Christ's Power to Save      目次 | BACK | NEXT

17. 罪人を救うキリストの力


「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」----ヘブ7:25

 キリスト教信仰には、私たちがどれほど知っても決して十分ではない主題が1つある。その主題とは、主イエス・キリストである。これこそ、この論考の冒頭に冠した聖句が述べている偉大な主題にほかならない。----イエス・キリスト、そしてイエス・キリストのとりなしである。

 私は、『終わりのない物語』という題名の本のことを聞いたことがある。だが、いかなる物語にもましてその題名にふさわしいのは、永遠の《福音》である。まさにこれこそ、真に終わりのない物語である。キリストのうちには、無限の「満ち満ちた神の本質」がある。主のうちには、「測りがたい富」がある。主のうちには、「人知をはるかに越えた愛」がある。主は、「ことばに表わせないほどの賜物」である(コロ1:19; エペ3:8; 3:19; IIコリ9:15)。主のうちにたくわえられているすべての富には終わりがない。----主のご人格、主のみわざ、主の職務、主のみことば、主の行ない、主のいのち、主の死、主の復活のうちにある富は尽きることがない。きょう私は、この大いなる主題のうちの、1つの項目だけを取り上げよう。私は、私たちの主イエス・キリストのとりなしと祭司職について考察しようと思う。

 この論考の冒頭に冠した聖句を解き明かすにあたって、私は3つの点を吟味したい。

 I. ここには、あらゆる真のキリスト者の描写がある。彼らは、「キリストによって神に近づく」人々である。
 II. ここには、イエス・キリストが真のキリスト者たちのために常に行なっておられるみわざがある。主は、「いつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられる」。
 III. ここには、聖パウロがキリストのとりなしのみわざの上に打ち立てている、慰めに満ちた結論がある。彼は云う。主は、「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」。

 I. 第一に、ここには、あらゆる真のキリスト者の描写がある。これは最も単純で、最も美しく、最も真実なものである。聖霊によって与えられるキリスト者の描写と、人間によって与えられるキリスト者の描写との間には、何と大きな相違があることか! 人間の場合、だれそれは「国教徒である」とか、だれそれは「あの教派に属しているとか、この教派に属している」とか云うだけで事足りてしまう。聖霊が描き出すキリスト者の姿はそうではない。聖霊は、キリスト者のことを、「キリストによって神に近づく」人と描写するのである。

 真のキリスト者は神に近づく。彼らは、神に背を向ける多くの人々とは違う。----放蕩息子のように「遠い国に旅立」つ者らや、----カインのように、「主の前から去って」いく者らや、----「神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中に」ある者らとは違う(コロ1:21)。彼らは神と和解させられており、神の友である。彼らは、神に属するあらゆる事がらを毛嫌いする多くの人々とは違う。----神のことば、神の日、神の典礼、神の民、神の家を嫌っている者らとは違う。彼らは、自分の《主人》に属するすべてのものを愛している。神の御足の足跡そのものが、彼らにとっては慕わしい。「あなたの名は注がれる香油のよう」(雅1:3)。----彼らは、教会に来るだけ、会堂に来るだけ、聖卓の前に集うだけで満足する多くの人々とは違う。彼らはそれよりさらに先へ行く。彼らは「神に近づき」、神との交わりのうちに生きる。

 しかし、それ以上に、真のキリスト者は、ある特定のしかたで神に近づいている。彼らは、キリストによって神に近づく。----彼らの申し立てる訴えはただ1つ、彼らが口にする名前はただ1つ、彼らが頼りにする義はただ1つ、彼らがよりかかる根拠はただ1つ、----彼らの魂のためにこの世で生を送ってくださったイエス、死んでくださったイエス、よみがえってくださったイエスである。

     「われ 罪人のかしらなるとも
       イエス わがために死にたまいぬ」

これこそ、真のキリスト者が神に近づく道にほかならない。

 私が語っている道は、昔からの道である。それは、ほとんど六千年前からある。いまだかつて救われたすべての人は、この道によって神に近づいてきた。パラダイスに入った最初の聖徒アベルから、けさ死んだ最後の幼児に至るまで、彼らはみなイエス・キリストによってのみ神に近づいた。「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハ14:6)。

 それは、良い道である。世故にたけた者にとって、それを嘲り、鼻であしらうことはたやすい。しかし、人間のあらゆる才知や知恵をもってしても、これほど完全で、これほど私たちの必要に良く答え、いかなる取り調べをも----それが公正で筋の通ったものでありさえすれば----これほど無傷で通れる道をこしらえることは、決してできなかった。これは、ユダヤ人にとってはつまずき、ギリシャ人にとっては愚かであった。しかし、自分の心を知り、神が何を要求しておられるかを理解したすべての者は、イエス・キリストによって作られた道が良い道であること、人知の及ぶいかに精密な吟味を受けても、完全に知恵深い道であることを見いだしてきた。ここに彼らは、正義とあわれみとが互いに出会い、義と平和とが互いに口づけしているのを見いだす。----聖なる神である神が、それでも愛に満ちた、親切で、あわれみ深い神であられること、----あわれな、弱い罪人であると自覚している人間が、大胆に確信をもって神に近づき、恐れなく御顔を見上げて、キリストにあって神を自分の《父》と、また自分の《友》とみなせることを見いだす。

 これも重要なこととして、これは、実証済みの道である。何千万何百万もの人々が、この道を歩み、その中のひとりとして、天国へ行き着かなかった者はいなかった。使徒たち、預言者たち、族長たち、殉教者たち、初期の教父たち、改革者たち、ピューリタンたち、あらゆる時代と民族と国語の神の民たち----シメオンやビカーステスやハヴロックのごとき、現代における聖い人々----が、みなこの道を歩んでいった。彼らには戦うべき戦闘があり、争うべき敵たちがいた。彼らは十字架を負わなくてはならず、その通り道に獅子を見いだした。死の影の谷を歩んで行き、アポリュオンと闘わなくてはならなかった。最後には冷たく暗い河を渡らなくてはならなかった。だが、彼らは無事に対岸まで歩み通し、喜びとともに天の都に入った。そして今、彼らはみな私たちが彼らの足跡をたどり、彼らの後についてきて、彼らと栄光をともにするのを待っている。

 これこそ私が、この論考を読むあらゆる方に歩んでほしいと願う道である。私はあなたに、「キリストによって神に近づく」人になってほしい。福音の真の教役者がいだいている目的について、決して思い違いをしてはならない。私たちが取り分けられているのは、ただ単に、特定の典礼を定期的に執り行なうだけのためではない。----祈りを唱え、バプテスマを受ける者にバプテスマを授け、埋葬される者を埋葬し、結婚する者たちを結婚させるだけのためではない。私たちが取り分けられているのは、唯一真の生ける道を宣言し、それを歩むようにあなたを招くという大目的のためである。私たちは、神の祝福によって、あなたを説き伏せて、この道を----この実証済みの道、良い道、昔ながらの道を----歩んでほしいと願っている。そしてあなたに、その道だけでしか見いだすことのできない、「人のすべての考えにまさる平安」を知ってほしいと願っているのである。

 II. さて、ここで考察したいと思う第二の点に進みたい。この論考の冒頭に冠した聖句は、イエス・キリストが真のキリスト者たちのために常に行なっておられるみわざについて語っている。この点には格別な注意を払ってほしい。これは、私たちの平安にとって、またキリスト教信仰における私たちの魂の確立にとって、きわめて重要なものなのである。

 主イエス・キリストが完全に成し遂げて、完了なさった偉大なみわざが1つある。そのみわざとは、贖罪と犠牲と身代わりのみわざである。これは主が、「私たちを神のみもとに導くために、罪のために死なれ、正しい方が悪い人々の身代わりとなった」*ときに行なわれたみわざである(Iペテ3:18)。主は、堕落によって破滅した私たちをごらんになった。あわれな、失われた、破滅した罪人たちの世界をごらんになった。ごらんになって、私たちをあわれまれた。そして、《永遠の三位一体》のとこしえのはかりごとに従って、主は世に下り、私たちのかわりに苦しみを受け、私たちを救ってくださった。主は遠く離れた天国から座視して、私たちをあわれんでいるだけではなかった。岸辺に立ったまま難破船を眺めて、あわれな罪人たちがわらわらと岸に泳ぎ着こうとむなしくあがくのを傍観しているだけではなかった。主は、自ら海に飛び込まれた。沖合いの難破船までやって来られ、欠陥と弱さのうちにある私たちと同じ立場になられた。私たちの魂を救うために人間となられた。人として、主は私たちのもろもろの罪を負い、私たちのもろもろのそむきを担われた。人として、主は人に忍びうるあらゆることを忍ばれ、罪だけを除き、人の体験するあらゆることを体験なさった。人として主は生きてくださった。人として十字架に赴かれた。人として死なれた。人として主は血を流された。私たち、あわれな、破滅した罪人を救い、地と天とが行き来できるようにするため血を流された! 人として主は私たちのために呪いとなられた。その深淵に橋渡しをし、あなたや私が、大胆に、恐れなく神に近づくことのできる道を開いてくださった。こうしたキリストのすべてのみわざに、無限の功績があることを忘れてはならない。なぜなら、それを行なったお方が、単なる人ではなく神であったからである。それを決して忘れてはならない! 私たちの贖いを成し遂げられたお方は、完全に人間であられた。だが、この方は決して一瞬たりとも完全に神であることをおやめにならなかった。

 しかし、主イエス・キリストがまだ行なっておられる偉大なみわざが、もう1つある。そのみわざとは、とりなしのみわざである。----贖罪という第一のみわざは、主が一度限り成し遂げられた。何事もそれに追加することはできない。何事もそれから取り去ることはできない。それは、キリストが十字架上でいけにえをささげたときに完成された、完全なみわざである。《神の小羊》が、カルバリでご自分の血を流されたときに一度ささげられたいけにえの他、いかなるいけにえをささげることも必要ない。しかし、この第二のみわざを主は、神の右の座において常に行なっておられる。そこで主は、ご自分の民のためにとりなしをしておられる。----第一のみわざを主は地上で、十字架について死なれたときになされた。第二のみわざを主は天国で、父なる神の右の座に着いて行なっておられる。----第一のみわざを主は全人類のためになされ、その恩恵を全世界に差し出しておられる。第二のみわざを主は、完全に、選ばれたご自分の者たちだけのため、ご自分の民、信仰を有するご自分のしもべたち、ご自分の子どもたちだけのために行なっておられ、果たしておられる。

 いかにして主イエス・キリストはこのみわざを行なっておられるのだろうか? いかにすれば私たちは、キリストのとりなしにいかなる意味があるか理解し、悟りえるだろうか? 私たちは、目に見えない事がらについて性急に詮索してはならない。私たちは、「御使いらも恐れて足を踏まない地に突進し」てはならない。だが私たちは、キリストがいつも生きていて、信仰を有するご自分の民のために行なっておられるとりなしが、いかなる性質のものであるかについて、ほのかに、かすかな観念は得ることができる。

 私たちの主イエス・キリストは、古のユダヤ教の大祭司がイスラエル人のためにしていたわざを、ご自分の民のために行なっておられるのである。主は、ご自分の民と神との間でなされるあらゆる事がらの管理者、代理者、仲保者として行動しておられる。----主は常に、彼らのために、ご自分の完全ないけにえと、ご自分の何1つ欠けることなき功績とを、父なる神の前に常に差し出しておられる。----主は、ご自分のあわれで弱いしもべたち、日ごとに犯す罪のために日ごとのあわれみを、日ごとの必要のために日ごとの恵みを必要とする者たちのために、日々新たなあわれみと、新たな恵みとの備えを常に獲得しておられる。----主は彼らのために常に祈っておられる。地上でシモン・ペテロのため祈られたように、一種の神秘的な意味において、私の信ずるところ主は今ご自分の民のために祈っておられるのである。----主は彼らの名前を父なる神の前に差し出しておられる。彼らの名前を、その愛の在処たる心臓の上にかかげ、その力の在処たる肩の上に担っておられる。----大祭司が、その装束を着込んだとき、イスラエルの全部族の名を大小もらさず担っていたのと同じである。主は彼らの祈りを神の前に差し出してくださる。彼らの祈りは、キリストの何物にも打ち勝つとりなしと混ぜ合わされて、神のもとに立ち昇り、神の前で受け入れられるものとなっている。一言で云うと主は、この地上にいるご自分の肢体たるすべての者らの友となり、代理者となり、祭司となり、何物にも打ち勝つ代行者となるために、生きておられるのである。そして、彼らの魂が求めるすべてのことを、主は天の境内で常に行ない続けておられるのである。

 この論考を読んでいる方の中に、を必要としている人がいるだろうか? このような世の中にあっては、いかに多くの心がそのような訴えに反応することであろう! いかに多くの者が、「私はひとりぼっちだ」、と感じていることか。いかに多くの者が、この世の荒野を旅する中で、自分の偶像が次から次へと砕かれるのを目にし、自分の杖が次から次へと折れるのを目にし、自分の泉が次から次へと干上がるのを目にしてきたことか。もしここに、友を求めている人がいるのなら、その人は神の右の座におられる、決して裏切らない友、主イエス・キリストを見つめるがいい。その人は、自分の痛む頭と、倦み疲れた心とを、その決して裏切らない友、主なるイエス・キリストの胸で安らわせるがいい。神の右の座には、比類なく優しいお方が生きておられる。決して裏切らず、決して失望させず、決して見捨てず、決して心変わりせず、決して友情を絶とうとしないお方がおられる。そのお方、主イエスを私は、友を必要としているすべての人に勧めるものである。いかなる人も、このように堕落した、年ごとにその不毛さをいやまして見せつけかねない世にあって、----いかなる人も、主イエス・キリストが神の右の座で生きてとりなしをしておられる限り、友を持たずにいる必要はない。

 この論考を読む方の中に、祭司を必要としている人がいるだろうか? 祭司のいない真のキリスト教信仰などありえず、告解場のない救いに至るキリスト教などありえない。しかし、だれがその真の祭司なのだろうか? どこにその真の告解場があるのだろうか? 真の祭司はひとりしかいない。----そしてそれは主なるキリスト・イエスである。真の告解場は1つしかない。----そしてそれは、主イエスがご自分のところに来る者たちを受け入れ、その心の重荷を御前で下ろしてくださろうと待っておられる恵みの御座である。私たちは、キリストにまさる祭司を見いだすことはできない。私たちには、他のいかなる祭司も必要ない。なぜ私たちは地上の他の祭司に向かう必要があるだろうか? イエスが父なる神によって証印を押され、油を注がれ、任命され、叙任され、就任させられており、あわれな人の子らの声にいつでも耳を傾けようとしておられ、彼らをいつでも思いやろうとしておられるというのに。その祭司職は主の正当な特権である。主はその職務をいかなる者にも代行させてはおられない。災いなるかな、地上でキリストからその特権を盗もうなどくわだてる者は! 災いなるかな、キリストがご自分の手で握っておられ、決してアダムの子として生まれたいかなる者にも委譲していない職務を、この地球上で身につけようとする者は!

 私たちは、決して福音のこの偉大な真理----私たちの主なる救い主イエス・キリストのとりなしと祭司職----を見失わないようにしよう。私の信ずるところ、この真理を堅く握っていることこそ、ローマ教会の種々の過誤に対する最大の防御策の1つである。私の信ずるところ、この偉大な真理を見失ってしまったことこそ、これほど多くの者たちが、いずれかの方面で信仰から離れて、プロテスタントの先祖たちの信条を捨てて、ローマの暗黒へと舞い戻っていった主要な理由の1つである。この偉大な真理----すなわち、私たちには《祭司》があり、祭壇があり、《聴罪司祭》があるのだという真理----私たちには裏切ることのない、決して死ぬことのない、常に生きている、その職務をだれにも代行させておられない、とりなし手があるのだという真理----の上にいったん堅く確立したならば、私たちは、自分が他のどこにもわき見をする必要などないことを見てとるはずである。私たちは、湧き水の泉である主イエス・キリストが、常にあらゆる人に無代価で水を湧き上がらせているというのに、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘る必要などない。天国に私たちのための天来の《祭司》がおられる以上、私たちはいかなる人間の祭司をも地上で求める必要はない。

 私たちは主イエス・キリストを単に死んだお方としてしかみなさないようなことがないように用心しよう。ここにおいてこそ、私の信ずるところ、多くの人々は大きく間違っているのである。彼らは主の贖いの死について大いに考えており、彼らがそうするのは正しいことである。しかし、私たちはそこでとどまってしまうべきではない。私たちは、主が死んで墓に葬られたことを覚えておくだけでなく、主がよみがえり、高い所に上って、多くの捕虜を引き連れて行ったことも覚えておくべきである。主がいま神の右の座に着き、かつて主がご自分の血を流したときに行なったみわざと同じくらい私たちの魂にとって現実の、真の、重要なみわざを行なっておられることを覚えておくべきである。キリストは生きておられ、死んではいない。主は私たち自身のだれとも同じくらい真に生きておられる。キリストは私たちをごらんになっており、私たちの声を聞き、私たちを知り、信仰を有するご自分の民のために天国で《祭司》として行動しておられる。主が生きておられるという考えは、私たちの魂の中で、主が死なれたという考えと同じくらい大きく、また重要な位置を占めるべきである。

 III. さて私が第三のこととして考察したいのは、聖パウロが主イエス・キリストの永遠のとりなしの上に打ち立てている、慰めに満ちた結論についてである。私たちには、このような世にあって、多くの慰めと慰安が必要である。人間にとって十字架を負って天国に達するのは決して並大抵のことではない。対決すべき敵、打ち勝たなくてはならない敵はいくらでもいる。私たちはしばしば孤立しなくてはならない。最良の時であっても、私たちとともに立つ人々は一握りしかおらず、私たちに逆らう人々は数多い。私たちには、自分を支え、元気づけ、エジプトからカナンへと旅する道中で弱り果ててしまわないようにしてくれる強壮剤と、「力強い励まし」が必要である。使徒は、彼が用いている言葉を見ると、こうしたことすべてを深く意識していたらしく思われる。彼は云う。キリストは、「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります」。----完璧に救い、徹底的に救い、永遠に救うことがおできになる。----「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」。

 私は、私たちが前にしているこの栄光ある云い回しについて多くを語ることができるであろう。しかし、それは控えておこう。私はただ、キリストの「完全に救うことがおできにな」る御力について聞くとき、私たちの脳裏にかき立てられる考えのいくつかだけを指摘しようと思う。紙数の関係上、それらについて長々とかかずらうことはできない。むしろ私はそれらを、この論考を読むあらゆる方々が、個人的に思い巡らすためのよすがとして、いくつかの示唆を提示しよう。

 (1) 1つのこととして考えたいのは、キリストは、いかなる信仰者の過去のもろもろの罪にもかかわらず、完全に救うことがおできになる、ということである。そうした罪がよみがえって、神の子どもを断罪するために立ち上がることは決してない。というのも、聖書は何と云っているだろうか? 「キリストは、……手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです」(ヘブ9:24)。キリストは、法律用語を用いれば、常に彼を信ずる者たちのために、天の法廷に「出廷して」おられる。私たちには、すべての聖徒たちのために生きて神の御前に「現われてくださる」お方がいないような年は、月は、日は、時間は、分は、決してない。キリストは常に父なる神の前に、彼を信ずる人々のために現われていてくださる。キリストの血と、そのいけにえは、常に神の前にある。そのみわざ、その死、そのとりなしは、常に父なる神の耳に響いている。

 ここで思い出すのは、かつて読んだ古代史の物語の1つである。それが、いま私が扱っている真理を例証する助けとなるかもしれない。アテネで、かのマラトンの大戦闘が行なわれたすぐ後に、ひとりの男が、死に値する罪に問われ、裁判にかけられた。その有名な戦闘において、アテネ人たちは勇敢に戦ってペルシャの大軍に立ち向かい、彼らの小都市国家の自由を守り抜いた。この被告人は、その戦場で傑出した働きをして、深手を負ったひとりの弟であった。この男は裁判に引き出された。彼を告発する証拠は動かぬもので、反駁のしようがなかった。被告が有罪の判決を免れる見込みは全くないように思えた。そのとき突然、被告の弁護をしたいと願い出て、前に進み出た人物がいた。それはだれあろう、被告人の兄であった。被告席についている人物を有罪とすべきでない証拠として何を提出できるのか、その理由として何を示せるのかと問われて、彼はただ切断された自分の両腕を差し上げただけだった。----そこには付け根しかなかった。----両手が完全に切り落とされ、むごたらしい付け根が残っているだけだった。人々は、彼がマラトンの戦いで獅子奮迅の働きをし、国家への奉仕によって両手を失った男だということに気づいた。その傷跡によって彼は、今なおアテネ人の耳に鳴り響いている勝利をかちとる助けをしたのであった。その傷跡だけが、彼の提示したものであった。その傷跡こそ、弟が釈放されるべきであり、有罪を下すべきではない理由として彼の提出した唯一の訴えであった。そして、この物語の告げるところ、この傷跡のゆえをもって、----彼の兄が身に受けたすべてによって、----この被告人は無罪になった。すぐさまこの訴訟は棄却され、被告は自由の身になったのである。それと同じように、主イエス・キリストの傷跡は常に父なる神の前にある。その御手と御足の釘跡、----槍で刺されたその脇腹の跡、----その額につけられたいばらの傷跡、----主がほふられた《小羊》として苦しみを受けたすべての跡が、ある意味では、常に天の父なる神の前にあるのである。キリストが天におられる限り、信仰者が過去に犯したもろもろの罪は、審きにおいて決して立ち上がって彼を責めないであろう。キリストは生きておられ、そうした罪は信仰者を断罪することはないであろう。私たちには、常に生きておられ、常にとりなしをしておられる《祭司》がおられる。キリストは死んではおらず、生きておられるのである。

 (2) さらに考えたいのは、キリストは、信仰を有するご自分の民の現在のいかなる弱さにもかかわらず、完全に救うことがおできになる、ということである。その弱さがいかに大きなものであるかを示そうと思ったら時間がなくなるであろう。神の子どもたちの多くは、自分の心の苦々しさを知っており、大きな叫びと涙をもって自分の短所、自分の役立たずさ、自分の生み出す実りの少なさを嘆き悲しんでいる。しかし私たちは、聖ヨハネの言葉から励ましを受けよう。「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方」----御父と常にともにおられる方----「があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための……なだめの供え物なのです」(Iヨハ2:1)。そうした弱さによって、私たちはへりくだらされてしかるべきである。そうした欠陥によって、私たちの神の前を謙遜に歩んでしかるべきである。しかし、主イエス・キリストが生きておられる限り、そうした欠陥によって絶望しきってしまう必要はない。私たちには、常に生きておられ、常にとりなしをしておられる《祭司》がおられる。キリストは死んではおらず、生きておられるのである。

 (3) さらに考えたいのは、キリストは、信仰者たちがくぐり抜けなくてはならないいかなる試練にもかかわらず、完全に救うことがおできになる、ということである。使徒パウロがテモテに向かって何と云っているか聞いてみるがいい。「私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです」(IIテモ1:12)。イエス・キリストが生きておられる限り、主イエス・キリストを信ずる信仰者はこう確信していてよい。すなわち、いかなる患難も自分と自分のよみがえられた《かしら》との間の結びつきを割くことは許されない、と。その人は大きな苦しみを受け、悲痛な試練に遭うかもしれない。しかし、キリストが生きておられる限り、決して見捨てられることはない。貧困も、病も、死別も、離別も、決してイエスと、信仰を有するその民とを分かつことはない。私たちには、常に生きておられ、常にとりなしをしておられる《祭司》がおられる。キリストは死んではおらず、生きておられるのである。

 (4) さらに考えたいのは、キリストは、信仰者たちがくぐり抜けなくてはならないいかなる迫害にもかかわらず、完全に救うことがおできになる、ということである。コリントで大きな反抗に出会ったとき、聖パウロについて何と云われているか見てみるがいい。そこには夜、主が彼のそばに立って、こう云われたと記されている。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」(使18:9-10)。それ以前にも、主が回心前の聖パウロにダマスコへの途上で会われたとき、何と云われたか思い出してみるがいい。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」(使9:4)。信仰者にいかなる危害が加えられようとも、それは天におられる生きた《かしら》に対する危害なのである。現世にあるあわれな神の子どもの頭上にふりかかる迫害はみな、いつも生きていて、私たちのためにとりなしをしていてくださる、私たちの《偉大な長兄》の知るところ、感ずるところ、そして----全き畏敬の念とともにこう云い足させてほしいが----恨みとするところなのである。キリストは生きておられ、それゆえ信仰者たちは、たとえ迫害されても、滅ぼされることはない。「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(ロマ8:37)。私たちには、常に生きておられ、常にとりなしをしておられる《祭司》がおられる。キリストは死んではおらず、生きておられるのである。

 (5) さらに考えたいのは、キリストは、悪魔のいかなる誘惑にもかかわらず、完全に救うことがおできになる、ということである。聖ルカの福音書に含まれている、あの有名な箇所を思い出すがいい。そこで私たちの主は聖ペテロに向かってこう云っておられる。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」(ルカ22:31-32)。私たちは確かに、そのようなとりなしは今も行なわれ続けていると信じてよい。このことばが語られたのは、主が信仰を有するその民のために常に行なっておられることの象徴としてである。この世の君サタンは、常に「ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」(Iペテ5:8)。しかしキリストは生きておられ、神はほむべきかな、キリストが生きておられる限り、サタンはキリストを信ずる魂に打ち勝つことができない。私たちには、常に生きておられ、常にとりなしをしておられる《祭司》がおられる。キリストは死んではおらず、生きておられるのである。

 (6) さらに考えたいのは、キリストは、死のとげにもかかわらず、また死に伴う一切のことにもかかわらず、完全に救うことがおできになる、ということである。ダビデでさえこう云うことができた。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」(詩23:4)。だがダビデは、信仰を有するキリスト者にくらべれば、鏡にぼんやり映るものを見ていたにすぎない。やがて、友人たちも私たちに何の善も施すことができない時が来るであろう。忠実なしもべたちももはや私たちの必要に答えることができない時、痛みを和らげることができるはずのいかなる愛も、親切も、情愛も、もはや私たちにとって何の役にも立たない時がやって来るであろう。しかし、そのとき、キリストが生きておられるとの考えは、----キリストがとりなしをしておられ、キリストが私たちを思いやっておられ、キリストが私たちのために神の右の座に着いておられるとの考えは、----私たちを元気づけてしかるべきである。死んでくださる救い主、また生きていてくださる救い主によりかかっている人から、死のとげは取り去られるであろう。キリストは決して死ぬことがない。その生ける救い主に対する信仰を通して私たちは、完全な勝利を得るであろう。私たちには、常に生きておられ、常にとりなしをしておられる《祭司》がおられる。キリストは死んではおらず、生きておられるのである。

 (7) さらに考えたいのは、キリストは、最後の審判の日の恐怖にもかかわらず、完全に救うことがおできになる、ということである。聖パウロが、ローマ人への手紙8章で、いかにこのことを頼りとしているか注意してみるがいい。----その素晴らしい章の、あの素晴らしい末尾を、----神のことばの中でも特権ということでは比類のない章、「罪に定められることは決してない」から始まって、「引き離されることは決してない」、に至るあの章の末尾を----注意してみるがいい! 最後の審判に関連して、いかに彼がキリストのとりなしについて大いに語っていることか。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです」、と云った後で、彼はこう続けている。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ロマ8:33、34)。キリストがとりなしていてくださるとの考えは、キリストが死んでよみがえられたとの考えに何ら劣らず、使徒パウロがかの大いなる日を待ち望む際に感じていた確信を支える根拠の1つであった。彼の力強い慰めは、生きておられるキリストを想起することであった。その慰めは、聖パウロのためのものであるばかりでなく、私たちのためのものでもある。私たちには、常に生きておられ、常にとりなしをしておられる《祭司》がおられる。キリストは死んではおらず、生きておられるのである。

 (8) 最後に考えたいのは、キリストは、永遠にわたって、完全に救うことがおできになる、ということである。主は云っておられる。「わたしは……生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている」(黙1:17-18)。信仰者の根は決して枯れず、それゆえその枝々は決して枯れない。キリストは「死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しない」(ロマ6:9)。主は生きておられる。それは、主に信頼する者が永遠にわたって誉れと栄光を受けるためである。また主が生きておられるからこそ、信仰を有するその民は決して死ぬことがない。主ご自身のことばを用いるなら、「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」(ヨハ14:19)。私たちには、常に生きておられ、常にとりなしをしておられる《祭司》がおられる。キリストは死んではおらず、生きておられるのである。

 あなたは、神ご自身の民がすべてに耐え抜ける保証の秘訣を知りたいだろうか? なぜキリストの羊が決して滅びることなく、だれひとりキリストの御手から奪い去られることがないのか知りたいだろうか? それは奇蹟的なことである。信仰者の心を眺め、信仰者の祈りを聞き、信仰者の告白に注意するとき、----いかに正しい人間であれ、時として七度も転落するものかを見てとるとき、----こうしたすべてのことを見てとるとき、信仰者が持ちこたえることは、実に驚異である。四方八方から風や突風が轟々と吹きつのる嵐の夜に、ろうそくを手に持って外に出て、----町の通りを歩いても、そのろうそくが揺らぎもせずに、ただ静かに燃え続けるとしたら、----これは驚嘆すべきことである。小さな端艇に乗って嵐の海に漕ぎ出して、----押し寄せる大波という大波を乗り越え、その端艇の上にのしかかる波が全くなかったとしたら、----これはほぼ奇蹟と云える。三、四歳のがんぜない幼児が、人混みの雑踏の中をおぼつかなく歩いているとして、----その子が無事によちよち歩きを続けて、街路の端から端まで行き着いたとしたら、----これは驚愕すべき不思議である。しかし、結局のところ、それが、あらゆる真のキリスト者の生涯と、その遍歴と、その経験でなくて何であろうか? たとえ転落しても、その人は再び起き上がる。たとえ打ちひしがれても、滅びることはない。さながら、嵐の夜の空にかかった月が、飛びかける黒雲に次から次へと隠されても、やがてさやかな光を現わして、輝きながらゆっくり中天を進んでいくのと同じように、その人はある立場から、次の立場へと進んでいく。そのすべての秘訣は何だろうか? それは、神の右の座に着いておられる、力ある《友》の絶え間ないとりなしである。----決してまどろむことなく、決して眠ることない《友》、----朝も、昼も、夜も、信仰者のことを気遣っておられる《友》のとりなしである。キリストのとりなしこそ、キリスト者がすべてを耐え抜く秘訣なのである。

 私たちはロマ書5章の使徒の言葉を学ぶのがよい。彼は云う。「今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです」。この結びつきに注意するがいい。「すでにキリストの死によって義と認められた私たちは、救われる」。----何によって救われるのだろうか? 「彼のいのちによって」、彼が常に生きておられ、私たちのためにとりなしをしてくださることによってである(ロマ5:10)。賢くも美しいたとえを、寓話の巨匠ジョン・バニヤンが『天路歴程』の中で記している。彼は、基督者が解説者の家に導き入れられた次第と、いかにして解説者が多くの素晴らしい、教えに満ちた物を彼に見せたかを語っている。ある箇所で、彼は基督者を1つの部屋に連れて行った。そこには火が燃えており、一人の人が絶えず水をそれにかけていたが、その水で火は消えなかった。いかに多くの水をかけても、火は燃え続けるばかりだった! そのとき解説者が云った。「これがどういう意味かわかりますか?」 基督者がわからなかったので、彼は基督者を火のうしろ側にまわらせ、一人の人が絶えず器から油を火に注いでいるのを見せた。この油が火を絶やさずにしておき、いかに多くの水が注がれようとも、それをますます燃えさからせているのだった。そのとき解説者は云った。これはイエス・キリストのとりなしを象徴しているのです、と。その火は信仰者の心にある恵みの火であった。水を注いでいた者は魂の敵、悪魔であった。しかし、火のうしろに立って油を注いでいるお方は主イエス・キリストであって、絶えざるとりなしと、その御霊の満たしによって、ひそかに、人には見えないようにして、信仰者の心の中におけるご自分の働きを守っておられ、サタンにも、そのいかなる手先にも、ご自分に対する勝利をおさめさせることは許さないのだった。

 あなたは、信仰者の祈りにおける大胆さの秘訣を知りたいだろうか? これほど自分の罪を深く痛感している者が、信仰者がしばしばしているような確信をもって語れるということは1つの驚異である。自分が、「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者で」、破滅した、どうしようもない者だと認めているような者----しばしば自分がすべきでないことを行ない、すべきことを行なわずにおき、自分のうちに何の健やかな部分も見いだせない者----、いかにしてこのような人が、神の前に確信をもって出て行き、自分の心を自由に神の前に注ぎ出し、自分の日々必要とするものを神に願っても、恐れずにいられるのか、----これは実に驚くべきことである。この秘訣は何だろうか? それは私たちの主なる救い主イエス・キリストのとりなしである。それによって真のキリスト者は、自分の祈りが受け入れられるものとされていること、天の宮廷で受け入れられたことを知るのである。信仰者の祈りそのものは何だろうか? あわれな、弱いしろもの、地面から浮き上がるのもふさわしくないようなものである。私の知る限り、それは何にもまして、隅に何の署名もなされていない銀行券に似ている。署名のない銀行券に何の価値があるだろうか? 皆無である。ところが、ひとたびほんの数語が、ほんの数文字が、その銀行券の片隅に墨でしたためられるや、一瞬前までは紙くずでしかなかったものが、その署名を施されたことによって、何千ポンドもの価値を有するようになるのである。それと全く同じことが、キリストのとりなしについても云える。主は、信仰者の請願に署名し、裏書きして、それを提出してくださる。そして、主の何物にも打ち勝つとりなしを通して、それはいと高き所で聞き届けられ、そのキリスト者の魂に祝福を引き下ろすのである。

 あなたは、私たちがくぐり抜けなくてはならない労苦と、務めと、気を散らすものとの中で、日ごとに慰めを受ける秘訣を知りたいだろうか? 私たちがみな知るように、何らかの世俗の職業に携わる者はしばしば仕事が自分の魂にとって耐えがたい重荷になることに気づく。しばしば彼らは朝にこう感ずる。「いかにして私は、良心を汚すことなく、この日を乗り切れるだろうか? 大きな悩みもなく、誘惑もなく、神を忘れることもなく乗り切れるだろうか?」、と。いかにすれば人は、慰めをもってその日を乗り切り、世における自分の職務を務め、神が召してくださった立場における自分の義務を果たせるだろうか? その人はイエス・キリストのとりなしをつかむがいい。キリストは、単に自分のために死んでくださっただけでなく、自分のためによみがえり、今も生きておられるのだという偉大な考えを握りしめるがいい。

 あの不幸な共和国戦争で戦死した、ひとりのキリスト者兵士について、こういう話が記録されている。自分の天幕を出ていく前に彼が決まって口にする祈りはこのようなものであったという。----「主よ。この日、私は私の召されている義務を果たすために出て行きます。私は時としてあなたを忘れるかもしれません。私は、自分で願うほど自分の思いを常に堅くあなたに据えていることができません。しかし、主よ。もし私がこの日あなたを忘れたとしても、あなたは私を忘れないでください」。これこそ、この世の務めにせわしなく携わらなくてはならないあらゆる信仰者がつかんでいるべき種類の考えである。朝、寝床から起き上がるとき、毎朝自分の部屋を出て行くとき、毎朝自宅を離れるとき、その人は心に思うがいい。「私が自分の正当な職業に携わっている間、天国には、私のためにとりなしをしておられる方が生きておられる。たとえ私が務めに没頭し、私のあわれな弱い思いのすべての力をそれに注ぎ込まなくてはならないとしても、それでも決して私のことを忘れないお方が生きておられる」、と。その人は、あの古の兵士が云っていたように、云えるであろう。「主よ。----もし私がこの日あなたを忘れたとしても、あなたは私を忘れないでください」、と。

 最後に、あなたは、あらゆる信仰者が行きたいと願っている天国を待ち望んで慰めを得る秘訣を知りたいだろうか? 私の信ずるところ、神の子どもたちのうち、自分が旅をしつつある目当ての永遠の住まいについて静かに思い巡らすとき、時として不安を感じ、悩みを覚え、打ちひしがれないような者はほとんどいない。天の住まいの性質や、あり方や、目的を思い、自分の見るからに不適格でふさわしくないありさまを思うとき、時として彼らは思い乱されることがある。時としてそうした考えが、特に病に伏したおりなど、信仰者の思いに浮かび、その人を重苦しさで満たし、心を沈ませることがある。さて、私の知る限り、こうした思いに対する治療薬として何にもくらべられないほどすぐれているのは、主なる救い主イエス・キリストの絶えざるとりなしを想起することである。キリストが天国に入られたのは、ご自分の後に従うことになる人々の「先駆け」としてである。主は、彼らのために「場所を備えに」行かれたのである。----そして、主の行かれる場所こそ、主の民がやがて行くことになる場所なのである。そこに行ったとき彼らは、自分たちの主なる救い主のとりなしによって何もかもが整った、だれひとりつまはじきにされることのない、あつらえむきの、何の不都合もない場所を見いだすであろう。天で彼らが、好ましからざる者とみなされることは決してないであろう。彼らの昔の罪が、----彼らの若い時の罪が、信仰後退の罪が、回心前の邪悪さが、ことによると、神の恵みが心に臨む前の彼らの不身持ちが、----彼らの前に現われて、彼らを天国で当惑させ、恥じ入らせるような時は、日は、決してないであろう。キリストがその中心におられるであろう。キリストが常に彼らのためにとりなしをしておられるであろう。キリストがおられるところに、その民もいるであろう。キリストが生きておられるところでは、その完璧な功績、そのしみ1つない義、そのとりなしが、彼らを父なる神の前で完全な者とするであろう。天国で彼らは、キリストのうちに見られる者、キリストを着せられた者、キリストの肢体、キリストの部分たる者として立ち、死後の永遠の喜びを受けるにふさわしい、確固たる永遠の資格を有する者となるであろう。

 さて私は、しめくくりにあたり、この論考を手に取ることになるすべての人々に向かって、いくつか適用の言葉を述べたいと思う。私は、ここまで書きつらねてきた言葉が、何人かの魂の中で実を結ぶようになることを心から願い、神に祈るものである。そのために私は、誠実に、また心を込めて、僅かながら勧告の言葉を与えたい。

 (1) 第一に私は、自分の魂の救いについて悩み、案じていながら、何をすればわからないというすべての人々に、助言を与えたい。もしあなたがそういう人であるなら、私はあなたに命じ、あなたに懇願し、あなたに切に願い、あなたを招くものである。私がこの論考で語ってきた道に入るがいい、と。私はあなたに切に願う。この昔ながらの、実証済みの道によって、神に近づくことである。----イエス・キリストに対する信仰の道によって、神に近づくことである、と。イエスの御名を申し立てつつ、神に近づくがいい。きょうのこの日、あなたの魂のために、イエスの御名によって、真剣に神に呼びかけるがいい。あなたには、申し立てるべき何物もない。あなたの人生も、あなたの思いも、あなたの生き方も、すべて同じようにあなたを断罪している。あなた自身のことは何も云わず、ただこう云うがいい。----私は罪人です、はなはだしい罪人です、罪に定められた罪人です、しかし、罪人なればこそ私は、あなたに向かいます、と。イエスの御名によって神のところに来て、云うがいい。私はイエスによるなら罪人も神に近づくことができると聞きました。私は罪人です、はなはだしい罪人です、何の価値もない者です。しかし私は、あなたの約束を信じ、あなたご自身の聖書の招きを確信してやって来ました。どうかイエスの御名により、イエスのために、イエスを理由として、私を受け入れ、私の声を聞き、私を赦し、赦免し、引き寄せてください。私は自分の名を----たとえこれまで世俗の汚れと、無頓着さと、不注意さと、罪にまみれてきた名ではあっても----あなたの愛する子どもたちの名簿に加えていただきたいのです、と。

 あなたは神に近づくのは恐ろしいと云うだろうか? そのような恐れは無用である。あなたは、キリストを信ずる信仰の道によって近づく限り、追い払われることはない。私たちの神は「きびしい方」ではない。天におられる私たちの父は、あわれみと愛と恵みに満ちておられる。私は、父なる神の愛とあわれみと優しさを称揚したいという願いにかけてはだれにも負けない。決して私は、一瞬たりとも、福音派の伝道活動にまさって、父なる神のあわれみや愛や同情心を大いに賛美するような伝道活動が地上のどこかにあるなどという意見を認めはしない。むろん私たちは、神が聖であることを知っている。神が義であることを知っている。罪の中を歩み続ける者たちに向かって、神がお怒りになれると信じている。しかし私たちは、キリスト・イエスによってご自身に近づく者たちに対して、神が最もあわれみ深く、最も愛に満ち、最も優しく、最も同情心に篤いお方であることをも信じている。私たちがあなたに云いたいのは、イエス・キリストの十字架こそ、その愛の結果であり帰結であった、ということである。十字架は、決して神のあわれみを引き出した原因でも理由でもない。むしろそれは、父なる神、子なる神、聖霊なる神が、あわれな、失われた、破綻した世界に対して注いでおられる永遠の愛の結果であり、帰結なのである。信仰により、かの生ける道、キリスト・イエスによって御父に近づくがいい。たとえそのようにキリストによって父なる神に近づいても、父なる神は自分を受け入れてくださらないのではなかろうか、などと一瞬たりとも考えてはならない。----この愚にもつかない考えが真実となることは決してない。父なる神は喜んであなたを迎え入れてくださる。放蕩息子の父親が、走り寄って彼を出迎え、----彼を抱きかかえ、彼に口づけしたときにそうしたように、----そのように父なる神は、キリストの御名によってご自身に近づく魂を迎え入れてくださるのである。

 (2) 第二のこととして私は、神の道を歩みたいと願ってはいても、転落することを恐れている読者の方々を勇気づけたい。なぜあなたは恐れなくてはならないのだろうか? 何があなたを恐れさせているのだろうか? イエス・キリストが生きており、神の右の座に着いてあなたのためにとりなしをしておられるというのに、なぜあなたは、自分が転落するまま放っておかれる、などと考えなくてはならないのだろうか? 主イエス・キリストは渾身の力を傾けて、あなたを守ると誓っておられる。主は、父なる神から主の御手にゆだねられた群れのすべてを配慮すると請け合っておられる。主はその群れのために心遣いをしてくださるであろう。これまでも主は心遣いをしてきておられる。その群れのために、主は十字架に赴いてくださった。その群れのために、主は死なれた。主は常に神の右の座に着いておられ、その群れのための心遣いをやめたことはない。その群れの羊一頭一頭は----いかに弱く、いかに虚弱な羊や小羊でさえ----、主なる救い主にとっては、どれも同じように愛しく、いかなる者も神の御手からキリストの羊のいかに弱い者をも奪い取ることはない。あなたは潮の満干を思い通りにとめたり、満ちさせずにおいたりできるだろうか? 潮が引き始めたときに水をとどめておくことができるだろうか? 天の太陽を西に沈ませなかったり、明日の朝それを東から昇らせないでおくことができるだろうか? そのようなことはできない。不可能である。そして、悪霊どものありったけの力、この世とキリスト者に敵対する全勢力のありったけの力をもってしても、ひとたびある魂が御霊の教えによって、イエス・キリストと真に結び合わされ、キリストがそのためにとりなしをしておられるならば、決してその魂をキリストの御手から奪い去ることはできない。キリストが弱さを帯びておられた時代は過ぎ去った。キリストは、「弱さのゆえに十字架につけられ」、その十字架につくときには、私たちのために弱い姿をしておられた(IIコリ13:4)。その主の弱さの時代は終わった。主の力の時代が始まっている。ピラトはもはや主を断罪することはない。主はピラトを断罪するためにやって来られる。天においても地においても、いっさいの権威は主のものであり、その力のすべてが、信仰を有する主の民のために用いられているのである。

 (3) 最後に、この論考を読んでいるすべての信仰者を喜ばせるために、キリストがやがて再び来られることを思い起こさせたいと思う。この《偉大な大祭司》は、やがて再び《至聖所》から出て来られ、ご自分を信じたすべての人々を祝福なさる。この方は、そのみわざの1つの部分は十字架上で死なれたときに行なわれた。そのみわざの別の部分はまだ行なっておられる。----神の右の座に着いて私たちのためにとりなしをしておられる。しかし、この大祭司職の第三の部分は、まだなされていない。この方はやがて、贖罪の日に大祭司がしたように、《至聖所》から出て来られ、----垂れ幕の内側から出てきて、民を祝福なさる。キリストのみわざのその部分はまだ来ていない。主はいま天そのものにおはいりになっている。----主は《至聖所》の内側におられ、垂れ幕のかげに行ったままである。しかし私たちの《偉大な大祭司》----アロンよりも偉大な大祭司----は、やがていつの日か再び来られる。主は力と輝かしい栄光を帯びてやって来られる。主は、世を去るときに天の雲の中に昇って行かれたのと同じようにして、やって来られる。主はやって来て、北からも南からも、東からも西からも、ご自分の御名を愛し、人々の前でご自分を告白してきたすべての者たちを----ご自分の声を聞いて、ご自分に従ってきたすべての者たちを----集めてくださる。主は彼らを1つの幸いな集まりに集めてくださる。もはやそこには何の弱さも、何の悲しみもなく、----何の別れも、何の離別もなく、----何の病も、何の死もなく、----世や肉や悪魔と闘うことは何もなく、----何にもまして良いことに、もはや何の罪もない。その日はまことに幸いな日となるであろう。その日、この《大祭司》はやって来られ、そのみわざの第三の、最後の、掉尾を飾る部分を行なわれる。----信仰を有するご自分の民を祝福してくださる。

 「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る。』 アーメン。主イエスよ、来てください」(黙22:20)。

罪人を救うキリストの力[了]

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