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5. 幸いの道*1


「主はこう仰せられる。『四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ』」----エレ6:16

 エレミヤ書は、ほとんどのキリスト者たちから、本来受けてしかるべき注意をはるかに下回る注意しか受けていない。顕著な事実だが、エレミヤ書ほど網羅的な注解書や講解書が書かれることの乏しい箇所は、聖書の中でもほとんどないのである。

 私には、この書がなぜこれほど無視されがちなのかわからない。この書は、神の霊感を受けた一ユダヤ人祭司により、ユダ王国末期の格別な危機の中で書かれた。エレミヤが神から遣わされた相手は、邪悪な王、----世俗的な貴族社会、----腐敗した民衆、----堕落した《教会》、----死んで形式的な祭司団であった。彼は自分の同国人たちに忠実に警告し続けたが、古のカッサンドラーと同じく、彼を信じる者はなかった。彼は《教会》と《国家》が完全に壊滅し、都が焼かれ、ソロモンの神殿が破壊され、国民が捕囚の状態にされるのをその目で見た。そして最後に彼は、教会の伝承によると、エジプトまで逃亡しようとするユダヤ人難民によって無理矢理同行させられた後で、殉教の死を遂げたという。

 もう一度云うが、このような預言者の書物は、今の時代、これまで受けてきたよりも大きな注意を受けるに値するものである。私の知っている、ひとりの神の人は、当時の世代に大きな足跡を残した人だったが、三十五年前、私に向かって、エレミヤ書は何にもまして英国の終わりの時代のための書物だと告げた。その意見に私は完全に同意したい。そうした意見をいだきつつ私は、読者の方々に、私の選んだ聖句に関するいくつかの言葉を聞いてほしいと願うものである。それをあなたに、この時代のための聖句として勧めたい。

 I. まず第一に、この聖句の中にはこの上もなくすぐれた概括的な助言がある。エレミヤはあなたに向かって云っている。「立って、見渡し、尋ねよ」、と。

 私が解釈するに、この言葉は、思い巡らし、熟考せよという要求である。あたかもこの預言者がこう云ったかのようである。「立ち止まって考えよ。じっくり腰を据えて熟考するがいい。自分の内面と、来し方、行く末を眺めよ。何事も性急に行なってはならない。あなたは何をしているのか? どこへ行こうとしているのか? あなたが現在とっている行動の行き着く先と帰結はいかなることになるだろうか? 立ち止まって考えるがいい」、と。

 さて、人々に考えさせることは、キリスト教信仰のいかなる教師も常に眼前に置いておくべき一大目標である。つまり、真剣な考えこそ天国へ向かう最初の段階の1つなのである。詩篇作者は云う。「私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました」(詩119:59)。たとえ話の放蕩息子は、「我に返ったとき」、初めて父親のもとに向かった。彼は自分のふるまいの愚かさと無益さを静かに思い返し、そのときに、そのとき初めて、彼は家に帰って、「おとうさん。私は……罪を犯しました」、と云ったのである(ルカ15:18)。実際、考えなしであることこそ、多くの人々が永遠の難船に至る単純な原因にほかならない。思うに、ごくまれな場合をのぞき、入念な考えを巡らした上で、故意に悪を選び、善を拒絶し、神に背を向け、罪として罪に仕える決意をしている人などいないのではなかろうか。大部分の人が今のようなあり方をしている理由は、彼らが何の考えもなしに今現在の生き方を始めたことにある。彼らはわざわざ先の方を見渡して、自分のふるまいの結果について考えようなどとはしなかった。無思慮な行動をいくつかすることによって彼らは、第二の天性となるような習慣を作り出したのである。今や彼らは、そうした固定した生き方にはまりこんでしまい、恵みによる特別な奇蹟以外の何物をもってしても彼らを止めることはないであろう。それこそイザヤがイスラエルに告げた厳粛な非難である。「わたしの民は考えを巡らさない」(イザ1:3 <英欽定訳>)。「そんなこと、ちっとも考えたことがありません」、というのが、私が多くの下層階級の人々から、その罪について聞かされた悲しい弁解である。ホセアのこの言葉は、おびただしい数の人々にあてはまる。「彼らは心に思いを巡らさない」(ホセ7:2 <英欽定訳>)。

 私たちがみな気づいているように、考えなしなことによって、だれよりも大きな厄介を自らに招いているのは、若い人々である。生来の快活さと世間に対する無知ゆえに、彼らは常に目先のことしか見ず、将来のことを忘れるという誘惑にかられている。あまりにもしばしば彼らは、急いで結婚し、ゆっくり後悔し、ふさわしからざる相手と結婚することによって人生に悲惨の種を蒔いている。あまりにもしばしば彼らは、誤った職業や仕事を性急に選択し、二、三年もすると、自分が取り返しのつかない間違いを犯したこと、鉄道用語を借りれば、間違った路線に入ってしまったことに気づく。エサウは、差し迫った欲求を満たすことしか考えず、一椀の煮物とひきかえに自分の長子の権を売り渡した。ディナは何としても「その土地の娘たちを尋ね」なくてはならず、何の害が起こるとも考えずに出かけた結果、純潔を失い、父の家を厄介事に巻き込んだ(創34:1-31)。ロトは、ソドム付近のよく潤っていた低地に居を構えるという、目先の利点だけしか考えず、「主に対しては非常な罪人」であった人々と入り混じる結果を忘れていた(創13:13)。こうした人々はみな、思い巡らすことをせず、先を見通すことをせず、考えることをしないという愚かさによって、ほぞをかむことになった。彼らは肉のために蒔いたために、悲しみと失望という収穫を刈り取ることになった。それは彼らが「立って見渡す」ことをしなかったからである。

 こうしたことは疑いもなく昔からあることである。人生も半ばにさしかかった人ならだれでも、若者の愚かさについて頭を振り振り、「若い肩の上に老いた頭をのっけることはできない」、と悲しげに告げることができるであろう。しかし、若い人々だけが、今日この聖句の勧告を必要としている人々ではない。これは格別に、今の時代のための助言なのである。「せわしなさ」こそ、私たちが生きている時代の特徴にほかならない。鉄道と、電信と、世の中全体の競走によって現代の英国人は、息もつかせぬ目まぐるしさの中で絶えず生活させられているように見受けられる。いずこに目を向けようと、多くの人々は取引や政治に狂奔し、エフーと同じく「気が狂ったように御して」いるように見える。彼らは、自分の魂や来たるべき世について、穏やかで静かな、また真剣な思いを巡らす時間を見つけられないように思える。彼らはキリスト教の教理について抽象的な反対は何もしないし、恵みの手段や、聖書や、個人の祈りを用いることに異論はない。しかし、悲しいかな、彼らはそれらのための余暇を見いだせないのである! 彼らは不断に慌ただしい生き方をしており、あまりにもしばしば慌ただしさの中で死んでいく。英国において、エレミヤの助言が必要とされる時代が1つあるとしたら、それは今である。もしこの預言者が死人の中からよみがえることができるとしたら、私の信ずるところ、彼は十九世紀の人々に向かって声を大にして叫んだであろう。「止まれ、考えよ。----先を見通せ。----立って、見渡せ」、と。

 本書を手に取ることになるすべての人々に対して、キリストの教役者として私は、時代の流れに抵抗することの絶対的な必要性を、強く印象づけたいと思う。----あなたの魂のために時間を作ることは絶対に必要である。今の人々が生きているような、休みなしの、目まぐるしい慌ただしさは、個人的なキリスト教信仰の土台を危殆に瀕せしめている。毎日の個人的な祈りや、毎日聖書を読むことは、あまりにもしばしば片隅に追いやられ、大急ぎでいいかげんに片づけられている。日曜になったときには、平日の生活の激しい戦いによって、身心ともくたくたに疲れ切っている。人は教会の礼拝に大儀そうに出席するか、時として出席そのものを怠ってしまう。神の日をのらくら過ごすという誘惑、あるいはそれを訪問や外食のために費やすという誘惑が、ほとんど抵抗しがたいものとなる。徐々にその魂は、だらけた、締まりのない状態に陥り、良心の鋭利な刃先が鈍らされ、なまくらになっていく。なぜだろうか? それは単に、絶え間ない取引や政治の慌ただしさの中で、人々が決して考えるための時間を見つけられないからである。彼らは、わざと、故意にキリスト教信仰をないがしろにしているわけではない。だが彼らは、決して余暇を設けて、じっくり腰を据えて、自分の魂の状態を評価しようとしない。前世紀の末でさえ、ウィリアム・ウィルバフォースはピット氏について、このような悲しい所見を述べている。「彼は、政治に没頭するあまり、キリスト教信仰について熟考するため時間を割いたことが一度もなかった」(『ウィルバフォースの生涯』、p.41。1872年版)。

 私はこの論考を読んでいるあらゆる人に、自分の生き方について思い巡らすよう願いたい。古いスペインの諺を思い出すがいい。「慌ただしさは悪魔から来る」。いのちを愛するというなら、神の恵みによって決心するがいい。定期的に時間を設けては自分を吟味し、自分の魂の状態を点検する、と。「立って見渡すがいい」。あなたがどこへ行こうとしており、あなたと神との間柄がいかなる状態にあるかを。年がら年中慌ただしく祈りをし、慌ただしく聖書を読み、慌ただしく教会に行き、慌ただしく聖餐にあずかることに用心するがいい。少なくとも一週間に一度は沈思内省し、静まる時を持つがいい。木綿や、石炭や、鉄鉱や、麦や、船舶や、公債や、土地や、金や、自由主義や、保守主義だけのために、私たちはこの世に遣わされているのではない。死と、審きと、永遠は、夢物語ではなく、冷厳な現実である。それらについて考える時を設けるがいい。じっくり腰を据えて、それらと正面から向き合うがいい。いつの日かあなたは、そのための備えができていようがいまいが、いやでも死ぬための時間を設けなくてはならない。最後の敵は、あなたの扉を叩くとき、いかなる遅滞も許さず、「おりを見て、また」、などと云っても通用しない。彼は迎え入れないわけには行かず、あなたは出立しなくてはならない。幸いなことよ、取引や政治の喧噪が耳の中から途絶えたときにも、また目に見えない世界が不気味な姿を現わしつつあるときにも、こう云える人は。「私は、自分の信じて来た方をよく知っている。私はしばしば、立ってこの方と信仰によって会話を交わしてきた。そしていま私は、自分が見られていたのと同じように見るために出かけに行くのだ」。

 II. 私は、この聖句でエレミヤが与えている概括的な助言から話を進めて、主がその時代の人々に対して語りかけるよう彼に命じられた特定の指図を取り上げたい。もし彼らが、「立って見渡せ」という彼の忠言に真に聞き従いたいというのであれば、また彼らが自分たちの生き方を思い巡らしたいというのであれば、彼は彼らに命じている。「昔からの通り道はどこにあるかを尋ねるがいい」、と。

 さて、「昔からの通り道」ということでエレミヤは何を意味していたのだろうか? 私はこの問いに答えるにあたり何の困難も覚えない。私が疑いなく感ずるところ、この表現で意味されているのは、イスラエルの父祖たちが千三百年もの間歩んできた、昔からの信仰の通り道のことである。----アブラハム、イサク、ヤコブの通り道、----モーセ、ヨシュア、サムエルの通り道、----ダビデ、ソロモン、ヒゼキヤ、ヨシャパテの通り道、----十戒を人生規範とし、あの入念な、予表的な、犠牲中心の体系を礼拝規範とする通り道、来たるべき贖い主に対する信仰をその本質とする通り道である。これこそ、エレミヤの時代の人々がその周囲に結集するよう命令されている軍旗である。そう主張することに私は何のためらいも感じない。確かにイスラエルの霊的状態は、士師たちの最初の者から王たちの最後の者に至るまで、しばしば堕落し、低劣になったとはいえ、私の見る限り、十戒や犠牲律法が一度でも権威ある地位から退けられ、廃棄されたという証拠は何1つない。逆に、私の信ずるところ、それらは、「ほんとうのイスラエル人」であるあらゆるユダヤ人によって重んぜられ、敬われていた。列王たちの最暗黒の時代においてさえ、私の信ずるところ、常に少数の者たちは心ひそかに国家の腐敗した状態を憂えて、シメオンやアンナのように信仰を保ち続け、より良い時代の到来を待ち望んでいた。エレミヤは宣言したのである。「昔からの通り道」に全国民が立ち返ることによってしか、「昔からの通り道」以下の何物によっても、自分の同国人の未来にはいかなる希望の見込みもありえない、と。

 しかし、エレミヤによって規定された原理は、彼の時代だけにしか適用されない原理だろうか? とんでもない! 私の堅く確信するところ、十九世紀の霊的病のための主要な治療薬は、「昔からの通り道」、昔からの教理、過去の時代の信仰を、大胆かつためらうことなく尋ね求めることにあるのである。疑いもなく、過誤は非常に古くからあるが、真理は常に昔からあるものである。人々の心は六千年前と全く変わっておらず、同じ治療法を必要としている。神はこの長きにわたり、いくつかのご経綸をお用いになり、それぞれの時代は、後になればなるほど、より多くの光を享受してきた。しかし、土台となる真理は常に同じであって、罪人が天国に至るための道は常に同一であった。私は大胆に云う。時代は何1つ新しいものを必要としてはいない、と。時代に求められているのは、平易な、明確な、ひるむことのない、「昔からの通り道」に関する教えである。人間の作り出した現代風の道などお呼びではない。族長たちや、預言者たちや、使徒たちや、教父たちや、改革者たちが踏み越えて行き、称賛され、世界に足跡を残したところを示してほしい。「昔からの通り道は、幸いの道である」*。

 キリスト教界全体を通じて、私たちに求められているのは、初期のキリスト者たちが歩んだ昔からの通り道に立ち返ることである。使徒たちに最初に従った者たちは、疑いもなく、彼らの教師たちに似て、「無学な、普通の人」であった。彼らには印刷された本など何もなかった。彼らが有していたのは短い信条と、非常に簡素な礼拝形式だけであった。彼らが《三十九信仰箇条》や、《アタナシオス信条》、あるいは教会の《教理問答》の試験にすら、通ったかどうかは疑わしいと思う。しかし彼らは、自分たちの知っていたことを徹底的に知っており、強く信じており、ためらうことなく、燃えるような熱情をもって伝播した。彼らは、私たちの主イエス・キリストの《ご人格》と、《神性》と、種々の職務と、仲介と、贖いのみわざと、無代価で豊かな恵みを、また悔い改めと、信仰と、キリストに似た聖い生活、自己否定と、愛とが分かちがたく求められていることを、二本の指でこわごわとつまみあげるようなことはせず、両の手でがっしりつかみとっていた。こうした真理に立って彼らは生き、それらのために喜んで死んだ。こうした真理で武装した彼らは、賄賂に使う金銀がなくとも、同意を強制する剣がなくとも、世界をひっくり返して、ギリシャとローマの哲学者たちの顔色をなからしめ、二、三世紀のうちに《社会》の全面を一変させたのである。私たちにこの「昔からの通り道」を改善できるだろうか? 十八世紀の後に、この道を改良できるだろうか? 人間性は何か異なる治療薬を必要としているだろうか? 私の信ずるところ、いまだかつて地中から発掘された最古の骸骨の骨も、現代の人間たちの骨と全く変わらないものであって、いかなる時の経過を経ても、人間の道徳的性質と心とは全く同じである。私たちは「昔からの通り道」を尋ね求めた方がよい。

 英国国教会全体を通じて、私たちに求められているのは、わが国のプロテスタント宗教改革者たちが歩んだ昔からの通り道に立ち返ることである。私も彼らが仕上げのぞんざいな職人たちで、いくつか間違いを犯したことは十分認める。途方もない困難のもとで働いた彼らには、思いやりある評価と、公正な判断がされてしかるべきである。しかし彼らは、くずの中に長い間埋もれて忘れられていた、壮大な土台となる真理を再生させた。彼らが正しくも傑出した立場に引き上げた枢要な真理をあげてみれば、そこには、聖書の十分にして至高の地位、個人的判断の権利と義務、律法の行ないによらず信仰によって受ける無代価の義認、いかなる叙任された人間も、いかなる儀式も、魂とその《救い主》との間に割り込めないこと、などがある。こうした真理を私たちの《信仰箇条》および《典礼式文》の中に防腐保蔵し、それらに絶えず私たちの先祖たちを注意させるよう強調することによって、彼らはこの国の性格全体を一変させ、真の教理と行為との軍旗を高々と掲げた。それは三世紀を経た後も、国内の一勢力として残り続け、今日に至るまで英国人気質に無形の影響を及ぼしつつある。私たちにこの「昔からの通り道」を改善できるだろうか? 私たちは、一方では《宗教改革》以前へと立ち戻り、宗教儀式の数を増やすことによって、もう一方では霊感と贖罪に関する低次元な見解を採用することによって、この道を改良すべきだろうか? 私は完全にそれを疑うものである。私の信ずるところ、三百年前の人々の方が、1882年の多くの人々よりも、人間性の真の必要についてより良い理解をしていた。

 もちろん、ここまで弁護してきた「昔からの通り道」が、今日の一部の方面では人受けの悪いものであることは百も承知している。実際、私がいま提起した見解は、この時代の知恵と呼ばれているものの多くとは、真っ向から対立している。「時代遅れの体系」、「旧世界の信条」、「化石神学」、「論破された理論」、「すり切れた教理」、「旧弊な神学的立場」、などといった類の語句、----周知のように、こうした言葉遣いの重砲火は、信仰の「昔からの通り道」に対して、世論の伝達媒体や、一部の講壇や演壇から、絶え間なく浴びせかけられている。《目新しさ》こそ時代の偶像である。自由解釈や、啓蒙された見解や、合理的解釈や、科学(と呼ばれているもの)を聖書よりも重んずる立場こそ、この時代の多くの人々にとっての指導原理である。これこれの宗教的観念は古いものだと告げるや否や、彼らは、まず間違いなくそれは間違っていると考えるようである! これこれは新しいと告げるや否や、まず間違いなく真実だと考えるようである!

 しかし私は、こうした新しい宗教的見解が、何の例外もなく、必然的に古い見解よりも良いものであるとは決して思えない。人間の手のわざについて、そのようなことは云えない。私はこの十九世紀が、果たしてパルテノンやコロシアムよりもすぐれた建造物を設計できる建築家や、あれほど長きにわたってそびえたつ建造物を建て上げられる石工を生み出したかどうか疑わしいと思う。人間の精神の働きについて、そのようなことは云えない。トゥキュディデスの地位はマコーレーによって取って代わられてはおらず、ホメーロスのそれはミルトンによって取って代わられてはいない。ではなぜ私たちは、昔からの神学が必然的に新しい神学よりも劣っていると考えなくてはならないのだろうか?

 というのも、結局において、「昔からの通り道」やすり切れた信条を現代あざけっている人々が云いたいことをすべて云いつくした後でも、そこには決して説明し去ることのできないいくつかの厳然たる事実、1つしか答えを返すことのできないいくつかの問いが残っているからである。私は大胆に問う。この「昔からの通り道」の神学によらずして、世界にはいかなる広範な善が施されてきただろうか? そして私は確信をもってその答えを要求する。いかなる答えも返しえないことを知っているからである。私はためらうことなく主張する。いかなる福音の伝播も、いかなる国々の回心も、いかなる伝道活動の成功も、初期のキリスト者たちや改革者たちの、古くさい、明確な諸教理を用いることなしには決して達成されえなかった、と。私は、教義神学に敵対するあらゆる人に要求したい。いまだかつて、彼ら好みの教えでキリスト教化されたような国や、町や、人々の例が1つでもあるならその名を挙げてみるがいい、と。「キリスト教は偉大な道徳の教師であった。----あなたがたは互いに愛し合わなくてはならない。あなたがたは真実でなくてはならない。正義を行ない、利己的なことをせず、寛容で、人類愛に満ち、崇高な精神をしていなくてはならない」、などといった教えでキリスト教化された人々がいるだろうか? 否! 否! 否! そのような教えが示せる勝利は1つもない。そのような教えが展示できる賞杯は1つもない。それは地上でいかなる解放をも成し遂げたことがない。キリスト教がおさめた数々の勝利は、いずこにおいてかちとられた勝利であっても、みな明確な、教理的神学によってかちとられた。キリストの代償死といけにえを人々に告げること、キリストの十字架上における身代わりと、その尊い血を彼らに示すこと、信仰による義認を彼らに教え、十字架につけられた《救い主》を信ぜよと彼らに命ずること、罪による破滅と、キリストによる救済と、御霊による新生を宣べ伝えること、青銅の蛇を掲げ上げること、仰ぎ見て生きよと人々に告げること、----信じて、悔い改めて、回心せよと告げることによってかちとられた。こうしたことが、「昔からの通り道」である。これが、これこそが、十八世紀の間、神が成功によって誉れを与え、現在も国内海外を問わず誉れを与えておられる唯一の教えである。細かいことにこだわらない、非教義的な神学の教師たち、----あるいは誠実さと真摯さと冷たい道徳だけの福音を宣べ伝える者たち、----あるいは儀式的で、審美的で、芝居じみた、礼典形式主義に立つキリスト教の主唱者たち、----そうした人々にきょう私は云う。この「昔からの通り道」の明確な、教理的な教えを用いることなしに教化された英国の村か、教区か、都市か、地区を、1つでも示してみせるがいい、と。彼らはそれはできないし、これから先も決してできはしない。事実をくつがえすことはできない。地上で施されている善はさほど大きくはないかもしれない。悪がはびこり、無知で忍耐のない人々は、キリスト教は失敗に終わったとつぶやいたり、叫んだりするかもしれない。しかし、請け合ってもいいが、もし私たちが善を施し、世を揺り動かしたいと思うなら、私たちは使徒たちの用いた古の武器で戦い、「昔からの通り道」を堅く守らなくてはならない。

 読者の中に私が述べていることの正しさを疑い、私を行き過ぎだと考えている人がだれかいるだろうか? 私はその人に願いたい。以下にあげる2つの議論にしばらくの間耳を傾け、それから、できるものならそれらをくつがえしてみるがいい、と。

 1つのこととして、私はその人に命じたい。キリストの教会の偉大な《かしら》が世を離れ、弟子たちに証人となるよう命令して以来、教会を飾ってきた最も抜きんでた聖徒たちすべての生涯に目を向けてみるがいい、と。私は長大な名前の羅列で読者を飽き飽きさせはすまい。幸いなことに、そうした名は数多くある。教父たちや、スコラ神学者たち、宗教改革者たち、ピューリタンたち、国教徒たち、非国教徒たち、あらゆる教派のキリスト者たち、そしてあらゆる名前と国家と民族と国語とのキリスト者たち全体において、こうした人々の中で最も聖い人々を吟味してみよう。彼らの日記を調べ、彼らの伝記を分析し、彼らの書簡を研究してみよう。あらゆる時代において、その同時代人すべてによって、本当に聖く、聖徒らしく、善良な人々と目されていたのはいかなる人々であったか、はっきりつきとめてみよう。その中に、この「昔からの通り道」を堅くつかんでいなかったような人がひとりでもいるだろうか? キリストの贖罪と犠牲のみわざを単純に信じること、大きな、特定の、明確な教理的見解をいだくこと、そうした種々の教理を信じて生きることをしていなかったような者がいるだろうか? そんな人は皆無であると私は確信している! 彼らの悟りの明晰さや、霊的光の程度について、あるいは彼らが個々の信仰箇条を重視する度合については、非常に大きな違いがあったかもしれない。彼らが自分の神学的意見を云い表わしたしかたについては、一致はないかもしれない。しかし彼らには常に、1つの共通した特質が、目印があった。彼らは、「誠実さと、善良さと、真摯さと、愛」などといった、あいまいな観念で満足してはいなかった。彼らは、ある特定の、組織的な、輪郭のくっきりした、そして積極的な真理の見解を有していた。彼らは、自分の信じて来た方をよく知っており、自分が何を信じているか、なぜ信じているかをよく知っていた。そして、これはいつの時代にも変わらないであろう。小説家たちが何と云おうと、キリスト教的な実は、決してキリスト教の根がないとこけには結ばれない。抜きんでた聖潔は、決して教義神学という「昔からの通り道」がなくては得られないであろう。

 もう1つのこととして私は命じたい。堅固な慰めと、すばらしい望みをいだきつつ死んで行くすべての人々の臨終の床に目を向け、そこに注目するがいい。この世を旅する中で私たちの多くは、人々が死の影の谷を通って、人生の最期に近づき、「目に見えない、永遠の物事」に近づいていく姿を目にせざるをえないことが、ままあるであろう。私たちがみな知っているように、そうした人々が世を去るしかたや、彼らが感じているように見受けられる慰めや希望の大きさには、途方もない差異がある。自分が神に受け入れられるための根拠を明確に知りもせず、ただ単に、これまで自分は「誠実で、真摯でした」、としか云えないような人が、平安のうちに死ぬのを見たことがある人がいるだろうか? 私には自分自身の経験しか述べることができないが、私はただのひとりも見たことがない。おゝ、否! キリストの道徳的教えの物語や、自己犠牲や、模範や、キリストにならって誠実で真摯であるべき必要などは、決して死に行く枕をなだらかにしはしない。《教師》キリスト、偉大な《手本》キリスト、《預言者》キリストでは十分ではない。私たちにはそれよりも大きなものが必要である! 私たちに必要なのは、私たちの罪のために死に、私たちが義と認められるためよみがえりなさったキリストという古い、古い物語である。私たちに必要なのは、《仲保者》キリスト、《代理者》キリスト、《とりなし主》キリスト、《贖い主》キリストである。そうしたキリストを得て初めて私たちは、確信をもって《恐怖の王》に立ち向かい、「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」、と云えるのである。私の信ずるところ、一生の間、教義的なキリスト教信仰を拒否することを自慢してきた人々のうち、少なからぬ数の人が、最期を迎えたときには、自分の「細かいことにこだわらない神学」がみじめな慰め手であること、ただの「誠実さ」の福音が良い知らせでも何でもないことを発見してきたであろう。私の堅く確信するところ、十一時になったときに、自分たちの愛好してきた、新式の見解を振り捨てて、逃れ場を求めて「昔からの通り道」と尊い血のもとに走り来て、十字架につけられたキリストに対する信仰という、昔ながらの《福音的な》教理だけを希望として、それ以外に何も持たずに世を去った、少なからぬ数の人々を名指せるであろう。彼らが生涯を賭けた信仰の何物も、この十一時につかみとった単純な信仰ほどの平安を彼らに与えてくれはしなかった。----

   「ありのままの我にて 誇れるもの何もなきまま
    ただわがため 汝が血の流されしゆえ
    また汝の われに来よと命じ給うがゆえ----
      おゝ、神の子羊よ われは行かん」。

 確かに、こうしたことが事実であるとしたら、私たちにはこの「昔からの通り道」を、またその道を歩むことを恥じる必要は何もない。

 私はこの論考を読むあらゆる人に、事実の論理を重んじてほしいと思う。エレミヤの指図に、それが受けてしかるべき注意を払うがいい。ひとたびあなたが自分の魂について真剣に考え出したなら、決して「昔からの通り道」を尋ね求め、その道を歩むことを恥じてはならない。しかり! 単にその通り道を目で眺め、口に上せるだけではなく、実際にそれを歩むがいい。いかなる世の蔑みや、小器用な著述家の嘲りや、自由主義的な批判家の冷笑を受けても、この通り道に対する信頼を揺るがされてはならない。ためしてみさえすればあなたは、この通り道が幸いな道であること、「楽しい道、平安の道」であることを知るであろう。

 III. 私は、エレミヤの概括的な助言と特定の指図から話を進めて、この聖句の結論となっている尊い約束を取り上げたい。主は仰せられる。「それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ」。

 疑いもなく、私たちの主イエス・キリストはこの預言者の言葉を念頭に置いて、かの栄光ある招き----私たちの《聖餐式礼拝》においてかくも賢明にも引用されている招き----を宣言なさったのだと思う。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタ11:28)。少なくとも1つのことだけはきわめて確かである。旧約聖書においてであれ新約聖書においてであれ、人間の霊的欲求に対して何を差し出すにせよ、「いこい」にまさるものはなかった。昔からの通り道を歩めば、あなたは「いこい」を見いだすであろう。これが約束である。

 決して、決して忘れてはならない。良心の安らぎこそ、人類の大多数の人々のひそかな欲求であることを。罪と咎意識は、世界のいかなる地域においても、あらゆる人の心を倦み疲れさせている根源にほかならない。人々が心安らぐことがないのは、彼らが神との平和を得ていないからである。人々はしばしば自分の罪深さを感じる。彼らは、その感覚が実際には何を意味しているのか知らないかもしれない。だが原因はわからなくとも、自分の内側の何かがおかしいことだけはわかる。「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか」、という叫びこそ万人の叫びである。しかし、その叫びを生じさせるもととなっている病については、万人が無知のもとにある。「疲れている人、重荷を負っている人」は、いずこにおいても見られる。日の下にあるいかなる気候、いかなる国においても見いだされる。

 このように疲れた人、重荷を負っている人は、いかなる階級に属しているだろうか? あらゆる階級に属している。そこには何の例外もない。彼らは主人の間にも、しもべたちの間と同じように見いだされる。----富者の間にも、貧者の間と同じように、----王たちの間にも、臣下たちの間と同じように、----学のある人々の間にも、無学な人々の間と同じように見いだされる。いかなる階級においても、あなたは困難と、煩いと、悲しみと、心配と、つぶやきと、不満と、不安を見いだすであろう。これは何を意味するのだろうか? つまるところどういうことになるのだろうか? 人間はみな「疲れた人、重荷を負っている人」であって、休息を求めている、ということである。

 さて、疲れている人、重荷を負っている人に対する休息こそは、神のことばが、旧約聖書と新約聖書の双方において、人間に提供している主たる約束の1つである。この世は云う。「わたしのところに来なさい。わたしはあなたがたに富と快楽をあげます」。----悪魔は云う。「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを偉大な者、権力者、知恵者にしてあげます」。----主イエス・キリストは云う。「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」。

 しかし、主イエスが与えようと約束しておられるその休息とは、いかなる性質をしたものなのだろうか? それは、単なる肉体の休養のことではない。肉体の休養を得ていても、人はみじめな者でありえる。人は宮殿の中にいて、ありとあらゆる慰安に囲まれているかもしれない。莫大な財産を持ち、金銭で買えるものなら何でも手に入れているかもしれない。明日の肉体的欲求についてのあらゆる煩いから解放され、一時間たりとも労働する必要がないかもしれない。こうしたことすべてがかなえられたとしても、人は真の休息を得られない。おびただしい数の人々は、苦い経験によってこのことをいやというほど知っている。彼らの心は、世的な物資の山の中で飢えつつある。彼らの内なる人は、その外なる人がいつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしている間も、病んで、倦み疲れている! しかり、人は家や、土地や、金銭や、馬や、馬車や、柔らかな寝台や、ごちそうや、心づかいの行き届いた召使いたちを所有していても、なおも真の「休息」を有していないことがありえる。

 キリストがこの「昔からの通り道」においてお与えになる休息は、内なるものである。それは、心の休息、良心の休息、精神の休息、感情の休息、意志の休息である。この休息のもととなっているのは、罪がことごとく赦され、咎がことごとく取り除かれたという、喜ばしい感覚である。この休息は、自分には後に来る素晴らしいものがあるのだ、それは病気や死や墓の手の届かないところに蓄えられているのだ、という堅固な希望から出ている。この休息は、人生の大いなる務めは決着がついた、その大いなる目的はかなえられた、そのうちに万事は最善になるはずだ、永遠において天国は自分たちの家となるだろう、という確固とした根拠のある感情から出ている。

 このような休息を、この「昔からの通り道」によってご自分のところに来る者たちに与えるために主イエスは、十字架上で完成なさったご自分のみわざを彼らに示し、ご自分の完全な義を彼らに着せ、ご自分の尊い血で彼らを洗ってくださる。人は、自分のもろもろの罪のために神の御子が本当に死んでくださったのだと見てとり始めるとき、その魂において内なる平穏と平安の何がしかを味わい始めるのである。

 このような休息を、この「昔からの通り道」によってご自分のところに来る者たちに与えるために主イエスは、天にいる彼らの永遠の大祭司としてのご自分と、ご自分を通して彼らと和解してくださった神とを啓示してくださる。人は、自分のとりなしをするために神の御子が本当に生きておられるのだと見てとり始めるとき、内なる平穏と平安の何がしかを感じ始めるのである。

 このような休息を、この「昔からの通り道」によってご自分のところに来る者たちに与えるために主イエスは、ご自分の御霊を彼らの心に植えつけて、彼らの霊とともに、彼らが神の子どもたちであること、古いものが過ぎ去り、すべてが新しくなったことを証しさせてくださる。人は、自分が父なる神に内側から引き寄せられるのを感じ、自分が子とされ、赦された子どもであるという実感を感じ出すとき、その魂において平穏と平安の何がしかを感じ始めるのである。

 このような休息を、この「昔からの通り道」によってご自分のところに来る者たちに与えるために主イエスは、彼らの心に王として住み、内側のあらゆるものの秩序を整え、個々の精神機能にそのしかるべき位置と働きを与えてくださる。人は、自分の心の中に、反乱や混乱のかわりに秩序を見いだし始めるとき、その魂において平穏と平安の何がしかを理解し始めるのである。真の王が王座に着くまで、いかなる真の内なる幸福もありえない。

 このような休息は、キリストを信ずるすべての信仰者の特権である。ある信仰者はそれを大きく悟っており、ある信仰者はそれほど悟ってはいない。ある信仰者はそれを時たまにしか感じないが、ある信仰者はほとんど常時それを感じている。ほとんどの者は、その感覚を享受するまでに、不信仰との多くの戦いを経て、恐れとの多くの争闘を通らなくてはならない。しかし真にキリストのところに来たすべての者は、この休息の何がしかを知っている。彼らに尋ねてみるがいい。今の彼らのあらゆる不平や疑いにもかかわらず、キリストを捨ててこの世に戻っていくことを望むかどうかを。彼らは異口同音に答えるであろう。いかに彼らの感ずる休息が弱々しいものであろうと、彼らは自分たちに善を施してくれる何かをつかみとっており、その何かを彼らは手放すことができないのである。

 このような休息は、喜んでそれを求め、それを受け取ろうとするすべての人々の手の届くところにある。いかに貧乏な人も、それを得られないほど貧乏なことはない。いかに無知な者も、それがわからないほど無知なことはない。いかに病んだ人も、それをつかめないほど弱く無力なことはない。信仰こそ、単純な信仰こそ、キリストの休息を手にするため必要な唯一のことである。キリストに対する信仰こそ、幸福に至る大いなる秘訣である。貧困であれ、無知であれ、患難であれ、困窮であれ、もし人々がキリストのところに来て信じさえするなら、彼らに魂の休息を感じさせないようにすることはできない。

 このような休息は、それを所有する人々を自立させるものである。銀行は破産し、金銭は翼をつけて飛び去っていくかもしれない。土地によっては戦争や、疫病や、飢饉が突発し、地の基がことごとく揺らぐかもしれない。健康や体力はなくなり、肉体は忌まわしい病で粉々に砕けてしまうかもしれない。死は、妻や子どもたちや友人たちを切り倒し、愛する者を失った人をひとり取り残すかもしれない。しかし信仰によってキリストのところに来た人は、それでも決して取り去られることのない何かを有しているであろう。パウロとシラスのようにその人は、牢獄の中にあっても歌うであろう。ヨブのように子どもたちや財産を奪われてもその人は、主の御名をほめたたえるであろう。真に自立した人とは、何物も取り去ることのできないものを所有している人にほかならない。

 このような休息は、それを所有している人々を真に富む者にする。それは永続し、すりへらず、長持ちする。それは孤独な家庭を明るくする。臨終の枕をなだらかにする。人々がその棺におさめられたときも、彼らについて行く。彼らがその墓に横たえられたときも、彼らとともにとどまる。もはや友人たちも私たちを助けることができず、金銭も何の役にも立たないとき、----もはや医者たちも私たちの痛みを和らげることができず、もはや看護婦たちも私たちの必要に答えることができないとき、感覚が失われ行き、目や耳がもはやその用をなさなくなるとき、----そのとき、そのときでさえ、キリストが与えてくださる「休息」は信仰者の心に注がれているであろう。いつの日か、「富んでいる」という言葉と、「貧しい」という言葉は、その意味を全く変えてしまうであろう。信仰によってキリストのところに来たことのある人、そしてキリストから休息を受けた人のほかに富んでいる者はない。

 これこそエレミヤが、宣言するように任命された「いこい」にほかならない。これこそキリストが、あらゆる疲れた人、重荷を負っている人に与えようと申し出しておられる休息にほかならない。これこそキリストが、ご自分のところに来て受けるよう彼らを招いておられる休息にほかならない。これこそ私が、この論考を読んでいるすべての人々に享受してほしいと願い、この日あなたも受けるよう勧めている休息にほかならない。願わくは神がその勧めを、むだにもたらされたものでないようにしてくださるように!

 (a) さて今、この論考を閉じる前に、一言尋ねさせてほしい。読者の中に、心の内側では魂の休息を願っていながら、どこへ向かうべきかわからない人がだれかいるだろうか? この日、覚えておくがいい。その休息を見いだせる場所は一箇所しかない。政府にはそれを与えられず、教育はそれを伝えることがなく、世的な娯楽はそれを提供できず、金銭はそれを買うことがない。それが見いだされるのは、ただイエス・キリストの御手の中だけである。そして、もしあなたが内なる平安を見いだしたければ、その御手に向かわなくてはならない。

 魂の休息にはいかなる王道もない。そのことを決して忘れないようにしよう。御父に至る道は1つしかない。----イエス・キリストである。天国への扉は1つ、----イエス・キリストである。また心の平安への通り道は1つ、----イエス・キリストである。その道によって、すべての疲れた人、重荷を負っている人は、その身分や境遇にかかわらず行かなくてはならない。王宮にいる国王も、救貧院にいる乞食も、みなこの件においては同格である。みな同じように、魂の倦み疲れと渇きを感ずるならば、この「昔からの通り道」を歩んで、キリストのところに行かなくてはならない。自分の渇きを癒したければ、みな同じ泉から飲まなくてはならない。

 あなたは、いま私が書き記していることを信じないかもしれない。時が経てばだれが正しく、だれが誤っていたかがが明らかになるであろう。そうしたければ、真の幸福はこの世の良き物事の中に見いだされるはずだと想像しながら生きるがいい。そうしたければ、酒盛りや、宴会や、舞踏や、浮かれ騒ぎや、競馬や、劇場や、野外運動や、骨牌遊びの中にそれを求めるがいい。そうしたければ、読書や科学的探求、音楽や絵画、政治や実業の中にそれを求めるがいい。形式的な宗教儀式三昧の中に、それを求めるがいい。----儀式的キリスト教の種々の要件に機械的に服従することによって、それを求めるがいい。だがあなたは、そうした計画を変更しない限り、決してそれをとらえることはないであろう。心の真の休息は決して、イエス・キリストとの心の結びつきという「昔からの通り道」以外のところで見いだされはしない。

 チャールズ一世の娘であったエリザベス王女は、ワイト島のニューポート教会に埋葬されている。私たちの仁慈深いヴィクトリア女王によって建てられた大理石の記念碑が、彼女の死の感動的な模様を記している。彼女は、あの不幸な共和国戦争の間、カリスブルック城の孤独な一囚人として、若い頃の友だちすべてから引き離され、死によって解放されるまでの日々を送った。ある日彼女は自分の聖書に頭をもたせかけて死んでいるのが発見された。そのとき開かれていた聖書箇所にあった言葉は、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」、であった。ニューポート教会にある記念碑は、この事実を記録している。それは、頭を大理石の書物の上にもたせかけている女性の像と、その書物に刻み込まれている、先に引用した言葉からなっている。その記念碑が石によっていかなる説教を伝えているか考えてみるがいい! 考えてみるがいい。これは、身分も、高貴な生まれも、完全に確かな幸福を授けはしないことを示す、何と色あせない記念であることか! それは、この日あなたが前にしている教訓----いかなる者にとっても、真の休息は、キリストのうちにしかありえない、というこの大いなる教訓----にとって何という証言であろう! その教訓が決して忘れられなければ、あなたの魂にとって何と幸いなことか!

 (b) この論考を読んでいる人の中に、この「昔からの通り道」を歩んで、キリストがお与えになる休息を見いだした人がいるだろうか? キリストのところに行って、自分の魂をキリストに投げかけることによって、真の平安を味わい知った人がいるだろうか? 私はあなたに願いたい。決してこの「昔からの通り道」を離れず、決してそれより良い道があるなどと考えるよう誘惑されないようにするがいい。キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださった。それゆえ、しっかり立っているがいい。右にも左にもそれてはならない。生涯最後の日まで、すでに始めたように、イエスを見上げ、イエスに養われつつ、続けて行くがいい。また、休息、平安、あわれみ、恵みの十分な供給を、日々この休息と平安との偉大な泉から引き出し続けるがいい。忘れてはならない。あなたは、たといメトシェラのごとき長命に達しても、決してあわれな、むなし手の罪人以上の者にはならず、あなたの持てるもの、望みをかけているものの一切をキリストのみに負っているのだ、ということを。

 キリストに対する信仰の人生を生きることを決して恥じてはならない。いかに考えても、この「昔からの通り道」は永遠に残る。この世の道は、今も冷静な熟考に持ちこたえられず、その最後は恥と自責である。人々はあなたを嘲り、笑い者にするかもしれず、議論の中であなたをやりこめることすらあるかもしれない。だが彼らは決してあなたから、キリストに対する信仰が与える感情を取り上げることはできない。彼らは決してあなたがこう感ずるのを妨げることはできない。「私はキリストを見いだすまでは倦み疲れていたが、今は良心に休息を得ている。かつては盲目であったが、今は見えている。死んでいたが、よみがえっている。失われていたが、見いだされている」、と。

 最後に、しかしこれも重要なこととして、確信をもって、来たるべき世における、より良い休息を待ち望むがいい。もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。この方は、ご自分を信じたすべての者たちを集めて、ご自分の民を1つの家に連れて行ってくださる。そこでは、悪者どもはいきりたつのをやめ、そこでは、力のなえた者は完璧ないこいを手に入れる。この方は彼らに栄光のからだをお与えになり、そのからだにおいて彼らは全く気を散らされることなくこの方に仕え、倦み疲れることなしにこの方を賛美することになる。この方は、すべての顔から涙をぬぐい、すべてを新しくしてくださる(イザ25:8)。

 この「昔からの通り道」によってキリストのところに来た者、そして自分の魂をキリストの保護にゆだねた者すべてには、これから良い時がやって来る。彼らは、「主が、この間に彼らを歩ませられた全行程を」思い出し、途中の一歩一歩における知恵を見てとるであろう。彼らは、自分たちの《羊飼い》のいつくしみと愛とを一度でも疑ったことに驚くであろう。何にもまして彼らは、いかに自分がかくも長くキリストから離れて生きてこられたのか、いかに自分がこの方のことを聞いたとき、この方のもとへ来ることをためらうことなどできたのか、と驚くであろう。

 スコットランドにはグレンクローと呼ばれる峠がある。これは、キリストのところへ来た人にとって天国がいかなるものとなるかを示す美しい例話となろう。グレンクローを通る山道は、くねくねと曲がった、長く急な上り坂である。しかし峠の頂上に達したとき、路傍に1つの石碑が見える。そこには、この単純な言葉が彫りこまれている。「休め、そして感謝せよ」、と。この言葉は、キリストのところに来た、あらゆる者がとうとう天国にはいるときの感情を云い表わしている。隘路の果ての山頂は、とうとう自分のものとなった。私たちは、自分の倦み疲れる旅路の終わりに達し、神の国で腰を下ろすことになる。自分の生涯のあらゆる道のりを感謝をもって見返し、これまで導かれてきた急坂で出会った1つ1つの曲がりくねりにおける完璧な知恵を悟るに違いない。私たちは栄光の安息につつまれて、もはやそれまでの登り道の難儀を忘れてしまうに違いない。今のこの世では、キリストにおける私たちの休息の感覚は、最高の状態にあってさえ微弱で部分的なものである。しかし、「完全なものが現われたら、不完全なものはすたれ」る。神に感謝すべきかな。やがて来たるべき日に、信仰者たちは、この「昔からの通り道」の終わりに至り、完璧な休息に達して、感謝することになるのである!

幸いの道[了]

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*1 この論考の内容は、元来、1883年に、ホワイトホールの王室礼拝堂で説教されたものである。[本文に戻る]

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