教的な団体が、やすやすと発足させられ、ひっきりなしに懇願しなくとも楽々と活動を継続できるような郡か町を1つでも見つけてみるがいい。あなたがどこに行こうと、その調査結果は常に同じであろう。病院も、国内海外の伝道活動も、伝道団体も教育団体も、国教徒の教会も、非国教徒の会堂も、伝道所も、----すべては支援の欠如によって、絶えず働きをはばまれたり、妨げられたりしている。私たちは問うてしかるべきであろう。この聖書を有し、聖書が読まれている国のどこにサマリヤ人がいるのか、と。人がみな「一つの血から造られている」かのような生き方をしているキリスト者はどこにいるのだろうか? 自分の隣人を愛し、その死に行く肉体と魂に助けを与えようという人々はどこにいるのだろうか? だれから頼まれなくとも、また他の人々がどれくらい醵出したかを尋ねることもなしに、常に進んで喜んで捧げようとしている人々はどこにいるのだろうか? 毎年のように巨額の物資が、鹿猟場や、雷鳥猟場や、狩猟や、帆走競技や、競馬や、賭博や、舞踏会や、劇場や、衣裳や、絵画や、家具や、気晴らしのために費やされている。それにくらべると、キリストの御国の進展のためには、ほとんどばかげたほど少量のものしか捧げられも、行なわれもしていない。あの情けない1ギニー寄付金は、あまりにもしばしば、一部のクロイソス[巨万の富の所有で知られた最後のリディア王]たちが自分の同胞の肉体や魂のために与える限度額である。寄付ということのそもそもの第一原則が、多くの方面では全く失われ、忘れ去られているように思われる。しつけのなっていない家庭の子どもたちが良い子になるよう砂糖菓子でなだめすかされるのと同じように、人々は、慈善市などでなだめすかさなければ寄付に応じようとしないのである! 何らかの見返りがない限り、何も与えなくて当然とされているのである! そして、こうしたすべてが行なわれているのが、キリスト者であると自称し、教会に通い、きらびやかな典礼や、古式ゆかしい儀式や、いわゆる「心の礼拝」を誇りとし、《良きサマリヤ人》のたとえを信ずると告白している人々の国においてなのである。恐ろしいことだが、最後の審判の日には、多くの人々が悲しい目覚めをするのではなかろうか。

 結局のところ、突き詰めればこういうことになるであろう。初代教会の時代にキリスト者たちを際立たせる目印であった兄弟愛は、今どこにあるのだろうか? 喧々囂々たる論争や党派間の激越な争いの最中にあって、この聖霊の実は、また霊的な新生を示すこの主要な目印は、どこにあるのだろうか? それを持たない人は、「やかましいどらや、うるさいシンバル」も同然であるという、あの愛はどこにあるのだろうか? 完全な結びの帯であるという、あの愛はどこにあるのだろうか? 私たちの主の宣言によると、すべての人が主の弟子を見分けるしるしであるとされ、聖ヨハネの言葉によると、神の子らと悪魔の子らを区別するしるしであるとされる、あの愛はどこにあるのだろうか? 実際、それはどこにあるのだろうか? 新聞を読み、政治家たちがいかに口汚く政敵を罵っているか見てみるがいい。神学者たちが、その著述と講演の双方において、いかに胸が悪くなるほどの痛烈さで論敵を攻撃しているか注意してみるがいい。匿名の投書家たちが、いかに悪鬼のような喜びをもって自分の気に障る相手を傷つけようとしているか、さらにはいかにその傷に塩をすりこむようなことをしているか注目してみるがいい。見る目を持った人なら毎日でも英国で見てとれる、こうしたすさまじい光景のすべてを眺めてみるがいい。そしてそのとき思い出すがいい。これは、人々が新約聖書を読んでいる国、キリストに従い、自分たちがみな「一つの血」に属していることを信ずると告白している国だということを。これほどはなはだしい本音と建て前の使い分けを思い描けるだろうか? これほど神の不快にさせるようなことが想像できるだろうか? まことに驚愕すべきは、おびただしい数の人々が、キリスト教の信仰告白や外的な礼拝にはこれほど熱心でありながら、キリスト教的な行ないの最も単純な要素に対してはこれほど無関心であるということである。何の愛もないところには、何の霊的生命もない。兄弟愛のない人々は、バプテスマを受けていようが陪餐資格があろうが、罪過と罪の中で死んでいるのである。

 義務に関する点について云わなくてはならないことの総まとめとして、読者の方々に思い起こさせたいことが1つある。それは、私たちの主によって語られたものとして、聖マタイがその福音書の25章に記録している厳粛なことばである。人の子がその栄光の御座に着く、かの大いなる、また恐るべき審判の日には、王からこのように云われる人々がいるであろう。「『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです』」(マタ25:41-46)。

 はっきり云うが、これほど厳粛で、これほど心探られる聖書箇所を私はほとんど知らない。ここでとがめられているのは、殺人や、姦淫や、盗みを犯したとか、教会に通っていなかったとか、陪餐者でなかったとかいう、不幸な失われた魂たちではない。おゝ、否! 決してそうした類の人々ではない。これは単に全く何も行なってこなかった者たちなのである。この人々は、他者に対する愛をないがしろにしてきた。彼らは、この罪の重みにあえぐ世界の悲惨さを軽減しようとも、その幸福を増し加えようとも努力してこなかった。彼らは利己的にじっと構えて何もせず、何の善も施さず、アダムの大家族に連なる自分の兄弟たちを見る目も、思いやる心も持っていなかった。それで彼らの末路は永遠の刑罰となるのである! 人が、もしこうした言葉によっても、国内の大都市に住む一般大衆の状態を眺めて自ら反省させられることがないとしたら、何をもってしてもそれは無理であろう。

 さて私は、しめくくりにあたり、友人として3つの助言をしたいと思う。この論考を読んでいるすべての人は、ぜひこれに注意していただきたい。それは私たちの生きている時代にとって時宜にかなった言葉であり、覚えておくに値する言葉であると確信するものである。

 (a) まず第一にあなたに命じたいのは、決して聖書全体の十全霊感という昔からの教理を放棄してはならない、ということである。それを堅く握りしめ、決して手放してはならない。いかなる誘惑を受けても、この壮大な古い書物のいかなる部分をも霊感されていないと考えたり、その叙述の何らかの部分、特に創世記中のある部分が信ずるに足らないなどと考えてはならない。ひとたびそうした立場をとったなら、あなたは自分が斜面の上に立っていることに気づくであろう。それであなたが全くの不信仰へと滑り落ちていかないとしたら、よほどの幸いである! 疑いもなく信仰に伴う種々の困難は大きい。だが、懐疑主義に伴う種々の困難ははるかに大きいのである。

 (b) 次のこととしてあなたに命じたいのは、決してキリストの血という昔からの教理を放棄してはならない、ということである。その贖いの血こそ罪を完全に償うものであって、その血によらずに救われることは不可能である。いかなる誘惑を受けても、キリストの模範を眺めるだけで十分であるとか、キリストによって命ぜられ、近年多くの人々によって偶像視されている礼典を受けるだけで十分であるなどと考えてはならない。あなたが臨終の床に着くときには、模範や礼典を越えた何かが必要となるであろう。あなたは、自分に代わって十字架についたキリストの身代わりと、キリストの血に全幅の信頼を置く者となるように留意するがいい。さもないと、あなたは生まれてこなかった方がましということになるであろう。

 (c) 最後に、しかしこれも重要なこととして、私があなたに命じたいのは、決して兄弟愛という義務をないがしろにしてはならない、ということである。身分の上下や貧富の差にかかわらず、あなたの周囲にいるあらゆる人に対して、実際的で、活動を伴う、同情心に満ちた親切を注ぐがいい。日々努めて、何らかの善を地上で施し、あなたが生まれたときよりも良い状態になった世界を後に残して行くようにするがいい。もしあなたが本当に神の子どもであるなら、天におられるあなたの《父》とあなたの偉大な《兄》に似た者となるように努力するがいい。キリストのゆえに私は願う。自分ひとりがキリスト教信仰をいだいていることで満足してはならない。愛と、博愛と、親切心と、同情心とは、私たちがキリストの真の肢体であり、まぎれもなく神の子どもであり、天国の正当な相続人であることを示す、最高の証拠なのである。

 「一つの血」から、私たちはみな生まれている。「一つの血」によって、私たちはみな洗われる必要がある。私たちは、いのちを愛しているというなら、アダムの「一つの血」にあずかるすべての人々に対して愛を注ぎ、同情深く、あわれみを持ち、親切であるべき義務がある。時は縮まっている。私たちの人生は、とめどなくその終結に近づきつつあり、ついには私たちが来世に至る日がやって来る。そこには、矯正すべきいかなる悪も、いかなるあわれみのわざを行なう余地もない。では、キリストのゆえに私は願う。私たちはみな、死を迎える前に努めて何らかの善を施すようにし、この罪の重みにあえぐ世界の不幸を軽減するようにしようではないか。

「一つの血」[了]

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*1 この論考の内容は、1884年3月2日に、ロンドンの聖ジェームズ教会王室礼拝堂で説教されたものである。[本文に戻る]

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