Simplicity in Preaching 目次 | BACK | NEXT
3. 平易な説教を行なうには*1 ソロモン王は『伝道者の書』でこう云っている。「多くの本を作ることには、限りがない」(伝12:12)。この言葉がまさにあてはまる主題を1つあげるとしたら、まず間違いなくそれは、説教という主題であろう。教役者に説教法を指南するために書かれた書物は、それだけで1つの小図書館になる。ここに、その主題に関するもう1つの小論を刊行するにあたり私は、その一領域だけを取扱おうと思う。私は、説教の内容や題材がいかなるものであるべきか考察するつもりはない。また、説教に伴うべき「重々しさや、熱情や、活発さや、暖かさ」などといった点、あるいは、原稿を用意した説教と、原稿なしの説教とのそれぞれの利点などといった問題についてはあえて語らないでおく。私はただ1つの点に限定して語りたいと思う。その点は、受けてしかるべき注意をあまりにも受けていない。すなわち、言葉遣いと文章の平易さという点である。
年の功がいささかでも助けになるとしたら、私も読者に、この「平易さ」ということについて、何がしかのことは語れるはずである。私が説教を始めたのは45年前、叙任を受けてから最初に赴任した、とある寒村の教区においてであった。その当時、私の教役者生活の大半は、労働者や農民たちに向かって説教することに費やされていた。こうした聞き手に向かって説教し、自分の話している言葉の意味を理解させ、相手の注意をつなぎとめることが、いかに途方もなく困難であるか、私にはわかっている。あえて言葉遣いや文章構成ということに限って云えば、私は、オックスフォード大学か、ケンブリッジ大学か、テンプル法学院か、リンカンズイン法学院か、国会議事堂で説教する方が、よく晴れた暑い八月の日の午後に、農村部の会衆に向かって語りかけるよりも、むしろずっと楽に感ずるであろう。聞いた話だが、ある労働者は何曜日よりも日曜日を好んでいたという。「なぜって、教会の椅子に気持ちよく腰かけたら、後は足を組んで、何にも考えずに眠っていられるもんでなあ」。教職にある若い方々の中には、いつの日か、私が受け持ったような会衆に向かって説教しなくてはならなくなる人がいるかもしれない。もしその人が、私の経験から何か助けを得られるとしたら幸いである。
本題に入る前の道ならしとして、前置き的に4つのことを云っておこう。
(a) 1つのこととして、私がすべての読者の方々に思い起こしてほしいのは、説教を平易なものにすることは、魂のために有益な働きをしたいと願うあらゆる教役者にとってことのほか重要である、ということである。平易な説教をしない限り、あなたの云っていることは決して理解してもらえず、あなたの云っていることが理解してもらえない限り、あなたは聞き手に何の善を施すこともできない。いみじくも、クウィンティリアヌス[35?-?95. ローマの雄弁家・修辞家]はこう云っている。「理解してもらおうとしない者は、無視されて当然である」、と。もちろん、教役者の第一の目標は、真理を宣べ伝えることでなくてはならない。真理の全体を宣べ伝えること、「イエスのうちにある真理」以外の何物も宣べ伝えないことでなくてはならない。しかし、それに次いで教役者が目指さなくてはならないのは、自分の説教を理解してもらうことである。だが、もしその説教が平易なものでないとしたら、聞き手の大多数はそれを理解できないであろう。
(b) 前置きとして私が云いたい次のことは、説教を平易なものにすることは、決してたやすいことではない、ということである。それをたやすいとみなすことほど大きな思い違いはありえない。アッシャー大主教の言葉のさわりを用いれば、「難解な事がらを難解にして見せることは、だれにでもできる。だが、難解な事がらを簡単にし、すらすらと分かるようにして見せることは、並みの語り手には到底達しえない境地にほかならない」。最も賢明かつ最上のピューリタンのひとりであったある人は、二百年前にこう述べた。「大多数の説教者は、人々の頭上はるかに越えた所をめがけて射撃している」。これは1887年においても真実である! 残念ながら、私たちの説教内容の大部分は、ギリシャ語で語られたも同然に、聞き手から理解してもらえていないのではないだろうか。えてして人々は、何か1つ平易な説教を聞いたり、平易に書かれた小冊子を読むと、「まさにその通り! これは何と平易なことか! 何とすらすら分かることか!」、と云い、そうした調子で書くことはだれにでもできるだろうと思うものである。だが、読者の方々に云わせてほしい。平易で、明晰で、すっきり分かる、力強い文章を書くことは至難のわざである。クラパムのチャールズ・ブラッドリの説教を眺めてみるがいい。彼の説教は何の苦労もなしに読める。その文章は平易で、自然で、だれが見てもその意味は、真昼の太陽のように明らかであると感じられる。その言葉は、1つとして不適切なものはなく、すべてが正しい順序で並んでいる。しかし、こうした説教を練り上げる苦労はブラッドリ氏にとって非常に大きなものであった。ゴールドスミスの著書『ウェークフィールドの教区牧師』を注意深く読んだことのある人なら、まず間違いなく、その言葉遣いのまれに見る自然さ、わかりやすさ、平易さに気づかないではいられないはずである。だがしかし、知る人ぞ知るように、その作品のために費やされた苦心と惨憺と時間は途方もないものであった。その『ウェークフィールドの教区牧師』を、ジョンソンの『ラセラス』----常ならぬ切迫した状況下にあって、ほんの数日で書き飛ばされたと云われている作品----とくらべてみるがいい。その差は一目瞭然である。実際、長ったらしい言葉を使い、非常に学識があるように見せかけ、その説教を聞いた人々をして、帰る道すがら、「何と素晴らしい説教だろう! 何という才気! 何という壮大さだろう!」、と云わせることは、非常にたやすい。しかし、人の心を打ち、その記憶に留まることを書くこと、喜びを与えるとともに、はっきり理解させること、聞き手の精神に吸収され、決して忘れられないようなことを語ったり書いたりすること、----それは、請け合ってもいいが、非常に困難なことであり、その境地に達する人はごくまれである。
(c) 次のこととして述べたいのは、平易な説教ということについて私が語るとき、読者は決してそれを幼稚な説教を意味するとは考えないでほしい、ということである。もし私たちが、貧民の好むのはそうした類の説教であると考えているとしたら大間違いである。牧師は自分らのことを「幼児食」さえ与えておけば満足する無知な集団だと考えているのだ、などと聴衆に思わせてしまったが最後、私たちが善を施せる見込みは何もかも失われてしまう。人々は、少しでも慇懃無礼な説教をされていると思えば気分を害する。彼らは、牧師が自分たちを対等の者として扱っておらず、見下していることを感じとるのである。人間性はそうしたことを常に嫌うものである。彼らはたちまち態度を硬化させ、耳を貸すことをやめ、向かっ腹を立ててしまう。こうなると私たちは、風に向かって説教しているも同然となる。
(d) 最後に述べておきたいことは、必要とされているのは粗野な説教でも、卑俗な説教でもない、ということである。平易でありながら紳士のように、礼儀正しく、洗練された物腰で語ることは、全く可能である。教育を受けていない、無教養な人々が、高等教育を受けていない人から、無教養なしかたで語りかけられることを好むなどと思ったら大間違いである。ラテン語やギリシャ語を全く解さず、聖書にしか通じていない信徒伝道者や聖書朗読者の方が、オックスフォードを最優秀成績で卒業した人や、ケンブリッジの優等卒業試験の一級合格者よりも受けがいいなどと考えるのは、(その優等卒業者が説教の何たるかを知っている場合には)、完全な誤りである。人々が卑俗で粗野な物云いにがまんできるのは、たいてい、それ以上のものが得られない場合に限られる。
こうした前置き的なことを道ならしとして語った上で私は、話を先に進めて、これから手短に5つの心得を読者に示したいと思う。それらは、説教を平易なものとするための最上の手段であると私には思われる。
I. 私の最初の心得はこのことである。もし説教を平易なものにしたければ、自分の説教しようとしている主題について明確な考えをいだいておくように注意するがいい。私が示そうとしている5つの心得のうち、これこそ最も重要なことである。では、主題聖句を選んだなら、それを徹底的に理解し、隅から隅まではっきり把握するように心がけるがいい。自分が何を証明したいのか、何を教えたいのか、何を立証したいのか、何を人々の思いに植えつけたいのかを、しっきりわきまえておくがいい。もしあなた自身が五里霧中で語りだしたなら、請け合ってもいいが、人々はあなたによって暗黒の中に取り残されるのが落ちであろう。古代最大の雄弁家のひとりキケロは、はるか昔にこう云っている。----「自分が理解してもいない主題について、明晰に、また雄弁に語れる者などひとりもいない」。----そして、彼の言葉は真実であると私は確信するものである。ホウェイトリ大主教は、非常に明敏な人間性の観察者で、大半の説教者についていみじくもこう語っていた。「彼らは何事も目指さず、何事にも命中できない。あたかも見知らぬ島に上陸して、あちこちを探検して回る人々のように、彼らは無知のうちに出立し、無知のまま一日中旅を続ける」。
特に若い教役者たちには、この第一の心得を覚えておくように願いたい。もう一度、私は声を大にして云う。「自分の主題を徹底的に理解するよう注意するがいい。決して自分でも意味がよく分からない聖句を選んではならない」。成就していない預言や、象徴的な預言の中にあるような不明瞭な箇所を選ばないように用心するがいい。もしもある人が、ごく普通の会衆に向かって、年がら年中、黙示録にある封印や、鉢や、ラッパについて、あるいはエゼキエルの神殿について、あるいは予定や、自由意志や、神の永遠のご計画について説教しているとしたら、その人の説教が決して平易なものにならないとしても、まともに考えれば全く何の不思議もないであろう。私も、こうした主題が時おりは、ふさわしい機会に、また、それなりの聴衆を前にした場合に、取り扱われるべきではない、とまでは云わない。私が云いたいのはただ、それらは非常に深遠な主題であり、賢明なキリスト者たちすらしばしば意見を異とするものであるため、これらについてごく単純に語ることはほとんど不可能だ、ということである。主題を平易に語りたければ、平易な主題を選ぶことである。そして、神のみことばの中には、山ほど平易な主題を見いだせるのである。
それと同じ理由により、空想的な主題や、いわゆる、つじつま合わせの聖句を取り上げて、決して聖霊がそこで意図なさらなかったような意味を引き出そうとしないように用心するがいい。魂の健康にとって必要な主題のうち、聖書の中で平易に教えられも、規定されてもいないようなものは何1つない。ならば、説教者は決して、何らかの聖句を取り上げて、霊感されたその言葉の平易な文字通りの意味ではないような何かを----それ自体としてはいかに正しくとも----、歯医者があごから歯を抜くように抜き出すべきではない。その説教は、目もあやな輝きと独創性に彩られているかもしれず、その聴衆は、「私たちの牧師は、何と才気にあふれているのだろう!」、と口々に云い交わしながら帰路につくかもしれない。しかし、聞く側でよくよく吟味すると、その聖句の中にその説教が見あたらず、その説教の中にその聖句が見いだせないということでは、彼らは困惑し、聖書を理解不能な深遠な書物だと考え出すであろう。説教を平易なものにしたければ、聖句のつじつま合わせには用心するがいい。
聖句のつじつま合わせということがどういうことか説明させてほしい。かつて私は、北部のある町において、この種の手法で説教することで有名なひとりの説教者の話を聞いたことがある。まず彼は、自分の主題聖句を読み上げた。「貧しい者は、奉納物として、朽ちない木を選ぶ」(イザ40:20)。そして彼はこう云った。「ここにいるのは、生まれながらに貧しく、困窮しきった人物である。彼の手元には、自分の魂の咎を償うために捧げられるものが何もない。では何を彼はすべきだろうか? 朽ちることのない木を選ぶべきである。すなわち、私たちの主イエス・キリストの十字架を選ぶべきである」。----これとは別の機会に、内住の罪という教理をぜひとも説教したいと思った彼は、主題聖句をヨセフとその兄弟たちの物語から選んで、こう読み上げた。「あなたがたが先に話していた……古い人はまだ生きているのか」(創43:27 <英欽定訳>)。この問いかけから発して彼は、信仰者のうちに残存する汚れた性質という説教を巧みにひねりだした。----その教理は、疑いもなく偉大な真理ではある。だが、確かにこの箇所で教えられている真理ではない。こうした実例は、若い兄弟たち全員にとって1つの警告となるものと信じたい。人間性に内住する腐敗について説教したければ、あるいは十字架につけられたキリストについて説教したければ、私が今あげたような、こじつけめいた聖句を探し求める必要はない。平易な説教をしたければ、すっきりとした、平易な聖句を選ぶように心がけることである。
さらに、もしあなたが、自分の説教を平易にする土台として、自分の主題を隅から隅まで把握したければ、その説教をいくつかの部分に区分すること、また、その区分をはっきり述べることを恥じてはならない。云うまでもなく、これは非常に議論のやかましい問題である。多くの方面では、病的なほど、「第一に、第二に、第三に」といった区分が恐れられている。最近の流行は、区分された説教を強く排除する方向に向かっているし、私も、生き生きと語られた、何の区分もない説教の方が、区分されてはいても、単調で、つまらない、非論理的な説教よりもはるかにまさったものであることは存分に認めざるをえない。それぞれ自分の心の中で確信を持つがいい。区分しなくとも人の心を打って、記憶に留まるような説教を語れる人は、ぜひともそのやり方を守り抜くがいい。しかし、説教を区分する隣人を蔑んではならない。私が云いたいのはただ、説教を平易なものにしたければ、そこには軍隊の中にあるような秩序がなくてはならない、ということである。まともな将軍であれば、砲兵隊や歩兵隊や騎兵隊を1つのごたまぜの集団にしておくようなことをするだろうか? いかなる晩餐会や宴席の主催者が、すべての料理をいちどきに食卓に出すようなことを考えるだろうか? だれが、スープも、魚も、アントレーも、骨付き肉も、サラダも、鳥も、甘菓子も、デザートも、1つの大皿の中に放り込んで出すようなことを考えるだろうか? そのような主人がその食事をきちんと供したと考えるような人はまずいないであろう。それと全く同じことが説教についても云えると私は云いたいのである。あなたの説教にはぜがひでも秩序があるようにするがいい。----たとえあなたが、あなたの「第一に、第二に、第三に」を持ち出そうが持ち出すまいが、秩序は必要である。----あなたの区分が隠されていようが表に出されていようが、秩序は必要である。----あなたの各論点と思想には、注意深く整えられた秩序が必要である。それらは、ウィンザー公園における閲兵式で、女王の前を行進していく連隊のように、整然と、美しくつながっていなくてはならない。
私個人のことを云えば、私はこれまでの生涯で、区分のない説教を2つとしてはいないと思う。私は、自分の語ることを人々に理解させ、記憶させ、心に植えつけることこそ最も重要なことであると感じており、区分がその助けとなると確信している。実際、各区分は、精神の中で留め金や、掛け釘や、棚板の役目を果たすのである。もしあなたが、過去や現代の成功した説教者たちの説教を調べてみれば、必ずや彼らの説教の中に秩序があること、そしてしばしば区分があることに気づくであろう。これはいささかも恥じることなく云うものだが、私はしばしばスポルジョン氏の説教を読んでいる。私はありとあらゆる方面から、説教の心得を集めたいと思う。ダビデはゴリヤテの剣について、「だれがこれを造ったのか」、「だれがこれを磨いたのか」、「何という名の鍛冶屋がこれを鍛えたのか」、などと尋ねはしなかった。彼は、「それは何よりです」、と云った。というのも、一度その持ち主の首を切り落とすのに用いたことがあったからである。スポルジョン氏はだれよりもすぐれた説教をすることができる。彼の引き寄せている膨大な数の会衆がその証明である。私たちは常に、人々を引き寄せる説教について吟味し、それを分析するべきである。さてあなたがスポルジョン氏の説教を読むとき、彼がいかにはっきりと、また明解に説教を区分しているか、またいかにそれぞれの区分を美しく単純な思想で満たしているか注意してみるがいい。彼の言葉の意味は、いかに容易につかめることか! 彼は種々の偉大な真理をいかに徹底的に提示していることか! それは鋼鉄の留め金のように思いに打ち込まれ、いったん記憶に埋め込まれると、決して忘れることができない!
さて私の第一の論点は、もし説教を平易なものにしたければ、その主題を徹底的に理解しなくてはならず、もしそれを理解したかどうか知りたければ、それを区分し、配列しなくてはならない、ということである。私がそう云うのは、ただ自分の経験からだけである。私はこのことを、教役者になって以来ずっと行なってきた。45年の間私は、無地の帳面を手元に置き、説教に使える主題聖句と見出しを、必要になるときのために記入してきた。ある聖句をつかんで、展開の筋道を見通せるときには常にそれを書きとめて、覚え書きを作る。ある聖句を展開できる筋道が見通せないときには、決してその聖句からは説教しない。そうした場合には、平易に語れないとわかっているからである。そしてもし平易に語れなければ、全く説教しない方がましであることを知っているからである。
II. 私が与えたいと思う第二の心得はこのことである。いかなる説教においても、できる限り、最も平易な言葉を用いるようにするがいい。とはいえ、このように云うとき、私は少々説明を加えなくてはならない。平易な言葉と私が云うとき、それは二字以下の熟語とか、純粋なヤマト言葉という意味ではない。この件において私はホウェイトリ大主教に賛成できない。ヤマト言葉を推奨する彼の意見は、確かに聞くべき点も多々あるが、行き過ぎであると思う。むしろ私は、かの賢明な古代の異教徒キケロの言葉の方を選ぶ。彼はこう云っている。演説家は、人々の間で「日常的に普通に使われている」言葉を努めて用いるべきである、と。その言葉がヤマト言葉であろうとなかろうと、四字、五字熟語であろうとなかろうと、それが人々によって用いられ、理解されている言葉である限り、何の問題もない。ただし、どのように行なうにせよ、用心しなくてはならないのは、下層階級の人々が明敏にも「辞書」言葉と呼ぶものである。すなわち、抽象的であるか、学術的であるか、衒学的であるか、複雑であるか、とらえどころがないか、非常に長々とした言葉には用心しなくてはならない。それは非常に洗練された、非常に荘重なものに思えるかもしれない。だが、それらはごくまれにしか使われていない。最も力強く、最も説得力のある言葉は、一般的に行って、非常に簡潔なものである。
もう一言述べて、ここまで語ってきたことを確証させてほしい。それは、常にヤマト言葉を使うことが望ましいという、よくある誤った考えについてである。思い起こしてもらいたいが、元来はヤマト言葉でない膨大な数の言葉が、平易な文体で名高い著述家たちによって用いられているのである。たとえば、ジョン・バニヤンの名著を手に取り、その題名、『天路歴程』を眺めてみるがいい。その題名には一言もヤマト言葉が用いられていない。バニヤンがこれに、『道行く人のあゆみ』と名づけていたとしたら、そのどこがましになっていただろうか? むろん、こう云うとき私は、わが国古来の言葉ではない古典語や外来語が、たいていはヤマト言葉に劣るものであることを存分に認めるものである。また、原則として、可能な場合は、力強く純粋なヤマト言葉を用いよ、と云うべきである。ただ、私がここで云いたいのは、もともとヤマト言葉でないような言葉は、必然的に、良い語彙でも平易な語彙でもありえないと考えてはならない、ということである。それはともあれ、長々とした言葉には用心するがいい。
ジー博士は、その卓越した著書、『私たちの説教』(ロングマン社)において、長々とした言葉や、日常使われていない表現を用いることがいかに無益であるかについて、非常に的を射た指摘をしている。たとえば彼は云う。「浄福ではなく、幸福と云うがいい。しろしめすではなく、支配すると云うがいい。減損するではなく、減らすと云うがいい。禁忌ではなく、許されていないと云うがいい。倦厭ではなく、飽きると云うがいい。如是ではなく、この通りと云うがいい。爾後ではなく、後でと云うがいい。喚起するとか抽抜すると云うのではなく、呼び起こすとか引き出すと云うがいい」。私たちはみな、こうした点において襟を正させられる必要がある。オックスフォードやケンブリッジにおいてなら、あるいは古典的素養のある聴衆を前にした場合なら、あるいは高等教育を受けた聴衆の前で説教する際なら、洗練された言葉には何の問題もない。しかし、請け合ってもいいが、もしあなたが普通の会衆を相手に説教しているのなら、できるだけ早くこうした類の語彙を投げ捨てて、平易な日常語を用いるに越したことはない。いずれにせよ、1つのことだけは確かである。すなわち、平易な言葉を用いなければ、決して説教が平易なものとなることはないであろう。
III. 説教を平易なものとする心得として私が差し出したい第三のものは、このことである。平易な構文で語るように注意するがいい。どういうことか、例をあげて説明してみよう。かの偉大な、驚嘆すべきチャーマズ博士の説教集を手に取る人なら、ほぼ確実に気づくことだが、そこには、全く切れ目のない文章が、何行も何行もすさまじいほど連綿と続いている。これを私は非常な誤りであるとみなさざるをえない。それはスコットランドには適しているかもしれないが、決して英国では助けにならない。もしあなたが構文を平易なものにしたければ、決して切れ目なしに何行も何行も続くような、聴衆の精神に一息入れて休ませることを許さないような文章を書かないように用心するがいい。いくつもの文を、「であり」、「であるが」、「でもって」、「して」、などという言葉で連結しながら、ずるずる引き延ばしてはならない。1つの文章は、ぴしりと句点(。)で区切るようにし、それも喘息患者になったか、息を切らしているかのように短く書くよう注意するがいい。決して長ったらしい文章や、長ったらしい段落を書いたり、語ったりしてはならない。ふんだんに句点(。)を打ち、何度でも新しい文を始めるがいい。何百個も読点(、)が打たれた、括弧()だらけの文や、2~3ページも続くような段落は、平易さにとってはまさに致命的である。私たちが念頭に置いておかなくてはならないのは、自分が本を書いているのではなく、人々に耳で聞かせる説教を書いているのだということ、また、「読み物」としては良い文章であっても、「聞かせ物」としては必ずしも良くないことがある、ということである。文章を読んでいる人の場合、理解が混乱し始めたらいつでも、何行か前にさかのぼって、新たな気分でもう一度読み始めることができる。しかし説教を聞かされている人の場合、ある文章を聞けるのは一度限りであって、いったん、あなたの混み入った、長ったらしい文章の論旨を見失ったとしたら、おそらく二度とそれを見いだすことはないであろう。
さらに、あなたの構文の平易さを大きく左右するものとして、ことわざや、警句的な文章を適切に用いることがある。これは非常に重要なことである。思うに、ここにこそ、マシュー・ヘンリの注解書や、ホール主教の『黙想』の中であなたが見いだす多くの事がらの価値があるのである。ある書物の中には、この種の良い云い回しが相当に含まれている。それは、『ウィンチェスターカレッジの一卒業生による説教論集』という、その値うちほどには、よく知られていない書物である。私の云わんとすることの例をいくつかあげてみよう。「人は時間の中で紡いだ物を、永遠の中で着る」。「地獄への道は、幾多の良い意図によって舗装されている」。「罪を捨てることこそ、罪を赦された最良の証拠である」。「いかなる死に方をするかは大した問題ではないが、いかなる生き方をするかは大問題である」。「決して他人の人格を云々してはならないが、決して他人の罪を見過ごしにしてはならない」。「だれもが自宅の玄関前をほうきで掃くなら、通りはすぐにきれいになる」。「嘘は借金の背中に乗っている。からの袋を真っ直ぐに立てることは難しい」。「祈りによって語り出す人は、賛美によって語り終える」。「光る物がみな黄金ではない」。「宗教においても、取引と同じく、労苦なくして報いなしである」。「聖書の中には、小羊も渡れるほどの浅瀬もあれば、象も没するほどの深淵もある」。「ひとりの強盗が十字架の上で救われたのは、だれも絶望しないためである。しかし、それがただひとりであったのは、だれもつけ上がることのないためである」。
この種のことわざ的で、警句的で、反定立的な云い回しによって説教は、驚くほど明瞭で、力強いものとなる。こうした云い回しを記憶にたくわえるがいい。それをここぞという所、特に段落の最後で使うがいい。そうするときあなたは、それらによって文章の構造が大いに平易なものとなることに気づくであろう。しかし、長ったらしい、入り組んだ、混み入った文章には、常に用心するがいい。
IV. 私が与えようと思う第四の心得はこのことである。もしあなたが平易に説教したければ、直接的な語り方をするがいい。これはどういうことだろうか? 私が云いたいのは、「私」と「あなた」という云い方を用いる習慣のことである。こういう説教のしかたをすると、人はしばしば偉ぶっているとか、自己中心的だとか云われる。それで多くの説教者は、決して直接的になろうとせず、自分の非常なへりくだりや、穏健さや、節度を示そうとして、「私たち」という言葉を使うのである。しかし、私が思い出すのは、善良なるヴィリャーズ主教の次のような言葉である。すなわち、自分を指して「私たち」と云えるのは国王や企業だけであって、教区の聖職者たちは常に「私」と「あなた」という云い方をすべきである、と。私はこの言葉を衷心から支持するものである。はっきり云うが、私には、かの有名な講壇上の「私たち」という言葉が何を意味しているか全然理解できない。その説教の間中「私たち」と云い続けている説教者は、それで自分と主教のことを意味しているのだろうか? あるいはそれは、自分と教会のことだろうか? 自分と会衆のことだろうか? 自分と初期教父たちのことだろうか? 自分と宗教改革者たちのことだろうか? 自分と世界中のすべての賢人たちのことだろうか? あるいは、結局のところ、その人は単に私のこと、----会衆席の「ジョン・スミス」や、「トマス・ジョーンズ」のことを意味しているのだろうか? もしその人が、単に自分自身のことを意味しているとするなら、一体全体いかなる理由でその人は、それを複数形で用いて、単純に、また平易に、「私」と云わないのだろうか? その人も、自分の教区民を訪問したり、病床の人々のかたわらに座ったり、教会付属の学校で教理問答を教えたり、パン屋でパンを注文したり、肉屋で肉を注文したりするときには、「私たち」ではなく「私」と云っているはずである。では、知りたいものだが、なぜその人は講壇では「私」と云うことができないのだろうか? 節度をわきまえた人物であるその人は、いかなる権利があって、自分以外の人に代わって語れるのだろうか? なぜ日曜日の朝に講壇に立ち、こう云えないのだろうか? 「神のことばを読む中で私は、1つの聖句を見つけた。それには、これこれこういうことが含まれている。それを今から私は、あなたの前に示したいと思う」、と。
私の堅く確信するところ、多くの人々は、説教者の「私たち」が何を意味しているか理解していない。その表現は、人を煙に巻いている。もしあなたが、「あなたの教区牧師である私、あなたの牧師である私、あなたの牧師補である私」は、今からあなたの魂に関わること、あなたが信ずべきこと、あなたが行なうべきことについて語りたいと思う、と云うなら、----少なくとも、あなたの云うことがわからないという人はいないであろう。しかし、もしあなたが、この曖昧な複数形によって、「私たち」が行なうべきことについて話を始めたとしたら、あなたの聴衆の多くは、あなたが話をどこに向けようとしているのか、また果たしてあなたがあなた自身について語っているのか聴衆について語っているのか見当がつかないであろう。私は、教職についている若い兄弟たちに命じ、また切に願うものである。決してこの点を忘れてはならない。努めて、可能な限り直接的になるがいい。人から何を云われようと気にしてはならない。この点にかけては、チャーマズをも、メルヴィルをも、その他の存命中の一部の名説教家をも、模倣してはならない。決して「私」の意味で「私たち」と云ってはならない。老ラティマー主教がしたように、人々に向かって第一人称単数形で平易に語りかける習慣を身につければつけるほど、あなたの説教はいやまさって平易なものとなり、よりたやすく理解できるものとなっていくであろう。ホイットフィールドの説教の誉れは、その単刀直入さである。ただし、惜しむらくは、その説教の多くはいいかげんに記録されたために、今では玩味に耐えないものとなっている。
V. 私があなたに与えたい第五にして最後の心得はこのことである。もしあなたが説教を平易なものにしたければ、あなたは数多くの逸話や例話を用いるのでなくてはならない。例話は、説教の主題に光を投ずる窓とみなさなくてはならない。この点については、非常に多くのことが云えるであろうが、一小論の限られた紙数では、ごく手短に触れることしかできない。云うまでもなく、「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」、と云われた、私たちの主なる救い主イエス・キリストの模範を思い起こせない人はほとんどいないであろう。四福音書を注意深く学び、主の説教のほとんどに、いかに豊富な例話が含まれているか見てみるがいい。いかにしばしば主の講話には、比喩につぐ比喩、たとえ話につぐたとえ話が見いだされることか! 主がその御目をとめた物のうち、1つとして主が教訓を引き出さなかったものはないように思える。空の鳥、海の魚、羊、山羊、麦畑、ぶどう畑、耕す人、種蒔く人、刈り取る人、漁師、羊飼い、ぶどう園の農夫、パンをこねる女、花々、草、銀行、結婚式の祝宴、墓、----すべてが、聞き手の思いに種々の思想を伝えるための手段とされた。放蕩息子や、良きサマリヤ人や、十人の娘や、王子のために結婚披露宴を催した王や、金持ちとラザロや、ぶどう園の労働者その他のたとえ話の数々、----これらはみな、私たちの主が、何らかの偉大な真理を聞き手の魂に伝えるために語った感動的な物語でなくて何であったろうか? 努めて主の足跡に従い、主の模範にならうようにするがいい。
もしもあなたが説教の途中で言葉を切り、「さて、1つ話を聞かせよう」、と云うなら、保証してもいいが、熟睡しきった者をのぞく全員が耳をそばだてて聞き始めるに違いない。人々は、たとえや、例話や、上手な話を好むものであり、他に気をそらすものが何もなければ、ちゃんと耳を傾けるものである。そして、私たちが例話を得るもとは、何と無数にあることか! 身の回りの自然という書物を手に取るがいい。頭上に広がる空と、足下の大地を眺めるがいい。歴史を眺めるがいい。科学の全分野、地質学、植物学、化学、天文学を眺めるがいい。上は天から下は地に至るまで、私たちが福音の使信について光を投ずる例話を引き出せないようなものがどこにあるだろうか? ラティマー主教の説教集、ことによると、いまだかつて語られた中でも最も人気を博した説教集を読むがいい。ブルックスや、ワトソンや、スウィノクや、ピューリタンたちの著作を読むがいい。それらがいかに例話や、比喩や、暗喩や、物語で満ちていることか! ムーディ氏の説教集を眺めてみるがいい。彼の人気の秘訣の1つは何だろうか? 彼はその説教を、心楽しませるような物語で満たしているのである。アラビアのことわざに云うが、聞き手の耳を目とすることのできる者こそ、最高の話し手なのである。
私のことを云えば、私はただ単に、努めて物語を語ろうとするだけでなく、農村部の教区においては、時として、人々がじかに見ることができる実物を出して身近な例話とすることがあった。たとえば、----もし私が人に向かって、この世界を造った何らかの偉大な第一原因、あるいは何らかの《お方》がいたはずであることを示したいとしたら、どうするだろうか? 私は時々自分の懐中時計を引っぱり出して、こう云ったものである。「この時計を眺めてみるがいい。何との見事な造りであろう! だが、あなたがたの中に、一瞬たりとも、この時計のすべてのねじ、すべての歯車、すべての針が、偶然に寄り集まったものだなどと考える人がだれかいるだろうか? だれでも、その背後には時計職人がいたのだと考えるのではないだろうか? では、もしそうだと云うなら、間違いなく世界にもひとりの《造り主》がいたはずである。そのお方の手のわざは、私たちが目にしている、この素晴らしい惑星1つ1つの上に彫り刻まれている。こうした惑星は、年々歳々、その軌道を寸秒の狂いもなく回転し続けている。あなたの住んでいる世界を眺め、そこに含まれている素晴らしい事物を眺めてみるがいい。それでもあなたは、神などいない、万物は偶然の産物だと云うのだろうか?」 あるいは、時として私は鍵束を取り出して、それをジャラジャラと振ってみることがあった。その音を聞くと、全会衆が講壇を見上げる。そこで私は云うのである。「あらゆる人が完全で、正直であったとしたら、鍵などというものが必要だろうか? この鍵束は何を示しているのだろうか? ずばり、それは人間の心が何よりも陰険で、それが直らないことを示しているのである」。私の確信をもって主張するところ、例話は、説教を平易で、明確で、明瞭で、たやすく理解できるものとする最上の秘訣の1つである。例話をたくわえるよう苦心するがいい。可能であればどこででも例話を収集するがいい。常に目を見開き、目を光らせているがいい。幸いなことよ、良いたとえを見てとる眼力を有し、精選された物語や例話を記憶にたくわえている説教者は。もしその人が真に神の人であって、いかに説教を語るべきかをわきまえているとしたら、決してがらんとした壁や空席に向かって説教することはないであろう。
しかし、一言注意をつけ加えておかなくてはならない。物語を語るにも語り方というものがある。もしある人が自然に物語を語れないとしたら、その人は全く物語を語らない方がましである。さんざん利点を云いつのってきた後だが、例話もやはり行き過ぎることがありえる。こうした行き過ぎの実例として私が思い出すのは、かの偉大なウェールズ人説教者、クリスマス・エヴァンズが犯した過ちである。印刷された彼の説教の中に、ガダラの地で行なわれた素晴らしい奇蹟に関する説教がある。それは、悪霊たちが豚に乗り移り、その群れ全体が湖に殺到して落ちていった事件について語られたものであった。クリスマス・エヴァンズは、この話を微に入り細を穿って描き出した。その豚飼いたちが主人にこの大損害を報告した言葉として、彼が語っている会話は、ばかげたほど滑稽なものである。豚飼いのひとりはこう云っている。「おゝ、ご主人様! 豚どもがいなくなってしまいました!」 主人は云った。「何だと、どこに行ったのだ?」 「湖に駆け下っていったのです」。「だが、だれが豚どもを追い立てたのだ?」 「おゝ、ご主人様! あの不思議な人です」。「フム、一体どんな様子のやつだ? 何をしたのだ?」 「あゝ、ご主人様、その人はやって来ると、まるでチンプンカンプンなことを話しました。すると群れ全体が突然崖を駆け下りて、湖に飛び込んでいったのです」。「何だと、あのでかい黒毛の雄豚も何もかもがか?」 「そうです、ご主人様。あのでかい黒毛の雄豚も一緒にです。私どもがあたりを見渡したときには、まさに、そいつの尻尾が崖から見えなくなるところでした!」 さて、これはやり過ぎに近いと思う。それと同じく、ガスリ博士の見事な説教集にも、時として、ごてごてと例話を詰め込みすぎたあまり、プラムばかりで小麦粉の入っていないケーキを思わせるようなものが見受けられる。あなたは自分の説教に、八方手を尽くして、生き生きとした真に迫る描写が数多く含まれるようにするがいい。あらゆるよりどころ、あらゆる被造物、天と地と歴史と科学の中にある一切から、妙味のある話題を引き出すがいい。しかし、結局それにも限度というものはある。あなたは、生き生きとした例話をいかに用いるかに注意していないと、善よりも悪を及ぼすことになりかねない。そうした例話はぼとぼとと滴らせるのではなく、一掃けずつ筆で重ねるようにするがいい。この注意を覚えていさえするなら、あなたは生き生きとした例話とが、説教を平易なもの、明瞭なものとする上で、途方もなく役立つことに気づくであろう。
さて、私の5つの心得がいかなるものであったか、心に留めておくがいい。
第一に、もし説教を平易なものにしたければ、自分が説教しようとしていることについて明確な知識がなくてはならない。
第二に、もし説教を平易なものにしたければ、平易な言葉を用いなくてはならない。
第三に、もし説教を平易なものにしたければ、一文一文をできるだけ短くし、平易な構文になるようにしなくてはならない。
第四に、もし説教を平易なものにしたければ、直接的な云い方をするがいい。
最後に、もし説教を平易なものにしたければ、例話や逸話を大いに盛り込むがいい。これらすべてに重ねて、もう1つ平易な適用の言葉をつけ加えさせてほしい。決してあなたは、手間暇をかけずに説教を平易なものにすることはないであろう。労苦と手間である。声を大にして云う。労苦と手間である。大画家ターナーはあるときある人から、どうすればそれほど巧みに絵の具を混ぜ合わせることができるのですか、どうしてあなたの描く色は、これほど他の画家のと異なっているのですか、と尋ねられたとき、「混ぜ合わせる? 混ぜ合わせる? 混ぜ合わせる? そりゃあ、脳みそをふりしぼってですよ」、と云った。私の確信するところ、説教においては、手間暇と労苦をかけなくては、ほとんど何も達成できない。
聞いた話だが、若くて無頓着な教職者が、あるときリチャード・セシルにこう云ったという。「私は信仰が足りないと思います」。「いいや」、とこの賢明な老人は云った。「君に足りないのは、もっと勉強することだ。もっと骨身を削ることだ。君は、神が君の《ために》働いてくれるなどと考えてはいかん。君に《よって》お働きになることは、いつでもなさろうと思っておられるだろうがな」。私は、若い兄弟たちがこのことを覚えておくように切に願う。彼らにはぜひとも、自分の説教を組み立てるために時間を割いてほしいと思う。手間暇をかけること、また読書によって頭脳を鍛錬することである。ただし、有益なものを読むように心がけるがいい。
私は、あなたが説教の助けとするため、わざわざ時間をかけて教父たちの著作を読んでほしいとは思わない。彼らもそれなりに有用ではあるが、思慮深く選びさえするなら、近現代の著者たちの中には、より有益な著作がもっとたくさんある。
模範となる良書を読むがいい。また、平易な説教の手本となる良書に親しむがいい。あなたの最高の模範として、英欽定訳聖書を読むがいい。もしあなたが、欽定訳聖書の書かれているような言葉遣いで語るならば、あなたは良い語り手となるであろう。ジョン・バニヤンの不朽の名著、『天路歴程』を読むがいい。説教を平易なものにしたければ、それを繰り返し繰り返し読むがいい。ピューリタンたちを読むことを馬鹿にしてはならない。疑いもなく、ピューリタンの中には重苦しい文体の者もいる。グッドウィンやオーウェンは、論争用の強力な武器ではあるが、文体としては非常に重苦しい。むしろバクスターや、ワトソンや、トレイルや、フラヴェルや、チャーノクや、ホールや、ヘンリのような著作を読むがいい。彼らの著作は、私が思うに、過去の時代に語られた、最上の平易な英語の模範である。しかしながら、言葉遣いが時代とともに変わることを忘れてはならない。彼らは英語を話していたし、私たちも英語を話してはいるが、彼らの文体は私たちの文体とは異なっている。彼らの著作と合わせて、手に入る限りの最良の模範となる現代英語文を読むがいい。私の信ずるところ、過去百年の間で、最上の英語の書き手は、政治的改革派ウィリアム・コベットである。思うに彼は、世界がいまだかつて目にした中でも、最も平易なヤマト言葉の英語を見事に書いている。現代において、私の知る限り、いかなる者にもまして簡潔なヤマト言葉の英語の卓越した語り手は、ジョン・ブライトである。古い時代の政治的雄弁家の中では、チャタム卿およびアメリカ人パトリック・ヘンリの演説が良い英語の模範である。最後に、しかしこれも重要なこととして、決して忘れてならないのは、聖書に次いで、平易さと、明瞭さと、雄弁と、力強さとを兼ね備えた英語の文章として並ぶものがないのは、シェイクスピアによる何編かの演説である。説教において良い語り口を身につけたければ、こうした類の種々の模範をしっかり学ばなくてはならない。それも、「脳みそをふりしぼって」学ばなくてはならない。その一方で、下層階級の人々に語りかけたり、教区民を一軒ずつ訪問することを馬鹿にしてはならない。あなたの教区民と炉辺に腰かけ、あらゆる主題について意見を交換するがいい。もしもあなたが彼らに自分の説教を理解してほしければ、彼らがいかなる考え方をしているか、またいかに自分の意見を云い表わすものかを見きわめるがいい。そのようにすることであなたは、知らず知らずのうちに、多くのことを学ぶであろう。あなたは絶えず多様な考え方を収集し、講壇に立ったときに何を語るべきかを知るようになるであろう。
ある平凡な農村部の教職者が、「教父たち(fathers)について研究しているか」、尋ねられたことがあった。その敬うべき人はこう答えたという。自分は、父たち(fathers)については、訪ねていっても、通常は野原に出ているので、研究する機会はほとんどありません。だが、母たち(mothers)については、もっと研究しております。なぜなら、彼女たちはしばしば家庭にとどまっており、自分と話をしてくれるからです、と。
知ってか知らずか、この善良な人物は、まさに適切なことをしていたのである。私たちは、もし教会の中で自分の教区民にどう説教すればよいか理解したければ、教会の外で彼らと語り合わなくてはならない。
(a) しめくくりとして、これだけは云っておきたい。私たちは、たとえ何を説教しようと、また、いかなる講壇に立っていようと、単に説教するだけであろうとなかろうと、原稿から説教しようと即興で説教しようと、才気あふれる表現を迸らせることだけを目当てとしてはならない。むしろ、魂にとって、永続的な善を施すことを宣べ伝えることを目当てとしなくてはならない。私たちの説教においては、才気に満ちた表現に用心するがいい。「美しい」説教、「華々しい」説教、「才気縦横の」説教、「人受けのする」説教は、しばしば会衆の上に何の影響も及ぼさず、人々をイエス・キリストに引き寄せることのない説教である。私たちは、自分の語ることが、真に人々の精神と良心と心とを深々とえぐり、彼らをして考えさせ、思い巡らさせるような説教をすることを目指そうではないか。
(b) たとえ世界一平易な説教を行なえたとしても、もしあなたがイエス・キリストの平易な福音を、だれにでも理解できるような形で十分に、また明確に宣べ伝えるのでない限り、何の善も施すことができない。もしあなたの説教の中で十字架につけられたキリストがその正当な立場を占めていないとしたら、また罪の正体がしかるべく明らかにされないとしたら、あなたの説教を聞く人々は、彼らが信ずべきこと、なるべきこと、行なうべきことをはっきりと告げられてはおらず、《あなたの説教は役立たずである》。
(c) さらにまた、たとえ世界一平易な説教を行なえたとしても、はっきりとした、活気ある語り口をしていなければ無益である。もしもあなたが、顔を上げずに下を向いたまま、自分の原稿をもぐもぐと、さえない、単調な、間延びしたしかたで呟くだけで、あなたが何を云っているか人々が全然理解できないとしたら、あなたの説教は無駄骨である。請け合ってもいいが、語り口という点に私たちの教会は不十分な注意しか払っていない。この点においても、説教学に関する他のすべての点と同じく、私は英国国教会が悲しいほどに不完全であると思う。私の知るところ、私は独力でニューフォーレストで説教を始め、だれひとり私に、講壇上でどうふるまうことが正しく、どうふるまうことが間違っているかを告げてくれた人はいなかった。その結果、私の一年目の説教は、試行錯誤の連続であった。こうした点において、オックスフォードやケンブリッジでは何の助けも得られない。講壇に立つための適切な訓練が完全に欠けていることこそ、英国国教会の体制上の大きな汚点かつ欠陥の1つである。
(d) 何にもまして、私たちが決して忘れたくないのは、たとえ世界一平易な説教を行なえたとしても、聖霊の大いなる注ぎを願い求める祈りと、神の祝福の授与と、ある程度はその説教に応じた生活がなくては役に立たない、ということである。私たちは、イエス・キリストの福音を伝える説教を平易なものにしようと努めるとともに、人々の魂を求める真剣な願いをいだくようにしよう。そして、自分の説教に、聖い生活と熱烈な祈りを伴わせることを決して忘れないようにしよう。
平易な説教を行なうには[了]
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*1 この論考の内容は、元来、聖ポール大寺院の大聖堂で、説教協会のための講演として、聴衆の教職者たちに向かって語られたものである。
文章表現の一部が整っておらず、切り口上である点はご容赦願いたい。しかし、読者の方々にぜひ思い起こしてほしいことだが、この講演は書かれたものではなく語られたものであり、速記者の草稿から印刷されたものなのである。[本文に戻る]
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