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13. 心


「あなたの心をわたしに向けよ」----箴23:26
「あなたの心が神の前に正しくないからです」----使8:21

 心はキリスト教信仰において最も大切なものである。あえて何の弁解もせずに、これから私は、心についていくつかのことを語っていこうと思う。読者の方は、特別な注意を払ってほしい。

 は、主立ったものではない。あなたは、まさしくイエスにある真理を全部知っており、それが良いものであることに同意しているかもしれない。キリスト教信仰について、明確で、正確で、健全な意見を持っているかもしれない。しかし、その間ずっとあなたは、滅びに至る広い道を歩いていることもありえる。あなたの心こそ、最も大切な点なのである。「あなたの心は、神の前に正しいものだろうか?」

 あなたの外的な生き方は、人の目にとっては道徳的で、上品で、非の打ち所ないものかもしれない。あなたの教役者も、友人たちも、隣人たちも、あなたのふるまい全般について、ことさらに誤った部分を何1つ見てとらないかもしれない。しかし、その間ずっとあなたが、永遠の破滅の瀬戸際にあることもありえる。最も大切なのはあなたの心である。あなたの心は、神の前に正しいものだろうか?

 願いとあこがれだけでキリスト者になることはできない。あなたは自分の魂について多くの良い感情をいだいているかもしれない。バラムのように、「正しい人が死ぬように死に」たいと切望しているかもしれない(民23:10)。時には、来たるべき審きのことを考えて身震いしたり、キリストの愛について知らされて心溶かされ涙するかもしれない。しかし、その間ずっとあなたが、ゆっくりと地獄へと漂い下っていることもありえる。あなたの心は、神の前に正しいものだろうか?

 この論考の主題をあなたの思いに印象づけるため、私は3つのことをしようと思う。

 I. 第一に、私はあなたに、キリスト教信仰において心がいかに途方もなく重要なものかを示したい。
 II. 第二に、私はあなたに、神の前に正しくない心とはいかなるものかを示したい。
 III. 最後に、私はあなたに、正しい心とはいかなるものかを示したい。

 願わくは神がこの本を手に取ることになるあらゆる人の魂にとって、この主題全体を祝福してくださるように! むろん、ご聖霊が働いてくださらなければ、いかなる説教や著述も全く無益である。願わくは、そのご聖霊が、この論考を多くの人の良心に適用し、多くの人の心を刺し貫く矢としてくださるように!

 I. 第一のこととして、私はあなたに、キリスト教信仰において心がいかに途方もなく重要なものかを示したいと思う。

 いかにしてこの点を証明すればよいだろうか? どこから私は自分の論証を持ってくるべきだろうか?----私は神のことばに向かわなくてはならない。この種の問題においては、この世が何を正しいと、あるいは何を間違っていると考えるかなど全く関係ない。確かな真理の基準は1つしかない。聖書は何と云っているだろうか? 聖書には何と書かれているだろうか? 聖霊のみ思いはどこにあるだろうか?----もし私たちがこの無謬の審判者に自分の判断を従わせないというのなら、自分にキリスト教信仰があるなどというふりをしても全く無駄である。

 1つのこととして、聖書の教えるところ、心こそは私たちの魂の状態を左右する部分である。「いのちの泉はこれからわく」(箴4:23)。理性も、知性も、良心も、感情も、みな重要性ということにかけては心の二の次である。心こそ、その人自身である。それは、すべての霊的ないのちと、健康と、力と、成長の座である。人の魂にとって肝心要の点である。もし心が神に対して生きたもの、御霊によって生かされたものであるなら、その人は生きたキリスト者である。もし心が死んでおり、御霊を有していなければ、その人は神の前で死んでいる。心こそ、その人自身である! ある人が何と云い何と告白しているか、また日曜にどこに行き、献金箱にいくら入れているかなど、私にはどうでもいい。むしろその人がいかなる心をしているかを教えてほしい。そのとき私は、その人がいかなる人かがわかるであろう。「人は、心のうちで考える通りの者でしかない」(箴23:7 <英欽定訳>)。

 もう1つのこととして、聖書の教えるところ、心こそは神が私たちの内側で特にごらんになっておられる部分である。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Iサム16:7)。「人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる」(箴21:2)。人は生まれながらに、宗教の外的な部分、外的な道徳、外的な正しさ、恵みの手段に外的に携わるだけで事足れりとする。しかし主の目は、それをはるかに越えたところを見ておられる。主は私たちの動機に目をとめられる。主は「人のたましいの値うちをはかられる」(箴16:2)。主ご自身がそう云っておられる。「わたし、主が心を探り、思いを調べ……る」(エレ17:10)。

 別のこととして、聖書の教えるところ、心こそは神が人から真っ先にお求めになる第一のものである。神は云われる。「わが子よ。あなたの心をわたしに与えよ」(箴23:26 <英欽定訳>)。私たちは、垂れた頭と、謹厳な面持ち、神の家への肉体的出席、声高な「アーメン」を神に与えることはできるかもしれない。しかし私たちは、自分の心を神に与えるまでは、価値あるものは何も神に与えていないのである。----イザヤの時代のユダヤ人たちの捧げていたいけにえは、数多く、高価なものであった。彼らは神には口先で近づき、くちびるで神をあがめていた。しかし、それはことごとく無益なものであった。礼拝者たちの心が神から遠く離れていたからである(マタ15:8)。偶像礼拝に立ち向かったエフーの熱心は非常に大きく、数多の偶像を引き倒した彼の奉仕は、彼に多くの一時的な報いをもたらした。しかし、彼の性格には、他のすべてをだいなしにする1つの大きな汚点があった。彼は「心を尽くして」神の律法に歩まなかったのである(II列10:31)。心こそは、夫が妻に求め、親がわが子に、主人がそのしもべに求めるものである。そしてその心こそ、神が信仰を告白するキリスト者たちに求めておられるものなのである。

 心臓は、人間のからだにとっていかなる意味を持っているだろうか? それは、肉体全体にとって中心となる、最も重要な器官である。人は熱に浮かされていても、傷を負っても、四肢を失っても、何年も生き続けることができる。しかし心臓が傷ついた人は生きることができない。それと全く同じことが、キリスト教信仰における心についても云える。それは魂にとって、いのちの源泉なのである。

 根は、樹木にとっていかなる意味を持っているだろうか? それは、あらゆるいのちと、生長と、実り豊かさの源である。枝を切り落とされても、幹に傷をつけられても、木は枯れないかもしれない。しかし根を切り刻めば、その木は枯死するであろう。それと全く同じことが、キリスト教信仰における心についても云える。それは魂にとって、いのちの根源なのである。

 主ぜんまいは、時計にとっていかなる意味を持っているだろうか? それは、そのあらゆる作動の原因であり、そのあらゆる有用さの秘密である。その縁枠は高価で、美麗なものかもしれない。その文字盤や数字の造りには技巧が凝らされているかもしれない。しかし、もし主ぜんまいに何か問題があったなら、内部機構のすべてがうまく働かないであろう。それと全く同じことが、キリスト教信仰における心についても云える。それは魂にとって、いのちの主ぜんまいなのである。

 火は、蒸気機関にとっていかなる意味を持っているだろうか? それは、そのあらゆる動作と力の原因である。その機械は正確に組み立てられているかもしれない。あらゆるねじと、弁と、継ぎ手と、回旋機構と、連接棒とが、正しい位置にはめこまれているかもしれない。しかしもしその火炉が冷たいままで、水が蒸気に変えられないならば、その機関は何も行なわないであろう。それと全く同じことが、キリスト教信仰における心についても云える。心が上からの火で点火されない限り、魂は動かないであろう。

 あなたは、自分の回りのこれほど多くの人々が、キリスト教信仰に何の興味も持たない理由を知りたいだろうか? 彼らは、神についても、キリストについても、聖書についても、天国についても、地獄についても、審きについても、永遠についても、真の関心は何も持っていない。彼らが唯一心にかけるのは、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、何で金儲けをしようか、何の楽しみがあるだろうか、といったことでしかない。彼らの心に問題があるのである! 彼らには、神の事がらに対する欲求がこれっぽっちもない。彼らには、霊的な事がらに対するいかなる嗜好も意向も欠けている。彼らには、新しい主ぜんまいが必要である。新しい心がなくてはならない。「なにゆえに、愚かな者が手に代金を持って知恵を買おうとしているのか。その心もないのに」(箴17:16 <英欽定訳>)。

 あなたは、これほど多くの人々が年々歳々福音を聞きながら、それによって感動しないままでいる理由を知りたいだろうか? 彼らの思いは、まるでバニヤンの「落胆の沼」のように見える。大量の教えと導きが彼らに注ぎ込まれるが、何の良い効果も生じることがない。彼らの理性は確信している。彼らの頭は真理に同意している。彼らの良心は時として刺されることがある。彼らの感情は時としてかき立てられることがある。ではなぜ彼らは行き詰まっているのか? なぜ彼らはそのままの状態にとどまっているのか? 彼らの心に問題があるのである! 何らかの隠れた偶像が彼らを地上に縛りつけ、彼らの手足をがんじがらめにし、身動きできないようにしているのである。彼らには新しい心がなくてはならない。彼らの姿はエゼキエルによって正確に描き出されている。「彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている」(エゼ33:31)。

 あなたは、おびただしい数の、いわゆるキリスト者たちが最後には救われることなく、地獄の中でみじめに滅びることになる理由を知りたいだろうか? 彼らには、神は救いを差し出してくれなかったと云うことはできないであろう。キリストが招いてもくれなかったと訴えることはできないであろう。おゝ、否! 彼らは告白せざるをえないであろう。自分たちのためには「何もかも整」ってはいたが、自分たちの心だけは整っていなかった、と。彼ら自身の心こそ、彼らの破滅の原因であったことがわかるであろう! 救命艇は難破船の脇につけられていたが、彼らは乗り込もうとしなかったのである。キリストは彼らを集め「ようとした」が、彼らはそれを「好まなかった」(マタ23:37)。キリストは彼らを救おうとしたが、彼らはそれを好まなかった。「人々は光よりもやみを愛した」。彼らの心に問題があったのである。「彼らはいのちを得るためにキリストのもとに来ようとはし」なかった*(ヨハ3:19; 5:40)。

 これで、私の主題のこのくだりから離れたいと思う。私はあなたに、キリスト教信仰において心がいかに途方もなく重要なものであるか十分に示したものと信じたい。確かに私には、この論考の主題に強くあなたの注意を引きたいと願うだけの理由はあるのである。----あなたの心は正しいだろうか? それは、神の前に正しいものだろうか?

 II. さて第二のこととして、私はあなたに、神の前に正しくない心とはいかなるものかを示したいと思う。この世には二種類の心しかない。正しい心と正しくない心である。正しくない心とはどのようなものであろうか?

 正しくない心とは、私たちがみな生来持っている生まれながらの心である。生まれたときから正しい心など1つもない。生まれながらに「善良な心」などというものはない。一部の愚かな人々が、「人はみな奥底には善良な心がある」、などといくら好んで口にしようと関係ない。アダムとエバが堕落して、罪がこの世に入ったとき以来、人々は悪に向かう傾向をもって生まれるのである。いかなる生まれながらの心も正しくはない。もしあなたの心が生まれてから一度も聖霊によって変えられたことがなければ、きょう知るがいい。あなたの心は正しくないのである。

 聖書は生まれながらの心について何と云っているだろうか? それは厳粛きわまりなく、痛ましいほどに真実なことを多々告げている。そのことばによると、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」(エレ17:9)。そのことばによると、「人の心に計ることはみな、いつも悪いことだけに傾く」*(創6:5)。そのことばによると、「人の子らの心は悪に満ち……ている」(伝9:3)。そのことばによると、「内側から、すなわち、人の心から」、泉から水が湧き出るように、「出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出……(る)のです」(マコ7:21)。まことにこれは、心へりくだらされる姿である! こうした事がらの種子は、この世に生まれ出たあらゆる人の心の中にある。確かに、生まれながらの心は正しくないと告げるだけのことはあるであろう。

 しかし、あらゆる正しくない心に共通した目印は1つもないのだろうか? 神によって変えられていないすべての者に見られるような目印はないだろうか? しかり! それはある。そしてその、正しくない心に共通した目印について、これらは私はあなたの注意を引きたいと思う。聖霊が、生まれながらの心を叙述するため用いるのが適当であるとお考えになった比喩的表現が1つある。それは最も驚くべき、最も教えに満ちた表現である。聖霊は、生まれながらの心のことを「石の心」と呼んでおられるのである(エゼ11:19)。私の知る限り、聖書の中のいかなる象徴も、これほど教えに富み、これほど適切で、ふさわしいものはない。生まれながらの心を石の心と呼ぶ以上に真実な言葉は、いまだかつて決して書かれたことがない。これから私が云おうとすることによく注意してほしい。願わくは主があなたにさとしを与えてくださるように!

 (a) 石は固い。だれでもそれは知っている。石は弾力がなく、たわむことなく、外力によって形を変えることがない。それを砕くことはできても、曲げることはできない。「石のように固い」、という格言は世界中で知られている。コーンウォール沿岸にある花崗岩の岩礁を眺めてみるがいい。大西洋の波濤が四千年もの間打ちつけてきたにもかかわらず、それらはまだ立ち続けている。太古からの固さを保持したまま、砕かれも、動かされもしないまま立っている。それと全く同じことが、生まれながらの心についても云える。患難も、あわれみも、損失も、苦難も、説教も、勧告も、書物も、小冊子も、語ることも、手紙を書くことも、----いかなることによっても、いかなる手を尽くしても、それを柔らかくすることはできない。神が下ってきてそれを変えてくださる日まで、それは動かされることがない。生まれながらの心を石の心とは、よく云ったものである!

 (b) 石は冷たい。石には、手でさわればすぐわかるように、ひやりとする冷えた触感がある。それは、人肌や、木材や、地面さえとも全く異なる触感をしている。「石のように冷たい」、との格言は、だれしも口にするものである。多くの大聖堂内にある大理石の彫像たちは、何万もの説教の内容を聞いてきた。だが彼らは決していかなる感動も表わすことがない。彼らの大理石の顔は、筋1つ動かすことも、眉根を寄せることもない。それと全く同じことが、生まれながらの心についても云える。それは、霊的な感情を全く欠いている。それは、十字架上のキリストの死の物語などよりは、最新の小説や、最新の国会討論や、鉄道事故や海難事件や死刑執行の記事の方に強い関心を寄せる。神が天から火を送ってそれを暖めてくださらない限り、人間の生まれながらの心はキリスト教信仰についていかなる感動も覚えない。生まれながらの心を石の心とは、よく云ったものである!

 (c) 石は不毛である。いかなる種類の岩からであれ、収穫も得ることは決してできない。スノードンやベンネヴィスの高嶺で育った穀物で納屋を満たせることは決してないであろう。花崗岩や粘板岩、----石灰岩や火成岩、----魚卵岩や砂岩、----燧石や白亜層から、あなたは決して麦を収穫することはできないであろう。忍耐と労苦と元手とそれなりの農作業をつぎこめば、ノーフォークの砂土や、ケンブリッジシアの沼沢地や、サフォークの粘土層からも、豊かな実りを得ることはできるかもしれない。しかし石からは、一文の値打ちのある実りも得ることはないであろう。それと全く同じことが、生まれながらの心についても云える。それは、悔悟も、信仰も、愛も、恐れも、聖さも、謙遜も生じさせない不毛の地である。神がそれを粉砕し、新しい原理を入れてくださらない限り、それは神の誉れになるような実を全く生じさせない。生まれながらの心を石の心とは、よく云ったものである!

 (d) 石は死んでいる。それは見ることも、聞くことも、動くことも、育つこともない。それに天の栄光を見せても喜びはしない。それに地獄の火のことを語り聞かせても、恐怖することはない。吠えたける獅子から、あるいは地震から逃れよと命じても、身じろぎもしない。バスロックもモンブランも四千年前と全く同じ姿をしている。それらは数々の王国の興亡を目の当たりにしてきたが、全く変化をこうむることがなかった。ノアが箱船を離れたとき以来、高くなりも、広くなりも、大きくなりもしなかった。それと全く同じことが、生まれながらの心についても云える。それには、霊的いのちの活気が全くない。神がその中に聖霊を植えつけてくださらない限り、それは真のキリスト教信仰に関して死んだもの、静止したものである。生まれながらの心を石の心とは、よく云ったものである!

 さて今、正しくない心があなたの前に提示された。それを見てみるがいい。それについて考えてみるがいい。私がいま描き出した姿に照らして自分自身を吟味してみるがいい。ことによるとあなたの心は全くまだ変えられていないかもしれない。ことによるとあなたの心はまだ生まれついたままの状態かもしれない。もしそうなら、きょう私が告げることを覚えておくがいい。《あなたの心は神の前に正しくない》。

 あなたは、この世で善を施すことがなぜこれほどに困難なのか、その理由を知りたいだろうか? なぜ福音を信じて、真のキリスト者らしく生きる人々がこれほど少ししかいないのか、その理由を知りたいだろうか? その理由は、人間の生まれながらの心の固さにある。人は、自分にとって何が善であるか見てとっておらず、知ってもいない。私が思うに、驚くべきは、回心する人がほとんどいないことではなく、回心する人がひとりでもいるという奇蹟的な事実である。私は不信仰のことを見聞きしても、たいして驚きはしない。私は、生まれながらの心が正しくないことを覚えているのである。

 あなたは、罪のうちにあるまま死んだ人々の状態が、なぜこれほど絶望的になすすべもないのか、その理由を知りたいだろうか? なぜ教役者たちが、神に会う備えのないまま取り去られた人々について、あれほどの恐れを感ずるのか、その理由を知りたいだろうか? その理由は、人間の生まれながらの心の固さにある。人は、その心が変えられないまま天国に行ったとしたら、そこで何をするというのだろう? 聖徒たちのうちのだれの隣に座ろうというのだろう? 神の御前で、神とともに過ごすことにいかなる楽しみがあるというのだろう? おゝ、否! 隠し立てしても何の役にも立たない。正しくない心をしたまま死んだなら、その人の状態にはいかなる真の希望もありえない。

 ここで、この点からは離れたいと思う。もう一度私は、この論考の主題全体をあなたの良心に強く訴えかけたい。確かにあなたも、それが非常に深刻なことであるとは認めるに違いない。----あなたの心は正しいだろうか? それは、神の前に正しいものだろうか?

 III. 最後のこととして、私はあなたに、正しい心とはいかなるものかを示したい。この心については、聖書に数多くの描写が含まれている。これから私は、そうした描写のいくつかをあなたの前に指し示そうと思う。このような問題においては、私はあなたが、人間の云うことよりは、神が云っておられることに注目してほしいと願うものである。では、正しい心の目印としるしがいかなるものかを、来て、見てとるがいい。

 (a) 正しい心は「新しい心」である(エゼ36:26)。それは、人がもって生まれてきた心ではなく、聖霊によって植えつけられた別の心である。それは、新しい志向と、新しい喜びと、新しい悲しみと、新しい願望と、新しい希望と、新しい恐れと、新しい好みと、新しい嫌悪を有する心である。魂について、神について、キリストについて、救いについて、聖書について、祈りについて、日曜日について、天国について、地獄について、世について、聖さについて、新しい見方をする心である。それは、優秀な新しい所有者を得た農園のようである。「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(IIコリ5:17)。

 (b) 正しい心は「砕かれた、悔いた心」である(詩51:17)。それは、高慢や、うぬぼれや、自分を義とする思いを折り取られた心である。以前の思い上がった考えは砕かれ、くじかれ、木っ端微塵にされている。それは自らのことを有罪で、無価値で、腐敗したものと考える。以前の頑固さや、倨傲や、無神経さは影を潜め、消え失せ、過ぎ去っている。それはもはや神を怒らせることを軽くみなしはしない。それは痛みを覚え、繊細で、罪に陥ることを執拗に恐れている(II列22:19)。それは謙遜で、へりくだっていて、自分を卑下し、自らのうちに何も良いものを見ない。

 (c) 正しい心は、救われるためにキリストだけを信じており、キリストが信仰によってその内に住んでおられる(ロマ10:10; エペ3:17)。その心は、赦しと永遠のいのちに関するそのあらゆる希望の根拠を、キリストの贖罪と、キリストの仲立ちと、キリストのとりなしに置いている。それは、キリストの血の注ぎを受けて、邪悪な良心をきよめられている(ヘブ10:22)。それは、羅針盤の針が北を指すようにキリストの方を向く。それは、向日葵が太陽の方を向くように、日ごとの平安と、あわれみと、恵みとを求めてキリストの方を向く。それは、荒野のイスラエルがマナによって養われたように、日ごとの支えとしてキリストを糧とする。それはキリストのうちに、そのあらゆる欠けと必要を満たすために格別にふさわしいお方を見てとっている。それは、自分の医者、保護者、夫、友としてのキリストによりかかり、キリストに堅く結びつき、キリストの上に建てられ、キリストにしがみつく。

 (d) 正しい心はきよめられた心である(使15:9; マタ5:8)。それは聖さを愛し、罪を憎む。いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめようと日々努める(IIコリ7:1)。悪であるものを忌みきらい、善であるものを堅く守る。神の律法を喜びとし、その律法を自らの上に刻み込み、それを忘れないようにする(詩119:11)。律法をより完全に守ることを切望し、律法を愛する人々を喜びとする。神と人とを愛する。それは上にあるものを思う。それは自分が最も聖くあるときほど、心軽やかで幸福に感ずるときはない。喜びをもって天国を待ち望み、それを完璧な聖さがついに到達される場所とみなす。

 (e) 正しい心は祈りに励む心である。それは自らの内側に、「子としてくださる御霊……それにより私たちが、『アバ、父。』と呼べる御霊」*を有している(ロマ8:15)。それが日ごとに感ずるのは、「主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます」、ということである(詩27:8)。いやがおうでも、不断に、霊的な事がらについて神に語ろうとする思いにさせられる。----ことによると弱々しく、かすかに、不完全にしかできないかもしれないが、語らずにはいられない。それは、友人の前ででもあるかのように、神の前で思いのたけを打ち明けることが必要であることに気づく。そのすべての必要と、願いとを神の前であらいざらいさらけださずにはいられないことに気づく。それは神にそのすべての秘密を告げる。神には何1つ隠し事をしない。正しい心をした人に祈りなしに生きさせようとするのは、人を呼吸せずに生きさせようとするに等しい。

 (f) 正しい心は内側に争闘を感ずる心である(ガラ5:17)。それは、自らの内側で、2つの対立する原理が互いに優位に立とうと争っていることに気づく。----肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らっている。経験上それは、聖パウロが、「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ」、と云うときにいかなることを意味しているかがわかる(ロマ7:23)。正しくない心は、こうした葛藤について何も知らない。強い人が十分に武装して、正しくない心を自分の家として守っているときには、その持ち物は安全である(ルカ11:21)。しかし正当な王がその心を所有なさるとき、死ぬまで決して終わらない格闘が始まる。正しい心は、その平安によるのと全く同じように、その戦闘によっても知られるのである。

 (g) 最後に、しかしこれも重要なこととして、正しい心は正直で、1つになった、真実な心である(ルカ8:15; I歴12:33; ヘブ10:22)。そこには、偽りや、偽善や、偽装は何もない。裏表も、二心もない。それは、本当に自らが告白する通りのものであり、自らが告白する通りのことを感じ、自らが告白する通りのことを信じている。その信仰はかすかかもしれない。その従順は非常に不完全なものかもしれない。しかし1つのことによって、正しい心は常に見分けがつくであろう。そのキリスト教信仰は、常に実質を伴った、純粋で、徹底的な、真摯なものであろう。

 私がいま述べてきたような心は、名前と国家と民族と国語の違いを越えて、常にあらゆる真のキリスト者が有してきたものである。彼らは、多くの問題において互いに異なっていたが、全員「正しい心」をした者たちであった。彼らの中には、ダビデやペテロのように、一時的に転落した者たちもあるが、彼らの心は決して完全に主から離れることはなかった。彼らはしばしば数多の欠陥をかかえた者たちであることを明らかにしてきたが、彼らの心は神の前に正しかった。彼らは地上で互いを理解してきた。彼らは自分たちの経験がいずこにおいても同一のものであることを見いだしてきた。来たるべき世で彼らはさらによく互いを理解しあうことであろう。地上で「正しい心」を持っていたすべての人々は、天国に入ったときに自分たちが1つの心であることに気づくであろう。

 (1) さて私は結論として、この論考を読むあらゆる人に1つの問いかけをして、自己省察を勧めたいと思う。きょう私はあなたに、率直に問いたい。「あなたは、いかなる心をしているだろうか? あなたの心は正しいだろうか? 正しくないだろうか?」、と。

 この論考を手にとる人がどのような人か私は知らない。しかし、自己吟味があなたにとって悪いものであろうはずがない。もしあなたの心が正しければ、それを知るのは慰めとなるであろう。「もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ……ます」(Iヨハ3:21)。しかし、もしあなたの心が正しくなければ、いいかげんにそれを見つけだし、変化を求めるべき時である。時は縮まっている。だれも働くことのできない夜が来ようとしている。きょうのこの日、あなた自身に向かって云うがいい。「私の心は正しいだろうか? 正しくないだろうか?」、と。

 心の中でこう云うような考えであってはならない。----「こんな問いかけをする必要などない。心についてそんなに騒ぎ立てる必要はない。私は教会へ、あるいは会堂へ、定期的に通っている。品行方正な生き方をしている。最終的には、私には何も問題がないとわかるはずだ」、と。----こうした考え方に用心するよう、私はあなたに切に願う。----少しでも救われたいという気持ちがあるなら、こうした考え方に用心するがいい。あなたは、地上で最上の教会に通い、最上の説教者の話を聞いているかもしれない。あなたは、最良の国教徒、あるいは最も健全な非国教徒かもしれない。しかし、もしもその間ずっと、あなたの心が神の前に正しくないものであったとしたら、あなたは破滅への大道をまっしぐらに下っているのである。腰を据えて、あなたの前にある問いを静かに考察してみるがいい。目をそらさず、男らしくそれに向かい合うがいい。あなたの心は正しいだろうか? 正しくないだろうか?

 心の中でこう云うような考えであってはならない。----「自分の心がいかなるものかわかるような人などいない。人は、最善のことを期待していなくてはならない。自分自身の魂の状態がいかなるものか確実に見いだせる者などいないのだ」、と。もう一度私は云う。用心するがいい。----このような考え方に用心するがいい。こうしたことはわかるものである。見いだせるものである。正直に、また公正に、自分を取り扱ってみるがいい。あなたの内なる人の状態を審理する裁判を開くがいい。陪審を招集するがいい。聖書を判事として取り仕切らせるがいい。証人を召還するがいい。問いただすがいい。あなたは何を好んでいるか、----あなたの愛情は何にかけられているか、----あなたの宝はどこにあるか、----あなたは何を最も憎んでいるか、----あなたは何を最も愛しているか、----あなたは何を最も楽しんでいるか、----あなたは何を最も悲しみとしているか、と。こうした点を公平に調べてみて、その答えがいかなるものか注意してみるがいい。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」(マタ6:21)。木は常にその実によって知られ、真のキリスト者は常にその習慣と嗜好と愛情によって明らかにされる。しかり! 正直で、真摯で、公平でありさえすれば、あなたはすぐに自分の心がいかなるものかを見いだすであろう。それは正しいだろうか? 正しくないだろうか?

 心の中でこう云うような考えであってはならない。----「私は、仰せのことには全く同意するし、いつかは自分の心を吟味したいとは思っている。しかし、今は時間がない。その暇がないのだ。おりのある時まで待つことにしよう」、と。おゝ、このような考え方に用心するがいい。----もう一度私は云う。用心するがいい! 人生は不確かなものである。だのにあなたは、「おりのある時」と云う(使24:25)。永遠はごく間近に近づいてる。だのにあなたは、神と会う備えを後回しにしようと云う。悲しいかな、後回しにする習慣を原因として、おびただしい数の人々は、その魂を破滅させているのである! あなたは、ほんとうにみじめな人間である! だれが、この、後回しという悪魔から、あなたを救い出してくれるのだろうか? 義務感に目覚めるがいい。高慢と、怠惰と、世への愛があなたに巻きつけている鎖を投げ捨てるがいい。立ち上がって、しっかり足を踏みしめ、あなたの前にある問いをしかと見つめるがいい。国教徒であれ非国教徒であれ、きょう私はあなたに問う。----あなたの心は正しいだろうか? 正しくないだろうか?

 (2) 第二のこととして私は、自分の心が正しくないと自覚しているすべての人々に対して、厳粛な警告を与えたい。私はそれを、心からの好意と愛情をもって行なうものである。無用な恐れをかき立てようなどというつもりは毛頭ない。しかし私には、あなたが陥っている危険な状態が、誇張しようもないもののように思える。私はあなたに警告する。もしあなたの心が神の前に正しくなければ、あなたは地獄の瀬戸際に立っているのである。あなたと永遠の死との間にはほんの一歩しかない。

 正しい心なしに天国に入れる人がいるなどと、あなたは本当に考えることができるだろうか? 回心しなくとも救われる人がいるなどと、あなたは自分にへつらっていないだろうか? そのようなみじめな迷妄は打ち捨てるがいい! それを今すぐ、永遠に投げ捨てるがいい。聖書は何と云っているだろうか? 「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。----「あなたがたも回心して子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」。----「聖くなければ、だれも主を見ることができません」(ヨハ3:3; マタ18:3 <新改訳欄外参照>; ヘブ12:14)。多くの人々が思い違いをしているようだが、人はその罪を赦してもらうだけでは十分ではない。赦しと同じくらい必要なものがもう1つあるのである。新しい心である。私たちは、キリストの血で洗われるだけでなく、聖霊によって更新されなくてはならない。更新と洗いの両方がなくては、だれも救われることはできない。

 あなたは、もし正しい心なしに天国に入れたとしても、天国で幸福になるなどと一瞬でも考えることができるだろうか? そのようなみじめな迷妄は打ち捨てるがいい! それを今すぐ、永遠に投げ捨てるがいい。あなたは、「聖徒の相続分にあずかる資格」を得て初めて、それを楽しめるようになるのである(コロ1:12)。あなたの嗜好が、聖徒たちや御使いたちのそれと調和するようにさせられ、そのように整えられて初めて、あなたは彼らとともにいることを喜べるようになるのである。羊は水の中に投げ込まれても幸せになれない。魚は乾いた地面の上に投げ出されても幸せになれない。そして人は、正しい心なしに天国に入っても、天国で幸せになれないであろう。

 私の警告はあなたの前にある。それに対して心をかたくなにしてはならない。それを信ずるがいい。それに基づいて行動するがいい。それを用立てるがいい。一刻も早く、いのちにある新しさへと目覚め、立ち上がるがいい。1つのことだけは間違いなく確実である。あなたがこの警告を聞こうが聞くまいが、神は一度お語りになったことを取り消さないであろう。「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである」(IIテモ2:13)。

 (3) 第三に私は、自分の心が正しくないと自覚しているが、それを正しくしたいと願っているすべての人々に対して、助言を与えたい。その助言は短く、単純なものである。私があなたに助言したいのは、すぐさま主イエス・キリストのもとに向かい、聖霊の賜物を乞い求めるがいい、ということである。失われて破滅した罪人として主に懇願することである。自分を受け入れてください、自分の魂の必要を満たしてください、と。私は、あなたが自分の心を正しくできないことは重々承知している。しかし、主イエス・キリストにはそうできることも承知している。そして、その主イエス・キリストのもとにこそ、一刻も早く向かうよう、私はあなたに切に願っているのである。

 もしこの論考の読者の中に、正しい心を本当に求めている人がいるなら、神に感謝すべきかな、私はその人に良い励ましを与えることができる。神に感謝すべきかな、私はキリストをあなたの前に掲げ上げて、大胆に云うことができる。キリストを見上げよ、----キリストを求めよ、----キリストのところに行くがいい、と。かのほむべき主イエスは何をするためにこの世にやって来られたのだろうか? 主は何のためにその尊い血潮を与えて十字架にかかったのだろうか? 主は何のために死んで、よみがえられたのだろうか? 主は何のために天へ昇り、神の右の座につかれたのだろうか? キリストがこれらすべてをなさったのは、あなたや私のようなあわれな罪人たちに完全な救いを給わるためでなくて何のためだったろうか?----罪の咎からの救い、罪の力からの救いを、信ずるすべての者に給わるためでなくて何だったろうか? おゝ、しかり! キリストは決して中途半端な救い主ではない。主は、「人々のために贈り物を受けられた。頑迷な者どものためにさえも」(詩68:18 <英欽定訳>)。主は、ご自分のところに来る者すべてに御霊を注ぎ出そうと待っておられる。あわれみと恵み、----赦しと新しい心、----これらをみなイエスは、あなたがご自分のところに来さえするなら、その御霊によって、いつでもあなたに適用なさろうと待ち受けておられる。では、来るがいい。一刻も早くキリストのところに来るがいい。

 キリストにできないことが何かあるだろうか? キリストは創造することができる。主によって、初めにすべての物は造られた。主はそのご命令によって世界の全部を存在させなさった。----キリストは生かすことができる。主は、地上におられたとき死人をよみがえらせ、一言語るだけでいのちを吹き返させなさった。----キリストは変えることができる。主は病を健康に、弱さを強さに、----欠乏を潤沢に、嵐を凪ぎに、悲しみを喜びに転ずることができる。----キリストはすでに、おびただしい数の人々の心に、数多の奇蹟を行なわれた。主は無学な漁師ペテロを使徒ペテロにしてくださった。----貪欲な取税人マタイを福音書記者マタイにしてくださった。----自分を義とするパリサイ人サウロを世界の伝道者パウロにしてくださった。キリストは、かつて行なったことを再び行なうことができる。キリストとご聖霊は常に同じである。あなたの心の中にあるもので、主イエスが正しくできないものは何1つない。ただ、キリストのところに来るがいい。

 もしあなたが、イエスが地上におられた時代のパレスチナに住んでいたとしたら、あなたは、病気になった場合、キリストの助けを求めたはずである。もしあなたが、カペナウムの名もない裏路地で、あるいはガリラヤ湖の青い水辺に立つあばら屋で、心臓病に襲われ崩れ折れるようなことがあったとしたら、あなたは確かに癒しを求めてイエスのところに行ったはずである。あなたは、連日、道端に座って、イエスが姿を現わすのを待っていたはずである。もしイエスがたまたまあなたの住まいの近くにこなかったとしたら、あなたは彼を探し回り、彼を見つけるまでは決して心安んじなかったはずである。おゝ、なぜあなたは、きょうのこの日、あなたの魂の病のために同じことをしないのだろうか? なぜあなたは、すぐにも天におられる偉大な医師のもとに行き、こう願わないのだろうか? 「どうか石の心を取り除き、私に肉の心をお与えください」、と(エゼ11:19)。もしあなたが「正しい心」をほしければ、自分自身の力で心を正しくしようと試みて時間を浪費してはならない。それは、あなたの力をはるかに越えている。この偉大な魂の医師のところに来るがいい。すぐさまイエス・キリストのところに来るがいい。

 (4) 最後に私は、心が神の前に正しくされているすべての人々に対して、勧告を与えたい。私はそれを、すべての真のキリスト者全員に対する時宜にかなった言葉として与えたい。私に耳を傾けるがいい。私は信仰を有するあらゆる兄弟姉妹に語るものである。私は特にあなたに語りたいと思う。

 あなたの心は正しいだろうか? では、感謝にあふれた者となるがいい。主をほめたたえるがいい。「あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった」、そのたぐいまれなるあわれみのゆえに賛美するがいい(Iペテ2:9)。生まれながらのあなたがいかなる者であったか考えてみるがいい。何の価値もない者に対する無代価の恵みによって、あなたに何がなされたか考えてみるがいい。あなたの心は、真にあるべき姿にも、あなたがそうあってほしいと希望する姿にも達していないかもしれない。しかし、とにもかくにも、あなたの心は、あなたがもって生まれた、あの古い心ではないのである。確かに、神から心を変えていただいた人は、賛美にあふれる者となってしかるべきである。

 あなたの心は正しいだろうか? では、へりくだった、用心深い者となるがいい。あなたは、まだ天国にではなく、地上にいる。まだ肉体の中にいる。悪魔はあなたの近くにいて、決して眠ることがない。おゝ、力の限り、見張って、あなたの心を見守るがいい! 誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けるがいい。キリストご自身に願うがいい。自分のため、自分の心を見守ってください、と。主に願うがいい。どうかそこにお住まいになり、そこで支配し、それを守備し、あらゆる敵を御足の下に踏みにじってください、と。心の砦のかぎをことごとく《王》ご自身の御手に引き渡し、二度と取り返そうとしてはならない。これはソロモンの重い言葉である。「自分の心に頼る者は愚かな者」(箴28:26)。

 あなたの心は正しいだろうか? では、他の人々の魂について希望に満ちた者となるがいい。だれがあなたを異なった者としたのだろうか? あなたのような者が新しく造られた者とされているというのに、なぜ世にいる他の人が変えられないことがあるだろうか? 働き続けるがいい。祈り続けるがいい。手紙を書き続けるがいい。あなたにできるすべての善を魂に施すよう努めるがいい。いかなる人の救いについても、その人が生きている限りは、決してあきらめてはならない。確かに、恵みによって変えられた人は、この世に絶望的な人などひとりもいないと感じてしかるべきである。キリストに癒すことの不可能な心など1つもない。

 あなたの心は正しいだろうか? では、その心に期待しすぎない者となるがいい。それが弱く、むら気のある、活気のない、不安定なもの、しばしば疑い、恐れがちなものであることに気づいても驚いてはならない。あなたの贖いは、あなたの主なる救い主が再び来られるまで完成しはしない。あなたの完全な救いは、まだ現わされてはいない(ルカ21:28; Iペテ1:5)。あなたは2つの天国を持つことはできない。----地上に天国を持ち、死後、天国を持つことはできない。あなたは、心が変えられ、更新され、回心し、聖なる者とされてはいても、決して忘れてはならない。それは結局のところ人間の心でしかなく、邪悪な世のただ中で生きている人間の心でしかないのだ、と。

 最後に、正しい心をした読者の方々全員に切に願わせてほしい。キリストの再臨の日を見上げ、待ち望んでいるがいい。サタンが縛られ、キリストの聖徒たちが変えられる時は近づいている。----罪がもはや私たちを悩ませなくなり、罪人たちの姿が私たちの思いを悲しませなくなる時、----信仰者たちがついに気を散らされることなく神に仕えるようになり、完璧な心をもって神を愛するようになる時が近づいている。その日を待って私たちは、目を覚まして、祈り続けていよう。それは遠く離れているはずがない。夜はふけて、昼が近づいている。確かにもし私たちの心が正しいものであれば、私たちはしばしばこう叫ぶべきである。「すぐに来てください。主イエスよ、来てください」、と。

心[了]

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