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18. 選び


「神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています」----Iテサ1:4
「ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい」----IIペテ1:10

 このページの冒頭に冠された聖句には、格別に興味深い言葉が含まれている。それは、英国諸島の津々浦々で、しばしば人々の思いに浮かび、口の端に上っている言葉にほかならない。その言葉とは、「選び(Election)」である。

 国会の総選挙(General Election)がどういうものか、全く知らないというような英国人はほとんどいないであろう。その時期には、至る所で多くの悪徳が浮かび上がる。憤怒がかき立てられる。古くからの反目が掘り返され、新たなる反目の種が蒔かれる。種々の約束がなされては、あっさり反古にされる。経歴の詐称や、嘘八百や、泥酔や、脅迫や、ごり押しや、おべんちゃらがまかり通る。ことによると、総選挙の時期ほど、人間性の低劣さがあからさまになる時はない

 しかしながら、国会選挙については、そのあらゆる側面を眺めることが公平というものである。その悪弊は決して新奇なものでも、英国に特有のものでもない。いかなる時代、世界のいかなる地域においても、人間の心はごくごく似通ったものである。これまでも、他の人々に向かって、今の政府のやり方はてんでなっていないと説き、われこそは、見渡す限りでは最適の為政者であると説き伏せようとする者は決して後を絶たなかった*1。キリストが生まれる千年も前に、以下のような情景が聖霊の過たぬ御手によって描かれている。----

 「アブシャロムはいつも、朝早く、門に通じる道のそばに立っていた。さばきのために王のところに来て訴えようとする者があると、アブシャロムは、そのひとりひとりを呼んで言っていた。『あなたはどこの町の者か。』その人が、『このしもべはイスラエルのこれこれの部族の者です。』と答えると、
 「アブシャロムは彼に、『ご覧。あなたの訴えはよいし、正しい。だが、王の側にはあなたのことを聞いてくれる者はいない。』と言い、
 「さらにアブシャロムは、『ああ、だれかが私をこの国のさばきつかさに立ててくれたら、訴えや申し立てのある人がみな、私のところに来て、私がその訴えを正しくさばくのだが。』と言っていた。
 「人が彼に近づいて、あいさつしようとすると、彼は手を差し伸べて、その人を抱き、口づけをした」(IIサム15:2-5)。

 こうした箇所を読むとき私たちは、自分たちの時代を性急には審かないことを学ばなくてはならない。私たちが目にしている種々の悪は、独特のものでも新奇なものでもないのである。

 結局のところ私たちは、普通選挙政が、たとえ悪弊は多々あるにせよ、専制的な形態の政府にくらべれば、はるかにまともなものであることを決して忘れてはならない。いかなる者にも自分で考えたり、話したり、行動したりするのを許さない専制的な暴君の下で生きるのは、みじめな奴隷状態である。自由のためには、私たちは、国会議員の選出に伴うあらゆる悪弊を耐え忍ばなくてはならない。私たちは、各自自分の義務を良心的に果たし、いかなる政党にも大きな期待をしないことを学ばなくてはならない。もし自分の支持候補が当選したならば、彼らがそれから行なうことがすべて正しいと考えてはならない。もし自分の反対候補が当選したなら、彼らがそれから行なうことがすべて間違っていると考えてはならない。地上のいかなる為政者からも多くを期待しないことは、満ち足りる心を得る大きな秘訣の1つである。すべての高い地位にある人たちのために祈り、彼らの行動のすべてを愛を持って判断することは、キリスト者の主たる義務の1つである。

 しかし、世にはもう1つの選出がある。それは、いかなる国会選挙にもはるかにまさって重要なもの、----女王や、上院議員や、下院議員たちがみな世を去った後でも、その結果が永続する選出、----あらゆる階級に関わり、最上層の者も最下層の者も含み、男性も女性も含む選出である。それは、聖書が、「神の《選び》」と呼ぶ選出である。

 私はこの論考を読む方々に願いたい。これからほんのしばらく、私がこの《選び》という主題について語っていく間、注意を傾けてほしい。請け合ってもいいが、これはあなたの永遠の幸福に最も深い影響を及ぼすものである。あなたが国会議員であろうとなかろうと、あなたが投票しようとすまいと、あなたの支持政党が勝とうと負けようと、それはみな、百年後にはたいした問題ではなくなるであろう。しかし、あなたが「神に選ばれた人々」の数に入っているかいないかは、非常に重大な問題である。

 《選び》という主題を扱うにあたり、私は2つのことだけを行なおうと思う。

 I. 第一に、私は《選び》の教理をはっきりと提示し、それがいかなることかを示すことにしたい。
 II. 第二に、私はこの主題を種々の注意で囲い、それが濫用されないように守ることにしたい。

 もしこの2つの点を、このページを読んでいるすべての方々に、明確に、またすっきり理解させることができたとしたら、私は彼らの魂にとって大きな、また最も重要な助けをしたと考えるものである。

 I. 第一に私は、《選び》の教理をはっきりと提示することにしたい。それは何だろうか? いかなることを意味しているのだろうか? この点に関して正確に言明しておくことは非常に重要である。聖書のいかなる教理も、ことによると、いま私たちの前にある教理ほど、敵たちの間違った概念や、友人たちの不正確な説明によって多大な害悪をこうむってきたものはないかもしれない。

 《選び》の真の教理は、私の信ずるところ以下のようなものである。神は永遠の昔から、ある特定の人々を人類の中から選ぶことをよしとなされ、私たちには隠された、ご自分のご計画により、イエス・キリストによって救うことを定めておられた。このように選ばれた者たち以外には、いかなる人々も最終的に救われることはない。こういうわけで、聖書はいくつかの箇所で神の民のことを「神に選ばれた人々」という名で呼び、彼らを永遠のいのちへと選ぶこと、あるいは定めることを「神の選び」と呼んでいるのである。

 神が永遠の昔から選ぶことをよしとなさった人々を、神は、時至ってお働きになるその御霊により、時に応じてお召しになる。御霊は彼らに罪を確信させてくださる。彼らをキリストに導いてくださる。彼らの中に悔い改めと信仰を作り出してくださる。彼らを回心させ、更新し、聖なるものとしてくださる。彼らが完全には転落し去らないように、ご自分の恵みによって守り、最終的には彼らを無事に栄光へと至らせてくださる。つまり、神の永遠の《選び》とは、天国の栄光を最後とする、罪人の救いの連鎖の中の最初の環なのである。いまだかつて悔い改めて、信じて、新しく生まれた者の中で、神に選ばれた人々でなかった者はいない。聖徒が今そうあるところの者となった主要な、また原初の原因は、永遠の神の選びなのである。

 ここに言明された教理は、疑いもなく、格別に深遠で、神秘的で、理解しがたいものである。私たちには、それを完全に見通す眼力はない。それを徹底的に測り知る測深索はない。キリスト教信仰のいかなる部分も、これほど議論され、拒否され、悪し様に云われてきたものはない。これほど肉的な精神の大きな目印たる神への敵意を大いにかき立てるものはない。おびただしい数の、いわゆるキリスト者たちは、贖罪と、恵みによる救いと、信仰による義認を信ずると告白していながら、決して《選び》の教理には目もくれようとしない。この言葉を口にしただけで、一部の人々の怒りと、不機嫌と、激情を引き起こす引き金になる。

 しかし、結局のところ、《選び》の教理は聖書ではっきり平易に述べられているだろうか? これこそ、正直なキリスト者が向き合わなくてはならない問題のすべてである。もしそれが神の書の中にないのなら、だれがそれを主張していようと、人はそれを永遠に打ち捨て、否定し、拒絶しなくてはならない。もしそれがそこにあるのなら、私たちは畏敬とともにそれを天来の啓示の一部として受け入れ、たとえ自分に完全には理解できず、十分には説明できない箇所においてすら、へりくだって信じるべきである。では、聖書には何が書かれているだろうか? 「おしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない」(イザ8:20)。聖書の中に《選び》はあるだろうか、ないだろうか? 聖書は、特定の人々のことを、神に選ばれた人々と語っているだろうか、いないだろうか?

 私たちの主イエス・キリストが何と云っておられるか聞いてみるがいい。----「選ばれた者のために、その日数は少なくされます」(マタ24:22)。

 「できれば選民を惑わそうとし……ます」(マコ13:22)。

 「人の子は……御使いたちを遣わします。すると御使いたちは……その選びの民を集めます」(マタ24:31)。

 「神は……選民のためにさばきをつけないで……おかれることがあるでしょうか」(ルカ18:7)。

 聖パウロが何と云っているか聞いてみるがいい。----「神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」(ロマ8:29、30)。

 「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」(ロマ8:33)。

 「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び……ました」(エペ1:4)。

 「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたもので……す」(IIテモ1:9)。

 「神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです」(IIテサ2:13)。

 聖ペテロが何と云っているか聞いてみるがいい。----「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ」(Iペテ1:2)。

 「ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい」(IIペテ1:10)。

 私はこの11の聖句を読者の前に提示し、それを熟考するように願いたい。言葉に何の意味もないというのでない限り、それらは何にもまして平易に、個々人の《選び》の教理を教えているように見受けられる。こうした聖句を面前にするとき私は、それが聖書的な教理であると信ずることを拒否できない。正直な人間として私は、聖書の言葉遣いの平易で、あからさまな意味に目を閉ざすことはとてもできない。もし私がひとたびそのようなことをし出すならば、私には、未回心の人に対して福音を強く勧めるために立つべき、何の根拠もなくなるであろう。私は、自分が一連の聖句を信じていないとしたら、未回心の相手が別の一連の聖句を正しいと信ずることなど期待できないであろう。上で引用した11の聖句は、私には、個々人の《選び》が聖書の教理であると、決定的に証明しているように思える。いかに困難であろうと私は、聖書の教理として《選び》を受け入れなくてはならず、信じなくてはならない。聖書の教理として私はこの日、読者の方々に《選び》を冷静に眺め、真剣に吟味し、神の真理として受け入れてほしいと願う。

 結局のところ、人々が何と云うにせよ、一定の人々が救いへと《選ばれている》ことが単純な事実であることは、否定しようがない。最終的に救われるのは、信仰を告白するすべてのキリスト者ではなく、その一部であること、----救われる者たちが、その救いを完全に神の無代価の恵みと、その御霊の召しに負っていること、----なぜある者が救いに召され、その他の者が召されないかは、いかなる人にも全く説明できないこと、----こうしたことはみな、いかなるキリスト者であれ、自分の回りを見渡すならば、一瞬でも否定するなどということはできまい。だが、こうしたことすべてを突きつめていけば、《選び》の教理以外の何になるだろうか?

 人間性に関する正しい認識もまた、確実に私たちを同じ結論に至らせるに違いない。いったん人間がみな生まれながらに罪過と罪との中に死んでおり、神に立ち返る何の力も持っていないことを認めるなら、----いったん人間の心におけるあらゆる霊的ないのちが神から始まらなくてはならないことを認めるなら、----いったん、「光よ。あれ」、と云うことによって世界を創造なさったお方が、人の心に射し込んで、その人の内側に光を創造なさらなくてはならないことを認めるなら、----いったん、神がこのようなしかたで光を与えてくださる相手は信仰を告白するすべてのキリスト者ではなく、その一部でしかないこと、また神はこのようなしかたで主権者として行動なさり、ご自分側の事情について何の説明もなさっておられないことを認めるなら、----いったん、こうしたことすべてを認めるなら、そのときに、あなたがどこにいるか見てとるがいい。知ってか知らずか、あなたは《選び》の教理の全体を認めているのである。

 聖書で啓示されている、神のご性質とご性格に関する正しい認識も、私には同じ立場へと私たちを至らせるように思える。あなたは神がすべてのことを永遠の昔から知っておられることを信じているだろうか?----神がすべてのことをその摂理によって支配しておられること、神のみこころなしには、すずめ一羽すらも地に落ちないことを信じているだろうか? 私たちは、神がご自分のみわざのすべてを、完璧な知識を有する建築家のように、1つのご計画によって行なっておられること、また神が、最もえり抜きの、最もいとすぐれた作品であるご自分の聖徒たちに関わるいかなることも、偶然や運や巡り合わせにおまかせになってはいないことを信じているだろうか?----よろしい。もし私たちがこうしたことすべてを信じているとしたら、私たちはこの論考が支持しようとしている教理の全体を信じているのである。これこそ《選び》の教理にほかならない。

 さて、こうした事がらへの答えとしていかなることが云えるだろうか? いかなる議論が、《選び》に対する攻撃の主たる武器なのだろうか? それを見ていこう。

 ある人々が私たちに告げるところ、個人や個々人の《選び》などというものは聖書にはないという。そのような《選び》は、彼らに云わせると、恣意的で、不正で、不公平で、片寄っていて、不親切である。彼らの認める唯一の《選び》は、国々の選び、諸教会の選び、諸共同体の選び、----たとえば古代におけるイスラエルや、現代における異教国と比較してのキリスト教国などに見られる選びである。この反論の中に何か有効なものがあるだろうか? 私の信ずるところ、そうしたものは何1つない。----1つのこととして、聖書で語られている《選び》とは、聖霊の聖なるものとする影響力に伴う《選び》なのである。これは確かに国々の《選び》ではない。別のこととして、聖パウロそのひとが、イスラエルそのものと《選ばれた者》との間に、きっぱり明確な区別をつけている。「イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しました」(ロマ11:7)。----最後に、しかしこれも重要なこととして、国家の《選び》説の主唱者たちは、それによって全く何も得られない。いかにして彼らは、神がキリスト教の知識を千八百年もの間、三億千万人もの中国人には与えずにおきながら、欧州大陸全土にはそれを伝播させたことの説明をつけられるのだろうか? それを説明するための根拠は、神の主権的なみこころと、神の無代価の《選び》以外にない! それで、実際のところ彼らは、私たちが擁護していると云って非難しているのと同じ立場、また彼らが恣意的で愛のないものだと云って糾弾しているのと同じ立場を取るよう追いつめられるのである。

 ある人々が私たちに告げるところ、いずれにせよ《選び》は英国国教会の教理ではないという。非国教徒や長老派なら、それでたいへん結構かもしれないが、国教徒にとってはそうではない。彼らは云う。----「それは、ただのカルヴァン主義の切れ端にすぎない。その法外な考え方は、ジュネーヴから来たものであり、祈祷書を愛する者たちの間では何の信用にも値しない」、と。そのような人々は、自分の祈祷書の巻末をめくって、三十九信仰箇条を読んでみた方がよいであろう。第十七箇条の項目を開いて、以下の言葉に注意してみるがいい。「いのちへの予定は、神の永遠のご目的であって、それにより、世界の基の置かれる前から、神は常に、私たちには隠されているご自分の計画によって、人類の中からキリストのうちにお選びになっておられた人々を、呪いと断罪から救い出し、彼らを、尊いことのために用いる器として、キリストによって、永遠の救いへ至らせようと定めておられた。これにより、かくも卓越した神の恩恵を授けられている者たちは、神のご目的に従い、時至って働くその御霊によって召される。彼らは、恵みを通して、その召しに従い、無代価で義と認められ、子とされることにより神の子どもたちとされ、神のひとり子なる御子イエス・キリストのかたちに似たものとされ、信仰深く良い行ないのうちを歩み、ついには、神のあわれみによって永遠の至福に達することになる」。

 私は、この第十七箇条に特別の注意を払うよう、英国のすべての国教徒に勧めたい。これは、現在、人を健全な教理に繋ぎとめる大錨である。これは決して洗礼による新生などという教えと調和できない! 個々人の《選び》という真の教理を、これほど賢明に、はっきり述べたものは、いまだかつて一度も、霊感を受けていない人間の手によっては記されたことがない。これは徹底して釣り合いのとれた、また分別ある均整を保った言明である。このような信仰箇条を前にして、英国国教会はこの論考の教理を奉じていないなどと云うのは、ばかげているとしか云いようがない。

 論争の種となっている問題において私は、礼儀正しく、また用心深く語りたいと思う。私は、信仰上の意見に知らず知らずに影響を与える、人々の気質の多種多様さを酌量したいとは思う。また、初めから有していた種々の偏見の永続的な効果も酌量したいと思う。私は、ウェスレーや、フレッチャーや、多数の卓越したメソジストやアルミニウス主義者たちが、常に《選び》を拒否してきたこと、今日まで多くの人々が拒否していることを認めるのにやぶさかではない。私は、《選び》の教理をいだくことが救いに絶対必要であるとは云わない。絶対に必要なのは《神に選ばれた人々》のひとりであることである。しかし私は、神学的な問題においては、いかなる人をも先生と呼ぶことはできない。私自身の目は、個々人の《選び》が、何よりも明確に聖書と、英国国教会の第十七箇条とではっきり述べられているのを見てとっている。私は、この教理を捨てることはできない。私の堅く信ずるところ、これは神の真理の重要な一部分であり、敬虔な人々にとって、「甘やかで、喜ばしく、言葉に尽くすことのできない慰めに満ちている」。

 II. 私が次に行ないたいと願っているのは、《選び》の教理を種々の注意で囲い、それを濫用から守る、ということである。

 この主題のこの部分は、途方もなく重要なものであると思う。啓示された真理はみな歪曲され、曲解を免れないものである。サタンの主要な策略の1つは、人々を誘惑して福音をゆがめさせ、福音を唾棄すべきものにすることである。ことによるとキリスト教神学のいかなる部分も、個々人の《選び》というこの教理ほど、こうしたしかたで多大な害悪を受けてきたものはないかもしれない。私が何を云いたいか、もう少し説明させてほしい。

 ある人は云う。「私は神に選ばれた人々のひとりではない。キリスト教信仰において何をどうしようと私には役に立たない。私が日曜日を守ったり、教会の礼拝に出席したり、自分の聖書を読んだり、祈りを唱えたりするのは時間の無駄だ。もし私が救われることになっているなら、私は救われるだろう。もし滅びることになっているなら、滅びるだろう。それまでの間、私はただじっとして待っていよう」。これは、痛ましい魂の病である。しかし、私の恐れるところ、これは非常によくある病である!

 別の人は云う。「私は神に選ばれた人々のひとりである。私は、自分がどのような生き方をしていようと、最後には自分が救われて天国へ行くと確信している。聖潔への勧告は律法的だ。目を覚ましていよとか、自己を十字架につけよとかいう勧めは奴隷制だ。私が転落しても、神は私のうちに何の罪も見ず、変わらず私を愛してくださる。私がしばしば誘惑に屈しても、神は私が完全に失われることはないようにしてくださるであろう。疑いや恐れや不安を感ずることが何の役に立つのか。私は自分が選ばれた者のひとりであると確信しており、そのような者として私は栄光に至るだろう」。これもまた、痛ましい病である。しかし、私の恐れるところ、これは決してまれな病ではない。

 さて、このようなしかたで語る人々に対して何と云うべきだろうか? 彼らには非常にはっきり告げる必要がある。彼らは聖書の真理を曲解して、自分自身に滅びを招いており、食物を毒に変えている、と。彼らに必要なのは、彼らのいだいている《選び》の観念が、みじめなほど非聖書的なものだと気づかされることである。聖書に沿った《選び》は、彼らが考えているようなものとは非常に異なるものである。この教理は、それと同じくらい重要な他の種々の真理とこの上もなく密接に関係しており、そうした他の真理から決して分離されるべきではない。神が結び合わせた真理を人が引き離してはならない。

 (a) 1つのこととして、《選び》の教理は決して、自分の魂の状態に関する人間の責任を無効にするためのものではない。聖書は至る所で人間に向かって、自由意志を持つ行為者、神に対して責任を負う者、決してただの丸太ん棒や煉瓦や石ころではない者として語りかけている。人々に向かって、悪事を働くのをやめよ、善をなすことを習え、悔い改めて、神を信じ、神に立ち返り、祈れ、と告げるのは無駄だ、などと云うのは偽りである。聖書の至る所に記されている大原則、それは、人は自分の魂を滅ぼすことがありえ、もし人が最終的に滅びるとしたら、それは自分自身に非があり、その者の血の責任はその者の頭上に帰される、ということである。この《選び》の教理を啓示している霊感された聖書は、このような言葉を含んでいるのと同じ聖書なのである。「イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」。----「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」。----「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである」(エゼ18:31; ヨハ5:40; 3:19)。聖書は決して、罪人が天国へ行けないのは彼らが《選ばれた人々》ではないからだ、などと云ってはいない。それは、彼らが「こんなにすばらしい救いをないがしろにした」からであり、彼らが悔い改めて信じようとしないからである。最後の審判の際、滅びに至った魂の破滅のもととなったのは、《神の選び》が欠けていたことではなく、怠惰さと、罪への愛と、不信仰と、キリストのところに来たがらない思いであったことが、余すところなく証明されるであろう。

 (b) 別のこととして、《選び》の教理は決して、あらゆる罪人に対して救いを最も十分に、最も惜しみなく差し出すことを妨げるためのものではない。私たちは、説教し善を施そうとする際に、あらゆる男女と子どもたちの前に開け放たれた扉を示し、あらゆる人に向かって中に入るよう招くことを承認され、命ぜられている。私たちはだれが神に選ばれた人々かを知らず、だれを神は召して回心させようとしておられるかを知らない。私たちの義務はすべての人を招くことである。あらゆる未回心の魂に対して例外なく、私たちは云うべきである。「神はあなたを愛しておられ、キリストはあなたのために死なれたのです」、と。あらゆる人に対して私たちは云うべきである。「目を覚ましなさい。----悔い改めなさい。----信じなさい。----キリストのところに来なさい。----立ち返りなさい。----向きを変えなさい。----神を呼び求めなさい。----努力してはいりなさい。----おいでください。もうすっかり、用意ができましたから」、と。神に選ばれた人でなければ、だれも私たちの云うことを聞かず、信じないはずだ、などと私たちに告げる必要は全くない。そうしたことは重々承知している。しかし、だからといって、だれかに救いを差し出すのは全く無駄だなどというのは、ばかげていると云うほかない。私たちは何様のつもりで、自分には、最後にだれが神に選ばれた人々に入るか知ってる、などと云おうとするのだろうか? 否! 全くそうではない。いま先頭にいるように見える者たちは、最後の審判の日には最後の者となるかもしれず、最後に見えている者たちは、最初の者となるかもしれない。私たちはすべての人を招くであろう。その招きによって、何人かの人々には善が施されると堅く信じているからである。私たちは、神がお命じになるなら、干からびた骨にも預言するであろう。私たちはすべての人々にいのちを差し出すであろう。たとえ多くの人々が差し出されたいのちを拒否するにしても、そうするであろう。そのようにするとき、私たちの信ずるところ、私たちは自分の《主人》とその使徒たちの足跡を歩んでいるのである。

 (c) 別のこととして、《選び》はその実によってのみ知られる。《神に選ばれた人々》を《選ばれていない》人々から見分けるには、彼らの信仰と生き方によるしかない。私たちは、神の永遠のご計画の秘密によじのぼって踏み入ることはできない。いのちの書を読むことはできない。ある人の生活の中に見られ、まぎれもなく示されている御霊の種々の実こそ、私たちがその人は《神に選ばれた人々》のひとりであるとと確かめることのできる唯一の根拠である。《神に選ばれた人々》の種々の目印が見られるところに、そこにこそ、私たちは「これは神に選ばれた人々のひとりである」、と云う裏づけが得られるのである。----いかにすれば私は、水平線の彼方にある船が水先案内人や操舵手を乗せているかどうかを知ることができるだろうか? いかに高性能の望遠鏡を使っても、見分けられるのは、その船の帆柱と帆程度にすぎない。だが私は、その船が着々と一方向に動いていくことだけは見える。私にとってはそれで十分である。それによって私は、その船には一定の指図を下している乗組員がひとり乗船していることが、目には見えなくとも、わかるのである。それと全く同じことが神の《選び》についても云える。その永遠の聖定を私たちが見てとることは到底できない。しかし、その聖定の結果が隠れたままになることはありえない。聖パウロは、テサロニケ人たちの信仰と希望と愛を思い起こしたときにこそ、こう叫んだのであった。「あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています」(Iテサ1:4)。私たちが前にしている主題について考察する際には、常に変わらずこの原則を堅く守ることにしよう。罪の中に生きているようなだれかを《選ばれた人》であると語るのは、冒涜的な愚行にほかならない。「聖め」によらない《選び》など、聖書には一言も書かれていない。----私たちが「聖く」なることを抜きにした、永遠の選びなど、----「神の御子のかたちと同じ姿になる」ことを抜きにした予定など、----全く書かれていない。こうしたことが欠けているとき、《選び》について語るのは単なる時間の浪費にすぎない(Iペテ1:2; エペ1:4; ロマ8:29)。

 (d) 最後に、しかしこれも重要なこととして、《選び》は決して人々があらゆる恵みの手段を勤勉に用いることを妨げるためのものではない。それとは逆に、そうした手段をないがしろにすることは最も怪しげな徴候であり、その人の魂の状態について非常に疑わしく感じさせるものである。聖霊は、ご自分がお引き寄せになる人々を常に、書かれた神のことばと祈りへと引き寄せなさる。心の中に真の神の恵みがあるとき、そこには常に種々の恵みの手段への愛があるであろう。聖書は何と云っているだろうか? 聖パウロが予知や予定について書き送った当の相手たる、ローマ在住のキリスト者たちは、彼からこう云われているのと同じ人々だったのである。「絶えず祈りに励みなさい」(ロマ12:12)。「世界の基の置かれる前から」選ばれていた、当のエペソ人たちは、こう云われているのと同じ人々だったのである。「神のすべての武具を身に着けなさい。----御霊の与える剣を取りなさい。----すべての祈りを用いて祈りなさい」*(エペ6:18)。パウロがその《選ばれたこと》を知っていると云った当のテサロニケ人たちは、同じ手紙の中で彼からこう叱咤されている人々だったのである。「絶えず祈りなさい」(Iテサ5:17)。ペテロから、「父なる神の予知に従い、選ばれた人々」と呼ばれている人々は、彼からこう云われているのと同じ人々だったのである。「純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。----祈りのために身を慎みなさい」*(Iペテ2:2; 4:7)。こうした種々の聖句の証拠は、争う余地もない圧倒的なものであると云わざるをえない。私はこれらについて多言を弄して時間を無駄にはすまい。いかなる恵みの手段を用いることをも免ずるような、救いへの《選び》は、無知な人々や、狂信者や、無律法主義者たちを喜ばせはするかもしれない。しかし恐れながら云わせてもらえば、そのような《選び》について私は、神のことばの中で一言も言及されているのを見いだすことはできない。

 私の知る限り、私の主題のこの部分のまとめとしては、英国国教会の第十七箇条の後半部を引用するに越したことはないであろう。私はそれをすべての読者の特別な注意にゆだねるものである。特に最後の段落に注意されたい。----「《予定》とキリストにある私たちの《選び》について敬虔に考察することが、敬虔な人々にとっても、また、自分の内側でキリストの御霊が働いて、肉の行ないや自分たちの地上的なからだを殺しつつあり、自分の思いを高く天的な事がらに引き上げつつあるのを感ずる者らにとっても、甘やかで、喜ばしく、言葉に尽くすことのできない慰めに満ちているのは、それが、キリストを通して享受されるべき永遠の救いに対する彼らの信仰を大いに確立し、固めさせるからであるとともに、それが神に対する彼らの愛を熱烈に燃え立たせるからである。それで、キリストの御霊の欠けた、詮索好きで肉的な人々にとって、自分たちの眼前に絶えず神の《予定》の宣告をおいておくのは、最も危険な罠となる。それによって悪魔は、彼らを絶望に突き落とすか、絶望に何ら劣らず危険な、この上もなく汚れた生き方という窮状に押しやるからである。

 「さらに、私たちが聖書の種々の約束を受け入れる際には、それらが聖書の中で一般的に示されているようなしかたで受け入れなくてはならない。また、私たちの行ないにおいては、神のことばで明確に私たちに宣言されているような神のみこころが従われるべきである」。

 これらは賢明な言葉である。この健全な云い回しを糾弾することはできない。この言明に含まれている原則に、私たちは永遠に堅くすがりつこう。もしも《選び》の教理が常にこのようなしかたで扱われてきたとしたら、キリストの教会にとって何と良いことだったであろう。この大いなる教理の高さと深さに困惑を覚えるすべてのキリスト者が、聖書のこの言葉を覚えておくとしたら、彼らにとって何とよいことであろう。----「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである」(申29:29)。

 さて私はこの主題の全体の結論として、個人的な適用となるいくつかの平易な言葉を語りたい。

 (1) まず第一に、この論考を読むすべての人に切に願いたいのは、単にそれが高遠で、神秘的で、理解しがたいものだからといって、《選び》の教理を拒否しない、ということである。そうすることが恭謙なことだろうか? それが啓示にふさわしい敬意をもって神のことばを扱うことだろうか? 私たちを教えるために書かれたことの何かを、単に一部の誤った人々がそれを濫用し、悪い用途に変じてしまったからというだけで、拒否して、悪しざまにののしるのは正しいことだろうか? これらは深刻な問題である。真剣な考察に値するものである。もし人々が、単に自分の好みに合わないからというだけの理由で聖書の1つの真理を拒否し出すとしたら、彼らは足の滑りやすい所に立っているのである。彼らがいかに深く転落していくかは測り知れない。

 結局において、《選び》の教理を拒否することによって人々は何を得るだろうか? 《選び》を否定する人々の神学体系は、それを信ずる人々の神学体系にまさっているだろうか? 確かにそのようなことはない。----《選び》を信ずる人々は、それを拒否する人々よりも、天国への道を狭め、救いをより困難なものとしているだろうか? 確かにそうではない。----《選び》の反対者たちは、いかなる人も悔い改めて信じない限り救われないと主張している。よろしい。《選び》の主唱者たちもまさに同じことを云っているのである!----《選び》の反対者たちは、声を大にして、聖い人のほか天国へ行くことはないと宣言している。よろしい。《選び》の主唱者たちもまさに同じ教えをまさに同じくらい声を大にして宣言しているのである!----それでは、私はもう一度問う。《選び》が正しいということを拒否して何が得られるのだろうか? 私は答える。全くの皆無である、と。だがしかし、何1つ得られないながらも、多大な慰めが失われてしまうように思える。神は私が悔い改めて信ずるまで、私のことを決して考えてくださらなかったと告げられるのは、冷たい慰めである。しかし、神は世の基が置かれる前から私に対するあわれみのご計画を持っておられたこと、私の心における恵みのみわざのすべてが永遠の契約と、永遠の《選び》の結果であることを知り、感ずるのは、甘やかで言葉に尽くすことのできない慰めに満ちた考えである。全能の力と完璧な知恵をお持ちの建築家によって、世の基が置かれる前に計画されたみわざは、決して頓挫したり、転覆させられたりすることがありえないみわざである。

 (2) 次のこととして、この論考を読むすべての方に切に願いたいのは、この《選び》の教理には正しい方向から近づくようにし、真理の順序を逆さまにすることで思いを混乱させない、ということである。まず、キリスト教の初歩から始めるがいい。----神に対する単純な悔い改めと、主イエス・キリストに対する信仰から始めて、その後で、《選び》へと歩を運ぶがいい。自分自身の《選び》についてあれこれ調べ上げることから始めることで時間を浪費してはならない。むしろ、《選ばれた》人に伴う種々の平易な目印について心を傾注し、こうした目印が自分のものとなるまで決して心安んじないようにするがいい。知られているすべての罪から手を切り、赦しと平安とあわれみと恵みを求めて、キリストのもとへ逃れて行くがいい。祈りによって、ひたすら神に願い、御霊の真の証しを内側に感ずるまで休みなく神に訴え続けるがいい。このようなしかたで始めた人は、いつの日か----たとえ現世においてでなくとも、永遠において----神の選びの恵みについて神に感謝するであろう。この古い言葉は奇抜なものだが、非常に真実なものである。「人は最初に《悔い改め》や《信仰》という小さな中等学校に行かなくては、《選び》や《予定》という大きな大学に入学することはできない」。

 平易な真実を云うと、神の救いのご計画は、天国から地上に伸ばされている梯子のようなもので、それが聖なる神と罪深い被造物である人間とを1つに結び合わせようとしているのである。神はその梯子の最上段におり、人間は最下段にいる。----梯子の最上段は、はるか上方にあって見通しがきかず、私たちにはそれを見抜くことができない。そうした、その梯子の最上段にあるのが、神の永遠のご計画である。----神の永遠の契約、神の《選び》、神の、キリストによって救われるべき人々の予定である。その梯子の最上段から下ってくるのが、罪人たちに対するあわれみの十分にして豊かな備え、福音において私たちに啓示されたあわれみの数々である。----その梯子の最下段は、地上にいる罪深い人間のそば近くにあり、悔い改めと信仰という単純な段々からなっている。それらによって罪人は上に向かって登り出さなくてはならない。へりくだってそれらを用いることによって、その人は毎年より高くいや高く上って行き、後に来たるべき良きものの姿をより明確に眺めるようになっていく。----自分の手に最も近いところにある段々を用いるという義務にまさって平易なものがあるだろうか? 私は最上段にある段々について明確に理解するまでは最下段にある段々に足をかけようとは思わない、などと云うことほど愚劣なことがあるだろうか? そのようにゆがんだ、幼稚っぽい理屈は振り捨てるがいい! 常識によってだけ考えても、もし常識を用いようとしさえするなら、自分のしなくてはならない義務の道は明らかであろう。その義務とは、単純な真理を正直に用い、その上で、それよりも高い真理はいつの日か自分の目に明らかに示されるであろうことを信ずる、ということである。いかにして、また、いかなるしかたにおいて、永遠の神の愛が私たちのもとに下ってくるかについては、私たちのようなあわれな虫けらにとって理解困難なものが多々伴っているであろう。しかし、私たちあわれな罪人たちがいかにして神に近づくべきかについては、真昼の太陽のように明確で平易である。イエス・キリストは私たちの前に立って、「わたしのところに来なさい!」、と云っておられる。私たちは疑ったり、屁理屈をこねたり、議論したりすることで時間を浪費しないようにしよう。ありのままの自分で、ただちにキリストのところへ行こう。キリストをつかんで、信じよう!

 (3) 最後のこととして、この論考を読んでいる真のキリスト者全員に切に願いたいのは、聖ペテロの勧告を忘れないようにする、ということである。----「ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい」(IIペテ1:10)。

 神の御目において、あなたが《選ばれたこと》を、永遠の昔からそうであった以上に確かにすることは、あなたにはできない。神にとっては、何1つ不確かなことはない。神がご自分の民のためになさることは何1つ、偶然まかせのもの、変わりがちなものはない。しかし、あなた自身と教会にとって、あなたが《選ばれたこと》をより確かなもの、より如実なものとすることはできる。そしてこれこそ、私があなたの注意を強く引きたい点である。努力して、聖ヨハネが云うように、自分が「神を知っていることがわか」るような、基盤のしっかりした確証を手に入れるようにするがいい(Iヨハ2:3)。努力して、あらゆる人があなたを神の子どもたちのひとりであると見てとり、あなたが天国に行くことは疑いもないと感ずるような生き方、歩み方をこの世の中でするがいい。

 この世において私たちは決して自分の霊的状態について確信を持つことはできず、常に疑いの中にいなくてはならないのだ、などと云う人々に、一瞬たりとも耳を貸してはならない。ローマカトリック教徒はそう云っている。無知なこの世はそう云っている。悪魔はそう云っている。しかし、聖書はそうした類のことを何1つ云ってはいない。私たちがキリストに受け入れられていることを強く確信するということはありえるし、キリスト者は決してそれを手に入れるまで心安んずるべきではない。この強い確証がなくとも人は救われることができる。それを私は否定しない。しかし、それを持たない人が大きな特権と多くの慰めを失っていることはきわめて確かであると思う。

 では、努力して、ますます熱心に、「あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい」。----「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨て」るがいい(ヘブ12:1)。必要とあらば、右の手を切り落とし、右の目をえぐり出す覚悟をしているがいい。墓のこちら側においては、自分が神の子どもたちのひとりであると知ることほど高い特権はない。そのことを心に堅く銘記しておくがいい。

 この世で地位と栄職を得ようとしてあくせくする者は確実に失望することになる。彼らがすべてを成し遂げ、最大限の成功をおさめたときも、彼らの栄誉は完全に不満足なものであり、彼らの報いはつかの間のものである。国会議員の座席や閣僚の椅子はみな、いつの日か明け渡さざるをえない。よくてせいぜい数年の間保持していられるだけである。しかし、《神に選ばれた人々》のひとりである人には、決して奪い取られることのない宝と、決して追い払われることのない地位があるのである。幸いなことよ、自分の心をこの《選び》に据えている人は。神の《選び》のような選出は他にない!

選び[了]

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*1 賢明なるフッカーの筆になる、次のような厳粛な文章は、現代すべての人々の注意を引いてしかるべきである。これは、彼の『教会政治理法論』の第一巻冒頭の箇所である。
 「群衆のもとに出ていって、今の政府はなっていないと説得しようと努める者は、決して、一心に耳を傾ける好意的な聴衆に事欠くことはない。なぜなら民衆は、現政体の数々の欠陥を知っているからである。そうした欠陥は、いかなる種類の支配にも統治にも伴わざるをえない。しかし、その陰に隠れた障害や困難の山について考えるような良識を持ち合わせているような者は、まずいない。そうした障害や困難は、公共の事がらを扱おうとすれば、数え切れないほど伴わざるをえないものである。また、国家の無秩序を公然と非難する者らこそ、あらゆる公益の主たる友とも、非凡な精神的自由の持ち主ともみなされているがゆえに、この立派で申し分のない隠れ蓑の下で彼らがひとたび口にすることは何であれ、永久に世間で云い広められるのである。彼らの弁舌がいかに穴だらけのものであっても、それを初めから受け入れ信じようとする人々の目には全く入らない。それとは逆に、もし私たちが既成の体制を支持しようとするなら、人々の胸の奥に深く根ざした、幾多の偏見と闘わなくてはならず、時勢に迎合して現状を肯定する、特権階級か野心家だと目されるばかりか、考えただけでも胸が悪くなるような扱いを至る所で甘受する覚悟をしなくてはならない」。[本文に戻る]

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