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14. キリストの招き


「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」----マタ11:28

 この論考の冒頭に冠した聖句は、黄金の文字で書かれるに値するものである。聖書のいかなる節をとってみても、私たちの主イエス・キリストの、この昔なじみの招きほど多くの善を人々の魂に施してきたものはほとんどない。これを丹念に吟味し、そこに何が含まれているかを見てみよう。

 私たちの前にある聖句には、これから私が注意を引こうと考えている4つの点がある。その1つ1つについて、私には語りたいことがある。

 I. 第一に、この招きを語っているお方はどなたか。
 II. 第二に、この招きはだれに向けて語りかけられているか。
 III. 第三に、ここで語っておられるお方は、私たちに何をするよう求めておられるか。
 IV. 最後に、ここで語っているお方は何を与えようと申し出ておられるか。

 I. 第一のこととして、この論考の冒頭に冠された招きを語っているお方はどなただろうか? これほど惜しげなく、これほど気前のいい招きをしているお方はどなただろうか? この日あなたの良心に向かって、「来なさい。わたしのところに来なさい」、と云っているのはどなただろうか?

 私たちには、こう問う権利がある。私たちが住んでいる世界は、虚偽に満ちた世界である。地はいかさまと、ごまかしと、欺きと、詐欺と、欺瞞に満ちている。約束手形の価値を決めるのは、一番最後の行にいかなる署名がなされているかである。ある強力な《約束手形振出し人》がいると聞いたとき、私たちにはこう云う権利がある。「それはだれなのか? その人の名は?」、と。

 あなたの前でこの招きを語っておられるお方は、人間がかつて有したことのある最大にして最上の友である。それは主イエス・キリスト、神の永遠の御子にほかならない。

 この方は全能なるお方である。この方は父なる神の仲間であり、同等の方であられる。真の神の真の神である。この方によって、すべてのものは造られた。----この方の手のうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されている。----この方には天においても、地においても、いっさいの権威が与えられている。----この方のうちには、満ち満ちた神の本質が宿っている。----ハデスと死とのかぎを持っている。----今のこの方は、神と人との間の仲介者として任命されている。いつの日かこの方は、全地の審き主となり王となる。このようなお方が語られるとき、あなたはこの方に全幅の信頼を置いてよい。この方は、お約束になったことを成し遂げることができる(ゼカ13:7; ヨハ1:3; コロ2:3; マタ28:18; コロ1:19; 黙1:18)。

 この方は愛に満ちたお方である。この方は、私たちを愛するがゆえに、私たちのために天国を離れ、御父とともに有しておられた栄光を、ひとときの間わきへ置いてくださった。私たちを愛するがゆえに、私たちのために女から生まれ、この罪深い世に33年間も住んでくださった。私たちを愛するがゆえに、神に対する私たちの莫大な負債を支払うことを引き受け、十字架上で死んで私たちの罪の贖いをなしてくださった。このようなお方がお語りになっているとき、そのことばには耳を傾けるべき価値がある。このお方が何かを約束なさっておられるとき、この方に信頼することを不安に思う必要はない。

 この方は、完全に人の心を知っておられるお方である。この方は、私たちと同じからだを身にまとい、罪をのぞき、すべての事がらにおいて私たちと同じようになられた。この方は、人間が何をくぐり抜けなくてはならないかを肌身で知っておられる。貧困や、疲労や、飢えや、渇きや、痛みや、誘惑を経験なさった。地上における私たちのすべての状況に親しまれた。ご自身、「試みを受けて苦しまれた」。このようなお方が何かを申し出ておられるとき、この方はそれを完璧な知恵によって申し出ておられる。この方は、あなたや私が何を必要としているかを正確にご存知である。

 この方は、決して約束を破ることのないお方である。この方は、常にご自分の約束を果たされる。一度お引き受けになったことをしないですませることは決してない。決してご自身に頼る魂を失望させることはない。強大なお方ではあるが、1つだけできないことがおありになる。この方は、偽ることができない(ヘブ6:18)。このようなお方が何かを約束なさっておられるとき、あなたはこの方がそれを守ってくださるかどうか疑う必要はない。確信をもって、この方のことばにより頼むことができる。

 あなたは、きょうあなたの前に置かれている招きを、だれが語っておられるかをいま聞いた。それは主イエス・キリストである。その御名にふさわしい信用を捧げるがいい。この方に、しかるべく十分で当然の立場を与えるがいい。この方の口から出た約束が、あなたの最上の注意に値するものであると信ずるがいい。語っておられる方を拒まないように注意するがいい。こう書かれている。「地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか」(ヘブ12:25)。

 II. 第二のこととして私が示したいのは、あなたの前にある招きは、だれに向けて語りかけられているか、ということである。

 主イエスが語りかけている相手は、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人」である。この表現は深い慰めと教えに満ちている。それは広やかで、相手を選ばない、包括的な招きである。これは、世界中のあらゆる場所にいる、おびただしい数の人々のことを云い表わしている。

 疲れた人、重荷を負っている人はどこにいるだろうか? どこにでもいる。それは、ほぼだれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆である。彼らは、いかなる気候、日の下にあるいかなる国にも住んでいる。ヨーロッパにも、アジアにも、アフリカにも、アメリカにもいる。セーヌ河岸にも、テムズ河岸と同じように住んでいる。----ミシシッピ河岸にも、ニジェール河岸と同じように住んでいる。共和国にも、君主国にも、たくさんいる。----自由主義政権下にも、専制政権下にもたくさんいる。いずこにおいても、あなたは困難と、煩いと、悲しみと、心配と、つぶやきと、不満と、不安を見いだすであろう。これは何を意味するのだろうか? つまるところどういうことになるのだろうか? 人間はみな、「疲れた人、重荷を負っている人」だということである。

 この疲れた人、重荷を負っている人は、いかなる階級に属しているだろうか? あらゆる階級に属している。そこには何の例外もない。彼らは主人の間にも、しもべたちの間と同じように見いだされる。----富者の間にも、貧者の間と同じように、----王たちの間にも、臣下たちの間と同じように、----学のある人々の間にも、無学な人々の間と同じように見いだされる。いかなる階級においても、あなたは困難と、煩いと、悲しみと、心配と、つぶやきと、不満と、不安を見いだすであろう。これは何を意味するのだろうか? つまるところどういうことになるのだろうか? 人間はみな、「疲れた人、重荷を負っている人」だということである。

 私たちはこれをどう説明するだろうか? 私がいま描き出そうとしてきた状況の原因は何だろうか?----神はもともと人間を不幸せになるように創造したのだろうか? 絶対にそんなことはない。----人間の政府の責任で人々は不幸せなのだろうか? 否、それにはせいぜい、ごく僅かな責任しかないであろう。その禍根は、人間の法律など届かないほど、はるかに深いところにある。----別の原因があるのである。不幸にも多くの人々が見てとることを拒んでいる原因があるのである。《その原因とは罪である。》

 罪、そして神からの離反こそ、人々がいずこにおいても疲れて、重荷を負っている真の理由である。罪は全地を汚染している普遍的な病にほかならない。罪こそ、原初にいばらとあざみを持ち込んだもの、人々をして顔に汗を流して糧を得させるようにさせたものである。罪こそ、「被造物全体が……うめき……産みの苦しみをしている」ことの原因、「地の基は、ことごとく揺らいでいる」ことの原因である(ロマ8:22; 詩82:5)。罪こそ、いま人類を押しつぶしつつあるすべての重荷の原因である。ほとんどの人はこのことを知らず、自分の周囲の状況を説明しようという甲斐もない試みに疲れ果てている。しかし、高慢な人間がどう考えようと、罪こそはあらゆる悲しみの大いなる根幹であり、基である。いかに人々は罪を憎むべきであろうか!

 あなたは疲れた人、重荷を負っている人のひとりだろうか? まず間違いなくそうだろうと思う。私の堅く確信するところ、世界中のおびただしい数の人々は、内心では不安や苦痛をかかえていても、それを口に出して云おうとはしない。彼らは心に重荷を感じていて、喜んでそれをお払い箱にしたいと思っている。だがしかし、そうするすべを知らない。彼らは自分の内なる人には何か良くない部分があると確信してはいるが、決してそれを他の人にはもらそうとしない。夫はそれを妻には告げず、妻はそれを夫には告げない。子どもたちはそれを親に告げず、友たちはそれを自分の友に告げない。しかし、その内なる重荷は多くの心に重くのしかかっている! この世には、目につくよりもはるかに多くの不幸がある。一部の人々がそれをどう隠蔽しようと、世には不安と苦痛を覚える大群衆がいる。それは彼らが、自分には神と出会う備えができていないことを知っているからである。そしてあなたも、本書をいま読んでいるあなたも、ことによるとそのひとりかもしれない。

 もしもこの論考を読んでいるあなたが「疲れた人、重荷を負っている人」であるとしたら、あなたこそ、主イエス・キリストがこの日招いておられる人にほかならない。もしあなたに痛む心があり、呵責にあえぐ良心があるなら、----もしあなたが倦み疲れた魂の休息を求めており、どこでそれが見いだせるかわからないというなら、----もしあなたが咎を負った心の平安を求めており、どこへ向かえばよいか途方にくれているというなら、----あなたこそは、イエスがきょう語りかけておられる人にほかならない。あなたには希望がある。私はあなたに良い知らせを伝える。主イエスは云う。「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」。

 あなたは私に向かって云うかもしれない。こんな招きが自分に対してなされているはずがない、自分はキリストから招かれるほど善良な人間ではないのだから、と。私は答える。イエスは善人に対して語っているのではなく、「疲れた人、重荷を負っている人」に対して語っているのである。あなたは、そうした気分を少しでも知っているだろうか? ならばあなたは、イエスがお語りになっている人である。

 あなたは私に向かって云うかもしれない。こんな招きが自分に対してなされているはずがない、自分は罪人で、キリスト教のことなど全く知らないのだから、と。私は答える。あなたがどんな人間か、どんなことをしてきたかは全く問題ではない。あなたは、今この瞬間、「疲れた人、重荷を負っている人」だろうか? ならばあなたは、イエスがお語りになっている人である。

 あなたは私に向かって云うかもしれない。自分には、こんな招きが自分に対してなされているとは思えない、自分はまだ回心しておらず、新しい心を手に入れていないのだから、と。私は答える。キリストの招きは回心した者に向かってなされているのではなく、「疲れた人、重荷を負っている人」に向かってなされている。それがあなたの感じていることだろうか? あなたの心には何か重荷があるだろうか? ならばあなたは、イエスがお語りになっている人のひとりである。

 あなたは私に向かって云うかもしれない。自分はこんな招きをお受けする権利はない、自分には自分がキリストの選民のひとりであるとわかっていないのだから、と。私は答える。あなたは、キリストがお使いにならなかった言葉をキリストの口に押し込む権利などない。キリストは、「すべて、選民である人は、わたしのところに来なさい」、などとは云っていない。キリストは、すべて、「疲れた人、重荷を負っている人」に向かって語りかけておられる。あなたは、そうした人のひとりだろうか? あなたの魂の内側には重苦しいものがあるだろうか? それだけが、あなたの見きわめなくてはならない問題である。もしそうだというなら、あなたは、イエスがお語りになっている人のひとりである。

 もしあなたがこの「疲れた人、重荷を負っている人」のひとりであるとしたら、私はもう一度あなたに願う。私がきょうあなたにもたらしている招きを拒まないようにしていただきたい。あなたへと差し出されたあわれみを捨ててはならない。避難すべき安全な隠れ家が無償であなたに提供されているのである。それに背を向けてはならない。友の中でも最上の友があなたに手を差し伸ばしておられるのである。決して高慢や、自分を義とする思いや、人々の嘲りへの恐れによって、主が申し出ておられる愛をはねつけないようにしてほしい。主のおことばを額面通りに受け取るがいい。主に云うがいい。「主イエス・キリストよ。私は、あなたのお招きがあてはまる者のひとりです。私は疲れており、重荷を負っています。主よ、あなたは私がどうすることをお望みなのですか?」、と。

 III. さて第三のこととしてあなたに示したいのは、主イエス・キリストがあなたに何をするよう求めておられるか、ということである。ほんの一言が、主がきょうあなたになしておられる招きの要約、実質となっている。もしあなたが、「疲れた人、重荷を負っている人」であるなら、イエスは云っておられる。「わたしのところに来なさい」、と。

 今あなたの前にあるこのことばには、大いなる単純さがある。この文章は短く、平易なものに見えるが、深い真理と堅固な慰めとを豊かに含んでいる。これをはかり、これを眺め、これを考察し、これについてよくよく思い巡らしてみるがいい。私の信ずるところ、救いに至るキリスト教の半分は、イエスが「わたしのところに来なさい」と云うとき意味しておられることを理解することにある。

 よく注意してみるがいい。主イエスは、疲れた人、重荷を負っている人に向かって、「行って働きをなせ」、と命じてはおられない。そのような言葉は、重い良心に何の慰めももたらさないであろう。否、主は彼らに命じておられる。「来なさい!」、と。----主は、「お前がわたしに負っているものを返せ」、と云ってはおられない。そのような要求は、砕けた心を絶望に追い立てるであろう。それは、零落した破産者から借金を取り立てるようなものであろう。否、主は云っておられる。「来なさい!」、と。----主は、「そこに立って、待っておれ」、と云ってはおられない。そのような命令は、あざけりにしかなるまい。それは、今にも死にそうな人間に向かって、週末になったら薬をやろうと約束するようなものであろう。否、主は云っておられる。「来なさい!」、と。きょう、----今すぐに、---- 一刻も早く、「わたしのところに来なさい」。

 しかし、結局のところ、キリストのところに来るとはどういうことだろうか? この表現は、しばしば用いられていながら、しばしば誤解されているものである。この点で何の思い違いもしないよう用心するがいい。不幸にも、おびただしい人々がここで正道をはずれ、真理を見失っているのである。港の入口まで来ていながら、破船しないように用心するがいい。

 (a) 注意すべきなのは、キリストのところに来るとは、教会や会堂にやって来ること以上の何かを意味している、ということである。あなたは、礼拝所に規則正しく出席し、あらゆる外的な恵みの手段を勤勉に用いていながら、救われないこともありえる。こうしたことはみな、キリストのところに来ることではない。

 (b) 注意すべきなのは、キリストのところに来るとは、聖卓の前にやって来ること以上の何かだということである。あなたは、正規の教会員であり、陪餐者であり、主が受けるようにお命じになったパンを食べ、葡萄酒を飲む人々の一覧から決して漏れることはないかもしれないが、それでもあなたが救われないことはありえる。こうしたことはみな、キリストのところに来ることではない。

 (c) 注意すべきなのは、キリストのところに来るとは、教役者のところに来ること以上の何かだということである。あなたは、どこかの人気ある説教者の説教を常に聴いており、そのすべての意見を熱心に支持していながら、救われないこともありえる。こうしたことはみな、キリストのところに来ることではない。

 (d) もう1つ注意すべきなのは、キリストのところに来るとは、キリストに関する頭だけの知識を所有すること以上の何かだということである。あなたは、福音主義的な教理の全体系を知っており、それを微に入り細にわたって語ったり、論じたり、議論できるかもしれないが、それでも救われないことはありえる。こうしたことはみな、キリストのところに来ることではない。

 キリストのところに来るとは、単純な信仰によって心からキリストのもとへ行くことである。キリストを信ずるとは、キリストのところに来ることであり、キリストのところに来るとは、キリストを信ずることである。それは、人が自分のもろもろの罪を痛感し、他のいかなる希望にも絶望したときに、救われるために自分をキリストにゆだね、キリストに身を賭け、キリストに信頼し、キリストに自分を全く投げかけるときになされる魂の行ないにほかならない。人が、満たしてもらうためにむなし手でキリストに向かい、癒してもらうために病んだままキリストに向かい、満ち足らせてもらうために飢えたままキリストに向かい、元気づけてもらうために渇いたままキリストに向かい、富ませてもらうために貧窮したままキリストに向かい、いのちを得るために死にかけたままキリストに向かい、救ってもらうために失われたままキリストに向かい、赦してもらうために咎あるままキリストに向かい、きよめてもらうために罪に汚れたままキリストに向かい、キリストだけが自分の必要を満たすことがおできになると告白するとき、----そのときその人はキリストのところに来ているのである。その人がキリストを、ユダヤ人たちがのがれの町を用いたように用い、飢えたエジプト人たちがヨセフを用いたように用い、死にかけたイスラエル人たちが青銅の蛇を用いたように用いるとき、----そのときその人はキリストのところに来ているのである。それは、からっぽの魂が、充実した救い主に捨て身で頼ることである。溺れかけた人が、差し出された助けの手をつかむことである。病んだ人が、癒しの薬を呑み込むことである。これが、これだけが、キリストのところに来るということである。

 ここで、この論考を読むすべての人に一言注意させてほしい。この、キリストのところに来るという問題について思い違いをしないように用心するがいい。決して中途半端なところで妥協してはならない。悪魔と世とに欺かれて、永遠のいのちから迷い出されてはならない。キリストご自身のもとへまっすぐ、直接に、全く、徹底的に行くのでない限り、キリストから何か益を得られると考えてはならない。ちょっとした形だけの品行方正さを頼りにしてはならない。外的な手段を規則正しく用いていることで自己満足していてはならない。角灯は闇夜ではたいそう重宝するものだが、それは家ではない。恵みの手段は有益な補助だが、それらはキリストではない。おゝ、否! あなたが個人的な、また現実の、キリストご自身とのやりとりを得るまで、立ち止まらず、前進し、向上し続けるがいい。

 キリストのところに来るしかたについて思い違いをしないように用心するがいい。あなた自身の価値だの、功績だの、ふさわしさだのといった考えはみな、頭の中から永遠に叩きだすがいい。善良さだの、正しさだの、美点だのといった思いはみな投げ捨てるがいい。自分を推薦するようなもの、自分をキリストの注意を引くに値させるようなものを何か持ち来たることができるなどと考えてはならない。あなたは、貧しく、咎ある、何の価値もない罪人としてキリストのところに行くのでなくてはならない。さもなければ、まるで行かなかったも同然である。「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」(ロマ4:5)。人を義と認めさせ、救いに至らせる信仰に伴う独特のしるしは、それがキリストにむなし手のほか何も持ち来たらないことにある。

 最後に、しかしこれも重要なこととして、キリストのところに来た人、また真のキリスト者となった人の特別な性格について、何の思い違いもしないようにしよう。その人は決して天使になるのではない。身のうちに何の弱さも、傷も、欠点もないような、半天使的な存在になるのではない。キリスト者とは決してそうした種類の存在ではない。その人は、自分の罪深さに気づいて、キリストに対する信仰によって生きるという、ほむべき秘訣を学んだ罪人にほかならない。あの使徒たちや預言者たちは、いかなる人々の集合だろうか? あの気高い殉教者たちは、いかなる人々の一団だろうか? イザヤや、ダニエルや、ペテロや、ヤコブや、ヨハネや、パウロや、ポリュカルポスや、クリュソストモスや、アウグスティヌスや、ルターや、リドリや、ラティマーや、バニヤンや、バクスターや、ホイットフィールドや、ヴェンや、チャーマズや、ビカーステスや、マクチェーンは、いかなる人々だったろうか? 彼らはみな、自分のもろもろの罪を知り、それを感じて、ただキリストにだけより頼んだ罪人たちでなくて何だったろうか? 私がこの日あなたにもたらしている招きを受け入れ、信仰によってキリストのところに来た人々でなくて何だったろうか? この信仰によって彼らは生き、この信仰によって彼らは死んだ。彼らは、自分自身のうちにも、自分の行ないのうちにも、何1つ言挙げに値するようなものを見ていなかった。ただキリストのうちに彼らは、自分の魂が必要とするものをすべて見てとっていたのである。

 キリストのこの招きは今あなたの前にある。もしあなたが今まで一度もこれを聞いたことがなかったとするなら、きょう、これを聞くがいい。広大で、満ち満ちていて、無代価で、寛大で、単純で、優しくて、思いやりのある、----この招きは、もしあなたがこれを拒否するなら、あなたに何の弁解の余地も残さないであろう。ことによると、種々の招きの中には断った方が賢明なものもあるかもしれない。だが1つの招きだけは常に受け入れるべきである。その1つとは、きょうあなたが前にしている招きである。イエス・キリストは云っておられる。「来なさい。わたしのところに来なさい」、と。

 IV. さて最後のこととしてあなたに示したいのは、主イエス・キリストが何を与えようと約束しておられるか、ということである。主は、「疲れた人、重荷を負っている人」に、わけもなくご自分のところに来るよう求めているのではない。主は恵み深い誘いかけをしておられる。主は甘やかな申し出によって彼らをいざなっておられる。主は云われる。「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」。

 休息は心楽しいものである。この物憂い世にあって、休息の甘やかさを知らないという人々はほとんどいないに違いない。一週間の間、鉄や真鍮や石や木材や粘土の中で自分の両手を使って懸命に働いてきた人----掘ったり、持ち上げたり、鎚で打ったり、切ったりしてきた人----、その人は土曜の夜に家に返り、一日の休日が得られる楽しみを知っているはずである。一日中自分の頭を使って激しく働いてきた人----書いたり、写したり、計算したり、文章を練ったり、計画を立てたり、立案したりしてきた人----、その人は、自分の書類をわきへやり、多少の休息をとる楽しみを知っているはずである。しかり! 休息は喜ばしいことである。

 そして休息こそは、福音が人間に提供している主たる祝福の1つなのである。この世は云う。「わたしのところに来なさい。わたしはあなたがたに富と快楽をあげます」。----悪魔は云う。「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを偉大な者、権力者、知恵者にしてあげます」。----主イエス・キリストは云う。「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」。

 しかし、主イエスが与えようと約束しておられるその休息とは、いかなる性質をしたものなのだろうか? それは、単なる肉体の休養のことではない。肉体の休養を得ていても、人はみじめな者でありえる。人は宮殿の中にいて、ありとあらゆる慰安に囲まれているかもしれない。莫大な財産を持ち、金銭で買えるものなら何でも手に入れているかもしれない。明日の肉体的欲求についてのあらゆる煩いから解放され、一時間たりとも労働する必要がないかもしれない。こうしたことすべてがかなえられたとしても、人は真の休息を得られない。おびただしい数の人々は、苦い経験によってこのことをいやというほど知っている。彼らの心は、世的な物資の山の中で飢えつつある。彼らの内なる人は、その外なる人がいつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしている間も、病んで、倦み疲れている! しかり、人は家や、土地や、金銭や、馬や、馬車や、柔らかな寝台や、ごちそうや、心づかいの行き届いた召使いたちを所有していても、なおも真の休息を有していないことがありえる。

 キリストがお与えになる休息は、内なる、霊的なものである。それは、心の休息、良心の休息、精神の休息、感情の休息、意志の休息である。この休息のもととなっているのは、罪がことごとく赦され、咎がことごとく取り除かれたという、喜ばしい感覚である。この休息は、自分に後に来る素晴らしいものがあるのだ、それは病気や死や墓の手の届かないところに蓄えられているのだ、という堅固な希望から出ている。この休息は、人生の大いなる務めは決着がついた、その大いなる目的はかなえられた、そのうちに万事は最善になるはずだ、永遠において天国は自分たちの家となるだろう、という確固とした根拠のある感情から出ている。

 (a) このような休息をご自分のところに来る者たちに与えるために主イエスは、十字架上で完成なさったご自分のみわざを彼らに示し、ご自分の完全な義を彼らに着せ、ご自分の尊い血で彼らを洗ってくださる。人は、自分のもろもろの罪のために神の御子が本当に死んでくださったのだと見てとり始めるとき、その魂において内なる平穏と平安の何がしかを味わい始めるのである。

 (b) このような休息をご自分のところに来る者たちに与えるために主イエスは、天にいる彼らの永遠の大祭司としてのご自分と、ご自分を通して彼らと和解してくださった神とを啓示してくださる。人は、自分のとりなしをするために神の御子が本当に生きておられるのだと見てとり始めるとき、内なる平穏と平安の何がしかを感じ始めるのである。

 (c) このような休息をご自分のところに来る者たちに与えるために主イエスは、ご自分の御霊を彼らの心に植えつけて、彼らの霊とともに、彼らが神の子どもたちであること、古いものが過ぎ去り、すべてが新しくなったことを証しさせてくださる。人は、自分が父なる神に内側から引き寄せられるのを感じ、自分が子とされ、赦された子どもであるという実感を感じ出すとき、その魂において平穏と平安の何がしかを感じ始めるのである。

 (d) このような休息をご自分のところに来る者たちに与えるために主イエスは、彼らの心に王として住み、内側のあらゆるものの秩序を整え、個々の精神機能にそのしかるべき位置と働きを与えてくださる。人は、自分の心の中に、反乱や混乱のかわりに秩序を見いだし始めるとき、その魂において平穏と平安の何がしかを理解し始めるのである。真の王が王座に着くまで、いかなる真の内なる幸福もありえない。

 (e) このような休息は、キリストを信ずるすべての信仰者の特権である。ある信仰者はそれを大きく悟っており、ある信仰者はそれほど悟ってはいない。ある信仰者はそれを時たまにしか感じないが、ある信仰者はほとんど常時それを感じている。ほとんどの者は、その感覚を享受するまでに、不信仰との多くの戦いを経て、恐れとの多くの争闘を通らなくてはならない。しかし真にキリストのところに来たすべての者は、この休息の何がしかを知っている。彼らに尋ねてみるがいい。今の彼らのあらゆる不平や疑いにもかかわらず、キリストを捨ててこの世に戻っていくことを望むかどうかを。彼らは異口同音に答えるであろう。いかに彼らの感ずる休息が弱々しいものであろうと、彼らは自分たちに善を施してくれる何かをつかみとっており、その何かを彼らは手放すことができないのである。

 (f) このような休息は、喜んでそれを求め、それを受け取ろうとするすべての人々の手の届くところにある。いかに貧乏な人も、それを得られないほど貧乏なことはない。いかに無知な者も、それがわからないほど無知なことはない。いかに病んだ人も、それをつかめないほど弱く無力なことはない。信仰こそ、単純な信仰こそ、キリストの休息を手にするため必要な唯一のことである。キリストに対する信仰こそ、幸福に至る大いなる秘訣である。貧困であれ、無知であれ、患難であれ、困窮であれ、もし人々がキリストのところに来て信じさえするなら、彼らに魂の休息を感じさせないようにすることはできない。

 (h) このような休息は、それを所有する人々を自立させるものである。銀行は破産し、金銭は翼をつけて飛び去っていくかもしれない。土地によっては戦争や、疫病や、飢饉が突発し、地の基がことごとく揺らぐかもしれない。健康や体力はなくなり、肉体は忌まわしい病で粉々に砕けてしまうかもしれない。死は、妻や子どもたちや友人たちを切り倒し、愛する者を失った人をひとり取り残すかもしれない。しかし信仰によってキリストのところに来た人は、それでも決して取り去られることのない何かを有しているであろう。パウロとシラスのようにその人は、牢獄の中にあっても歌うであろう。ヨブのように子どもたちや財産を奪われてもその人は、主の御名をほめたたえるであろう(使16:25; ヨブ1:21)。真に自立した人とは、何物も取り去ることのできないものを所有している人にほかならない。

 (h) このような休息は、それを所有している人々を真に富む者にする。それは永続し、すりへらず、長持ちする。それは孤独な家庭を明るくする。臨終の枕をなだらかにする。人々がその棺におさめられたときも、彼らについて行く。彼らがその墓に横たえられたときも、彼らとともにとどまる。もはや友人たちも私たちを助けることができず、金銭も何の役にも立たないとき、----もはや医者たちも私たちの痛みを和らげることができず、もはや看護婦たちも私たちの必要に答えることができないとき、----感覚が失われ行き、目や耳がもはやその用をなさなくなるとき、----そのとき、そのときでさえ、キリストが与えてくださる「休息」は信仰者の心に注がれているであろう。いつの日か、「富んでいる」という言葉と、「貧しい」という言葉は、その意味を全く変えてしまうであろう。信仰によってキリストのところに来たことのある人、そしてキリストから休息を受けた人のほかに富んでいる者はない。

 これこそキリストが、あらゆる「疲れた人、重荷を負っている人」に与えようと申し出しておられる休息にほかならない。これこそキリストが、ご自分のところに来て受けるよう彼らを招いておられる休息にほかならない。これこそ私があなたにも享受してほしいと願い、私がこの日あなたも受けるよう勧めている休息にほかならない。願わくは神がその勧めを、むだにもたらされたものでないようにしてくださるように!

 (1) この論考を読んでいる人の中に、私がここまで語ってきた「休息」について何も知らないと感じている人がいるだろうか? もしそうなら、あなたのキリスト教信仰はあなたにとって何の足しになってきただろうか? あなたはキリスト教国に住んでいる。自分がキリスト者であると告白し自称している。おそらくは何年もキリスト教の礼拝所に出席してきた。自分が不信者だの異教徒だのと呼ばれることは気に入るまい。だが、これらすべての間、あなたはいかなる益を自分のキリスト教から受けてきただろうか? そこからあなたは、実質的にいかなる得をしてきただろうか? 見たところ何があろうと、あなたはトルコ人かユダヤ人であったのと全く同然であろう。

 この日、この忠言をいれて、キリスト教の名ばかりでなく実質をも所有し、形だけでなく内実をも手に入れる決意をするがいい。過去の時代のキリスト者たちが享受していた平安と、希望と、喜びと、慰めを少しでも知るまでは、自己満足していてはならない。自問してみるがいい。使徒たちの時代の人々が体験していたような感情にあなたが無縁である理由は何だろうか? なぜあなたは、ローマ人やピリピ人のように「主にあって喜び」、「神との平和」を持つことがないのだろうか? 疑いもなく種々の信仰的な感情は、しばしば欺きがちなものである。だが、確かに全く何の感情も生み出さないようなキリスト教信仰は、新約聖書のキリスト教信仰ではないに違いない。人に何の内的な慰めも与えないようなキリスト教信仰は、決して神から出たキリスト教信仰ではない。自分に気をつけるがいい。「キリストにある休息」の何がしかを知るまで、決して満足してはならない。

 (2) この論考を読む人の中に、魂の休息を願っていながら、どこへ向かうべきかわからない人がだれかいるだろうか? この日、覚えておくがいい。それは一箇所でしか見つけることができない。政府にはそれを与えられず、教育はそれを伝えることがなく、世的な娯楽はそれを提供できず、金銭はそれを買うことがない。それが見いだされるのは、ただイエス・キリストの御手の中だけである。そして、もしあなたが内なる平安を見いだしたければ、その御手に向かわなくてはならない。

 魂の休息にはいかなる王道もない。そのことを決して忘れないようにしよう。御父に至る道は1つしかない。----イエス・キリストである。天国への扉は1つ、----イエス・キリストである。また心の平安への通り道は1つ、----イエス・キリストである。その道によって、すべて「疲れた人、重荷を負っている人」は、その身分や境遇にかかわらず行かなくてはならない。王宮にいる国王も、救貧院にいる乞食も、みなこの件においては同格である。みな同じように、魂の倦み疲れと渇きを感ずるならば、キリストのところに行かなくてはならない。自分の渇きを癒したければ、みな同じ泉から飲まなくてはならない。

 あなたは、いま私が書き記していることを信じないかもしれない。時が経てばだれが正しく、だれが誤っていたかがが明らかになるであろう。そうしたければ、真の幸福はこの世の良き物事の中に見いだされるはずだと想像しながら生きるがいい。そうしたければ、酒盛りや、宴会や、舞踏や、浮かれ騒ぎや、競馬や、劇場や、野外運動や、骨牌遊びの中にそれを求めるがいい。そうしたければ、読書や科学的探求、音楽や絵画、政治や実業の中にそれを求めるがいい。それを求めるがいい。だがあなたは、そうした計画を変更しない限り、決してそれをとらえることはないであろう。心の真の休息は決して、イエス・キリストとの心の結びつき以外のところで見いだされはしない。

 チャールズ一世の娘であったエリザベス王女は、ワイト島のニューポート教会に埋葬されている。私たちの仁慈深いヴィクトリア女王によって建てられた大理石の記念碑が、彼女の死の感動的な模様を記している。彼女は、あの不幸な共和国戦争の間、カリスブルック城の孤独な一囚人として、若い頃の友だちすべてから引き離され、死によって解放されるまでの日々を送った。ある日彼女は自分の聖書に頭をもたせかけて死んでいるのが発見された。そのとき開かれていた聖書箇所にあった言葉は、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」、であった。ニューポート教会にある記念碑は、この事実を記録している。それは、頭を大理石の書物の上にもたせかけている女性の像と、その書物に刻み込まれている、先に引用した言葉からなっている。その記念碑が石によっていかなる説教を伝えているか考えてみるがいい。考えてみるがいい。これは、身分も、高貴な生まれも、完全に確かな幸福を授けはしないことを示す、何と色あせない記念であることか! それは、この日あなたが前にしている教訓----いかなる者にとっても、真の休息は、キリストのうちにしかありえない、というこの大いなる教訓----にとって何という証言であろう! その教訓が決して忘れられなければ、あなたの魂にとって何と幸いなことか!

 (3) この論考を読んでいる人の中に、キリストだけしか与えることのできない休息を所有したいと願いながら、それを求めることに不安を感じている人がだれかいるだろうか? あなたの魂の友として私はあなたに願う。必要もないその恐れを打ち捨てるがいい。というのも、キリストが十字架の上で死んだのは、罪人たちを救うためでなくて何のためだったろうか? キリストが神の右の座についておられるのは、罪人たちを受け入れ、彼らのとりなしをするためでなくて何のためだろうか? キリストがあなたをこれほど平易に招き、これほど惜しげなく良い約束をしておられるとき、なぜあなたは自分自身の魂に盗みを働き、キリストのところに来ることを拒まなくてはならないのだろうか?

 この論考を読んでいるすべての人の中で、キリストによって救われたいと願いながら、現在はまだ救われていないという人がいるだろうか? 来るがいい。私は切にあなたに願う。一刻も早くキリストのところに来るがいい。今までのあなたが途方もない罪人だったとしても、《来るがいい。》----これまで警告と勧告と説教に抵抗してきたとしても、《来るがいい。》----これまで光にも知識にも、父の助言にも母の涙にも逆らって罪を犯してきたとしても、《来るがいい。》----これまであらゆる邪悪さの限りを尽くし、礼拝出席も祈りもせずに生きてきたとしても、それでも《来るがいい。》----扉は今は開いている。泉はまだ閉ざされていない。イエス・キリストはあなたを招いておられる。今のあなたが、疲れている、重荷を負っていると感じていて、救われたいと願っているだけで十分である。《来るがいい。一刻も早くキリストのところに来るがいい!》

 信仰によってキリストのところに行き、あなたの心を祈りによってキリストの前に注ぎ出すがいい。キリストにあなたの人生の物語を洗いざらい告げて、自分を受け入れてくださいと願うがいい。あの悔い改めた強盗が、十字架の上にかけられたキリストを見たときにしたように、キリストに向かって叫ぶがいい。「主よ、私も救ってください! 私を思い出してください!」、と。《来るがいい。キリストのところに来るがいい!》

 もしあなたがまだここまで来たことがなかったとしても、本気で救われたいと願うなら、結局はそこへ行かなくてはならない。あなたは罪人としてキリストに願い出なくてはならない。この偉大な医者と個人的なやりとりをしなくてはならない。そして、この方に癒しを願い求めなくてはならない。なぜ今そうしてはいけないのか? なぜ、きょうのこの日、この大いなる招きを受け入れていけないのか? もう一度、私は勧告を繰り返したい。《来るがいい。一刻も早くキリストのところに来るがいい!》

 (4) この論考を読んでいる人の中に、キリストがお与えになる休息を見いだした人がいるだろうか? あなたは、キリストのところに行って、自分の魂をキリストに投げかけることによって、真の平安を味わい知っただろうか? ならば、生涯最後の日までははははは、すでに始めたように、イエスを見上げ、イエスに養われつつ、続けて行くがいい。休息、平安、あわれみ、恵みの十分な供給を、日々この休息と平安との偉大な泉から引き出し続けるがいい。忘れてはならない。あなたは、たといメトシェラのごとき長命に達しても、決してあわれな、むなし手の罪人以上の者にはならず、あなたの持てるもの、望みをかけているものの一切をキリストのみに負っているのだ、ということを。

 キリストに対する信仰の人生を生きることを決して恥じてはならない。人々はあなたを嘲り、笑い者にするかもしれず、議論の中であなたをやりこめることすらあるかもしれない。だが彼らは決してあなたから、キリストに対する信仰が与える感情を取り上げることはできない。彼らは決してあなたがこう感ずるのを妨げることはできない。「私はキリストを見いだすまでは倦み疲れていたが、今は良心に休息を得ている。かつては盲目であったが、今は見えている。死んでいたが、よみがえっている。失われていたが、見いだされている」、と。

 あなたの回りのすべての人々をキリストのところに来るよう招くがいい。あらゆる正当な努力を払って、父を、母を、夫を、妻を、子どもたちを、兄弟たちを、姉妹たちを、友人たちを、親戚たちを、仲間たちを、同僚たちを、使用人たちを連れてくるようにするがいい。----ありとあらゆる人々を、主イエスを知る知識へと導いてくるがいい。いかなる骨身も惜しんではならない。彼らにキリストのことを語るがいい。キリストに彼らのことを語るがいい。時が良くても悪くてもしっかりやるがいい。モーセがホバブに云ったように、彼らに云うがいい。「私たちといっしょに行きましょう。私たちはあなたをしあわせにします」、と(民10:29)。他の人々の魂のために働けば働くほどあなたは、自分自身の魂のために大きな祝福を得るであろう。

 最後に、しかしこれも重要なこととして、確信をもって、来たるべき世における、より良い休息を待ち望むがいい。もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。この方は、ご自分を信じたすべての者たちを集めて、ご自分の民を1つの家に連れて行ってくださる。そこでは、悪者どもはいきりたつのをやめ、そこでは、力のなえた者はいこう。この方は彼らに栄光のからだをお与えになり、そのからだにおいて彼らは全く気を散らされることなくこの方に仕え、倦み疲れることなしにこの方を賛美することになる。この方は、すべての顔から涙をぬぐい、すべてを新しくしてくださる(イザ25:8)。

 キリストのところに来た者、そして自分の魂をキリストの保護にゆだねた者すべてには、これから良い時がやって来る。彼らは、「主が、この間に彼らを歩ませられた全行程を」思い出し、途中の一歩一歩における知恵を見てとるであろう。彼らは、自分たちの《羊飼い》のいくつしみと愛を一度でも疑ったことに驚くであろう。何にもまして彼らは、いかに自分がかくも長くキリストから離れて生きてこられたのか、いかに自分がこの方のことを聞いたとき、この方のもとへ来ることをためらうことなどできたのか、と驚くであろう。

 スコットランドにはグレンクローと呼ばれる峠がある。これは、キリストのところへ来た人にとって天国がいかなるものとなるかを示す美しい例話となろう。グレンクローを通る山道は、くねくねと曲がった、長く急な上り坂である。しかし峠の頂上に達したとき、路傍に1つの石碑が見える。そこには、この単純な言葉が彫りこまれている。「休め、そして感謝せよ」、と。この言葉は、キリストのところに来た、あらゆる者がとうとう天国にはいるときの感情を云い表わしている。隘路の果ての山頂は、とうとう自分のものとなった。私たちは、自分の倦み疲れる旅路の終わりに達し、神の国で腰を下ろすことになる。自分の生涯のあらゆる道のりを感謝をもって見返し、これまで導かれてきた急坂で出会った1つ1つの曲がりくねりにおける完璧な知恵を悟るに違いない。私たちは栄光の安息につつまれて、もはやそれまでの登り道の難儀を忘れてしまうに違いない。今のこの世では、キリストにおける私たちの休息の感覚は、最高の状態にあってさえ微弱で部分的なものである。しかし、「完全なものが現われたら、不完全なものはすたれ」る(Iコリ13:10)。神に感謝すべきかな。やがて来たるべき日には、信仰者たちは完璧な休息に達し、感謝することになるのである。

キリストの招き[了]

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