"They Went Up into an Upper Room."   目次 | BACK | NEXT

1. 「彼らは屋上の間に上がった」*1


使1:13

 この単純な言葉によって語られているのは、私たちの主イエス・キリストが天に《昇天》なさった直後に、使徒たちが何をしたかということである。愛する《主人》が自分たちから離れていくという、驚嘆すべき、感動的な光景を瞼に焼きつけたまま、----また、御使いたちによってもたらされた、主の《再臨》を待ち望めとの使信を今なお耳に響かせたまま、----彼らはオリーブ山からエルサレムに戻り、すぐさま「屋上の間に」行った。この言葉は、単純ではあるが、示唆に富む思想に満ちており、この本を手に取ることになるすべての人の綿密な注意に値するものである。

 しばし私たちは、キリスト者たちが礼拝のために集った場所の中でも、いささかでも記録に残っている、この最古の場所に目を注いでみよう。教会の偉大な《かしら》が世を離れ、ご自分の民を自分たちだけになさった後で、最初に集った会衆について吟味してみよう。この最初の礼拝者たちがいかなる人々であったか、どのようにふるまったか、何を行なったかを見てとってみよう。思うに、しばらくの間、この主題について黙想することは私たちにとって有益であろう。

 思い起こすべきだが、この「屋上の間」こそ、過去十八世紀の間キリスト教界で建立されてきたあらゆる教会や聖堂の先駆けであった。聖ポール大寺院や、ヨーク大聖堂や、リンカン大聖堂を初めとする、わが国のあらゆる荘厳な大寺院、コンスタンティノープルの聖ソフィア大聖堂、サンクトペテルブルグの聖イサク大聖堂、ウィーンの聖ステパノ大聖堂、パリのノートルダム寺院、----これらすべては、この「屋上の間」の子孫たちなのである。そのうち1つとして、この小部屋を越えてその家系図をさかのぼれるものはない。これこそ、信仰を告白するキリスト者たちが、自分たちの《主人》から自分たちだけで残されたとき、最初に合同の祈りを捧げ、礼拝し、互いに勧め合うことを始めた場所であった。この部屋は、幼児期にあったキリストの教会の揺りかごであり、私たちのすべての礼拝式の発端であった。この部屋から、永遠の福音の流れが最初にわき出たのである。ここからわき出した福音の流れこそ、時代や地域によっていかに混ぜものをされ、腐敗させられたとはいえ、現在世界中に広まっているのである。そこで私が読者の方々に勧めたいのは、この屋上の間が《昇天》の日にいかなるようすをしていたか、私とともに吟味してみることにほかならない。

 I. 私たちの前にある聖句から自然に生ずるいくつかの点には、特別な注意を払うべき必要があると思われる。それがいかなる点であるか見てみよう。

 この部屋の形や大きさや外観について、私たちには何1つわかっていない。おそらくそれは、エルサレムにいくらでもあった他の「屋上の間」と似たものであったであろう。しかし、その部屋の天井が高かったか低かったか、その部屋の形が四角かったか丸かったか、それが東向きであったか西向きであったか、北向きであったのか南向きであったのか、それが装飾をこらされていたか飾りたてられていたか全く質素なものであったか、私たちには、これっぽっちも知らされていないし、そうした点にはほとんど意味がない。しかし、はなはだ注目すべき事実だが、原語のギリシャ語でそれは、私たちの欽定訳聖書で云われているように、ある屋上の間、ではなく、あの屋上の間、と云われているのである。私があえて考えるところ、ここには大きな意味があると思う。私の信ずるところ、これはまず間違いなく、私たちの主が最初に主の晩餐の礼典をお定めになったのと、まさに同じ部屋だったに違いない。その部屋こそ、使徒たちが最初に、あのよく知られたことば、「取って食べなさい。これはわたしのからだです」、----「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの血です」*、----という、ある人々にとって多くの不幸な論争のもととなったが、他の人々にとっては非常に力強い慰めの源泉となってきた、あの有名なことば----を最初に聞いた場所であったに違いない。----私の信ずるところ、これは、弟子たちが、《復活》とペンテコステの間の五十日間、「泊まるのを常としていた」のと同じ部屋であった。ここでも、やはり、原語のギリシャ語を文字通り翻訳するならば、そうした結論に導かれるのである。----私の信ずるところ、これは、弟子たちが集まっていて、「ユダヤ人を恐れて戸がしめてあった」のと同じ部屋であった。そこにおいて主イエスは、復活後に突然彼らの真ん中に現われ、こう云われたのであった。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」、また、「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」、と(ヨハ20:21、22)。----私の信ずるところ、これは私たちの主が現われて、ご自分の弟子たちの前で食べ物を食べ、こう云われたのと同じ部屋であった。「わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています」(ルカ24:39)。こうしたすべての点について私は、いま読者の前に提示しているものが推測以外の何物でもないことを存分に認める。しかし、これらはみな私にとっては、ありうべき最も高い見込みに立った推測であって、畏敬をもって考察すべきものであると思う。しかし、ここで私たちは推測から大胆に目を転じて、最も平易に、また取り違えようのないしかたで啓示されている事がらを眺めるのがよいであろう。

 (1) それでは、まず最初に、キリスト教の礼拝が最初に行なわれたこの場所にともに集った礼拝者たちを眺めてみよう。

 そこにはペテロがいた。この熱血漢で、直情径行型の、しかし腰の据わっていない使徒は、四十日前に自分の《主人》を三度も否定したが、その後、悲痛な涙とともに悔い改め、私たちの主により恵み深く引き起こされてから、「わたしの羊を飼いなさい」、と命ぜられていた(ヨハ21:16、17)。

 そこにはヤコブかいた。ペテロとヨハネとともに三度、重要なおりに主とともにいる恵みにあずかった彼は、やがて使徒たちの中では最初に、自分の信仰に血による証印を押し、自分の《主人》が飲み干した杯を飲むはずであった(マタ20:23)。

 そこにはヨハネがいた。ゼベダイの子の片割れである彼は、主に愛され、最後の晩餐のとき私たちの主のみ胸に頭をもたせていた弟子であった。----このヨハネは、ガリラヤ湖で漁をしていた弟子たちに、私たちの主が現われなさったとき、本能的な愛によって、最初に、「主です」、と叫んだ者であった。----このヨハネは、一時はサマリヤ人の村に天から火を呼び下すことを願ったこともあったが、後には愛に満ちあふれた三通の書簡を書くことになるはずであった(ヨハ21:7; ルカ9:54)。

 そこにはアンデレがいた。使徒たちの中でも私たちが最初にその名を知らされている彼は、「見よ、神の小羊」、との言葉を聞いてイエスの後について行き、それから、「私たちはメシヤに会った」、と云って自分の兄弟ペテロをイエスのもとに連れて来た者であった(ヨハ1:40、41)。

 ベツサイダのピリポがそこにはいた。イエスが、「わたしに従って来なさい」、と最初に云われた使徒、----ナタナエルに向かって、約束されたメシヤのところに「来て、そして、見なさい」、と告げた使徒であった(ヨハ1:43)。

 そこにはトマスがいた。いったんはひどく意気消沈し、信仰において弱り果ててはいたが、後には、大いなるアタナシオス的確信をもって、「私の主。私の神」、と叫んだ者であった(ヨハ20:28)。

 そこにはバルトロマイがいた。あらゆる人の一致した意見によると、彼はナタナエルと同一人物である。彼は、最初は、「ナザレから何の良いものが出るだろう」、と云っていたが、私たちの主によって、「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない」、と宣言されて、「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」、と云った者であった(ヨハ1:46-49)。

 そこには取税人マタイがいた。私たちの主に命ぜられて、その世俗の職業を捨て、天にあるいつまでも残る宝を追い求めた彼は、後には最初の福音書を書く筆をとるという特権を与えられるはずであった(マタ9:9)。

 そこにはアルパヨの子ヤコブがいた。彼はエルサレムで開かれた最初の会議で議長を務めるという栄誉を受けた使徒であり、聖パウロのガラテヤ人への手紙で、ペテロとヨハネに並ぶ「教会の柱」であると語られるはずであった(ガラ2:9)。

 そこには熱心党員のシモンがいた。彼について知られている唯一確かなことは、彼が「カナナイオスと呼ばれ」ていたということである[マコ3:18 <英欽定訳>]。ことによると彼は、ガリラヤのカナに住んでおり、私たちの主の行なわれた最初の奇蹟を目にしたのかもしれない。熱心党員という彼の名前は、一度は彼が有名な熱心党の一員だったことを示唆しているように思える。それは、ユダヤの内政自治を主唱し、ローマの覇権に敵対する激越な一派であった。だが今の彼が熱心になっているのはキリストの御国のためだけであった。

 そこにはヤコブの兄弟ユダもいた。タダイまたはレバイと呼ばれていた彼は、新約聖書の最後の書簡を書いた人物であり、この注目すべき問いかけを発した使徒であった。「あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか」(ヨハ14:22)。つまり、その「屋上の間」には、11人の忠実な使徒たち全員が集まっていたのである。今回は、だれひとり不在にしていた者はいなかった。一度は疑っていたトマスも他の者らとともにいた。

 しかし、そこにいたのは使徒たちだけではなかった。そこには「婦人たち」がいた。そのうちの何人かは、長い間、私たちの主につき従い、主の入用のために働き、十字架のもとに最後までとどまり、墓所を最初に訪れた。ほぼ全く疑いなく、マグダラのマリヤや、サロメ、スザンナ、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナが、その婦人たちの中にいたことであろう(ルカ8:2、3)。そしてイエスの母マリヤがそこにはいた。私たちの主が特にヨハネの庇護におまかせになった彼女は、ヨハネがいるところには確かにいたに違いない。まことに老シメオンの預言は彼女の身の上に成就していた。「剣が」、深く鋭利な悲しみという剣が、「あなたの心さえも刺し貫くでしょう」(ルカ2:35)。というのも、彼女も世の常の女性と同じく、生身の女性にすぎなかったからである。この箇所を最後に、彼女の名前は聖書の中に二度と現われない。これ以降、彼女は姿を消し、彼女の後半生にまつわるすべての物語は何の根拠もない伝承にすぎない。

 そして最後に、そこには私たちの主の「兄弟たち」がいた。彼らは、たぶん主のいとこたちであるか、ヨセフの先妻の子どもたちであったであろう。決して忘れてはならないことだが、かつて彼らはイエスを信じていなかったのである(ヨハ7:5)。だがここでは、彼らの不信仰は消え失せており、彼らは、イスカリオテ・ユダが脱落した今、真の弟子となっていた。彼らに対する言及によって学ぶことのできる大きな教訓は、人は最初は悪く始めても、よく終わることがありえるということ、また、いま信仰を持っていない多くの人々も、いつの日か信じるかもしれない。まことに真実なのは、あとの者は時として先になり、先の者があとになる、ということである。

 こうした人々が、《昇天》の後で「屋上の間」に集まった会衆であった。思うに、これほどきよく、これほど傷のないキリスト者たちの集会は、その日から今日に至るまで、決してなかったに違いない。これほど「1つの《聖なる公同の教会》」、「神の御子の神秘的なからだにして、信仰を有するすべての人々のほむべき集まり」に近づいたものは、空前にして、おそらく絶後であったに違いない。これほど多くの毒麦をまじえない麦が、またこれほど異様な割合で恵みと、悔悟と、信仰と、希望と、聖さと、愛とが、一部屋の中に集まったことは決してなかったに違いない。過去の目に見える《キリストの教会》の集会がみな、この「屋上の間」に集まった会衆のように、いかなる不健全な成員も、傷も、しみも含んでいなかったとしたら、どんなによかったことであろう。

 (2) 私たちが第二に注目したいのは、この「屋上の間」における最初の集会を特徴づけていた一致である。ここではっきり語られているように、「この人たちは……みな心を合わせ」、すなわち、思いを1つにしていた。彼らの間に分裂はなかった。彼は同じことを信じていた。彼らは同じ《お方》を愛しており、とりあえず彼らの間には何の不一致もなかった。その「屋上の間」には、いかなる《高》教派も《低》教派も《広》教派もなかった。異端や、内輪もめや、論争はまだ知られていなかった。バプテスマや、主の晩餐や、礼服や、薫香などについて異なる主張だの激論だのはなかった。このほむべき状態が続いていたとしたら、キリスト教界にとって何とよかったことであろう! それから十八世紀が経とうとしている今、私たちがみな苦い経験によって思い知っているように、キリスト者たちの分裂は教会の弱点であり、世や不信者や悪魔が啓示宗教を攻めたてるお好みの議論となっている。この屋上の間のほむべき姿を見てとるとき、私たちはこう祈ってしかるべきである。願わくは神が、この十九世紀における教会内の多くの病を癒してくださり、特に国教徒たちをより1つの思いにしてくださるように、と。

 (3) 私たちが第三に注目したいのは、その「屋上の間」における最初の会衆の「霊想的な習慣」である。ここではっきり語られているように、彼らは「祈りに専念していた」。ここでもやはり私たちは、原語のギリシャ語に着目すべきである。この表現の指し示すところ、祈りはこの急場において、彼らが途切れることなく不断に行なったことであった。この聖い礼拝者たちが、何のために祈っていたのかは語られていない。私たちの主が、エマオへ向かうふたりの使徒たちと交わした会話のように、彼らの祈りがいかなるものであるかを私たちは知りたいと思う(ルカ24:27)。おそらくはそこには、疑いもなく、忠実であり続け、脱落しないための恵みを求める大きな祈りがあったであろう。----自分たちが取らなくてはならない新しい、また困難な立場において、正しいことを行なうための知恵を求める祈りがあったであろう。----勇気と、忍耐と、たゆまぬ熱心と、常に私たちの主の模範と教えと約束を思い起こすこととを求める祈りがあったであろう。しかし聖霊は、完全な知恵によって、こうした事がらを私たちには隠しておくことをよしとお考えになったのである。私たちはその正しさを疑ってはならない。私たちに明確に教えられているのは、キリスト者の集会で行なわれるべき主要な義務として、心を合わせた祈りにまさるものはない、ということである。私たちは決して、かの偉大な《異邦人の使徒》が、教会の教役者としての種々の義務について、テモテにあれこれ書き送った際に与えた、第一の責務を忘れてはならない。「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが……平安で静かな一生を過ごすためです」(Iテモ2:1以下)。私のあえて信ずるところ、アンナスや、カヤパや、ポンテオ・ピラトの名前も、その「屋上の間」における祈りの中では忘れられていなかったであろう。

 (4) 私たちが最後に注目したいのは、使徒ペテロによってその屋上の間でなされ語りかけである。それがなされたのは、《昇天》からペンテコステの日までに経過した十日間のうちの一日であった。私たちの主が世を離れてから、何らかのキリスト者たちの集まりでなされた語りかけのうち、最初に記録されているのが、この語りかけであったことは興味深い事実である。それに劣らず興味深いのが、その最初の語り手が使徒ペテロであったということである。----この人物は、自分の《主人》を否定した後で、恵み深く引き起こされ、主の羊を飼うことで自分の愛を証明するように命ぜられた当の使徒であった。----その転落の前から、このような責務を与えられていた当の使徒であった。「あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)。ペテロには、最初に立って、この「百二十名ほどの」小集団に向かって語りかけるべき格別な資格があったのである。

 (a) 彼がその語りかけを、いかに畏敬のこもった聖書の参照によって始めているかに着目するがいい。彼は、神の書かれたみことばという最高の権威の上に足をしっかりと踏みしめ、それを教会の信仰の基準としている。彼は云う。「聖書のことばは、成就しなければならなかったのです」。彼は、「詩篇には、こう書いてあるのです」、と云って、その聖句から引用をしている。故オールフォード主教座聖堂参事会長は、その著書『使徒行伝講解』において、いみじくも賢明な注釈をしている。「教会が、その最初の監督者によってなした最初の行為は、聖書の聖句への訴えであった。そのことを決して忘れないようにしよう。それ以後の教会のあらゆる教役者たちによってなされたあらゆる訴えが、それと同じくらい直接的で、同じくらい正当な訴えであったとしたら、どんなに良かったことか!」

 (b) 次に、ペテロがいかに謙遜に、教会の最高位にある、至上の特権を受けた教役者といえども過ちを免れえないことを認めているかに着目するがいい。彼はイスカリオテ・ユダについて、「ユダは私たちの仲間として数えられており、この務めを受けていました」、と云ってから、その悲惨な末路について言及している。「ユダは自分のところへ行くために脱落して行きました」、と。そのことを決して忘れないようにしよう。彼の規定している大原則は、教会の中で常に覚えられているべきこと、すなわち、教役者の務めにはいかなる無謬性も属していない、ということである。キリストのえり抜きの使徒のひとりが悲しい転落をした以上、使徒たちのいかる後継者もそのように転落することがありえる。主教も、司祭も、執事も、過ちを犯すことがありえるし、アロンの直系の子孫に連なるホフニや、ピネハスや、アンナスや、カヤパのように、大きな過ちを犯すことがありえる。私たちは決して、叙任を受けて聖別された人々が何の間違いも犯さないなどと考えるべきではない。決して彼らに盲目に従ったり、彼らの告げるすべてのことが理の当然として真理であるなどと信じるべきではない。聖書だけしか無謬の手引はない。

 (c) 次に、ペテロが教会に向かって、いかにユダの抜けた穴を埋めること、また十一人の使徒たちとともに数えられるべき者をひとり選ぶことを求めているかに着目するがいい。彼は、揺るぎない確信をもって語っている。世と悪魔が決して止めることのできないみわざが、すでに始まっているのだ、と。また、そのみわざを押し進めるための働き人が、常に秩序正しく任命されなければならないのだ、と。彼は、教会が戦わなくてはならない闘争を明確に見越していたが、その戦いは決して負け戦にはならず、確かな決着はついているとの明白な確信をもって語っている。あたかも、こう云っているかのようである。「堅く立つがいい。旗手のひとりが落後したからといって動かされてはならない。空隙を埋めよ。隊伍を組み直せ」、と。

 (d) 最後に、ペテロがその語りかけのしめくくりにあたり、いかに教役者たる者、使徒たちの後継者たる者のあるべき姿について平易に宣言しているかに着目するがいい。そうした者は、「キリストの復活の証人」たるべきであった。そうした者は、福音の土台が、曖昧模糊とした神のあわれみについての一観念などにはなく、実際に生きておられるひとりの《お方》にあり、その《お方》が私たちのために生き、私たちのために死に、何にもまして再びよみがえったという事実の証人たるべきであった。そのこともまた、決して忘れないようにしよう。私はためらうことなく主張する。この終わりの時代にあって、私たちはキリストの復活について十分な強調をしていない、と。『使徒の働き』や新約書簡から判断する限り、確かに私たちは復活を使徒たちほどには強調していない。パウロがアテネに行ったときには、「イエスと復活とを宣べ伝えた」、と記されている(使17:18)。彼がコリントに行ったとき、彼が最も大切なこととして宣べ伝えた真理の1つは、「キリストが聖書に従って三日目によみがえられたこと」*であった(Iコリ15:4)。同じパウロがフェストとアグリッパの前に引き出されたとき、フェストは、パウロに対する告訴理由が、「死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張している」ことにある、と云っていた(使25:19)。

 だれも誤解しないでほしい。私は決して、私たちがキリストの犠牲と血とを重視しすぎていると云っているのではなく、キリストの復活をあまりにも重視していない、と云っているのである。だが私たちの主ご自身、一度ならずユダヤ人に向かって、復活が主のメシヤたることを証明するであろうとお語りになった。聖パウロが、ローマ人に対して、その手紙の冒頭で告げるところ、イエスは「死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された」のである(ロマ1:4)。復活によって、私たちの主が世に来られてもたらそうとなさったみわざは完成された。こう書かれている。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられた」。また、コリント人への手紙では明確にこう告げられている。「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」(ロマ4:25; Iコリ15:17)。つまり、キリストの復活は、キリスト教の真理を示す最大の証拠の1つであり、代償贖罪による罪人たちの救いは完成したみわざである、と示す土台となる証明であり、いかに才気あふれる不信者も決して説明し去ることのできなかった奇蹟なのである。これが説明し去られない限り私たちは、バラムのろばが口をきいたことや、ヨナが鯨の腹中に呑まれたことについて、いかなる毒舌を聞かされようと心を乱す必要はない。もし教会のあらゆる教役者たちが常に、ここでペテロが推薦しているような人々であったとしたら、教会にとってどんなに良かったことであろう。教会で任命される教役者が常に、人格的なキリストと、その死と、その復活に対する、忠実な「証人」であったとしたら、どんなに良かったことであろう。

 エルサレムの屋上の間と、そこに集った会衆たち、彼らの一致、彼らの祈り、その室内でなされた最初の語りかけについては、ここまでにしたい。現在記録に残されている、信仰を告白する教会の最初の祈祷会、最初の説教、最初の団体行為については、ここまでにしよう。一瞬たりとも疑う余地なく、私たちの主イエス・キリストのよく知られた約束は、その部屋において成就した。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタ18:20)。この礼拝者たちの小集団は、主を見てはいなかった。だが主はその場におられたのである。

 II. さてここで、この主題全体から私たちのために、いくつかの実際的な適用を引き出させてほしい。

 (1) 第一のこととして学びたいのは、私たちに割り当てられている時代の自由に対する感謝をより深め、わが国の政府が採っている賢明な寛容政策をよりありがたく思うようにしよう。神のあわれみにより、「私たちはすばらしい平和を与えられ」ている。私たちは、「屋上の間」に集まったり、「ユダヤ人を恐れて戸をしめ」たり、自分とむごたらしい死との間にはほんの一歩しかないなどと絶え間なく感じさせられたりする必要が何1つない。現在、人は、そうしたければエルサレム神殿そのものほどにも、高価で壮麗な礼拝所を建てることができる。だれもそれを執拗に禁止したり、妨害したりする者はいない。私たちはローマ皇帝をも、中世の独裁君主をも、スペインの異端審問をも恐れることはない。全地は私たちの前に広がっており、人は好きなところに会堂を築き、礼拝することができる。願わくは神が、この国のすべての富裕な平信徒をして、富がどなたからやって来るのか、また自分の自由と繁栄をどなたに負っているのかを思い出させてくださるように。願わくは神が、さらに多くの人々をして、自分の財をもって神に栄誉を帰し、より多くの機会において、こう云って進み出させてくださるように。「神に仕えるため、私に教会を建てさせてください」、と。

 (2) 第二のこととして学びたいのは、教会の真の力の源泉である。この小さな屋上の間こそ、ローマ帝国を揺るがし、異教徒の神殿に閑古鳥を鳴かせ、剣闘士による決闘競技をやめさせ、女性たちをその真の立場に引き上げ、嬰児殺しをはばみ、道徳の新しい基準を作りだし、古のギリシャやローマの哲学者たちの顔色をなからしめ、世界をひっくり返した運動の出発点であった。だが、その力の秘訣は何だったのだろうか? 信仰を告白する最初のキリスト者たちの一致と、信仰の健全さと、聖さと、祈りと、とりなしである。こうした事がらが欠けているところでは、いかに壮大な建造物や、いかに絢爛な儀式をもってしても、世界を改善することはないであろう。キリストと聖霊のご臨在によってしか力は与えられないのである。

 (3) 最後のこととして私たちは、英国国教会のために祈るようにしよう。この教会が、三百年もの間かくも大きな善を施してきた昔からの真理に忠実であり続けることができるように。そうした真理は、私たちの《信仰箇条》や、《祈祷書》や、《使徒信条》の中に防腐保蔵されている。教義を鼻であしらい、霊感と贖罪をあざけり、キリスト者たちの論争を笑いものにし、聖書をすべて信じている者などいないと告げ、聖書で挙げられているすべての事実を信じている者などいないと云うのは、安直で簡単なことである。繰り返すが、そうしたことは簡単なことである。子どもでも泥を投げつけたり、石を放ったり、やかましく騒ぎ立てることはできる。しかし、冷笑や、あざけりや、騒音は、議論ではない。私は教義を鼻であしらう人々に向かって挑戦したい。さらにまさる道を示してみよ、と。私たちの罪のために死に、私たちが義と認められるためによみがえってくださったキリストという、古い、昔からの物語にまさって世界に善を施しているものを何か示してみるがいい、と。

 科学の徒は云うかもしれない。「私のところに来て、私の顕微鏡か望遠鏡を見てみなさい。私はあなたに、モーセや、ダビデや、聖パウロが夢にも見たことのないものを見せてあげましょう。一体あなたは、そんな無知な連中が書いたものを私が信じるとでも思っているのですか?」、と。----しかし、この科学の徒は、その顕微鏡や望遠鏡を通して何か、病んだ思いを力づけ、砕かれた心の傷を包み、痛んだ良心の欲求を満たし、夫や妻や子どもを亡くして悲嘆に暮れる人に慰めを与えてくれるものを何か私たちに示すことができるだろうか? 否、絶対に否! その人にそうした類のことは何もできない! 私たちは、恐ろしいほどに奇しいしかたで形作られている。私たちは単に、脳や、頭や、知性や、理性からできているのではない。私たちは、脆弱で、死に行く被造物で、心と、感情と、良心を有している。そして私たちの生きている世界は、悲しみと、失望と、病と、死とに満ちた世界である。では、このような世界にある私たちを何が助けてくれるだろうか? 確かに科学だけでは力不足である。私たちを助けられるのはただ1つ、ある人々によれば古色蒼然たるユダヤ教の本と呼ばれる、聖書という書物の教理しかない。私たちを助けられるのはただおひとり、ベツレヘムのかいばおけに横たえられ、十字架の上で死ぬことによって神に対する私たちの負債を支払い、今は神の右の座に着いておられるお方しかいない。ただ、こう云ってくださったお方しかない。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタ11:28)。ただ、墓の中を光で照らし、その彼方にあるものを見せ、福音によって、いのちと不滅を明らかに示したお方、ピタゴラスや、アリストテレスや、アルキメデスの時代に始まって現代のダーウィンやハクスリに至るまでの、いまだかつて生を受けたいかなる科学の徒らすべてよりも、深々とした足跡を世に残したお方しかいない。しかり! 私はもう一度云う。私たちの教会のため祈ろうではないか。それが常に、その最初の諸原理に忠実であり続け、決してこうしたまことしやかで、雄弁な、自由思想の使徒たちに耳を貸さないように、と。こうした者どもは、何とか教会を説得して、その《使徒信条》や《信仰箇条》を無価値な棒切れのように放り出させようとしているのである。だが洗練された言葉や、凝りに凝った高雅な表現によっては、決して人間性は満足させられず、道徳的悪は抑制されず、魂は養われることがない。人は、1884年12月に、フランシス・パウアー・コッブス女史が『現代時評』に書いた、驚くべき論考を一読した方がよい。そこには、世界に信仰も信条もないとしたら、私たちの世界がいかにぞっとする幽界めいた場所となるかが記されている。時代には何も新しいものは必要ない。それが必要としているのは、あのエルサレムの「屋上の間」でいだかれていた古い真理を、大胆に、揺るぎなく宣言することにほかならない。

「彼らは屋上の間に上がった」[了]

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*1 この論考の内容は、元来、リヴァプールの聖アグネス教会の献堂式において説教されたものである。[本文に戻る]

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