Faith!           目次 | BACK | NEXT

15. 信仰!


「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」----ヨハ3:16

 このページの冒頭に冠された聖句ほどよく知られた聖句はほとんどない。その言葉は、まず間違いなく私たちの耳になじんだものであろう。ほとんどの人は、少なくとも百度は、この言葉を聞いたり、読んだり、引用したりしたことがあるのではないかと思う。しかし私たちは、この聖句にどれほど膨大な量の神学が含まれているか、一度でも考えたことがあるだろうか? ルターがこれを「聖書の縮小版」と読んだのも無理はない!----また私たちは、この聖句の要となっている言葉について考えたことが一度でもあるだろうか? 一度でも、その言葉から生じている途方もなく厳粛な問いかけのことを考えたことがあるだろうか? 私が言及しているのは、「信じる」という言葉である。主イエスは云っておられる。「信じる者は、ひとりとして滅びることがない」*、と。さて、《私たちは信じているだろうか?》

 キリスト教信仰に関する問いかけは、めったに人受けすることがない。それは人々をぎょっとさせる。人々に内面を見つめさせ、考えさせる。支払い不能に陥った商人は、自分の帳簿が調べられるのを好まない。不忠実なしもべは、自分の勘定書が吟味されるのをいやがる。そして未回心のキリスト者は、自分の魂について肺腑をえぐるような問いかけをされることを好まないのである。

 しかし、キリスト教信仰に関する問いかけは非常に有益なものである。主イエス・キリストは、地上で伝道活動をなさっておられた間、多くの問いかけを発された。キリストのしもべは、自分も同じようにすることを恥じるべきではない。救いにとって必要な事がらに関する問いかけ、----良心を厳密に調べ、人々を神に直面させる問いかけ、----そうした問いかけは、しばしば魂にいのちと健康をもたらす。そして私の知る限り、この聖句から生ずる問いかけほど重要なものはほとんどない。《私たちは信じているだろうか?》

 私たちの前にある問いかけは、簡単に答えを返せるものではない。「もちろん私は当然信じてますよ」、などと無造作に答えてわきへ押しやっても、何にもならないであろう。真の信仰心とは、多くの人の考えとは違い、そうした「当然のこと」ではない。膨大な数のプロテスタント教徒とローマカトリック教徒が、日曜ごとに、「われは信ず」、としきりに唱えているが、彼らは信ずるということについて全く何もわかっていない。自分の唱えていることの意味を云い表わすことができない。自分が何を信じ、だれを信じているかわかっていない。自分の信仰について何の説明もできない。この種の信仰心は、まるで何の役にも立たない。それは満足させることも、聖とすることも、救うこともできない。

 「信じる」ことがいかに重要であるか明確に見てとるには、この論考の冒頭に関したキリストのことばを熟考すべきである。この言葉を解説することによって、私はこの、「私たちは信じているだろうか?」、という問いかけの重さを示したいと希望している。

 私はこれから4つのことを考察し、この本を読むすべての方々の思いにそれを深く印象づけたいと思う。その4つとは以下の通りである。

 I. 世に対する神のみ思い。----神はそれを「愛された」。
 II. 世に対する神の賜物。----神はそのひとり子をお与えになった。
 III. 神の賜物の恩恵を手に入れる唯一の道。----信じる者は、ひとりとして滅びることがない。
 IV. 真の信仰心を見分けるためのいくつかの目印。

 I. 第一のこととして考察したいのは、世に対する神のみ思いである。----神はそれを「愛された」。

 世に対する御父の愛の範囲は、いささか意見の相違がある主題である。だが、この主題について、私は長年はっきりとした立場を取ってきており、決して自分の意見を表明することをためらうものではない。私が信ずるに、聖書の教えるところ、神の愛は全人類に対して広がっている。「そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります」(詩145:9)。神はユダヤ人だけを愛したのではなく、異邦人をも愛された。ご自分の選びの民だけを愛しておられるのではない。全世界を愛しておられる。

 しかし御父が全人類を愛しておられるこの愛とは、いかなる種類の愛であろうか? それは、満足した心から出た愛ではありえない。さもないと神は完全な神であることをやめるであろう。神は、「その目が悪を見ることのできない」*お方である(ハバ1:13)。おゝ、否! イエスが語っておられる世界に及ぶ愛とは、いつくしみと、憐憫と、同情する心から出た愛である。いかに人間が堕落した者であれ、いかに人間の生き方が怒りを招くものであれ、神のみ心は、人間に対するいつくしみで満ちている。神は、正義の審判者としては罪を憎みつつも、それでも、ある意味においては、罪人たちを愛しておられるのである! 神の同情心の長さと広さは、私たちの不十分な物差しで測れるようなものではない。私たちは、神を自分たちと同じような存在であると考えるべきではない。神は、義であり、聖であり、きよくあられるが、それでも全人類を愛することがおできになるのである。「主のあわれみは尽きない」(哀3:22)。

 しばらく私たちは、この神の愛の範囲がいかに素晴らしいものであるか考えてみよう。地上のあらゆる地域における人類の状態を眺め、いかに驚くばかりに膨大な邪悪さと不敬虔さが地を汚しているか注意してみるがいい。----何千万もの異教徒たちが、いかに切株や石を礼拝し、「さわれるほど」の霊的暗黒の中に生きているか眺めてみるがいい。----何千万ものローマカトリック教徒が、いかに人の作り上げた伝統の中に真理を埋没させ、キリストのものたるべき栄誉を、教会や聖人たちや司祭に捧げているか眺めてみるがいい。----形だけのキリスト教に満足しきった何千万ものプロテスタント教徒が、いかにキリスト者的な信じ方やキリスト者的な生き方について、名前以外に何も知らないでいるか眺めてみるがいい。----きょうのこの日、私たちが住んでいる国を眺め渡し、わが国のごとき特権を与えられた国においてすら、いかにもろもろの罪があふれているか注意してみるがいい。英国の津々浦々で、いかなる酩酊、安息日破り、汚れ、虚偽、悪態、高慢、貪欲、不信心が、神に向かって声高に叫び立てているか考えてみるがいい。そして、思い出してみるがいい。神がこの世界を愛しておられることを! 神が「あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富」んでいると記されているのも、当然であろう(出34:6)。神は、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」。----神は、「すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」。----神は、「だれが死ぬのも喜ばない」(IIペテ3:9; Iテモ2:4; エゼ18:32)。地上に生きている男女のうち、神が絶対的に憎悪しておられる者や、完全に無関心であられる者などひとりもない。神のあわれみは、神の他のすべての属性と似ている。人知をはるかに越えているのである。神は世を愛しておられる。

 現代は、神の愛に関して、さまざまの異なった教えがあふれている。これは、サタンが誤伝や歪曲によって懸命にぼやけさせようと力を尽くしている、貴重な真理である。私たちはこれを堅くつかみ、用心を固めていよう。

 父なる神を怒った存在にするという、よくある考え方に用心しよう。その考えによると、罪深い人間はこのお方を恐れをもってしか見ることができず、このお方を避けるために人はキリストのもとへと逃れ行かなくてはならないのだという。こうした考え方は、根も葉もない、非聖書的な観念だとして、振り捨てるがいい。むろん神のすべてのご属性のためには熱心に闘わなくてはならない。----神の愛のためだけでなく、神の聖、神の義のためにも闘わなくてはならない。しかし、ほむべき《三位一体》のいずれかの《位格》において、罪人たちに対する愛に欠けがあるなどということは、一瞬たりとも、決して許してはならない。おゝ、否! 御父は御子がそうあられるようなお方であり、御子は御霊がそうあられるようなお方である。御父は愛しなさり、御子は愛しなさり、聖霊は愛しなさる。キリストが地上に来られたとき、人に対する神のいつくしみと愛とが現われたのである(テト3:4)。十字架は、御父の愛の帰結であって、原因ではない。贖いは《三一神》の三《位格》すべての同情心の結果である。御父と御子を対立するものとして対置させるなどというのは、愚鈍で、支離滅裂な神学である。キリストが死なれたのは、父なる神が世を憎んでおられたからではなく、世を愛しておられたからである。

 また、神の愛は、ご自分の選びの民だけに限定される、制限されたものであるなどという、やはりよくある教えに用心するがいい。この教えによると、その他の全人類は見過ごされ、無視され、放っておかれているのだという。これもまた、聖書の光で吟味されると持ちこたえられない観念である。放蕩息子の父親は、その子が自分の欲望に従って生活し、家に帰るのを拒んでいるときも、確かにその子を愛し、あわれむことができたに違いない。万物の《創造主》は確かに、ご自分の御手のわざを、ご自分に対して反逆しているときでさえも、同情深く愛することがおできになるに違いない。----むろん私たちは、万人救済説という非聖書的な教えには死ぬまで抵抗しよう。全人類が最終的には救われるというのは正しくない。しかし、神の万人に対する同情心を否定するという極端にも走らないようにしよう。神が「世を愛して」おられることに間違いはない。----むろん私たちは、神に選ばれた人々の特権を執拗に守り抜こう。彼らが格別な愛で愛されており、未来永劫にわたって愛され続けることは確かである。しかし、神のいつくしみと同情心の枠内から、いかなる人々をも除外しないようにしよう。「神は世を愛された」、とイエスが云われるとき、そのことばの意味を切り詰める権利は私たちにはない。神のみ心は、人の心よりもはるかに広い。ある意味において御父は、全人類を愛しておられるのである*1

 もしこのページを読んでいる人の中に、まだ一度も、本当に熱心にはキリストに仕え始めたことがなく、今それを始めたいという願いを少しでも抱いている人がいるとしたら、あなたの前にある真理に励まされるがいい。父なる神は、無限の愛と同情心をお持ちの神であるとの考えに励まされるがいい。神は怒っているお方だとか、罪人を受け入れることを喜ばず、赦すのに遅いなどという考えによって、尻込みしたり、ためらったりしてはならない。愛こそ御父が最も大切になさる属性であると、きょう覚えるがいい。御父のうちには、完全な義と、完全なきよさと、完全な知恵と、完全な知識と、無限の力がある。しかし、何にもまして決して忘れてはならない。御父のうちには、完全な愛と同情心があるのだ、ということを。あなたは、イエスがあなたのために道を開いてくださったゆえに、大胆に御父に近づくがいい。しかし、もう1つ、「神は世を愛された」と記されているがゆえにも、大胆に御父に近づくがいい。

 もしもあなたがすでに神に仕え始めているとしたら、あなたが仕えているお方にならうことを決して恥じてはならない。すべての人々に対する愛といつくしみに満ち、特に信仰を持っている人々に対する愛に満ちあふれるがいい。あなたの愛には、決して狭量なもの、分け隔てをするもの、けちくさいもの、しみったれたもの、偏狭なものがないようにするがいい。家族や友人だけを愛していてはならない。----全人類を愛するがいい。あなたの隣人をも、あなたの同国人をも愛するがいい。見知らぬ人々をも、外国人をも愛するがいい。異教徒をも、イスラム教徒をも愛するがいい。最低の人間をも、憐憫の愛によって愛するがいい。いかなるねたみも悪意も打ち捨てるがいい。----いかなる利己主義も不親切も打ち捨てるがいい。そのような精神を保ち続ける人は、不信者に何らまさるところがない。「いっさいのことを愛をもって行ないなさい」。----「自分の敵を愛し、あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱し、迫害する者のために祈りなさい」。そして、生涯最後に至るまで、彼らに善を施すのに飽いてはならない(Iコリ16:14; マタ5:44 <英欽定訳>)。世はそのようなふるまいを鼻で笑い、それを卑屈だとか、軟弱だとか云うかもしれない。しかし、これがキリストのみ思いなのである。これこそ神に似た者となる道である。《神は世を愛された》。

 II. 私が考察したい第二のことは、世に対する神の賜物である。神はそのひとり子をお与えになった。

 私たちの前にある真理を、私たちの主イエス・キリストが述べておられるしかたには、格別な注意を払うべきである。現代、神の愛について大仰で尊大な物言いをしている多くの人々は、主イエスがそれを私たちの前に示しておられるやり方に注目した方がよいであろう。

 世に対する神への愛は、決して漠然とした、抽象的な観念ではない。何の証拠もなしに、神にはあわれみがあるはずだと思い込まなくてはならないようなものではない。この愛は、偉大な賜物によって歴然と示された愛である。この愛は、平易に、取り違えようもなく、明白な形をとって私たちの前に現わされた愛である。父なる神は、ただ天国に座ったまま地上を見下ろし、ご自分の堕落した生き物たちをあわれみ、愛しているだけで満足しはしなかった。御父は、言葉に尽くすこともできない価値ある賜物によって、私たちに対するその愛の途方もなく大きな証拠を与えてくださった。御父は、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された」(ロマ8:32)。神は、そのひとり子、主イエス・キリストを私たちにお与えになるほど、私たちを愛された! 御父の愛をこれ以上に証明することは何物によってもできなかったに違いない。

 さらに、ここには、神は世を愛されたので世を救うことに決めた、とは記されていない。そうではなく、神は世を愛されたのでキリストをお与えになった、と記されている。神の愛は、その聖と義を犠牲にした上で現わされたのではない。神の愛は、ある特定の経路を通って、天から地へと流れている。ある特別なしかたにおいて、人々の前に示されている。それは、ただキリストを通して、キリストによって、キリストのゆえに、キリストのみわざと分かちがたい結びつきにおいて、示されているのである。私たちは、ありとあらゆる点で神の愛を誇りとしよう。全世界に向かって神は愛なりと宣言しよう。しかし、注意深く覚えていよう。私たちは、自分たちに慰めを与える神の愛について、イエス・キリストによらなけれぱ、ほとんど、あるいは全く何も知らないのだ、と。神は、全世界を天国に連れていってくださるほどに、世を愛された、とは書かれていない。そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された、と書かれてあるのである。キリストについて一言もふれずに、神の愛によりかかる者は、砂上の楼閣を築いているにすぎない。

 神が世にそのひとり子をお与えになったというとき、その賜物の大きさをだれが測り知れよう? それは、言葉に尽くすことができず、理解を絶するものである。人知を越えたものである。2つの事がらについて、人間はいかなる計算能力も、いかなる測深索も有していない。その1つは、自分の魂を失った人がこうむる損失の甚大さである。もう1つは、神がキリストを罪人にお与えになったときの神の賜物の大きさである。神が私たちの贖いのために与えてくださったのは、いかなる被造物でもなかった。地の宝のすべてと、天の星々のすべてを意のままにできるお方であったにもかかわらず、神はそうなさらなかった。神が私たちの贖い主となるために与えられたのは、いかなる造られた者でもなかった。天にいる御使いも、主権も、力も、みこころを喜んで行なおうとしていたにもかかわらず、神はそうなさらなかった。おゝ、否! 神が私たちにお与えになったのは、神ご自身と同格のお方、まさに神たる真の神、神のひとり子その方以下の何者でもなかった。人間の必要や人間の罪を軽く考える人は、人間の救い主がいかなるお方であったか考えてみた方がよい。御父がそのひとり子を罪人の《友》とせざるをえなかったからには、まことに罪は極度に罪深いものであるに違いない。

 私たちは今まで一度でも、御父がそのひとり子を何に対してお与えになったか考えたことがあるだろうか? それは、失われ、破綻した世界から感謝と謝意をもって迎えられるためだっただろうか? 回復された地上で威光ある王権をもって支配し、すべての敵をその足下に踏みにじるためだっただろうか? 王としてこの世に到来し、従順な民を意のままに従わせるためだっただろうか? 否! 御父が御子をお与えになったのは、御子が「さげすまれ、人々からのけ者にされ」るためであり、貧しい女から生まれ、貧困の中で生きるため、----憎まれ、迫害され、中傷され、冒涜されるため、----犯罪者とみなされ、罪人として断罪され、悪党として死ぬためであった。このような愛はいまだかつて、あったためしがない! これほどのへりくだりはない! 私たちの間で、自分には善を施すために身を大いに屈め、大いに苦しむことなどできない、というような人は、キリストのみ思いを全く知らないのである。

 御父は、いかなる目当てと目的のために、そのひとり子をお与えになったのだろうか? それは、自己否定と自己犠牲の模範を与えるだけのためだっただろうか? 否! それは、それよりはるかに高い目当てと目的のためであった。御父が御子をお与えになったのは、人間の罪のためのいけにえとするため、人間のそむきの罪の贖罪とするためだった。御子が私たちの罪のために死に渡され、不敬虔な者のために死ぬためだった。御子が私たちの咎を負い、私たちの罪のために苦しみ、正しい方が悪い人々の身代わりとなるためだった。御子が私たちのため呪いとされることにより、私たちが律法の呪いから贖い出されるためだった。罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とし、私たちが、この方にあって、神の義となるためだった。御子を私たちの罪のための、----私たちの罪だけでなく全世界のための、----なだめの供え物とするためだった。御子がすべての人々の贖いの代価となり、神に対する私たちの莫大な負債を償うため、その尊い血を流させるためだった(Iペテ3:18; ガラ3:13; IIコリ5:21; Iヨハ2:2; Iテモ2:6; Iペテ1:18、19)。御父が御子をお与えになったのは、人類というすべての罪人の《全能の友》とならせるため、----彼らの《引受人》となり《代理人》とならせるため、----彼らのために、彼らが自分では決してできなかったことを行なわせるため、----彼らが決して苦しむことのできなかった苦しみを受けさせるため、----彼らが決して払えなかったものを支払わせるためだった。イエスが地上で行なわれ、苦しまれたすべては、神の定めた計画と神の予知に従った結果であった。主が生きて死なれた第一の目的は、人類に永遠の贖いを与えるためであった。

 キリストが父なる神から与えられたこの大目的を、決して見失わないよう用心するがいい。私たちは、現代神学が唱える偽りの教えがいかにまことしやかに聞こえても、この昔からの通り道を捨て去るよう誘惑されてはならない。聖徒にひとたび伝えられた信仰を固守するがいい。----キリストが与えられた特別の目的は、罪人たちのために死ぬこと、また十字架上におけるご自分のいけにえによって彼らの贖いをすることであった。いったん、この偉大な教理を捨ててしまえば、キリスト教には戦って守るべきものなどほとんどない。もしキリストが現実に私たちの《代理》として「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ」たのでなかったとすれば、いかなる堅固な平安にも終止符が打たれる(Iペテ2:24)。

 さらに、キリストの贖いの範囲について、狭く、限定された見方をいだかないように用心するがいい。キリストを、御父から全世界に共通の《救い主》として与えられたお方であるとみなすがいい。キリストのうちには、すべての罪と汚れをきよめる泉を見てとるがいい。その泉のもとには、いかなる罪人も大胆に来て、飲み、生きることができるのである。キリストのうちには、宿営の真中に掲げられた青銅の蛇を見てとるがいい。罪に咬まれたいかなる魂も、その蛇を見上げて癒されることができるのである。キリストのうちには、比類ない価値の薬を見てとるがいい。その薬は、全世界の要求に対して十分であり、全人類に無代価で差し出されているのである。天国への道は、すでに人間の高慢や、かたくなさや、怠惰や、熱意のなさや、不信仰によって十分狭い。しかし、あなたはそれを、実際にそうである以上に狭くしないように留意するがいい。

 私は大胆に告白するが、私は他のいかなる人にも負けないほど強く、確かな意味において、特定救済の教理を主張するものである。私の信ずるところ、神に選ばれた人々以外の何者も有効に贖われることはない。彼らが、彼らだけが、罪の咎と、力と、種々の結果から自由にされるのである。しかし、私がそれに劣らず強く主張するのは、キリストの贖いのみわざは全人類のために十分である、ということである。ある意味でキリストは、すべての人のために死を味わわれ、世の罪をわが身に負われた(ヘブ2:9; ヨハ1:29)。私は、自分にとって明らかな聖書の言明と思われるものを、あえて切り詰めたり、狭めたりしようとは思わない。自分の目には神が開いておられると思われる扉を、あえて閉じようとは思わない。地上のいかなる人に対しても、キリストはあなたのために何もしてくださらなかったのだとか、あなたが救いを求めて大胆にキリストに訴えかけることのできる保証などないのだ、などと告げようとは思わない。私は聖書の言明に従い続けなくてはならない。キリストは全世界に対する神の賜物である。

 私たちは、真のキリスト教がいかに与える宗教であるかに注目しよう。賜物、愛、無代価の恵みこそ、純粋な福音の大きな特徴である。御父は世を愛して、そのひとり子をお与えになった。御子は私たちを愛して、ご自分を私たちのためにお与えになった。御父と御子はともに、求める者だれにでも聖霊を与えてくださる。《ほむべき三位一体》の《三位格》すべてが、信ずる者すべてに「恵みの上にさらに恵みを」与えてくださる。私たちは、キリストに何らかの望みを置いていると告白しているからには、決して与えるキリスト者となることを恥じないようにしよう。自分に与えられた力と機会に応じて、惜しみなく、気前良く、自己を否定しつつ与えよう。私たちの愛の特質が、親切や同情心を通り一遍に表明するだけでしかない、などということがないようにしよう。行為によってその証明をしよう。地上におけるキリストの御国の伸展を金銭と、影響力と、労苦と、祈りとによって助けよう。神が、私たちの魂のためにひとり子を与えるほどに私たちを愛されたからには、私たちは人々に善を施すために、自分にできる限りのものを与えることを、重荷ではなく特権であるとみなすべきである。

 神が私たちにひとり子をお与えになったからには、私たちは、いかに痛ましい摂理を日常生活の中で経験しようとも、神のいつくしみと愛とを疑うことがないように用心しよう。決して神に恨みがましい思いをいだいたり、怒ったりすることを許してはならない。神が、真に私たちのためにはならないことを私たちにお与えになることがある、などと決して考えてはならない。聖パウロの言葉を思い出そう。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ロマ8:32)。私たちは、この地上の巡礼におけるいかなる悲しみや困難に際しても、私たちの罪のためにキリストを与えて死なせたお方の御手を見てとることにしよう。その御手は決して愛によらずに私たちを打つことなどありえない。ご自分のひとり子を私たちにお与えになったお方は、決して真に私たちのためになるものを私たちに差し止めてはおかない。この考えによりかかり、満足していよう。私たちは、いかに暗い試練のおりにも、こう云おう。「これもまた、私の罪のためキリストを与えて死なせたお方によって命ぜられているのだ。それが間違っているはずがない。それは愛によってなされているのだ。良いことに違いない」、と。

 III. 私が考察したい第三のことは、神の愛とキリストの救いを手に入れることのできる道である。こう記されている。信じる者は、ひとりとして滅びることがない。

 私たちの前にある点は、最も深く重要なものである。この点をあなたの目の前に明確に示すことこそ、あなたが今読んでいる論考の一大目的にほかならない。神は世を愛された。神は、そのひとり子をお与えになり、「世の救い主として」くださった(Iヨハ4:14)。だがしかし、聖書の教えるところ、世にある多くの人々は、決して天国に到達できないのではなかろうか? ここには、とにもかくにも制限がある。ここにこそ、狭い門、狭い道がある。人類のうちの一部が、一部だけが、キリストからの永遠の恩恵を手に入れるのである。では、その人々とはだれだろうか? いかなる人々なのだろうか?

 キリストとその恩恵を獲得できるのは、ただ信ずる人々だけである。新約聖書の言葉遣いによれば、信ずるとは単に信頼することにほかならない。信頼することと信ずることは同じことである。これは、聖書の中で何度となく、平易な言葉で、取り違えようのないしかたで主張されている。キリストを信頼しない、あるいはキリストを信じない者は、キリストの恩恵に全くあずかることがないであろう。単にキリストが受肉してくださったからというだけで、だれかが救われるだろうなどと考えても無駄である。----あるいは、キリストが天におられるからとか、----彼らがキリストの教会に属しているからとか、----彼らがバプテスマを受けているからとか、----彼らが主の晩餐にあずかっているからとかいう理由で救われると考えても無駄である。これらはみな、いかなる人にとっても、その人が信じていない限り、何の役にも立たない。その人の側に信仰、あるいは信頼がなければ、こうした事がらをみな合わせても、その人の魂を救うことはないであろう。私たちにはキリストに対する個人的な信仰がなくてはならない。キリストとの個人的なやりとりが、キリストとの個人的な関係がなくてはならない。さもないと私たちは永遠に失われたままである。キリストはいかなる人のうちにもおられる、などというのは完全に偽りであり、非聖書的なことである。疑いもなくキリストは、すべての人のためのお方ではあるが、すべての人の中におられるお方ではない。主が住んでおられるのは、信仰を有する心の中だけである。そして、不幸なことだが、すべての人が信仰を有しているわけではない。神の御子を信じていない人は、まだ自分の罪の中におり、「神の怒りがその上にとどまる」者なのである。私たちの主イエス・キリストは、すさまじいほど明確なことばでこう云っておられる。「信じない者は罪に定められます」、と*2(マコ16:16; ヨハ3:36)。

 しかし、キリストとそのすべての恩恵とは、人類の中のいかなる人であっても、信じれば自分のものとすることができる。神の御子を信じて、自分の魂を御子にゆだねる人はみな、すぐさま赦罪を受け、赦され、義と認められ、義人に数えられ、罪ない者とみなされ、断罪を受けるあらゆる責任から自由にされるのである。その人のもろもろの罪は、いかに多くとも、たちまちキリストの尊い血によってきよめられる。その人の魂は、いかに咎があっても、たちまちキリストの完璧な義を着せられる。その人が過去いかなる人であったかは関係ない。その人の罪は最低の種類のものだったかもしれない。その人の以前の性格は、どす黒い暗黒の種類のものだったかもしれない。しかし、その人は神の御子を信じるだろうか? これこそ唯一の問題である。もしその人が信じるなら、神の前であらゆることから義とされるのである。----その人がキリストに何も自分を推賞するものをもたらせず、長年にわたる改心の証拠や、取り違えよもない悔い改めや生活の変化を何1つもたらせなくとも関係ない。だが、その人はこの日イエス・キリストを信じるだろうか? これこそ大問題である。もし信じるなら、その人はたちまち受け入れられる。キリストのゆえに義とみなされる。

 しかし、これほど比類なく重要な、この信じることとはいかなることだろうか? 人にこれほど驚くばかりの種々の特権を与えるこの信仰とは、いかなる性質をしているものなのだろうか? これは重要な問題である。その答えに注意してほしいと思う。ここには、多くの人々が難船してきた岩礁がある。救いに至る信仰心に、真の意味で神秘的なもの、理解しがたいものは何もない。しかし、その困難さのすべては、人間の高慢と自分を義とする思いから生じてくる。人を義とする信仰の単純さそのものにこそ、おびただしい数の人々がつまずくのである。彼らがそれを理解できないのは、身を屈めようとしないからである。

 キリストを信ずるとは、単なる知的同意でも、頭の中でだけ信ずることでもない。これは悪霊たちの信仰に何らまさるものではない。あなたは、かつてイエス・キリストと呼ばれる天来の《お方》がいたこと、そのお方が千八百年前に生きて、死んで、よみがえったことを信じているかもしれない。だがしかし、決して救われるように信じていないこともありえる。疑いもなく、まずある程度の知識がなければ、信じることはできない。真のキリスト教信仰は無知の中にはない。しかし、知識だけでは救いに至る信仰にならない。

 また、キリストを信ずるとは、キリストについて何かを感じることでもない。それは、しばしば一時的な興奮に何らまさるところなく、朝露のようにたちまち消え失せてしまう。私たちはヘロデやペリクスのように、良心を刺されて、福音に引き寄せられるのを感じるかもしれない。からだが震え、涙を流し、真理と真理を告白する人々に対して大きな愛情を示すことすらあるかもしれない。だがしかし、こうしたすべての間、私たちの心と意志は全く変わっておらず、裏ではこの世に縛りつけられていることもありえる。疑いもなく、何の感情も動かないところに、救いに至る信仰はない。しかし、感情だけでは信仰にならない。

 キリストに対する真の信仰心は、罪を確信した心が、すべてを満ち足らわせる《救い主》としてのキリストに、何の留保もなく信頼することである。それは、全人的に頭と良心と心と意志とが合同して行なう行為である。それは最初はあまりにも弱く、かすかで、それを有している者が自分にそれがあるなどと確信することができないほどである。だがしかし、生まれたばかりの赤子のうちにあるいのちのように、その人の信仰心は現実にある、純粋な、救いに至る、真実なものでありえる。良心が罪を確信し、頭がキリストを唯一救うことがおできになる《お方》であると見てとり、心と意志がキリストの差し伸ばしておられる御手をつかみとる瞬間、その瞬間に救いに至る信仰はあるのであ。その瞬間に、人は信じているのである。

 キリストに対する信仰心は、途方もなく重要であるため、聖霊は恵み深くもそれを叙述するにあたり聖書の中で多くの比喩を用いてくださった。主なる神は、人間が霊的な事がらを理解する鈍さを知っておられる。それゆえ神は、私たちの前に信仰が完全に明らかに示されるように、表現の形を増してくださった。ある形において「信じること」を理解できない人は、ことによると別の形では理解できるかもしれない。

 (1) 信じるとは、魂がキリストのもとに来ることである。主イエスは云っておられる。「わたしに来る者は決して飢えることが……ありません」。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(ヨハ6:35; マタ11:28)。キリストは、助けを必要としているすべての罪人が訴え出るように命ぜられている、《全能の友》であり、《弁護者》であり、《医者》である。信仰者は、信仰によってこの方のもとに来て、解放されるのである。

 (2) 信じるとは、魂がキリストを受け入れることである。聖パウロは云う。「あなたがたは……主キリスト・イエスを受け入れたのです」(コロ2:6)。キリストは、赦しと、あわれみと、恵みとを携えて、ある人の心の中に来て、そこにその《調停者》として、また《王》としてお住まいになろうと申し出ておられる。主は云われる。「わたしは、戸の外に立ってたたく」(黙3:20)。信仰者は、この方の御声を聞いて、その戸を開き、キリストを自分の《主人》とし、《祭司》とし、《王》として迎え入れるのである。

 (3) 信じるとは、魂がキリストの上に建てられることである。聖パウロは云っている。あなたがたは、「キリストの中に……建てられ」。----「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており」(エペ2:20; コロ2:7)。キリストは堅固な礎石であり、罪深い魂の重みを支えることのできる唯一の強固な土台である。信仰者は、永遠に対する自分の望みをキリストの上に置いている。地は揺れ動き、崩れ去るかもしれない。だが、その人は岩の上に建てられており、消して失望することはない。

 (4) 信じるとは、魂がキリストを着ることである。聖パウロは云う。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」(ガラ3:27)。キリストは、天国に入るだろうすべての罪人たちのために神が備えてくださった、きよい白い衣である。信仰者は、信仰によってこの衣を着るとき、神の前ではたちまち完璧な者となり、あらゆるしみから自由にされるのである。

 (5) 信じるとは、魂がキリストをつかむことである。聖パウロは云う。「私たちは、前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来たのです」*(ヘブ6:18)。キリストは、真ののがれの町であり、血の復讐をする者から逃れようとする者が逃げ込んで、安全になれる場所である。キリストは、その角をつかむ者に避難所を提供する祭壇である。キリストは、失われ、溺れつつある罪人たちに向かって天から神が差し出しておられる、あわれみ深い全能の御手である。信仰者は、信仰によってその御手をつかみ、地獄の穴から救出されるのである。

 (6) 信じるとは、魂がキリストを食べることである。主イエスは云っておられる。「わたしの肉はまことの食物、このパンを食べる者は永遠に生きます」(ヨハ6:55、58)。キリストは、飢えた罪人たちのため神が備えてくださった天来の食物である。同時に、いのちと、滋養と、薬とになる天来のパンである。信仰者は、信仰によってこのいのちのパンで養われる。その人の飢えは満たされる。その人の魂は死から救い出される。

 (7) 信じるとは、魂がキリストを飲むことである。主イエスは云っておられる。「わたしの血はまことの飲み物……です」(ヨハ6:55)。キリストは、渇きを覚える、罪に汚れた罪人たちすべてに用いさせるために神が開かれた、生ける水の泉である。神は宣言しておられる。「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」(黙22:17)。信仰者は、この生ける水を飲み、その渇きは癒されるのである。

 (8) 信じるとは、魂が自らをキリストに任せることである。聖パウロは云う。「その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができる」(IIテモ1:12)。キリストは、魂を守る定めの番人また守護者である。ご自分の責任に任せられたいかなるものをも、罪と、死と、地獄と、悪魔から保護することがキリストの職務である。信仰者は、自分の魂を《全能の》宝庫番の手に渡して、それが永遠に失われることはないと保証されているのである。その人は、自分をこの方にゆだねて安全である。

 (9) 最後に、しかしこれも重要なこととして、信じるとは、魂がキリストを見ることである。聖パウロは聖徒たちのことを「イエスから目を離さない」者たちと述べている(ヘブ12:2)。福音はこう招いている。「わたしを仰ぎ見て救われよ」(イザ45:22)。キリストは、神がこの世に立てられた青銅の蛇であり、罪に咬まれ、治りたいと願うすべての魂を癒すことができる。信仰者は、信仰によってこの方を見て、いのちと、健康と、霊的な力を得るのである。

 私がここまで述べてきた9つの表現すべてに共通してあてはまることが1つ云える。それらはみな私たちに、信仰について、あるいは信じて信頼することについて、人間に望みうる限り、最も単純な観念を伝えている、ということである。それらのうち1つとして、信仰するという行為に何か神秘的なもの、偉大なもの、功績に値するものがあると暗示するものはない。それらはみな、信仰するということを、いかに弱く、頼りない罪人にも手の届くもの、いかに無知で無学な者にも理解できるものとして云い表わしている。かりに、だれかが、自分にはキリストに対する信仰がいかなるものか理解できない、ということを認めてみよう。ではその人は、聖書で信仰について叙述している9つの表現を眺めてみるがいい。そして、できるものなら、それが理解できないと云ってみるがいい。確かにその人は、キリストに来ること、キリストを見ること、私たちの魂をキリストに任せること、キリストをつかむことが、単純な観念であると認めざるをえないはずである。ならば、その人は思い起こすがいい。来ること、見ること、魂をキリストに任せることが、言葉を換えれば、信ずることなのだ、ということを。

 さて、もしこのページを読む方々の中に、自分もキリスト教信仰によって良心の平安を得たいと願う人がいるなら、私はその人に切に願う。私がここまであなたの前にはっきり示そうとしてきた大いなる教理をしっかりと握りしめ、決してそれを手放さないでほしい。救いに至る信仰とは、キリストに対する単純な信頼にほかならず、信仰だけが人を義とするものであり、キリストの恩恵にあずかるために唯一必要なのは信じることであるという、この一大真理を堅くつかむがいい。----疑いもなく、悔い改めや、聖潔や、愛は、いともすぐれたことである。これらは常に真の信仰に伴うであろう。しかし、義認という問題において、それらは何1つ関与しはしない。その件においては、必要とされるただ1つのことは信じることである。----疑いもなく、信仰心は、真のキリスト者の心に見いだされる唯一の恵みではない。しかし、信仰心によってのみその人は、キリストの恩恵にあずかれるのである。この教理を、キリスト教に独特の宝として尊ぶがいい。ひとたびそれを手放したなら、あるいはそれに何かをつけ足したなら、内なる平安には終止符が打たれることになる*3

 この教理を、堕落した人間の必要に対するふさわしさのゆえに尊ぶがいい。これは、いかに卑しく邪悪な罪人にとっても、その人に救いを受け取ろうとう心と意欲さえあるなら、救いを手の届くものにしている。これは罪人に、いかなる行ないも、義も、功績も、善良さも、価値も要求しない。その人自身のものは何1つ要求しない。これはその人からいかなる弁解も奪い去る。その人が絶望すべき何の口実も取り除く。その人のもろもろの罪は緋のようかもしれない。しかし、その人は信じるだろうか? ならばそこには希望がある。

 この教理を、その栄光ある単純さのゆえに尊ぶがいい。これは永遠のいのちを、貧しい者、無知な者、無学な者の近くにもたらしている。これは人に決して長々とした教理的正統性の告白を要求したりしない。決して頭の知識を溜め込んだり、信仰箇条や信条に精通することを要求してはいない。人は、そのありったけの無知にもかかわらず、罪人としてキリストのもとに来るだろうか? そして、自分の救いのゆえに自分を全くキリストに任せるだろうか? その人は信じるだろうか? もしそうするのなら、そこには希望がある。

 何にもまして、この教理をその条件における栄光ある広やかさと満ち満ちた豊かさのゆえに尊ぶがいい。これは、信じる者が「選民」であれば、とか、信じる者が「金持ち」であれば、とか、信じる者が「道徳的な」人であれば、とか、信じる者が「国教徒」であれば、とか、信じる者が「非国教徒」であれば、とか云ってはいない。----こうした人々が、こうした人々だけが救われるとは云っていない。おゝ、否! これは、はるかに広やかな意味合いの言葉を用いている。----それは云っている。「信じる者が、ひとりとして滅びることなく」、と。ひとりとして、----その過去の生き方や、行ないや、性格がいかなるものであれ、----その名前や、身分や、民族や、国籍がいかなるものであれ、----その教派や、出席している礼拝所がいかなるものであれ、----「キリストを信じる者は、ひとりとして滅びることがない」*。

 これが福音である。私には、聖パウロがこういう言葉を記しているのも何ら驚きではない。「私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです」(ガラ1:8)。

 IV. 私が考察しようとしている第四の、そして最後のことは、非常に実際的に重要な点である。私があなたに示したいと思うのは、キリストに対する真の信仰心を見分けて、知りうるためのいくつかの目印である。

 私が語ってきた信仰、あるいは信じることは、非常に重要な恵みであるため、当然多くのまがいものが出回っていることは予期してしかるべきである。世には生きた信仰ばかりでなく、死んだ信仰というものがある。----神に選ばれた人々の信仰ばかりでなく、悪霊どもの信仰というものがある。----人を義として救う信仰ばかりでなく、むなしく、役に立たない信仰というものがある。人はいかにすれば自分が真の信仰を持っているかわかるだろうか? いかにすれば自分が「信じていのちを保つ者」かどうかがわかるだろうか? それは、見いだすことができる。クシュ人はその皮膚で見分けがつくし、ひょうはその斑点で見分けがつく。真の信仰は、常にいくつかの特定の目印によってわかるものである。こうした目印は、取り違えようのないしかたで聖書の中に規定されている。こうした目印を私は、努めて順々に書き留めてみようと思う。

 (1) キリストを信ずる人には、内なる平安と希望がある。こう記されている。「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」。「信じた私たちは安息にはいるのです」(ロマ5:1; ヘブ4:3)。信仰者の罪は赦されており、その人の不義は取り除かれている。その人の良心は、もはや赦されていないそむきの罪の重荷を負っていない。その人は神と和解させられており、神の友のひとりである。死も、審きも、永遠も、恐れなく見通すことができる。死の刺は取り去られている。最後の日の大いなる裁判が開かれ、数々の書物が開かれるとき、その人の非を問うものは何1つない。永遠が始まるとき、その人には備えができている。その人には、天にたくわえられている望みがあり、動かされることのない都がある。その人は、こうした特権のすべてを完全にわかってはいないかもしれない。その人のそれらの感じとり方、見てとり方は、時期の違いにより大いに異なるかもしれず、しばしば疑いや恐れによって曇らされるかもしれない。莫大な資産の相続人ではあるが、成年に達する前の子どもと同じように、その人は自分の所有物の価値を十分には悟っていない。しかし、そのあらゆる疑いや恐れにもかかわらず、その人には現実の、堅固な、真実な希望、吟味に耐える希望があり、その人は、その最良の瞬間においては、こう云うことができるであろう。「この希望は失望に終わることがありません」、と(ロマ5:5)。

 (2) キリストを信じている人には、新しい心がある。こう記されている。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。----「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」。----「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです」(IIコリ5:17; ヨハ1:12、13; Iヨハ5:1)。信仰者には、もはやその人が持って生まれたのと同じ性質はない。その人は、変えられ、更新され、自分の主なる救い主のかたちと同じ姿にされている。肉の事がらを真っ先に考える人には、何の救いに至る信仰もない。真の信仰と霊的な新生は、常に相伴っていて分割できない。未回心の人は信仰者ではない!

 (3) キリストを信じる人は、心と生活において聖い人である。こう記されている。神は、「心を信仰によってきよめてくださった」。また、「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、……自分を清くします」(使15:9; Iヨハ3:3)。信仰者は神が愛するものを愛し、神が憎むものを憎む。その人の心の願いは、神の仰せの道を歩むことであり、悪はいかなる形の悪も避けることである。その人の望みは、正しいこと、清いこと、正直なこと、愛すべきこと、評判の良いことを追い求め、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめることである。その人は、多くの事がらにおいて自分の目当てにははるかに届かない。自分の日ごとの生活が内側に巣くう腐敗との絶えざる戦いであることに気づく。しかし、その人は戦い続け、断固として罪に仕えることを拒否する。私たちは、何の聖さもないところには、何の救いに至る信仰もないと確信してよい。聖くない人は信仰者ではない!

 (4) キリストを信じる人は、敬虔なわざを行なう。こう記されている。「信仰は愛によって働く」*(ガラ5:6)。真の信仰心は、決して人を無為にせず、ただじっとして、自分が信じていることで満足していることを許さないものである。それは、その人をかき立てて、機会がありさえすれば、愛と慈愛と博愛の行為を行なわせるであろう。それはその人を、「巡り歩いて良いわざをな」された自分の《主人》の足跡にならって歩ませざるをえないであろう(使10:38)。何らかの形でそれは、その人を働かせるであろう。その人が行なう働きは、この世の注意を全く引かないかもしれない。それは、多くの人々にとって取るに足らない、どうでもよいことに見えるかもしれない。しかし、それらは、ご自分のために与えられた一杯の水をも注目しておられるお方からは忘れられることがない。愛が働いていないところには、何の信仰もない。怠惰で、利己的なキリスト者には、自分を信仰者であるとみなす何の権利もない!

 (5) キリストを信じる人は、世に打ち勝つ。こう記されている。「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」(Iヨハ5:4)。真の信仰者は、この世の善悪や、この世の真偽の基準によって支配されてはいない。その人は、この世の意見から超然としている。この世の賞賛のことなどほとんど意に介さない。この世の非難などに動かされはしない。この世の快楽を求めはしない。この世の報いに野心を燃やしはしない。その人は、目に見えない《救い主》を見てとっている。来たるべき審きと、しぼむことのない栄光の冠を見てとっている。こうした目標を見てとることによって、その人はこの世のことを比較的軽く考えるようになっている。心でこの世が支配しているところには、何の救いに至る信仰もない。常習的にこの世にならっているような人には、信仰者と名乗る何の資格もない!

 (6) キリストを信じる人には、自分の信仰心に対する内なる証言がある。こう記されている。「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています」(Iヨハ5:10)。いま私たちが前にしている目印は、非常に気を遣って扱うべき必要がある。御霊の証しは、議論の余地なく困難な主題である。しかし私は、自分の堅い確信を宣言することから尻込みすることはできない。すなわち、真の信仰者には常に、真の信仰者に独特の内的な感覚があるのである。----その人の信仰と分かちがたく結び合わされ、その信仰から流れ出てくる感覚が、----不信者が全く何も知ることのない感覚があるのである。その人には、「子としてくださる御霊」がある。その御霊によってその人は、神を和解された御父とみなし、恐れなく神を見上げているのである(ロマ8:15)。その人には、キリストの血を注ぎかけられた自分の良心の証言がある。あなたは、たとえ弱くともキリストの上に安らいでいる、と。その人には、信ずる前には全く何も知らなかったような希望があり、喜びがあり、恐れがあり、悲しみがあり、慰めがあり、期待がある。その人には、この世には理解できないたくさんの証拠があるが、その人にとってそれは、現存する万巻の証拠にもまさるものである。疑いもなく感情は非常に欺きがちなものである。しかし、何の内なる信仰的な感情もないところに、救いに至る信仰はない。内的な、霊的な、体験的なキリスト教信仰を何も知らないという人は、まだ信仰者ではない!

 (7) 最後に、しかしこれも重要なこととして、キリストを信じる人には、そのキリスト教信仰のすべてにおいて、キリストご自身のご人格に対する特別な敬意がある。こう記されている。「キリストは、より頼んでいるあなたがたには尊いものです」*(Iペテ2:7)。この聖句には格別な注意を払うべき必要がある。これは、「キリスト教」が尊いとか、「福音」が尊いとか、「救い」が尊いとは云っておらず、キリストご自身を尊いと云っている。信仰者のキリスト教信仰は、ある特定の、一連の命題や教理に対する単なる知的同意に存してはいない。それは、単にキリストに関する一連の真理や事実を冷たく信じるだけのことではない。その主たる特質となっているのは、実際に生きておられる《人格》、すなわち神の御子イエスとの結び合い、交わり、交友なのである。それは、イエスへの信仰の生活、イエスへの信頼の生活、イエスによりかかり、イエスの満ち満ちた豊かさから恵みを引き出す生活、イエスに語りかけ、イエスのために働き、イエスを愛し、イエスが再び来るのを待ち望む生活である。聖パウロはこう云った。「私が、この世に生きているのは……神の御子を信じる信仰によっているのです」。----「私にとっては、生きることはキリスト……です」、と(ガラ2:20; ピリ1:21)。このような生き方は、多くの人々にとって熱狂主義のように聞こえるかもしれない。しかし、真の信仰があるところにおいて、キリストは常に、現実に生きている人格的な《友》として知られ、悟られるものである。キリストを自分の《祭司》、《医者》、《贖い主》として全く知っていない人は、信ずることの何たるかをまだ何も知っていない!

 私は、この論考を読むあらゆる人の前に、こうした7つの目印を提示し、これらをよく考えてみるように願うものである。私も、すべての信仰者がこうした目印を等しく同じように有しているとは云わない。こうした目印のすべてを自分のうちに見てとれない人は、だれも救われることがない、とは云わない。多くの信仰者は、あまりにも弱い信仰しかないために、一生の間疑い続け、他の人々にも自分たちのことを疑わせてしまう者であることを、私は進んで認める。ただ私が云いたいのは、人が自分が信じているかどうかを知りたければ、こうしたものこそ、まず第一に注意を向けなくてはならない目印だということである。

 私がここまで語ってきた7つの目印が全く欠けている場合、私はだれかに、あなたは真の信仰者である、と云おうとは思わない。その人はキリスト者と呼ばれており、キリスト教の典礼に集っているかもしれない。キリスト教のバプテスマを受けており、キリスト教会の一員かもしれない。しかし、もしその人が、神との平和や、心の回心や、いのちにある新しい歩みや、世に対する勝利について何も知らなければ、私はその人を信仰者であると宣言しようとは思わない。その人はまだ罪過と罪との中に死んでいる。その人がいのちにある新しい歩みへと目覚めない限り、その人は永遠に滅びるであろう。

 私が叙述してきた7つの目印を身に帯びている人がいたなら、私はその人の魂の状態について強い確信を感じるであろう。その人はこの世では貧しく困窮しているかもしれないが、神の前では富んでいる。人からは蔑まれ、あざ笑われているかもしれないが、王の王の前では栄誉を得ている。その人は天国をめざして旅をしている。その人には、御父の家で待ち受けている住居があるのである。その人は、地上にあるうちからキリストの配慮を受けている。そして来たるべき世においては、集められた全世界の前でキリストからご自分のものであると云っていただけるであろう。

 (1) さて今、この論考のしめくくりにあたって、私は最初に述べた問いかけに戻ることにする。私はその問いかけを、このページに目をとめているあらゆる人の良心に強く訴えるものである。私は、私の《主人》の御名においてあなたに尋ねる。果たしてあなたは、この論考の主題について少しでも知っているだろうか? 私の問いかけに正面から向かい合っていただきたい。私はあなたに問う。あなたは信じているだろうか?

 《あなたは信じているだろうか?》 あなたの前にあるこの問いかけの途方もない重要性は、誇張しようもないものだと思う。いのちか死か、天国か地獄か、祝福か呪いか、すべてがこの問いかけに対する答えいかんで決まるのである。キリストを信じる者は罪に定められることはない。信じない者は断罪される。もしあなたが信じるならば、あなたは許され、義と認められ、神の前で受け入れられ、永遠のいのちを受ける資格が得られる。もし信じなければ、あなたは日ごとに滅びに至りつつある。あなたの罪はみなあなたの頭の上に積まれており、あなたを破滅へと沈み込ませつつある。刻一刻とあなたは、その分だけ地獄に近づいているのである。

 《あなたは信じているだろうか?》 他の人々が何をしているかなど関係ない。この問いかけはあなたに関することなのである。他の人々の愚かしさは、あなたが愚かであっていいという何の弁解にもならない。天国を失ってしまえば、それを集団で失ったからといって、その苦々しさが少しでも和らぐものでもない。自分の胸のうちを直視するがいい。あなた自身の魂について考えるがいい。

 《あなたは信じているだろうか?》 「私は時には、キリストが自分のため死んでくださったのかもしれない、と希望することがあります」、などと云っても何の答えにもならない。聖書は決してこのことについて疑ったり、ためらったりすることで時間を空費するように告げてはいない。私たちは、そうした状態のままじっと立っていた人のことなど、ただの一箇所も見いだすことはない。救いは決して、キリストがある人のために死んでくださったかどうかという問題の上で決されるものではない。私たちの前に提示されている肝心要の点は常に、信じることである。

 《あなたは信じているだろうか?》 これこそ、すべての人が、救われたいと思うのなら、最後には立ち至らなくてはならない点である。棺桶に片足を入れたような状態になってしまえば、それまで自分が何と告白してきたかとか、いかなる教派に属してきたかなどは、ほとんど何の意味も持たないであろう。こうしたことはみな、この論考の主題にくらべれば無に帰してしまうであろう。もし私たちが信じていないとしたら、すべては無益となるであろう。

 《あなたは信じているだろうか?》 これこそ救われたすべての魂に共通する目印である。監督派であれ長老派であれ、バプテストであれ独立派であれ、メソジストであれプリマス・ブレズレン派であれ、国教徒であれ非国教徒であれ、彼らが真実な人である限り、みながこの共通の場で出会う。他の問題においては、彼らはしばしば絶望的なほど意見を異にする。しかし、イエス・キリストに対する信仰によって生きることにおいては、彼らはみな1つである。

 《あなたは信じているだろうか?》 あなたは不信仰を続ける理由として、吟味に耐えうるようなものを何か示せるだろうか? 人生は短く、不確かである。死は確実である。審きは避けることができない。罪は極度に罪深い。地獄はすさまじい現実である。キリストだけがあなたを救うことができる。世界中でこの御名のほかには、あなたが救われることのできる名としては、どのような名も、人間に与えられていない。もし救われなければ、その責任はあなた自身の頭上に帰すであろう。あなたは信じないというのか! キリストがあなたにいのちを与えるというのに、キリストのもとに来ないというのか!

 きょう警告を受けるがいい。あなたはキリストを信ずるか、永遠に滅びるか、2つに1つである。あなたの前にある問いかけに満足な答えを返せるようになるまで心安んじてはならない。神の恵みによって私は信じます、と云えるようになるまで、決して満足してはならない。

 (2) 私は問いかけから助言に移りたい。私はそれを、罪を確信して、自分の霊的状態に満足していないすべての人に差し出すものである。私はあなたに切に願う。一刻も早く、信仰によってキリストのもとに来るがいい。私はこの日あなたを招くものである。キリストを信じて、あなたの魂を救っていただくがいい。

 私は、次のようなよくある反論によってはぐらかされはしない。「私たちは信じることができません。----私たちは、神が私たちに信仰を与えてくださるまで待たなくてはなりません」。むろん私は、救いに至る信仰が、真の悔い改めと同じように、神の賜物であることを何にもまして十分に認める。私たちの生まれながらの力では、決して自分でキリストを信じ、キリストを受け入れ、キリストのもとに来て、キリストをつかみ、キリストに自分の魂を任せることなどできないと認めるものである。しかし、私が見るに、聖書の明確に規定するところ、信仰と悔い改めは、神がいかなる人からも要求しておられる義務にほかならない。神は「すべての人に悔い改めを命じておられます」。「神の命令とは、私たちが信じることです」*(使17:30; Iヨハ3:23)。また、私の見るところ、それに劣らぬほど明確に規定されているのは、不信仰と不悔悟が、人が責任を問われることになる罪であること、また、悔い改めて信じない人は自分の魂を滅ぼしている、ということである(マコ16:16; ルカ13:3)。

 人は罪の中にじっととどまっているのが正しいのだ、などと告げる者がだれかいるだろうか? 地獄への途上にある罪人は、何らかの力が自分を取り上げて、天国への途上に置いてくれるのをのらくら待っているべきだ、などと云う者がいるだろうか? 人はだまって悪魔に仕えることを続け、神への公然たる反逆を続けるのが正しく、キリストに立ち返ろうとする何の努力も、苦闘も、試みもしないのが正しい、などと云う者がいるだろうか?

 他の人々がこういうことを云いたければ、云わせておくがいい。私にはそんなことは云えない。私は説明しようのないことを説明しようとしたり、解きほぐせないことを解きほぐそうとして時間を浪費しようとはすまい。私は、いかにして未回心の人間がキリストを見たり、悔い改めたり、信じたりできるのかを形而上学的に示そうとしたりはすまい。しかし、私は、自分の明らかな義務が何であるかだけは知っている。それは、あらゆる未信者に向かって、悔い改めて信ぜよ、と命ずることである。また、やはり私が知っているのは、この招きを受け入れようとしない人が、最後には、自分が自分の魂を滅ぼしてしまったことに気づくであろう、ということである!

 もしあなたがまだ信じていないのなら、キリストに信頼し、キリストを見上げ、自分の魂についてキリストにお願いするがいい。もしあなたがまだ正しい感じ方をしていないなら、あなたに正しい感じ方を与えてくださるようキリストに願うがいい。もし自分に真の信仰があるなどと思えないというのなら、信仰を与えてくださるようキリストに願うがいい。無知で非聖書的な怠惰さの中で、あなたの魂をあだに地獄へ送ってはならない。無分別な無為の中で生き続けてはならない。----自分でもわからない何かを待ち受け、----自分でも説明のできないものを期待し、----日ごとに自分の咎を増し加え、----無精な不信仰を続けることで神を怒らせ、----刻一刻と自分の魂の墓を掘り続けるなどということをしてはならない。立ち上がって、キリストを呼び求めるがいい! 目を覚まして、自分の魂についてキリストにお願いするがいい! 信ずるということにいかなる困難があろうと、少なくとも1つのことだけは余すところなく明らかである。----十字架の根元から滅びて地獄に落ちた者はひとりとしていない。もしあなたが他に何もできなければ、十字架の根元にうずくまっているがいい。

 (3) 最後の最後に私は、この論考を読むことになるすべての信仰者に勧告の言葉を与えたい。私は彼らに向かって、巡礼仲間として、患難をともにする者として語りかけるものである。私は彼らに勧告する。もしあなたがたがいのちを愛するというなら、また信ずることによって何らかの平安を見いだしているというなら、信仰が増すことを求めて日々祈るがいい、と。あなたの祈りが絶えず、「主よ。私たちの信仰を増してください」、であるようにするがいい。

 真の信仰には多くの程度がある。いかに弱い信仰でも、魂をキリストに結び合わせ、救いを確保するには十分である。震える手でも、癒しの薬を受けとることはできる。いかに虚弱な幼児でも、この上もない莫大な資産の相続人であることはできる。最小の信仰によっても、最強の信仰によるのと同じくらい確かに、罪人は天国に行ける資格を得られる。しかし、小さな信仰には、決して強い信仰ほど、はっきり感じとれる慰めを与えることができない。私たちの信仰の程度に応じて、私たちの平安や、私たちの希望や、私たちの義務を果たす強さや、私たちの試練における忍耐の程度が決まるであろう。確かに私たちは絶えず、「私たちの信仰を増してください」、と祈るべきである。

 あなたは、もっと多くの信仰を持ちたいだろうか? あなたは信ずることがあまりにも喜ばしいために、もっと信じたいと思っているだろうか? ならば、自分のあらゆる恵みの手段を用いることにおいて勤勉であるように留意するがいい。----あなたの個人的な神との交わりにおいて勤勉であり、----あなたの日ごとの時間や、気分や、舌を油断なく見張ることにおいて勤勉であり、----あなたの個人的な聖書を読むことにおいて勤勉であり、----あなた自身の個人的な祈りにおいて勤勉であるようにするがいい。こうした事がらについて無頓着でいながら、霊的に強く成長することを期待しても無駄である。これらについて気を遣うことを几帳面すぎるとか、律法的だとか呼びたい者は呼ぶがいい。私は単にこう答える。すぐれた聖徒のうち、これらをないがしろにしていた者は決していなかった、と。

 あなたはもっと信仰がほしいだろうか? ならば、もっとイエス・キリストに親しむようになることを求めるがいい。あなたのほむべき《救い主》についてさらに深く学び、このお方の愛の長さと広さと高さをより知るように努めるがいい。このお方のすべての職務----信仰を有するその民の《祭司》としての、《医者》としての、《贖い主》としての、《弁護者》としての、《友》としての、《教師》としての、《羊飼い》としての職務----によって、この方のことを学ぶがいい。あなたのために死んだお方としてのこの方ばかりでなく、あなたのために生きて神の右の座に着いておられるお方としてのこの方について学ぶがいい。----あなたのためにご自分の血を流しただけでなく、あなたのために日ごとに神の右の座に着いてとりなしをしておられるお方として、----あなたのためにすぐにも来ようとしておられ、もう一度この地上に立つことになるお方としてのこの方について学ぶがいい。自分を穴から引き上げる綱が切れることはないと完全に確信している坑夫は、何の心配も恐怖もなしに引き上げられるものである。イエス・キリストの満ち満ちた十分さに徹底的に親しんでいる信仰者は、この上もない慰めと平安をもって、恵みから栄光へと旅しつつある信仰者である。では、あなたの日ごとの祈りが常にこの言葉を含むようにするがいい。「主よ。私たちの信仰を増してください」、と。

信仰![了]

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*1 もし読者の中に、私が神の愛について記した言明につまづきを覚える人がいるなら、その人には、私の『ヨハネ福音書講解』の、ヨハ1:29およびヨハ3:16に関する注記に注目するよう求めたい。私は英国国教会の第十七箇条で規定されている通りの選びの教理を堅く主張するものである。私はその箇条を、私の教会の大錨の1つとして誇りに思っている。私は、神がその選びの民を、世の基の置かれる前から永遠の愛によって愛されたというほむべき真理を喜びとしている。しかし、これらはみな、私たちの前にある問題からははずれたことである。その問題とは、「神は全人類に対していかなる見方をしておられるのか?」、ということである。私は何のためらいもなく答える。神は彼らを愛しておられる、と。神は全世界を、同情心から出た愛で愛しておられる。[本文に戻る]

*2 云うまでもないかもしれないが、この段落で私は、白痴者や幼児期に死んだ幼子たちのことは語っていない。[本文に戻る]

*3 もし読者の中に、私がここで信仰について述べていることに驚いたりつまずいたりする人がいたならば、その人には英国国教会の『救いに関する公定説教』を注意深く読むように勧めたい。私の教理は、何はともあれ英国国教会の教理なのである。[本文に戻る]

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