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16. 悔い改め


「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」----ルカ13:3

 このページの冒頭に冠された聖句は、一見すると仮借のない、厳しいものに見える。「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」。----だれかがこう云っている姿が目に浮かぶようである。「これが福音なのか?」 「これが喜びの訪れなのか? これが教役者の語る良い知らせなのか?」、と。----「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」(ヨハ6:60)。

 しかし、このことばは、どなたの口から発されたのだろうか? それは、人知をはるかに越えた愛で私たちを愛してくださった方、神の御子イエス・キリストの口から発されたのである。このことばを語ったお方は、私たちのため天国を離れてくださるほどに私たちを愛し、----私たちのために地上に降り、----私たちのために三十三年間も貧しく、卑しい生活を送り、----私たちのために十字架に赴き、私たちのために墓に下り、私たちの罪のために死なれたお方なのである。確かにこのような口から発されることばは、愛のことばであるに違いない。

 また、結局において、来たるべき危険について、友に警告すること以上に大きな愛の証拠があるだろうか? 息子が崖っぷちに向かってよちよち歩きをして行くのを見た父親が、厳しい声で、「止まれ、止まれ!」、と叫ぶとき、----その父親は息子を愛しているのではないだろうか?----優しい母親が、がんぜないわが子が今にも毒苺を食べそうにしているのを見たとき、金切り声で、「やめて、やめて! 離しなさい、それを!」、と叫ぶとき、その母親はその子を愛しているのではないだろうか?----人を放っておき、好き勝手な道に行かせておくのは無関心である。警告し、危険を伝える叫び声を挙げるのは愛である。優しい愛である。真夜中の、「火事だ、火事だ!」、との叫びは、熟睡から目覚めさせられる人にとっては、がさつで、無情で、不快に聞こえるかもしれない。しかし、もしその叫びによって命が救われたとしたなら、だれが文句を云うだろうか? 「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」、ということばは、一見すると仮借のない、厳しいものと思えるかもしれない。しかし、これは愛の言葉であり、かけがえのない魂を地獄から救い出す手段となりうるのである。

 この聖句を考察するにあたって私は、3つのことに注意してほしいと思う。

 I. まず第一に私が語りたいのは、悔い改めの性質である。----それは、いかなるものなのか?
 II. 第二に私が語りたいのは、悔い改めの必要である。----なぜ悔い改めが必要なのか?
 III. 第三に私が語りたいのは、悔い改めを励ますものである。----人々を悔い改めに導くものには、いかなるものがあるのか?

 I. まず第一に、悔い改めとは、いかなるものか?

 この点で私たちはしっかり足場を踏み固めるようにしよう。これほど重大な問いかけはまず考えることができない。悔い改めはキリスト教の土台石の1つである。新約聖書の中で、悔い改めについて語られている箇所は、60箇所はくだらない。私たちの主イエス・キリストが最初に宣べ伝えた教えは何だっただろうか? 主はこう云ったと記されている。「悔い改めて福音を信じなさい」(マコ1:15)。----主が最初に使徒たちを遣わされたとき、彼らは何を告げ知らせただろうか? 彼らは、「悔い改めを説き広め」た(マコ6:12)。----イエスは世を去られるとき、弟子たちに何をお命じになっただろうか? 「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが……あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ことである(ルカ24:47)。----ペテロが最初に語ったいくつかの説教では、何がその最後の訴えとなっていただろうか? 「悔い改めなさい。そして、……バプテスマを受けなさい」。「悔い改めて、神に立ち返りなさい」(使2:38; 3:19)。----パウロがエペソの長老たちと別れた際、彼らに与えた教えの総括とされているのは何だっただろうか? 彼の語るところ、彼は、人々の前でも、家々でも、彼らを教え、「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張した」(使20:21)。----パウロは、フェストとアグリッパの前で身の証しを立てていたとき、自分の伝道活動をいかなるものと述べただろうか? 彼の告げるところ、彼はあらゆる人々に、「悔い改めて……悔い改めにふさわしい行ないをするようにと」宣べ伝えて来たのであった(使26:20)。----エルサレムの信者たちは、異邦人たちの回心のことを何と云い表わしただろうか? それを聞いたとき彼らはこう云った。「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」(使11:18)。----英国国教会が、聖卓の前に集うすべての人々にまず要求している資格の1つは何だろうか? 彼らが、「以前の自分の罪を真に悔い改めているかどうかを吟味する」ことである。英国国教会によれば、悔い改めていないいかなる者も、聖卓の前に集うべきではない。----確かに私たちはみな、これらが深刻に考えなくてはならない事がらであると同意するに違いない。ここから、私がいま問おうとしていることがいかに重要であるかは明らかであろう。悔い改めについての思い違いは、最も危険な思い違いである。悔い改めについての間違いは、私たちのキリスト教信仰のまさに根幹における間違いである。それでは、悔い改めとはいかなるものなのか? いつ、だれかが悔い改めたと云えるのか?

 悔い改めとは、罪という主題について、人間の生まれながらの心が徹底的に変化することである。私たちはみな罪の中に生まれている。私たちは生まれながらに罪を愛している。私たちは、物心つくや否や、鳥が飛ぶようになり、魚が泳ぐようになるのと同じように、罪を犯すようになる。いかなる子であれ、ごまかしや、意地汚さや、かんしゃくや、わがままや、食いしん坊や、うぬぼれや、愚かさにふけるための訓練だの教育だのを受けなければならなかったような子はひとりもいない。こうしたことは、悪い仲間から身についてしまうものでも、長たらしく退屈な訓練を続けたあげく、徐々にできるようになることでもない。たとえ子どもたちを隔離して育てたとしても、これらは、その子たち自身の中から湧き出してくる。これらの種子は、明らかに心が自然と生み出すものにほかならない。こうした事がらにいかなる子どもたちも染まってしまうという事実は、人間の腐敗と堕落を示す反駁しようもない証明である。さて、私たちのこうした心が聖霊によって変えられるとき、この生まれながらの罪への愛が追い払われるとき、そのときこそ、神のことばが「悔い改め」と呼ぶ変化が行なわれるのである。内側でこの変化が起こった人のことは、「悔い改めている」と呼んでよい。一言で云うと、その人は「悔い改めた」人である、と呼べるのである。

 しかし、あえて私は、この主題をここで閉じはすまい。これは、さらに詳しく、さらに綿密に調べるに値する主題である。この種の教理を扱うときに、一般的な言明だけで終始しては危険である。今から私は悔い改めということを、あなたの目の前で分解し、解剖し、分析しようと思う。悔い改めを構成している成分と要素を示そうと思う。私は、真に悔い改めたあらゆる人が体験することを何かしら、あなたの前に提示するように努めたい。

 (a) 真の悔い改めは、罪を知ることから始まる。悔い改めた人の目は開かれている。その人は、狼狽と困惑との中で、神の聖い律法の長さと広さを見てとり、自分自身の数々の違反のはなはだしさと、その途方もない広がりを見てとる。その人が驚愕とともに悟るのは、自分を「まともな種類の人間」だとか、「善良な心」の持ち主だとか思っていたのは、とんでもない迷妄だった、ということである。その人が見いだしたのは、実は自分が神の前でよこしまで、咎のある、腐敗した悪者だ、ということである。その人の自尊心は砕け散る。その人の自負心は溶け崩れる。その人は、自分が大罪人以外の何者でもないことを見てとる。これが、真の悔い改めにおける第一の段階である。

 (b) 続いて真の悔い改めは、罪への悲しみを生じさせる。悔い改めた人の心は、自分の過去のそむきの罪ゆえに、痛切な呵責を感じる。その人は、自分がこれほど気違いじみた、これほど邪悪な生き方をしてきたことで、心をずたずたに裂かれる。浪費してきた時間について、誤って用いてきた才能について、神を侮辱してきたことについて、自分の魂をだいなしにしてきたことについて嘆き悲しむ。こうした事がらの記憶は、その人にとって悲痛なものとなる。その重荷は時として耐えがたいほどのものとなる。人がこのように悲しむとき、真の悔い改めにおける第二の段階に入っているのである。

 (c) 真の悔い改めは、さらに進んで、人に罪の告白を生み出す。悔い改めた人の舌はゆるめられている。その人は、自分が罪を犯した相手である神に向かって語らなくてはならないと感ずる。その人の内側にある何かが、お前は神に向かって自分の魂の状態について叫ばなくてはならない、祈らなくてはならない、神と語らなくてはならない、と告げる。その人は、恵みの御座の前で自分の心を注ぎ出し、自分のもろもろの不義を認めなくてはならない。それらが彼の内側にのしかかる重荷となっていて、その人はもはや沈黙を守っていることができない。何事も押し隠しておくことはできない。いかなることも包み隠そうとはしない。ただ神の前に行き、自分のためには何も申し立てず、進んでこう告げる。「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。私の咎は途方もない大きさです。神さま。こんな罪人の私をあわれんでください!」 人がこのような告白をしつつ神に向かうとき、真の悔い改めにおける第三の段階に入っているのである。

 (d) 真の悔い改めは、さらにまた、徹底的に罪との縁を切ることで世の前に現わされる。悔い改めた人の生活は一変する。その日常生活のしかたは全く変わってしまう。その人の心の内側では、新しい《王》が支配している。その人は古い人を脱ぎ捨てている。神が命令しておられることを、今やその人は行ないたいと願っている。また神が禁じておられることを、今や避けたいと願っている。どんなことをしてでも、罪に染まらないようにしようと努力し、罪と戦い、罪に対して勝利しようと努力する。その人は、悪事を働くことをやめる。善をなすことを習う。悪い生き方、悪いつき合いとはすっぱり縁を切る。いかに弱々しくはあっても、新しい生き方をしようと力を尽くす。人がこのようなことを行なうとき、真の悔い改めにおける第四の段階に入っているのである。

 (e) 真の悔い改めは、最後のこととして、いかなる罪をも深く憎む確固たる習慣を心に生み出すことによって自らを現わす。悔い改めた人の思いは、常習的に聖い思いとなる。その人は悪であるものを忌みきらい、善であるものにすがりつく。その人は、神の律法を喜びとする。むろんその人が、自分の願い通りのあり方に達さないことは、決して少なくはない。自分自身の内側に悪の原理が宿っていて、それが神の御霊に戦いをいどんでいることに気づく。熱心でありたいときに自分が冷たいこと、前向きになりたいときに後ろ向きであること、神への奉仕に活発に励みたいときに鈍重であることに気づく。その人は自分の欠陥を深く認識する。内側に巣くう腐敗を感じてうめく。しかしそれでも、そうしたすべてをもってしても、その人の心の全体的な傾向は神に向かい、悪から遠ざかる方向にある。その人はダビデとともにこう云うことができる。「私は、すべてのことについて、あなたの戒めを正しいとします。私は偽りの道をことごとく憎みます」(詩119:128)。人がこのように云えるとき、真の悔い改めにおける第五の、あるいは最終的な段階に入っているのである。

 しかし今、この悔い改めの姿は完全なものだろうか? 私はここでこの主題を打ち止めにして、先へ進むことができるだろうか? 私にはできない。決して忘れるべきではないことが、まだ1つ残っている。この1つのことについて言及しなかったとしたら、私は神が悲しませておられない心を悲しませ、人々の魂と天国との間に、障壁のように見えるものを打ち立てることになるかもしれない。

 私がここまで述べてきたような、真の悔い改めは、いかなる人の心においても、決して孤立してはいない。それには常に相伴うものがある。----ほむべき同伴者がいる。それに常に伴うのは、私たちの主なる救い主イエス・キリストに対する生きた信仰である。信仰のあるところどこにでも、そこには悔い改めがある。悔い改めのあるところどこにでも、常に信仰がある。どちらが先に生ずるのか、私には決められない。----悔い改めが信仰の前に生ずるのか、信仰が悔い改めの前に生ずるのか。しかし私が大胆に云いたいのは、この2つの恵みは決して互いに別々に、ばらばらに見いだされることはない、ということである。光のない太陽がありえないように、冷たさのない氷がありえないように、熱のない火がありえないように、湿り気のない水がありえないように、----決して真の悔い改めを伴わない信仰などなく、決して生きた信仰を伴わない真の悔い改めなどない。この2つの事がらは常に相伴うものである。

 さて、これから少しでも先へ進む前に、私たちは自分の心を探り、試して、自分が真の悔い改めについて知っているかどうか見てみよう。私も、悔い改めた人々全員の経験が、正確にぴったり細部に至るまで一致するとは主張していない。罪を知り、罪のために嘆き、罪の告白をし、罪を捨て、罪を憎んだ人の中で、それを完璧に、徹底的に、完全無欠にやりおおせた人があるとも云わない。しかし、これだけは云える。真のキリスト者はみな、私が語ってきた事がらの中に、何かしら自分が知り、感じてきたことを認めるであろう。私が述べてきたような悔い改めは、大部分において、あらゆる真の信仰者が経験するところのものであろう。では、心を探って、自分がそれを自分の魂において知っているかどうか見てとるがいい。

 真の悔い改めの性質について決して思い違いをしないように用心するがいい。悪魔は、この尊い恵みの価値を熟知しているがゆえに、そのまことしやかな模造品を飾りたてるものである。良貨があるところには、必ず悪貨がある。価値ある恵みがあるところには、悪魔がその恵みのまがいものや偽物をはびこらせ、それを人々の魂につかませようとするものである。だまされないように注意するがいい。

 (a) あなたの悔い改めが、あなたの心の務めであるように留意するがいい。それは謹厳な顔つきや、殊勝げな表情や、自分で自分に課した苦行生活を送ることではない。----神に対する真の悔い改めは、このようなものだけからなっているのではない。真の恵みは、顔つきや、衣服や、日課や、形式などをはるかに越えた何かである。アハブは自分の役に立つ限りは荒布を身につけていることができた。しかしアハブは決して悔い改めてはいなかった。

 (b) あなたの悔い改めが、あなたを神に立ち返らせる悔い改めであるように留意するがいい。ローマカトリック教徒は、心に恐れを感ずると司祭と告解場のところに飛んでいく。ペリクスは、使徒パウロが説教するのを聞いて、身震いはした。しかし、こうしたことはみな真の悔い改めではない。あなたの悔い改めが、あなたを神に向かわせ、あなたの最良の《友》たるお方としての神に逃れ行かせるものであるようにするがいい。

 (c) あなたの悔い改めが、徹底的に罪を捨てることを伴う悔い改めであるように留意するがいい。感傷的な人々は、日曜日に感動的な説教を聞いて泣きはしても、平日になると平然と舞踏会や、劇場や、歌劇場に戻っていくことができる。ヘロデは、バプテスマのヨハネの説教を好み、喜んで耳を傾け、「非常に当惑し」はしていた。しかし、キリスト教信仰における感情は、それが実践を伴わない限り、無価値よりも悪いものである。単なる感傷的な興奮だけで、罪と徹底的に縁を切らない場合、それは神がお認めになる悔い改めではない(マコ6:20)。

 (d) 何にもまして、あなたの悔い改めが、主イエス・キリストに対する信仰と密接に結びついたものであるように留意するがいい。あなたの罪の確信が、イエス・キリストが死なれた十字架の根元以外のところでは決して心安んじられないような確信であるようにするがいい。イスカリオテ・ユダは、「私は罪を犯した」、と云うことはできたが、決してイエスに向かいはしなかった。決して信仰によってイエスを見上げることがなく、それゆえ自分の罪の中で死んでいった。私が評価する罪の確信とは、人が、自分を買い取ってくださった主を自分の罪で刺し貫いたがために、キリストのもとに逃れ行かせ、嘆かせるような確信である。私が評価する魂の悔恨とは、それを感ずる人がキリストについて心揺さぶられるような感情を覚え、自分がこれほど恵み深い救い主に加えてきた侮辱のことを考えて悲しみを覚えるような悔恨である。シナイに赴き、十戒について聞き、地獄を眺め、断罪される恐怖について考えること、----これらはみな人々を恐れさせることができ、それなりに役には立つ。しかし、人をしてシナイよりもカルバリを見させないような悔い改め、血を流すイエスのうちに、その悔恨の最も強力な動機を見てとらせないような悔い改めは長続きしない。真の悔い改めは天からやって来る。そうした悔い改めは、聖霊なる神によって人の心に植えつけられるのである。

 II. さて私は、ここで扱いたい第二の点に話を進めよう。私が考えたいのは、悔い改めの必要である。なぜ悔い改めが必要なのだろうか?

 この論考の冒頭に冠した聖句は、明らかに悔い改めの必要を示している。----私たちの主イエス・キリストのことばは明確で、明瞭で、きっぱりしている。「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」。すべての人が、あらゆる人が、ただひとりの例外もなく、神に対する悔い改めを必要としている。それは、単に盗人や、人殺しや、酔っぱらいや、姦通者や、密通者や、監獄や牢屋の徒刑囚にとって必要であるばかりではない。否、アダムの家系に生まれたすべての者、----すべての人々が、ただひとりの例外もなく、神に対する悔い改めを必要としている。王座に着いた女王も、救貧院の乞食も、応接間の金持ちも、台所の女中も、大学で教鞭をとる教授も、鋤で耕す貧しい無学な少年も、----人はみな生まれながらに悔い改めを必要としている。すべての人は罪の中に生まれており、救われたいと願うすべての人は悔い改めて、回心しなくてはならない。すべての人が、罪について心を変えられなくてはならない。すべての人が、福音を信ずるだけではなく、悔い改めなくてはならない。「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」。「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」(マタ18:3; ルカ13:3)。

 しかし、悔い改めの必要はどこから出ているのだろうか? なぜ、このように途方もなく強い言葉遣いがこの必要について用いられているのだろうか? 何が理由で、何を原因として、なぜ悔い改めはこれほど必要とされているのだろうか?

 (a) 1つのこととして、悔い改めがなければ、いかなる罪の赦しもないからである。このように云うとき私は、言葉の意味が取り違えられないように、もう少し説明をしなくてはならない。ぜひ願いたいが、どうか私の云うことを誤解しないでほしい。悔い改めの涙は、いかなる罪をも洗い流しはしない。そうするなどと云うのは、悪質な神学である。それを行なう職務は、キリストの血だけにしかない。----悔恨は、そむきの罪を贖うことはできない。そうするなどと云うのは、哀れな神学である。悔恨はその種のことを何1つ行なわない。私たちの最上の悔い改めといえども、あわれで不完全なもの、何度となく悔い改め返さなくてはならないものである。私たちの最上の悔恨といえども、私たちを地獄に沈めるのに十分なだけの欠陥を帯びている。----「私たちが神の御前で義とみなされるのは、信仰によって受けとる、私たちの主イエス・キリストの恩恵のみによってであって、私たち自身の功労によってではない」。私たちの悔い改めや、聖潔や、施しや、礼典を受けることや、その種のいかなるものによってではない。----これらはみな完全に正しい。しかし、それと同じくらい正しいのは、義と認められた人々は常に悔い改めた人々であり、赦された罪人は常に自分の罪について嘆き悲しみ、それを蛇蝎のごとく忌みきらうものだ、ということである。神は、反逆した人間が、キリストの御名によってみもとに来さえするなら、それまでその人間がいかによこしまな者であったとしても、キリストにおいて喜んで受け入れ、平安を与えてくださる。しかし神は、その反逆者が自分の武器を捨てることを要求しておられ、それは正当な要求である。主イエス・キリストは、喜んで人をあわれみ、赦し、解放し、きよめ、洗い、聖なる者とし、天国にふさわしい者にしようとしておられる。しかし主イエス・キリストがごらんになりたいと願っておられるのは、人が、赦されたいと思っているその罪を憎む姿である。これを「律法主義」と呼びたければ、呼ぶがいい。「奴隷的」と云いたければ、云うがいい。私は聖書に立って語るだけである。神のことばの証言は平易で取り違えようのないものである。義と認められた人々は常に悔い改めた人々である。悔い改めがなければ、何の罪の赦しもない。

 (b) もう1つのこととして、悔い改めがなければ、現在の生活に何の幸福もない。健康な肉体と、金銭のつまった懐がある限り、強い酒や、興奮や、笑いさざめきや、浮かれ騒ぎを続けられるかもしれない。しかし、こうした事がらは堅固な幸福ではない。あらゆる人の内側には良心があり、その良心を満足させなくてはならない。何らかの罪が悔い改められておらず、捨てられていないと良心が感じている限り、それはじっとしておらず、内側から人に苦痛を与えずにはおかない。私たちはみな、内なる人をかかえている。それを世は知らない。----その内なる人について、私たちのそばにいる人々も、友人たちも、しばしば全く知らない。その内なる人は、罪が悔い改められない限り、重荷を負わされているのである。そして、その重荷が取り除かれない限り、その内なる人には何の真の慰めもない。あなたや私は、自分が正しい立場にないとき苦痛を覚えずにいられるだろうか? 不可能である。だが人の真の立場とは何だろうか? 人は、罪に背を向けて、神に顔を向けるまでは、決して正しい立場にはない。----人の家は、すべての持ち物が秩序だっておさまっていなければ、決して居心地の良いものにはならない。だが内なる人の家はいつ秩序だったものであると云えるだろうか? 神が王となり、世が第二の位置を占めるときにほかならない。神が王座に着き、罪が引きずり下ろされ、戸外へ叩き出されるときにほかならない。神がご自分の地位を占めておられないあなたの心の居心地がよくなることを期待するのは、太陽を欠いた太陽系が問題なく運行すると期待するのも同然である。神とのしこりが残っていてはならない。《王》がその王座に着いていなくてはならない。そのとき、そのときになって初めて、内なる平和が得られるのである。悔い改めがなければ、何の真の幸福もない。幸せになりたければ、私たちは悔い改めなくてはならない。

 (c) 別のこととして、悔い改めがなければ、来たるべき世で天国に入る資格が得られない。天国は、あつらえられた場所であり、天国へ行く人々はあつらえむきの人々でなくてはならない。私たちの心は、天国でなすべき仕事に調子が合っていなくてはならない。さもないと、天国そのものがみじめな住まいとなるであろう。私たちの思いは、天国の住人たちの思いと調和していなくてはならない。さもないと天国における交際は、たちまち私たちにとって耐えがたいものとなるであろう。私は、この論考を手に取ることになるあらゆる人が天国に入れるように喜んで手助けしたいと思う。しかし、私は決してあなたに知らないでいてほしくはない。もしあなたが悔い改めない心のまま天国に行ったとしたら、そこはあなたの魂にとって何の天国にもならない、ということを。罪を愛する心をしたまま天国に行ったとしたら、一体全体、あなたはそこで何ができるだろうか? あらゆる聖徒たちの中のだれにあなたは語りかけようというのだろうか? だれの隣にあなたは座りたいだろうか? 確かに神の御使いたちが奏でる音楽も、地上で聖徒に耐えられないような者、また《小羊》の救いを給う愛を一度もほめたたえたことのなかった者の心には、甘やかに響きはしないであろう。確かに族長たちや、使徒たち、預言者たちは、いま自分の聖書を読みもせず、使徒や預言者たちがいかなることを書いたかなどに構いつけもしないような者にとっては、そばにいられても何の喜びにもならないであろう。おゝ、否! 否! もし私たちが悔い改めない心のまま天国に行ったとしたら、そこには何の幸福もありえない。魚は水の中から引き上げられたら幸せにはなれない。鳥は篭に閉じこめられたら幸せにはなれない。なぜか? それらはみな、自分にふさわしい場所、自然な持ち場からはずれた所にいるからである。そして人は、回心しておらず、悔い改めていない人は、聖霊によって変えられていない心をしたまま天国に行ったとしても、幸福にはなれない。その人は自分にふさわしい場所からはずれた所にいる生き物となるであろう。その人には、聖なる救いを楽しめる機能が何もないであろう。悔い改めた心がなければ、「光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格」はありえない(コロ1:12)。天国へ行きたければ、私たちは悔い改めなくてはならない。

 神のあわれみによって、私はあなたに切に願う。私がここまで語ってきたことを心に銘記し、それらを熟考するがいい。あなたの生きている世界は、欺きと、詐欺と、欺瞞に満ちている。悔い改めの必要について、だれにもだまされないようにするがいい。おゝ、願わくは信仰を告白するキリスト者が、神に対する真の悔い改めの必要を、その絶対的な必要を、今している以上に見てとり、知り、感じることができたならどんなによいことか! 必要のないことは多々ある。富は必要ではない。健康は必要ではない。上等な衣服は必要ではない。高貴な友人は必要ない。この世の恩顧は必要ない。才能や学識は必要ではない。こうした物事を持たなくとも、おびただしい数の人々が天国に到達してきた。それらなしに、膨大な数の人々が毎年天国に達しつつある。しかし、「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」なしに天国に到達できた人はひとりもいない。

 神に対する悔い改めが最も目立った場所を占めていないようなキリスト教信仰が、福音と呼ばれるに値するなどとは、だれにも説き伏せられてはならない。それが福音であろうか! 悔い改めが主だったものとなっていない福音などない。----それが福音であろうか! それは人間の福音であって、神の福音ではない。----それが福音であろうか! それは地から出たものであって、天から出たものではない。----それが福音であろうか! それは福音でも何でもない。それは全くの無律法主義であって、それ以外の何物でもない。あなたが自分の罪を抱きしめ、自分の罪にすがりつき、自分の罪を手放そうとしない限り、あなたが福音について好き勝手に何を云おうと、あなたの罪は赦されていないのである。これを律法的だと呼びたければ、呼ぶがいい。云いたければ、こう云っているがいい。自分は「最後には万事がうまく行くと希望している。----神はあわれみ深いお方だ。----神は愛である。----キリストは死なれた。----結局私は天国に行くことになるのだ」、と。否! 私はあなたに云う。万事がうまく行きなどしない。そんな状態をしている限り、うまく行くことなどありえない。あなたは贖いの血を足で踏みにじっているのである。あなたは、キリストとは何の関係もないし、キリストにあずかることもできない。罪を悔い改めない限り、私たちの主イエス・キリストの福音は、あなたの魂にとって何の福音でもない。キリストは罪からの救い主であって、罪の中にいる人の救い主ではない。もし人が自分の罪を手放そうとしなければ、やがて、あわれみ深い救い主がその人にこう云う日が来るであろう。「不法をなす者ども。わたしから離れて行け。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ」(マタ25:41)。

 悔い改めがなくても、この世で幸福になることはできるなどと考えるように、だれにも惑わされてはならない。おゝ、否! あなたは笑ったり、踊ったり、日曜に周遊列車で行楽に出かけ、軽妙な冗談を発し、楽しげな歌を唄い、「やれ歌え、やれ騒げ」だの、「お楽しみはまだこれからだ」だのと云っていられるかもしれない。----だがこれらはみな、あなたが幸福であるという何の証拠にもならない。あなたが罪と争っている限り、あなたは決して真に幸福な人にはならないであろう。おびただしい数の人々が、しばらくの間はこのような生き方を続け、人の目には陽気に見えるが、その心の中にはひそかな悲しみを宿しているのである。ひとりきりになった彼らは、みじめである。陽気な仲間たちの間にいないと、彼らは意気消沈してしまう。良心が彼らを臆病者にしてしまう。彼らは自分ひとりになることを好まない。静かに考えることを憎む。常時何か新しい興奮を得ていなくてはならない。年を追うごとに多くのものがなくてはならない。まさに阿片吸飲者が年ごとに阿片の服用量を増やしていくように、神以外の何かに幸福を求める人は、年ごとにより大きな興奮を必要とするようになり、結局のところ決して幸福ではないのである。

 しかり! そして何にもまして悪いことに、悔い改めなしに生きていく期間が長引けば長引くほど、あなたの心は不幸せになっていく。老年があなたに忍び寄り、あなたの頭が灰色になっていくとき、----あなたが昔は行けた場所に行けなくなり、かつては楽しめたものを楽しめなくなるとき、----あなたのみじめさと悲惨さは、武装した人のようにあなたに襲いかかってくる。悔い改めない状態を続ければ続けるほど、人はみじめになっていく。あなたは、ロンドンの聖ポール大寺院の大時計を聞いたことがあるだろうか? 種々の取引でやかましくにぎわう正午に、四輪馬車や、二輪馬車や、荷馬車や、乗合馬車が、絶え間ない騒音とともに街路を行き交う時間に、その大時計の鐘の音を耳にしたことがないという人は、近隣の住民を除けば、膨大な数に上ることであろう。しかし、一日の仕事が終わり、取引のやかましさが静まっていくとき、----人々が眠りにつき、ロンドンを静寂が支配するとき、----その深夜の十二時に、一時に、二時に、三時に、四時に鳴り響く鐘の音は、何マイル四方でも聞こえるであろう。十二時!---- 一時!----二時!----三時!----四時!----その大時計の音を、いかに多くの眠れない人々が聞くことであろう! その大時計は、まさに悔い改めていない人の良心に似ている。健康も体力も充実していて、目まぐるしい仕事の渦に巻き込まれている間は、良心の声は聞こえないであろう。その人は、この世に飛び込むことでその声をふさぎ、黙らせてしまう。内なる人が自分に話しかけることを許さない。しかし、やがて、その人が好むと好まざるとにかかわらず、良心が聞こえてくる日がやって来るであろう。やがて、その声がその人の耳に聞こえ、その人を剣のように刺し貫く日がやって来るであろう。その人が世間から隠退し、病の床に伏し、死に直面する時がやって来るであろう。そしてその時、良心の大時計は、あの厳粛な大時計は、その人の心の中に響き渡り、もしその人が悔い改めていなければ、その魂にみじめさと悲惨さをもたらすであろう。おゝ、否! あなたの心に深々と刻み込んでおくがいい。----悔い改めなくして、平安なし、と!

 何にもまして、神に対する悔い改めなしに天国に達する可能性があるなどとは、だれからも夢見させられないようにするがいい。私たちはみな天国に行きたいと願っている。地獄へ行きたいなどという人がいたとしたら、狂人とみなされて当然であろう。しかし決して忘れてはならない。聖霊によって天国に行けるよう整えられない限り、いかなる人もそこには行けないのだ、と。私は、現代の数々の迷妄に対して、厳粛に抗議するものである。そうした人々は云う。「すべての人は最終的には天国に行ける。----あなたがどう生きようと問題ではない。----あなたが聖かろうと聖くなかろうと、大したことではない。----不敬虔であろうと神を恐れていようと、みな同じことだ。----最後にはすべての人が天国に行き着くのだ」、と。私は、聖書のどこにもそのような教えを見つけることができない。むしろ聖書がそうした迷妄をはっきり否定していることに気づく。この新しい考え方がいかにまことしやかに表明され、いかにもっともらしく弁護されるとしても、それは神のことばの試験に耐えることができない。否! たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきである。天国は、一部の人々が思い描いているような場所ではない。天国の住人たちは、多くの人々が信じ込もうとしているような混沌とした大群衆ではない。彼らはみな1つの心、1つの思いをしている。天国は神の民が行く場所である。しかし、悔い改めておらず、信仰を有しておらず、キリストのところに来ようとしない者たちのために、聖書が平易に、取り違えようのないしかたで語るところ、こうした者たちのために残されているのは、地獄しかない。

 悔い改めていない人が天国にふさわしくないという考えは厳粛なものである。たとえ天国に行けたとしても、そこでその人は幸福になれない。私は、何年も昔に駅伝乗合馬車で旅をしていた教職者の話を聞いたことがある。彼は御者の隣の御者席に座っていた。御者の男は、悪態をつかずには何もできないと思い込んでいる不幸な手合のひとりであった。男は呪いをかけ、悪態をつき、冒涜的な口をきき、神の御名をみだりに用いながら、何マイルも乗り合わせていった。乗っている間、突然かんしゃくを起こしたかと思うと、馬たちを打ち叩き、呪いをかけては悪態をつくという繰り返しだった。それが、この御者の流儀だった。とうとうこの教職者は男に静かに声をかけた。「御者さんや。わしはあんたのことが心配でならんわい」。----御者の男は云った。「牧師さん、何を心配していなさるんで? 何もかもうまく行っていまさあ。慌てることなんざ、何もありはしませんて」。----「御者さんや、わしはあんたのことが恐ろしく心配でならん。あんたが天国に行ったとしたら、そこで一体何をするのか全く考えられんからな。天国ではだれも呪ったりせんし、天国ではだれも悪態をつきはせん。天国ではだれもかんしゃくを起こしたりせんし、打ち叩ける馬たちもおらんのだよ」。その教役者はもう一度云った。「御者さんや。わしはあんたが天国で何をすることになるのか、まるで考えられんわい」。----「へえ。そりゃあ牧師さんの考えでがんしょう」、と御者は云い、その会話はそれで打ち止めになった。----何年かが過ぎた。ある日、この同じ教職者のもとに、ひとりの病人が会いたがっていると告げる者があった。それは、土地の者ではないとのことだった。何でも、その男がこの教区にやって来たのは、ここで死にたかったからだということだった。その教職者は男に会いに出かけた。彼は部屋に入り、そこにまさに死のうとしている男がいるのがわかった。その顔に見覚えはなかった。「先生」、と死にかけている男は云った。「私のことを覚えてはおられませんか?」 教職者は云った。「いいや。記憶にないようだが」。「私は先生のことを覚えております。私は、もう何年も前に、先生から心配していただいた御者の男なのです。先生から、『御者さんや、私はお前さんのことが心配でならん。お前さんが天国に行ったとしても、何をすることになるかわからんのだ』、と云っていただいた男です。あのお言葉はこたえました。私は、自分が安心して死ねないことに気づきました。あのお言葉が身にしみて、身にしみて、身にしみて、もうどうしようもなくなって、私は罪を悔い改めました。キリストのところに逃れました。そしてキリストにあって平安を見いだしました。新しい人になりました。今では私は、神さまのお恵みによって、私を造ってくださったお方に会える備えができていると思っております。光の中にある聖徒たちの相続分にあずかる資格ができていると信じております」。

 もう一度、私は、忘れないように命ずる。----神に対する悔い改めがなければ、天国に行けるふさわしさはありえない、と。悔い改めていない人を天国に放り出せば、その人は痛みを感ずるであろう。それはその人にとって何のあわれみでもないであろう。----その人は幸せにならない。幸せになれない。罪を憎む心、神を愛する心を持たないまま天国に行った人にとって、そこには何の楽しみもありえない。私は最後の審判の日には多くの驚くべきことを目にすると思う。私は主イエス・キリストの右側に、かつては左側に見ることになるだろうと案じていた何人かの人々を見てとることになると思う。左側には、かつて私が健全なキリスト者であると考え、右側に見るだろうと思っていた何人かの人々を見ることになると思う。しかし、私が決して見ないと確信していることが1つある。----私はイエス・キリストの右側には、ひとりとして悔い改めていない人は見いださないであろう。私はそこに、「私はちりや灰にすぎません」、と云ったアブラハムを見いだすであろう。----「私はあなたがしもべに賜わったすべての恵み……を受けるに足りない者です」、と云ったヤコブをそこに見いだすであろう。----「私はつまらない者です」、と云ったヨブをそこに見いだすであろう。----「私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」、と云ったダビデをそこに見いだすであろう。----「私はくちびるの汚れた者」、と云ったイザヤをそこに見いだすであろう。----「私はその罪人のかしらです」、と云ったパウロをそこに見いだすであろう(創18:27; 32:10; ヨブ40:4; 詩51:5; イザ6:5; Iテモ1:15)。私はそこに、自分の手紙の結びにしばしば、「いとも哀れな罪人、いとも惨めなる罪人、ジョン・ブラッドフォード」、と署名していた殉教者ジョン・ブラッドフォードを見いだすであろう。その同じジョン・ブラッドフォードは、絞首台に赴く犯罪人を見るときには常に、「神の恵みがなかりせば、あそこに行くのがジョン・ブラッドフォードなのだ」、と云っていた人物である。----私はそこに、そのいまわの際の言葉として、「わが多くの罪を赦したまえ。殊に、わが不作為の罪を赦したまえ」、と云ったアッシャー大主教を見いだすであろう。----私はそこに、そのいまわの際の言葉として、「いま、役立たずのしもべがまいります」、と云ったグリムショーを見いだすであろう。----しかし、彼らはみな1つの心、1つの思い、1つの経験を有しているであろう。彼らはみな罪を憎んできた者たちであろう。罪のために嘆き悲しんできた者たちであろう。罪を告白してきた者たちであろう。罪を捨ててきた者たちであろう。信じただけでなく悔い改めてきた者たち、----イエス・キリストを信じただけでなく、神に対して悔い改めた者たちであろう。彼らはみな異口同音に云うであろう。「何ということを神はなされたのか!」、と。彼らはみな、「神の恵みによって、私は今の私になりました」、と云うばかりでなく、「神の恵みによって、私は今ある場所に至りました」、と云うであろう。

 III. さて私は先に語ろうと約束した第三の、そして最後のことに移ろうと思う。私が考察したいのは、悔い改めに至らせる励ましである。人は何によって悔い改めに導かれるのだろうか?

 私はこの点について多少なりとも語っておくことが非常に重要であると感じている。私は、悔い改めという主題が私たちの前に置かれたとき、多くの困難がその前に立ち現われることをよく承知している。人がいかに罪を捨てようとしないものか私は重々承知している。人に向かってその愛しい罪と縁を切れというのは、その右の手を切り落とせとか、右の目をえぐり出せとか、右足を切り落とせと云うに等しい。----私は古い習慣と、キリスト教信仰における身にしみついた考え方の力とを百も承知している。それらは、最初はみなくもの糸のようだが、最後には鉄鎖となる。----私は高慢の力と、「わなにかける人への恐れ」の力とをよく承知している。----人々の中にある、聖人と思われること、キリスト教信仰に気を遣っていると考えられることへの嫌悪を重々承知している。----何千何百もの人々が、凸角堡やマラコフ砦のごとき要塞を強襲することなどには全然尻込みしないのに、自分の魂に気を遣っているというので笑われたり、嘲られたりすることには耐えられないことを百も承知している。----そしてまた私は、私たちの大敵、悪魔の悪意をもよく承知している。彼が自分の「かすめた捕虜」を一戦も交えずに手放すだろうか? 決してありえない。私はかつて動物園で獅子に餌が与えられるのを見たことがある。その食物は獅子の前に投げ落とされた。私が見ていると、飼育係がその食物を遠くにやろうとしていた。----私はその獅子が咆哮し、身を躍らせて、自分の食物をわがものにしておこうとあがく姿を覚えている。そして私は、「ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回って」いる者のことを思い出す(Iペテ5:8)。彼は、戦いもせずに人を手放し、悔い改めさせておくだろうか? 決して、決して、決してそのようなことはない! 人は自分を悔い改めさせる多くの励ましが必要である。

 しかし、私たちには幾多の励ましがある。偉大で、広大で、寛大で、満ち満ちていて、無代価の励ましがある。神のことばの中には、あらゆる心を激励し、あらゆる人を覚醒させて、一刻も早く悔い改めに至らせずにはおかないような事がらがある。私は、そうした事がらをこの本の読者の前に提示したいと思う。私はいかなる人にも、この論考を下に置き、「そんなことはできない。不可能だ」、などと云ってほしくはない。私は、すべての人々にこう云ってもらいたいと思う。「ここには希望がある。希望がある! 開かれた扉がある! これは可能なことだ。これならできる! 神の恵みによるなら、人は悔い改めることができる!」、と。

 (a) 1つのこととして聞いてほしいのは、主イエス・キリストがいかに恵み深い救い主であられるか、ということである。私は人を悔い改めるように励ます、第一の、真っ先に来るべき、最も重要な論拠として、このお方を差し出すものである。私は、疑いを感じているあらゆる魂に云う。キリストを眺めるがいい、キリストについて考えるがいい、と。主こそ、「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできに」なるお方である。主こそ、油注がれて、「悔い改めと罪の赦しを与える、君にして救い主」である。主こそ、「失われた人を捜して救うために来た」お方である。主こそ、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」、と云われたお方である。主こそ、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」、と叫んでおられるお方である。主こそ、その王者たる言葉にかけて、「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」、と誓っておられるお方である。そして主は、このように記されているお方である。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」。私は、いかなる疑い、疑問、困難、反対、恐れに対しても、この単純な議論によって答える。私は励ましを求めているあらゆる人に云う。キリストを眺めるがいい、キリストについて考えるがいい、と。主なるイエス・キリストのことを考えるがいい。そして、もはや悔い改めについて疑うのはやめるがいい(ヘブ7:25; 使5:31; ルカ19:10; マコ2:17; マタ11:28; ヨハ6:37; ヨハ1:12)。

 (b) もう1つのこととして聞いてほしいのは、いかに栄光ある約束が神のことばには含まれているか、ということである。こう記されている。「自分のそむきの罪を……告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける」。また、こうも記されている。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」。さらにまた、こうも記されている。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。……義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです」。確かにこうした約束は励ましである。もう一度私は云う。もはや悔い改めについて疑うのはやめるがいい(箴28:13; Iヨハ1:9; マタ5:3、4、6)。

 (c) 別のこととして聞いてほしいのは、いかに恵み深い宣言を神のことばは含んでいるか、ということである。「悪者でも、自分がしている悪事をやめ、公義と正義とを行なうなら、彼は自分のいのちを生かす」。----「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」。----「神はひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」*。----「わたしは誓って言う。----神である主の御告げ。----わたしは決して悪者の死を喜ばない。……悔い改めよ。……立ち返れ。……なぜ、あなたがたは死のうとするのか」。----「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」(エゼ18:27; 詩51:17; IIペテ3:9; エゼ33:11; ルカ15:10)。確かに、何らかの言葉が励ましになるとしたら、こうした言葉こそ励ましである! もう一度私は云う。もはや悔い改めについて疑うのはやめるがいい

 (d) 別のこととして聞いてほしいのは、この主題について、いかに素晴らしいたとえ話を私たちの主イエスは語られたか、ということである。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて」----あたかも、心に満ちた悲しみが大きすぎて、それを十分示せないかのようにして----「自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません」(ルカ18:10-14)。さらに、もう1つの素晴らしいたとえ話を聞くがいい。----放蕩息子のたとえである。「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』 と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた」。そして、豚の世話をするという落ちぶれ果てた状態で、彼は我に返った。そして、こう云った。「『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに」、----ここに注意するがいい。----「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』 そして彼らは祝宴を始めた」(ルカ15:11-24)。確かにこれらは、悔い改めに対する非常に大きな励ましである。もう一度私は云う。もはや悔い改めについて疑うのはやめるがいい

 (e) 最後に聞いてほしいのは、悔い改めた人々に対する神のあわれみと、いつくしみとについて、いかに驚くべき実例が神のことばの中に含まれているか、ということである。ダビデの物語を読んでみるがいい。ダビデの罪ほど大きな罪があっただろうか? しかし、ダビデが主の方を向いて、「私は主に対して罪を犯した」、と云ったとき、答えが与えられた。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」。----マナセの物語を読んでみるがいい。彼の邪悪さほど大きなものがあっただろうか? 彼は自分の子どもたちを殺した。自分の父の神に背を向けた。神殿の中に数々の偶像を安置した。だがしかし、彼が獄中でへりくだり、主に祈ったとき、主は彼の祈りを聞き入れ、彼を捕囚の状態から解き放ってくださった。----ペテロの物語を読んでみるがいい。彼の変節ぶりほど大きなものがあっただろうか? 彼は自分の《主人》を三度も、呪いをかけて否んだのである! だがしかし、ペテロが泣いて、自分の罪のために嘆き悲しんだとき、ペテロに対してさえもあわれみがあり、悔い改めたペテロは、その《主人》の愛顧の中に回復された。----あの悔い改めた強盗の物語を読んでみるがいい。彼の状態ほど絶望的なものがあっただろうか? 彼は地獄の瀬戸際に立って死にかけていた男だった。だが、彼がイエスに向かって、「主よ。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」*、と云ったとき、すぐさま素晴らしい答えが与えられた。「まことに、あなたに告げます。あなたは」(あなたでさえ)「きょう、わたしとともにパラダイスにいます」(IIサム12:13; II歴33:1-19; マコ16:7; ルカ23:39-43)。

 悔い改めに対する、これほど大きな励ましが想像できるだろうか? 思い描けるだろうか? こうしたすべての事例が、私たちに教えるために記されているのはなぜだろうか? それらは、人々を悔い改めに導くためのものなのである。それらは、みな神の寛容の見本----神のあわれみの見本----神の、悔い改めた罪人たちを喜んで受け入れようというみ思いの見本----なのである。それらは神の恵みに何ができるかという証拠である。彼らは、人には悔い改めるだけの甲斐はあること、----人には神に立ち返るための励ましがあること、----それでも罪の中を歩み続けるような者には、全く弁解の余地はないこと、----を証明している雲のような証人たちなのである。「神の慈愛は人を悔い改めに導く」*(ロマ2:4)。

 私は、ある母親の話を聞いたことがある。彼女の娘は家出して、罪の生活を送っていた。長い間、だれも娘がどこにいるかわからなかった。----しかし、その娘は戻ってきて、行状を改めたのだった。娘は真に悔い改めた者となった。罪のために嘆き悲しむようになった。キリストの方を向き、キリストを信じた。古い物は過ぎ去り、すべてが新しくなった。ある日、彼女の母親に尋ねる人があった。娘さんを戻って来させるためにあなたは何をしたのですか、----いかなる手段をあなたは用いたのですか、----いかなる手立てを使ったのですか、と。彼女の答えは非常に驚くべきものであった。彼女は、「私は夜も昼も娘のために祈っていました」、と答えた。しかし、それがすべてではなかった。続けて彼女は云った。「私は夜寝るときには、必ず玄関の鍵を開けて、戸を押せばすぐ開くようにしておきました。いつの日か、娘が夜、私が寝床に入っているときに戻ってきたとして、戸が閉まっていたなどと云えるようなことがあってはならない、と私は思ったのです。母さんの家に戻っては来たけれど、入れやしなかった、などと娘に云わせてはならない、と思ったのです」。そして、実際にその通りになったのだった。彼女の娘はある夜戻ってきて、扉を押してみた。そして戸が開くことに気づいて、すぐさま中に入ったのだった。そして二度とそこから出て行って罪を犯すことはなかったのである。その開かれた扉こそ、彼女の魂を救ったものだった!----その開かれた扉は、罪人たちに対する神のみ心の美しい例証である。あわれみの扉は大きく開け放たれている。扉はまだ鍵がかけられてはいない。その扉はいつでも押せば開くようになっている。神の心は愛で満ちている。神の心は同情心で満ちている。人はそれまでいかなる者であったとしても、何をしてきたとしても、真夜中にであれ、いついかなるときにであれ、神に立ち返るとき、その人は神が喜んで自分を迎え入れてくださることに気づくであろう。進んで自分を赦してくれ、喜びをもって家に置いてくれることに気づくであろう。何もかも整っている。だれであっても、中に入ることができるのである。

 そして、神に立ち返って、悔い改めたおびただしい数の人々の中で、悔い改めたことを後悔した者がひとりでもいただろうか? 私は大胆に答える。ひとりもいない。毎年、何千人もの人々が愚かさと不信仰を悔い改める。何千人もの人々が、浪費した年月を嘆き悲しむ。何千人もの人々が、自分たちの酩酊や、賭博や、不品行や、悪罵や、無為を、また機会をないがしろにしてきたことを悔やんでいる。しかし、ひとりとして、世の中に向かって、自分は神に対して悔い改めたこと、立ち返ったことを後悔している、などと立ち上がって宣言する者はいない。いのちに至る狭い道の上にある足跡は、みな一方向に向かっている。その狭い道の上にあなたは、一組たりとも、その狭い道が良くなかったからと云って引き返していった足跡を見ることはないであろう。

 私は、二百年前に、ピューリタン教役者のドゥーリトル氏が説教していた礼拝所で、尋常ならざる出来事が起こったという話を読んだことがある。彼がまさにその日の説教を始めようとしたとき、ひとりの見知らぬ青年が自分の教会に入ってきたのが目にとまった。その青年の物腰から推察するに、その青年は自分の魂について悩んではいるものの、キリスト教信仰についてまだ決めかねているものと思われた。そこで彼は尋常ならざることを行なった。彼は奇妙な実験を行なったが、神はそれをこの青年の魂にとって祝福としてくださった。ドゥーリトル氏は、その日の聖句を読み上げる前に、会堂内の片側にいた老キリスト者の方に向いた。彼はその人の名を呼んで、こう云った。「兄弟。あなたは神に仕えてきたことを後悔していますか?」 老キリスト者は会衆の前に男らしく立ち上がって云った。「先生。わしは、若い頃から主にお仕えしてきましたが、主がわしになさったのは良いことだけでしたわい」。----ドゥーリトル氏は左手の方を向き、別のキリスト者を見て、同じように、名前を呼んで語りかけた。「兄弟。あなたはキリストに仕えてきたことを後悔していますか?」 その人もまた、会衆の前で男らしく立ち上がって云った。「先生。私が本当に幸福になったのは、十字架を負って、主イエス・キリストにお仕えするようになってからのことですわい」。それからドゥーリトル氏は、青年に向かって云った。「お若い方。あなたは悔い改めますか? お若い方。あなたは十字架を負おうと思いますか? お若い方。あなたはこの日キリストに仕え始めたいと思いますか?」 神はこの言葉とともに力を送られた。その青年は会衆の前で立ち上がって、へりくだった声音で云った。「はい、先生。そうしたいと思います」。まさにその日こそが、その青年の魂における永遠のいのちの始まりであった。請け合ってもいいが、その日ドゥーリトル氏が受けとった2つの答えは、あらゆる真のキリスト者の経験である。いかなる人も悔い改めを後悔したことがないことは確実であろう。いかなる人も、いまだかつて主に仕えたことを残念に思ったことはなかった。いかなる人もいまだかつて、自分の人生の終わりに際して、「私は自分の聖書を読みすぎた、私は神のことを考えすぎた、私は祈りをしすぎた、私は自分の魂に気を遣いすぎた」、などと云ったことはない。おゝ、否! 神の民は常にこう云うであろう。「もし人生をやり直せるものなら、私は自分が今までしてきたようりも、はるかにずっと神の近くを歩みたいものだ。私は自分がもっと神にお仕えしてこなかったことが残念だ。だが、私は主にお仕えしたことを残念だとは思わない。キリストの道には十字架があるかもしれない。しかし、それは楽しい道であり、その道は平安なのだ」。確かに、これは途方もなく雄弁な事実である。それは、私がすでに提示してきたすべての議論に決着をつける事実である。確かに人には、悔い改める甲斐はあるのである。そこには数々の励ましがある。悔い改めない人に弁解の余地はない。

 さて私は読者の方々の前に、この論考の初めで私が考察したいと申し上げた3つの点を示し終えたことになる。私はあなたに、神に対する悔い改めの性質について示した。----悔い改めの必要について示した。----悔い改めのための励ましについて示した。後に残っているのは、この論考のしめくくりに、これを読むすべての人々の魂に向かって、実際的な適用となる心からの言葉を少しばかり語ることしかない。

 (1) 私の最初の言葉は、警告の言葉である。私はこの論考を読むことになる、悔い改めていない魂をしたすべての人に、心からの警告を与える。私は、このページを読んでいるすべての人が、真に神に対して悔い改めをした人、イエス・キリストにある生きた信仰者であるなどとは、一瞬たりとも考えられない。そのような考えをいだこうとは思わない。----そうしたことは考えられない。それで私の最初の言葉は、警告の言葉となる。----優しく、心からの愛情をこめた警告の言葉----それを、この論考をたまたま読むかもしれない、悔い改めていない、未回心の人々すべてに与えたい。

 冒頭の聖句に含まれている警告にまさる警告を私はあなたに与えることができるだろうか? 私の主であり《主人》である方のことばにまさって厳粛で、心探る言葉を私は用いることができるだろうか? 「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」。しかり! 今これを読んでいるあなたは、読みながら知っているはずである。あなたがまだ神との平和を得ていないことを。----キリスト教信仰において、自分が立ち止まり、ためらい、態度を決めかねていることを。----あなたこそ、この聖句の言葉が力強く臨むべき人である。「あなたがたも悔い改めないなら、みな」、しかり、あなたも、「同じように滅びます」。

 おゝ、これがいかにすさまじい言葉であるか考えてみるがいい! これがどれだけ大きな事を含んでいるか、だれに十分に量りきわめることができるだろうか? 「滅びます」! 肉体が滅び、----魂が滅び、----最後には地獄でみじめに滅びるのである! 私はあえて、その考えの恐ろしさを生々しく描写しようとはすまい。尽きることのないうじ、消えることのない火、永遠の暗黒のどす黒さ、望みのない牢獄、底知れぬ穴、火と硫黄との燃える池、----これらすべては、すべてが、地獄の現実にくらべれば薄ぼんやりした象徴にすぎない。そしてこの地獄に、悔い改めていないすべての人は日ごとに旅しつつあるのである! しかり。教会からも会堂からも、----金持ちの応接間からも貧乏人のあばら屋からも、----知識と富と社会的地位のただ中からも、悔い改めようとしないすべての人々は確実に地獄へ向かって旅しつつあるのである。「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」。

 あなたの危険がいかに大きいか考えるがいい! あなたの罪は、あなたの数々の罪はどこにあるのか? あなたは自分が罪人であると知っている。あなたはそれに気づいているに違いない。自分は何の罪も犯してこなかったなどと云おうとするのはむなしい。では、もしあなたが一度も悔い改めたことがなく、一度も罪のために嘆き悲しんだことがなく、一度も罪を告白したことがなく、一度もキリストのもとに逃れて行ったことがなく、一度もキリストの血による赦しを見いだしたことがないとしたら、あなたの罪はどこにあるのか? おゝ、自分に気をつけるがいい。----かの穴はあなたを待ち受けて開いている。悪魔はあなたについて、「あれは俺様のものだ」、と云っている。自分に気をつけるがいい。この聖句の言葉を思い出すがいい。「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」。これは私の言葉ではなく、キリストのことばである。これは私が云っているのではなく、キリストが仰っているのである。キリストがこう云っておられる。----あわれみ深い方キリストが、恵み深い方キリストがこう云っておられる。----「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」、と。

 また、あなたの咎のことを考えるがいい。----しかり。私は、あえて、考えた上で云う。あなたの咎について考えるがいい。人が悔い改めないというのは咎である。私たちは悔い改めについて神に対して責任があり、神に申し開きをしなくてはならない。そんなことはない、と云ってもむだである。聖パウロはアテネ人たちに何と云っているだろうか? 「神は……どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます」(使17:30)。私たちの主は、コラジンやベツサイダについて何と云っておられるだろうか? なぜこの町々は咎ありとされたのだろうか? なぜこれらが地獄で占める立場は、これほど耐えがたいものとされているのだろうか? それは、これらが悔い改めて信ずることをしなかったからである。----神の御子が明確に証言しておられること、それは悔い改めるように招かれていながら悔い改めない人、その招きに従うことを拒む人は、一度も悔い改めるように促されなかった人にまして咎がある、ということである。

 さらに、悔い改めずにい続けるという愚かさを考えるがいい。しかり、私は愚かさと云う。あなたがしがみついている世は、すでにあなたの足下で溶け崩れつつある。来世において銀行券が何の役に立つだろうか? 今から百年後に、あなたの黄金はあなたにとって何の価値があるだろうか? あなたが最期の時を迎えるとき、あなたが悔い改めないまま死んだとしたら、地球上のありったけの黄金があなたにとって何の役に立つだろうか? あなたは今は、ことによると、この世のために生きているかもしれない。あなたは仕事で成功しようと刻苦勉励している。所有地を次から次へと増やし、手元資金に蓄積するためなら、海をも陸をもかけ巡っている。あなたはありとあらゆる手を尽くして、金持ちになり、富をかき集め、快適な暮らしをし、快楽を追求し、自分の死んだ後には妻子に相当の遺産を残そうとしている。しかし、おゝ、覚えておくがいい。覚えておくがいい、もしあなたが神の恵みと真の悔い改めを得ていないとしたら、あなたはあわれな人間であり、神の前では乞食にすぎないのである。

 私は、数年前に起きたすさまじい海難事故について読んだとき、脳裏に受けた衝撃を決して忘れることはないであろう。その海難事故とは、ハバナからニューヨークに向かっていた巨大汽船『セントラル・アメリカ』号が航海途上で難破した事故のことである。その汽船には、カリフォルニアから帰国する途中の三、四百人ほどの砂金掘りたちが乗り込んでいた。彼らはみな自分の金を携えて、これからは故郷でぬくぬくと暮らそうと計画していた。しかし人は計画するが、神が成否を決するのである。

 『セントラル・アメリカ』号がハバナを出港してから二十四時間後に、大暴風雨が起こった。三度か四度、大波が船体を直撃し、多大な損傷を与えた。蒸気機関は損傷して、何の役にも立たなくなり、船は波くぼへと流されて行った。船体には漏れ口ができ、必死の努力の甲斐もなく、浸水し始めた。船上の全員が吸水器に取りつき、精も根も尽き果てるまで水を揚げては汲み出し、水を揚げては汲み出した後で、だれの目にも明らかになったのは、この三、四百人の乗客および全乗組員を乗せた『セントラル・アメリカ』号が、千尋の海底に沈没するしかなく、乗船しているほぼ全員が船と運命をともにしなくてはならないということであった。乗組員は、なけなしの端艇を洋上に下ろした。その何艘かの端艇に女性客たちと、操船に必要な最低限の海員を乗り込ませた。このような場面においても、弱く無防備な者たちに対して示された、彼らの優しい心根には、最大の敬意を表すべきである! 端艇は水面に下ろされたが、『セントラル・アメリカ』号が沈没していったときには、まだ二、三百名の人々が残されていた。その多くは砂金掘りたちであった。女性客たちを乗せた最後の端艇で本船を離れた人々のうちのひとりが、その汽船の客室の中に見えた光景を書き記している。すべての望みが潰えて、その巨大な船がまさに沈没していこうとするとき、男たちは自分の金を取り出した。ある男は、自分の長年の労苦の詰まった皮鞄をつかむと、こう云った。「ほうら。ほしい奴はいないか! くれてやらあ! こんなもんが何の役に立つってんだ。船は沈んじまうんだ。だれにでもくれてやるぞ」。別の男たちは自分の砂金を取り出すと、船室中に撒き散らして云った。「ほうら、くれてやらあ。ほしい奴は持ってけよ! 俺らあみんな沈んじまうんだ。じきに全員おだぶつよ。金なんざ何にもなりゃしねえ」。 おゝ、人が神に近づくとき、いかに富が全く無価値な性質のものでしかないかを、これは何と恐ろしく表わしていることか! 「財産は激しい怒りの日には役に立たない。しかし正義は人を死から救い出す」(箴11:4)。あなたの愚かさを考えるがいい。----自分の罪にすがりつき続けようというのなら、あなたは危険なだけでなく愚かなのである。咎があるだけでなく愚かなのである。もしあなたが、きょう私があなたに与えている警告を聞こうとしないというのなら、その愚かさを考えるがいい。私の《主人》の御名によって、もう一度私はあなたに云う。「あなたがたも悔い改めないなら」、あなたも、この論考を読んでいるあなたも、「同じように滅びます」。

 (2) 私の第二の適用の言葉は、自分の罪を感じており、悔い改めたいと願ってはいるが、何をすればいいかわからない、というすべての人々に対する招きである。私はこの招きを、「あなたの助言に従うとするなら、きょう私は何をすればよいのですか?」、と尋ねるすべての人々に、惜しみなく、全面的に与えるものである。その問いかけに私は何のためらいもなく答える。私はあなたに、私の《主人》の御名によって云う。悔い改めるがいい、悔い改めるがいい、きょうのこの日、悔い改めるがいい。一刻も早く悔い改めるがいい、と。

 私はこう云うことに何の困難も覚えない。未回心の人々に悔い改めよと云ったり、祈れと云ったりすべきではない、という一部の人々の意見に私は賛成できない。私は使徒ペテロが魔術師シモンに向かって、「この悪事を悔い改め」よ、と云っているのを見いだすのである。彼は、「主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません」、と云っているのである(使8:22)。私は使徒のひそみにならうことに何の問題も感じない。私は自分の魂について悩んでいるあらゆる人に同じことを云いたい。私は云う。悔い改めるがいい、悔い改めるがいい、一刻も早く悔い改めるがいい、と。本気で願っているのだとしたら、やがてすぐに決断しなくてはならない時がやって来る。では、きょうのこの日であってなぜいけないのか? 今夜であってなぜいけないのか? 説教を聞くことを永遠に続けるわけにはいかない。教会や会堂に行くことには、いつかは終わりが来ざるをえない。この教役者が好きだとか、あの教役者が好きだとか、この教会に属するとか、あの会堂に属するとか、この見解を奉ずるとか、あの見解を奉ずるとか、この説教者は健全だと思うとか、あの説教者は不健全だと思うとかだけでは、魂を救うには十分ではない。本気で天国に行きたければ、人は最後には、考えるだけでなく行動しなくてはならない。断罪されたくないと思うのなら、自分の罪と縁を切り、主イエスのもとに逃れ行かなくてはならない。人は世から出て行き、十字架を負わなくてはならない。迷いを捨てて、悔い改めて、信じなくてはならない。本気で救われたいと思うなら、自分の旗幟を鮮明にし、主イエス・キリストの側につかなくてはならない。では、なぜこうしたことをみな、きょう始めてはいけないのだろうか? おゝ、悔い改めるがいい、悔い改めるがいい、一刻も早く悔い改めるがいい!

 あなたはそれでも、自分は何をすべきなのか、と私に尋ねるだろうか? 私はあなたに告げる。きょうのこの日、行って、主イエス・キリストにお願いするがいい。行って、主の前にあなたの心を注ぎ出すがいい。行って、主に、自分がいかなる者で、何を願っているか申し上げるがいい。主に、自分が罪人であることを申し上げるがいい。主は、あなたを恥とはなさらないであろう。主に、自分が救われたいことを申し上げるがいい。主は、あなたの声を聞いてくださるであろう。主に、自分があわれで、弱い、見下げ果てた者でしかないと申し上げるがいい。主は、あなたに耳を傾けてくださるであろう。主に、自分は何をすべきかも、いかにすれば悔い改められるのかもわからないと申し上げるがいい。主はあなたにその恵みを与えてくださるであろう。ご自分の御霊をあなたの上に注ぎ出してくださるであろう。あなたの声を聞いてくださるであろう。あなたの祈りをかなえてくださるであろう。あなたの魂を救ってくださるであろう。主のうちには、全世界が必要とするものを満たして余りあるものがある。----未回心の、まだ聖なる者とされていない、信仰を持たない、悔い改めていない、更新されていないあらゆる心が必要とするすべてを満たして余りあるものがある。ある日、とある旅篭でひとりの少年が死にかけているのが見いだされた。あまりよく英語を話せない、その貧しいウェールズ人の少年に向かって、「何を君は望みとしているのだね」、と聞いた者があった。----「君は自分の魂について何を望みとしているのだね」、と。少年は何と答えただろうか? 彼は問いかけた人に向き直ると、おぼつかない英語でこう云った。「イエス・キリストは、みんなのためにたくさんです! イエス・キリストは、みんなのためにたくさんです!」、と。この言葉には深く豊かな意味がある。また別の人も、いみじくもこう云っている。----主にあってベカナムで死んだ、ある航海士の言葉である。「みんなに教えてください。----あなたの出会うすべての人に教えてください。----キリストはあらゆる人のためのお方です! 《イエス・キリストは、あらゆる人のためのお方です!》」 きょう、この救い主のもとに行って、あなたの魂の求めを申し上げるがいい。この方のもとに行って、あの美しい賛美歌の言葉で云うがいい。

「ありのままの我にて 誇れるもの何もなきまま
 ただわがため 汝が血の流されしゆえ
 また汝の われに来よと命じ給うがゆえ----
   おゝ、神の子羊よ われは行かん!

「ありのままの我にて 魂の染み黒くあるまま
 いかな汚れも わが手で除かんとはせず
 ただ汝が血 汚れをばみな よくきよめんがゆえ----
   おゝ、神の子羊よ われは行かん!」

 このような思いで主イエスのもとに行くがいい。主はあなたを受け入れてくださるであろう。あなたを拒みはしないであろう。あなたを蔑みはしないであろう。あなたに赦しと、平安と、永遠のいのちを与え、聖霊の恵みを与えてくださるであろう。

 あなたは私に、それ以上に何かすべきことがあるかどうか尋ねるだろうか? しかり! 私は答える。行って、自分にわかっているあらゆる罪と縁を切る決心をするがいい。こうした助言を律法的だと呼びたい者には、呼ばせておくがいい。私は決してこの助言を与えることから尻込みしはしない。邪悪さの中にただじっとしていることが正しいことであろうはずがない。イザヤとともに、「悪事を働くのをやめよ」、と云うことが間違っているはずがない(イザ1:16)。あなたの罪が何であれ、神の助けによって決心するがいい。明日の朝目覚めたときには、あなたは心を入れ換えて、その罪とは縁を切る、と。----それが飲酒であれ、悪態をつくことであれ、安息日を守らないことであれ、かんしゃくを起こすことであれ、嘘であれ、ごまかしであれ、貪欲であれ、----あなたの罪と過ちが何であれ、----神の恵みによって決意するがいい。あなたはそれとすっぱり縁を切る、と。一刻も早くそれを打ち捨て、神の助けによって、あなたの生きる限り、それに背を向けるがいい。それをあなたから振り落とすがいい。それはあなたに咬みついてあなたを死に至らせる蛇である。それを遠くへ投げ捨てるがいい。それは船を破滅へと引きずり込む役立たずの材木である。あなたにからみつく罪を振り捨てるがいい。----打ち捨てるがいい。----背を向けるがいい。----縁を切るがいい。神の助けによって、その点に関して自分は二度と罪を犯さないと決意するがいい。

 しかし私が思うに、もしかするとこの本の読者の中には、悔い改めるのは恥ずかしいと思っている人がいるかもしれない。私はあなたに切に願う。そのような恥じる思いを永遠に振り捨てるがいい。決して神に対する悔い改めを恥じてはならない。罪については恥じてよい。嘘をつくこと、悪態をつくこと、酩酊、賭博、安息日を守らないこと、----こうしたことについては人は恥じ入るべきである。しかし、悔い改めについて、祈りについて、キリストへの信仰について、神を求めることについて、魂を気遣うことについて、----決して、決して、いのちの日の限り、決してこうした事がらを恥じてはならない。かなり前に私は、直接私に向かって語られたことから、他人を恐れる人がいかなることまで行なえるか、多少とも知らされたことを思い出す。私はひとりの男の臨終に付き添っていた。彼は、第七近衛竜騎兵隊の軍曹であった。強い酒を飲み過ぎたために健康を害したのだった。彼は自分の魂について無頓着で、考えなしの男であった。だが彼がその臨終の床で私に告げたところ、彼が最初に祈り始めたとき、妻にそれを知られるのが恥ずかしいあまり、祈るため二階に行くときには、何をしているか妻には悟られないように、靴を脱いで靴下のまま忍び足で階段を昇るのが常だったという。まことに、残念なことながら、この男のような人は数多くいるのではなかろうか! そのような者のひとりになってはならない。何を恥じるにせよ、決して神を求めることを恥じてはならない。

 しかし、私が思うに、もしかするとこの本の読者の中には、悔い改めるのが恐ろしいと思っている人がいるかもしれない。あなたは、自分が悪人すぎて、無価値すぎて、キリストから受け入れてなどもらえないだろうと考えている。もう一度私はあなたに切に願う。そのような恐れは永遠に振り捨てるがいい。決して、決して、悔い改めることを恐れてはならない。主イエス・キリストは非常に恵み深いお方である。主はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。主に近づくことを恐れてはならない。----そこにはあなたのための告解場が備えられている。人が作った告解場など何1つ必要ない。恵みの御座こそ真の告解場である。----いかなる叙任された人間も、司祭も、主教も、教役者も、あなたと神との間に立たせる必要はない。主イエスこそ、真の《大祭司》である。主イエス・キリストこそ、真の《慰め主》である。主ほど賢く、主ほど愛に満ちたお方はいない。主のほかいかなる者もあなたに赦罪を与え、あなたを軽やかな心と完全な平安のうちに帰らせることはできない。----おゝ、私があなたにもたらしている招きを受け取るがいい。何物も恐れてはならない。キリストは「きびしい方」ではない。キリストは「だれをもさげすまない」(ヨブ36:5)。きょう、立ち上がって、主のもとに逃れ行くがいい。一刻も早くキリストのもとに行って、今夜悔い改めるがいい。

 (3) 私の最後の適用の言葉は、悔い改めがいかなるものか経験によって知っているすべての人々に対する勧告となる。私はそれを、神の恵みによって自分の罪を感じ、自分の罪について悲しみ、自分の罪を告白し、自分の罪を打ち捨て、イエス・キリストの血のうちに平安を見いだしているすべての人々に語りかけるものである。私があなたに云いたいのは、ほかならぬこのことである。あなたの悔い改めを保ち続けるがいい。----あなたの悔い改めを保ち続けるがいい。人生最後の日まで、油断せずにこれを見張っておくことを心の習慣とするがいい。決してこの火が勢いを弱めたり、消えかかったりしないようにするがいい。いのちを愛しているなら、あなたの悔い改めを保ち続けるがいい。

 むろん私は、あなたが悔い改めをキリストにしたり、悔い改めをあなたの魂の束縛にしたりしてほしくはない。私が命じているのは、決して自分の義認の程度をあなたの悔い改めによって測ったり、悔い改めが不完全だからといってあなたの罪は赦されないと考えるなどということではない。義認と悔い改めは全く別物である。2つの異なるものを混同してはならない。人を義と認めさせるのは信仰だけである。キリストをつかみとる信仰だけである。しかし、こうしたすべてにもかかわらず、あなたの悔い改めを執拗に守るがいい。それを保ち続け、----保ち続け、----決してその火の勢いを弱めさせてはならない。自分の魂がたるんできたときには常に、----自分が低調で、不活発で、鈍重で、冷たくて、小さな種々の罪について無頓着になってきたときには常に、自分の心に気をつけて、倒れることがないように留意するがいい。自分の魂に向かって云うがいい。「おゝ、わが魂よ。お前は何をしているのか? お前はダビデの転落を忘れてしまったのか? ペテロの信仰後退を忘れてしまったのか? ダビデのその後のみじめさを忘れてしまったのか? ペテロのその後の涙を忘れてしまったのか? 目覚めるがいい、わが魂よ。再び目覚めるがいい。燃料をつぎ込み、火を明るく燃やすがいい。もう一度お前の神のもとに帰り、もう一度お前の悔い改めを活気づけるがいい。----お前の悔い改めをもう一度悔い改めるがいい」、と。----悲しいかな! いかなるキリスト者の最良の時期といえども、「悔い改めを働かせ」ないでおける時の何と僅かしかないことか!

 あなたの悔い改めを、生涯最後の日まで保ち続けるがいい。嘆くべき罪、告白すべき弱さは常にあるであろう。それを日ごとに主イエス・キリストのもとに持ち出し、主から日ごとにあわれみと恵みの供給を得るがいい。この偉大な《大祭司》に日ごとに告解し、日ごとに赦罪を受け取るがいい。この過越の《子羊》によって日ごとに養われるがいい。しかし、それが苦菜を添えて食べるべきものであることを決して忘れてはならない。「先生」、とひとりの青年がフィリップ・ヘンリに云った。「人はどれくらい長く悔い改め続けるべきでしょうか? ヘンリ先生、あなたはどれくらい長くご自分の悔い改めを続けようとしていらっしゃいますか?」 老フィリップ・ヘンリは何と答えただろうか? 「私は、自分の悔い改めを、まさに天国の門の前まで続けようと思っています。毎日、私は自分が罪人であることに気づき、毎日、悔い改める必要があるのです。私は自分の悔い改めを、神のお助けにより、まさに天国の門の前まで続けようと思っていますよ」。

 願わくはこれが私たちの神学であり、あなたの神学であり、私の神学であるように! あなたの神学的立場であり、私の神学的立場であるように! 願わくは神に対する悔い改めと、私たちの主イエス・キリストに対する悔い改めとが、私たちのキリスト教信仰におけるヤキンでありボアズ----神殿前の二本の大柱(II歴3:17)----であり、私たちのキリスト教体系の隅のかしら石であるように! 願わくはこの2つが決して引き離されないように! 願わくは私たちが、悔い改めつつ信じ、信じつつ悔い改めているように! そして、願わくは、悔い改めと信仰、信仰と悔い改めとが、常に私たちの魂の信仰箇条において最上位に立ち、真っ先に来るべき、主要な、第一の条項であるように!

悔い改め[了]

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