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12. 回心


「悔い改めて、神に立ち返りなさい」----使3:19

 この論考の題名となっている主題は、全人類に関係するものである。それは、身分や階級の違いに関わらず、高きも低きも、富者も貧者も、老人も若人も、良家の者も一般庶民も、すべての人が胸に迫られるべきことである。金銭や身分や学識がなくとも、だれでも天国へ行くことはできる。だが、いかに賢く、富裕で、高貴な生まれの、美しい人であっても、《回心》なくして決して天国へ行くことはできない。

 6つの点にしぼって、この論考の主題を考察してみよう。私は、回心が次のようなものであると示したいと思う。すなわち、それは----

 I. 聖書的なものである。
 II. 現実に存在するものである。
 III. 必要なものである。
 IV. 可能なものである。
 V. 幸いなものである。
 VI. 目に見えるものである。

 I. 第一のこととして示したいのは、回心が聖書的なものだということである。

 どういう意味かというと、回心とは、はっきり聖書で言及されているものだ、ということである。これこそ私たちが、キリスト教信仰におけるいかなる事がらにおいても、第一に確かめなくてはならない点である。これこれということを、だれが云っているか、とか、それをだれがキリスト教信仰の真理であると宣言しているか、とかいうことは、全く問題ではない。私たちがある教理を好きか嫌いかなど、全く問題ではない。それは聖書の中にあることだろうか? それこそ唯一の問題である。もし聖書の中にあるなら、私たちにはそれを否定する何の権利もない。もし私たちが、自分の好みに合わないからといって聖書の真理を否定するなら、それは自分の魂に危難を招くことになり、そのまま不信者になるも同然のことであろう。これは、決して忘れてならない原則である。

 聖書に目を向けてみよう。ダビデが何と云っているか聞くがいい。「主のみおしえは完全で、たましいを立ち返らせ……る」。----「罪人は、あなたのもとに帰りましょう」(詩19:7 <英欽定訳>; 51;13)。私たちの主イエス・キリストが何と云っているか聞くがいい。「あなたがたも向きを変えて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」(マタ18:3 <新改訳欄外参照>)。聖ペテロが何と云っているか聞くがいい。「あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい」(使3:19)。聖ヤコブが何と云っているか聞くがいい。「罪人を迷いの道から立ち返らせる者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおう」(ヤコ5:20 <英欽定訳>)。

 この他にも、いくらでも聖書の証拠はあげることができるであろう。私は、向きを変えるとか、立ち返るという言葉そのものは使われていなくとも、その概念が含まれている多くの箇所を引用することができる。更新されること、----変えられること、----新しく造られること、----死人の中からよみがえらされること、----光を受けること、----死からいのちに移されること、----新しく生まれること、----古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着ること、----これらはみな、回心と同じことを意味する聖書の表現にほかならない。これらはみな、同じことが異なる観点から眺められているのである。しかし、こうした問題については、満腹するはご馳走と同様である。私の第一の見解の正しさについては、いかなる疑いもありえないであろう。----すなわち、回心は聖書的なことなのである。それは単に人間がひねり出したものではなく、聖書の中にあるのである。

 ことによると、あなたはこう云うかもしれない。自分には、「聖句」などどうでもいい、自分は、信仰上の問題を個別の聖句に基づいて決する習慣など持ち合わせていないのだ、と。もしあなたがそうした人だとしたら、私はあなたを気の毒に思う。私たちの主イエス・キリストと、その使徒たちは、個別の聖句をしばしば引用し、彼らの議論のあらゆる部分をそうした聖句に基づかせるのが常であった。1つ平易な聖句があれば、彼らにとってはそれで事を決するに十分であった。これは深刻なことではないだろうか? 主イエスとその使徒たちが、個別の聖句をそのように用いていたというのに、あなたがそうした聖句をどうでもいいと云えるだろうか?

 私はこのページを読んでいるあらゆる人に切に願う。信仰上の主題に関する無知な偏見に用心してほしい。私の知っているある人々は、種々の教理や意見を、熱狂主義的で、狂信的で、ばかげたものであるといって批判していながら、自分たちが聖書そのものを批判していることには完璧に無知なのである! 彼らが悲しくも証拠だてているのは、彼らが理解してもいないことについて語っているということ、また聖書の内容について、何も知らないに等しいということである。記録によると、百年前のサマセット州で、ひとりの偉大な説教者が、講壇上で悪態をついたというかどで治安判事の前に引き出された。その説教者は説教の中で、「信じた者はさばかれない(He that believeth shall not be damned)」(マコ16:16)、という有名な聖句を口にしたのだが、それをご注進に及んだ警吏は、説教者が神のことばを引用していたことを知らなかったのである!*1----私自身も、ある高い身分の婦人が、とある宣教団体の集会で、激昂していたのを覚えている。その理由は、講演者のひとりが、異教徒のことを「望みがない」と述べたからであった。だがしかし、その講演者は単に聖パウロの用いていた表現をそのまま用いていたにすぎない。福音に接する前のエペソ人のことを、聖パウロはまさに「望みのない人々」と語っているのである(エペ2:12)! 小さな過ちに陥らないよう用心するがいい。回心に反対して語ることによって、自分自身の無知をさらけださないように注意するがいい。聖書を調べてみるがいい。《回心は、聖書的なものである》。

 II. 第二のこととして示したいのは、回心は現実に存在するものである、ということである。

 私は、この点について語るべき非常な必要があると感じている。私たちの生きている時代は、いかさまと、ごまかしと、欺きと、詐欺の時代である。見かけ倒しの白塗りと、うわぐすりと、漆塗りと、化粧張りの時代である。漆喰と、模造品と、めっきと、金箔と、電鋳の時代である。混ぜものをされた食物と、人造宝石と、人を欺く目方や物差しと、粗悪な建材と、まがいものの衣服の時代である。信仰的な場面においても、空論をまくしたてる者や、白く塗った墓や、うるさいシンバルがはびこっている時代である。全く無理もないことだが、多くの人々は、キリスト教信仰を告白する者を、全員が偽善者であるとは云わなくとも、非常にうろんな人格の持ち主であるとみなし、回心などというものが実在することを否定している。

 それでも、こうした人々が何と云おうと、私は確信をもって主張するものである。回心というものは実際にあるのだ、と。人々の間には、いずこにおいても、ここかしこに、取り違えようのないしかたで、人の心が、性格が、嗜好が、生活が、完全に転回した場合----回心という名にしか値しないような場合----が見受けられる。私は云う。人が、罪から神への完全な方向転換するとき、----俗気から聖潔へ、----自分を義とする思いから、自分を信用しない思いへ、----キリスト教信仰への無頓着さから、深い悔い改めへ、----不信仰から信仰へ、----キリストへの無関心から、キリストへの強い愛へ、----祈りも聖書も安息日も無視する生き方から、あらゆる恵みの手段を勤勉に用いる生き方へと方向転換するとき、----私は大胆に云うものである。そうした人は、回心した人である、と。いま私が述べたようなしかたで人の心が逆転し、かつて憎んでいたものを愛するようになり、かつて愛していたものを憎むようになるとき、私は大胆に云うものである。それは回心が起こったのだ、と。それを否定するのは、依怙地に見て見ぬふりをすることでしかない。そのような変化は、それ以外には何としても云い表わせない。今のところ、それに対してつけることのできる最適の名前は、聖書の云う名前----回心----である。

 そのような変化について聖書は、多くの、取り違えようもない見本を示している。そうした人々の物語を注意深く読んでみるがいい。ユダの王マナセや、使徒マタイや、あのサマリヤの女や、取税人ザアカイや、マグダラのマリヤや、タルソのサウロや、あのピリピ人の看守や、紫布の証人ルデヤや、ペンテコステの日にペテロが説教したユダヤ人たちや、聖パウロが説教したコリント人たちの話を読んでみるがいい(II歴33:1-19; マタ9:9; ヨハ4:1-29; ルカ19:1-10; 8:2; 使9:1-22; 16:14-34; 2:37-41; Iコリ6:9-11)。こうした場合のすべてにおいて、そこにはとてつもない変化があった。その変化を回心と呼ばずして何と呼ぶのだろうか?

 そのような変化について、あらゆる時代の教会史は多くの有名な実例を示すことができる。そうした人々の伝記を調べてみるがいい。アウグスティヌスや、マルチン・ルターや、ヒュー・ラティマーや、ジョン・バニヤンや、ガードナー大佐や、ジョン・ニュートンや、トマス・スコットの伝記を調べてみるがいい。こうした伝記のすべてにおいて、とてつもなく大きな、心と意見と行動における、神に対する転換が記述されているであろう。この転換を回心と呼ぶ以上に良い呼び名があるだろうか?

 こうした変化について、いかなる人も、自分の近隣や交友関係の中に、多くの事例をあげることができるであろう。人間観察に長けた、正直な心持ちの人は、自分の周囲を見渡して、私の主張していることを考えてみるがいい。できるものなら、自分と同じ世代と立場にありながら、キリスト教信仰という問題において、以前とは全く様変わりしたような人々を指摘できることを否定してみるがいい。彼らは、自分自身の魂について、救われるということの重要性について、----罪や、神や、キリストや、悔い改めや、信仰や、聖さについて、----聖書を読むことや、祈ることや、聖日礼拝を守ることについて、----こうしたすべての事がらについて、完全に一変してしまった。私は道理の分かるすべての人に、こうした人々を知ってはいないかどうか否定できるものなら否定してみよと云いたい。こうした人々は、全国の至る所でそこここに見いだされるはずである。もう一度私は問う。こうした変化を回心以外の何と呼べるのか、と。

 私はこの点にこれほど長々とかかずらっていることをほとんど恥ずかしく思う。これはあたかも、二足す二が四であるとか、太陽は東から昇るなどということを証明するのに時間を費やしているかのように思える。しかし、悲しいかな、世の中には、キリスト教信仰におけるあらゆることを認めず、あらゆることに異論を唱える人々があまりにも多い! 彼らは自分がまだ回心していないと知っている。それゆえ、いかなる人も決して回心などしていないと懸命に云い立てようとしているのである! 私は、こうしたすべての人々に対して十分な答えを与えたと信じたい。私があなたに示してきたように、《回心は実際に存在するものである》。

 III. 第三のこととして示したいのは、回心は必要なものである、ということである。

 これは非常に重要な点である。一部の立派な人々は、回心が聖書的な真理であること、実際に存在するものであることを喜んで認めるが、ほとんどの英国人に無理矢理求めるほどのものではないと云う。彼らも、異教徒たちに回心する必要があることは認める。盗人や、堕落した人間や、監獄の受刑者らすらも、回心する必要があるかもしれないと云う。しかし教会に通っている人々に回心が必要であるなどという話は、彼らにはまるで理解できない。「そうした人々も、場合によっては、多少の奮起や改善は求められるかもしれない。彼らは、当然そうあってしかるべきほどには善良ではないかもしれない。だが、彼らが回心を必要としているなどと云う権利はない! 彼らに向かって、あなたがたには回心が必要だ、などと告げるのは、愛のない、残酷な、狭量で、むごい、誤ったことである!」、と。

 この悲しくもよくある考え方は、完全な迷妄である。それは純粋に人間が造り出した、片言節句も聖書の根拠を持たないものにほかならない。聖書がはっきり教えているところ、回心と呼ばれる心の変化は、あらゆる人にとって絶対に必要である。それが必要とされるのは、あらゆる人の生まれながらの心の状態のゆえである。この世に生まれ出たすべての人は、その身分や国籍にかかわらず、揺り籠と墓場との間で、その心が変えられなければ、決して天国に行くことはできない。すべてが、すべての人々が、何の例外もなく、回心しなくてはならない。心の回心なくして、私たちは地上で神に仕えることができない。私たちは、生まれながらには、神とその御子イエス・キリストに対する信仰も、恐れも、愛も持っていない。神のことばに対する何の喜びも持っていない。神の典礼にも、神の家にも、神の民にも、神の日にも、何の楽しみも持っていない。私たちは、キリスト教の何らかの形式を護持し、一連の儀式や宗教的勤めを守ることはできるかもしれない。しかし、回心がなければ私たちは、自分のキリスト教信仰に対して、煉瓦や石ころ同然の心しか持つことがない。死骸が神に仕えられるだろうか? 私たちはそれが無理だと知っている。ならば、回心なくして私たちは神に対して死んでいるのである。

 あなたが日曜ごとに礼拝をともにしている会衆を見渡してみるがいい。注意してみるがいい。その大多数の人々が、行なわれつつあることに対して、いかに僅かな興味しか払っていないことか。観察してみるがいい。彼らが礼拝式の全体に対して、いかに如実に気の入らない、無感動な、無関心なようすであることか。明らかに彼らの心はそこにないのである! 彼らは何か別のことを考えていて、信仰のことは考えていない。仕事のことか、金銭のことか、楽しみのことか、世俗的な計画のことか、婦人帽子のことか、手袋のことか、新しい服のことか、娯楽のことを考えている。彼らのからだはそこにあっても、心はそこにない。----そして、その理由は何だろうか? 彼らがみな必要としているのは何だろうか? 彼らには回心が必要なのである。それなくして彼らは、単に礼儀や体裁のためにしか教会に来ず、教会を一歩出れば、この世と自らの罪に仕えることしかしない。

 しかし、それがすべてではない。心の回心なしに天国へ行ったとしても、私たちは天国を楽しむことができないであろう。天国は聖潔が至高の支配をふるっている場所、罪と世がどこにも見当たらないような場所である。そこにいるのは聖い人々ばかりであろう。そこで行なうのは聖い務めばかりである。それは永遠の安息日であろう。確かにもし私たちが天国に行くなら、私たちには天国と調子の合った、天国を楽しめる心がなくてはならない。さもなければ私たちは幸福になれまい。私たちは自分の生きる環境、自分が住む場所に調和した性質がなくてはならない。魚は水から離れて幸せになれるだろうか? 私たちはそれが無理だと知っている。ならば、心の回心なくして私たちは天国で幸せになれないのである。

 あなたが住んでいる近隣の地域と、あなたが知っている人々を見回してみるがいい。考えてもみるがいい。もしも彼らの多くが、金銭や、仕事や、新聞や、骨牌や、舞踏会や、競馬や、狩猟や、射撃や、世的な娯楽から切り離されたとしたなら、どうするだろうか! 彼らはそれを好むだろうか?----考えてみるがいい。もしも彼らが永遠にイエス・キリストと、聖徒たちと、御使いたちと一緒のところに閉じ込められたとしたら、彼らはどう感ずるだろうか? 彼らは幸福になるだろうか?----モーセや、ダビデや、聖パウロと永遠につき合うことは、これらの聖なる人々が書いたものをわざわざ読もうともしない人にとって快いことだろうか? 一週間の間、個人的な信仰生活のためには----祈るためにすら----ほんの数分たりとも割くことのできない者たちの好みに、天国の永遠の賛美がかなうだろうか? こうしたすべての問いかけに対する答えは1つしかありえない。私たちは、天国を楽しみたければ回心しなくてはならない。天国は、回心していないアダムのいかなる子にとっても、何の天国でもないであろう。

 だれにもだまされないようにしよう。地上のいかなる人にとっても、救われるためには2つのことが絶対に必要である。その1つは、私たちのためにキリストがなさった仲保者としてのみわざ----その贖いと、贖罪と、とりなしである。もう1つは、私たちのうちにおける御霊の回心のみわざ----その導きと、更新と、聖なるものとする恵みである。----私たちには、天国に入れる資格と、心の、双方がなくてはならない。礼典は、単に一般的に救いに必要とされるだけのものでしかない。それがなくとも、あの悔い改めた強盗のように、救われることはできる。キリストの恩恵にあずかることと回心とは絶対的に必要である。それがなくては、いかなる人も決して救われることはできない。----すべての人が、すべての人が同じように、高きも低きも、富者も貧者も、老人も若人も、良家の者も一般庶民も、国教徒も非国教徒も、バプテスマを受けた者も受けていない者も、すべての人が回心しなくてはならない。さもないと滅びるしかない。回心なくして、いかなる救いもない。《それは必要なものである》。

 IV. 第四のこととして示したいのは、回心は可能なものである、ということである。

 私がこの論考で書いているようなことを読むとき、多くの人の思いに去来するであろう種々の感情を、私はわかっているつもりである。多くの人々は、回心のような変化をこうむることは、格別に恵まれた一部の人でなければ全くの不可能である、という考えに慰めを見いだしているであろう。彼らは論ずる。「牧師たちが回心についてあれこれ口にするのは全然かまわない。だが、それは起こりえないことなのだ。私たちには、あれこれ考えなくてはならない務めがあり、養わなくてはならない家族があり、打ち込まなくてはならない仕事がある。いま奇蹟を期待しても何の役にも立たない。私たちは回心することはできない」。こうした考えは非常によくあるものである。悪魔はそうした考えを好んで私たちの前に差し出し、私たち自身の怠惰な心はあまりにもたやすそれを受け入れてしまう。だが、そうした考えは、まともな吟味には耐えられない。私は何はばかることなく、回心が可能なものであると云い切るものである。そうでなければ、私はこれ以上一言も云うまい。

 しかしながら、このように云うからといって、誤解しないでほしいと思う。私は一瞬たりとも、だれでも自分で自分を回心させることができるとか、自分で自分の心を変えて、自分の腐敗した性質を取り除き、自分に新しい霊を入れることができるなどと云っているのではない。そうした種類のことは何1つ意味してはいない。そう云うくらいなら、エゼキエルの幻の干からびた骨々が、自分で自分にいのちを吹き込むことを期待するであろう(エゼ37:3)。私が意味しているのはただ、聖書の中には何1つ、神のうちには何1つ、人間の状態の中には何1つ、人が、「私には決して回心することができない」、と云えることを裏づけるようなものはない、ということにすぎない。地上に、「この者の回心は不可能だ」、などと云える人はひとりもいない。----いかに罪深く、かたくなな人といえども、いかなる人も回心することはありえる。

 なぜ私はこれほどの確信をもって語るのだろうか? いかにして私は、世界を見渡し、その中にある絶望的な邪悪さを見ていながら、それでもいかなる生ける人の魂についても絶望しないのだろうか? なぜ私は、いかにかたくなで、堕落した悪人に対しても、「あなたに望みがないわけではない。あなたは、あなたでさえも、回心することはできる」、と云えるのだろうか?----私がそうできるのは、キリストの福音に含まれている事がらのゆえである。その福音の栄光たるもの、それは、その福音のもとでは何事も不可能ではない、ということである。

 回心が可能なのは、私たちの主イエス・キリストの全能の力ゆえである。主のうちにはいのちがある。主の御手には死とハデスのかぎがある。主には天においても、地においても、いっさいの権威が与えられている。主は与えたいと思う者にいのちを与えなさる(ヨハ1:4; 黙1:18; マタ28:18; ヨハ5:21)。主にとっては、何もないところから新しい心を想像することも、無から世界を創造したのと同じくらい容易なことである。主にとっては、石のような、死んだ心に霊的ないのちを吹き込むことも、アダムが形作られた土くれに自然のいのちを吹き込み、彼を生きた人間としたのと同じくらい容易なことである。地上で主にできないことは何1つなかった。風も、海も、病も、死も、悪魔も、----すべてが主のおことばの云いなりになった。神の右の座についておられる主に天でできないことは何1つない。主の御手は常に変わらず強く、主の愛は常に変わらず大きい。主イエス・キリストは生きておられる。それゆえ回心は不可能ではない。

 しかし、このことを別にしても、回心は可能である。なぜなら、聖霊の全能の力が働くからである。キリストはご自分が救おうとなさるすべての者の心に聖霊をお遣わしになる。創造のみわざにおいて御父と御子とともに働かれたのと同じ天来の御霊が、回心のみわざにおいてもともにお働きになる。御霊こそ、大いなる《いのちの泉》なるキリストから発するいのちを伝えるお方である。「光よ。あれ」、とのあの大いなることばが語られる前に、水の上を動いておられた御霊こそ、罪人の魂の上を動き、彼らの生まれながらの暗闇を取り去りなさるお方である。まことに聖霊の目に見えざる力の何と大きいことか! 御霊は硬いものを柔らかにすることができる。こわばった、頑強なものを曲げることができる。霊的に盲目な者に目を与え、霊的に耳しいた者に耳を与え、霊的に口がきけない者に舌を与え、霊的に冷たい者に暖かみを与え、霊的に無知な者に知識を与え、霊的に死んだ者にいのちを与えることがおできになる。「神のような教師が、だれかいようか」(ヨブ36:22)! 御霊は、おびただしい数の無知な罪人たちに教えてきたが、一度も彼らに「知恵を与えて救いを受けさせる」のに失敗したことはない。聖霊は生きておられる。それゆえ回心は決して不可能ではない。

 こうした事がらに対してあなたは何と云うだろうか? 回心が可能でないなどという考えは永遠にふり捨てるがいい。それをすっぱり打ち捨てるがいい。それは悪魔の誘惑である。自分自身や、自分の弱い心を見つめてはならない。----というのも、そうするときあなたは絶望して当然だからである。キリストと聖霊を見上げて、この方たちにとって不可能なことは何もないと悟るがいい。しかり! 霊的奇蹟の時代はいまだ過ぎ去ってはいない! 私たちの会衆の中にいる死んだ魂はまだよみがえることができる。盲目な目はまだ見えるようにされることができる。口しいた、祈りのない舌は、まだ祈れるように教えられることができる。いかなる人も決して絶望すべきではない。キリストが天を離れ、罪人の救い主としてのご自分の職務を放棄するとき、----聖霊が心のうちに住まうことをやめて、もはや神ではなくなるとき、----そのとき、そのようなときが来て初めて、人々は、「私たちには回心することができない」、と云ってもよいであろう。だがそのときが来るまで、私は大胆に云う。回心は可能なものである、と。もし人々が回心しないとしたら、それは彼らがいのちを得るためにキリストのもとに来ようとしないためである(ヨハ5:40)。《回心は可能なものである》。

 V. 第五のこととして示したいのは、回心は幸いなものである、ということである。

 この点に触れないとしたら、私の書いてきたことは無駄だったことになるであろう。私の堅く信ずるところ、おびただしい数の人々は、ここまで私が述べたことがすべて正しいと喜んで認めるはずである。聖書的で、現実に存在し、必要で、可能である、----これをみな彼らは、回心について認めることにやぶさかではない。彼らは云う。「もちろん私たちは、それらがすべて正しいとわかっています。人々は回心すべきです」。しかし、回心することは人の幸福を増し加えるだろうか? 回心することは人の喜びを多くし、悲しみを少なくするだろうか? ここにこそ、悲しいかな、多くの人々が行き詰まる点があるのである。彼らには心中深くに、ひそかな恐れがあるのである。もし回心したら自分は憂鬱で、みじめで、陰気にならざるをえないだろうと恐れているのである。回心と気難しい顔つき、----回心と顰めっ面、----回心と、若人の出鼻をくじき、いかなる陽気さにも水を差すこと、----回心と物憂げな表情、----回心と吐息とうめき、----こうした事がらはみな、彼らの考えによると相伴っているのである! こうした人々が回心という考えから尻込みするのも不思議ではない!

 私がいま叙述したような考え方は、非常によくある、非常に有害なものである。これに対して私は、心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして抗議したい。私はためらうことなく主張する。聖書で述べられている回心は幸いなものであり、みじめなものではない、と。回心した人々が幸せでないとしたら、その非は彼ら自身のうちにあるのだ、と。真のキリスト者の幸いは、疑いもなく、世的な人の幸いとは全く種類を異にするものである。それは穏やかで、しっかりとした、根本的な、中身のある喜びである。興奮や、軽薄さや、騒々しい、発作的な陽気さからなるものではない。それは、どれほど大きな陽気さを覚えるときにも、死と審きと永遠と来たるべき世のことを忘れない人々が有する、慎み深い、静かな喜びである。しかし、概して回心した人は最も幸福な人であると私は確信している。

 聖書は何と云っているだろうか? それは回心した人々の感情や体験をどのように記述しているだろうか? それは、回心は悲しむべき憂鬱なものだなどという考えに賛意を示しているだろうか? あのレビが、キリストに従うために収税所を離れて行ったとき、何と感じたか聞いてみよう。こう書かれている。「レビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをした」(ルカ5:29)。あたかも彼は、それが大いに喜ぶべききっかけででもあるかのようにそうしている。取税人ザアカイが、イエスから家に来たいと云われたとき、何と感じたか聞いてみよう。こう書かれている。「ザアカイは……大喜びでイエスを迎えた」(ルカ19:6)。あのサマリヤ人たちが、ピリポの説教によって回心したとき、何と感じたか聞いてみよう。こう書かれている。「その町に大きな喜びが起こった」(使8:8)。あのエチオピア人の宦官が、回心した日に何と感じたか聞いてみよう。こう書かれている。「宦官は……喜びながら帰って行った」(使8:39)。あのピリピ人の看守が、回心したときに何と感じたか聞いてみよう。こう書かれている。彼は「全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ」(使16:34)。実際、この主題に関する聖書の証言は常に同じで変わることがない。回心は常に喜びのきっかけ、幸いなきっかけとして述べられていて、悲しみやみじめさのきっかけとして述べられてはいない。

 あからさまな真実を云えば、人々が回心について悪口を云うのは、彼らが本当は何もそれについて知らないからである。彼らが回心した人々を不幸であるとそしるのは、その外側の見かけにある穏やかさや、重々しさ、静かさだけで判断し、その内側の平安について何も知らないからである。彼らは忘れているのである。自分の業績をだれよりも吹聴する人々が、事を最も多く行なうのではなく、自分は幸福であるとだれよりも吹聴する人々が、本当に一番幸福なのではないということを。

 回心した人が幸福なのは、その人には神との平和があるからである。その人のもろもろの罪は赦されている。その良心は咎の意識から解放されている。その人は死と審きと永遠を見越しても、恐れを感じないでいられる。自分が赦され、、解放されていると感じられるとは、何と大きな祝福であろう!----その人が幸福なのは、自分の心の内側が秩序立っていることを悟っているからである。その人の種々の情動は統制がとれており、種々の感情は正しく方向づけられている。その人の内なる人の中にあるすべてのものは、いかに弱くかすかではあっても、正しく位置づけられており、混乱してはいない。秩序とは何と大きな祝福であろう!----その人が幸福なのは、周囲の状況から自立していられるのを感じているからである。何が起ころうと、その人は乏しいことがない。病も、損失も、死も、決して天国にあるその人の宝に指一本触れることも、その人をキリストから奪い取ったりすることもできない。自立を感じられるとは何という祝福であろう!----その人が幸福なのは、自分に備えができていると感じているからである。いかなる事態を迎えても、その人には何かしら準備ができている。大いなる務めには決着がついている。人生の大いなる関心事は整えられている。備えができていると感じられるとは何という祝福であろう!----こうした事がらこそ、まことに真の幸福の泉である。これらこそ、回心していない人には完全に閉ざされ、封印された泉である。----罪の赦しなく、来たるべき世への望みなく、この世しだいで慰めを左右され、神に出会う備えがないという人が、本当に幸せになることはできない。回心は真の幸福にとって欠かせない部分なのである。

 この日、心に堅く思い定めるがいい。あなたが神に対して回心するよう力を尽くしてくれる友人こそ、あなたの有する最良の友人なのだと。その人は、単に来たるべき生のための友人ではなく、今の人生のための友人でもある。その人は、あなたの現在の慰めにとっての友人でもあり、あなたが将来地獄から救い出されるときの友人でもある。限られた時間の間だけの友ではなく、永遠にわたっての友である。《回心は幸いなものである》。

 VI. 最後のこととして示したいのは、回心は目に見えるものである、ということである。

 これは、私の主題において、決して見落とすべきではない部分である。もしあらゆる時代において、この点がより多くの注意を受けるとするならば、教会とこの世にとって何と良いことであろう。多数の人々が、キリスト教信仰から愛想を尽かして離れていったのは、その信仰を告白する多くの人々のよこしまさによってであった。多数の人々が回心という名前そのものを悪臭紛々たるものにしたのは、彼らが、自分は回心した、と宣言した後に送った生活のゆえであった。彼らは、ちょっとした発作的な感動や確信めいたものを、神の真の恵みであると思い込んだのである。彼らが自分は回心したと想像したのは、彼らの動物的情緒が興奮させられたからである。彼らは、「回心者」と自称しているが、これっぽっちも、そのほむべき名前に値する権利や資格を持ち合わせていない。こうしたことはみな、途方もない害悪を及ぼしてきたし、現代においてはことさらに害を及ぼしつつある。今の時代に求められているのは、1つのの大原則が非常に明確に主張されることである。すなわち、真の回心は常に目に見えるものだ、ということである。

 むろん私は、御霊の働き方が目に見えないものであることは十分に認める。それは風に似ている。磁石の牽引力に似ている。月が潮の満ち引きに及ぼす力に似ている。そこには人間の目や理解力を越えた何かがある。----しかし私は、こうしたことを何のためらいもなく認めはするものの、同じくらい断固として主張するものである。御霊の回心の働きが及ぼす効果は、常に目に見えるものである、と。こうした効果は、初めは弱く、かすかなものかもしれない。生まれながらの人にとって、それらはほとんど目につかず、ほとんどわからないかもしれない。しかし、確かな効果は常にそこにあるであろう。真の回心があるところ、常に何らかの実が見られるであろう。何の効果も見られないところには、確かにいかなる恵みもないと思ってよい。目に見える何の実も見いだせないところには、何の回心もないと思ってよい。

 真の回心にはいかなることがあると期待すればよいのか、と尋ねるような人がいるだろうか? 答えよう。回心した人の性格、および感情、および行動、および意見、および生活には、常に何かが見られるであろう。その人のうちに、完璧さは見られないであろう。だが、その人のうちには、何か独特の、明確な、他の人々とは異なるものが見られるであろう。あなたは、その人が罪を憎み、キリストを愛し、聖さを追い求め、聖書を読むのを楽しみ、たゆむことなく祈っているのを見てとるであろう。その人が悔い改めており、謙遜で、信仰深く、節制し、思いやりがあり、正直で、気立てがよく、忍耐深く、廉直で、名誉を重んじ、親切なことを見てとるであろう。こうしたことこそ、いずれにせよ、その人の目標であろう。こうしたことこそ、たとえ完全からはほど遠くとも、その人が追い求めていることであろう。一部の回心した人々のうちに、あなたはこうした事がらをより明確に見てとるが、他の回心した人々のうちには、それほど見てとらないであろう。私はただこのことだけは云う。回心のあるところでは、いずこにおいてであれ、この種の何かが見られるであろう。

 私は目に見える何の目印も証拠もないような回心には全く興味がない。私は常に云う。「回心者だと思ってほしければ、私に何か目印を見せてほしい。できるというなら、目印のないあなたの回心を私に見せてほしい! 私はそんなものを信じない。そんなものには毛ほどの価値もない!」、と。----こうした教理を律法的だと呼びたければ、呼んでもよい。律法的だと呼ばれる方が、無律法主義者になるよりもはるかにましである。決して、決して私は認めはしない。ほむべき御霊が人の心におられながら、いかなる御霊の実もその人の生活に見られないなどということは。人が罪の中に生き、嘘をつき、飲酒をし、悪態をつくのを放っておくような回心は、聖書の云う回心ではない。それはまがいものの回心、悪魔しか喜ばせることができないような回心、それで満足している人を天国へではなく、地獄に至らせるような回心である。

 この最後の点をあなたの心に銘記し、決して忘れないようにするがいい。回心は聖書的なもの、現実に存在するもの、必要なもの、可能なもの、幸いなものというだけではない。それよりもさらに大いなる特徴が1つそこには残っている。----それは、《常に目に見えるものなのである》。

 さて、この論考をしめくくるにあたり、いくつかの平易な訴えを、これを読むすべての人々の良心に語らせてほしい。私は全力を尽くして回心の性質を解説し、説明しようとしてきた。あらゆる観点から、それについて述べようと務めてきた。私がし残したことはただ、この本を手に取ることになるだろうあらゆる人々の心にそれを深々と銘記させようとすることしかない。

 (1) まず第一に、この論考を読むあらゆる人に強く勧めたいのは、自分が回心しているかどうかどうかを確かめる、ということである。私は他の人々のことについて訊いているのではない。異教徒たちには、疑いもなく回心の必要がある。監獄や感化院に収容されている不幸な人々は回心を必要としている。あなた自身の家の近くに住んでいるかもしれない公然たる罪人や不信者も、回心を必要としている。しかし、これらはみな、私の問いたいことではない。私は問う。あなた自身は回心しているだろうか?

 あなたは回心しているだろうか? 私に向かって、多くの人々は偽善者で、にせの信仰告白者ではないか、などと云っても何の答えにもならない。多くの信仰復興はにせもので、多くの人の回心はまがいものだ、などと云っても何の理由にもならない。そうしたことはみな、非常に正しいかもしれない。だが、あることが濫用されているからといって、それを用いる理由がなくなりはしない。悪貨が流通しているからといって、良貨などないということにはならない。他の人々がいかなる人であるにせよ、あなた自身は回心しているだろうか?

 あなたは回心しているだろうか? 私に向かって、自分は教会や会堂に通っているとか、バプテスマを受けているとか、聖卓の前に集うことを許されているなどと云っても、何の答えにもならない。こうしたことはみな、ほとんど何も証明していない。そのようなことはイスカリオテ・ユダや、デマスや、魔術師シモンや、アナニヤとサッピラについても十分云えたはずである。問題は、まだ答えられていない。あなたの心は変えられているだろうか? あなたは本当に神に立ち返っているだろうか?

 (2) 第二のこととして、この本を読む、まだ回心していないあらゆる人に私が強く勧めたいのは、自分が回心するまで決して安心しない、ということである。急ぐがいい。自分の危険に目覚めるがいい。いのちがけで逃げるがいい。必ず来る御怒りから逃れるようにするがいい。時は縮まっている。永遠は間近に迫っている。人生は不確かだが、審きは確実にやって来る。立って、神を呼び求めるがいい。恵みの御座はまだ立てられている。主イエス・キリストはまだ恵み深く待ち続けておられる。福音の約束は、十分に広く、大きく、満ち足りていて、何の代価もいらない。きょう、それをつかむがいい。悔い改めて、福音を信ずるがいい。悔い改めて、神に立ち返るがいい。自分が回心した人間であると知り、それを感ずるまで、心安んじてはならない、安んじてはならない、安んじてはならない。

 (3) 最後のこととして、私がこの論考で語ってきたような、ほむべき変化を自分が経たと考えるべき理由を有するすべての読者に、一言勧めの言葉を云わせてほしい。あなたは、まだ今の自分になっていなかった頃のことを覚えているであろう。自分の人生の中で、古い物が過ぎ去り、すべてが新しくなった時のことを思い出せるであろう。あなたにも、わたしは云うべきことがある。友人としての助言を受けてほしい。そして心に刻み込んでほしい。

 (a) あなたは、自分が回心していると思っているだろうか? ならば、ますます熱心に、あなたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとするがいい。あなたの不滅の魂に関わるいかなることをも不確かなままにしておいてはならない。あなたが神の子どもであることを、御霊が、あなたの霊とともに証ししてくださるように努力するがいい。確証はこの世で持てるものであり、確証は求めるに値するものである。望みがあるのは良いことだが、確信を感ずるのははるかに良いことである。

 (b) あなたは自分が回心していると思っているだろうか? ならば、この世で不可能なことを期待してはならない。自分の心に何の弱点もなくなり、密室での祈りに心が全く迷い出なくなり、聖書を読むとき全く気を散らさなくなり、公の神礼拝に何の熱のなさも感じなくなり、抑制すべき肉が全くなくなり、誘惑してくる何の悪魔もいなくなり、あなたを転落させようとする何の世的な罠もなくなるような日が来ると考えてはならない。そのような類のことは決して期待してはならない。回心は完全になることではない! 回心は天国ではない! あなたのうちにいる古い人はまだ生きている。あなたの周囲の世はまだ危険に満ちている。悪魔は死んではいない。あなたがいかに上々の状態にあるときも、覚えているがいい。それでも回心した罪人は、あわれで、弱く、毎日キリストを必要としている罪人である、と。このことを覚えておくならば、失望することはないであろう。

 (c) あなたは自分が回心していると思っているだろうか? ならば、あなたの生きる限り毎年、恵みにおいて成長するよう努め、それを願うがいい。後にしたものを眺めてはならない。昔の体験、昔の恵み、昔到達した信仰上の境地で満足していてはならない。成長していくために、純粋な、みことばの乳を慕い求めるがいい(Iペテ2:2)。主に向かって嘆願し、どうか自分の魂において、回心のみわざをより先へと進め、自分の内側における霊的な印象をより深めてくださいと願うがいい。あなたの聖書を年ごとにもっと丹念に読むようになるがいい。あなたの祈りの内容について、年ごとに執拗に気を配るようにするがいい。自分のキリスト教信仰がまどろみがちの、怠惰なものとならないよう用心するがいい。キリストの学び舎においては、最低学年と最高学年の間に途方もない差がある。知識と、信仰と、希望と、愛と、忍耐において、進歩するよう努めるがいい。生涯最後の時に至るまで、あなたの年ごとの標語を、「先へ、前へ、上へ!」、とするがいい。

 (d) あなたは自分が回心していると思っているだろうか? ならば、あなたが回心にいかに大きな価値を置いているかを、他者に善を施そうとする熱心さによって示すがいい。----あなたは未回心の人であることがすさまじいことであると本当に信じているだろうか? 回心が言葉に尽くせない祝福であると本当に考えているだろうか? ならばそれを証明するがいい。他の人々の回心を押し進めようと、絶えず熱心に努力することによって、それを証明するがいい。あなたの住んでいる近隣の地域を見回してみるがいい。まだ回心していない大勢の人々に同情するがいい。彼らをあなたの教会あるいは会堂に来させるだけで満足してはならない。彼らが完全に神に立ち返ること以下の何物をも目当てとしてはならない。彼らに語りかけ、彼らに読んで聞かせ、彼らのために祈り、他の人々をも促して彼らを助けさせるようにするがいい。しかし、決して、決して、あなたが回心している人だとするなら、決して自分ひとりが天国に行くことで満足しないようにするがいい!

回心[了]

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*1 (訳注)damned は英語では涜神的な悪罵となる。[本文に戻る]

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