"Luke, the Beloved Physician" 目次 | BACK | NEXT
2. 「愛する医者ルカ」*1
コロ4:14この論考の題名に含まれている2つのことを私は、当然の前提として扱い、その詳細にはふれないでおこうと思う。1つは、ここで言及されているルカとは、第三福音書および『使徒の働き』を書き、聖パウロの友人また同伴者であったのと同じルカであるということ。もう1つは、ルカは実際に医者であったということである。この双方の点については、私たちが注意を払うに値する学識者たちのほとんど全員が同意している。私は、この主題から自然に生じてくると思われる2つのことだけに厳密に限って申し述べたい。というのも、私が思うに、この異邦人への使徒、この常に人々の魂に仕えてきた人物が、人々の肉体に仕えていた人物のことを、尊敬する口ぶりで語っているということは意義深い事実だからである。
I. まず、1つのこととして申し述べたいのは、キリスト教信仰の1つの大きな特徴は、それが人間の肉体に付与している尊厳と重要性にある、ということである。
この論考の読者の多くに思い起こさせることはほとんど不要であろうが、異教徒の哲学者たちの中には、肉体を軽蔑し、それを魂にとって助けではなく妨げであるとし、助力者ではなく邪魔者であり、足手まといであるとみなす学派があった。エジプト人や、ギリシャ人や、ローマ人のように、人の死に際し、肉体の埋葬に最も注意を払った民族でさえ、死後の肉体が未来にも存在することについては、その最も遠い時代においてすら、全く何も知っていなかった。ホメーロスや、ウェルギリウスがエーリュシオン[極楽浄土]の野にいると叙述した英雄たちは、ただの幽霊や、霊体にすぎず、物質的なものは何もまとっていなかった。聖パウロがマルスの丘で「死者の復活」について語ったとき、「ある者たちはあざ笑」ったと語られている(使17:32)。ラテン著述家の中でも最も聡明なひとりであるプリニウスでさえ、その『自然誌』の中で、神の力にも及ばないことが2つあると云い、----1つは定命のものに不死性を与えること、もう1つは死者に肉体的生命をもう一度与えることであるとしている(ピアスンの『信条』、第二巻、p.306、オックスフォード版)。
ここで私たちはキリスト教信仰に目を向け、そこにいかなる相違があるか注意してみよう。キリスト教信仰の主要な事実に目をとめようが、その数々の教理に目をとめようが、現在に関する実際的教え、また未来に関する希望に目をとめようが、人間の肉体は常に前面に押し出されており、その重要性は強く打ち出されている。
(a) まず最初に、私たちの聖なる信仰の根底に横たわる、かの大いなる神秘的真理、キリストの受肉を眺めてみるがいい。神の永遠の御子がこの罪に悩む世界の中に降り、贖いをもたらし、私たち堕落した種族のあらゆる状態を変えようとなさったとき、御子はいかにして来られただろうか? 決して私たちが予期しただろうような、力強い御使いのようにしてでも、栄光に輝く霊のようにしてでもなかった。決してそうした類の現われ方ではなかった! 御子は、罪だけを除くと、私たちと同じような肉体的な性質をまとわれた。御子は幼子として女から生まれ、私たちの肉体と同じように成長し、背たけが大きくなっていく肉体を持たれた。----飢えることもあれば渇くこともり、疲れることもあれば眠りを必要とすることもあり、痛みを感ずることもあれば苦悶と苦しみの中でうめくこともある、この論考を読んでいるいかなる人の肉体とも変わらない肉体を持たれた。その肉体の中に御子は三十三年の間、身を低めて幕屋を張り、その肢体をもって日ごとの神の律法を完璧に果たしてくださり、その「肉」のうちに、サタンは何1つ欠けたところ、欠陥のある部分を見いだせなかった(ヨハ14:30)。
(b) 次のこととして、キリストの贖罪という大いなる主要教理を眺めてみるがいい。私たちの信仰の真実性を、驚嘆すべき形で明確に示している部分----「いかにして罪深い人間が神との平和を持ちうるか」との問題に対する解決----は、キリストの肉体と分かちがたく結びついている。十字架上におけるその肉体の死こそ、堕落した人間に、神との和解の道を提供したものであった。カルバリで十字架につけられた私たちの主の肉体から流れ出た尊い生き血こそ、違反された律法という呪いからの贖いを私たちのためにかちとったものであった。つまり、キリストの肉体の血こそ、真のキリスト者たちの現世におけるすべての慰めと、死後における望みとの土台なのである。
(c) 次に、キリストの復活と昇天という究極の事実を眺めてみるがいい。私たちの主が、ヨセフとニコデモによって納められた墓から、三日目に出てこられたとき、主は霊として出てきたのではなかった。私たちの第四箇条の言葉を用いれば、主は、「肉と、骨と、完全な人間性に所属するすべてのものとを伴った、その肉体を再びお取りになった」。その肉体において主は、私たちと同じように語り、食べ、飲まれた。そして、最後には、その肉体において天に昇り、最後の日にすべての人を審くため戻ってくるときまで、そこに座しておられるのである。私たちには、肉体をお持ちの祭司が、また弁護者が、御父のみそばにおられるのである。
(d) 次に、新約聖書の中で使徒たちが私たちに絶えず強調している実際的な戒めと勧告を眺めてみるがいい。彼らがいかにしばしば肉体とその肢体のことを「義の器」であると、また、キリスト者が常に気遣う必要のある性質の一部として、またキリスト者の聖化と聖潔を明らかに示す手段として語っているかに注意するがいい。「あなたがたのからだは……聖霊の宮であり」----「自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい」。----「責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」。----「あなたがたのからだを……生きた供え物としてささげなさい」。----「私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願い」----「それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです」。----「私たちは……各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです」。----自制や、慎み深さ、貞節、自己否定といった各種の恵みは、実際、肉体を通してでなければ、いかにして現わされうるだろうか?(ロマ6:13; Iコリ6:19、20; Iテサ5:23; ロマ12:1; ピリ1:20; IIコリ4:11; IIコリ5:10)。
(e) 最後に、キリスト者をこの世における数々の死と、葬儀と、痛みと、別離と、種々の苦しみのただ中で支える、大きく特徴的な希望を眺めてみるがいい。その希望とは、死後のからだの復活である。私たちの肉体は再び生き返る。墓はそれを閉じ込めておけない。私たちは、キリストにあって眠った人々と別れるとき、彼らと再び会えるという、しかも地上で知っていた頃よりもはるかに健康で、強壮で、美しい姿の彼らと会えるという、ほむべき確信をもって別れるのである。神に永遠に感謝すべきことに、私たちが信ずると告白する栄光の福音には、私たちの魂のみならず私たちの肉体に対する備えもあるのである。
しかし、結局において、キリスト教が肉体に付与している重要性は、この世の子らが肉体に絶えず付与している重要性よりもいささかも大きなものではない。キリスト教の単純な事実や教えをあざ笑い、「精神」や「思考」や「知性」や「理性」について大仰な言葉を振り回すことはたやすい。しかし、人がどうあっても克服できない厳然たる事実は、世界を支配しているのは、肉体、および肉体の必要であって、精神ではない、ということである。
政治家や政党はこのことを重々承知しており、それを無視する者は、しばしば煮え湯を飲まされる。彼らが議席を保持していられるかどうかは、大衆をどれだけ満足させられるかにかかっている。そして、だれか知らないものがあるだろうか? 麦の高値や、肉体のための食物の高騰にまさって大衆の不興を買う物はないということを。
商人や船主たちは、世のいかなる人種にもまさって、肉体の重要性を知っているべきである。麦や、肉や、砂糖や、紅茶といった肉体を養うもの、----木綿や、羊毛といった肉体をおおうもの、----これらは、一国の商業と、貿易と、取引の主要部分となっている品目でなくて何であろうか?
この主題についてこれ以上議論を重ねても時間の無駄であろう。こうした数々の事実を前にするとき、何にもまさる知恵となるのは、教会においても国家においても、肉体の重要性を忘れないことである。清潔さと、節制と、社会のきよさを押し進めること、衛生設備の最高水準をめざすこと、----人々の健康と寿命を増加しうるあらゆる運動を奨励すること、----可能な限り良い空気と、良い水と、良い住居と、安価な食物を、わが国のあらゆる男女と子どもたちに供給すること、----これらは、キリスト者と世の人との双方の最良の注意に値する目標である。
「肉体が健全になるとき、すべては健全である (Sanitas sanitatum: omnia sanitas) 」という言葉には、深い真理が満ちている。学問好きや本の虫や哲学者たちが好き勝手に何を云おうと、人間の肉体と精神と魂の間には、分解不能な結びつきがある。あなたはそれらを分離することはできない。この3つのうちの1つを無視しておいて、無事ではいられない。魂を救うことにしか気を遣わない教会や、精神を教育することにしか気を遣わない国家は、両方とも途方もない間違いを犯しているのである。幸いなことよ、肉体と魂と精神とがみな気遣われている国は。また、この三者全部の健康をはかるために絶えず努力が払われている国は。
II. 第二に私が申し述べたいのはこのことである。私たちの主イエス・キリストが医療という職業に払われた栄誉に注目するがいい。
手始めに、私たちの主イエスが福音書を書かせるために選ばれた四人の人物のひとりが「医者」であったことは、著しい事実である。このことは、教会がほぼ完全に一致して私たちに告げているというばかりでなく、聖ルカの著述の中には、このことを確証している強力な内的証拠がある。ある著述家が最近出版した本の中で綿密に証明しているところ、第三福音書および『使徒』で用いられているギリシャ語の語句や表現は、徹底して医学的なものであり、その当時の医師が病気の症状や、健康の回復を叙述するのに用いるはずのものであるという。つまり、新約聖書という小さな本をなしている二十七巻の書のうち、最も長大な2つの書が、医学畑の人間の筆から出ているということに、ほとんど疑問の余地はないのである。
しかし結局のところ、注目しなくてはならない、さらに深い意義を有するもう1つの事実がある。何を云いたいかというと、私たちの主イエス・キリストは、その地上における伝道活動の期間に、きわめておびただしい数の病と患いをお癒しになることをよしとされた、ということである。疑いもなく、主がふさわしいとお考えになっていたなら、主はその《天来の》力を示し、その《天来の》使命を証明するためのものとして、エジプトにおける十の災害のごとき奇蹟や、エリヤのごとく天から火を呼び下すことや、荒野でダタンやアビラムが地に呑み込まれたように、ご自分の敵たちを地に呑み込ませることもおできになったはずである。しかし主はそうはなさらなかった。主の驚くべきみわざの大部分は、人々の苦しみを覚える肉体に対してなされた、あわれみのみわざであった。らい病人や、水腫の人や、中風の人や、熱病にうなされている人や、足なえや、盲人を癒すことこそ、「肉において現われた神」であったお方の、絶えざる愛の労苦であった。聖マタイがイザヤから引用した深遠にして神秘的な言葉を用いれば、主は、「私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」のである(マタ8:17)。
さて、これはなぜだったのだろうか? なぜ私たちの主はこうした類の行為をなさり、常時身をへりくだらせては、先祖たちから肉体が受け継いだ屈辱的な、そしてしばしば厭わしい病気の数々に時間と注意を注ぎ込んでおられるのだろうか? それは部分的には、私の信ずるところ、ご自分が人間の堕落を治療するために来られたことを私たちに思い起こさせるためであった。そして、堕落のあらゆる結果の中でも、何にもまさる困難を引き起こし、身分と階級を問わずすべての人々に徹底的な影響を与えるものとして、病ほどはなはだしいものはないことを思い起こさせるためであった。しかし、やはり部分的には、私の信ずるところ、あらゆる時代のキリスト者に向かって、病を癒すための奉仕が、キリストのみ心にかなった、いとすぐれたあわれみの働きであることを教えるためであった。病気をくいとめ、苦しみを軽減し、痛みを和らげ、自然の自己治癒力を助け、寿命を延ばす人は、確かに、いかに失敗しようと、ともかく自分はナザレのイエスの足跡を歩んでいるのだという考えに励まされてよいはずである。人々の魂に仕える人の職務に次いで、魂の宿るきゃしゃな幕屋----肉体----に仕える人のそれほど有益で、栄誉あるものはない。
こうした事がらについて考える人は、あらゆる時代におけるキリスト教の進展と発展が医者の務めに大いに寄与してきたことを異とはすまい。むろん、キリスト教時代になるまで、薬や外科手術といったものが全く知られていなかったと云っては公正ではない。ホメーロスが述べているポダレイリオスや、マカオンといったよく知られた名前、またよく知られた、前二者よりは神話めいていないヒッポクラテース(種々の症状を観察することにかけては第一人者だった)の名前は、学者にとってなじみ深いものである。しかし、確かな事実を云えば、病人が組織的な配慮を受け、医者という職業がこれほど尊重されるようになったのは、キリストの教会が世に影響を及ぼすようになって以来のことである。パルテノン神殿やコロセウムを建造した人々は、1つも診療所を建てなかった。アテネにもローマにも、そこには何の病院の廃墟もない。不信者や、懐疑家や、不可知論者は、聖書的キリスト教について、そうしたければ鼻であしらうがいい。だが彼らが克服できない事実、それは医学知識や外科知識は、常にキリストの福音と相伴って進歩してきた、ということである。今日のインドや中国や日本の住民がいかに賢く、才気ある人々であれ、彼らの解剖学や薬物学に関する知識が、また肉体的病に対する治療方法が、軽蔑にも値しないほどのものであることは、よく知られている。
ことによると、ほとんどの人々は、キリスト教国の英国に住む私たちが、医者という職業によって、いかに途方もない恩義をこうむっているか悟っていないかもしれない。私たちの生活の快適さが、いかにそれに依存していることか、また、異教国に生まれついた人々、あるいは植民地の辺地にある未開の居留地に住まなくてはならない人々の状態がそれといかに異なっていることか! 自宅に良い従僕がおり、身近に良い医者がいる人は、感謝にあふれた人であるべきである。
私の信ずるところ、過去二世紀の間に内科および外科における医学がいかに巨大な進歩を遂げたか、また現在も遂げつつあるかを悟っている人はさらに少ない。もちろん死はまだ支配しており、キリストが栄光を帯びてお戻りになるまで支配し続けるであろう。国王もその臣下も、富者も貧者も、みな同じように死ぬし、死が勝利に呑み込まれるまで死に続けるであろう。それも不思議はない! 人体はきゃしゃで繊細な器械である。「奇しきかな、千弦(ちすじ)の琴の、かくも永くに、調子(ふし)乱さずは」。しかし、この時代に、生命の存続期間が医学の発展により大いに増加したこと、また、かつては命取りと考えられていた多くの病気が、今では予防でき、制御でき、治癒できることは何の議論の余地もない事実である。だれでもいいから、『モーニング・エクササイズ』中にある、バクスターの半ば医学的な説教を読んでみて、彼が憂鬱症や消化不良のために受けていた処方に注目するがいい。そして、自分が十九世紀に生きていることを感謝すべきでないかどうか云ってみるがいい。私たちの先祖たちが、キニーネやクロロホルム、予防接種や石炭酸消毒液、聴診器や喉頭鏡や検眼鏡について全く知らず、精神異常者や白痴者、聾唖者や盲人の正しい処置法について全く無知であったという事実だけとってみても、それは多少とも知的な精神にとっては雄弁な事実である。
ことによるとキリスト教の教役者ほど、医師の務めの価値を見る機会に絶えず接している者はないかもしれない。私たちは彼らと病室で出会い、臨終の床の傍らで出会う。そして私たちは、彼らの職業につきものの自己否定的な労働を、また病人がほぼ常に彼らの手から、惜しみなく、またしばしば無償で与えられている心遣いを知っている。
この2つの職業の間には、常に最高度の調和と友愛があるべきである。病室は、彼らが出会う共通の場である。その場において、両者は大いに助け合うことができる。私の思うところ、キリスト教の教役者は患者に向かって命令に従い、助言に耳を傾け、食事や衛生的な事がらにおける規則に注意することがきわめて重要であることを教え、忍耐と精神の穏やかさを奨励することによって、医者を助けることができる。私の確信するところ、医者は、快復の見込みのない症状の人々に、避けられぬものを受け入れるのは義務であること、この人生がすべてではないこと、人には肉体だけでなく魂もあること、自分の最期と、来たるべき世を平静に眺めて、神に出会う備えをするのが賢いことであることを優しく、賢明に思い起こさせることによって、教役者を助けることができる。
この2つの職業には大いに共通するものがある。一方は人々の肉体に配慮し、もう一方は人々の魂に配慮する。私たち教役者は成功するとは限らない。あまりにもしばしば、私たちの訪問は役に立たず、私たちの勧告は役に立たず、私たちの助言は役に立たず、私たちの説教は役に立たない。私たちは、霊的いのちと死とが、私たちを越えたお方の手にあることに気づく。医者は、いかに熟練した治療を受けている人々も死ぬことに気づき、私たちは、いかに忠実な教えのもとにあろうと、多くの人々が全く良心を動かされることなく、罪の中に死んだ者であり続けることに気づく。医者のように、私たちはしばしば自分の無知を感じ、種々の症状を診断したり識別することができず、何と云うべきか疑わしく感ずる。教役者も医師も両方とも、謙遜を身につけるべき大きな必要がある。しかし、私は信じているが、サー・ヘンリ・ローレンスの墓に記されている言葉を用いるならば、私たちは両者ともに「自分の義務を果たそうと努め」、屈さないようにしなくてはならない。人は義務を果たし、神が成否を決するのである。
英国に、有能で、誠実で、忠実な医師たちが決して欠けることなく与えられ続けること、また私たち魂に仕える者と、肉体に仕える人々とが、常に調和してともに働き、互いに助け合っていられることを、私は心から祈るものである。
「愛する医者ルカ」[了]
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*1 この論考の内容は、元来、1883年7月31日に、リヴァプール大聖堂で、英国医学協会の年次総会の開催にあたって説教されたものである。[本文に戻る]
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